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夢でジグソーパズルの表現

 ヤバいな、また、咳が戻ってきている。
 ハッシュタグをつけて、ツイッターに保存しようか。♯未唯宇宙
 なぜ、全体主義から歴史に入ったのか。使命を感じる。
 やはり、コーヒーが一番
 冷えたコーヒーにアイスブロック。ちょっとすると、冷めてしまう。最初からアイスにしておけばいいかも知れないが、最初の一口は熱いぐらいがちょうどいい
 シャープの書き心地が今一。鉛筆を試そうか。
 家族社会学。家族という単位が消失しようとしている。それをむししている。
 未唯空間の左側は文章です。接続詞はないけど。
 この時間は老人が多い。男性は一人、徘カフェ老人。女性は複数、やかましい。生理的に合わないのは、夫婦で夫が席で待っている風景。
 天気がいい日はほっとかん。陽に当たらないと。入場料の500円をどこから工面するか。
 夢でジグソーパズルの表現。4つが一つになり、一つがなる。点が集合で、集合が点になる。そのアナロジー、数学理論は商売に繋がる。

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OCR化した6冊

『純粋機械化経済』
 頭脳資本主義と日本の衰退
  自動車産業がIT産業になる日
  頭脳資本主義とは何か?
  日本が「後進国」に転落する日
 ニューラルネットワークの隆盛を予見した哲学者たち
  セルフドライビングカー・セックス
  ノマドの哲学
  人は狼になれる
  リソーム
  ニューラルネットワークの仕組み
 AI時代にソ連型社会主義は可能か
  ソ連は怠け者の楽園ではない
  中枢によってコントロールされた経済システム
  社会主義経済計算論争
  人工知能と社会主義
『カウンセリング心理学』
 カウンセリングの諸領域
  保育カウンセリング
  学校カウンセリング
  学生カウンセリング
  生涯発達カウンセリング
  産業カウンセリング
  多文化間カウンセリング
  非行・犯罪・矯正カウンセリング
  医療・看護カウンセリング
  保健・福祉カウンセリング
  カップルカウンセリング
  コミュニティカウンセリング
『生きることの社会学』
 家族の歴史社会学
  家族の普遍性
  母系制
  父系制
  近代化による家族の再編
  今日の家族
  考えてみよう
 キーワード
  定位家族と生殖家族
  母系制
  父系制
  家父長制
  近代家族
 さらに学ぶための本
『対話するデザインする』
 対話することばの市民へ
  他者とともに生きる社会とは何か
  市民性形成とは何か
  目律と共生としての市民
  生きる目的からことばの市民へ
  対話によってことばの市民になる
  個人の生き方と対話のあり方
  ことばの生活から対話のデザインヘ
『父が子に語る世界歴史1』
 ギリシア人
 ギリシアの都市国家
 ギリシアの興隆
 若い征服者
 ローマ、共和国から帝国へ
 朝鮮と大ニッポン
『名著誕生「コーラン」』
 商人ムハンマドヘの啓示
 預言者ムハンマドの戦いと政治
 アーイシャ 敬虔な妻

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アーイシャ 敬虔な妻

『名著誕生「コーラン」』より アーイシャ 敬虔な妻
西暦六八〇年
ハディージャの死でムハンマドは取り残された。近しい友人は再婚を勧めた。そこでまず二人の女性を娶った。一人目はサウダという名の未亡人で、もう一人が同盟者の若い娘アーイシャだった。その後もムハンマドは結婚したが、ハディージャの没後は、アーイシャこそ、さまざまな意味で最も重要な妻だったといえよう。
アーイシャは預言者の一番若い妻というだけでなく、最も美しい妻だった。アーイシャの父アブー・バクルは初期からの傑出したムスリムであり、六三二年のムハンマドの死去に際しては、初代のカリフ、つまりムハンマドの後継者となった。六三二年に預言者に輿入れした時、アーイシャはまだ九歳の幼児だった。ムハンマドの死後アーイシャは何十年も生き続け、六十五歳で没した。その頃にはアーイシャはすっかりメディナ社会の有力者となっており、その生涯の物語はコーランの継受やムスリム共同体の草創期における発展の画期となる出来事と不可分に結び付いている。
アーイシャは鋭敏な観察力と類稀な記憶力を兼ね備えた、非常に聡明な女性だった。コーランの本文を暗記していただけでなく、他のムスリムのほとんど誰よりも、コーランの章句がどのように、いつ、なぜ啓示されたのかを熟知していた。ムハンマドの家庭内の些細なやり取りから、ムスリム共同体を形作った重大な公的行動に至るまで、一挙手一投足を目撃し伝えた。人生の終わりに近づいた男と、人生が始まって間もない女との、この例外的な結婚によって、双方についての多くのことが後世に伝わった。
アーイシャは利発で物事を正確に記憶していただけではない。舌鋒鋭く、躊躇せず、細かなところには拘泥することなく単刀直入に真実を語った。アーイシャが誰かを議論でやり込めていると、預言者は微笑んで言うのだった。「彼女はあのアブー・バクルの娘だからね!」。一人の教友が言ったことがある。「私はアーイシャより雄弁な者に会ったことがない」。ムハンマドの存命中は、アーイシャは他の女性たちに混じって、彼から伝え聞いた知識を伝達したものだった。ムハンマド死後もアーイシャは善男善女の知識と叡智の源泉であり続けた。「ある記録が疑わしく感じられる時は、アーイシャに訊ねたものである。必ず何かしらを得られた」と一人の教友は語っている。
アーイシャは「信仰者たちの母」という尊称を好んだ。これはアーイシャやその他のムハンマドの妻全員に与えられた称号である。
 預言者は信仰者にとって自分自身より近くにいる。預言者の妻たちは、信仰者の母である。 (第33章「部族連合」第6節)
しかしこの尊称には義務や期待が込められてもいる。
 預言者の妻たちよ。お前たちがあからさまに不貞をなす時、その懲罰は二倍となる。神にとっていとたやすきこと。しかし神とその使徒に従順で、行いを慎む者には、褒賞を二倍にしてやろう。寛大な糧を与えてやろう。
 預言者の妻たちよ。お前たちは他の女たちとは違う。もしお前たちが神を畏れるなら、口を慎め。心に病ある者たちの情欲を掻き立ててはならぬ。行儀よく言葉を使え。
 家を整え、ジャーヒリーヤ[イスラーム教以前の無明時代]の頃のように派手に着飾ってはならぬ。礼拝の務めを果たし、喜捨を施せ。神とその使徒に従順であれ。家の者たちよ、神はお前だちから不浄を取り除き、清らかに清めたいとお望みだ。
 またお前たちの家で誦まれたコーランの章句とその知恵を暗記せよ。本当に神は繊細でよく知りたもう。 (第33章「部族連合」第30-34節)
第33章「部族連合」第34節その他に言及される神の「知恵」とは、預言者の模範的な態度とされる。生涯のあらゆる側面を、誕生から死までの間に起こるすべての出来事を、ムスリムはムハンマドの行いを鑑にして見る。預言者の行動基準、すなわち「スンナ(範例)」を記録し保持することに、アーイシャは力を尽くしたのである。預言者について語ってくれと求められた時に、「彼は歩くコーランよ」とアーイシャは応えた。ムハンマドの行動とはコーランが実践に移されたものなのだ、という意味である。章句を暗誦し理解することで、書き記されたコーランと、歩くコーランの双方を保存することに、アーイシャは意を傾けた。同時に、アーイシャはスンナを熟知し、それを体現していた。ハディース、すなわち預言者に関する伝承や記録がコーランと融合したのは、アーイシャの示した範例に多くを負っている。コーランが神の変更不可能な言葉であるなら、ハディースに縫い込まれたスンナがそれを補い、敷行する。
しかしムハンマドの特殊な立場は、アーイシャやその他の妻たちにとって特有の重荷ともなった。ムハンマド存命中、教友やその他のムスリムたちは、彼に敬意と礼儀をもって接することが求められた。不信仰者に付け狙われ、時に嫌がらせも受けた妻たちは護身のためにヴェールを被った。ムハンマド没後に他の者と再婚することも禁じられた。
 お前たちが預言者の妻たちに何か尋ねる時は、必ず御簾の後ろからにせよ。その方がお前たちの心にとって、また彼女らの心にとっても清浄だ。神の預言者を苦しめてはならない。ムハンマドの後で、その妻たちを、決して娶ってはならない。それは神のもとで重罪だ。 (第33章「部族連合」第53節)
アーイシャは清浄さを保ったが、預言者の最も若い妻としての要求に応えるには危うい場面もあった。預言者ムハンマドと結婚してから、パドルの戦い、ウフドの戦い、塹壕の戦いがあった。ムハンマドに対抗するメッカの大部族クライシュ族との三つの大きな戦いであった。これらの戦いによって力のバランスは変化し、クライシュ族からムスリムたちに主導権が移っていった。アーイシャはまだかなり若かったけれども、これら三つの戦いすべてに参加し、ムスリム戦士に水を運び、負傷者の手当てを手伝った。生を目の当たりにし、死を見届けた。神の道のための死も、神の敵の道における死も。それらのいずれをも目撃したアーイシャは、しかし生を肯定した。
預言者ムハンマドが戦場に赴く時、くじを引いてどの妻を連れて行くか選ぶことがあった。六二六年、バヌー・ムスタリク族との戦いに出向いた時、アーイシャがくじに当たった。その時アーイシャは十三歳だった。アーイシャが勝ち誇るムスリムたちに同行しメディナに帰還する途上のことであった。預言者は野営地を急に引き払い、不意に軍勢に帰路を急ぐよう命じた。この時アーイシャは輿を降り、砂丘の陰で休んでいたが、首飾りをなくしたと気づき、砂の中を探し始め、時がたつのを忘れた。そして野営地に戻った時にはコ打は出発してしまっていた。アーイシャは体重が軽かったので、輿を担ぐ男たちはアーイシャが中にいるかどうか確認せず、彼女を乗せずに出発してしまっていたのだ。アーイシャは座り込み、待った。誰かが彼女がいないと気づいて引き返してくれることを願いながら。しかし誰も気づかない。
だが幸運なことに、隊列からはぐれた若いムスリムが追いかけてきて、彼女が取り残された場所にやってきた。そこでアーイシャが早くもうつらうつらしているのを見つけた。若者は彼女を起こして自分の駱駝の背に乗せ、自分は降りて徒歩で駱駝を引き、隊列を追いかけた。じきに追いつけるだろう、とただ望みながら。確かに追いつけはした。しかしすでに翌日の午前になっており、一日の最も暑い時期にさしかかって軍勢が停止し休息をとっている時だった。
運悪く、従者の付き添いなしに二人きりで到着するのを目撃した者がいた。風評が流れ、悪意ある嘘が広まった。やがて預言者の耳にこの話か届いた。この二人の若いムスリムの間に何か起こったのか、何か起こらなかったのか、バヌー・ムスタリク族との戦いから帰ったムスリム社会の全体が、この話で持ちきりとなった。二人の間の「事件」の結果の方が、戦果よりも意味を持つようになってしまった。
噂話が広がってしまったため、預言者の家庭は緊張に包まれた。この問題を解明する啓示は下らなかった。預言者は、おそらく従弟アリーの勧めにより、アーイシャの従者であるバリーラに訊ねた。アーイシャの行動に過ちはあったか? これに答えて「あなた様に真理を下された神の名に誓って、アーイシャ様に過ちはございません。まだお若いですから、パンを提ねている時に眠り込んでしまい、羊が来て食べてしまうことがあったぐらいです!」。その場にいた教友の何人かがバリーラを叱った。バリ上フを小突き、知っていることをすべて話せと詰問した。「神に栄光あれ! 宝石商が純金のかけらを知っているぐらいに、私はアーイシャ様のことを存じ上げておりますよ」。
それから預言者は公衆の面前でアーイシャの名誉を晴らそうとした。モスクに全員を集め、アーイシャの名声を擁護した。しかしこの問題を騒ぎ立てた中傷者たちもモスクにやってきて、預言者の意図に挑戦した。この問題でほとんど殴りあいになりかけたところで、預言者はやっとのことで演壇に登り、集まった信仰者たちに大声で語りかけた。「神の預言者の家庭のことで、いやしくも疑いの念を発するとは、いかがなものか?」。ムハンマドは非難する者たちを特定するのではなく、各部族にそれぞれの成員の不始末の責任を負わせた。アーイシャの名誉を既めることに最も熱心であった者は自らの属す部族に引き渡され、そこで罰せられた。噂話に連帯責任が取らされた。その直後、天使ガブリエルが預言者に啓示し、アーイシャは本当に無実であったと告げた。
 この嘘を広めた者たちは、お前たちの中の党派を作る者たち。
 あなたはこれを災いと受け取ってはならない。
 いや、あなたにとってこれは良いことなのだ。
 連中の誰もが犯した罪の報いを受ける。
 連中の中でも大きな役割を果たしたものは、とてつもない罰を受ける。
 お前たちがそれを聞いた時、男の信奉者も女の信奉者も、
 なぜ自らはよい答えをしなかったのか。
 そして、「これは明らかに中傷だ」と言わなかったのか。
 彼らはなぜ、四人の証人を連れてこなかったのか。
 証人がなければ、彼らは神のもとでは嘘つきだ。 (第24章「御光」第11‐13節)
 お前たちがそれを聞いたとき、なぜこう言わなかったのか。「これについて私たちが語るべ
 きではない。神に讃えあれ、これは重大な中傷だ」と?
 神は、もしお前たちが信者なら、こんなことを繰り返してはならない、と訓戒される。
 神は徴を明らかにしてくださる。神こそは全知にしていと賢明なり。 (第24章「御光」第16-18節)

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父が子に語る「朝鮮と大ニッポン」

『父が子に語る世界歴史1』より ネルー
わたしたちの世界の物語がすすむにつれて、いよいよいっそう多くの国ぐにが視野にうかびあがってくる。それできょうは、中国のすぐ近所の国であり、また多くの点から中国文明の子どもたちというべき、朝鮮〔現在は朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国〕と、日本をざっとみておくことにする。かれらはアジアの東の涯--極東--にあって、ここを行きすぎると、あのひろい太平洋だ。いうまでもなく、つい最近までは、アメリカ大陸との交通はなかった。中国から、また中国をつうじて、かれらはその宗教と、芸術と、文明とを手に入れた。日本と朝鮮の両国は、中国に莫大な借りものをしたわけだ。あるものはインドからも受けいれたが、インドから来たものは、すべて中国の手をつうじて伝えられ、中国の精神によっていろどられたものであった。
朝鮮も日本も、その位置のおかげで、アジアやその他の大きなできごととは、無関係にすごしてきた。かれらは事件の中心からはるかに遠ざかっていた。それで--とくに日本は--幸運だったともいえる。だからごく最近までのかれらの歴史は、これを無視したところで、さして不都合を生じない。それ以外のアジアのできごとを理解するうえに、たいした関係がないからだ。しかしわたしたちは、マレーシアや、東方諸島の過去の物語を無視しないのと同様、これらの国を無視することもない。気の毒な小国朝鮮は、こんにちではほとんど忘れられている。日本に併呑され、その帝国の一部とされているからだ。しかし朝鮮は、いまでも自由を夢み、独立をもとめてたたかっている。日本のほうは、いましきりに活躍して、新聞はその中国攻撃の記事で埋まっている。こうして書いているあいだにも、マンチューリア(満州)では、戦争らしいものが進行している。だからやはり朝鮮と、中国の過去についてふれておくほうがよい。ときにそれは現代の理解のたすけにもなる。
第一に忘れてはならないことは、かれらの長期にわたる孤立だ。じっさい日本は、孤立と侵略からの自由〔侵略をまぬがれること〕にかけては、おどろくべき記録をもつ。その歴史をつうじて、めったに外部からの侵略がくわだてられたことはなかったし、たまたまあっても、いずれも成功せずにおわった。日本を悩ませた紛争といえば、最近まで、すべて自国内部の紛争であった。一時期、日本はみずから外部の世界と、完全に交渉を断ったことさえあった。そのため日本人が国外に出ること、また外国人--中国人さえ--が入国することは、ほとんど不可能になった。これはヨーロッパから来る外国人や、キリスト教伝道者にたいする防衛のための措置であった。こんなことをするのはばかげたことでもあり、あぶなっかしいやり方でもあった。それは民族をそっくりそのまま刑務所に閉じこめ、よいこと悪いこと、すべての外部からの影響を断絶することを意味したからだ。そしてそれから、とっぜん日本は門戸を開け放って、ヨーロッパから学べるものは、なにもかも、しゃにむに学びとった。しかもその吸収欲の旺盛なことは、わずか一、二世代を経たのちには、外面的には、どのヨーロッパの国にもおとらないようになり、かれらのあらゆる悪い習慣まで、そのまま模倣しさったほどであった! すべてこれらは、最近七百年内外のできごとだった。
朝鮮の歴史は中国よりはるかに新しく、また日本の歴史は、朝鮮よりもはるかに新しい。わたしは去年書いた手紙のなかで、箕子というひとが、中国の王族の交替をよろこばなかったために、中国を追われ、五千人の門人をひきつれて東方に移ったことを話したはずだ。かれは、コリア(朝鮮)の地に定着し、これを朝鮮、すなわち「朝のしずけさの国」とよんだのだった。紀元前一一二二年のことであった。箕子は、中国の芸術や、農業や、また絹織物業の技術をたずさえてやってきた。九百年以上ものあいだ、箕子の子孫が朝鮮を支配していた。その後もときおり中国の移民が来ては、朝鮮に定住した。それで、中国とはかなり緊密な交渉がっづいた。
始皇帝が中国の皇帝だった当時、多数の中国人が一団となってわたってきた。おまえもたぶん、このアショーカと同時代の皇帝のことをおぼえていることと思う。かれはみずから「第一皇帝」と称し、いっさいの古典を焼き捨てた男だ。始皇帝のひどい仕打ちのために、おおぜいの中国人が追われ、朝鮮に安住の地をもとめて、微力な箕子の子孫を追いだした。その後八百年以上のあいだ、朝鮮は数個の国家〔高句麗、百済、新羅〕に分かれていた。これらの国家はたがいにあらそった。あるとき、そのなかの一国薪羅〕が中国に援助をもとめた。--これは危険な申し入れだ。援軍は来たが、しかしこの援軍は撤退を拒否した! これが強国というもののやりくちなのだ。中国はそのまま駐留して、朝鮮の一部をその帝国の属領にくわえた。数百年間、朝鮮の残りの地域までもが、唐の皇帝の宗主権をみとめた。
朝鮮が独立の王国として統一されたのは、紀元九三五年のことであった。この建国をなしとげたのは、ワン・チエン(王建)というひとで、それから四百五十年間かれの子孫〔高麗王朝〕が朝鮮を統治することになった。
二、三十行で、わたしは、二千年以上にわたる朝鮮の歴史をかたづけてしまった! なかでもとくに記憶すべきは、朝鮮が多くのものを中国から受けついだということだ。文字の書き方も中国から入ってきた。一千年聞かれらは、おまえも知っているように、ふつうの文字とはちがって、観念や語句を一字であらわす、中国の記号文字[漢字]を使っていた。その後に、この文字から、かれら白身の言語にいっそうよく適合する独特のアルファベットが発達したのだ。
仏教も、中国経由で伝えられたし、儒学もやはり中国から来たのであった。インドにはじまる芸術上の影響は、中国を経て、朝鮮、および日本までの大旅行をなしとげた。朝鮮は芸術上の美しい作品、とくに彫刻を生んだ。建築は、中国のものに似たものだ。造船の方面でも、いちじるしい進歩があった。じつに、ある時代には、朝鮮の人びとは、それで日本に侵略したほどの強力な海軍をもっていたこともあったのだ。
おそらく現在の日本人の祖先は、コリアすなわち朝鮮からわたったものと思われる。一部は、南方のマレーシアから来た。知っていると思うが、日本人はモンゴル人種だ。しかしそのほかに、この国の原住民だとされているアイヌという民族が、少し住んでいる。この人たちは色白で、どちらかといえば毛深いほうで、ふつうの日本人とはぜんぜん異なっている。アイヌは、現在では、列島の北部に追いやられている。
紀元二〇〇年ごろにはジンゴー(神功)という皇后が、ヤマト国家の首長の地位にあった。ヤマトというのは日本の固有の名であり、またそのなかの、かれらが渡来当時定着した地方を指す。この女性の名前に注意してごらん。これが日本最古の支配者のひとりの名前だったとは、奇妙なめぐりあわせだ。
「ジンゴー」ということばは、英語では、一定の意味に使われるようになった。それは粗暴で厚顔な帝国主義者という意味だ。あるいは、かんたんに、帝国主義者を意味するといってもよい。この種の連中は、かならず多少とも粗暴で厚顔なものだからだ。日本もやはり、この帝国主義ないしはジンゴイズムの病気にかかっているといわれ、近ごろさかんに、朝鮮や中国に向かって乱暴をはたらいている。ジンゴーがその歴史上最初の支配者の名前だったのはふしぎだというのは、そういうわけだ。
ヤマトは、朝鮮とのあいだに緊密な関係を結んでいた。そして朝鮮をつうじて、中国文明はヤマトに伝えられた。中国の書きことばも、紀元四〇〇年ごろに朝鮮を通って入ってきた。仏教もおなじようにしてやってきた。すなわち紀元五五二年にパクチエ(百済)の君主は、ブッダの黄金像と、伝道者に経文をそえて、ヤマトの君主に贈った。
日本の古来の宗教はシントー(神道)だった。これは「神がみの道」という意味をあらわす中国語だが、自然崇拝と祖先崇拝の混合物であった。それは、後生〔死後の生活〕だとか、奇跡だとか、人生問題とかは、あまり問題にしなかった。それは、武事を尊ぶ人種の宗教であった。日本人は、あれほど中国人に似ており、またその文明から多くのものを受けいれたのに、しかも中国人とはぜんぜん性質を異にしている。中国人は、古来本質的に平和の民であり、かれらの文明、またかれらの人生哲学はすべて平和的なものだ。ところが日本人は、むかしからいまにいたるまで、戦闘的な民族だ。軍人のおもな徳目は目上の人と同輩にたいする忠節だが、これがまた日本人の美徳であり、かれらの強さは多くこれに由来する。神道は、このような徳を教える--「神がみをうやまい、その子々孫々にたいし忠節をつくし奉るべし」--とのようにして、神道はこんにちの日本にまで伝わり、いまだに仏教とともに存続している。
けれども、これが徳といえるだろうか? 同志や大義への忠誠心は、たしかに美徳ではあろう。しかし神道にしても、他の宗教にしても、往々にして、われわれの忠誠心を利用して、われわれを上から支配する人びとの集団の御用に供しようとする。日本やローマ、そのほか、そこここでかれらが唱導した教え、すなわち、権威の崇拝、これがどんなにわれわれに害毒をおよぼしたかを、わたしたちはのちに知るだろう。
仏教がわたってきたときには、古来の神道と仏教とのあいだにいくらか摩擦が生じた。しかしまもなく、それらは並存するようになり、こんにちにいたった。神道のほうが、いまでもより一般的な信仰で、支配者階級は、それがかれらにたいする服従と忠節を説くという理由で、奨励している! 仏教は、ともかくその元祖が反逆者だったくらいだから、わずかながらも、どちらかといえば危険な宗教なのだ。
日本の芸術史は仏教とともにはじまる。日本、あるいはヤマトは、当時中国との直接の交渉もはじめていた。とくに、その首都長安が全アジアに聞こえていた唐の時代には、中国に常駐の使節がおかれていた。そればかりか、日本人、もしくはヤマト民族は、みずからナラ(奈良)という新都を建設し、これを長安そのままの模型にしようとした。日本人はむかしから、他人の模倣にかけては天才的な才能をもっていたものとみえる。
日本の歴史をつうじて、大家族がたがいに対立して、権力をもって抗争しあったあとがみられる。この種のことは、大むかしには、どの国でもみられたことだった。これらの諸家族は、古い氏族の観念を固守していた。それで日本の歴史は、いわば、主として氏族、門閥の抗争の物語だといえる。かれらの皇帝、ミカド(天皇)は全能であり、専制君主であり、半神であり、太陽の直系の子孫だとされている! 神道と祖先崇拝は、人民に天皇の専制政治を受けいれさせるのに役立ち、その国の権力者にたいして従順にならせた。けれども日本の天皇そのものは、多くのばあい、実権をもたない傀儡にすぎなかった。権力と権威は、ある大家族、もしくは氏族の手中にあり、これが王の製造者として、好き勝手に王や、天皇を立てたのであった。
歴史上最初に日本の国政を左右したとみられる大家族は、ソガ(蘇我)氏であった。仏教が宮廷宗教となり、国教となったのも、かれらがそれを受けいれたことにはじまる。当時の指導者のひとり、ショートクタイシ(聖徳太子)は日本史上でも、最大の偉人にかぞえられるひとだった。熱烈な仏教徒であり、偉大な才能をもつ芸術家であった。かれはその思想を中国の儒教の古典から採り、道徳にもとづく、つまり権力によらない政治を打ちたてようとした。そのころ日本には、いたるところに氏族がいて、その族長はほとんど独立していた。かれらはたがいにたたかい、またどんな権威にも服しようとしなかった。天皇は、その称号だけはりっぱだったけれども、やはり一大氏族の族長にすぎなかった。聖徳太子はこのような状態の改造に着手し、中央政府を強化しようとした。そして、さまざまな族長や、貴族を、犬曳の「臣下」、すなわち従属者にした。これはおよそ紀元六〇〇年前後のことだ。
しかし、聖徳太子の死後、蘇我氏は打倒された。それからまもなく、日本史上にひじょうによく知られたもうひとりの人物が登場した。かれの名をナカトミノカマタリ(中臣鎌足)といった。かれは政治のやり方を根本から変革して、多くの中国流の政治方式をとりいれた。ただしかれは、中国に特有の官吏任命試験制度は模倣しなかった。このとき以来、天皇は一氏族の族長以上のものとなり、中央政府の基礎はかためられた。
奈良が首都になったのは、この時代であった。しかしそれはごく短期間におわり、紀元七九四年にキョート(京都)が首都とされた。その後約一千年間変わらなかったが、ごく最近、トーキョウ(東京)に移された。東京は大きな近代都市だ。けれども日本の魂についてなにごとかを語り、日本にかんする一千年の記録をよび起こすものは京都だ。
中臣鎌足は、日本の歴史に大きな役割を演ずることになったフジワラ(藤原)氏の始祖になった。二百年間かれらは支配を維持し、天皇をたんなる傀儡にし、しばしば強制的に一門の女性と結婚させた。他の家系に有能な人物があらわれると、かれらは警戒して修道院〔寺〕に幽閉したりした!
奈良に都があった当時、中国の皇帝は、日本の支配者に国書を送るさいに、宛名をタイ=ニー=プン=コクの皇帝と書いた。これは「偉大なる日出づる王国」という意味だ。日本人は、むしろこの名のほうをよろこんだ。ヤマトよりは威厳があるように聞こえたからだ。それでかれらは、じぶんの国を「大ニッポン」--「朝日ののぼる国」とよびはじめた。いまでも日本は、自分でこう名乗っている。ジャパンという名前そのものは、妙なことに、「ニッポン」からなまってできたものだ。六百年後に、ひとりのイタリアの偉大な旅行者が中国を訪問した。マルコ・ポーロというひとだが、かれは日本へ行ったことはなかった。しかしかれの旅行記のなかには、日本のことが記されている。かれは「ニー=プン=コク」の名を耳にしていた。そこでかれの本に、これを「チパンゴ」と書いた。ここから「ジャパン」ということばが出た。
われわれの国がインド、またヒンドゥスタンとよばれるわけを、わたしは話したことがあっただろうか?それとも、おまえは知っているかしらん?両方ともインダス河、すなわちシンドゥ河に起源がある。だからインダス河は、また「インドの河」ということになる。シンドゥから採って、ギリシア人はわれわれの国をインドスとよび、それからインドということばが出てきた。またペルシア人は、シンドゥからヒンドゥーという名前を得て、それからヒンドゥスタンということばができた。

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対話することばの市民

『対話するデザインする』より 対話することばの市民へ
対話によってことばの市民になる
 このように考えることによって、社会は一つではないということに気づくことができます。
 一般に社会というと、「~国・~民族・~語」といった枠組みを想定しがちですが、実際には、家族をはじめとして、地域の集まり、友好的な仲間たちとのサークル、その他、もろもろの無数のさまざまな社会や共同体(コミュニティ)に同時に属しているわけです。
 そして、その都度、その都度の状況によって、何らかの優先順位をつけながら、わたしたちは行動しているわけですが、本来的に、それぞれの社会や共同体には優劣がないということです。
 むしろ、わたしたちはそうした社会や共同体の枠組みをいつのまにか限定的にとらえ、その自分のイメージのなかに自らを位置づけているのです。
 世間の評価を気にしたり、他人の目を過剰に意識したりする現象は、このイメージに閉じこめられた自己から発生するものです。
 そのような意味では、実体としての社会の中に所属しているのではなく、自分自身の中に、社会や共同体のイメージをつくりあげ、そのイメージそのものが実体としての社会・共同体だと思い込む反転現象が起きていると考えることができます。
 本来は、その社会自体が、ダイナミックに変容する動態だと考えることができるのです。自分と他者の対話によって、この社会そのもののイメージも変容し、つくりかえられていく関係性こそが、個人と社会をつなぐ鍵だということができるでしょう。
 このように、社会を固定的な実体として見る考え方から自由になること、社会は流動的な認識であるという感覚を持つことによって、あなたは自らを閉じこめている現実からどれほど自由になることができるでしょうか。
個人の生き方と対話のあり方
 このことは、民族・国家・言語の境界を絶対視しないことともつながっています。たとえば、「日本人」「日本社会」という自明的な括りを疑うことがその第一歩です。そこでは、「制度が決めたから」「昔からそうなっているから」「みんながそうだから」という理由は成立しません。それは、自己思考による判断の放棄、つまり思考の停止を示すものだからです。そのことに気づいてはじめて、他者を管理せず、他者から管理されない自由を、対話という活動によって尊重すること、そして自己と他者の存するコミュニティのあり方について責任を持つという本来の市民社会が姿を現すのではないでしょうか。
 深く考えて、決して寄りかからず、遠いまなざしを持ち、ゆるやかな連帯を築く、という生き方。つまり、自分の「生きる目的」に沿って、自らのテーマについて十分考えていく、それは決して人のせいにはしない、でも遠くを見よう、そして、そのことによって他者と、あるいはコミュニティの中でのゆるやかな連帯を結ぶことができる、このような生き方です。
 このことが、個人の生活や仕事の充実と活性化にもつながるとわたしは考えています。
 こういう生き方をめざす新しい活動、それをあえて対話と呼びたいのですが、このような認識は、個人と個人、個人と社会を結ぶ視点を支えるものであるでしょう。それぞれの効率的利の追求のあまり、個人のあり方がエゴイスティックなものに陥らないよう、社会的行為主体自身の人間性回復のために何ができるのか。
 より広い意味での自己と他者、個人と社会を結ぶことの意味を考えること、これが、これからの自己・他者・社会を結ぶ対話のデザインとなるものだと思います。
ことばの生活から対話のデザインヘ
 以上の提案は、常に人が「よく生きるとは何か」という問いをわたしたちに投げかけてきます。よく生きるとは、人はなぜ生きるのかという問いと背中合わせです。
 よく生きるということは、自分のことばによる活動を背景として、一人ひとりが社会の中でどのように自分の生活や仕事を展開するかと考えることでもあります。このことを考えるために不可欠なのは、わたしたち一人ひとりの対話のための環境設定・設計であり、同時に自らの人生という大きな枠組みの構想なのではないでしょうか。
 ことばの生活の充実という観点から、それぞれにとっての課題をまとめると、およそ右の図のようになるでしょう。
 まず、ことばの活動の充実として自分の対話活動を位置づけることで、他者との相互理解への道筋をどうつくるかを考える必要があります。さまざまな合意をどのように形成していくかという課題です。それは妥協ということではなく、合意の創造性とでもいうべき問題だと思います。そのためには、その合意形成をできるだけ開放された環境のもとで行うことが重要でしょう。このときに、公的領域として’の公共性という概念が参考になります。
 次に、価値観の意識化と、自らの活動の方向性への意思です。このことは、よく生きるとは何かという問いを持ちつづけることでもあります。
 わたしたちにとって、さまざまな知識や方法の前に、それぞれの問題意識の明確化が不可欠だと思います。「なぜ私は生きるのか」という問いの重要性に気づく必要があります。つまり、自分にとってかけがえのないテーマに向かって活動を行うということが、どのような意味を持つのかということについてたえず向き合っていかなければならないと思います。
 このような問題意識の確立にはことばの活動が不可欠であること、それはまた、知識や情報の自明性を疑うことの意味でもあります。言語活動は、ややもすると、マニュアル化を求め、表層的なスキルや技術の習得を目的としたものになりがちです。これを乗り越え、自らの知の形成に立ち会うために、わたしたちは、ことばによって考え、ことばによって表現し、ことばによって共感する主体とならなければならないからです。
 制度化した言語システムに自分を近づけるのではなく、自らの発見を他者に伝え、それを他者と共有することによって立ち現れてくるものが、それぞれにとっての固有の対話デザインでしょう。
 その一歩が興味・関心のあるテーマと自分との関係をことばによって語ること、それがすなわち、自分のことばで自らを表現することなのです。
 一人ひとりの自由が保障されている社会は、他者の自由を侵害しない社会でもあります。
 自由であることで創造が生まれ、この創造こそが、社会の豊かさにつながります。
 この豊かさは数値で測れません。便利であることは豊かさではないでしょう。とくに他者とともに生きる豊かさ、一人で考えても生まれない創造を生み出すためには、さまざまな仲間たちの知恵が集まる環境が必要です。
 それぞれの対話のデザインによって、人は「私」を語りだし、それが自己と他者の連携と協働を促し、互いの関係世界を分け合うことになります。このことによって共生社会はやがて回復に向かうでしょう。
 このとき、世界の平和への希望を今わたしたちは予感できると思います。

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今日の家族

『生きることの社会学』より 家族の歴史社会学
近代化による家族の再編
 この父系制も、近代社会の出現とともに、変容していきます。
 母系制にせよ、父系制にせよ、前近代社会にあっては、家族は生活の場であるとともに労働の場でもありました。正確にいうならば、近代化のなかで賃金が生じない労働としての家事・育児と、賃金が生じる労働とに、労働一般が分離していったのですが、前近代社会ではそのような分離はわずかで、人々はほとんど常に家族とともに生活し働いていたのです。
 近代化のはじまった当初、日本では各地に西洋式の軽工業の工場が建てられました。そのさい、工場で働くべく集められたのは、もっぱら農家の結婚前の女性や子どもたちでした。彼らであれば、実家からいなくなっても、実家はさしあたってあまり困らないわけです。ところが、経営者たちは、当時はまだ労働者を守る法律である労働基準法などはありませんでしたから、彼らに住み込みをさせて長時間の重労働を強いました。その結果、過労で倒れたり集団生活のなかで感染病が広がったりして、多くの女性や子どもが亡くなりました。
 短期的には、それでも経営は成り立つわけですが、長期的に考えると、そのように人をこき使って使い潰してしまうと、結局は家族の再生ができなくなることもわかってきました。若い女性や子どもたちを死なせてしまったら、新しい家族が生まれなくなってしまい、社会全体が困るわけです。そうした背景があって、近代化・産業化が進展していくなかで、世界的に労働環境の改善を目指す運動が起こりました。そのなかからは、後に共産主義や社会主義といった世界の秩序の変更を迫る大きな運動も生まれました。
 そこで、だいぶ話をはしょりますが、雇用のありかたのみならず、家族のありかたさえも変えてしまおうということになりました。若い人を無闇に働かせないようにしようと国が規制をし、家を継ぐ予定のない次男とか三男を雇って、より高い給与を払って働かせ、結婚して家族を営み子どもも育てられるようにしたのです。簡単にいえば、資本主義が貪欲に人々を搾取するのをほったらかしていたら社会全体が立ち行かなくなるので、一定のルールを決めて、資本主義的な経営と共同体・家族の存立が両立するようにした、というわけです。
 社会学では、このように、産業資本主義に適応しながら生まれた新しい家族の形態のことを、「近代家族」といいます。その典型的なかたちの特徴は以下の通りです。
  ・一つの家に夫婦は一組だけ(社会学では、単婚小家族といいます)で、夫婦間には情愛があるものとされる。
  ・祖父母とは同居せず、親子二代の家族であり、親から子への愛情が当然視される。
  ・家は生産活動の場ではなくなり、もっぱら家事・育児を軸とした「再生産」のための消費の場となる。
  ・夫は外で賃労働をし、妻は専業主婦として家で家事・育児に専念する。
  ・家族のプライバシーは外部から守られる。
 このような近代家族型の家族は、日本では近代化の過程全体を通じて次第に増大していきますが、それはしばしば地方から都会への人口移動と並行した現象でした。つまり、地方にはその地で代々農業などの家業を営んできた家族があるわけですが、この家族のなかから、次男・三男が地方都市で学校教育を受け、工業や商業の盛んな都市部で職を得る、というかたちで都会に移動するのです。そして、その都市で、やはり地方から教育や就職をきっかけに都市部に移動していた女性と結婚して、子どもを産み育て、次世代の労働者とその配偶者を育むわけです。こうして、産業の発展と家族の再生という二つの大きな課題がクリアされたわけです。
 日本では、そして世界の多くの地域でも、この近代家族型の家族は伝統的な家族を次第に圧倒していきます。日本において専業主婦率が」番高いのは、団塊の世代の女性だそうで、このあたりが典型的な近代家族のピークなのでしょう。
今日の家族
 今日の日本の家族も、基本的には近代家族型だといってよいでしょう。ただ、重要な変化もあって、それは、専業主婦が減ってきたことです。以前は、女性は結婚すれば賃労働をやめる人が多かったですし、仕事を続けたいなら結婚はあきらめなければならない、というイメージすらありました。しかし今日では、結婚や出産をしても賃労働を続ける女性がだいぶ増えました。一九八〇年には一一〇〇万世帯以上あった専業主婦世帯は、二〇一七年現在では、六四〇万世帯ほどになりました。ただ、出産をするとどうしても一時的には外での仕事を休まざるをえません。どのタイミングで賃労働に復帰するかは、いろいろな事情によるのですが、元の職場に戻れないことも多く、その場合は、終身雇用型の労働者が優遇されている日本では、再就職によって労働条件がかなり悪くなることが二般的です。今日でも男女間にはかなり平均年収に格差があるのですが、その重要な要因がここにあります。ですから結局のところ、今日においても日本ではなお、外での仕事と出産・子育てとを両立させることは、女性たちにとっても、その夫にとっても、たいへん難しい切実な問題になっています。
 また、夫婦と子どもという典型的な近代家族型の家族構成ではない家族を営む人も増えてきました。婚姻率は徐々に下がり、離婚率はゼロ年代のはじめまで徐々に上がっていました。今日では、ごく大雑把にいうと、四人に一人近くが生涯独身であり、四組に一組程度が離婚します。すると、結婚して生涯離婚しない、という人は半分少しくらいしかいないわけです。離婚した女性の多くが母子家庭を営むことになり、離婚した男性は一人で暮らすか再婚することが多いそうです。成長した子は親と同居しなくなるのが」般的になったこともあって、人生の最後の段階は一人暮らしの人が増えてもきました。
 結婚をしない人も離婚する人も、ともに長期的には増えてきているわけですが、その理由は、よくわかりません。ただ、漠然といえば、一九八〇年代くらいまでは結婚しないといけないという社会的なプレッシャーがずいぶん強かったように思えます。いい年をして結婚できない人は、何か特別な事情でもあって、まともな道から外れている人、というかなり差別的なイメージがありました。実際、そのころの三〇代後半の未婚率は、五~一〇パーセント以下でした。それがこの数十年のあいだにずいぷん変わってきて、結婚をしないのも離婚をするのも、本人たち次第で他人がとやかくいうことではない、という雰囲気になりました。近年では、三〇代後半の未婚率は、男性で三五パーセント、女性で二五パーセントほどにまで上がりました。ちなみに、今では「できちやった婚(授かり婚)」はよくある話で、むしろおめでたいことが重なって喜ばれたりするわけですが、以前にはとても恥ずかしいことで、実際そのような婚姻はきわめてまれであったと思います。
 このように、結婚や出産をめぐる人々の感覚というのは、時代によってずいぶん変わっていくものですが、全体としていえば、結婚や出産をめぐって、社会的な規範の力が徐々に弱くなってきて、本人たちの自由度がより増している、といえるでしょう。
 もう一つ、日本における今日の家族の重大な問題として、よく知られているように、子どもの絶対数も出生率も長期にわたって低下を続けていることがあります。子どもの数が減ると、家族だけではなく、すべての社会集団の存続が難しくなり、社会全体も衰退していくほかありませんから、これは大問題ですが、この問題については、とくに「システム」との関係において、第9章で取り上げます。また、近代家族においては最初から家族のメンバーの数が少なくなる傾向があったのですが、少子化か進むとますます家族の人数が少なくなり、ミニマム化していきます。こうなると、家族がお互いに少数の構成員同士に強く頼ることになり、リスクが高まります。そうしたことを背景に生じる、現代の家族の心理的な問題については、次章で述べます。

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新刊書の運搬

久しぶりのフル。本の重さを感じる。本当に重たい。来年3月以降はどう運ぼうか。電子化してほしい。

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多文化間カウンセリング

『カウンセリング心理学』より カウンセリングの諸領域
文化とは、民族や社会の風習、伝統、思考方法、価値観など、次世代へ受け継がれていくものの総称であり、人間の知識、信念、行動などの人間が築き上げた生活様式全体を指す。文化はさまざまな集団や個人のパーソナリティの形成に影響を与えるといわれ、カウンセリングにおけるクライエントの理解には、文化的背景の把握が非常に重要になる。文化が違えば集団や個人の思考回路、行動様式も異なり、社会的属性や伝統,行事,信念,生活規範なども多様となる。
多文化間カウンセリングとは、このような多楡陛や多文化への配慮を混合した心理援助のことを指し、異文化カウンセリングとも呼ばれてきた。多文化間カウンセリングでは、人種による差別や障がいの問題、女性のキャリア形成の問題など、平等の権利を確保できなかったマイノリティの人々が尊重される多文化共生社会、つまり、人々が多様な文化を柔軟に認め受容することを常にめざしている。
1960年代の米国では公民権運動の継続やベトナム戦争の深刻化など不這石社会的背景があり、人種的マイノリティの人々に対する認知や理解の低さが問題視されていた。心理援助においても多文化への配慮が指摘されるようになり、アメリカ心理学会とアメリカカウンセリング学会が、人種的・民族的マイノリティグループに対し、効果的な支援を行う方針を固め、1980~90年代にかけて、多楡匪への配慮に関するガイドラインを両学会の倫理・教育規範に取り入れていった。たとえば、「レズビアン、ゲイ、両性愛のクライエントを対象とした心理療法のためのガイドライン」はその一つである。LGBT (lesbian、gay、bisexual、and transgendered)は、性的志向の多様な集団を構成し、民族・人種のマイノリティと同様、多くの差別や偏見を受け社会から抑圧されてきた。このガイドラインにある①当事者への態度、②人間関係と家族、③多楡匪の問題、④教育という四つの項目は、LGBTのみならず、社会・文化的に非難の対象とされてきた人々への支援に不可欠な視点であるとともに、広く異なる社会や文化に生きる人々や家族に対する心理援助に重要な観点でもある。また、日本においても、「会員は、基本的人権を尊重し、人種、宗教、性別、思想及び信条等で人を差別したり、嫌がらせを行ったり、自らの価値観を強制しない」と臨床心理士の倫理綱領刎こ明記されたり、多文化の相談に関する専門性を認定する「多文化間精神保健専門アドバイザー」の資格が発足するなど、実践への関心が高まっている。
多文化間カウンセリングでは、文化的に考慮されるべき要因への理解をとくに深めていく必要があるが、プロチャスカとノークロスはそれらに年齢と世代の影響、障がいの程度、宗教、民族性、社会的地位、性的志向、地域特有(土着)の伝統、民族の起源、ジェンダー(性の自己認識)の九つを挙げ、クライエントのアセスメントに役立てるべきとした。また、ペダーセンは、カウンセラーの多文化意識の訓練がカウンセリングの一次予防になるとし、①気づき、②知識、③スキルの3段階の訓練モデルを推奨している。気づきは、文化に対する物事の視点やとらえ方を正確に比較し、選択的に生じた態度や思考、価値への潜在的な優先順位を関連づけたり、ポジティブやネガティブな概念を識別したりして、多様な文化的状況を把握することができる。また、自己の多様性への理解の限界も知ることができる。さらに知識により、自己の文化の視点から異文化を理解したり、意味づけたりすることを可能にし、事実と情報にアクセスするのも容易になる。そして、スキルにより、多文化の人々の行動を観察、理解し、相互に影響しあいながら助言を行うことができ、多様な課題を効果的に扱うことが可能となる。このような多文化意識の啓発や訓練は、グローバル化・少子化の進展に伴って今後、さらに重要になってくる。
これまで日本の多文化間カウンセリングの多くは、スクールカウンセリングや大学の学生相談の留学生支援や労働者の海外赴任の支援(地域在住の外国人支援も含む)、男女共同参画の専門機関におけるDV支援、女性のキャリア支援などの領域で実施されてきた。たとえば教育現場における実践として、井上7)はコミュニティアプローチを重視した多文化教育臨床を紹介しており、留学生の個別のカウンセリングだけではなく、グループでの仲間作りワークショップ、異文化交流の促進プログラムなど留学生か援助を受けやすい環境作りの実践などがまとめられている。
また、教育現場だけでなく、家族療法も多文化を代表する臨床実践である。家族とは女性と男性、親と子どもといういわば異文化のメンバーが共生する身近な小集団であるため、家族カウンセリングをはじめとする家族支援の現場においても、多文化間カウンセリングは有効とされてきた。「男性は仕事、女性は家庭」という価値観は、女性に育児や介護などの家族内ケアを過度に期待し、夫婦関係や親子関係に悪影響を与え、女性の労働者としてのキャリア形成の中断を迫るなどして、家族のあり方に大きな影響を長く及ぼしてきた。1985年の男女雇用均等法の施行により、現在は、女性も差別されることなく、労働能力を発揮できる環境がより身近になり、家族内役割、子育てや教育などのありようも時代とともに変化している。このような時代的変化によりさらに多様な文化の文脈が作られ、それに伴って新たな問題が顕在化する家族もある。家族カウンセリングは、そのような多文化がもたらす問題を扱いながら、家族構成員一人ひとりの存在と多様な価値観を認め、エンパワーし、家族全体を支えていくものであり、まさに多文化間カウンセリングの実践ともいえる。
カウンセリングにおける多文化への配慮は、どの心理援助や現場においても念頭に置かれるべきである。価値観の多様化する教育現場において、アサーション教育を導入する学校も出てきている。アサーションとは、「自分の気持ち、考え、欲求などを率直に、正直に、その場の状況にあった適切な方法で述べること」8)であり、「自分も相手も大切にする自己表現」である。アサーションは、多様な価値観が存在する社会で自己と他者を尊重し共生していく意味をまさに伝える実践であるが、多文化社会における心理支援活動の一環として、今後ますます注目されることだろう。

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AI時代にソ連型社会主義は可能か

『純粋機械化経済』より AI時代にソ連型社会主義は可能か
社会主義経済計算論争
 計画経済が市場経済のように円滑に機能するのかどうかといった問いをめぐる一連の議論を、社会主義経済計算論争という。この論争には、ミーゼス、ラング、ハイエクといった経済学者が関わっている。
 まず、オーストリアの経済学者ルートヴィヒ・ミーゼスが、自由競争的な市場経済でなければ価格の決定は不可能だと言って、計画経済の不可能性を示した。
 それに対し、ポーランドの経済学者オスカー・ランゲは、計画経済でも価格は決定できるし、中央計画当局は模索過程を経ることで需給均衡をもたらす価格を決定できると主張した。
 模索過程というのは、まず中央計画当局がとりあえずの価格を提示し、その価格の下で需要が供給を上回るのであれば当局が価格を引き上げ、逆に下回るのであれば価格を引き下げるというものだ。
 そのような模索過程の末に需給均衡価格が得られるというわけだ。市場経済とは違って、個々の企業や店舗ではなく、中央計画当局が試行錯誤しながら適切な価格を見出すのである。
 ハイエクは、価格を決定するために必要な需要と供給に関する無数の情報を一カ所に集めることは現実的に不可能だと言った。このような情報の局在性ゆえに計画経済では妥当な価格の決定はできない、と論じている。
 身近な例を挙げておこう。大学近くのコンビニエンスストアは、大学入試の実施日には利用者が激増するので、普段よりも多くのおにぎりや弁当、使い捨てカイロなどを供給する必要がある。ただし、昼時におにぎりを用意してもほとんど売れないかもしれない。
 なぜなら、一度キャンパス内に入ったら入試が終わる夕方まで受験生は外に出てはいけないとルール付けている大学もあるからだ。私が非常勤講師を務めている早稲田大学にはそのようなルールがある。
 その場合、受験生は朝、入試が始まる前におにぎりを買っていくことになるので、店舗側は朝方に大量のおにぎりを用意する必要がある。
 店舗で働いている人ならば知り得るそうしたこまごまとした情報が、本社の会議室で議題として取り上げられることはまずないだろう。ましてや、中央政府が一国のすべての店舗で必要なそのような決定を逐一とり行うことなど現実的には不可能だ。
 ネットを利用すれば、局在的な情報を一箇所に収集することかできるので、計画経済が可能だという人もいる。しかし、数値化できない現場の情報をいちいちドキュメント化して送信するのも、それを受信して解読するのも不問が掛かる。
 決定する主体と作業する主体が離れている場合には、悄報伝達のフリクション(摩擦)や遅延が避けようもなく発生してしまう。実際に作業する人かその近くにいる人が決定を下す方が、迅速に事が運ぶ。
 そうであれば、現場にいる個々の経済主体が意思決定を行う分権的なシステムの方が、より効率的と言えるだろう。実際、資本主義経済における企業は、近年特に分社化によって意思決定を分権化する傾向にある。計画経済ではその真逆で、意思決定が一極に集権化されているので、効率が悪いことこの上ない。
 これに関して、ハイエクは、
  組織化された価格の体系と、市場によって決定される価格の体系との違いは、各隊、各兵が、特別の指揮と正確な本部の遠隔指令によるのでなければ動き得ないような戦闘部隊と、各隊と各兵が彼らに与えられたすべての機会を利用して動く軍隊との違いと同じようなものであるように見える       --ハイエク『個人主義と経済秩序』
 と述べている。
 計画経済は遠隔指令でのみ動く軍隊に、市場経済は前線の兵が現場の判断で自己決定できる軍隊に対応している。遠隔指令のやり取りをしている間に前者の軍隊が後者の軍隊に撃破されてしまうことは、想像に難くない。
 分権的な経済システムたる市場経済を計画経済によって再現することの不可能性は、ハイエクによって理屈の上で示されただけでなく、ソ連の崩壊によって実地に確かめられもした。結局のところ、それは人の手に余る難事だった。
 レーニンとともにロシア革命を主導したレフ・トロツキーは、革命の反対勢力に対し「おまえたちは歴史のゴミ箱行きだ」などと宣告したが、その70年ほど後には彼らが建設した社会主義国家がまるごと歴史のゴミ箱行きとなった。人の見える手は神の見えざる手の代わりになり得なかったために、社会主義体制の崩壊は免れられなかったのである。
人工知能と社会主義
 20世紀のAI研究とソ連型社会主義は、設計主義という同根の要因によって失敗している。リゾームシステムである人間の脳や市場経済を還元的に(つまりツリー状に)理解し設計主義的に再現できるという人間の驕り、思い違いがそれらの根っこにある。
 それを象徴する出来事がある。マイケル・ポランニーが暗黙知の理論を思い立ったのは、1935年にモスクワでニコライ・ブハーリンと会話を交わしたことがきっかけだった。ブハーリンは、レーニン亡き後の有力な指導者の一人だ。
 「純粋な科学的探求は必要ない」という意見をブハーリンから聞いたポランニーは、ソ連の指導者が人問社会のすべてはメカニカルに把握でき、コントロールできるといった僣越的な意識を抱いていると感じ収ったようだ。
 そのことか元で、ポランニーは折‥学的思考を深めていき、暗黙知の理論を提示するに至る。言葉や論理によっては明確に表し難い身体知や経験知があると主張したのである。ポランニーが、暗黙知の例として挙げたのは人の顔の識別だった。すなわち、それは20世紀のAIには困難だった画像認識である。なお、ブハーリンはこの3年後、スターリンの指示で銃殺された。さらにその48年後にチェルノブイリ原発事故が発生し、技術のすべてを人間がコントロールできるといった僣越的な意識が打ち砕かれた。
 以上の議論を踏まえて言うならば、純粋機械化経済の上にソ連型社会主義のような体制を築いても、望ましい結果はもたらされないだろう。
 神のような知性を持ち、あらゆる工場・店舗の現場の情報を知悉している超AIが中央計画当局に鎮座しており、供給量や価格を完全にコントロールしてくれるというのであれば、一切はその超AI様にお任せすれば滞りなく万事がとり運ばれることになる。
 ハイエクも、
  「偏在し、全能である」ばかりでなく、全知でもあり、したがってすべての価格を、必要とされるちょうどその分だけ、時期を失することなく変更することができるような集団主義的経済の指令機関を考えること自体は、論理的には不可能ではない --ハイエク 『個人主義と経済秩序』
 と述べている。
 神のごとき知性の超AIならば、そのような指令機関(計画当局)の仕事を完璧に務めることができるはずだ。その場合、神の見えざる手に代わって神的AIの見える手が、経済システムを良いあんばいにコントロールしてくれることだろう。ところが、第2章で論じたように、今世紀中に全脳エミュレーションは不可能なので、人間そっくりに振る舞えるAIは出現しない。それゆえ、不測の事態に備えて店舗や工場を責任持って管理する人間の労働者が必要とされ続ける。
 そうしたマネジメントばかりでなく、ホスピタリティやクリエイティヴィティに関わる仕事における人間の活躍も当面は続くことになる。彼らは企業を経営したり、イノベーションを起こしたり、新商品を企画したり、映画を作ったり、保育や介護に携わったりするだろう。
 企業や組織をすべて国営化し、中央計画当局がすべてをコントロールする集権的な経済に移行したら、分権的な経済の強みは失われてしまう。
 適切な価格付けがなされないだけでなく、局所的な情報に基づく商品・サービスの改善やイノベーションが起きにくくなり、ソ連と同じ失敗が繰り返されることになる。純粋機械化経済への移行に際し、「歴史のゴミ箱」からソ連型社会主義を拾いLげてリサイクルしても、望ましい結果はもたらされないだろう。

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豊田市図書館の26冊

389『暴力と輝き』叢書 人類学の転回
361『生きることの社会学--人生をたどる12章』
141.5『へんな問題』ハーバード・スタンフォード流「自分で考える力」が身につく
332.1『現代日本経済』
332.34『エウレギオ 原経済圏と河のヨーロッパ』
007.13『純粋機械化経済』頭脳資本主義と日本の没落
335.12『日本経営哲学史--特殊性と普遍性の統合』
312.1『武器としての世論調査--社会をとらえ、未来を変える』
160.36『宗教事象事典』
210.1『日本人はなぜ「頼む」のか--結びあいの日本史』
361.45『対話をデザインする--伝わるとはどういうことか』
210.76『語り継ぐ昭和平成の時代』戦後74年はじめて年表
371.3『想像力を拓く教育社会学』
289.1『帰ってきた 日々ごはん⑤』
914.6『生きながらえる術』
184『「身軽」の哲学』
116『論理学超入門』
312.9『世界地図を読み直す 協力と均衡の地政学』
312.1『なぜリベラルは敗け続けるのか』
210.19『戦略は日本史から学べ』壬申の乱から関ヶ原の戦いまで「戦い」のシナリオを紐解く
297.6『キプカへの旅』
146.8『カウンセリング心理学』キーワードコレクション
334.31『河合雅司の未来の透視図』目前に迫るクライシス2040
234.07『図説 モノから学ぶナチ・ドイツ事典』
235『歴史家ミシュレの誕生』一歴史学とがミシュレから何を学んだか
289.3『ヘンリー五世--万人に愛された王か、冷酷な侵略者か』世界歴史叢書

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