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OCR化した6冊

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 頭脳資本主義と日本の衰退
  自動車産業がIT産業になる日
  頭脳資本主義とは何か?
  日本が「後進国」に転落する日
 ニューラルネットワークの隆盛を予見した哲学者たち
  セルフドライビングカー・セックス
  ノマドの哲学
  人は狼になれる
  リソーム
  ニューラルネットワークの仕組み
 AI時代にソ連型社会主義は可能か
  ソ連は怠け者の楽園ではない
  中枢によってコントロールされた経済システム
  社会主義経済計算論争
  人工知能と社会主義
『カウンセリング心理学』
 カウンセリングの諸領域
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『生きることの社会学』
 家族の歴史社会学
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  母系制
  父系制
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 さらに学ぶための本
『対話するデザインする』
 対話することばの市民へ
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  生きる目的からことばの市民へ
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  ことばの生活から対話のデザインヘ
『父が子に語る世界歴史1』
 ギリシア人
 ギリシアの都市国家
 ギリシアの興隆
 若い征服者
 ローマ、共和国から帝国へ
 朝鮮と大ニッポン
『名著誕生「コーラン」』
 商人ムハンマドヘの啓示
 預言者ムハンマドの戦いと政治
 アーイシャ 敬虔な妻

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アーイシャ 敬虔な妻

『名著誕生「コーラン」』より アーイシャ 敬虔な妻
西暦六八〇年
ハディージャの死でムハンマドは取り残された。近しい友人は再婚を勧めた。そこでまず二人の女性を娶った。一人目はサウダという名の未亡人で、もう一人が同盟者の若い娘アーイシャだった。その後もムハンマドは結婚したが、ハディージャの没後は、アーイシャこそ、さまざまな意味で最も重要な妻だったといえよう。
アーイシャは預言者の一番若い妻というだけでなく、最も美しい妻だった。アーイシャの父アブー・バクルは初期からの傑出したムスリムであり、六三二年のムハンマドの死去に際しては、初代のカリフ、つまりムハンマドの後継者となった。六三二年に預言者に輿入れした時、アーイシャはまだ九歳の幼児だった。ムハンマドの死後アーイシャは何十年も生き続け、六十五歳で没した。その頃にはアーイシャはすっかりメディナ社会の有力者となっており、その生涯の物語はコーランの継受やムスリム共同体の草創期における発展の画期となる出来事と不可分に結び付いている。
アーイシャは鋭敏な観察力と類稀な記憶力を兼ね備えた、非常に聡明な女性だった。コーランの本文を暗記していただけでなく、他のムスリムのほとんど誰よりも、コーランの章句がどのように、いつ、なぜ啓示されたのかを熟知していた。ムハンマドの家庭内の些細なやり取りから、ムスリム共同体を形作った重大な公的行動に至るまで、一挙手一投足を目撃し伝えた。人生の終わりに近づいた男と、人生が始まって間もない女との、この例外的な結婚によって、双方についての多くのことが後世に伝わった。
アーイシャは利発で物事を正確に記憶していただけではない。舌鋒鋭く、躊躇せず、細かなところには拘泥することなく単刀直入に真実を語った。アーイシャが誰かを議論でやり込めていると、預言者は微笑んで言うのだった。「彼女はあのアブー・バクルの娘だからね!」。一人の教友が言ったことがある。「私はアーイシャより雄弁な者に会ったことがない」。ムハンマドの存命中は、アーイシャは他の女性たちに混じって、彼から伝え聞いた知識を伝達したものだった。ムハンマド死後もアーイシャは善男善女の知識と叡智の源泉であり続けた。「ある記録が疑わしく感じられる時は、アーイシャに訊ねたものである。必ず何かしらを得られた」と一人の教友は語っている。
アーイシャは「信仰者たちの母」という尊称を好んだ。これはアーイシャやその他のムハンマドの妻全員に与えられた称号である。
 預言者は信仰者にとって自分自身より近くにいる。預言者の妻たちは、信仰者の母である。 (第33章「部族連合」第6節)
しかしこの尊称には義務や期待が込められてもいる。
 預言者の妻たちよ。お前たちがあからさまに不貞をなす時、その懲罰は二倍となる。神にとっていとたやすきこと。しかし神とその使徒に従順で、行いを慎む者には、褒賞を二倍にしてやろう。寛大な糧を与えてやろう。
 預言者の妻たちよ。お前たちは他の女たちとは違う。もしお前たちが神を畏れるなら、口を慎め。心に病ある者たちの情欲を掻き立ててはならぬ。行儀よく言葉を使え。
 家を整え、ジャーヒリーヤ[イスラーム教以前の無明時代]の頃のように派手に着飾ってはならぬ。礼拝の務めを果たし、喜捨を施せ。神とその使徒に従順であれ。家の者たちよ、神はお前だちから不浄を取り除き、清らかに清めたいとお望みだ。
 またお前たちの家で誦まれたコーランの章句とその知恵を暗記せよ。本当に神は繊細でよく知りたもう。 (第33章「部族連合」第30-34節)
第33章「部族連合」第34節その他に言及される神の「知恵」とは、預言者の模範的な態度とされる。生涯のあらゆる側面を、誕生から死までの間に起こるすべての出来事を、ムスリムはムハンマドの行いを鑑にして見る。預言者の行動基準、すなわち「スンナ(範例)」を記録し保持することに、アーイシャは力を尽くしたのである。預言者について語ってくれと求められた時に、「彼は歩くコーランよ」とアーイシャは応えた。ムハンマドの行動とはコーランが実践に移されたものなのだ、という意味である。章句を暗誦し理解することで、書き記されたコーランと、歩くコーランの双方を保存することに、アーイシャは意を傾けた。同時に、アーイシャはスンナを熟知し、それを体現していた。ハディース、すなわち預言者に関する伝承や記録がコーランと融合したのは、アーイシャの示した範例に多くを負っている。コーランが神の変更不可能な言葉であるなら、ハディースに縫い込まれたスンナがそれを補い、敷行する。
しかしムハンマドの特殊な立場は、アーイシャやその他の妻たちにとって特有の重荷ともなった。ムハンマド存命中、教友やその他のムスリムたちは、彼に敬意と礼儀をもって接することが求められた。不信仰者に付け狙われ、時に嫌がらせも受けた妻たちは護身のためにヴェールを被った。ムハンマド没後に他の者と再婚することも禁じられた。
 お前たちが預言者の妻たちに何か尋ねる時は、必ず御簾の後ろからにせよ。その方がお前たちの心にとって、また彼女らの心にとっても清浄だ。神の預言者を苦しめてはならない。ムハンマドの後で、その妻たちを、決して娶ってはならない。それは神のもとで重罪だ。 (第33章「部族連合」第53節)
アーイシャは清浄さを保ったが、預言者の最も若い妻としての要求に応えるには危うい場面もあった。預言者ムハンマドと結婚してから、パドルの戦い、ウフドの戦い、塹壕の戦いがあった。ムハンマドに対抗するメッカの大部族クライシュ族との三つの大きな戦いであった。これらの戦いによって力のバランスは変化し、クライシュ族からムスリムたちに主導権が移っていった。アーイシャはまだかなり若かったけれども、これら三つの戦いすべてに参加し、ムスリム戦士に水を運び、負傷者の手当てを手伝った。生を目の当たりにし、死を見届けた。神の道のための死も、神の敵の道における死も。それらのいずれをも目撃したアーイシャは、しかし生を肯定した。
預言者ムハンマドが戦場に赴く時、くじを引いてどの妻を連れて行くか選ぶことがあった。六二六年、バヌー・ムスタリク族との戦いに出向いた時、アーイシャがくじに当たった。その時アーイシャは十三歳だった。アーイシャが勝ち誇るムスリムたちに同行しメディナに帰還する途上のことであった。預言者は野営地を急に引き払い、不意に軍勢に帰路を急ぐよう命じた。この時アーイシャは輿を降り、砂丘の陰で休んでいたが、首飾りをなくしたと気づき、砂の中を探し始め、時がたつのを忘れた。そして野営地に戻った時にはコ打は出発してしまっていた。アーイシャは体重が軽かったので、輿を担ぐ男たちはアーイシャが中にいるかどうか確認せず、彼女を乗せずに出発してしまっていたのだ。アーイシャは座り込み、待った。誰かが彼女がいないと気づいて引き返してくれることを願いながら。しかし誰も気づかない。
だが幸運なことに、隊列からはぐれた若いムスリムが追いかけてきて、彼女が取り残された場所にやってきた。そこでアーイシャが早くもうつらうつらしているのを見つけた。若者は彼女を起こして自分の駱駝の背に乗せ、自分は降りて徒歩で駱駝を引き、隊列を追いかけた。じきに追いつけるだろう、とただ望みながら。確かに追いつけはした。しかしすでに翌日の午前になっており、一日の最も暑い時期にさしかかって軍勢が停止し休息をとっている時だった。
運悪く、従者の付き添いなしに二人きりで到着するのを目撃した者がいた。風評が流れ、悪意ある嘘が広まった。やがて預言者の耳にこの話か届いた。この二人の若いムスリムの間に何か起こったのか、何か起こらなかったのか、バヌー・ムスタリク族との戦いから帰ったムスリム社会の全体が、この話で持ちきりとなった。二人の間の「事件」の結果の方が、戦果よりも意味を持つようになってしまった。
噂話が広がってしまったため、預言者の家庭は緊張に包まれた。この問題を解明する啓示は下らなかった。預言者は、おそらく従弟アリーの勧めにより、アーイシャの従者であるバリーラに訊ねた。アーイシャの行動に過ちはあったか? これに答えて「あなた様に真理を下された神の名に誓って、アーイシャ様に過ちはございません。まだお若いですから、パンを提ねている時に眠り込んでしまい、羊が来て食べてしまうことがあったぐらいです!」。その場にいた教友の何人かがバリーラを叱った。バリ上フを小突き、知っていることをすべて話せと詰問した。「神に栄光あれ! 宝石商が純金のかけらを知っているぐらいに、私はアーイシャ様のことを存じ上げておりますよ」。
それから預言者は公衆の面前でアーイシャの名誉を晴らそうとした。モスクに全員を集め、アーイシャの名声を擁護した。しかしこの問題を騒ぎ立てた中傷者たちもモスクにやってきて、預言者の意図に挑戦した。この問題でほとんど殴りあいになりかけたところで、預言者はやっとのことで演壇に登り、集まった信仰者たちに大声で語りかけた。「神の預言者の家庭のことで、いやしくも疑いの念を発するとは、いかがなものか?」。ムハンマドは非難する者たちを特定するのではなく、各部族にそれぞれの成員の不始末の責任を負わせた。アーイシャの名誉を既めることに最も熱心であった者は自らの属す部族に引き渡され、そこで罰せられた。噂話に連帯責任が取らされた。その直後、天使ガブリエルが預言者に啓示し、アーイシャは本当に無実であったと告げた。
 この嘘を広めた者たちは、お前たちの中の党派を作る者たち。
 あなたはこれを災いと受け取ってはならない。
 いや、あなたにとってこれは良いことなのだ。
 連中の誰もが犯した罪の報いを受ける。
 連中の中でも大きな役割を果たしたものは、とてつもない罰を受ける。
 お前たちがそれを聞いた時、男の信奉者も女の信奉者も、
 なぜ自らはよい答えをしなかったのか。
 そして、「これは明らかに中傷だ」と言わなかったのか。
 彼らはなぜ、四人の証人を連れてこなかったのか。
 証人がなければ、彼らは神のもとでは嘘つきだ。 (第24章「御光」第11‐13節)
 お前たちがそれを聞いたとき、なぜこう言わなかったのか。「これについて私たちが語るべ
 きではない。神に讃えあれ、これは重大な中傷だ」と?
 神は、もしお前たちが信者なら、こんなことを繰り返してはならない、と訓戒される。
 神は徴を明らかにしてくださる。神こそは全知にしていと賢明なり。 (第24章「御光」第16-18節)

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父が子に語る「朝鮮と大ニッポン」

『父が子に語る世界歴史1』より ネルー
わたしたちの世界の物語がすすむにつれて、いよいよいっそう多くの国ぐにが視野にうかびあがってくる。それできょうは、中国のすぐ近所の国であり、また多くの点から中国文明の子どもたちというべき、朝鮮〔現在は朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国〕と、日本をざっとみておくことにする。かれらはアジアの東の涯--極東--にあって、ここを行きすぎると、あのひろい太平洋だ。いうまでもなく、つい最近までは、アメリカ大陸との交通はなかった。中国から、また中国をつうじて、かれらはその宗教と、芸術と、文明とを手に入れた。日本と朝鮮の両国は、中国に莫大な借りものをしたわけだ。あるものはインドからも受けいれたが、インドから来たものは、すべて中国の手をつうじて伝えられ、中国の精神によっていろどられたものであった。
朝鮮も日本も、その位置のおかげで、アジアやその他の大きなできごととは、無関係にすごしてきた。かれらは事件の中心からはるかに遠ざかっていた。それで--とくに日本は--幸運だったともいえる。だからごく最近までのかれらの歴史は、これを無視したところで、さして不都合を生じない。それ以外のアジアのできごとを理解するうえに、たいした関係がないからだ。しかしわたしたちは、マレーシアや、東方諸島の過去の物語を無視しないのと同様、これらの国を無視することもない。気の毒な小国朝鮮は、こんにちではほとんど忘れられている。日本に併呑され、その帝国の一部とされているからだ。しかし朝鮮は、いまでも自由を夢み、独立をもとめてたたかっている。日本のほうは、いましきりに活躍して、新聞はその中国攻撃の記事で埋まっている。こうして書いているあいだにも、マンチューリア(満州)では、戦争らしいものが進行している。だからやはり朝鮮と、中国の過去についてふれておくほうがよい。ときにそれは現代の理解のたすけにもなる。
第一に忘れてはならないことは、かれらの長期にわたる孤立だ。じっさい日本は、孤立と侵略からの自由〔侵略をまぬがれること〕にかけては、おどろくべき記録をもつ。その歴史をつうじて、めったに外部からの侵略がくわだてられたことはなかったし、たまたまあっても、いずれも成功せずにおわった。日本を悩ませた紛争といえば、最近まで、すべて自国内部の紛争であった。一時期、日本はみずから外部の世界と、完全に交渉を断ったことさえあった。そのため日本人が国外に出ること、また外国人--中国人さえ--が入国することは、ほとんど不可能になった。これはヨーロッパから来る外国人や、キリスト教伝道者にたいする防衛のための措置であった。こんなことをするのはばかげたことでもあり、あぶなっかしいやり方でもあった。それは民族をそっくりそのまま刑務所に閉じこめ、よいこと悪いこと、すべての外部からの影響を断絶することを意味したからだ。そしてそれから、とっぜん日本は門戸を開け放って、ヨーロッパから学べるものは、なにもかも、しゃにむに学びとった。しかもその吸収欲の旺盛なことは、わずか一、二世代を経たのちには、外面的には、どのヨーロッパの国にもおとらないようになり、かれらのあらゆる悪い習慣まで、そのまま模倣しさったほどであった! すべてこれらは、最近七百年内外のできごとだった。
朝鮮の歴史は中国よりはるかに新しく、また日本の歴史は、朝鮮よりもはるかに新しい。わたしは去年書いた手紙のなかで、箕子というひとが、中国の王族の交替をよろこばなかったために、中国を追われ、五千人の門人をひきつれて東方に移ったことを話したはずだ。かれは、コリア(朝鮮)の地に定着し、これを朝鮮、すなわち「朝のしずけさの国」とよんだのだった。紀元前一一二二年のことであった。箕子は、中国の芸術や、農業や、また絹織物業の技術をたずさえてやってきた。九百年以上ものあいだ、箕子の子孫が朝鮮を支配していた。その後もときおり中国の移民が来ては、朝鮮に定住した。それで、中国とはかなり緊密な交渉がっづいた。
始皇帝が中国の皇帝だった当時、多数の中国人が一団となってわたってきた。おまえもたぶん、このアショーカと同時代の皇帝のことをおぼえていることと思う。かれはみずから「第一皇帝」と称し、いっさいの古典を焼き捨てた男だ。始皇帝のひどい仕打ちのために、おおぜいの中国人が追われ、朝鮮に安住の地をもとめて、微力な箕子の子孫を追いだした。その後八百年以上のあいだ、朝鮮は数個の国家〔高句麗、百済、新羅〕に分かれていた。これらの国家はたがいにあらそった。あるとき、そのなかの一国薪羅〕が中国に援助をもとめた。--これは危険な申し入れだ。援軍は来たが、しかしこの援軍は撤退を拒否した! これが強国というもののやりくちなのだ。中国はそのまま駐留して、朝鮮の一部をその帝国の属領にくわえた。数百年間、朝鮮の残りの地域までもが、唐の皇帝の宗主権をみとめた。
朝鮮が独立の王国として統一されたのは、紀元九三五年のことであった。この建国をなしとげたのは、ワン・チエン(王建)というひとで、それから四百五十年間かれの子孫〔高麗王朝〕が朝鮮を統治することになった。
二、三十行で、わたしは、二千年以上にわたる朝鮮の歴史をかたづけてしまった! なかでもとくに記憶すべきは、朝鮮が多くのものを中国から受けついだということだ。文字の書き方も中国から入ってきた。一千年聞かれらは、おまえも知っているように、ふつうの文字とはちがって、観念や語句を一字であらわす、中国の記号文字[漢字]を使っていた。その後に、この文字から、かれら白身の言語にいっそうよく適合する独特のアルファベットが発達したのだ。
仏教も、中国経由で伝えられたし、儒学もやはり中国から来たのであった。インドにはじまる芸術上の影響は、中国を経て、朝鮮、および日本までの大旅行をなしとげた。朝鮮は芸術上の美しい作品、とくに彫刻を生んだ。建築は、中国のものに似たものだ。造船の方面でも、いちじるしい進歩があった。じつに、ある時代には、朝鮮の人びとは、それで日本に侵略したほどの強力な海軍をもっていたこともあったのだ。
おそらく現在の日本人の祖先は、コリアすなわち朝鮮からわたったものと思われる。一部は、南方のマレーシアから来た。知っていると思うが、日本人はモンゴル人種だ。しかしそのほかに、この国の原住民だとされているアイヌという民族が、少し住んでいる。この人たちは色白で、どちらかといえば毛深いほうで、ふつうの日本人とはぜんぜん異なっている。アイヌは、現在では、列島の北部に追いやられている。
紀元二〇〇年ごろにはジンゴー(神功)という皇后が、ヤマト国家の首長の地位にあった。ヤマトというのは日本の固有の名であり、またそのなかの、かれらが渡来当時定着した地方を指す。この女性の名前に注意してごらん。これが日本最古の支配者のひとりの名前だったとは、奇妙なめぐりあわせだ。
「ジンゴー」ということばは、英語では、一定の意味に使われるようになった。それは粗暴で厚顔な帝国主義者という意味だ。あるいは、かんたんに、帝国主義者を意味するといってもよい。この種の連中は、かならず多少とも粗暴で厚顔なものだからだ。日本もやはり、この帝国主義ないしはジンゴイズムの病気にかかっているといわれ、近ごろさかんに、朝鮮や中国に向かって乱暴をはたらいている。ジンゴーがその歴史上最初の支配者の名前だったのはふしぎだというのは、そういうわけだ。
ヤマトは、朝鮮とのあいだに緊密な関係を結んでいた。そして朝鮮をつうじて、中国文明はヤマトに伝えられた。中国の書きことばも、紀元四〇〇年ごろに朝鮮を通って入ってきた。仏教もおなじようにしてやってきた。すなわち紀元五五二年にパクチエ(百済)の君主は、ブッダの黄金像と、伝道者に経文をそえて、ヤマトの君主に贈った。
日本の古来の宗教はシントー(神道)だった。これは「神がみの道」という意味をあらわす中国語だが、自然崇拝と祖先崇拝の混合物であった。それは、後生〔死後の生活〕だとか、奇跡だとか、人生問題とかは、あまり問題にしなかった。それは、武事を尊ぶ人種の宗教であった。日本人は、あれほど中国人に似ており、またその文明から多くのものを受けいれたのに、しかも中国人とはぜんぜん性質を異にしている。中国人は、古来本質的に平和の民であり、かれらの文明、またかれらの人生哲学はすべて平和的なものだ。ところが日本人は、むかしからいまにいたるまで、戦闘的な民族だ。軍人のおもな徳目は目上の人と同輩にたいする忠節だが、これがまた日本人の美徳であり、かれらの強さは多くこれに由来する。神道は、このような徳を教える--「神がみをうやまい、その子々孫々にたいし忠節をつくし奉るべし」--とのようにして、神道はこんにちの日本にまで伝わり、いまだに仏教とともに存続している。
けれども、これが徳といえるだろうか? 同志や大義への忠誠心は、たしかに美徳ではあろう。しかし神道にしても、他の宗教にしても、往々にして、われわれの忠誠心を利用して、われわれを上から支配する人びとの集団の御用に供しようとする。日本やローマ、そのほか、そこここでかれらが唱導した教え、すなわち、権威の崇拝、これがどんなにわれわれに害毒をおよぼしたかを、わたしたちはのちに知るだろう。
仏教がわたってきたときには、古来の神道と仏教とのあいだにいくらか摩擦が生じた。しかしまもなく、それらは並存するようになり、こんにちにいたった。神道のほうが、いまでもより一般的な信仰で、支配者階級は、それがかれらにたいする服従と忠節を説くという理由で、奨励している! 仏教は、ともかくその元祖が反逆者だったくらいだから、わずかながらも、どちらかといえば危険な宗教なのだ。
日本の芸術史は仏教とともにはじまる。日本、あるいはヤマトは、当時中国との直接の交渉もはじめていた。とくに、その首都長安が全アジアに聞こえていた唐の時代には、中国に常駐の使節がおかれていた。そればかりか、日本人、もしくはヤマト民族は、みずからナラ(奈良)という新都を建設し、これを長安そのままの模型にしようとした。日本人はむかしから、他人の模倣にかけては天才的な才能をもっていたものとみえる。
日本の歴史をつうじて、大家族がたがいに対立して、権力をもって抗争しあったあとがみられる。この種のことは、大むかしには、どの国でもみられたことだった。これらの諸家族は、古い氏族の観念を固守していた。それで日本の歴史は、いわば、主として氏族、門閥の抗争の物語だといえる。かれらの皇帝、ミカド(天皇)は全能であり、専制君主であり、半神であり、太陽の直系の子孫だとされている! 神道と祖先崇拝は、人民に天皇の専制政治を受けいれさせるのに役立ち、その国の権力者にたいして従順にならせた。けれども日本の天皇そのものは、多くのばあい、実権をもたない傀儡にすぎなかった。権力と権威は、ある大家族、もしくは氏族の手中にあり、これが王の製造者として、好き勝手に王や、天皇を立てたのであった。
歴史上最初に日本の国政を左右したとみられる大家族は、ソガ(蘇我)氏であった。仏教が宮廷宗教となり、国教となったのも、かれらがそれを受けいれたことにはじまる。当時の指導者のひとり、ショートクタイシ(聖徳太子)は日本史上でも、最大の偉人にかぞえられるひとだった。熱烈な仏教徒であり、偉大な才能をもつ芸術家であった。かれはその思想を中国の儒教の古典から採り、道徳にもとづく、つまり権力によらない政治を打ちたてようとした。そのころ日本には、いたるところに氏族がいて、その族長はほとんど独立していた。かれらはたがいにたたかい、またどんな権威にも服しようとしなかった。天皇は、その称号だけはりっぱだったけれども、やはり一大氏族の族長にすぎなかった。聖徳太子はこのような状態の改造に着手し、中央政府を強化しようとした。そして、さまざまな族長や、貴族を、犬曳の「臣下」、すなわち従属者にした。これはおよそ紀元六〇〇年前後のことだ。
しかし、聖徳太子の死後、蘇我氏は打倒された。それからまもなく、日本史上にひじょうによく知られたもうひとりの人物が登場した。かれの名をナカトミノカマタリ(中臣鎌足)といった。かれは政治のやり方を根本から変革して、多くの中国流の政治方式をとりいれた。ただしかれは、中国に特有の官吏任命試験制度は模倣しなかった。このとき以来、天皇は一氏族の族長以上のものとなり、中央政府の基礎はかためられた。
奈良が首都になったのは、この時代であった。しかしそれはごく短期間におわり、紀元七九四年にキョート(京都)が首都とされた。その後約一千年間変わらなかったが、ごく最近、トーキョウ(東京)に移された。東京は大きな近代都市だ。けれども日本の魂についてなにごとかを語り、日本にかんする一千年の記録をよび起こすものは京都だ。
中臣鎌足は、日本の歴史に大きな役割を演ずることになったフジワラ(藤原)氏の始祖になった。二百年間かれらは支配を維持し、天皇をたんなる傀儡にし、しばしば強制的に一門の女性と結婚させた。他の家系に有能な人物があらわれると、かれらは警戒して修道院〔寺〕に幽閉したりした!
奈良に都があった当時、中国の皇帝は、日本の支配者に国書を送るさいに、宛名をタイ=ニー=プン=コクの皇帝と書いた。これは「偉大なる日出づる王国」という意味だ。日本人は、むしろこの名のほうをよろこんだ。ヤマトよりは威厳があるように聞こえたからだ。それでかれらは、じぶんの国を「大ニッポン」--「朝日ののぼる国」とよびはじめた。いまでも日本は、自分でこう名乗っている。ジャパンという名前そのものは、妙なことに、「ニッポン」からなまってできたものだ。六百年後に、ひとりのイタリアの偉大な旅行者が中国を訪問した。マルコ・ポーロというひとだが、かれは日本へ行ったことはなかった。しかしかれの旅行記のなかには、日本のことが記されている。かれは「ニー=プン=コク」の名を耳にしていた。そこでかれの本に、これを「チパンゴ」と書いた。ここから「ジャパン」ということばが出た。
われわれの国がインド、またヒンドゥスタンとよばれるわけを、わたしは話したことがあっただろうか?それとも、おまえは知っているかしらん?両方ともインダス河、すなわちシンドゥ河に起源がある。だからインダス河は、また「インドの河」ということになる。シンドゥから採って、ギリシア人はわれわれの国をインドスとよび、それからインドということばが出てきた。またペルシア人は、シンドゥからヒンドゥーという名前を得て、それからヒンドゥスタンということばができた。

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