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独我論と哲学的自我

五・六 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。
五・六一 論理は世界に充満している。世界の限界は論理の限界でもある。
 したがって我々は、論理の内部で、「世界にはこれとこれは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
 一見すると、そのように語ることでいくつかの可能性が排除されるように思われる。しかし、それはできない相談だ。というのも、そのように語ることができるのは、論理が世界の限界を外側からも眺めうる場合に限られる--それゆえ、その場合には論理が世界の限界を超えていなければならないことになる--からである。
 思考できないことを我々は思考できない。それゆえ、思考できないことを我々は語ることもできない。
五・六二 以上の見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
 すなわち、独我論の言わんとすることは全く正しい。ただし、それは語ることができず、示されるものなのである。
 世界が私の世界であるということは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が、私の世界の限界を意味するということに示されている。
五・六二一 世界と生とはひとつである。
五・六三 私は、私の世界である。(小宇宙。)
五・六三一 思考し表象する主体なるものは存在しない。
 『私が見出した世界』という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告し、また、身体のどの部分が私の意志に従い、どの部分が従わないか等々のことについても語らなければならないだろう。これは要するに、主体を孤立させる方法であり、あるいはむしろ、ある重要な意味で、主体が存在しないことを示す方法なのである。なぜなら、この本のなかでは主体だけが、論じることのできないものとなるからである。
五・六三二 主体は世界に属さない。主体は世界の限界なのである。
五・六三三 世界のなかのどこに形而上学的な主体が認められうるというのか。
 事情は眼と視野の関係と同じだと君は言う。しかし、君は実際に眼を見ることはない。
 そして、視野のうちにあるどんなものからも、それが眼によって見られているということは推論されない。
五・六三三一 つまり、視野は決してこのようなかたちをしていない。
五・六四 ここにおいて、独我論を徹底させれば純粋な実在論と一致するということが見て取られる。独我論の自我は空間的広がりをもたない点へと収縮し、自我に対応する実在が残される。
五・六四一 それゆえ、哲学が心理学とは異なる方法で自我を論じる意味は、確かにある。
 自我は、「世界は私の世界である」ということを通して哲学に入り込む。
 哲学的な自我。それは人間ではなく、人間の身体でもなく、また、心理学が扱うような人間の心でもない。それは形而上学的主体、すなわち、世界の部分ではなく世界の限界なのである。

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OCR化した8冊

『中国S級B級論』
 野蛮でパワフルな成長と発展
  ライドシェア--血みどろの〝真の自由競争〟
  乗り捨て型シェアサイクル--大胆すぎる社会実験
  1年間に2500万台を投入し、放置自転車の山
  野蛮な試行錯誤が新たなビジネスを生む
 シェアリングェコノミーと無業の遊民
  サブスクリプション、ギグェコノミー
  S級ビジネスを支える「無業遊民」
  「日本で働く彼女と給料変わらないんです」
『日本の異国』
 絶賛拡大中の新しいコミュニティ、中国 静岡県御殿場市
  富士と雪の街にあるインバウンドの最前線
  御殿場アウトレット初の中国人店長
『図書館と読書をめぐる理念と現実』
 アメリカ公立図書館を基点とする公共図書館モデルの再検討 オルタナティヴから逆照射されるもの
  はじめに
  アメリカ公立図書館モデル
   アメリカ公立図書館モデルの成立
   アメリカ公立図書館モデルを取り巻く社会環境と公共図書館サービス
   国際図書館連盟による公共図書館モデル
   基本モデルとしてのアメリカ公立図書館モデル
  パブリック・ライブラリー・モデル
   パブリック・ライブラリー・モデルの導入
   パブリック・ライブラリーの一形態としての先住民図書館
    先住民図書館の特徴
    部族図書館の運営形態・サービス
   パブリック・ライブラリーの一形態としてのコミュニティ図書館
    コミュニティ図書館の実態
    コミュニティ図書館の運営モデル
    コミュニティ図書館への公共図書館理念の移設
  考察:公共図書館の位相
   公共図書館運営モデルの検討
   公共図書館理念の検討
  おわりに
『持続可能な地域のつくり方』
 未来を切り拓く力を育む 「次世代教育」
  未来とつながる17本の川
  拡がる学習機会の地域格差
   学習意欲の格差
   将来展望(将来の夢・希望・可能性)の格差
   自己肯定感の格差
   学習意欲、将来展望、自己肯定感の関係性
  弱体化する育の生態系
   経済格差からつながり格差へ
   ななめのつながりが学習意欲を高める
  激変する働く環境と必須スキル
   テクノロジーヘの危機意識
   代替される仕事、されない仕事
   人間中心に思考し、人を動機づける力
   自らゴールを設定し、自ら動く力
   大量生産社会のための横並び教育
  対話型デザイン教育を地域に
   対話型教育とは
   対話型教育から対話型デザイン教育へ
   デザインとは、人間の行動・感情・本能を深く理解し、人・地域・社会が抱える課題を解決するアイデアを発想し、カタチにする行為
  対話型デザイン教育実践のポイント
   ポイント1 段階的に対話を学ぶ
   ポイント2 「問い」を大切にする
   ポイント3 正解へ導かない
『図書館巡礼』
 アレクサンドリア最後の日々--古代の書物どその保管
 ラブレター--未来の図書館
『天声人語2019春』
 本の福袋
 地球180周の旅人
 東大入試中止から50年
 クライストチャーチの乱射
『コーヒーの歴史』
 スペシャルテイコーヒー
  スペシャルティの誕生
  スターバックスのはじまり
  コーヒーショップを構成するもの
  コーヒーチェーン店の覇者
  国際化
  サードウェーブ
  シングルサーブ・コーヒー
  エシカル・コーヒー
  消費のグローバル化
  新しい時代
『独裁と民主政治の社会的起源』
 アメリカ南北戦争--最後の資李王義革命
  プランテーションと工場--必然的対立か
  アメリカ資本主義の三つの発展形態
  戦争原因の説明を求めて
  革命原動力とその挫折
  戦争の意味

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アメリカ南北戦争 戦争の意味

『独裁と民主政治の社会的起源』より アメリカ南北戦争--最後の資本主義革命
南北戦争は革命であったのかどうか。確かに、圧政者に対抗する民衆蜂起という意味では、革命ではなかった。南北戦争の意味を評価すること、即ち、それを現在でも進行中の歴史の中に位置づけることは、その原因と経過を説明するのと同じように難しい。一般的に述べて、革命が持つひとつの意味は、政治制度が暴力的に破壊され、それ故に社会が新しい進路を採るようになることにある。南北戦争以後、産業資本主義は急速に発展した。これは明らかに、チャールズ・ビアードが「第二のアメリカ革命」という表現を用いた時、心に描いていたものであった。しかし、産業資本主義が爆発的に成長したのは、南北戦争の結果であろうか。また、革命という言葉から連想される要因の中で、最も穏健なものと言える人間としての自由に対しては、どのように貢献したのであろうか。憲法第一四条修正条項では、いかなる人の生命、自由、財産を奪うことも各州に禁じているが、歴史を見ればこの規定が様々な解釈を許してきたことは明白である。教養ある人なら誰もが知っているように、修正第一四条は黒人を守るために殆ど何もしてこなかったが、企業を守るためには極めて多くのことをしてきた。ビアードはこの修正条項の起草者が本来持っていた意図はそこにあったと主張しているが、その意見に反対する人も何人かいる。もっとも、立法意図がどこにあったかはあまり重要でない。ただし、結果がどうであったかについては、疑問の余地がない。詰まるところ、南北戦争の評価は、現代アメリカ社会の自由をどう評価し、先進産業資本主義の諸制度と南北戦争との関連をどう評価するかによって決まる。もっとも、このような問題は書物をもう一冊書いたとしても、論じ尽せないであろう。それ故、筆者は比較的重要な考察をいくつか簡単に述べるだけにしたい。
北部の勝利と同時に、またその後にも、いくつかの非常に重要な政治変動が現に生じていた。この変動は次のように要約できるであろう。つまり、連邦政府は所有、特に大所有を守る防壁となり、「持てる者は更に与えられる」という聖書の一節を実行する代理人となった。防壁とはまず、合衆国の統一それ自体が堅持されたことであった。戦後に西部が移住者で満たされたので、合衆国は世界最大の国内市場のひとつとなった。この市場は同時に、合衆国の歴史始まって以来、最も高率の関税で守られた市場でもあっ摩各州政府は修正第一四条を用いて、所有権を不合理なまでに手厚く保護した。同様に、通貨も国立銀行制度と正貨支払いの再開によって、しっかりと足場を固めた。もっとも、以上の政策が、かつて考えられていたほど、西部農場主に損害を与えたかどうかは疑わしい。彼らが戦時中と戦後しばらくの間、かなりうまくやっていたことを示す証拠も七匹。彼らは少なくとも、西部の公有地開放(一八六二年のホームステッド法)によっていくらかの埋め合わせを得た。政府が既に引用した聖書の一節の代理執行人になったと言うのは、まさにこの点を指している。また、鉄道は莫大な補助金を受け、製材業や鉱業も公有地払い下げにより繁栄の基礎を得た。最後に、以上の政策により労働力を失う可能性がある産業に対する埋め合わせとして、連邦政府は引き続き移民に門戸を開いていた(一八六四年の移民法)。ビアードが述べたように、「フェデラリストとホイッグが二世代にわたって試みたすべてが、四年という短期間に勝ち取られ、更にそれ以上のものも得られた。」ただし、「四年という短期間」は誇張である。上述の政策のいくつかは南部再建(一八六五-一八七六年)の一部でもあり、正貨支払いは一八七九年まで再開されなかったからである。もっとも、再建は明らかに闘争の一部であるから、これは些細な問題であろう。過去を振り返り比較して、一八六〇年にプランターが立てた計画--連邦規模で奴隷制を施行し、高率保護関税に反対し、補助金にも、金がかかるので税負担を増す国土開発にも反対し、国立銀行制度と国家通貨制度に反対するもの--が実行されたとしたら、一体、何か起こったかを考えれば、次の議論は実際に強い説得力を持ってくる。それは即ち、南北戦争が、プランテーション経済という束縛に対する産業資本主義の勝利であり、この勝利を得るためには血と鉄が必要であったという議論である。
しかし深く考えてみると、そのような確信は大部分、消え去るかも知れない。ピアード自身の立場も極めて曖昧であることに注目する必要がある。先に要約した北部資本主義の勝利を語った後に、「これまで述べた第二のアメリカ革命がもたらした主要な経済的結果は、武力紛争が起こらなかったとしても達成されていたであろう……」と彼は述べている。もっとも、ある一流歴史家が書いた挑戦的な著作でこの問題に光が当てられているのを除けば、ピアードのこの見解は全く議論の対象になっていない。南北戦争が産業資本主義デモクラシーの革命的勝利であり、その勝利にとって戦争が必要であったという主張に対しては、次に挙げるように、相互に関連する三つの批判が加えられよう。第一に、南北戦争とその後の産業資本主義の勝利との間には、真の関連が全くないと言えるかも知れない。つまり、関連があると論じるのは、時系列を因果律で置き換えるという過ちを犯すことになるかも知れない。第二に、南北戦争以後の変化は、通常の経済発展が進行することによって自然に起こりつつあったから、変化を生じさせるために南北戦争は必要でなかったと言えるかも知れない。最後に、本章で先に詳しく述べた事実に基づいて、北部と南部の経済が本当はそれほど深刻な競合関係になかった、即ち、両者は良くて相互補完的であり、悪くても、南部が綿花の大部分をイギリスに売っていたというように、偶然の出来事により結びつかなかっただけであったと、論じることもできるであろう。
これらの批判に対しては、プランテーションに支配される南部社会が、産業資本主義デモクラシーが確立するにあたって極めて大きな障害となっていたことが示される場合にだけ、有効な反論がなされるであろう。プランテーション奴隷制がデモクラシーの障害であったこと、即ち、人間の平等--たとえ、それが機会の平等だけに限定されていても--と人間の自由を最低限目標としているデモクラシーであればいかなるものにとっても、障害であったことは事実に現われている。もっとも、この点を認めても、プランテーション奴隷制が産業資本主義自体の障害となったことは立証されない。また、比較検討することで、前述の民主的目標を掲げない--より慎重に言えば、それが後回しにされる--社会においても、産業資本主義が確立され得ることは明らかである。一九四五年以前のドイツと日本は、その主張を支える主な実例である。
ここでもう一度、政治的諸問題と、南部の文明と北部及び西部の文明という、二つの相異なる文明の両立不可能性の問題に目を向けたい。労働抑圧的な農業、特にプランテーション奴隷制は、特定の歴史段階において特別な形態の資本主義--他に適当な用語がないので、競争デモクラシー的資本主義と呼ばねばならない--の障害になる。奴隷制は清教徒革命、アメリカ独立革命、フランス大革命を実際に継承した社会にとって、脅威であり障害であった。南部社会は、人間価値の基準としての世襲的地位に確固たる基礎を置いていた。一方、北部では西部と同じに、変わりつつあったとはいえ、まだ機会均等という考え方が根強かった。いずれの地域においても、経済的諸制度が理念に魅力や勢いを与え、理念はその経済的諸制度を反映したものであった。ひとつの政治体の内で、両方の理念を満足させる政治・社会制度を確立することは本質的に不可能であったと、筆者は考える。かりに両者が地理的に離れていたなら、また、かりに南部がたとえば植民地であったなら、黒人を犠牲にして、当時、この問題を解決することはおそらく容易であったろう。
北部の勝利--その結果が極めて両義的であったにせよ--が、南部の勝利が意味したであろうものと比較して、自由の政治的勝利であったことは議論を更に必要としないほど明らかであろう。もっとも、一九世紀半ばに南部プランテーション体制が西部でも確立して、北東部を包囲したとすれば、何か起こったであろうかということだけは考えるべきである。そのような場合、アメリカ合衆国には大土地所有制経済、有力な反デモクラシー的貴族層、弱体かつ依存的な商工業階級が見られ、合衆国は政治的デモクラシーの方向に前進することができないし、また、その気もないような、今日の近代化途上にあるいくつかの国々と同じ立場にいたであろう。大まかに言って、それがロシアの状況であった。ただし、一九世紀後半のロシアの農業には、アメリカと比較して商業営利的要素はあまり強くなかった。そのような状況では、しっかり根づいた政治的デモクラシー--たとえ欠点や不備があるにしても--よりも、ある種の急進的爆発や長期にわたる半ば反動的な独裁制が生じる場合が多い。
奴隷制を打倒することは決定的な一歩、即ち、イングランド内乱やフランス大革命で絶対君主制を打倒したことと、少なくとも同じ位に重要な行為であり、後の発展にとっても必要欠くべからざる準備であった。南北戦争で成し遂げられたことは、イギリスやフランスの暴力争乱と同様に、言葉の広い意味で政治的なものであった。アメリカにおいては、後の世代がこの政治的枠組に経済的内容を盛り込もうとした。彼らはそのために自身の運命を決定する物質的手段を手に入れさせることにより、人々の水準をある種の人間の尊厳という概念に向けて引き上げようとしたのである。その後に起こったロシア及び中国の革命も、これまでのところは大体において手段が目的に優先し、目的が歪曲されているとしても、アメリカと同じ目的を持っていた。アメリカ南北戦争を適切に評価して位置づけるならば、このような文脈から見なければならないと、筆者は確信している。
連邦政府が奴隷制を実施しなかったのは決して些細なことではない。奴隷制という障害が取り除かれていなかったならば、例えば、組織労働者が後に法的・政治的承認を勝ち取ろうとした時に、大きな困難に直面したであろうことは想像に難くない。もっとも、南北戦争が終結して以来、様々な運動が自由の範囲と意味を拡大することを目指したが、数多くの障害にぶつかった。その主な理由は、一八六五年の勝利が不徹底な性格を持ち、その後、次第に北部と南部の資産家層による保守連合が形成されたことにある。更に、このような不徹底性は産業資本主義の構造に組み込まれた。南部では戦前に存在した抑圧の大部分が、新たにより純経済的な装いをまとって戻ってきたし、産業資本主義が成長、拡大するにつれて、南部のみならず合衆国全体にも新たな形態の抑圧が現われてきた。連邦政府は、もはや逃亡奴隷諸法の適用に関わらなかったにせよ、新たな形態の抑圧に対しては、沈黙するか、その手段として働くかのいずれかになった。
黒人問題に関してだけは、連邦政府はごく最近になって、以前と逆の方向に動き始めた。この文章を書いている時点二九六五年ごろ〕で、合衆国は黒人市民権をめぐる激しい闘争、今後も盛衰を繰り返すと思われる闘争の真っただ中にいる。この闘争は黒人だけでなく、更に多くの人々をも巻き込んでいる。アメリカの歴史的特殊性ゆえに、アメリカ社会最下層の中核をなしているのは黒い肌を持つ人々である。黒人層はアメリカ社会の中で積極的な不満を抱く一大勢力であり、世界最強の資本主義デモクラシーの性格を変革しようと努力できる、現時点ではほぼ唯一の潜在的土壌である。ただし、この潜在力が将来、何物かに成長するか、分裂して消滅するか、または、他の不満と合体して有意義な結果をもたらすかどうかは、全く別の問題である。
黒人とその味方である白人による闘争がどのような推移をたどるかは、根底において、現代資本主義デモクラシーが自ら掲げた崇高な宣言--これまでいかなる社会も実行したことのないもの--に基づいて行動する能力があるかどうかという点に関係する。このように考えると、南北戦争の評価と解釈の根底に内在する両義性に近づくことになる。もっとも、この種の両義性は歴史の中に繰り返し現われるものである。例えば、二人の著名な自由社会の指導者が戦死者への追悼演説をする際に、時は二〇〇〇年以上も離れていながら、共に自らの理念を表明した事実は決して単なる偶然ではない。ペリクレスとリンカーンが行ったことや当時実際に起こったことを、彼らが述べたことやおそらく望んだであろうことと、批判的歴史家が比較しようとする時、その歴史家にとってペリクレスもリンカーンも両義性を秘めた人物となる。彼らが言明したことを実現するための闘いは、まだ終わっていないし、人類が地球上にある限り終わらないかも知れない。歴史の両義性を解き明かすために、これまで以上に深い洞察を加えても、歴史の中で化石化したと思われている事実だけでなく、自分自身や仲間の中にも、結局は両義性を見出すことになろう。我々は好むと好まざるとにかかわらず、両義的な出来事の動きのただ中にいるのであり、個人としての役割がいかに小さく、無意味であっても、過去が未来にとってどのような意味を持つようになるかを決定するために、一定の役割を演じているのである。

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スターバックス コーヒーチェーン店の覇者

『コーヒーの歴史』より スペシャルテイコーヒー
スターバックスのはじまり
 スターバックスは、1971年に大学時代の友人3人で出した店からはじまった。当初はアルフレッド・ピートが焙煎するコーヒー豆を売る店であり、のちに彼らは、ピートの深煎りスタイルを採り入れたコーヒーを店で出すようになる。ハワード・シュルツはブルックリンの会社--この店に器具を供給するうちの一社だった--のセールスマンだったのだが、1982年にこの店を訪ね、創業者たちに自分を販売と宣伝担当部長として雇ってくれるよう頼んだ。そして1983年にシュルツはミラノを訪問した。そこで、私の人生とスターバックスのそれからを決めるインスピレーションとビジョンを見つけた……。もしわれわれがアメリカで、イタリアの本物のコーヒーバール文化を再現させることができれば……スターバックスは単なるコーヒーの大規模小売店に終わらず、偉大なる「経験」を提供する場となりうるのだ。しかしシュルツは創業者たちに自分の主張を受け入れさせることはできなかった。彼はスターバックスを去り、1986年に「イル・ジョルナーレ」というコーヒーショップを出した。イタリア人が地元のバールを頻繁に訪れることから、「毎日」という意味だと思っていた「ジョルナーレ」を店の名にしたのである(実際には「新聞」という意味だった)。
 シュルツのビジョンのなかで、解釈や読みが正確でなかったのは店名だけではなかった。アメリカ人客はイタリアのバールのように立ったままカウンターでコーヒーを飲むよりも、テーブルに座っておしゃべりを楽しみたかった。また、職場にコーヒーをもち帰れるように、磁器のカップよりも紙コップを好んだ。そしてオペラのBGMや蝶ネクタイを締めたバリスタは、太平洋岸北西部のカジュアルな雰囲気には合わなかった。
 シュルツが路線に変更をくわえ、アメリカ人客のニーズに合った「イタリア風」コーヒーを提供する店にすると、事業は軌道にのりはじめた。1987年、シュルツはこのスタイルの店をスターバックスで展開することにした。当時、創業者の最後のひとりがピートの店を引き継ぐためにサンフランシスコヘと移ったため、シュルツはスターバックス社を買ったのである。
コーヒーショップを構成するもの
 コーヒーショップのスタイルはふたつの要素で決まる。コーヒーと店の環境だ。そして客は、コーヒーの代金を支払うことで店の環境を整えるコストを負担するのだ。
 イタリア風のコーヒーは、アメリカの消費者にスペシャルティコーヒーを広めるのにぴったりだった。ミルクの甘味を通しても、エスプレッソがもつ特色のある苦味がはっきりと感じられた。一番人気のメニューとなったのがカフェラテだ。泡立てたのではなく蒸気で温めたミルクは、カプチーノより濃さも甘さも強かった。フレーバー付きのシロップをくわえることで、スターバックスでは注文によってフレーバーを変え、エッグノッグニフテ[泡立てた卵、砂糖、ナツメグ、ラム酒を使ったラテ]など季節ごとの飲み物を提供することもできた。また、本物であることよりも重要だったのが親しみやすさだ。スターバックスの標準的な「トール」サイズのカプチーノはイタリアの2倍の量であり、また甘味も強い。
 1994年には、アメリカのスペシャルティコーヒーを出す店では、一般的なコーヒーよりもエスプレッソをベースとした飲み物のほうが多く売れていた。新鮮な豆を挽き、マシンで1ショットを抽出し、ミルクを泡立てて注ぎ、シナモンやチョコレートの液や粉を振りかける。バリスタが実演する「職人技」は客の目の前で行なわれ、それはコーヒーを淹れるという行為にある種の付加価値を与えた。客は、家では作れない特別なコーヒーに高い対価を支払おうという気になるのである。
 コーヒーを楽しむ快適な環境は、価格に十分に反映されていた。ソフア、店内に流れる音楽、新聞、赤ちゃんのオムツ替えの設備が整った清潔なトイレ。これらすべては、客にコーヒーを楽しませる「20分間の事業」を作り出すためのものであり、コーヒーは店が提供する施設の「使用料」なのだ。カウンターに来た順番通りにコーヒーを提供するのは「民主的」な雰囲気を演出し、またアルコール類を出さないことは、女性や子供、アルコールを飲まない人たちにとってここは「安全な」スペースであることを意味した--つまり、スターバックスはだれもが入れる店なのだ。
 アメリカの社会学者であるレイ・オルデンバーグは、職場でも家庭でもない「サード・プレイス(第3の場所)」では、見知らぬ人同士が肩肘はらずにふれあい一種のコミュニティが生まれると説き、シュルツはスターバックスがこの「サード・プレイス」の見本であると宣言した。しかし行動研究によると、見知らぬ人同士のあいだに会話がはじまるという証拠はほとんど見出せていない。コーヒーショップの魅力は、人々に囲まれていても、それとかかわる必要がない点にあるのだ。くわえて、ノートパソコンや携帯電話、インターネットといったデジタル技術の発達も、コーヒーショップの環境や雰囲気を「消費」しつつ、個々人が店内で仕事をしたり、ソーシャル・メディアの会話に没頭したりすることに拍車をかけている。
コーヒーチェーン店の覇者
 シュルツはスタしバックス拡大のための資本調達に長け、1992年には株式公開を行なった。そしてひたすら好立地の物件を獲得していったが、そうした場所は同じ通りの近くにスターバックスの別の店舗がある場合も多かった。だが、人はコーヒーを買うためだけに毎日の行動範囲から大きくはずれようとはしないものだ。結局は、この戦略にはスター、バックス全体の売り上げを伸ばす効果があった。そしてまた、いったんスペシャルテイコーヒーを飲むようになると、場所がどこであれ店を見つけたらそれを飲みたくなるため、スターバックスだけでなく、スペシャルテイコーヒーを扱う店全体の売り上げを押し上げた。
 スターバックスの特別な地位を維持するためには、ブランディングは欠かせなかった。客がどの店に入っても必ずまったく同じ経験ができるように、スタッフはサービス・マニュアルに従い、完全に同一のコーヒーを滝れる必要があった。このためそれまで使っていたイタリア製エスプレッソマシンに代えて、ボタンを押すだけのスイス製全自動エスプレッソマシンを1999年に導入した。またセレブたちを雇って「来店」してもらい、スターバックスのロゴ付きテイクアウト用カップでコーヒーを飲むようすを撮影した。スターバックスはコーヒーショップの覇権的ブランドとしての地位を守り、そしてその力は絶大だったため、事実上、「ヲーヒーショップすなわちスターバックス」とだれもがイメージする状況にまでなったのである。
 2016年には、前日に飲んだいつものコーヒーはなにかと聞かれた多くのアメリカ人が、「グルメコーヒー」つまりはスペシャルティコーヒーだと答えたと報告されている。2008年以降、エスプレッソをベースとした飲料の消費が3倍になったこともこの大きな要因であり、さらにその影響で、ダンキン・ドーナツやマクドナルドといった、人々が日常的に立ち寄るファストフード・チェーンや小さな商店でもこうしたコーヒー飲料を販売するようになった。カフェラテは今や、「カップ・オブ・ジョー」と同等の意味をもつアメリカ風コーヒーとなっている。
国際化
 スターバックスの戦略にとって、国際化はもうひとつの重要な要素だった。2017年1月1日時点で、スターバックスは75か国で2万5734店舗を運営している。1996年に日本とシンガポールに進出後は、あっという間に「アジアの虎」[アジアにおいて急速な経済発展を遂げつつある国々]と称される東南アジアの国々に広がった。アメリカの流行をいち早く取り入れたい中流階級の若者たちはコーヒーショップ文化を熱烈に歓迎し、おしゃべりに勉強にとコーヒーショップを利用した。
 ヨーロッパでは、スターバックスの進出以前に、こうしたコーヒーショップの概念が入ってきている例も多かった。スターバックスの事業形態をまねた企業や移民がコーヒーショップを出し、現地の味覚に合わせたコーヒーを提供していたのだ。ロンドンでイタリア風コーヒー豆の焙煎事業を行なっていたコスタ・コーヒーは、1978年にコーヒーショップの1号店を出した。1995年、そのコスタ・コーヒーをビールメーカーでありホテル事業を行なうウィットブレッドが買収した。ウィットブレッド社は、イギリスではコーヒーショップがパブに代わって社会の中心になると予測し、的中する。1995年には41店舗だったコスタ・コーヒーは、2017年には2100店に達し、コーヒーショップの運営規模ではイギリス最大となった。イギリスの他のチェーン店と同じく、コスタ・コーヒーはおもに外国人バリスタを雇っている。加盟国間の移動の自由に関するEUの協定を利用して、EU圏内の若者たちがバリスタとなっているのだ。
 ブランド力をもつチェーンはイギリスのコーヒーショップの成長を後押ししたが、2010年以降のイギリスではイタリア風のコーヒーが主流となり、デパートと園芸用品店のチェーンが展開するコーヒーショップが最大の成長を見せている。軒数の減少が続くパブは、現在では生き残り戦略として、日中にコーヒーを提供している。
 チェーン展開するコーヒーショップはヨーロッパ大陸全土に広がっているが、その広がり具合は各国のコーヒー文化の性格に左右されている。ドイツでは、ヴァネッサ・クルマンが1998年にドイツ初のチェーン店であるバルザック・コーヒーを設立した。衣類やアクセサリーのバイヤーとしてニューヨークで仕事をした際に、コーヒーショップに立ち寄った経験をもとに起業したものだ。ドイツでは現在、自宅外で飲むコーヒー市場において高級エスプレッソが50パーセントを占めるが、その大半はパン屋のチェーンで出されるものだ。エスプレッソ・タイプのコーヒーがすでに根を下ろしていたフランスでは1990年代にチェーン店が登場したが、ビストロ[気軽に利用できる小レストラン]に代わりすばやく飲食物を提供する店として人気が出はじめたのは、2008年の景気低迷以降のことだ。ギリシアでもフランスと状況は同じだった。
 エスプレッソ発祥の国であるイタリアは、スペシャルテイコーヒー革命で大きな恩恵を受けている。焙煎済みコーヒー豆の輸出が、1988年の1万2000トンから2015年の17万1000トンヘと上昇したのだ。イタリア製エスプレッソマシンは、世界の商業用エスプレッソマシン市場において70パーセントのシェアを誇ると同時に、その生産台数の90パーセント以上は常に輸出されている。イリーやセガフレードといったグループ企業は、ブランドカのあるコーヒーショップを、ライセンス供与またはフランチャイズで世界中にチェーン展開している。しかし、イタリア国内にはコーヒーショップのチェーン店はまったく見られない。エスプレッソに高い価格をつけることはできないからだろう。シュルツがミラノでエスプレッソのすばらしさを知ってから35年後の2018年、スターバックスが初めてこの地に出店した。しかしそれは、スターバックスの「サードウェーブ」コーヒーを前面に押し出した、高級なスタイルの店である。

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