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『137億年の物語』

『137億年の物語』

宇宙が始まってから今日までの全歴史

著●クリストファー・ロイド

  1. 母なる自然(137億年前~700万年前)

1ビッグバンと宇宙の誕生

無限のエネルギーを持つ目に見えない点が大爆発。
わたしたちの宇宙を創り、銀河と普遍的な物理法則を生み出した。

2生命はどこからきたか

彗星の衝突や火山の噴火が、原始地球の灼熱の地殻を揺り動かし、化学物質が複製によって、極小の生命体に変わりはじめた。

3地球と生命体のチームワーク

地球の惑星システムと原始生命体の進化が手を結び、より新しくより複雑な生物が登場するための環境を整えた。

4化石という手がかり

生物は爆発的な進化を遂げ、さまざまな原始生物が登場した
硬い殻や骨、歯を発達させた生物は、化石となり、自然という博物館にその姿をとどめた。

5海は生命の源

先史時代の生物は、陸に上がる前に、海の中で長い年月をかけて進化した。
ある種の魚は背骨をそなえ、人類につながる最古の生物となった。

6生物の協力体制

陸上植物は背の高い樹木へと進化し、大地は、昆虫やミミズや菌類が耕す滋養豊かな土壌で覆われた。

7進化の実験場

働きつづける大陸どうしがぶつかって超大陸を形成し、新たな生命の進化をうながす一方で、陸上生物がはじめて経験する大量絶滅を引き起こした。

8恐竜戦争

地上は恐竜に占拠されたが、その恐竜も地球の外から偶然襲ってきた隕石の衝撃により、絶滅の運命をたどる。

9花と鳥とミツバチ

地球ではじめて花が咲き、羽毛を持つ鳥が舞い、社会性昆虫という新たな種が、自然界初の「文明」を築いた。

10哺乳類の繁栄

夜の森に潜んでいた控えめな動物が地上の新たな覇者となり、離れ行く大陸とともに移動して、数多くの種に進化していった。

  1. ホモ・サピエンス(700万年前~紀元前5000年)

11冷凍庫になった地球

地球の自転による循環変動と大陸のランダムな移動がもたらした気候変動により、広大な草原と極地の氷床が生まれた。

12二足歩行と脳

類人猿とよばれる生物が、樹から下りて、2本足で歩くことを覚え、狩りのための道具を作り出し、大きな脳を持つ種へと進化した。

13心の誕生

初期人類のいくつかの種は氷河期の環境に適応し、アフリカ、ヨーロッパ、アジアに広がっていった。彼らは火の使い方を覚え、捕えた動物の肉を調理して食べた。

14人類の大躍進

人類の中で唯一生き残った種「ホモ・サピエンス」は、だれも足を踏み入れたことのない大地に住みつき、言葉を覚え、投げて使う武器で狩りをした。

15狩猟採集民の暮らし

人類は、誕生してから現在までの年月の99パーセントを、住む家も、フルタイムの仕事も、そして個人の所有物もないまま、自然の中で暮らしていた。

16大型哺乳類の大量絶滅

現生人類の登場と気候変動が偶然重なったことにより、まずオーストラリア、次に
南北アメリカ大陸で生態系のバランスが
崩れ、数多くの大型動物が絶滅した。

17農耕牧畜の開始

最後の氷河期が終わると環境は激変したため、人類は生き残りをかけて新たな技術を試し、自分たちの利益のためにはじめて進化を操作しようとした。

第3部文明の夜明け(紀元前5000年~西暦570年ごろ)

18文字の発明シュメール文明

文字の発明によって「有史時代」がはじまり、商人、君主、職人、農民、神官が、最初の文明を築いた。

19王は神の化身エジプト文明

豊かな自然に支えられて、王の中には生き神となる者が現れた。臣民は、王に絶対的に服従し、全身全霊を捧げ、何があっても王を守らなければならなかった。それは王の死後も続いた。

20母なる大地の神
インダス文明、巨石文化、ミノア文明

誕生と生と死という自然のサイクルへの崇拝が、実りと多産、女性らしさ、平等を重んじる文化をもたらした。

21金属、馬、車輪

青銅器の武器、家畜化された馬、二輪戦車という三つぞろいの脅威が、アジア、ヨーロッパ、北アフリカに押し寄せ、破壊と征服と不平等をもたらした。

22中国文明の誕生

米、絹、鉄という自然の恵みを得て、
東方でも強大な文明が生まれ、繁栄した。


23仏教を生んだインドの文明

人間は自然と調和して生きていける、ということを再発見した文明が、そのメッセージを伝えはじめた。

24オリエントの戦争

遊牧民族と定住文明の衝突が、世界最古にして最も長く続く破壊的な紛争の種をまいた。

25ギリシア都市国家の繁栄

交易を経済の基盤にするようになった都市国家が競い合う中で、実験的で新しい、さまざまな生活様式が生まれた。

26覇者が広めたヘレニズム文化

自然のシステムの理解が、哲学や法として花開き、征服者によって東西に伝えられた。

27ローマ帝国の繁栄と衰退

物まねが得意で乱暴な民族が築いた帝国が限度をはるかに超えて権力にしがみつく。
その時代に誕生したイエス・キリストはやがて救世主とよばれるようになる。

28先住民の精霊信仰

文明世界や遊牧民から遠く離れた土地で、人々は自然を畏れ敬い、知恵を発揮し、
平穏な日々をすごしていた。

29コロンブス以前の南北アメリカ大陸

「新世界」の人々はヨーロッパ、北アフリカ、アジアの文明を知らないまま独自の文明を築いたが、大型動物がいないという致命的なハンディキャップを背負っていた。

  1. グローバル化(西暦570年ごろ~現在)

30イスラームの成立と拡大

メッカに生まれたムハンマドが神の啓示を次々に授かり、イスラームの教えを説きはじめる。
人間とは過ちを犯すものであり、それを正すことが大切だ、とその教えは説く。

31紙、印刷術、火薬

中国の科学的な発明は、イスラームの世界を通じて少しずつ西側に伝わっていったが、それを一気に加速したのは、世界最大の帝国を築いたモンゴルの王だった。

32中世ヨーロッパの苦悩

ヨーロッパのキリスト教国は、疫病や侵略や飢饉によって疲弊し、イスラーム文明と人を寄せつけない砂漠、はてしなく青い海に包囲されていた。

33富を求めて

世界各地にあった定住社会は、交易、労働、あるいは略奪によって、富を築いていった。

34大航海時代と中南米の征服者たち

数人の海洋探検家が偶然、新世界を発見したことにより、古代からの文明が滅亡に追いやられ、ヨーロッパ各国のあいだでは激しい競争が起きた。

35新大陸の農作物がヨーロッパを変えた

ヨーロッパの商人が海外で新しい暮らし方をはじめたことから、利の多い農作物の栽培が流行し、ひと握りの富める者と多くの貧しい者が生まれた。

36生態系の激変

今や全世界に広がった、ほとんどが文明化された唯一の種「人類」のために、動物や植物は栽培され、飼育され、装具をつけられ、輸送され、酷使された。

37ヨーロッパ人は敵か味方か

ヨーロッパから「ビジネスマン兼戦士
が交易を求めてやって来たとき、トルコや中国で栄えていた文明の反応はそれぞれ異なっていた。

38自由がもたらした争い

極端な不平等は、自由を求める暴動を引き起こした。人々は、理想や国旗、国歌のために、進んで戦争に参加した。

39人類を変えたテクノロジー

持ち運びできる動力源を得た人類は、ついに自然の制約を克服した。
人口は爆発的に増え、どの基準に照らしても、過剰となった。

40白人による植民地獲得競争

西欧諸国の人々は、自分たちはあらゆる
生きものの頂点に立っていると信じ、自分たちの生き方に世界を従わせることが使命だと思い込んだ。

41資本主義への反動

西洋文明を受け入れず、自然な暮らしに戻ることを願った人々もいたが、その抵抗は悲惨な結末を招いた。

42世界はどこへ向かうのか?

世界は、休むことのない科学の発展に支えられて、グローバル化した金融、貿易、
取引システムの下に統一された。
地球とその生態系は、人類のとどまるところを知らない要求に今後も応えてくれるだろうか?

  • ビッグバンと宇宙の誕生

無限のエネルギーを持つ目に見えない点が大爆発。わたしたちの宇宙を創り、銀河と普遍的な物理法則を生み出した。

あなたのまわりをよく見てみよう。そして、目に見えるものすべてを、とてつもなく大きくて強力な粉砕機に放り込むことを想像してみよう。植物、動物、家(中にあるものもいっさいがっさい)、ビル、住んでいる町、それどころか国全体も、すべてを粉々にして、小さなボールくらいの塊の中に押し込んでいくのだ。

それがすんだら、残りの世界もすべて入れてしまおう。太陽系にある他の惑星も太陽もすべてである。ちなみに、太陽は、太陽系の惑星をすべて合わせたより1000倍も大きい。その次は銀河系だ。銀河系には、太陽と同じような恒星が2000億個もあるが、これも全部入れてしまう。そしてついには、すべての銀河を押し込もう。この宇宙に銀河はおよそ1250億個もあり、その多くはわたしたちの銀河系より大きい。それらをすべてひとまとめにして、ぐいぐい圧縮していく。レンガくらいの大きさにできたら、次はテニスボール、次はひと粒の豆くらいにして、最後はアルファベットの「i」の上にある点より小さくする。

とうとう点は見えなくなった。すべての恒星、惑星、そして衛星は、目に見えない点の中に消えた。これが宇宙の原初の姿、科学者たちが「特異点」と呼ぶものである。この非常に小さく、とてつもなく重く、とてつもなく密度の高い点は、内側に閉じ込めたエネルギーの圧力に耐え切れず、137億年前に途方もないことをしでかした。

爆発したのである。

並みの爆発ではない。壮大な爆発。空前絶後の巨大爆発。すなわち、「ビッグバン」だ。それに続いて起きたことはさらにすごかった。はるかかなた、数十億キロ先まで破片が散らばったのだ。ほんの一瞬で、宇宙は目に見えないほど小さな点から、この地球はもとより、今わたしたちが見ているすべての星を創るのに必要なものが存在する空間へと拡がったのである。さらにそこには、わたしたちには見えないもの、つまり現在の天体望遠鏡では見ることのできないものも存在する。この宇宙はあまりにも広大で、いったいどこまで続いているのか、本当のことはだれも知らない。

ビッグバンの証拠

ではなぜ科学者たちは、そのようなとてつもないできごとが起きたと信じているのだろう。だれかが目撃するはずもない、遠い過去のことなのだ。当然ながら、今でも少なからぬ人がビッグバンという考え方自体を疑っている。しかし、大方の科学者はそれが起きたことを認めている。彼らに言わせれば、証拠はそこかしこにいくらでもあるからだ。

ジョルジュ・ルメートルはベルギー出身のカトリック司祭にして天文学者である。神学と科学を志したのは、第一次世界大戦中に戦場で悲惨な光景を目の当たりにしたのがきっかけだった。1923年にはケンブリッジ大学に滞在して天文学の理論を学んだ。ケンブリリッジの天文台には、世界最大級の天体望遠鏡があった。1927年、すでに数学者として名をなしていた彼は、「ビッグバンにはじまり、膨張する宇宙」という仮説を立てた。

ルメートルがその仮説を発表したわずか2年後、もうひとりの天文学者、エドウィン、ハッブルが、強力な天体望遠鏡で、他の銀河が地球から離れていく様子を観測した。しかも、遠くの銀河ほど、離れる速度が速かった。それは宇宙が今も膨張し続けていることを明らかに示していた。ハッブルは、遠い昔に何かが起きて、星や銀河が外に押し出されたに違いない、と結論づけた。ルメートルが想定したビッグバンは、まさにその何かであった。

雷鳴は山や谷に反響し、ときにはその残響1分以上消えないこともある。雷鳴でさえそうなのだから、ビッグバンほどの巨大な爆発のこだまとなれば、現在でも検出できるのではないか、と科学者たちは考えた。

1964年、ニュージャージー州で、技術者アーノ・ペンジアスとロバート・ウィルソンによってそのこだまがはじめて検出された。ふたりは古い無線アンテナを利用して電波望遠鏡を作ろうとしていたのだが、そのアンテナは不可解なノイズを拾い続けた。どちらの方向に向けても、わずらわしい雑音は消えなかった。当初ふたりは、ニューヨーク市の無線送信機が原因ではないかと疑ったが、現地まで出向いて調べたところそうではなかった。そこでニュージャージーに戻ってアンテナの内部を見てみると、ハトの糞がこびりついていた。ノイズはそのせいだと思った彼らは、周辺のハトを駆除してアンテナをきれいに掃除した。それでもノイズは消えなかった。

当時、そこからほんの50キロほどの場所で、宇宙学者ロバート・ディッケ率いる研究者グループが、ビッグバンのこだまを検出すべく、超高感度のマイクロ波アンテナを完成させようとしていた。たまたまペンジアスとウィルソンはディッケに電話をかけて、望遠鏡のノイズを消す方法をご存じないだろうか、と尋ねた。そう聞くなりディッケは、ふたりが聞いているのはビッグバンのこだまに違いないと直感したそうだ。今日では、彼らの説明を聞かなくても、こだまをこの目で見ることができる。テレビの放送終了後やチューニングが合わないときに画面に現れる砂嵐(無数の白い点)はご覧になったことがあるだろう。あの点々の100個にひとつは、ビッグバンのこだまが引き起こしたものである。

しかし、目に見えないほど小さな点が爆発してこの宇宙が生まれたという説を受け入れたとしても、科学者たちにはどうしてそれが137億年前に起きたとわかるのだろう?ハッブルは遠くの銀河ほど速く遠ざかることを観察したが、現在では、さらに進歩した天体望遠鏡を用いて銀河の後退速度を正確に検出できるようになった。このデータから時間をさかのぼっていけば、すべての物体が1ヵ所にまとまっていたのがいつであったのかを突き止めることができるのだ。

宇宙は無数にある?

ビッグバンの直後には、さらに不思議なことが起きはじめた。途方もないエネルギーが放出され、このエネルギーがまず重力に変わった。重力は目に見えないのりのようなもので、そのせいで宇宙に存在するあらゆるものは、互いとくっつこうとする。それに続いて宇宙のもとになる、おびただしい数の粒子が生み出された。いわば、ミクロサイズの「レゴ」である。今日この世界に存在する物質のすべては、ビッグバン直後に生じたこの無数の粒子からできている。

それからおよそ30万年がたち、宇宙の温度が低くなるにつれ、これらの粒子(最も一般的なのは、電子と陽子と中性子)は互いに結びつき、わたしたちが原子と呼ぶ小さな塊になった。その原子が互いの重力に引き寄せられ、超高温の巨大な雲を作った。このような雲から生まれたのが、最初の恒星、すなわちビッグバンの名残のエネルギーが詰まった巨大な火の玉の集団である。それらの恒星がやはり互いの重力に引かれて集まり、らせん状から渦巻状まで、形も大きさもさまざまな集団、すなわち銀河になった。わたしたちの銀河である天の川銀河(銀河系)は、ビッグバンのおよそ1億年後、今から136億年前にその姿を現した。銀河系は、巨大な円盤のような形目玉焼きをふたつ背中合わせにしたような形をしていて、時速約100万キロメートルという目のくらみそうなスピードで旋回している。
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『社会学の歴史Ⅱ』

『社会学の歴史Ⅱ』

他者への想像力のために

社会学者は社会のなかでなにを問い、新しい社会学の言葉をどう紡ぎ出してきたのでしょうか。20世紀後半から現代へとつながる社会学の歴史を、大学生への講義ライブというかたちで解説。私たちがいま直面する「社会という謎」を考えるための必読書。
ニクラス・ルーマン

ふたたび、社会という謎

きょうの最終回は、ニクラス・ルーマンについて講義します。ルーマンは、第9章でも触れたように、シュッツの現象学的社会学を独自の形で導入して、パーソンズの理論を反転させる斬新な社会システム理論を創造しました。その基本的着想は、世界は「他でもありうる」という可能性にあると思います。この考えからは、いまの社会はたまたまのものだという無根拠さと、社会は別の姿になることができるという希望を引き出すことができるでしょう。

彼が切り開いた、まったく新しい「社会学的想像力」とはどのようなものなのか。それは、ただ社会学理論を革新するだけでなく、2020年代を生きる私たちがいま直面し、翻弄されている「社会という謎」を考えるための力強い道具を与えてくれるように思います。

1はじめに

●社会は人間から成り立つのではない

「全体社会」の理論?

みなさん、こんにちは。前回の講義から思いもよらぬ休講が続きました。新型ウイルスの影響で、きょうはオンラインでこの講義をお届けしています。こんな形の授業になるとはまったく想像していませんでしたが、みなさん聞こえているでしょうか(読者のみなさんは、時間の流れがおかしいなと思うかもしれませんが、大目に見てください!)。しかもきょうは最終回.じつに難解なニクラス・ルーマンを論じる回です……。

でも、この講義を準備していて、いま目の前で起きている事態をルーマンの社会学ほど正確に描き出すものはないのではないかとも感じています。彼は1998年に亡くなりましたが、その20年以上後の社会を驚くべき精度で予言し、腑分けしているように思うのです。

まず彼の主著のひとつ、1997年の『社会の社会』から引用してみましょう。冒頭の章「全体社会という社会システム」の開始すぐ、ルーマンはこれまでのところ社会学は「全体社会(Gesellschaft)の理論に関して言えば、ある程度満足できる成果すら提出できなかった」と述べます。「古典的な社会学」(デュルケームやヴェーバーやジンメルが含まれます)も、「目下のところ存在する唯一の体系的な社「会学理論」であるパーソンズによる「行為システムの一般理論」も.「理論的に基礎づけられた近代社会の記述」をできていない。全否定です。なぜそんなことになってしまったのか。

彼は、次の4つの前提が認識の障害となってきたからだといいます。すなわち、

1全体社会は具体的な人間から、また人間の間の関係から成り立っているはずである。

2したがって全体社会は人々の合意つまり意見の一致と目標設定の相補性を通じて構成されており、また統合されているはずである。

3全体社会は領域や領土によって境界づけられた統一体である。したがってブラジルはタイと異なる全体社会であるし、アメリカ合衆国はロシアと異なるし、ウルグアイはパラグアイと異なっているはずである。

4それゆえに、全体社会は人間集団や領土の場合と同様に、外から観察することができるはずである。(『社会の社会1』、11頁)

の4つです。これを見て、どうでしょう。3は、社会を国民国家の枠組みでとらえてはいけないという、しばしば主張されることかもしれません(ウォーラーステインも賛成するでしょうね)。4は、社会を観察する社会学者は社会のなかにいることしかできない、とはっきり言語化している、ということだと思います。

でも、1は「社会は人間とその関係から成り立つ」という前提です。これが障害となって社会の理論が阻まれてきたとしたら、どんな認識から出発したらいいのでしょう。「古典的社会学」は個人と社会の関係、人間と人間の関係をひとつの焦点にしてきたわけですが、社会は「人間」から成り立つのでないのなら、いったいどう考えたらいいのか。2は、パーソンズが論じたような、人間と人間の「合意」や「共通価値」が社会を支えるという前提への疑問です。でもそうだとしたら、なにが社会を社会として成り立たせるのか。

ルーマンは、こう述べます。「以下の研究では、こういったラアンチ・ヒューマニスティックディカルに反人間中心主義的で、ラディカルに反領域主義的で、そしてラディカルに構成主義的な社会概念への移行をあえて試みる」。――「人間」を中心にしない社会学をあえて試み、そこから「社会とはなにか」を考え直す。じつにラディカルな問題設定です。

でもそんなことどうしたらできるのか。この章でのルーマンの答えを予告的に述べておきましょう。「合意による統合が、全体社会を構成するだけの意義を有していると、そもそも考えてよいのかどうか。むしろこう仮定するだけで十分ではないのか――コミュニケーションが独自のかたちで・・・・・・続いていく中で、同一性、言及されるもの、固有値、対象が産出されていくのである、と」。コミュニケーションが接続することが「社会」である。この考えからは、ヒューマニズム「《人間中心主義》は••••••難破する。・・・・可能性として残されているのは、身体と精神を備えたまるごとの人間を、全体社会システムの環境の一部分と見なすことだけである」。そして、「人間はコミュニケートできない。コミュニケートできるのはコミュニケーションだけである」。――人間は社会システムの「環境」である?コミュニケーションだけがコミュニケートできる??

ちょっと急ぎすぎですね。きょうの講義はルーマンの大胆な構想を、私が理解できる範囲で伝えようとするものです。ただ、いまこのオンライン画面を通して行っている授業は、ルーマンのいう「社会」と似ているようにも思います。いまは一方向的に私が話していますが、ディスカッションを始めると私とみなさんの発言や表情の画像が画面上に次々と「接続」して、「社会」のようなものができるでしょう。そして、私とみなさんそれぞれの「身体と精神を備えたまるごとの人間」は、この画面=社会の「外」にある。画面上のコミュニケーションが「社会システム」、その外にいる「人間」は「環境」。こう考えると、少しだけイメージできるかもしれません。

もうひとつ、彼は晩年にエコロジーやリスクを論じ、「社会システム」がその「環境」とのあいだでどんな危機に直面し、それにどう対処するか(対処できないか)を鋭く描いています。そこには、このオンライン授業を生むことになった現代社会の特徴を考える重要な手がかりが含まれていると思います。講義後半では、こうしたアクチュアルな論点にも触れたいと思います。

生涯

ルーマンは1985年の「伝記姿勢、そしてカードボックス」というインタビューで「伝記というのは偶然の集成です」と語っています。「偶然」という言葉もきょうのキーワードのひとつですが、このインタビューをもとにその生涯を見てみましょう。

ニクラスルーマン(NiklasLuhmann)は、1927年12月8日ドイツ北部のニーダーザクセン州リューネブルクで生まれました。父は高等教育を受けておらず、祖父から醸造と麦芽製造工場を引き継いだ人(いつも厳しい経済状態だったとのこと)。母はスイス人でホテル経営の家系出身で、ルーマンの兄弟2人も大学に行っていません。ただ寛容な両親で、好きなことを自分で決定できたと彼はいいます。

1943年、ルーマンは15歳で高射砲部隊補助隊員として動員され翌年末に入営、第二次大戦の最前線に送られますが、捕虜となってフランスの収容所で強制労働に従事します。ドイツ敗戦時17歳だった彼は、「以前も以後もすべてが正常のように見えたのですが、すべてが別のようになり、そしてすべてはそのまま同じものでした」と感じます。敗戦後「すべてが自然に正常になるだろう」という希望に反して、彼は9月までアメリカ軍の捕虜収容所に収容されます。「私がアメリカの捕虜収容所で体験した最初のことは、私の時計を腕から剥がし取られ、殴られたことです」。ナチズムは終わりましたが、他でありうる可能性と思っていた別の世界はなにも変わらなかった。「私は1945年以後、単純に失望したのです」。

ルーマンは1946年からフライブルク大学で法学を専攻し、比較法に興味をもちます。もともと弁護士志望でしたが、卒業後弁護士事務所で司法研修生として働く時期に、上司の不当な要求を断れないのが嫌だと考え、「もっと自由があると思われた」役所に入ります。1954年リューネブルクの上級行政裁判所で行政裁判判決用参照システムの組織化に従事、裁判所長官の秘書としても働き、1955年にはニーダーザクセン州政府の文化省に入ってナチス時代の損害の著作目録で単行本72冊、論文他465点(1)という彼の仕事をどう扱えばいいのか。本章では思い切って『社会システム』前半と『社会の社会』のひとつの章に焦点を絞ろうと思います。じつは、助走として1968年の『信頼—社会的な複雑性の縮減メカニズム』を紹介することも考えたのですが(シュッツとの関係の理解にも有用で、コンパクトなルーマン入門書としてお勧めです)、『社会システム』との重複もあり長くなりすぎるので、残念ながらカットします。以下、彼の社会学がどのように視界を反転させ、どんな新しい地平を切り開くのか、見ていくことにしましょう。

 2012年『137億年の物語』より
『モーセは神の助けを得て、ユダヤの人々を奴隷の立場から救い出し、「乳と蜜の流れる」約束の地に移住させた。
アブラハムの長男イシュマエル (ハガルの息子)は、旧約聖書からは早々に姿を消すが、 本書では、後に重要な役割を演じることになる。イシュマエルも12人の息子を授かり、その子孫がアラブ人だとされているのだ。
それでは、神はどちらに約束の地を与えたのだろう。 アラブ人なのだろうか、ユダヤ人なのだろうか。 それとも、分かち合いの精神を学ばせるために、 両方の民に与えたのだろ うか。この土地の正当な所有者がどちらの民族なのかという問題は、 人類史上、最も長く続く争いのもとになった。長期間にわたる宗教戦争や領土紛争にも発展し、争いは今日も続いている。』

 vFlatはこれだけ 波打っても読み取ってくれるありがたい
 トークはてれさにした
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『世界歷史22』

冷戦と脱植民地化二〇世紀後半

イスラエルの建国とパレスチナ問題

はじめに――米ソ冷戦期の中東地域

イスラエル国(TheStateofIsrael;MedinatYisra’el、以下、イスラエル)は、パレスチナにおけるイギリスの委任統治が終了する日である一九四八年五月一四日、独立を宣言した。それに対して、アラブ諸国軍は翌一五日にパレスチナに侵攻した。アラブ諸国軍はエジプトを中心としてレバノン、ヨルダン、そしてイラクから構成されていた。いわゆる第一次「中東戦争」の勃発である。

ここで「中東戦争」と呼ばれている事態は、イスラエルとアラブ諸国との間の四回にわたる戦争を指す。すなわち、⑩一九四八年五月の第一次中東戦争(アラブ側はパレスチナ戦争、イスラエル側は独立戦争あるいは解放戦争と呼ぶ)、②一九五六年一〇月の第二次中東戦争(アラブ側はスエズ戦争、イスラエル側はシナイ戦争)、③一九六七年六月の第三次中東戦争(アラブ側は六月戦争、イスラエル側は六日間戦争)、④一九七三年一〇月の第四次中東戦争(アラブ側はラマダーン戦争あるいは十月戦争、イスラエル側はヨーム・キップール戦争)である。

ただし、「中東戦争」という用語は日本のみで使用される呼称であり、欧米では「アラブ・イスラエル戦争」と呼ばれている。日本においてアラブ・イスラエル戦争が「中東戦争」と呼ばれたのは、イラク・イラン戦争や湾岸戦争などの戦争が勃発する以前の段階で、中東地域を代表する唯一の戦争がアラブ諸国とイスラエルとの間の戦争だったからである。

第二次世界大戦後の一九四八年にイスラエル建国を機に勃発した第一次中東戦争は、東アジアやヨーロッパなどの地域と同じようには、米ソ冷戦の文脈では説明できない。というのも、大英帝国は、「インドへの道」を確保するために中東地域で覇権を依然として維持し続けていたからである。イギリスは一九五六年の第二次中東戦争までは中東での「イギリスの平和」を維持していたのである。したがって、冷戦の状況下であっても米ソの両超大国といえどもこの中東地域の紛争に簡単には介入することができなかった(Heller2016)。

また、第二次世界大戦以前の英仏による東アラブ地域(エジプト、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イラク)の支配の問題も指摘しておはらない。一九四八年の第一次中東戦争に参戦したアラブ諸国を概観してみる。すなわち、エジプトは、一九二二年に形式的に独立し、一九三六年のエジプト・イギリス条約でイギリス軍はスエズ運河地帯を除いてエジプト全土から撤退した。とはいえ、第一次中東戦争が終わった時点でもスエズ運河には英仏軍が駐留し、スエズ運河会社は英仏の所有であった。ヨルダンも国名を首長国(英語でEmirate、アラビア語で「イマーラimāra」)から現在のヨルダン・ハーシム王国に変更して、イギリス・ヨルダン条約を一九四八年三月に調印した。とはいうものの、イギリス軍はヨルダンに駐留し続けており、ヨルダンはイギリスの軍事的・財政的な支援がなければ生き延びることができなかった。シリアは一九四六年四月にフランス軍が撤退して実質的な独立を達成し、レバノンは一九四三年一一月にフランスから正式に独立した。イラクは一九三二年にはイラク・ハーシム王国として形式的には独立していたが、イギリス軍は一九五四年まで駐留していた。

さらに指摘しなければならないのは、アメリカが主にソ連の「封じ込め」の観点から中東地域にアプローチしていったことの問題である。第二次世界大戦終結後の一九四七年三月に発表されたトルーマン・ドクトリンは、ソ連の脅威を直接受けるギリシア・トルコ・イラク・イラン・パキスタンなど、中東地域を含む「北層諸国」が対象となっていたが、イラクを除いてアラブ諸国は除外されていた。一方、第二次中東戦争後にイギリスが凋落して、一九五七年一月にアイゼンハワー・ドクトリンが発表されて以降、アメリカはアラブ地域に積極的に関与することになった。

しかし、アメリカの中東政策の原点はソ連が中東地域に影響力を行使することを封じ込める反共政策にあった。したがって、アメリカ当局者の発想は主に共産主義の脅威に対抗するというグローバルな反共路線に基づいており、アラブ諸国に波及しつつあったアラブ・ナショナリズムという特殊な政治状況を考慮せずに米ソ冷戦という視座から中東政策を決定していた(Slater2020:147-172)。

ところが、アラブ諸国からみれば、アラブ・ナショナリズムのイデオロギーという観点からはソ連の脅威よりもイスラエル国家という「敵シオニスト」の脅威の方が大きく、はるかに優先順位の高いものだった。また、アメリカとアラブ諸国との同盟関係を考えても、アラブ諸国の国王や大統領などの元首の個性によって決定され、その関係には濃淡があったといえる。換言すれば、当時のアメリカとアラブ諸国の関係は、必ずしも米ソ冷戦の文脈のみで決定されていたわけではなく、アラブ・イスラエル紛争の文脈で決定される場合も多かった。すなわち、米ソ冷戦とアラブ・イスラエル紛争の文脈での利害関係は必ずしも一致しなかったのである。このような米ソ冷戦とアラブ・イスラエル紛争に対する現状認識に対するズレが、アメリカの中東政策が有効に機能しなかった原因の一つであったともいえる。

エジプトのナーセル大統領(在職一九五六七〇年)が掲げるアラブ・ナショナリズムが一九五六年の第二次中東戦争以降、バレスチナ問題の展開に大きく影響することになった。というのも、パレスチナ問題の解決は、アラブ諸国が一致団結すればイスラエルを地中海に追い落とすことができるという、アラブ統一をめざすパン・アラブ的な方向で模索されたからである。

以上のような認識を前提としつつ、イスラエル建国からパレスチナ問題の展開を次のように議論していきたい。まず、前史としてイギリスによるパレスチナ委任統治期(一九二二―四八年)を簡単に振り返る。次にイスラエルの建国とアラブ・イスラエル紛争の展開を検討する。そして、一九六七年に勃発した第三次中東戦争前後から展開されるパレスチナ解放運動とは何であったのかを考えてみたい。

  • イギリスによるパレスチナ委任統治

イギリスは第一次世界大戦中、戦争遂行のために「三枚舌外交」ともいえる中東政策を推進した。イギリスはまず一九一五年に、イギリス側に立って参戦することを条件に、オスマン帝国の支配下にあったアラブ人の独立を約束したフサイン・マクマホン協定を締結した。第二に、戦後、オスマン帝国領の東アラブ地域を英仏間で分割するサイクス・ビコ密約を一九一六年に取り交わした。さらに、イギリスのロスチャイルド卿に対して、アーサー・バルフォア外相がユダヤ人のための「民族的郷土」(nationalhome)をパレスチナに建設することを約束した「バルフォア宣言」を一九一七年に書簡というかたちで送った。

戦後、旧オスマン帝国領をめぐって一九二〇年四月に開催されたサンレモ会議において、東アラブ地域はフランス委任統治領のシリア・レバとイギリス委任統治領のパレスチナ・トランスヨルダン・イラクに分割されることが決定された。その際、パレスチナ委任統治に関してはバルフォア宣言に記された内容、すなわち、ユダヤ人のための「民族的郷土」の建設が、文字通りに実施されることとなった。そのため、イギリスではユダヤ人シオニストとしてサムエル(一八七〇一一九六三年、在職一九二〇一二五年)がパレスチナ委任統治の初代高等弁務官として派遣された。

しかし、イギリスによるパレスチナの委任統治は近隣の委任統治領と違って最初から無理があった。というのも、パレスチナという地域において九割以上の圧倒的多数を占めるアラブ人ではなく、これから移民してくるユダヤ人のために民族的郷土を建設するとされたからであった。実際、イギリス軍が第一次世界大戦中、エジプトからパレスチナに侵攻してきた直後の一九二〇年に起こったナビー・ムーサー祭りの反乱を端緒に、一九二一年、一九二九年、一九三三三三年、一九三六十三九年といったように、バルフォア宣言に基づくイギリスとシオニストの支配に対して、連続的にパレスチナのアラブ人の反乱が起こった。

イギリスはパレスチナのアラブ人の反乱のたびにその原因究明のために調査団を派遣したが、一九三七年に派遣されたビール卿を団長とする王立調査団は、パレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家、聖地イェルサレムを中心とする国際管理地の三地域に分割する勧告を行ったのである(ピール報告)。しかし、同報告が発表された一九三七年七月という時期は、東アジアでは日中戦争が勃発し、またパレスチナではアラブ人の広範な武装蜂起が展開されており、分割案は事実上、棚上げされることなった。イギリス政府は一九三九年三月にパレスチナのアラブ人とユダヤ人の代表のみならず、エジプト、イラク、シリア、レバノンなどのアラブ諸国の代表をも招聘してロンドン円卓会議(セント・ジェイムス会議)を開催した。さらに、同年五月にはパレスチナ白書を発表し、1ユダヤ人移民の制限、②ユダ人への土地売却禁止、⑧アラブ統一民族政府の樹立を骨子とする新たなパレスチナ政策を発表した(Porath2016)。ヨーロッパではナチスツに対する宥和政策が模索されていたが、パレスチナはすでに予断を許さない状況なっていた。地中海からインド洋に至る地域ではファシスト・イタリアの影響力もあり、イギリスは対枢軸側政策を優先せざるを得なかったのである。一方、パレスチナの現場においてはアラブ大反乱の深刻な状況に対応してイギリストとの軍事的な協力をも厭わなかった。

委任統治期パレスチナのアラブ民族運動の指導者ハーッジ・アミーン・アル・フサイニー(HājjAminMuhammadalHusayni,一八九五?―一九七四年)は、アラブ大反乱の最中、イギリス委任統治政府によって任命された大ムフティーとイスラーム最高評議会議長という二つの宗教行政的公職から追放された。そのため、ハーッジ・アミーンはその反英的姿勢からナチス・ドイツに亡命し、枢軸側に立って戦争協力を行うことになった(Mattar1988)。

 豊田市図書館の7冊
312.39『バルカンの政治』
493.12『糖尿病レシピ12週間』
234.07『ヒトラーはなぜ戦争を始めることができたのか』民主主義国の誤算
230『超訳 ヨーロッパの歴史』
201.1『人類歴史哲学考【1】』
440『宇宙になぜ、生命があるのか』宇宙論で読み解く「生命」の起源と存在
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『世界歷史22』

冷戦と脱植民地化二〇世紀後半

イスラエルの建国とパレスチナ問題

はじめに――米ソ冷戦期の中東地域

イスラエル国(TheStateofIsrael;MedinatYisra’el、以下、イスラエル)は、パレスチナにおけるイギリスの委任統治が終了する日である一九四八年五月一四日、独立を宣言した。それに対して、アラブ諸国軍は翌一五日にパレスチナに侵攻した。アラブ諸国軍はエジプトを中心としてレバノン、ヨルダン、そしてイラクから構成されていた。いわゆる第一次「中東戦争」の勃発である。

ここで「中東戦争」と呼ばれている事態は、イスラエルとアラブ諸国との間の四回にわたる戦争を指す。すなわち、⑩一九四八年五月の第一次中東戦争(アラブ側はパレスチナ戦争、イスラエル側は独立戦争あるいは解放戦争と呼ぶ)、②一九五六年一〇月の第二次中東戦争(アラブ側はスエズ戦争、イスラエル側はシナイ戦争)、③一九六七年六月の第三次中東戦争(アラブ側は六月戦争、イスラエル側は六日間戦争)、④一九七三年一〇月の第四次中東戦争(アラブ側はラマダーン戦争あるいは十月戦争、イスラエル側はヨーム・キップール戦争)である。

ただし、「中東戦争」という用語は日本のみで使用される呼称であり、欧米では「アラブ・イスラエル戦争」と呼ばれている。日本においてアラブ・イスラエル戦争が「中東戦争」と呼ばれたのは、イラク・イラン戦争や湾岸戦争などの戦争が勃発する以前の段階で、中東地域を代表する唯一の戦争がアラブ諸国とイスラエルとの間の戦争だったからである。

第二次世界大戦後の一九四八年にイスラエル建国を機に勃発した第一次中東戦争は、東アジアやヨーロッパなどの地域と同じようには、米ソ冷戦の文脈では説明できない。というのも、大英帝国は、「インドへの道」を確保するために中東地域で覇権を依然として維持し続けていたからである。イギリスは一九五六年の第二次中東戦争までは中東での「イギリスの平和」を維持していたのである。したがって、冷戦の状況下であっても米ソの両超大国といえどもこの中東地域の紛争に簡単には介入することができなかった(Heller2016)。

また、第二次世界大戦以前の英仏による東アラブ地域(エジプト、シリア、レバノン、パレスチナ、ヨルダン、イラク)の支配の問題も指摘しておはらない。一九四八年の第一次中東戦争に参戦したアラブ諸国を概観してみる。すなわち、エジプトは、一九二二年に形式的に独立し、一九三六年のエジプト・イギリス条約でイギリス軍はスエズ運河地帯を除いてエジプト全土から撤退した。とはいえ、第一次中東戦争が終わった時点でもスエズ運河には英仏軍が駐留し、スエズ運河会社は英仏の所有であった。ヨルダンも国名を首長国(英語でEmirate、アラビア語で「イマーラimāra」)から現在のヨルダン・ハーシム王国に変更して、イギリス・ヨルダン条約を一九四八年三月に調印した。とはいうものの、イギリス軍はヨルダンに駐留し続けており、ヨルダンはイギリスの軍事的・財政的な支援がなければ生き延びることができなかった。シリアは一九四六年四月にフランス軍が撤退して実質的な独立を達成し、レバノンは一九四三年一一月にフランスから正式に独立した。イラクは一九三二年にはイラク・ハーシム王国として形式的には独立していたが、イギリス軍は一九五四年まで駐留していた。

さらに指摘しなければならないのは、アメリカが主にソ連の「封じ込め」の観点から中東地域にアプローチしていったことの問題である。第二次世界大戦終結後の一九四七年三月に発表されたトルーマン・ドクトリンは、ソ連の脅威を直接受けるギリシア・トルコ・イラク・イラン・パキスタンなど、中東地域を含む「北層諸国」が対象となっていたが、イラクを除いてアラブ諸国は除外されていた。一方、第二次中東戦争後にイギリスが凋落して、一九五七年一月にアイゼンハワー・ドクトリンが発表されて以降、アメリカはアラブ地域に積極的に関与することになった。

しかし、アメリカの中東政策の原点はソ連が中東地域に影響力を行使することを封じ込める反共政策にあった。したがって、アメリカ当局者の発想は主に共産主義の脅威に対抗するというグローバルな反共路線に基づいており、アラブ諸国に波及しつつあったアラブ・ナショナリズムという特殊な政治状況を考慮せずに米ソ冷戦という視座から中東政策を決定していた(Slater2020:147-172)。

ところが、アラブ諸国からみれば、アラブ・ナショナリズムのイデオロギーという観点からはソ連の脅威よりもイスラエル国家という「敵シオニスト」の脅威の方が大きく、はるかに優先順位の高いものだった。また、アメリカとアラブ諸国との同盟関係を考えても、アラブ諸国の国王や大統領などの元首の個性によって決定され、その関係には濃淡があったといえる。換言すれば、当時のアメリカとアラブ諸国の関係は、必ずしも米ソ冷戦の文脈のみで決定されていたわけではなく、アラブ・イスラエル紛争の文脈で決定される場合も多かった。すなわち、米ソ冷戦とアラブ・イスラエル紛争の文脈での利害関係は必ずしも一致しなかったのである。このような米ソ冷戦とアラブ・イスラエル紛争に対する現状認識に対するズレが、アメリカの中東政策が有効に機能しなかった原因の一つであったともいえる。

エジプトのナーセル大統領(在職一九五六七〇年)が掲げるアラブ・ナショナリズムが一九五六年の第二次中東戦争以降、バレスチナ問題の展開に大きく影響することになった。というのも、パレスチナ問題の解決は、アラブ諸国が一致団結すればイスラエルを地中海に追い落とすことができるという、アラブ統一をめざすパン・アラブ的な方向で模索されたからである。

以上のような認識を前提としつつ、イスラエル建国からパレスチナ問題の展開を次のように議論していきたい。まず、前史としてイギリスによるパレスチナ委任統治期(一九二二―四八年)を簡単に振り返る。次にイスラエルの建国とアラブ・イスラエル紛争の展開を検討する。そして、一九六七年に勃発した第三次中東戦争前後から展開されるパレスチナ解放運動とは何であったのかを考えてみたい。

  • イギリスによるパレスチナ委任統治

イギリスは第一次世界大戦中、戦争遂行のために「三枚舌外交」ともいえる中東政策を推進した。イギリスはまず一九一五年に、イギリス側に立って参戦することを条件に、オスマン帝国の支配下にあったアラブ人の独立を約束したフサイン・マクマホン協定を締結した。第二に、戦後、オスマン帝国領の東アラブ地域を英仏間で分割するサイクス・ビコ密約を一九一六年に取り交わした。さらに、イギリスのロスチャイルド卿に対して、アーサー・バルフォア外相がユダヤ人のための「民族的郷土」(nationalhome)をパレスチナに建設することを約束した「バルフォア宣言」を一九一七年に書簡というかたちで送った。

戦後、旧オスマン帝国領をめぐって一九二〇年四月に開催されたサンレモ会議において、東アラブ地域はフランス委任統治領のシリア・レバとイギリス委任統治領のパレスチナ・トランスヨルダン・イラクに分割されることが決定された。その際、パレスチナ委任統治に関してはバルフォア宣言に記された内容、すなわち、ユダヤ人のための「民族的郷土」の建設が、文字通りに実施されることとなった。そのため、イギリスではユダヤ人シオニストとしてサムエル(一八七〇一一九六三年、在職一九二〇一二五年)がパレスチナ委任統治の初代高等弁務官として派遣された。

しかし、イギリスによるパレスチナの委任統治は近隣の委任統治領と違って最初から無理があった。というのも、パレスチナという地域において九割以上の圧倒的多数を占めるアラブ人ではなく、これから移民してくるユダヤ人のために民族的郷土を建設するとされたからであった。実際、イギリス軍が第一次世界大戦中、エジプトからパレスチナに侵攻してきた直後の一九二〇年に起こったナビー・ムーサー祭りの反乱を端緒に、一九二一年、一九二九年、一九三三三三年、一九三六十三九年といったように、バルフォア宣言に基づくイギリスとシオニストの支配に対して、連続的にパレスチナのアラブ人の反乱が起こった。

イギリスはパレスチナのアラブ人の反乱のたびにその原因究明のために調査団を派遣したが、一九三七年に派遣されたビール卿を団長とする王立調査団は、パレスチナをアラブ人国家、ユダヤ人国家、聖地イェルサレムを中心とする国際管理地の三地域に分割する勧告を行ったのである(ピール報告)。しかし、同報告が発表された一九三七年七月という時期は、東アジアでは日中戦争が勃発し、またパレスチナではアラブ人の広範な武装蜂起が展開されており、分割案は事実上、棚上げされることなった。イギリス政府は一九三九年三月にパレスチナのアラブ人とユダヤ人の代表のみならず、エジプト、イラク、シリア、レバノンなどのアラブ諸国の代表をも招聘してロンドン円卓会議(セント・ジェイムス会議)を開催した。さらに、同年五月にはパレスチナ白書を発表し、1ユダヤ人移民の制限、②ユダ人への土地売却禁止、⑧アラブ統一民族政府の樹立を骨子とする新たなパレスチナ政策を発表した(Porath2016)。ヨーロッパではナチスツに対する宥和政策が模索されていたが、パレスチナはすでに予断を許さない状況なっていた。地中海からインド洋に至る地域ではファシスト・イタリアの影響力もあり、イギリスは対枢軸側政策を優先せざるを得なかったのである。一方、パレスチナの現場においてはアラブ大反乱の深刻な状況に対応してイギリストとの軍事的な協力をも厭わなかった。

委任統治期パレスチナのアラブ民族運動の指導者ハーッジ・アミーン・アル・フサイニー(HājjAminMuhammadalHusayni,一八九五?―一九七四年)は、アラブ大反乱の最中、イギリス委任統治政府によって任命された大ムフティーとイスラーム最高評議会議長という二つの宗教行政的公職から追放された。そのため、ハーッジ・アミーンはその反英的姿勢からナチス・ドイツに亡命し、枢軸側に立って戦争協力を行うことになった(Mattar1988)。

 豊田市図書館の7冊
312.39『バルカンの政治』
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234.07『ヒトラーはなぜ戦争を始めることができたのか』民主主義国の誤算
230『超訳 ヨーロッパの歴史』
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『「アラブの春」の正体』

重信メイ

『「アラブの春」の正体』

―欧米とメディアに踊らされた民主化革命

アラブの盟主、エジプトで起こった「革命」の苦い現実

●インターネットを使ったストライキ

チュニジアの「ジャスミン革命」が報じられると、次に世界が注目したのがエジプトでした。

タイミングから考えると、チュニジア革命があって初めてエジプトでも同様の革命が起きたように思えますが、実態は少し違います。エジプトにはエジプトの事情があり、一般の人々の間にずっと不満がたまっていました。

とくに二〇〇六年からストライキがよく起こっていました。労働者たちの不満は爆発寸前だったと思います。

しかし、三十年にわたって大統領を務めていたホスニー・ムバラクを倒すことができたのは、やはりチュニジア革命の影響が大きかったと思います。エジプト国民の間に、チュニジアるなら、エジプトにできないはずはないという新たな希望と勢いが出たからです。

また、二〇〇七、八年から起きていたストライキや民衆蜂起は、チュニジアがそうだったように、インターネットを使ったものでした。

たとえば、二〇〇八年四月六日には、アルマヘッラ・アルコブラという工業都市で、労働者たちが労働条件が悪すぎる、改善してほしいと声を上げました。そして、彼らの活動を支援するために、リベラルな学生たちがソーシャルメディアを使いました。

アルマヘッラ・アルコブラの労働者たちを支援するために、ほかの町でも同じ日にストライキをしよう、と彼らは考えました。そして、この日はみんなで同じ黒いTシャツを着ることにしました、アルマヘッラ・アルコブラには行けなくても、遠くからでも彼らを支援しようというわけです。その結果、一週間でフェイスブックのページに五万人がメンバーとして登録し、このストライキを支持するほど大きな力になりました。しかし、このときには政府の弾圧があり、収束してしまいます。このときはジャーナリストも含む多数の逮捕者が出ました。

それ以来、工場のストライキがエジプト各地で次々に起こりました。

しかし、この盛り上がりがムバラク政権を倒すまでにいたらなかったのには、残念なことに、ストライキを主導していた労働組合の腐敗が原因でした。それも、労働組合の幹部が政府と癒着していたという腐敗でした。

政府は弾圧してくる。組合はあてにならない。そこで、工場ごと職場ごとに、組合とは関係なくストライキを起こす人たちが出てきました。エジプト国内でそういう新しい動きが徐々に現れてきたときに、近隣のチュニジアで革命が起こったわけです。

●「私たちすべてがハーリド・サイードだ」

エジプトにも、「ジャスミン革命」のきっかけになったブーアズィーズィーのような人がいました。個人から始まる印象的なストーリーがありました。

主人公はハーリド・サイードという一人の男性ブロガーでした。彼は警察官が没収した麻薬を横流しする現場を撮影した映像を持っていました。しかも、その映像には警察官何人かが、麻薬をどう山分けするか、どのように売るかを相談している場が映っていました。警察が組織的に麻薬の横流しに関与していることが明らかな映像でした。

サイードがどうやってこの映像を手に入れたかはわかっていませんが、彼は「この映像をブログで公開するぞ」と警察官を脅しました。彼が自分の身元を明かしていたのか、匿名だったのかはわかりません。しかし、警官たちは彼の居場所を突き止めました。

二〇一〇年六月六日のことでした。サイードがいつも使っていたインターネット・カフェに、警官たちがやってきました。警官たちは、従業員やお客さんたちを店の外に出したうえで、彼に殴る蹴るの暴行を働きました。そこで彼は殺されたのではないか、と言われています。そのとき店から出された人たちは、彼が警官たちに店から引きずりだされてきた様子を目撃しています。

数日後、警察は獄中で亡くなった彼の遺体を家族の元に送り返しました。

しかし、彼が警察に連行される場面を見た人たちは、彼は警官たちに殺されたのではないかと考えました。そして、自分たちが見たことをネットで告発し始めました。そのなかの一人に、グーグル社幹部のワエル・ゴニムがいたことが大きな話題になりましたが、彼だけではなく、サイードのブロガー仲間たちが、このことを知らせなくては、真相を明らかにしなければ、と自主的に動き出したのです。そして、そのための情報収集サイトとして、「私たちすべてがハーリド・サイードだ」というフェイスブック・ページを作りました。

すると、かねてからエジプト政府の弾圧や、労働者の待遇、失業率の高さなどの経済面で不満があった若者たちがそのページに集まるようになりました。そこから運動が大きくなっていきました。

そこに同じ年の年末から始まった「ジャスミン革命」という追い風が吹いたのです。

●ムバラク政権を倒した「軍」の離反

当初のデモにはブルジョワジー(資本家)や中産階級など、社会のなかで恵まれたポジションにいる人たちも大勢参加しました。

しかし、ムバラク政権がいよいよ倒されるとなったとき、軍がムバラクを見限って民衆側につこうと決めた決定的な理由は、労働者のストライキでした。

フェイスブックやツイッターを使って呼びかけたデモに集まった数万人の人たちがタハリール広場へ座り込んだりしていましたが、その一方で、首都のカイロだけではなく、アルマヘッラ・アルコブラなどの工業都市で、一気にストライキを起こしたのです。このことはあまり報道されていませんが、製糖工場や、鉄道の技術者の組合がストライキを起こし、やがては鉄道全体の労働者がストライキを始め、交通機関が麻痺しました。

また石油会社の労働者もストライキを起こし、当時の石油大臣の腐敗を訴え、イスラエルに安くオイルを売ることに反対を表明しました。

交通や工場が麻痺したことで、エジプトは経済的にも大きなダメージを受けました。ことここにいたって、軍もムバラク政権にエジプトの統治は無理だと判断したのです。

しかし、三十年間という長い間、政権を握り続けてきたムバラクが、「いま」倒されたのはなぜでしょうか。

一月十四日にチュニジアのベン・アリー大統領が国外に脱出すると、同じ日、エジプトの首都、カイロでデモがあり、「ジャスミン革命」に呼応するように、抗議の焼身自殺を遂げる青年が相次ぎ現れました。エジプトの国内の雰囲気が変わり、この年の秋の大統領選挙でムバラクが六選をねらっているという観測に対し、不満を表明する人々がデモに参加し始めました。

しかし、ムバラクはつねに強気でした。一月二十五日にはフェイスブックで呼びかけたデモに五万人もの賛同者が現れましたが、エジプト政府は二十七日からソーシャルメディアを妨害し、三十一日にはインターネットと携帯電話サービスの遮断というかたちで妨害します。そして、デモ隊に対して、警官が催涙弾を撃ち込むといった強硬手段に出、双方に死者が出る騒動に発展していきます。ムバラクは二十九日に国営テレビに出演し演説を行います。そこで、首相を含む全閣僚を解任することと、経済改革を約束しますが、自らは退陣しようとしませんでした。

潮目が変わったのは二月一日でした。反政府勢力が一〇〇万人規模のデモを呼びかけ、交通網はストライキで麻痺しました。この事態に対し、軍がムバラクを支持することをやめたのです。この日の夜、ムバラクは次期大統領選挙に立候補しないことを表明し、選挙制度改革を約束しました。このとき、実質的にムバラク政権は崩壊しました。

なぜ、このタイミングでムバラク政権が倒れたのか。その答えを考えるうえで、エジプトという国の権力がどこに集中しているかを知っておくべきだと思います。

エジプトという国の根幹を握っているのは軍です。

ムバラクが大統領になるよりも前、一九五二年に軍がクーデターを起こし、王政を廃してからはずっと軍事政権が続いていました。

したがって、エジプトの政治経済システムは軍にとってメリットの大きなものになっています。とくに経済システムは軍が牛耳っていると言ってもいいでしょう。
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『インド』

『インド』

グローバル・サウスの超大国

人口大国若い人口構成、人材の宝庫

1人口増加の内幕

インドの人口増加率の推移

インドは14億1200万(国連の報告書による2022年時点の推計)の人口を抱える人口大国である。1947年の独立当時に4億5000万であった人口は99年に10億を超し、その後も増え続けて、現在は独立時の人口の3倍強になっている(図4-1)。

2023年1月には、インドの人口がすでに中国を上回って世界最多となった可能性が大きいと世界的に報道された。インドの国勢調査は1年以来行われていないため、正確な人口統計の把握は難しいが、中国政府が22年末の人口が前年末より56万人減って14億1175万人になったと発表したことから、インドの人口が推計ベースで中国を上回っていると見られたのである。

国連が2022年に発表した報告書の予測によると、2050年にはインドの人口が1億6800万、中国の人口が1億1700万と、かなり大きな差がつく。同年の世界の総人口は9億人と推測されており、世界人口の5・8人に1人がインド人、7・4人に1人が中国人ということになる。国連の予測の中位推計によると、インドの人口は50年代後半に16億人強のピークを迎え、その後減少に転じて、2100年頃に約15億人に落ち着く見通しである。

このように、現在もインドの人口は増加し続けているが、人口の増加率」はすでに減少に転じている。インド保健家族福祉省が2022年に公表した「全国家族健康調査(NFHS)」によると、インドの合計特殊出生率(1人の女性が生涯のうちに産む子供の数の平均)は2・0と、人口増減がない状態となる人口置換水準の2・16~2.0を下回った。NFHSによると、1992~98年、98~99年、2005~10年、15~16年、1~2年の合計特殊出生率は3・4、0と低下していたが、コロナ禍が一段落した20年に低下が落ち着いたと見られている。

人口動態は出生率、死亡率によって決まるが、一般に経済発展とともに死亡率の方が出生より先に低下し始めるため、人口増加率はある時期まで増加してその後減少に転じる。ンドの出生率(合計特殊出生率とは別で、その年に生まれた人数を全人口で割った1000人当たりの人数)は1960年に2・0、80年に360・2、2000年に2・4、20年に17・4と低下し続けており、1000人当たりの死亡率も1960年に2・2、80年に1・3、2000年に8・7、20年に7・3と低下している。出生率と死亡率の差が最も大きかったのは1980年代初頭で、この時期がインドの人口増加のピークであった。死亡率の低下とともに、平均寿命も60年4歳、80年34歳、2000年66歳、20年70歳と順調に伸び続けている。その結果、将来的にはインドでも高齢化の問題が生じることになると考えられるが、現状では問題視されていない。

「人口ボーナス期」と雇用問題

インドは若い国である。その人口の3人に1人は10歳から24歳の間にあり、人口ピラミッドは日本とは違う綺麗なピラミッド型である(図4-2)。現在のインドは所謂「人口ボーナス期」の真っ只中にあり、出生率の低下による生産年齢未満の若年人口比率低下とともに、従属人口(15歳未満の年少人口と65歳以上の老年人口の合計)の比率が減少して、15~64歳の生産年齢人口比率が上昇している。

国連によると、今後30年間に世界の労働市場に参加してくる年齢層の22%がインド人であると予測される。2003年の「BRICsレポート」をきっかけにインド経済が注目されるようになった理由の一つにも、この若い人口構成があった。

国連の推計によると、2021年から4年の20年間に、インドの人口の2人に1人が労働人口となり、インドの「人口ボーナス期」は2040年代前半から後半まで続くが、40年代後半には「人口オーナス期」に入る。これは、40年代後半になって、ようやく生産年齢人口の従属人口に対する比率が減少に転じることを意味する。

日本や韓国、台湾、中国といった東アジア諸国が「人口ボーナス期」に高い経済成長率を実現できたのは、生産年齢人口に対して十分な雇用創出が、製造業を中心になされたことが大きい、この「人口ボーナス期」を東アジア諸国と同じように有効に活かすことは、インドの経済発展にとってきわめて重要である。製造業はとりわけ雇用吸収力が大きいため、モディ首相が「メイクン・インディア」「自立したインド」と題して国内の製造業育成に力を入れているのも、そうした理由によるところが大きい。

人口抑制策

ンドの人口抑制政策は1950年代から導入されてきたが、その道のりは平坦でなかった。76年から77年、当時のインディラ・ガンディー首相と次男サンジャイ・ガンディーが強制的に避妊手術を推し進め、それまでの3倍に及ぶ800万人が避妊手術を受け、うち600万人の男性がバイブカット手術を受けた。数値目標達成のために当局にはノルマが課せられ、警官が貧しい人々を捕えて、強制的に避妊手術を受けさせることさえまかり通った。当然のことながら、これは国民の反感を買い、1977年の総選挙における与党の大敗にもつながった。その結果、直接的な人口抑制政策はインドの政治で触れられにくい、タブーに近い問題となった。

こうしたことから、インドでは人口を抑制するために避妊を推し進めるのではなく、女性の教育や保健政策といった間接的な効果にゆだねるやり方が一般的となった。成功例としては、1970年代のケララ州で、州政府が教育と公衆衛生に力を入れたことにより、出生率転換がいち早く始まった。ケララ州でとりわけ注目されるのは、女性の教育水準の高さで、女性の識字率9割は他の州を大きく上回る。

ケララ州のこの流れは、その後他の州にも波及していった。とりわけ南インドでは北インドに比べて教育水準が高く、農村部での医療の質も高いため、出生率を下げやすかった。これに比べて、北インドでは人口抑制が遅れがちであった。とりわけインド中部から東部にかけてのウッタル・ブラデシュ州やビハール州では深刻で、多くの女性は教育らしい教育を受けないまま、法律で婚姻が認められている18歳になる前に、親の決めた男性と結婚することが多かった。しかし、今世紀に入ると北インドでも合計特殊出生率が置換水準を下回る州がいくつか出てきており、徐々にではあるが、教育の普及が人口抑制につながりつつある。

女性教育の推進は、間接的に避妊具の使用比率上昇にも結びつく。インド政府の調べでは、避妊具を使う女性の比率は66%へと増加しており、この数字はバングラデシュやネパールやインドネシアにはまだ劣るものの、上昇傾向にある。女性の教育は児童婚の比率の減少にもつながり、それは合計特殊出生率の低下にも貢献している。

南インドで低い人口増加率

インドのように巨大な国では、地域間、都市農村間、宗教間で、それぞれ人口増加率に違いがある。地域間格差を見ると、先に述べたように、北部や東部で人口増加率が高く、南部では低い。東部ビハール州では合計特殊出生率が3・2と最も高く、ウタル・プラデシュカンド州、メガラヤ州、マニプール州でも出生率が高く、マディヤ・プラデシュ州、ラジャスタン州などがそれに続いている。それに比べて南部5州では出生率が一様に低く、それ以外にもマハラシュトラ州、西ベンガル州、パンジャブ州、ヒマエル・プラデシ州、シッキム州、ナガランド州、トリプラ州など教育水準の高い州で出生率が低い。都市と農村の人口増加率格差も大きく、インドでは農村で生まれた人々が若いうちに都市に移住して、都市化の進展につながっている。最新のNFHSによると、インド都市部の合計特殊出生率の平均は1.6となっており、この数字は日本の沖縄県や宮崎県の数字を下回る。ただし、NFHSのこの調査が行われた調査の時期は、コロナ禍の不況とインドのロックダウンの措置があったため、それがどの程度影響を及ぼしているかはもう少し詳しい調査の必要があろう。

近年政治問題化しているのは、宗教間の出生率格差である。イスラム教徒の出生率はヒンドゥー教徒と比べて相対的に高く、このことがヒンドゥー教徒を支持母体とする与党BJPにとって、懸念材料となっている。2021年には、国会で人口抑制に関する4つの法案を審議することが提案された。その将来的な狙いは、一家族につき子供2人までとすることだった。表向きは人口増加の圧力を減らすことが目的だが、実際には、将来を見据えてイスラム教徒の人口比率の上昇を食い止めようという意図が感じられた。また、ウッタル・プラデシュ州やアッサム州で、「3人以上の子供がいる人には公務員の就職や昇進、州議会選挙における被選挙権を制限する」とした法制化の動きもあった。

2人材の強み

インド工科大学(IIT)は国内でトップクラスの高等教育機関である。現在では、インド全土に23のキャンパスを持っている。その中でも、デリー、ボンベイ(ムンバイ)、マドラス(チェンナイ)、カンプール、カラグプールのIIT5校は設立の時期も古く、最も入学が難しいとされる。全世界に多数のIIT卒業生がおり、米シリコンバレーで設立された企業のうち6割は、IITの卒業生が創設者やトップレベルの役職についているとも言われる。IIT以外の超一流校には、インド経営大学院(IIM)、インド科学技術大学院(IISCバンガロール)、全インド医科大学(AIIMS)がある。このうちIITは学部教育が主体であるが、IIMやIISCは大学院大学である。経営大学院のIIMの学生も、大半は学部が理工系である。これらの大学は競争率が500倍を超す超難関である。日本のある予備校は、IITと東大理系の入試問題を比べて、「IITの方が難しい」と結論づけた。こういったインドの一流大学に入学することは、欧米の一流校に入ることよりも難しいと、インドではよく冗談半分に言われている。

IITのような超一流大学のトップクラスの学生は、学部を卒業すると同時に米国企業によって本社採用されることも少なくない。米国企業はこれらの一流校に青田買いに訪れ、米国本社に直接採用される卒業生の15万ドル(1950万円)を超す初任給が、毎年話題となっている。日本の大学では考えられないことである。インド政府はこれまで海外の大学のインドにおけるキャンパス設置を認可してこなかったが、最近イェール、スタンフォード、オックスフォードといった英米の大学がキャンパス設置を計画していると報道されている。

 奥さんへの買い物依頼
クリームシチュー        238
手羽元         312
トンテキ       322
スーパーカップ           98
牧場の朝      108
きたあかり    180
玉ねぎ         280
コロッケ        100
ししゃも        100
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『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』

『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』

独我論

論理空間を構成する対象について論じていた人が、あるいは真理操作の基底となる要素命題についてそれまで論じていた人が、ふいに「だから、独我論は正しいってわけだ」などと言い始めたならば、やはりとまどうだろう。「なぜいきなり独我論なんだ」と聞き返さずにはおれない。『論考』五・六一五・六四一がまさにそうなのである。それまで論理と命題の意味について論じていたウィトゲンシュタインが、突然こう切り出す。

五・六私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。

ここまで『論考』は「私の言語」などという言い方をいっさいしてこなかった。なぜ「私の」言語なのか。そしてその少し後でこう述べる。

五・六二独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それは語られえず、示されているのである。

この唐突な展開は、あたかも『論考』が別の話題を論じ始めたかのような印象を与える。しかし、そう思っていると、五・六四一が終わり、六に入って再び真理関数の一般形式についてのコメントが始まる。ふつうに読めば、五・六―五・六四一が前後から切断された飛び地のように見えてしまってもしかたがない。この違和感を取りのぞき、これらの諸節をその前後に自然に接続させるよう『論考』の独我論のありかを読み解くことが、この章の課題となる。

10-1『論考』の独我論は現象主義的独我論ではない

この違和感、五・六一五・六四一が分離してしまっているという感じは、ここでウィトゲンシュタインが「正しい」と共感している独我論をよくあるタイプの独我論、すなわち現象主義的な独我論と解することによって増幅される。あらかじめ述べておくならば、私は『論考』の独我論は現象主義的な独我論ではないと考えている。しかし、そうだとすると、ではそれはどういう独我論なのかという問いがただちに問われねばならない。順に検討していこう。まずは現象主義的独我論なるものを押さえておく。

現象主義は、すべてを私の意識への現れとして捉えようとする考え方である。たとえばいま私には机の姿が見え、その上に何冊かの本が重ねられているのが見え、窓の外では蝉の声が聞こえている。また、少し蒸し暑いと感じ、こめかみの奥に軽い頭痛を感じている。現象主義はこうした現れ=現象だけを受け取る。与えられたものはただそれだけでしかない。

こうして、ただ現れるものだけを厳格に禁欲的に受け取ることにおいて、現象主義は独我論へと踏み込んでいく。現象主義のもとでは、たとえば他人の頭痛などは意味を失う。他人の痛みは私には現れえない。もし私に現れたならば、それは私が痛いということであり、私の痛みでしかない。あるいはまた他人の知覚も私には現れえない。「他人の意識」あるいは「他の意識主体」、そう呼ばれうるようなものは現象主義の受け取る世界にはもはや何ひとつない。他我が消え去り、ただ自我のみが存在する。すなわち、独我論の世界が開ける。

さらに、他人の意識を抹消することによって、現象主義はその現れを「私の意識への現れ」と言うことさえできないことになる。現れはすべて私の意識への現れでしかありえず、それゆえむしろそれを「私の意識」と言い立てることにはポイントがなくなるのである。意識主体たる私は意識の内には現れえない。かりに意識された私がいたとして、それは意識主体たる私ではない。その場合にも、そこで意識された私自身を意識している私がいる。

意識主体たる私は意識への現れを受け取る主体であり、それはそうした現れを超越しているのでなければならない。そして他人の意識は現れえないのだから、私は現れを私への現れと他人への現れとに区別する必要もない。ただ、現れがある。これが現象主義の開く世界にほかならない。

こうした現象主義がその現れの世界を記述するとき、それはどうしたってある独特な言語にならざるをえないだろう。たとえば「彼女はひどい歯痛に悩まされている」という日常的な言い方は、それが痛みを感じる意識主体たる彼女を想定していることにおいて拒否されねばならない。あるいは、「私は少し頭が痛い」という言い方における「私」もまた、現れを受け取る主体としての自我それ自身は現れえないという理由で、消去されねばならない。

現象主義が採用するそのような言語を、ウィトゲンシュタインは『論考』以後の移行期の著作において「現象言語」と呼びもする。ただひたすら現れのみを記述する言語、ウィトゲンシュタインはそれを次のように説明している。

私、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(LW)が歯痛を感じている場合、このことは「歯痛がある(esgibtZahnschmerzen)」という命題によって表現される。しかし、「Aが歯痛を感じている」という命題で現在表現されていることに対しては、「Aは歯痛があるときのL・Wと同じようにふるまう」と言われる。これに類比的に「思考が生じている(esdenkt)」とか「Aは思考が生じているときのL・Wと同じようにふるまう」とも言われる。(『哲学的考察』、第五八節)

意識現象に対して、「私」とか「彼女」といった人称的主語を拒否し、ただ現れだけを記述する。ちょうど「雨が降っている」を英語で‘It’sraining.“と言い、あるいはドイツ語で‘esregnet.’と言うように、いわば非人称化する。それが、現象言語にほかならない。そしてウィトゲンシュタインはこのような言語への関与をかつての自分に認め、それを批判する。

現象言語――あるいは私のかつての言い方では「一次言語」は、いまの私には目標とは思えない。もはやいまの私はそれを必要とも思わない。(『哲学的考察』、第一節)

以前私は、通常われわれみんなが使っている日常言語と、われわれが現実に知っているものを表現する基本言語、すなわち現象を表現する言語とが存在すると考えていた。私はまた、前者の言語体系についても、後者の言語体系についても、語ってきた。私はここで、なぜ私がもはやこの考えに固執しないのかを述べよう。(『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』、一九二九年一二月二二日「独我論」の項)

ここで批判されているかつての自分自身として、当然われわれはそれに直接先立つ著作である『論考』を思うだろう。では、『論考』のどこに、『論考』の言語が現象言語であることを示唆するものがあるだろうか。

ここまでわれわれが辿ってきた道筋を振り返ってもらえればそれでよい。私は『論考』の議論をほぼその順序にしたがって拾いあげてきた。よい機会だから、おさらいを兼ねて、『論考』の節番号に即して整理してみよう。

まず一番台で出発点となる現実世界について確認する。世界は事実から成り立つ。二・○番台で世界の可能性へと目が向けられ、それに伴って二・一番台で像に関して一般的に論じられる。

三・○番台で像としての思考について軽く触れたあと、三・一番台から像ということで中心的に考えられている命題についての検討に入る。以下三番台は主として命題の名への分析について論じられ、続く四〇番台で主として命題の意味について論じられる。この三・一から四・○番台までが、『論考』の理論的中心の前半を成す。名前をつけるならば、「要素命題論」と呼べる部分である。

ここで少しインターバルが入り、哲学についてのコメントが挿入される。そしてそのあと残りの四番台では要素命題と複合命題について論じられる。ここからが『論考』の理論的中心の後半になる。名前をつけるならば「真理操作論」と呼べる部分である。そして五番台は、真理操作という観点から論理について論じられる。それが五・五番台まで続く。そして、五・六番台である。
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『獅子と呼ばれた男』

302.27アン『獅子と呼ばれた男』

アフガニスタンからの至急報

暗殺者たち

アハマド・シャー マスードは痩身の強靭な男で、鷲鼻と、頬と眼のまわりの深い皺が特徴の面 長の美男子だった。顎の線に沿ってまばらなひげを生やしていた。いつもパクールと うてっぺん が平らなやわらかいウールの帽子を被っていて、それは彼や彼のムジャヒディンが、アレクサンダ 大王の軍の子孫であると主張する部族、ヌリスタン人から取り入れていた。昨年の秋、マスード は四十九歳で、 こめかみの上の黒い髪に印象的な白い筋が現れていた。

マスードはほかの反共産主義イスラム教徒の学生数人とムハ ・ド・ダウド政権の前哨地に一連 の不手際な攻撃を加えた一九七五年以来、ほとんど休むことなく ってきた。二〇〇一年の秋、彼 は五年以上もタリバンと戦っていて、彼の前線はすでにパンジシール渓谷とカブールのあいだに約 二九〇キロにわたって広がるシャマリ平原の端から、タジキスタンとの国境まで伸びていた。その 国境に近いホジャ・バウディンという小さな密輸業者の町に司令部があった。

その夏、マスードは、その数一万六千にものぼるタリバンとアルカイダの戦士が最北の前線沿い に集結していて、そのなかにはアラブ人、パキスタン人、中国人、ウズベク人、タジク人が多数い るという情報を受けるようになった。その数は途方もなく増えているようで、彼は情報を無視した。 九月初め、彼と数人の司令官はヘリコプターで前線を越えた。 マスードは双眼鏡を手に操縦室にす わった。危険な飛行だった、と同行した一人が最近語ってくれた。「しかし、私たちはアラーがお 助けくださると知っていたし、アムール・サヒブ」―――だいたい「ビッグ・ボス」といった意味の 言葉で、マスードの部下たちは彼をこう呼んだ ――「が、一緒だった。」 彼らは地域の写真を撮り、 マスードが、部下をどこに配置すべきかを司令官たちに指示した。

マスードは九月九日の午前三時まで数人の同僚と起きていて、ペルシアの詩を朗読した。彼が寝 入って数分後、彼の秘書――ジャムシドという若者で彼の甥であり義弟――は北部同盟の指令官、 ビスミラ・ハーンから、タリバンがシャマリ前線を攻撃したとの電話を受けた。ジャムシドはマス ―ドを起こし、マスードとビスミラ・ハーンは夜明けまで電話で話した。 それからマスードはベッ ドに戻った。七時半ごろ、ジャムシドはタリバンが退却しているのを知り、伯父を九時まで寝かせ ておいた。

朝食後、マスードは偵察に行こうとしていたとき、九日前にパンジシール渓谷からホジャ・バウ ディンへやってきて、彼にインタビューするのを待っている二人のアラブ人ジャーナリストと会う ことにした。彼らはその日、ホジャ・バウディンを離れなければならないと通告していた。アラブ 人たちはロンドンのイスラム監視センターという組織の指導者からの紹介状を持ってきた。ジャム シドによれば、アフガン・イスラム運動創始者の一人で、現在は千人余の反タリバン戦士をパンジ シールの拠点から指揮するアブドゥル・ラスル・サヤフのもとにいる男から連絡を受けたという。 ジャムシドは、アラブ人はサヤフの友だちだと言われた。

私はジャムシドに、そのアラブ人たちに何か異常なところはなかったかと尋ねた。当時アフガニ スタンにいるアラブ人がアルカイダと結びついていたからだ。

「それはなかった」と彼は言った。そして彼の伯父は彼らが役に立つと思った。伯父は彼らを通 して、イスラム社会に『われわれは異教徒ではない。イスラム教徒だし、ここでロシア人やイラン 人を戦わせない』と言いたかったのだ。」マスードは敬虔な人だった。正式なやり方で一日に五回祈りを捧げ、妻はブルカを着ていた。しかし彼は、ほかのイスラム教スンニ派――タリバン――と 戦うイスラム教スンニ派で、彼らは公正で清廉潔白であると公言し、一方彼はイランのシーア派と 複数の非イスラム政府から支援を受けていた。

現在カブールで多言語新聞の編集者をしている痩身の若者、ファヒム・ダシュティも九月九日、 ホジャ・バウディンにいた。ダシュティは子供のころからマスードを知っていた。一九九六年の秋、 タリバンがカブールを占拠したとき、ダシュティはパンジシール渓谷に退却するマスードに同行し た。彼は北部同盟領にとどまり、マスードの司令官の一人と共に小さな映画会社、アリアナをつく った。彼らはタリバンとマスード軍の戦いのドキュメンタリーを制作した。ダシュティは二ヵ月間 のパリ滞在から戻ったばかりで、パリでは「国境なき記者団」というグループが出資した映画編集 のワークショップに参加していた。彼は二人のアラブ人と同じゲストハウスに滞在した。彼の記憶 では、北部同盟領でアラブ人を見るのは奇妙だったが、 その二人は怪しく見えなかった。 「彼らは 難民キャンプへ行き、捕虜を訪ねた。 どれもジャーナリストがすることだ」と彼は言った。一人は 片言のフランス語と英語を話し、もう一人はアラビア語だけだった。

数週間前、私はアリアナのマスードに関する最新の未編集フィルムを見せられた。 二人のアラブ 人はいくつかのシーンに映っている。 八月に撮影したフィルムでは、彼らはブルハヌティン・ラバ ニにインタビューしている。噂の記者は白い肌で、筋骨たくましく、三十代半ばに見える。きれい にひげを剃って、 ルーカット。 西側の服茶色いシャツとスラックスに眼鏡。額には円い 傷痕のような、奇妙な茶色っぽい痣が二つある。 カメラマンはこのシーンには映っていないが、後半のフィルムの中に、ゲストハウスの戸口に立つ彼の静止場面がある。彼は背が高くて、浅黒い肌。 黒いシャツを着て、憎悪と恐怖の両方が容易に想像できる表情で、カメラをにらみつけている。

アリアナ・チームはいつもマスードのインタビューを撮影していて、九月九日の正午ごろ、ファ ヒム・ダシュティと二人のアラブ人と通訳は、車でマスードの司令部にやってきた。マスードとジ ャムシドは警備隊長と一緒にいて、警備隊長のオフィスがインタビューに使われていたし、北部同 盟のインド駐在大使、マスード・ハリリも同席した。アハマド・シャー・マスードはソファにすわ り、背中の慢性の痛みを和らげてくれる整形外科用のクッションを使っていた。彼はアラブ人たち に挨拶した。「彼は出身地を尋ねた」とダシュティは言った。 「一人は、二人ともベルギー人だが生ま れはモロッコで、パキスタンからカブールへ来て、そこからホジャ・バウディンへ来た、と言った」 ハリリ大使の記憶では、マスードがインタビューを行うアラブ人に、先に質問のリストを聞きた いと言い、男が英語でそれを読みあげはじめたという。ハリリがマスードのためにペルシア語に訳 した。彼は、質問がほとんどオサマ・ビンラディンについてであることにかなり驚いたと言った。 たとえば、「もし権力を握ったら、オサマ・ビンラディンをどうするつもりか」とか「なぜ彼を原 理主義者と呼ぶのか」とか。大使は質問が偏っているのに気づいて、何という新聞に書くのかアラ ブ人に尋ねた。「私はジャーナリストではない」と男は答えた。「イスラム監視センターから来た。 ロンドンやパリなど全世界にオフィスを持っている。」 ハリリはマスードのほうを向いて囁いた。

「司令官、彼らはあの連中の手先です。」 アルカイダのことだ。マスードはうなずいてそっけなく言 った。 「とにかく片づけてしまおう」

アラブ人たちはマスードと自分たちのカメラのあいだにあったテーブルと数脚の椅子を動かした。 そのカメラは三脚の一番低い高さに設置されていた。彼らのカメラの後ろに自分のカメラを据えて いたダシュティが逆光を調整していたとき、部屋が爆発した。 ハリリ大使は、自分のほうへ向かっ てくる太く青い炎を見たと言った。

「私は自分が燃えているのを感じた」とダシュティは言った。外へ出ると、警備隊長と共に二、三 分早く部屋を出ていたジャムシドに会った。「私を病院へ連れていってくれと頼んだら、彼がマス ―ド氏はどこだと訊くので、中へ戻って彼を見た。彼は全身を、顔や両手、両脚もひどくやられ いた。」アフガン情報部員が最近私に語ったところによると、マスードは三十秒以内に亡くなって いたにちがいない。二つの金属片が彼の心臓に入っていた。 右手の指はほとんど吹き飛ばされてい た。私は彼の遺体の写真を見せられた。 彼の皮膚は二、三センチおきに傷口が開いていた。 白いガ ―ゼが眼窩に詰めてあった。

カメラマンのバッテリー・ベルトには爆薬が詰まっていた。マスードがすわっていたソファは黒 焦げで、背もたれに穴が一つ開いていた。アリアナのフィルムにはストレッチャーに乗せられたカ メラマンの遺体が映し出されている。 両脚は焦げて血まみれ、上半身はばらばらに吹き飛ばされて いるようだ。 アフガンの通訳も死んだ。

二人の護衛がマスードを車に運んだ。ひどい火傷を負ったダシュティが同乗して、ヘリコプター 離着陸場に向かった。ハリリ大使もまた火傷を負い、爆発で重傷を負っていたので、別の車であと につづいた。彼らはみなタジキスタンの国境を越えて病院に空輸されて、そこにまもなくマスードの副司令官ファヒム将軍が到着した。ファヒムはほかの北部同盟幹部たちと協議して、暗殺はしば らく伏せておくことで合意した。

インタビューを行ったアラブ人は爆発を生きのびて、マスードの遺体がタジキスタンへ運ばれて いるあいだ、爆発が起きた近くの部屋に監禁されていた。彼は小窓から金網を破ってくぐり抜ける と、走って墓場を越え、二、三百メートル先の土手へ逃げた。地元の軍司令官のもとにいた男があ とを追って殺害した。

私はダシュティに、マスードは裏切られたと思うかと尋ねた。「そう思う」と彼は言った。「そう でなければ、不可能だった。どういうわけかアルカイダとわ れの仲間のあいだにつながりがあ るらしい」

九月十一日、アフガニスタン時間で午後八時ごろ、カンダハルにいたムラー・オマルはカブール のタリバンの外相に電話した。電話を傍受したアフガンの情報源によると、ムラー・オマルは言 た。「事態は予想以上に進んでいる。」それはニューヨーク時間で午前十一時三十分、アメリカン・ エアラインズ一一便がワールド・トレード センターのノース・タワーに激突して三時間足らず、 サウス・タワーが崩壊して一時間半後だった。ムラー・オマルは外相に、記者会見を開いて、タリ バンは攻撃に関与していないとの声明を出すように指示した。記者会見はカブールで午後九時半に 行われた。外相は記者たちに、アフガニスタンはアメリカを攻撃していないと断言し、オサマ・ビ ンラディンは関わっていないというムラー・オマルの声明文を読みあげた。「この種のテロリズムは一人の人物が起こすには大きすぎる」

その夜傍受された電話の中には、カブールからカンダハルにかけた通話がある。「シャイフはど こにいる?」と電話した者が尋ねた。シャイフとは古参のタリバン幹部たちがオサマ・ビンラディ ンに使う暗号名だった。再びアフガンの情報源によれば、ムラー・オマルの家にいた何者かが、電 話してきた者に、ビンラディンがここにいると言った。「そのあと」と情報部員は私に言った。「カ ンダハルとカブールのあいだで電話のやりとりが混乱した」

九日のマスード暗殺と二日後のワールド ド ・トレ センター攻撃とは、九月初旬の日々には、 明らかに何らかの関係があるのは明白だと思われたが、正確には、彼らがどのように関与し、また 何者が参加してかということはあくまでも推測の域を出ない。マスードが殺されたとき、ロンドン のアフガン大使館で代理大使をしていた、マスードの弟、ワリは現在カブールにいて、マスード党、 アフガニスタン国民運動を率いるよう指名された。 彼は兄の暗殺がさらに大きな計画の第一歩であ り、九月十一 この攻撃が第二歩だと信じている。「論理的に見れば」と彼は言う。「彼らは十一 に 好きなようにやりたかったが、 マスードがいないということが条件だった。」 マスードを殺害した 者たちは、彼の死が北部同盟を崩壊させ、もし米軍がワールド・トレード・ センター攻撃に報復す るとしても、地上にアフガンの支持者はいない、と思った。 晩夏から初秋にかけて、前線に軍を増 強したのは、つまり、マスード暗殺の準備だったのだ。 「彼らは何かを待っていた」とアフガン情 報部の幹部は言った。 士気を挫かれた北部同盟を壊滅させようと準備をしていた外国の軍隊が中央 アジアに侵攻してきたようだ。そのあとにつづく混乱の中で、オサマ・ビンラディンとタリバンに対する報復は困難だろう。しかし、公式発表は当初、マスードだけが負傷したが、北部同盟は領土 を死守しているというものだった。そしてもちろん、ムラー・オマルの電話の会話からわかるよう に、アメリカに対する攻撃があれほど劇的になるとは予期していなかった。「彼らは報復を予測し ていた」と情報部の幹部は言った。「しかし、クリントンのような反応だと思った。ここで起きた ような報復は予想しなかった」

「テロリスト」とはアフガン人が一般にアルカイダを指して使う言葉で、彼らがマスードを殺した い理由は戦術的と同じく戦略的なものだった。 彼らの最も勇敢な敵は国外で支持を集めはじめてい た。二〇〇一年四月、マスードはストラスブールで開かれた欧州議会に招待されて演説することに なった。彼はパリで記者会見して、パリやブリュッセルでヨーロッパの高官に会った。「彼は指導 的な政治家のようにふるまい、すぐれた政治家として受け入れられた」とワリは言う。「メディア は彼に興味を示した。ただしアメリカのメディアを除いて。私はこれが重要な転機だったと思う。 彼はアルカイダがアフガニスタンだけでなく世界にとって危険だと国際社会に警告した。」七月、 ロンドンでワリは亡命中のアフガン知識人会議を開催した。彼らはマスードを支持し、民主主義、 人権、女性の権利を支援するさまざまな動きを是認する決議をした。「このことが彼の敵を刺激し た」とワリは言った。「一方には『われ がイスラム教徒を代表する』と言うオサマ いて、他 方にはマスードが穏健なイスラム教徒を代表している。 あのヨーロッパ訪問で自分の考えを明確に したため彼は命を失った」

ワリをはじめ私が話したアフガン人は、パキスタンもまたマスード殺害に関与していると主張した。マスードは、多くのアフガンのイスラム教 キスタンに亡命した七〇年代から八〇年代に も、パキスタン人と強い絆を結ばなかった。(彼はアフガニスタンの戦場にいたので、戦士として はいくぶん伝説的だった。) パキスタンの治安機関ISIは早くからタリバンを支持していたので、 タリバンの残党やアルカイダはまだパキスタンから援助を得ていると疑う人が多い。マスードと親 しかった情報部員は、九月九日の夜、パキスタンの大統領ペルヴェズ・ムシャラフが暗殺を祝うパ ―ティを開いた、と語った。彼はこの情報の出所が、ハミド・カルザイ率いるアフガニスタン暫定 政府の現国防相、ファヒム将軍だと言った。私がファヒムに、そのようなパーティがあったのかと 尋ねたところ、彼ははぐらかそうとした。 「たぶん」と彼は言った。しかし、彼はムシャラフがそ の夜、ISI本部にいて、アフガニスタン北部から戻ったばかりの元ISI長官、ハミド・グルと 会っていたことを確認した。私はファヒムに、カブールで最近ムシャラフに会ったとき、何を感じ たかと尋ねた。彼は手を振った。「ときにはより大きな利益のために」とファヒムは言った。「毒を 一杯飲まねばならない」

マスードの暗殺者たちはチュニジア人で、彼らが言っていたモロッコ人ではなかった。彼らはベ ルギーにいて、ベルギーのパスポートとイスラム監視センター指導者、ヤシル・アル=シリの署名 入り紹介状を持参していた。パスポートのスタンプは、アラブ人たちが七月二十五日にパキスタン のイスラマバードに到着し、そこでタリバンの大使館でヴィザを取得し、そこからカブールへ向か ったことを示していた。しかし、パスポートとヴィザは偽造だった。暗殺者は二人共ジャララバードに近いアルカイダ訓練キャンプで数ヶ月暮らした。

ジハード

暗殺者たちは北部同盟の指導者、アブドゥル・ラスル・サヤフの支援でパンジシール渓谷に入っ た。八月中旬にソビエト軍との聖戦で共に闘ったあるエジプト人から連絡を受けた、と彼は言う。 その男はボスニアから電話していると言った。(アフガンの情報部員は、じつはその電話はカンダ ハルからだと語ったけれども。) その男はサヤフに、彼やマスードやラバニ大統領にインタビュー を希望している二人のアラブ人ジャーナリストへの援助を依頼した。 エンジニア・ムハンマド・ア レフ 「エンジニア」とは、工学技術を研究した教養ある人を示す、アフガンのごく普通の敬称で ある)は、現在アフガン情報機関の責任者で、かつてはマスードの警備責任者だった。暗殺が行わ れたのは彼のオフィスである。アレフによれば、サヤフの許可があったので、アラブ人たちは通常 の警備手続きを免れた。「彼らはジャーナリストとしてではなく客としてやってきた」とアレフは 言う。「サヤフとビスミラ・ハーン」―――シャマリ前線の司令官――「が部下たちと、彼らを乗せ る車を送った。みんなに助けられて、彼らは多くの人に会った」

カルザイ暫定政府の副大臣、マウラナ・アター・ラハマン・サリムは人びとから尊敬を集めるム スリム学者であり聖職者である。彼は昨秋、ホジャ・バウディンにオフィスを持ち、暗殺の一週間 前にマスードと共にパンジシール渓谷へ行った。ラハマンは、マスードが殺されると直ちに報復の 声が聞かれたと言う。「誰もが言い出した。『なぜテロリストをもっと徹底的に捜さないのか? ぜもっとよく任務を果たさないのか?』非難は誰よりもサヤフに集まり、イランの新聞はそのいく つかの疑惑を活字にした」

サヤフはイスラム原理主義者で、八〇年代のアフガンの聖戦のあいだに養成された世界のテロリ ストたちと親密に結びついている。 彼とラバニはカイロのアル=アズハル大学で学び、そこでムス リム同胞団の影響を受け、共に七〇年代初頭にカブール大学でイスラム学科を教えた。彼らはソビ エトに抵抗する主力になったイスラム教運動の創始者の中にいた。サヤフはパシュトゥン人でアラ ビア語を流暢に話し、サウジアラビア人と親し らった。 サウジ王室のように彼は厳格なワッハー ブ派のメンバーで、七〇年代終わりに共産主義者がアフガニスタンを支配するようになると、サウ ジアラビアの国民がさまざまなアフガン抵抗運動に資金を提供しはじめたとき、サヤフはその豊富 な資金の巨額の分け前に預かった。一九八一年、 ・ティハーディ=イスラミ、イスラム連合とい

う政党を結成し、四年後、ペシャワル近郊のアフガン難民キャンプに大学を設立した。 マスードや ラバニと政治的に同盟を結んだが、タリバンとなったイスラム教徒とはさまざまの点でイデオロギ に共通するものがより多かった。

サヤフの大学はダワア・アル=ジハードと呼ばれ、「改宗者と闘争」を意味し、抜群の「テロリ ズム養成学校」として知られるようになった。一九九三年のワールド・トレード・センター爆撃を 指揮してコロラド州連邦刑務所で終身刑に服しているラムジ・アハマド・ユーセフは、ダワア・ア ル=ジハードに通い、サヤフのムジャヒディンと共に闘った。同じ刑務所にいる盲目のエジプト人 聖職者、シャイフ・オマル・アブデル=ラハマンは、ニューヨーク市の数々の歴史的建造物を爆破 する煽動謀議の罪で終身刑に服しているが(ワールド トレード センターの最初の爆撃にも関与 したと疑われるが無関係)、八〇年代半ば、ペシャワル周辺のいくつかのキャンプで講義した。 オサマ・ビンラディンは財政的にサヤフを援助し、アフガニスタンのサヤフの拠点を使用したアラブ 戦士団を指揮した。 ISIは軍事と情報の専門技術を提供した。 ソビエト軍が一九八九年にアフガ ニスタンから撤退し、多くの外国人聖戦士が去ると、イッティハーディのメンバーのグループー 生粋のフィリピン人やアラブ人もいる は、フィリピン共和国にテロ組織アブ・サヤフをつくった。 二〇〇一年十月、イスラム監視センターのヤシル・アル=シリが、二人のアラブ人暗殺者に紹介 状を用意した容疑で、ロンドンで逮捕された。二〇〇二年四月、ニューヨークで、スタテン島在住 のアメリカ郵政公社職員、アハマド・アブデル・サッ ルが逮捕され、シャイフ・オマル・アブデ ル=ラハマンの「代理」であるとして告発された。サ ルは九〇年代半ば、ニュ ・ヨークで謀議 審理のあいだ、弁護士補助員としてシャイフのもとで働いた。起訴状によると、サッタルはシャイ フのために「通信機器」の役目をしていた。つまり、刑務所から命令を伝えていた。サッタルの電 話は長期間傍受されていて、綿密に調べた通話の中には、彼とロンドンのヤシル・アル=シリとの やりとりが数回あった。五月、イギリスの判事はアル=シリに対する告訴を却下した。

アブドゥル・ラスル・サヤフは大柄の筋骨たくましい男で、色白の肌に灰色の顎ひげが濃い。身 長は約一九〇センチはあるにちがいないし、体重はおそらく一〇〇キロ以上あるだろう。たいてい 白い頭蓋帽か、大きなターバンに民族服のシャルワール・カミーズを着ている。 マスードは細身できれいにひげを剃っている。いつもスラックスにスポーツ・ジャケット姿。一方で分けた

黒い髪がしばしば少年のそれのように揺れる。四月二十八日、ムジャヒディンの市内入城とソビエトを後ろ盾にした 対する勝利の十周年を祝うパレードがカブールであったとき、ワリとサヤ フは、黄色い天蓋のついた細長くて低い薄黄色と緑の建物、エイド・モスクから通りを隔てた貴賓 席に一緒にすわっていた。

要人たちは完全に破壊されたダリ風のパノラマを見わたした。カブール南部は、崩壊しえぐられ た建物の荒涼とした広がりで、貴賓席にいる聖戦士の指導者の大多数が破壊に関わっいた。アハ マド・シャー・マスードが意気揚々とカブール入りした一九九二年四月と、マスード軍が北部へ退 却してタリバンが占領した一九九六年九月のあいだに起きた内戦で、何万人もが虐殺された。貴賓 席の人物たちはまた、 カブールの新政府に地位を得ようと画策中で、 それは六週間後に開かれる部 族会議、国民大会議で選ばれるはずであった。ロヤ・ジルガは国家元首としてハミド・カルザイを 選ぶだろうとみられていた。ワリが首相か副大統領になるということになれば、カルザイは満足か もしれない。この人事は三人のパンジシール出身者――ファヒム国防相、アブドゥラ・アブドゥラ 外相、ユニス・カヌーニ内相――の支持の継続を保証するからだ。この三人はパンジシール渓谷で 育ちマスードと親しかったし、タジク民族の旧北部同盟派を新しく構成する上で中心人物である。

カルザイはグレーの絹の襟なしシャツにグレーのチャパンという美しく編んだアフガンのローブ を着て、首脳陣の最前列中央にすわっていた。 ファヒム将軍はその右側で、勲章を飾り立てた軍服 にひさしのついた帽子を被ってきらびやかだった。ファヒム将軍は現在、正式にはファヒム陸軍元 で、前夜に突然の昇格を受諾した。 ファヒムに忠実な多数のムジャヒディン司令官も昇格した。 (二、三日後、私はカルザイ大統領のアフガン=アメリカ顧問の一人に、昇格はカルザイの意向だったのかと尋ねた。「彼らが無理やりそうさせたのだ」とその男は言った。「彼にはどうしようもな かった。」私たちは駐車場で話していた。顧問が私に説明したところによれば、彼をはじめカルザ イ政府のメンバー数人が住むインターコンチネ ノル・ホテルは盗聴されているからだ。「盗聴機 がカーテンの中にある」)

ワリ・マスードはカルザイとサヤフのあいだにすわり、ラバニ元大統領はサヤフの向こう側、聖 戦の生き残り数人のとなりだった。国家という舞台で行方不明となった中にマスードの大敵、 ブディン・ヘクマティアルがいた。彼は九〇年代初頭、情け容赦なく市を砲撃した。 ヘクマティア ルの消息は不明だが、パレードの二週間後、カブール近郊で、CIAがプレデター無人偵察機から 彼にミサイルを発射したという報告があった。 タリバンから国の北部を大部分解放したウズベク人 軍司令官ラシド・ドスタムは出席しなかった。ドスタムは聖戦のあいだ、ソビエト側として戦って いたから、出席するのは具合が悪かったのだ。一週間早くカブールに到着して以来、公式に姿を見 せていなかった元国王ザヒル・シャーは出席するとみられていたが、現れなかった。

愛国的な曲が拡声器から鳴り響くと、カルザイとファヒムは貴賓席を出て、幌のついた二台のロ シア軍ジーブに乗りこんだ。ジープはモスクの前の大広場に不動の姿勢で立つ兵士団の前を通り過 ぎた。 カルザイは兵士たちに手を振り、ファヒムは硬直したように敬礼し、大きすぎる元帥帽のつ ばに指先が触れそうだった。その間、進行係と詩人が交替でマイクをとった。 「アフガニスタンを 攻撃するものはすべてイギリスやロシアと同じく泣きをみるだろう」と司会者は言った。カルザイ とファヒムは貴賓席に戻り、ファヒムが、ムジャヒディンがソビエト軍やタリバンといかに戦って勝利したかについて演説した。 アメリカの空爆には触れなかった。山車が大通りをゆっくりと下っ てきて、それには、思いにふけって両腕を組んだ、白いサファリ服姿のマスードの巨大な写真が乗 せてあった。 カラシニコフを持ったムジャヒディンは不動の姿勢で立っていた。 マスードの顔が描 かれたTシャツを着る兵士もいた。 カルザイが、マスードは今後アフガニスタンの公式の「国家の 「英雄」であると発表した。

多数のロシア戦車と兵員輸送装甲車が額入りのマスードとカルザイの肖像を乗せてガラガラと通った。その後ろに青灰色の上着姿の負傷した聖戦の退役兵が松葉杖や車椅子でつづいた。退役兵 のあとから、マスードのパンジシールを先頭に、故郷の州ごとに組織されたムジャヒディンの隊列 が次々にやってきた。 落下傘兵がヘリコプターからモスクの前に降下しようと舞い降りてきたが、 目標を誤って遠くの廃墟に吹き流された。 十五分後、彼は小型オートバイの荷台に乗りパラシュー トを後ろにふくらませて現れた。落下傘で降下してきた二人目は女性で、広場を目指して、やはり 廃墟に消えたが、まもなく姿を現して拍手喝采に迎えられながら、マスードの肖像画で飾られた繊 を持ってきた。

パレードが終わって、私が貴賓席のすぐ前を通り過ぎると、 サヤフが身を乗り出してワリ・マス ―ドに何か言っている。ワリは椅子に緊張してすわっていた。彼はうなずいて、あいまいな微笑を 浮かべた。
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『ニュルンベルク裁判1945-46』

329.67ハイ『ニュルンベルク裁判1945-46』

ジョウ・J・ハイデッカー

被告人第一号、国家元帥ヘルマン・ゲーリング、死を遁れて連合国の捕虜となる

未曽有の大捜索が全開され、特にバイエルン・アルプスでは精力的に行わ連合国の捜査部隊の地図には重要地区として二ヵ所に、すなわち北はハンブルクとフレンスブルの間の地域、南はミュンヒェンからベルヒテスガーデンにかけしるしが付けられていた。首脳部の一部は陥落寸前のベルリンからデーニッツ提督のもとへとすでに脱出を敢行していた。ヒムラー、リッベントロップ、ローゼンベルク、ボルマンがこの中におり、それ以外の連中はバイエルンに潜んでいるものと見られていた。

このような状況の中で五月九日早朝、驚いたことにひとりのドイツ軍大佐がアメリカ第七軍第三六師団の最前線哨所に出頭してきた。アルプスのこの地区にはドイツ軍部隊が集結し、絶望的状況が判然としないうちは独力でまた作戦を展開しようとしていると見られていた。

ドイツ軍の大佐はベルント・フォン・ブラウヒッチュと名乗り、「ヘルマン・ゲーリング国家元帥の命を受け、軍使としてやって来た」と告げた。

最大級の獲物を捕獲するという栄誉が転がり込んできたアメリカ軍の最前線哨所は大騒ぎになった。ラウヒッチュ大佐はジープで師団司令部に連れていかれた。



ドイツの軍使が来たことはすぐに電話で司令部に知らされ、師団長のジョン・E・ダールキスト少将と副官のロバート・J・スタック准将が間髪入れず現われた。

ベルントフォン・ブラウヒッチュはアメリカの将軍たちに、ヘルマン・ゲーリングから降伏したいとの指示を受けてきた、そして元帥はツェル・アム・ゼーの近くのラートシュタットにいると語った。

実際のところ、ゲーリングは窮地に陥っていた。彼の頭上にはヒトラーのいわばダモクレスの剣が吊るされており、ナチズムの主体的崩壊にもかかわらず、射殺命令を執行しようとする狂信的なSS隊員がいないとは言い切れなかった。その数日前、ゲーリングはソ連軍包囲下の首相官邸に打電していた。

総統閣下、ベルリンの要塞で持ちこたえるとのご決断をうけ、一九四一年六月二十九日付の法律の規定に従い、今後は私が(ドイツ)国家の内政・外交の全権を行使することにご同意いただけますか?二十二時までに回答をいただけないときは、閣下は行動の自由を奪われておられますので、上記法の要件が満たされたものとみなさせていただきます。

返答は二十二時前に来たが、受取人は別の人物だった。それには次のように書かれていた。

ゲーリングは、ヒトラーの後継者たることを含めて全ての役職を解任され、反逆罪で即刻逮捕されるべし。

これには次の命令がついていた。

総統の死の際には一九四五年四月二十三日の裏切り者を処刑すべし。

最後の空軍総参謀長のカールコラー大将は、のちに次のように語っている。「SSはしかし、国家元帥に暴力を行使することをためらっていた」

「私はある部屋に連れていかれたが、そこにひとりの将校がいた」ゲーリングはニュルンベルクで尋問に答えた。「ドアの前にはSSが見張りに立っていた。そのあと、ベルヒテスガーデンが空襲を受けたあとの五月の四日か五日に、家族とともにオーストリアへ連れていかれた。マウテルンドルフという町だったが、たまたまそこを行軍していた空軍の部隊が私をSSから救出してくれた」

ゲーリングを保護下に置いたコラー大将はヒトラーから射殺命令が出されていることを知っていた。「私はかねてより政治的敵の殺害には反感を覚えており、この場合の殺害にも反対だった。結局、この命令は実行されなかった」と、コラーはニュルンベルク裁判の(ゲーリング弁護人のヴェルナー・ブロスに語っている。

ゲーリングが夫人と娘のほか、従者、女中、料理人と一緒に拘禁されたマウテルンドルフの狩猟用館で警備に当たっていたドイツ空軍軍曹のアントン・コーンレは、ゲーリングと顔を合わせたときの様子を次のように伝えている。

「私が声をかけると、彼[ゲーリング]は驚いた様子で立ち止まり、私をじろじろと眺め所属を尋ね、気さくに話しかけてきました。自分の話をきちんと聞いてくれていたら、事態は全く違っていたのだが、と語りました。彼は私に、ヒトラーが誇大妄想にかかていたことをにおわせ、戦争が終わった今、彼、すなわち国家元帥みずからドイツ政府を引き継ぐつもりだとも語りました」

コーンレはさらに続けた。「話し終えて二十歩ほど離れたとき、彼が突然地面に倒れ伏しました。彼の大きな体を抱き起こすのは大変でした。ゲーリングはモルヒネ中毒にかかっていたのです。体調がよくなかったのは、拘束されている間、SSがモルヒネを渡さなかっためだと思われます」

ゲーリングの身柄拘束とその後の救出について関係者は冷静に述べるが、少なくともこの時点では、事態がどのように展開していくか国家元帥にも皆目見当がつかなかった。彼を奪回するために、SSが反撃してくるかもしれなかった。このような状況では連合軍の保護に身を委ねるほうが良策のように見えたのである。

全てが今や終った!

ベルント・フォン・ブラウヒッチュ大佐が指定した待合せ場所にスタック准将みずからが運転してやって来た。狭い国道がカーブしていたところで、米軍のジープとゲーリングの防弾仕様のメルセデスが適当な距離を置いて停まった。スタック准将は道路に飛び降りた。ゲーリングが大儀そうに車から出てきた。

ゲーリングは挨拶のつもりで元帥杖を振り上げ、米軍人に挨拶。スタツク准将は帽子に手を当てて敬礼し、歩を進めた。全てきちんと軍人礼に適っていた。ふたりは道の真ん中で出会って正式に自己紹介し、手を差し出した。

もっともスタック准将にとって、この握手は苦いものとなる。この報道はいたるところで憤激の嵐を呼び起したからだ。

「戦争犯罪人と握手!」「人殺しと握手!」

こんな調子でアメリカ、なかんずくイギリスは、新聞が大見出しで取り上げた。騒音があまりにも大きかったので、アイゼンハワー将軍は公式に遺憾の意を表せざるを得なかった。英政府も、復興相のウールトン卿が上院で「戦争は握手で終わるゲームではない」と述べることで正式に遺憾の意を表明した。

スタック准将としては、こんなことで自分が苦況に追いこまれるとは考えてもいなかった。自分は礼を尽くしただけだと思っていた。ゲーリングは師団司令部に連行され、ダールキスト少将がこの大事な捕虜を出迎えた。第七軍司令部に報告すると、この高価な獲物を引き取るために防諜部長のウィリアム・W・クイン准将がすぐ師団に向かうと連絡してきた。



この間、第三六師団長はゲーリングと短く会話を交わした。歴戦のジョン・E・ダールキストは開放的な性格で政治に全く無知無関心だったが、その彼にも、ゲーリングが最初に言ったことはまさに驚天動地だった。

国家元帥は語った。「ヒトラーは了見が狭く、ルードルフ・ヘスはエキセンリでリッペントロップは悪党だった。なぜリッペンドロップが外務大臣になれたのか?かつて私のところにチャ―チルが語った言葉が秘かに伝えられた。次のような内容だったと思う.『なぜやつらはゲーリングのような有能な若造でなく、いつもリッベントロップを送ってくるのだろう?』そういう次第できょうは、ここにこうして自分がやって来ているのだ。いつ私をアイゼンハワーの本営へ連れていってくれるのか?」

ダールキストは、ゲーリングがドイツの代表としてまだ連合国と交渉できると信じこんでいるのを知った。こうした判断がいかに見当外れかということを、この捕虜は全く考えていなかった。一時はヒトラーに次ぐ権力者だったこの人物でも、本当の状況が分かっていなかったのではなかろうか?

ゲーリングは自分の強力な空軍について長々と話したが、同じ頃、自分の後任のローベルト・リッター・フォン・グライム元帥がキッツビューエルで捕らわれ、次のように述べていたのを知らなかった。「自分はドイツ空軍の司令官である。しかし、自分には空軍機がない」

「いつアイゼンハワーから迎えがくるのか?」ゲーリングは再び訊いた。

「そのうち来るでしょう」ダールキストはあいまいに答えた。

会談のあと、ゲーリングは運ばれてきた鶏肉、マッシュポテト豆が盛られた皿に目を見張った。ダールキスト少将を驚かせた食欲で国家元帥はこれを平らげ、デザートに出されたフルーツサラダをおいしそうに食べ、さらにアメリカン・コーヒを褒めちぎった。

「これはアメリカの兵士が普通に取っている食事である」この提供料理も世界中に憤激を招いたため、アイゼンハワー司令部は以上のような追加声明を出さなければならなかった。

師団司令部に着いた第七軍の諜報担当のクイン准将は、ゲーリングを直ちにキツビュ―エルの民家に連行するよう命じた。サレルノとモンテ・カッシーノで戦ってきたテキサス出身の七名の歴戦の兵士が、国家元帥を新たな宿舎に護送した。道中ゲーリングは護送兵に笑いながら話しかけた。

「私を抜かりなく見張りたまえ!」

彼はこれを英語で話したが、臨戦態勢にある兵士に冗談は通じなかった。

兵士に同行していたアメリカの一記者は、「彼らがいったい何と答えたかはちょっと明らかにできない」と打ち明けている。もちろん記者たちはその場に居合わせた。ゲーリング逮捕のニュースは戦場特派員たちに知れ渡り記者たちは急遽駆けつけていた。報道陣に好意的だったクイン准将が国家元帥の記者会見を保証していたからでもあった。

この間にもヘルマンゲーリングは自分のために用意された部屋を見て満足していた。家族も到着し、トラック十七台に積まれた荷物も届いた。まるでホテルに滞在しているようだった。国家元帥は大きなお風呂に入り、時間をかけてお気に入りの、重々しい金のモールがついた薄い灰色の軍服を身につけた。

その同じ時間に何万、何十万のドイツの兵士が、食事や水さえ与えられず、衛生設備もなく、雨とぬかるみの中、野ざらし状態で詰め込まれていた収容所とは、まるで全てが違っていた。

かくも悲惨なドイツ兵士の状態は、ゲーリングには全く想像もつかなかった。さっぱりとひげをって上機嫌で、気持ちのよい午後の陽光の中、二十数人の記者たちの前に軽快な足取りで現われた。

記者たちは半円を描くように、彼を取り囲んだ。壁際に小さな円卓と華麗な肘掛け椅子が置かれ、そこにこの有名な捕虜が座った。マイクロホンも用意され、カメラのシッターが切られた。「こんにちは、元帥。笑ってください!」

「こちらに顔を向けてください!」

「ありがとうございます!」

「もう一枚、帽子をかぶった写真をお願いします!」

ゲーリングは金色のひさしのついた帽子をかぶったが、いらいらして

「急いでくれ」彼はカメラマンに言った。「腹が減っているんだ」

そのあと質問が浴びせかけられた。最初は型どおりのものだった。ヒトラーはどこにいるのか?彼の死を信じているか?なぜイギリス上陸が試みられなかったのか?戦争が始まったとき、空軍はどれほど強かったのか?

「世界最強の空軍だった」ゲーリングは誇らしげに答えた。

「飛行機はおおよそ何機あったのですか?」記者はより正確に知りたがった。

「六年前のことであり、このような質問は想定していなかったので、当時どれだけの飛行機を保有していたかについては、今ここでは話せない」

「あなたはコベントリーの爆撃を命じましたか?」

「命じた。コベントリーは工業の中心地であり、大きな飛行機の製造工場があるという報告を受けていた」「カンタベリーは?」

「カンタベリーの爆撃は、ドイツの大学町への空襲に対する報復として、上の方から命令が来た」「ドイツの大学町とはどこですか?」

「覚えていない」

「戦争に負けそうだと思うようになったのは、いつごろですか?」

「(連合軍による)ルマンディー上陸作戦と東部での連軍による戦線突破の直後だ」

「この結末をもたらした最大の要因は何だったと思いますか?」

「間断ない空襲だ」

「勝利の見込みがなくなったということを、ヒトラーは知らされていましてか?」

「知らされていた。多くの軍人がヒトラーに、この戦争は負けるかもしれないと分析説明した。ヒトラーはこうした見方に拒否反応を示し、以後このことについて話すことは禁じられた」

「誰が禁じたのですか?」

「ヒトラー自身だ。彼は敗戦の可能性そのものをそもそも考えないようにしていた」

「これはいつごろ禁止されたのですか?」

「最初にこのことが人々の口に上り始めた、一九四四年半ばごろだ」

「ヒトラーがデーニッツ提督を後継者に指名したということを信じますか?」

「信じない!デーニッツあての電報にはボルマンの署名しかない」

「なぜボルマンのような取り柄のない人物が、ヒトラーにかくも大きな影響を及ぼすことができたのですか?」

「ボルマンは昼夜ずっとヒトラーのそばにいて、彼を次第に自分の意思に従わせ、ついには彼の生活全体を支配するようになった」

「誰が対ソ攻撃を命じたのですか?」

「ヒトラー自身だ」

「強制収容所については、誰に責任があるのですか?」

「ヒトラー自身だ。これらの収容所に何らかの形で関係していた連中は、全員ヒトラーに直属していた。国家機関は一切これに関係していない」

「あなたはドイツについて、どのような未来を期待していますか?」

「もしドイツ国民に生存の可能性がないなら、ドイツだけでなく全世界にとっても暗黒の未来しかないだろう。全ての人は平和を望んでいるが、今後何が起こるかを予想するのは難しい」

「国家元帥の心境としてさらにまだここで表明したいことがおありですか?」

「ドイツ国民の助けになるような状況理解を喚起したいと思っている。勝利の展望がまるでなくなったことが明らかになったときでも、武器を手放さなかったこの国民には大いに感謝している」

会見の模様をできるだけ速く自分の新聞社に打電するために、記者たちは急いだ。しかし、この日はついていなかった。アイゼンハワー将軍の命令で、連合国司令部の検閲官は電報の発信を許可しなかったからである。そのまま九年が経過し、一九五四年五月になってようやイン准将は秘密にされていた記者会見の速記録をアメリカのニュース雑誌に公表した。

もっとも、記者会見の前にゲーリングに対して出された一つの質問だけは、検閲を潜り抜けてアメリカの新聞に掲載された。

「あなたが戦犯リストに載せられていることは御存知ですか?」

「いいや、知らない」ゲーリングは答えた。「それは意外だ。何故なのか、見当もつかない」

夜になった。国家元帥は床についた。スプリングの効いたやわらかなベッドで眠ることができたのは、これが最後だった。部屋の前にはニューヨーク出身のジェローム・シャピロ少尉が見張りに立っていた。

SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの最期

一九四五年二月の下旬、スウェーデンの赤十字の代表が、航空機からもはっきり判別しうるように赤十字のマークが描かれた白い自動車で、廃墟となったドイツを走っていた。この人物こそ、国際連合の調停委員として、三年後にイェルサレムで暗殺されることになるフォルケ・ベルナドッテ伯爵その人だった。

彼は、恐怖の組織SSの恐るべき首領、不気味な秘密国家警察(ゲスターポ)の頭脳、絶滅収容所、ガス室、死の工場の支配者ヒ・ヒムラーと会おうとしていた。彼はドイツ警察および国内予備軍の司令官でもあったヒムラーを説得して、強制収容所に収容されているデンマーク人とノルウェー人を解放し、赤十字組織によってスウェーデンまで連れ帰ろうとしていた。

二月十九日、伯爵はベルリン郊外ホーエンリューヒーの野戦病院でヒムラーと会見。このSS全国指導者ンの崩壊が迫る中、多重の任務を果たせなくたため、仮病を使って入院し、厄介な問題の処理を他の連中に任せていた。

会談は悪名高い病院長カール・ゲープハルトの部屋で行われた。フォルケ・ベルナドッテは回想録で次のように述べている。

角縁眼鏡をかけ、階級章のない緑色の武装SSの制服を着たヒムラーが突如、目の前に現れたが、最初は木端役人のように見えた。街中で出会ったとしてヒムラーであるとはわからないぐらいだった。彼の手は小さく繊細でぴりぴりし、マニュキュアさえ施されていた。悪魔的なところは全く見られず、彼の表情にも冷酷非情さは感じられなかった。

しかしこの人物は、ほんの少し合図だけで何十万もの命を奪い、何百万人も根絶できると、長いあいだ全ヨーロッパで恐れられていた人物でもあった。

偏狭な狂信者、優柔不断とサディスティックな支配欲に凝り固まっていた男――中流家庭出身のこの人物の父親はバイエルン王国の王子ハインリヒの家庭教師を務め、ヒムラーの名前も王子が名付親になったことに由来していた。

ヒムラーは、はじめシュライスハイムで養鶏業と化学肥料の販売につとめていたが、モンゴルの専制支配者チンギス・ハーンに熱をあげ一九二〇年代の反革命義勇軍に入り、造反者グレーゴル・シュトラッサーの秘書になった。その後ヒトラーに次ぐ強大な権力者となっても薬草の栽培を奨励する一方で、身の毛もよだつような人体実験も行った。次第に全ての権力を自分の手に集め、無制約に命令を出せるようになり、ついにはヒトラーの後継者になることが唯一の目標となっていた。

ベルナドッテの人道的要請にはどう応えようとしていたのだろう?ヒムラーは、強制収容所のスカンディナビア人収容者を解放してスェーデンに運ばせるという要請を最初は拒否した。

「もし私があなたの要請に応じたら、戦争犯罪人ヒムラーは自分の行為の報いを恐れており、そのため土壇場で身代金のかわりに捕虜を自由の身にすることで、世界に対して嫌疑を晴らそうとしたとスウェーデンの新聞は大見出しで報ずるだろう」と述べた。

彼は全体状況と自らがおかれた立場を正確に認識していた。

当時、ヒムラーの心中に何が起こっていたのだろうか?彼は警察、SS、ゲスターポ、国内補充軍等―権力を振るう主要機構を手中にしていた。そのため、さしたる抵抗も恐れることなく、クーデターを起こすことも可能だった。彼がしばしばこの考えにとり憑かれていたことは、今日では明らかになっている。しかし、彼の生涯において始終見られたように、躊躇し、優柔不断だった。ヒトラ―への忠誠を保ちたいと思う一方で、あわよくばそのくびきから逃れたいと考えていた。

「私はドイツ国民のためには何でも行う覚悟でいる」と、彼は四月はじめのベルナドッテ伯爵との二回目の会談で語った。「しかし、自分は戦い続けなければならない。私は総統に忠誠を誓い、この誓いに縛られている」

「一体全体あなたは、ドイツが戦争に事実上敗れたことがお分かりにならないのですか?」とスウェーデン人の伯爵は単刀直入に尋ねた。「あなたのような立場にある人は、盲目的に上の者の言うなりになりません。自国民の利益のためあらゆる措置を講ずる勇気を持たなければなりません」

 重信メイがいたからしーちゃんのANNでなく、パレスチナの報道を見ていた #重信メイ #久保史緒里
 入植者という言葉からは満州への百万戸政策を思い出す。
 重信メイ『「アラブの春」の正体』―欧米とメディアに踊らされた民主化革命
アラブの盟主、エジプトで起こった「革命」の苦い現実
先週 豊田市図書館から借りて vFlat化しました
「アラブの春」の半年前にナイル川 ほとりで ツアー通訳のアムロさんからムバラク失脚させる決意を聞いていた

 アムロさんはイスラエル国旗の二本線はナイルとユーフラテスの領域を表していると言っていた

 奥さんへの買い物依頼
卵パック       148
糸コン          88
牛肉            580
食パン8枚   108
午後の紅茶   78
サッポロポテト           98
いか塩辛      298
シメサバ       358
テリヤキチキン           177
白菜            99
味噌煮込み   159
カレー煮込み 159
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162『宗教が変えた世界史』

162『宗教が変えた世界史』

宗教の歴史から今を知る

中東の宗教史年表

610頃神の啓示を受けたムハンマドがイスラーム教を創始

622ムハンマドがメッカからメディナに移住(聖遷)

632正統カリフ時代が始まるイスラーム教徒が各地で聖戦を行う

650頃『コーラン』が成立する

661イスラーム教がシーア派とスンナ派に分離

661ムアーウィヤがウマイヤ朝を成立

750アッバース朝が成立

751タラス河畔の戦いでアッバース朝が唐に勝利製紙法が伝来

786~ハールーン=アッラシードの治世にアッバース朝が最盛期を迎える

909シーア派の王朝ファーティマ朝が成立

932シーア派の王朝ブワイフ朝が成立

1038トルコ系の王朝セルジューク朝が成立

1056べルベル人の王朝ムラービト朝が成立

1099第1回十字軍が聖地イェルサレムを占領し、イェルサレム王国を建設

1187サラディン(サラーフ=アッディーン)が十字軍に勝利イェルサレムを奪還

1299オスマン帝国が成立する

1453オスマン帝国がビザンツ帝国を滅亡させる

1498ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰を経由してインドのカリカットへ到達

1501シーア派の王朝サファヴィー朝が成立

1526インドにムガル帝国が成立する

1538オスマン帝国がスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍を撃破地中海制海権を握る

ムハンマドがイスラーム教を創始

ムハンマドは唯一神アッラーの啓示を聞き、イスラーム教を創始。ムハンマドの生誕地メッカはイスラーム教最大の聖地とされ、ムスリムたちはカーバ神殿に向かって毎日礼拝をする

ムスリムがスンナ派とシーア派に分裂

ムハンマドの後継体制の正統カリフ時代が終わると、イスラーム教はアリーの子孫のみ指導者として認めるシーア派と、多数派のスンナ派に分裂した。ウマイヤ朝はスンナ派となる



イスラーム帝国の勢力拡大

アッバース朝はタラス河畔の戦いで唐に勝利すると、中央アジアの覇権を握り、ユーラシア大陸の交易路を獲得。首都バグダードは大いに繁栄した

イスラーム帝国のアフリカ進出

7世紀前半からアフリカにも勢力を広げたイスラーム教。11世紀に成立したベルベル人によるイスラーム王朝ムラービト朝はモロッコのマラケシュを首都とした

オスマン帝国によりビザンツ帝国が滅亡

オスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落。ビザンツ建築の傑作アヤ=ソフィア聖堂は、イスラーム教のモスクとなった(のち一時博物館化、現在またモスクに)

「聖戦(ジハード)」で拡大したイスラーム教の版図

ムハンマドがイスラーム教を創始

イスラーム教はアラビア半島の都市メッカの商人だったムハンマドが創始しました。彼が唯一神アッラーの啓示を聞き、人々に伝える預言者として活動を始めたのは40歳過ぎの頃。同地には多神教が根付いており、イスラーム教は迫害されたため、ムハンマドは教徒を連れてメディナに逃れます。この出来事は聖遷(ヒジュラ)と呼ばれ、ムハンマドはそこで「ウンマ」とよばれるイスラーム教徒の共同体を築きました。メディナでユダヤ教徒ら他勢力との抗争も制し、イスラーム教徒たちはメッカの征服を果たします。このムハンマドとメッカの異教徒の戦いを「聖戦(ジハード=アラビア語で「努力する」)」と呼びます。

聖戦でイスラーム教の版図が拡大

ムハンマドの死後、イスラーム教徒は各地で聖戦という名の侵略戦争を繰り広げます。東方ではササン朝ペルシアを滅亡に追い込み、西方ではビザンツ帝国(東ローマ帝国)領のシリアやエジプトを奪って危機に追いやりました。そして、5代目カリフ(イスラーム教の指導者)ムアーウィヤがウマイヤ朝を打ち立てます。ウマイヤ朝は、西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島を征服。東はインダス川流域まで支配を広げ、8世紀中頃まで続きました。

征服された地では、「啓典の民(イスラーム教で、ユダヤ教徒やキリスト教徒のことを指す)」は地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)を納めれば、生命・財産・信仰が保護されました。イスラーム教が版図を広げた一因には、その寛容さがありました。ジハードは自分の内面での「奮闘努力」、つまり信仰心を高めることを意味します。しかしムハンマドがメッカを制圧したようにジハードは神の大義の下で「侵略戦争」となって発展し、世界各地へ影響を及ぼしました。

ムハンマドの後継者争いが今も続くイスラーム教の分裂に発展

イスラーム教がシーア派とスンナ派に分裂

ムハンマド亡き後、「カリフ」と呼ばれるイスラーム共同社会の指導者(正統カリフ)が選挙で決められました。ところが、4代カリフ・アリーが暗殺されるとウマイヤ家のムアーウィヤがカリフの世襲制をとったのです。

これに対し、「アリーとその子孫」にカリフの資格を認める少数派グループが誕生。この一群が現在のイラン、イラクに広がったシーア派です。

一方、ムアーウィヤが開いたウマイヤ朝をはじめ、多数派はスンナ派とよばれるようになります。スンナ派は啓典「コーラン」とともに開祖ムハンマドの言動集「ハディース」を重視します。

イランとサウジアラビアの対立が激化

スンナ派とシーア派の対立は現在も続いています。その最たる例がイランとサウジアラビアの対立です。イランとサウジアラビアはペルシア湾を挟んだ大国ですが、イランはシーア派、サウジアラビアはスンナ派国家です。この2国は政治、経済面でもライバル関係にありますが、2016年、サウジアラビアがシーア派指導者を処刑したため両国は国交を断絶。関係改善はいまだ道半ばです。

スンナ派とシーア派の緊張関係が続く国としてレバノンも挙げられます。多数の宗派を内包する同国では首相はスンナ派、議長はシーア派、大統領はキリスト教マロン派から選ぶことで各派に配慮してきました。しかし、国内のシーア派は親シリア・イランに傾き、スンナ派は親サウジアラビア寄り。各派の対立は治安悪化を招いています。サウジアラビアの隣国イエメンでは15年にスンナ派政府とシーア派系のホーシー派の紛争が激化。このように、宗派問題は中東情勢を理解する上でも重要なのです。

「イスラーム教徒は平等」がアッバース朝の繁栄を導いた

アッバース朝がイスラーム教徒を優遇

ムアーウィヤが起こしたウマイヤ朝はイベリア半島からインダス川までを領域として繁栄しましたが、8世紀半ばにアッバース朝に敗れました。

滅亡の要因はアラブ人優遇策への不満でした。ウマイヤ朝の支配者層であるアラブ人は免税ですが、イスラーム教に改宗しても、非アラブ人は、地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)の両方を負担させられたのです。これは神の前での平等という『コーラン』の教えに反します。不満を持った非アラブ人によりウマイヤ朝は倒れました。そして後を継いだアッバース朝ではアラブ人の特権はなくなり、イスラーム教徒であれば、人種や民族に関係なく、人頭税は免除とされました。

アッバース朝が繁栄する

ウマイヤ朝はアラブ帝国、アッバース朝はイスラーム帝国と呼ぶことがあります。イスラーム教徒全てを平等に扱ったアッバース朝はイスラーム教による多民族統治を実現した王朝となったのです。

アッバース朝のイスラーム教徒優遇により各地で改宗者が増加し、帝国は巨大化していきました。首都バグダードは最盛期に150万人もの人口を誇ったといわれます。

8世紀後半に登場したカリフであるハールーン=アッラシードは、巨大化した帝国が瓦解していくのを防ぐため、地方の有力者が各地を治めることを認めました。

その結果、中央アジアのサーマーン朝やエジプトのトゥールーン朝(わずか3年で滅亡)など、帝国内に事実上の独立王朝が築かれます。これらの地方王朝はアッバース朝の権威を尊重していましたが、帝国の統治は緩やかなものへと変化していきました。それはアッバース朝弱体化への始まりでもありました。

唐とイスラーム帝国の戦いから製紙技術が世界に広まった

アッバース朝がイスラーム帝国を拡大

アッバース朝が成立した翌751年、シルクロードの要衝とされた中央アジアで、唐とアッバース朝が衝突しました。これをタラス河畔の戦いといいます。唐軍の犠牲者は5万人以上ともいわれる激戦の末にアッバース朝に軍配が上がります。

こうしてアッバース朝は中央アジアの覇者となり、イスラーム勢力がユーラシア大陸の交易路を手中に収めたのです。アッバース朝の都市バグダードと各地を結ぶ交易ルートは、イスラーム教徒の商人によって発展し、インドやイランなど諸地域の文化がアッバース朝に流入しました。そして交易路は同時にメッカ巡礼の道ともなりました。

製紙技術が世界に広まる

タラス河畔の戦いでアッバース朝は唐の軍兵を多数捕虜にしたといいます。その中には製紙技術者が含まれており、彼らによってイスラーム世界に紙がもたらされました。最初はサマルカンドに製紙工場が建てられました。

中国でつくられていた紙は、西方世界で使われていたパピルスや羊皮紙と違い、軽量かつ安価で、書きやすさの面でも優れていました。紙はやがてバグダードなどイスラーム世界の各都市に普及し、12世紀にはアフリカ大陸のモロッコにも伝わりました。

紙はイスラーム世界から、さらにヨーロッパへもたらされました。12世紀半ばにモロッコからイベリア半島へ伝播したのがヨーロッパへの伝播ルートの一つ。

もう一つはシチリア島を経て、イタリアへ伝わったルートです。15世紀にドイツやイギリスで活版印刷が発明されて紙が生産されるようになるまでは、イタリアがヨーロッパの紙生産を担い、ヨーロッパ文化の成熟を支えていました。

イスラーム帝国はアフリカに進出し、ギリシアの文化を吸収した

イスラーム教勢力がアフリカに進出

勢力を増したイスラーム教勢力は、正統カリフ時代に本格化する聖戦でアフリカにもその支配を広げていきます。10世紀になると、シーア派のイスマーイール派が北アフリカ西部に住んでいたベルベル人を率い、チュニジアでファーティマ朝を開きました。その後、11世紀にモロッコのマラケシュを首都としてベルベル人による王朝ムラービト朝が成立。12世紀にムワッヒド朝(ムラービト朝に代わって成立した王朝)が衰え、キリスト教勢力が侵入するまでは、イベリア半島にまでイスラームの支配が及んでいました。

そして、13世紀になるとアフリカ内陸部にもマリ王国などのイスラーム教国が建国されていきます。

ギリシア・ローマの文化が中東に影響

イスラーム勢力が支配した地中海沿岸の征服地では、古代オリエントやギリシア・ローマの諸文明に起源を持つ学間が脈々と受け継がれていました。イランにあったササン朝ペルシアの学間の中心地ジュンディーシャーブールでは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)から追放された学者たちが様々な研究活動を続けていました。その後この地がアッバース朝の支配下に入ると、カリフ首都バグダードに「知恵の館」を設立し学問研究の伝統を継承していきます。

征服地の北アフリカには、カイロ以前のエジプトの中心都市アレクサンドリアがありました。同地はアレクサンドロス大王が建設したギリシア風の都市で、数学者アルキメデスら古代ギリシアの名だたる学者が活躍した街です。そうした風土にあって、イスラームの学者たちは古典の学問を吸収していきました。

十字軍運動の時代には、シチリア島やイベリア半島で、ギリシア語文献やアラビア語の科学書などがラテン語に翻訳され、ヨーロッパに紹介されます。

イスラーム商人の活躍でアラビア語が英語に影響を与えた

イスラーム商人が商業活動を行う

商業都市メッカから興ったイスラーム教は、キリス-教(カトリック)などと違い商業により利益を得ることを卑しいと捉える考えはありませんでした。そのため代々のカリフが帝国の版図を広げ、交易路の治安も安定させて商業的利益も高まっていきました。海のルートは地中海から紅海を通りインド洋へ、陸のルートは中央アジアを通り中国まで発達し、その中心の都市バグダードには莫大な富がもたらされました。

イスラーム商人の影響は富や交易品だけではありません。彼らはまた学問を求める研究者でもあったのです。彼らは中国やインドからも学問を帝国に持ち帰りました。

イスラーム商人の活躍でアラビア語が英語に影響を与えた

イスラーム商人が商業活動を行う

商業都市メッカから興ったイスラーム教は、キリス-教(カトリック)などと違い商業により利益を得ることを卑しいと捉える考えはありませんでした。そのため代々のカリフが帝国の版図を広げ、交易路の治安も安定させて商業的利益も高まっていきました。海のルートは地中海から紅海を通りインド洋へ、陸のルートは中央アジアを通り中国まで発達し、その中心の都市バグダードには莫大な富がもたらされました。

イスラーム商人の影響は富や交易品だけではありません。彼らはまた学問を求める研究者でもあったのです。彼らは中国やインドからも学問を帝国に持ち帰りました。

ポルトガルがオスマン帝国に対抗して、大航海時代が始まった

オスマン帝国が地中海を制覇

アナトリア(現在のトルコ)の北西部に興ったイスラーム系のオスマン朝は、セルビアやハンガリーなどの勢力と争いながら発展します。そして1453年、ついにビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させました。その地はイスタンブルと改名され、オスマン朝の首都となります。

このトルコ系イスラームの帝国は「オスマン帝国」と呼ばれ、宗教面での寛容さやイスラーム法による統治で繁栄。15世紀にはプレヴェザの海戦で、スペイン連合軍側を破ると、オスマン帝国は地中海の制海権を握り、ヨーロッパとアジア圏を結ぶ首都イスタンブルを要にして発展します。

ヨーロッパで大航海時代が始まる

オスマン帝国が地中海を支配したことで困ったのは、インド進出を目指していたヨーロッパ諸国です。そんな中で活発に航路を開拓したのがポルトガルでした。12世紀、スペインやポルトガルは「レコンキスタ(国土回復運動)」を起こし、イスラーム勢力をイベリア半島から追い出すことに成功。しかしイベリア半島の多くはスペイン領となりました。そこで、ポルトガルはインド洋への航路を開拓し、貿易の利益を得ようとしたのです。しかし、地中海から紅海を通るルートはオスマン帝国の領土内。そこで、ポルトガル船はアフリカ大陸の西側を回り、喜望峰を通ってインド洋へ抜ける航路を切り開きました。こうしてヨーロッパ諸国のアジア進出が可能になり、大航海時代を迎えました。17世紀になると、海洋交易路はイスラーム商人、ポルトガル・スペイン商人、東インド会社を設立したオランダ商人、イギリス商人などが行き交い、国際色豊かに。しかしこうした繁栄は、各国の植民地政策の対立にもつながっていくことになりました。

世界中に建てられた美しきイスラーム建築


イスラーム教圏ではドームやアーチ、幾何学的な文様を特徴とする美しいイスラーム建築がつくられた

偶像崇拝が禁じられたイスラーム教では、キリスト教や仏教のような神聖人をモチーフにした絵画・彫刻はつくられませんでした。一方で、イスラーム教圏では建築技術が発展し、宮殿やモスクなどの美しいイスラーム建築が、世界各地でつくられました。

イスラーム建築の特徴はドーム(半円型の屋根)とアーチです。両方ともビザンツ帝国の様式を真似したものですが、7世紀に岩のドームがつくられて以来、継承されています。

また偶像崇拝が禁じられているため、建物の装飾には幾何学的な文様があしらわれました。文様と同じくアラビア語の文字装飾も発展し、「コーラン」の言葉が壁に刻まれることもあります。

イマーム=モスク(イラン)

イランにシーア派の帝国を築いたサファヴィー朝のモスク。青色の壁には植物模様とアラビア文字が装飾されている

ウマイヤ=モスク(シリア)

ウマイヤ朝時代に建設された世界最古のモスク。ギリシア正教の教会を転用しており、壁にはモザイクがあしらわれている

メスキータ(スペイン)

スペインに建つ後ウマイヤ朝のモスク。元はキリスト教の聖堂だったが、モスクに改築された。幾重にも連なる円柱が特徴で、「円柱の森」とも呼ばれる

スルタン=ハサン=モスク(エジプト)

14世紀に竣工したモスクで、教育施設も付随。中には教室や宿舎、沐浴用の泉を完備している。ドーム部分は墓廟になっている

シェイク=ザイード=グランド=モスク(アラブ首長国連邦)

2007年に竣工した巨大モスク。様々な建築様式を取り入れており、ペルシア絨毯にドイツ製シャンデリアと内装も豪華

スルタンアフメト=モスク(トルコ)

オスマン帝国時代に建てられた、通称「ブルー「モスク」。細長い塔はミナレット(尖塔の意)。この上から礼拝の始まりを告知する

世界遺産ガイド

~中東編~

中東では土着の神々を祀る神殿や、イスラーム教のモスクなど、様々な宗教施設が世界遺産に指定されています。

Aヨルダンペトラ遺跡

アラブの一族ナバテア人が、断崖に築いた大都市遺跡。写真はエジプトのファラオの宝物庫ともされるエル=カズネ。

登録年:1985年

Bイスラエルイェルサレム

登録年:1981年

ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教、それぞれの聖地。写真はユダヤ教の聖地・嘆きの壁です。

Cアフガニスタンバーミヤン石窟登録年:2003年

5世紀造営の巨大な石仏が、2001年にイスラーム教過激派のターリバーンに破壊されました。

Dサウジアラビアメッカ

イスラーム教を創始したムハンマドの生誕地で、イスラーム教最大の聖地。世界中のムスリムが、メッカの方角に向かって礼拝します。

登録年:2014年

Eウズベキスタンサマルカンド

トルコ=モンゴル系のイスラーム教国家であるティムール帝国の首都。青の都と呼ばれています。

登録年:2001年

トルコアヤ=ソフィア

登録年:1985年

元は東ローマ帝国時代のキリスト教の大聖堂。オスマン帝国が支配するとモスクに改築されました。
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