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『存在と時間5』目次

第三九節 現存在の構造全体の根源的な全体性への問い
 520 新たな問い
 521 事実性と実存的なありかたの統一
 522 構造の全体性への問い
 523 現存在への道の可能性
 524 理解的な情態性を手掛かりに
 525 現存在のもっとも基本的で根源的な開示態の条件
 526 不安と気遣い
 527 気遣いの前存在論的な解釈
 528 手元存在性と眼前存在性の再検討の必要性
 529 真理の存在論的な解明
 530 第六章の構成
第四〇節 現存在の傑出した開示性としての〈不安〉という根本的な情態性
 531 不安についての問い
 532 本来的な自己からの逃走
 533 逃走の〈何から〉の解釈
 534 解釈の方法論
 535 不安と恐れの類似
 536 恐れと恐ろしいもの
 537 〈離反すること〉と不安
 538 不安を感じさせるものは未規定である
 539 不安の近さ
 540 不安と世界
 541 不安の原因としての世界内存在
 542 不安が開示するもの
 543 不安のもたらす孤独
 544 〈開かれている自由な存在〉
 545 実存論的な独我論
 546 不安のもたらす不気味さの役割
 547 不気味さからの逃走
 548 居心地の悪さの根源性
 549 恐れと不安の関係
 550 不安の生理学的な発生
 551 不安の現象の稀少性
 552 不安が孤独のうちで現存在に示すもの
 553 新たな問い
第四一節 気遣いとしての現存在の存在
 554 現存在の存在規定の統一性
 555 現存在の自己に先立つ存在
 556 現存在の実存性
 557 不気味さからの逃走の場
 558 現存在の存在論的な構造
 559 「気遣い」の根源性
 560 非本来的なありかた
 561 気遣いにおける理論と実践
 562 気遣いの根源性
 563 伝統的な存在論の分析との違い
 564 これらの現象の取り扱い方
 565 「意欲」が可能となる条件
 566 意欲における現存在の可能性の平板化
 567 願望における可能性の閉塞
 568 現存在がすべての可能性を奉仕させる性向
 569 他のすべての可能性を押し退ける衝動
 570 衝動と性向の変様
 571 全体性への問い
第四二節 現存在の前存在論的な自己解釈に基づいた気遣いとしての現存在の実存論的な解釈の検証
 572 歴史的な証言
 573 現存在の歴史性と証言の位置
 574 人間の誕生についての寓話
 575 人間と気遣いの根源的な関係
 576 「気遣い」の二重性の意味
 577 人間の完成とは
 578 普遍化の意味
 579 気遣いの超越論的な普遍性
 580 実存論的な構造の普遍性の意味
 581 これまでの成果の概括の必要性
第四三節 現存在、世界性、実在性
 582 現存在の存在理解
 583 前存在論的な理解
 584 実在性の概念の優位がもたらすもの
 585 方向づけの訂正
 586 「実在性の問題」の内容と本節の構成
(a)「外界」の存在と証明可能性の問題としての実在性
 587 実在性への問い
 588 実在的なものへの通路
 589 世界と「世界」の混同
 590 証明における混乱
 591 カントの「現存在」の意味
 592 カントの証明
 593 カントの証明の欠陥
 594 カントの証明でまだ隠されているもの
 595 カントが前提にしていたもの
 596 真の哲学の醜聞
 597 証明の要求への参加
 598 遅すぎる前提
 599 こうした証明で前提とされている主観のありかた
 600 「実在性の問題」が解決できない理由
 601 必要とされる洞察
 602 実存論的な言明と実在論の違い
 603 観念論の優位
 604 観念論の欠陥
 605 形式的な端緒の可能性
 606 結論
(b)存在論的な問題としての実在性
 607 実在性の解釈の前提
 608 ディルタイの〈抵抗〉の分析
 609 シェーラーの実在性の理論
 610 抵抗の概念の批判
 611 抵抗と世界内存在
 612 コギト・スムの逆転
(c)実在性と気遣い
 613 自然と実在性
 614 実在性と現存在の関係
 615 存在と現存在の関係
 616 存在の依存性
 617 実存論的な分析論の新たな課題
第四四節 現存在、開示性、真理
 618 真理と存在の結びつき--ギリシア哲学から
 619 「真理」の語の意味
 620 真理と存在論
 621 新しい探求の問い
 622 本章の構成
(a)伝統的な真理の概念とその存在論的な基礎
 623 真理についての三つのテーゼ
 624 真理の概念の歴史は考察しない
 625 知性と事物の合致という真理概念
 626 カントの真理の定義
 627 カントの真理と虚偽の区別
 628 真理への存在論的な問い
 629 真理関係への問い
 630 判断における一致の構造
 631 分有への問い
 632 真理の問いの倒錯
 633 認識と判断の分断
 634 認識と真理
 635 言明の真理の意味
 636 言明の真理の意味
 637 真理と世界内存在
(b)真理の根源的な現象と、伝統的な真理の概念の派生的な性格
 638 隠れなさとしての真理
 639 哲学の務め
 640 伝統をわがものとすること
 641 真理の定義と現存在のありかた
 642 現存在の存在様式としての真理
 643 真理の二つの意味
 644 現存在は真理である
 645 「現存在は真理のうちにある」という命題の言い換え
 646 現存在の存在機構には開示性一般が属している
 647 現存在の存在機構には被投性が属する
 648 現存在の存在機構には投企が属する
 649 現存在の存在機構には顛落が属する
 650 新たな露呈の営み
 651 真理の奪取
 652 二つの道
 653 被投された投企
 654 二つの確認事項
 655 真理の理論との関連
 656 一致としての真理の派生的な性格
 657 言明における存在者の露呈
 658 〈一致〉としての真理の由来
 659 言明のもたらす真理
 660 〈露呈されてあること〉としての真理と〈一致〉としての真理
 661 真理の根源の隠蔽
 662 ギリシア人の洞察
 663 ロゴスの二重性
 664 「真理」が言明のありかである
 665 実存カテゴリーとしての真理
(c)真理の存在様式と真理の前提
 666 現存在の存在なしに真理は存在しない
 667 ニュートンの法則の真理性
 668 「永遠の真理」の可能性
 669 真理の主観性
 670 真理の存在の前提
 671 「前提する」ことの意味
 672 真理の懐疑論への反論
 673 懐疑論の反駁不可能性
 674 「理念的な主観」の設定
 675 「意識一般」の理念の否定
 676 キリスト教神学の残滓
 677 現存在の開示性と真理の結びつき
 678 諸学の基礎としての存在論
 679 これまでの成果
 680 新たな課題

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天声人語2019春

『天声人語2019春』より
本の福袋
 中身は買ってのお楽しみ。それが福袋かと思っていたが、近頃はどうも趣が違う。初売りのお店をのぞくと、衣類でも雑貨でも内容が表示されたものが目立つ。透明のビニール製の福袋もあった。わくわく感は減りつつあるか。
 最近は図書館で、福袋を用意するところが増えているようだ。表紙が見えないように包装し、未知の本との出会いを誘う。始めて10年目となるのが兵庫県宝塚市の西図書館だ。子どもたちに向けて約130の包みを作り、新年最初の開館日に並べる。
 昨年の暮れ、準備中のところへおじゃました。英字新聞を使った包みに本のヒントになる一文を添えていた。「ともだちっていいな」「おもいがけないおきゃくさま」「そんなばかな」「だれかを応援」。大人でも開けてみたくなる。
 [背衣紙だけ見ても、手が伸びないかもしれない。でも開いてもらえれば良さが分かるはず。そんな本がたくさんあるんです」。本の福袋を発案した司書の野村京子さんは言う。子どものうちに、いろんな世界を見てほしいのだと。
 考えてみれば、子どもにとって本との出会いは、いつも福袋のようなものだ。たまたま家にあった本、学級文庫にあった本、友だちが貸してくれた本。何か出てくるか、どんな豊かさを与えてくれるのか、開いてみるまでは分からない。
 偶然の出会いの面白さは、大人の読書も同じだろう。その場所は近所の図書館かもしれないし、旅先の書店かもしれない。今年はどんな本にめぐりあえるだろう。
地球180周の旅人
 中近東の砂漠にも温泉場があるんですのよ。わたくし、びっくりしました」。品のある語りで世界各地を紹介した兼高かおるさんが亡くなった。 90歳。 TBS系の「兼高かおる世界の旅」に31年間出演し、旅した距離は地球180周を超えた。
 放送開始は1959 (昭和34)年。パリやローマなど大都会をめぐるだけでなく、独立まもないガーナの実情を探ったり、インド独自の弁当文化に分け入ったり。深みのある取材が人気を集めた。
 大量の機材とテープに、税関で「引っ越しですか」と尋ねられたこともある。現地では寸暇を惜しんでカメラを回した。鏡を見るのは朝の一度きり。「お手洗いの時間がもったいない。なるべくお水も飲みませんでした」。
 番組が好評を博したのは、海外旅行がまだ高嶺の花だったことも大きい。渡航が自由化されたのは番組開始の5年後。欧州への旅には大卒初任給の30倍もの費用を要した。そんな時代に辺境の地から笑顔を届ける兼高さんはあこがれの的だった。
 初期に放送された番組の一つを見直してみた。訪ねたのは激戦地のグアムとサイパン。旧日本軍の防空壕をたどり、指揮官の最期を語る。硬派な作りかと思うと、現在の島民の穏やかな暮らしも紹介していて、旅情を誘う。
 「言葉が通じない」「苦労しに出かけたくない」。近年は海外に出るのをためらう人も珍しくない。兼高さんならこう語りかけるだろう。「あらあら、もったいない。ご自身の目でもっと世界をご覧になって」
東大入試中止から50年
 札幌市に住む大坂谷吉行さん(68)は高校3年生のときに受け取った一通の手紙を今も大事に持ち続けている。送り主は東京大学。黄ばんだ紙にはこう書かれている。「まことに不本意ながら、今年度の入試を中止することといたしました」。
 今から50年前、東大は学生運動のうねりに揺れていた。学生に占拠された安田講堂が機動隊の突入で「落城」したのが1969年1月19日。翌20日、前代未聞の入試中止が決まった。
 東大を目指して必死に勉強していた受験生からすれば、不条理な決定だった。当時の新聞を見ると、入試実施を求める浪人生のデモや訴訟騒ぎも。「結局、受験生という一番弱い立場の人間に混乱のツケが回された」。大坂谷さんは怒りの感情とともに何もする気がなくなったと振り返る。
 地元の北海道大学に進んだが、もやっとした気持ちが残った。|自分の実力を証明したい」と東大の大学院に進学し、博士号を取得。室蘭工業大学の教授などを務めた後、昨年、自らが苦汁をなめた入試中止の歴史をもっと知ってほしいと小説の形にして自費出版した。
 きのう大学受験のセンター試験が始まった。これまでの努力が試される緊張のとき。うまくいった人には祝福を。そうでなかった人も悲嘆するのはまだ早い。
 そもそも人生は寄り道、回り道。「時には想定外のこともある。でも悪いことばかりじゃないさ」と大坂谷さんも力強く言っている。君たちを応援する人は案外多い。もちろん筆者もその一人である。
クライストチャーチの乱射
 英国以外で、最も英国らしいまち。庭園のあるまち。ニュージーランド第3の都市クライストチャーチは、そんなふうに言われる。しかし日本で名前が知られるようになったのは、大きな地震ゆえである。
 東日本大震災が起きる直前の2011年2月、185人の命が地震によって奪われた。崩れたビルに語学学校があったことから、28人の日本人も犠牲になった。その後復興が進むなか、宮城県石巻市などとも交流するようになった。
 今年初めには、米テレビ局から「2019年に訪れるべき19の場所」の一つに選ばれている。そんなふうに地震から立ち直りつつあるまちを襲った惨事である。きのうイスラム教の二つの礼拝所で銃乱射があり、多くの命が奪われた。
 言葉を失うのは、そのやり方の冷酷さである。現地メディアによると、手を下した1人は、銃撃の様子を17分間にわたって動画に撮り、インターネットに流したという。拘束された3人の容疑者の背景はまだ分からないが、一部は「極右思想」の持ち主だと伝えられる。
 多民族国家であるニュージーランドは、各国から移民を受け入れるだけでなく、先住民マオリとの融和も図ってきた。イスラムヘの憎悪をもとにしたとみられる今回の銃撃は、多様性をむねとする社会にとって相いれない犯罪である。
 安全と言われていた地域にも、テロが広がる。恐怖をまき散らし、恐怖を養分として太るのがテロである。毅然とした行動と冷静さだけが、それを阻むことができる。

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アレクサンドリア最後の日々

『図書館巡礼』より アレクサンドリア最後の日々--古代の書物とその保管
「図書館「library」と「本「book」は、別々の言語に起源をもつ--liberがラテン語であるのに対し、bece、buc、bocは、古フリジア語、古ザクセン語、古ノルド語、古英語を含むゲルマン語の一群に由来する。しかし、もとになった言葉の意味は似ている。liberは樹皮を、beceはブナの木を指す。語源はどちらも、書物を作るための森の素材に関連がある。こうした言葉の成り立ちが持つ意味は重要だ。人間が物事を書き記し始めるとまもなく、書物の製作に用いる材料の性質と入手しやすさが、書物と図書館の歴史に深く関与することになった。
紀元前一二○○年頃、ラムセスニ世はナイル渓谷で手に入る主要なすべての素材で作られた書物を揃えた、広大な図書館を設立した。書物の素材は一〇種類以上にのぽり、そのなかにはパピルス草、ヤシの葉、骨、樹皮、象牙、亜麻、石などが含まれた。五〇〇〇年にわたる書物製作の試行錯誤のほんの一場面を収めただけのラムセスニ世のコレクションが物語るのは、書物史のごく一部にすぎない。別の場所、別の時代には、書物は絹や宝石、プラスティック、シリコン、竹、ヘンプ。布くず、ガラス、草、木、蝋、ゴム、エナメル、鉄、銅、銀、金、亀の甲羅、枝角、毛髪、生皮、ゾウの腸などからも作られていた。
書物を製作するうえでは長いあいだ、各地域における入手のしやすさが、どんな材料がどの程度利用されるかを左右してきた。地域で豊富に手に入る材料は、ふんだんに利用できるからだ。チグリス・ユーフラテス川の両岸には粘土が大量に堆積しており、メソポタミアの書記は当然ながら、この粘土を利用して書物を製作した。しかしナイル渓谷には粘土はほとんど存在しなかった。そのため、エジプトにおける最初期の書字板は骨と象牙で作られていた。やがてエジプトの書物は巻物の形式を取るようになり、ナイル川流域に生い茂るパピルス草の髄がさかんに利用された。中国では、ヨーロッパにはるかに先駆けて、群生する竹や日常生活の副産物から紙が量産されていた。
現在のトルコにあった古代都市ペルガモンは、ウシやヒツジ、ヤギなどの放牧地域の中央に位置していた。おかげで羊皮紙を作るための獣皮には事欠かなかった。ペルガモンの巨大な図書館に提供するために、当初は試験的に羊皮紙が使用された。動物の組織ははるか以前からすでに、文書記録を残すために利用されていた。動物はそれまでも書物の歴史に大きく貢献してきており、その後も大きな貢献を続けることになる。羊皮紙は切り分けられた獣皮を洗って引き伸ばし、滑らかに削って作られる。傷のないヒツジ一頭から、二つ折り用紙一枚が取れる。ルイス・バズビーが『黄色い照明の書店』に記したように、小さな本を一冊作るだけで二〇頭分の皮が必要かもしれない「が、残りの部分は食べることができる。卒業証書が羊皮と呼ばれる理由もここにある」。一〇〇〇年には、平均的な大きさの本を一冊製作するのに数十頭、場合によっては数百頭分の獣皮を要した。たとえば、一〇○○ページの聖書を作るには、二五〇頭のヒツジが必要だった。アイザック・ディズレーりは『文学珍奇譚』に、ゾロアスターの『寓話集』を作るために一二六〇頭分のウシの皮革を使用したと伝えられていることを、驚きをもって記している。現存する中世期最大の写本である『ギガス写本』、別名『悪魔の聖書』は、一六○頭のロバの皮から作られたと考えられている。
獣皮、とりわけ野生動物の皮を使う場合、品質はつねに大きな問題となる。たとえば、カンガルーの皮は装丁に用いられてきたが、その品質には大きなばらつきがあることが知られている。雄のカンガルーは長い鈎爪をもつ。カンガルーの原皮には、皮革業者のあいだで「交尾期痕」として知られる引っかき傷が、あちこちに付いていることが多い。中世の写字生もときおり、傷や虫食いによって同じように穴の開いた羊皮紙に対処しなくてはならなかった。傷を絹糸で補修することもあれば、彩飾のデザインに組み込んでしまうこともあった。イギリスのダラムには、七、八世紀の作とされる素晴らしい福音書が残されていて、写字生か機転を利かせて虫食い跡の端を丁寧に装飾した箇所がいくつか見られる。
羊皮紙のなかでも最も上質かつ痛ましい種類と言えるヴェラムーウシの胎児の皮から作られる--は、滑らかで白く、非常に加工しやすい。一九世紀の著名な書誌学者で本に口づけをすることで知られていたトマス・フログナル・ディブディンは、ヴェラム装丁の書物を本好きにとっての至宝と見なした。彼はそれを「羊皮紙でできた宝玉」と呼んだ。ヴェラムは耐久性も非常に高い。ケンブリッジ大学キングズ・カレッジの司書を務めていたとき、ティムーマンビーは一九二五年型のブガッティータイプ四〇を共同で所有していたが、「ひんぱんに道端で分解しなくてはならなかった」。あるとき、その車で遠出をしていると、ガスケットの1カ所から吹き抜けが起こった。マンビドはたまたま、自身の所有する珍しい写本を何冊か持ち合わせていた。試行錯誤を繰り返した結果、ヴェラムがガスケットの代用にちょうどいいことがわかった。そこで、濡れて台無しになった古い交唱聖歌集を裁断して活用した。これで、車好きの人にブガッティの年数を聞かれたら、いくぶんはったりを効かせて、「この車の一部は一五世紀のものなんですよ」とさらりと応じられるようになった。
学者たちは、記録用材の入手しやすさと著述活動の隆盛、さらには図書館の発展のあいだに関連性があることに気づいていた。ヘロドトスによると、紀元前五〇〇年のペロポネソス半島では、記録用材としてパピルスが好まれていた。アテナイの人々がエジプト産のパピルスを大量に輸入し始めると、それに続いてアテナイでは文芸作品が次々に書かれて、図書館が繁栄した。アリストテレスがリュケイオン(紀元前三三五年頃に設立)のために構築した研究図書の厖大なコレクションを代表とするそれらの図書館は、特筆すべき二つの事象の揺藍の地となった。すなわち、西洋流の学究形式が生まれ、建築物の「読み、書き、対話するための空間」という特性が創造されたのだ。これは、古代から中世、ルネサンス、さらにはその後に続くあらゆる学術図書館、修道院図書館、公共図書館に共通する特徴となった。
アテナイで図書館が花開いてから五世紀を経て、同じことがローマで繰り返された。パピルスを豊富に入手できるようになったことから、ローマにおいて書物の製作がさかんになり、図書館が形成されたのだ(反対に、二世紀にプトレマイオス朝がエジプト産パピルスの輸出を禁止したときには、古代世界全体の著述家と読者に困難が生じた)。このパターンはその後も続いた。初期キリスト教の時代、羊皮紙--パピルスに代わる、より信頼性の高い記録用材として好まれた--の供給が増えたおかげで、修道院での冊子本の生産が可能になった。一六世紀には、印刷術の登場に伴う紙の使用の増大が、エリザベス朝イングランドにおける文芸の目覚ましい隆盛を下支えした。
ラムセス二世の図書館に所蔵されていたのは、私たちの知る紙ではなく、パピルス紙で作られた書物だった。書物の製作に紙が使われるようになったのは、もっとずっと後年だ。だが図書館には、北東の肥沃な三日月地帯から輸入した粘土板もあった。物理的な形態の文書を収蔵した最初期の図書館は、紀元前三一〇〇年以前にこの地方で登場したと考えられている。当時の図書館はさほど大きくない保管室から成り、そこに数万点の正方形や長方形の粘土板が所蔵されていた。粘土板はどれもチュリンガの半分ほどの長さで、それぞれ標識で覆われていた。書字板は丁寧に整理され、棚の上や箱の中に置かれていた。エブラやマリ、ウルクの書庫は、こうした単純な図書館の典型だ。メソポタミア一帯の書記は、「楔形文字として知られる複雑な書体を使って、アッカド語、エラム語、ハッティ語、ヒッタイト語、ウラルトゥ語など、現在のシリア、イラク、イラン西部にあたる文明の揺りかごと呼ばれる地域で使用されていた一五もの言語を書き残した。
メソポタミアの書記は逆V字型の尖筆を使い、湿った粘土に(音を示す)記号を正確に刻みつけて襖形文字を書いた。この文字に名前を付けたのは、オックスフォード大学でヘブライ語の欽定教授とアラビア語のローディアン教授を兼任したトマス・ハイドだった。ハイドはこの記号を見て、「楔」を意味するラテン語の「回g回」を想起したのである。この文字は非常に複雑だったので、近代初期の考古学者のなかには、それが文字であるといっさい認めない者もいた。たとえば、二つの教授の肩書をあわせもつハイドは、一七〇〇年に刊行されたペルシャに関する著書のなかで、ペルセポリスで出土した碑銘に楔形文字が残されていたことを悔やむ心情を吐露している。というのも、それらにたいした意味はなく、「研究者の多くの時間を無駄にしてしまいそう」だからだというのだ。ハイドによれば、これらの碑銘は楔形文字が書字ではありえないことの証左だった。碑銘に刻まれた記号はどれも、一度きりしか使用されていなかった。とすれば、たんなる遊び半分の試み、たったひとつの要素から芸術家がどれだけ多くの異なる組み合わせを作れるかを確かめる試みにすぎなかったに違いない--要するに、この記号の組み合わせは、謎めいたヴォイニッチ手稿やボルヘスの無限の図書館の意味を成さない蔵書と同じように、何の役にも立たないというわけだ。

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拡がる学習機会の地域格差

『持続可能な地域のつくり方』より 未来を切り拓く力を育む 「次世代教育」
大学がたくさんある都道府県ほど、高校生の大学進学率が高い。トップの東京には138の大学があるのに対して、最下位の島根・佐賀には2大学しかない。近所に大学があれば、大学生と知り合ったり、関連イベントに参加したりと、新しい学びに触れられる機会が増える。確かに、東京大学や東京蕎術大学のお膝元である東京都文京区、台東区などの小学校では、美大生によるアート講座、一流科学者の実験教室、五輪経験者によるかけっこ教室など、誰もがワクワクする学びの機会が大学や大学生・卒業生グループにより提供されている。地域で暮らす子どもたちと比べて、最先端の学習機会に恵まれているのは明らかだ。
一方、地域での暮らしは、昔ながらの濃密な人間関係、子どもたちの好奇心・冒険心・身体力を育む自然体験ができる機会に恵まれている。「飯が食える魅力的な大人を育てる」をコンセプトにュニークな教育を行う花まる学習会の代表、高漬正伸氏は、幼少期には何よりも外遊び、自然体験が重要だと提唱している。私も過去の体験や子どもたちの姿から、自然体験が人生基盤を作るという考え方には大賛成である。
私自身、大都市圏の子どもたち、地方圏の子どもたち両方と学校の授業を通じて接する機会がある。小学生を見ている限りは、子どもたちに学習意欲の違いは感じられない。しかし、中学生・高校生と年齢を重ねていくにあたって、学習意欲を失っていく若者が多いこと、それが特に地域に多い印象は抱いていたが、確信は持てていなかった。
そんな折に、大きな衝撃を受ける調査に出会った。2017年実施の「学習意欲とつながりに関する調査(以降、学習意欲調査)」である。この調査では、都市の人口規模(政令都市、県庁所在都市、その他市部、町村部)と中学生・高校生の学習意欲、困難なことへの挑戦意欲、将来の展望などに差があり、人口規模が小さくなればなるほど、多くの項目で低下することが報告されている。
学習意欲の格差
 同調査によると、「学ぶこと、勉強することが好きだ」と回答した全国の中高生は3分の1程度の36・2%にとどまる。その回答率は、人口規模が小さくなるに連れて、下がる傾向があり、政令指定都市と町村部では8・7ポイントの差がある。
 「うまく行くかわからないことにも積極的に取り組む」というチャレンジ姿勢に関する項目でも、同様の傾向で政令指定都市と町村部で10ポイント以上の差がみられる。
将来展望(将来の夢・希望・可能性)の格差
 「私は将来なりたい職業、夢がある」と回答した中学生・高校生は全国平均で46・9%と半数に満たない。半数未満というと低いように見えるが、大学生や高校生相手の授業をしていると、私が学生時代(90年代)に比べて学生たちが真剣に将来のことを考えていることによく驚かされる。有名大学に進学する、大企業に勤めあげる、そんな分かりやすい成功への道がなくなっていることを学生たち自身が一番実感しており、自分なりの道を模索している証かもしれない。
 地域の人口規模で最も大きな差が見られる項目が「私は今後お金持ちになれる可能性がある」と回答した割合である。政令指定都市では44・O%なのに対して、町村部では27・5%と15ポイント以上差がある。経済的成功者の話題や成功ストーリーに、インターネットやテレビなどを通じていくらでも接触できる時代である。しかし、今自分が暮らしている狭い生活環境、人間関係の中では、「自分がお金持ちになれる」という未来をリアルに描きにくいのが、町村部で暮らす子どもたちの実態のようだ。
自己肯定感の格差
 日本人は「自己肯定感」が低いという調査結果をよく眼にする。内閣府実施の国際比較調査によると、「自分白身に満足している」という若者の割合が、45・8%と半分を切り、アメリカ、イギリス、ドイツ、韓国からも大きく離されて、最下位である。学習意欲調査でも「自分自身のことが好きである」は26・5%と非常に低い。なかでも、町村部の子どもは21・7%と政令指定都市の子どもと比べて7・3ポイントも低い。
学習意欲、将来展望、自己肯定感の関係性
 将来展望、自己肯定感、学習意欲の3つの間には一定の相関関係が見られる。学習意欲を高めるためには、自己を肯定し自分に自信を持つこと(自己肯定)、そして将来の夢を描き自分の未来に可能性を見出すこと(将来展望)が鍵を握っているのだ。
 そして、大都市圏と町村部の間で、自分の明るい将来を描き大きな夢を持つ機会、自分自身に自信を持ち自分を肯定できる機会が不足しており、それが原因で子どもたちの学習意欲、さらには学力の格差が生まれている可能性がある。

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