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対話することばの市民

『対話するデザインする』より 対話することばの市民へ
対話によってことばの市民になる
 このように考えることによって、社会は一つではないということに気づくことができます。
 一般に社会というと、「~国・~民族・~語」といった枠組みを想定しがちですが、実際には、家族をはじめとして、地域の集まり、友好的な仲間たちとのサークル、その他、もろもろの無数のさまざまな社会や共同体(コミュニティ)に同時に属しているわけです。
 そして、その都度、その都度の状況によって、何らかの優先順位をつけながら、わたしたちは行動しているわけですが、本来的に、それぞれの社会や共同体には優劣がないということです。
 むしろ、わたしたちはそうした社会や共同体の枠組みをいつのまにか限定的にとらえ、その自分のイメージのなかに自らを位置づけているのです。
 世間の評価を気にしたり、他人の目を過剰に意識したりする現象は、このイメージに閉じこめられた自己から発生するものです。
 そのような意味では、実体としての社会の中に所属しているのではなく、自分自身の中に、社会や共同体のイメージをつくりあげ、そのイメージそのものが実体としての社会・共同体だと思い込む反転現象が起きていると考えることができます。
 本来は、その社会自体が、ダイナミックに変容する動態だと考えることができるのです。自分と他者の対話によって、この社会そのもののイメージも変容し、つくりかえられていく関係性こそが、個人と社会をつなぐ鍵だということができるでしょう。
 このように、社会を固定的な実体として見る考え方から自由になること、社会は流動的な認識であるという感覚を持つことによって、あなたは自らを閉じこめている現実からどれほど自由になることができるでしょうか。
個人の生き方と対話のあり方
 このことは、民族・国家・言語の境界を絶対視しないことともつながっています。たとえば、「日本人」「日本社会」という自明的な括りを疑うことがその第一歩です。そこでは、「制度が決めたから」「昔からそうなっているから」「みんながそうだから」という理由は成立しません。それは、自己思考による判断の放棄、つまり思考の停止を示すものだからです。そのことに気づいてはじめて、他者を管理せず、他者から管理されない自由を、対話という活動によって尊重すること、そして自己と他者の存するコミュニティのあり方について責任を持つという本来の市民社会が姿を現すのではないでしょうか。
 深く考えて、決して寄りかからず、遠いまなざしを持ち、ゆるやかな連帯を築く、という生き方。つまり、自分の「生きる目的」に沿って、自らのテーマについて十分考えていく、それは決して人のせいにはしない、でも遠くを見よう、そして、そのことによって他者と、あるいはコミュニティの中でのゆるやかな連帯を結ぶことができる、このような生き方です。
 このことが、個人の生活や仕事の充実と活性化にもつながるとわたしは考えています。
 こういう生き方をめざす新しい活動、それをあえて対話と呼びたいのですが、このような認識は、個人と個人、個人と社会を結ぶ視点を支えるものであるでしょう。それぞれの効率的利の追求のあまり、個人のあり方がエゴイスティックなものに陥らないよう、社会的行為主体自身の人間性回復のために何ができるのか。
 より広い意味での自己と他者、個人と社会を結ぶことの意味を考えること、これが、これからの自己・他者・社会を結ぶ対話のデザインとなるものだと思います。
ことばの生活から対話のデザインヘ
 以上の提案は、常に人が「よく生きるとは何か」という問いをわたしたちに投げかけてきます。よく生きるとは、人はなぜ生きるのかという問いと背中合わせです。
 よく生きるということは、自分のことばによる活動を背景として、一人ひとりが社会の中でどのように自分の生活や仕事を展開するかと考えることでもあります。このことを考えるために不可欠なのは、わたしたち一人ひとりの対話のための環境設定・設計であり、同時に自らの人生という大きな枠組みの構想なのではないでしょうか。
 ことばの生活の充実という観点から、それぞれにとっての課題をまとめると、およそ右の図のようになるでしょう。
 まず、ことばの活動の充実として自分の対話活動を位置づけることで、他者との相互理解への道筋をどうつくるかを考える必要があります。さまざまな合意をどのように形成していくかという課題です。それは妥協ということではなく、合意の創造性とでもいうべき問題だと思います。そのためには、その合意形成をできるだけ開放された環境のもとで行うことが重要でしょう。このときに、公的領域として’の公共性という概念が参考になります。
 次に、価値観の意識化と、自らの活動の方向性への意思です。このことは、よく生きるとは何かという問いを持ちつづけることでもあります。
 わたしたちにとって、さまざまな知識や方法の前に、それぞれの問題意識の明確化が不可欠だと思います。「なぜ私は生きるのか」という問いの重要性に気づく必要があります。つまり、自分にとってかけがえのないテーマに向かって活動を行うということが、どのような意味を持つのかということについてたえず向き合っていかなければならないと思います。
 このような問題意識の確立にはことばの活動が不可欠であること、それはまた、知識や情報の自明性を疑うことの意味でもあります。言語活動は、ややもすると、マニュアル化を求め、表層的なスキルや技術の習得を目的としたものになりがちです。これを乗り越え、自らの知の形成に立ち会うために、わたしたちは、ことばによって考え、ことばによって表現し、ことばによって共感する主体とならなければならないからです。
 制度化した言語システムに自分を近づけるのではなく、自らの発見を他者に伝え、それを他者と共有することによって立ち現れてくるものが、それぞれにとっての固有の対話デザインでしょう。
 その一歩が興味・関心のあるテーマと自分との関係をことばによって語ること、それがすなわち、自分のことばで自らを表現することなのです。
 一人ひとりの自由が保障されている社会は、他者の自由を侵害しない社会でもあります。
 自由であることで創造が生まれ、この創造こそが、社会の豊かさにつながります。
 この豊かさは数値で測れません。便利であることは豊かさではないでしょう。とくに他者とともに生きる豊かさ、一人で考えても生まれない創造を生み出すためには、さまざまな仲間たちの知恵が集まる環境が必要です。
 それぞれの対話のデザインによって、人は「私」を語りだし、それが自己と他者の連携と協働を促し、互いの関係世界を分け合うことになります。このことによって共生社会はやがて回復に向かうでしょう。
 このとき、世界の平和への希望を今わたしたちは予感できると思います。

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