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豊田市図書館の1冊

412『宇宙と宇宙をつなぐ数学』数学の思想上の転回をもたらす「未来からきた論文」の衝撃

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政治の砂漠 アレント

『政治的省察』より 政治の砂漠
アレントは、しばしば哲学的真理と、政治における意見(ドクサ)とをきびしく対立させた。ヤスパースやハイデッガーにも学んで培った強固な哲学的思考を決して棄てたことはないにちがいないが、とりわけ「全体主義」との厳しい遭遇を通じて、政治思想のほうに傾斜していった彼女の思考は、それでも最晩年(『精神の生活』)にはもういちど哲学と対面することになる。
ソクラテスについて書き始めた文章(『政治の約束』)でアレントは、ギリシアにおける哲学の絶頂期が、奇しくもポリスの政治的生活が終焉に向かっていた時期に現われたことを指摘している。あたかもポリスの深刻な政治的危機こそが、哲学の決定的深化をうながしたかのようである。その状況に注目しながら、ここでも政治と哲学を鋭く対立するものととらえ、あくまでも二つの〈活動〉を異なるものとして、彼女は定義しているのだ。「ソクラテスの断罪は、政治思想史において、イエスの裁判と有罪宣告が宗教史の中で演じているのと同じ分岐点の役割を演じている」と、アレントはかなりドラマティックな説明を与えている。そのとき「思考と活動のあいだにたちどころに深淵が口を開いていた。しかも、それ以来、その深淵は一向に閉じられていないのだ」とさえ彼女は書いているのだ。
ソクラテスは、白身を裁こうとするアテナイの裁判官たちを説得できなかった。「説得」とはあくまでもドクサ(意見)の次元にある実践であり、哲学の「イデア」のように絶対的標準でありうる真理概念に対応する論述ではありえない。政治に対するソクラテスの敗北を見せっけられたプラトンは、ドクサから遠く離れて、絶対的超越的基準にしたがう哲人の政治を構想するようになる。アリストテレスの立場は、少しちがっていた。彼の考えでは、哲学的英知は、ポリスの政治のあくまで外部にあって、その政治に介入する能力などもたず、むしろその外部で、思考の自由(そして正義)を徹底すればいい。一方でアリストテレスは、「友情は正義よりも重要なのである」と考える。「友情」とはたがいに平等な友人同士が、「互いの意見に内在する真実を理解しあうこと」であり、複数性と公共性において成立しうるものだ。政治家の能力とは、「現実の数と多様性〔……〕を可能な限りたくさん理解する能力であるといえよ伺」と書きながら、アレントは、政治と哲学の領分をはっきり分割し、それぞれの領分における自由を尊重するアリストテレスの姿勢を、プラトンの哲学的政治の構想よりも高く評価しているように見える。
それでも哲学から政治を、政治から哲学を見る視座を決して放棄することのないアレントは、「いかなる政治組織にも所属しないで--言いかえるなら脱政治組織的状況で、または現在私たちが無国籍状態と呼ぶような情況で--どうやって生きてゆくことが可能か?」という問いを、いつも根底に保ちながら政治を考察している。その根底の思考は、政治の外部にある哲学に支えられている。政治のほうは、意見(ドクサ)、複数性、そして「事実の真理」にもとづくというとき、アレントは政治に関しては、あくまでも理念の外の「リアリズム」を強調しているように見えるが、決してそうではない。平等と差異を尊重しながら意見を戦わす活動として公共性と公的自由を実現し持続すること。そのような確固とした基準にもとづく政治の理念を、彼女は決して棄てなかった。そのような公共性は、ギリシアのポリスのある時期に、独立期のアメリカに、あるいはハンガリー動乱のときの「評議会」において実現されたものにすぎない。「公共性」のそのような基準は、リアリズムであるどころか、哲学的理念と同じように、理想的、理念的なものに見える。しかし、とにかくこの理念は、「事実の真理」の複数性にかかわるのであって、哲学の理念のように単独的、超越的ではない。
もちろんこんどは哲学のほうが、彼女の言うとおりに単独的、超越的な思考以外の思考ではありえないかどうか問わなければならない。たとえばカントの『判断力批判』は、「趣味」に関するこ刊断」の原理を問いながら、むしろ政治的判断の複数性を哲学的に問う道を示唆していたのではないか。晩年のアレントは、そのような角度から、ますます『判断力批判』のカントに接近していったのだ。そもそも現代の哲学は、哲学における単独性(唯我論)、超越性、主体性などの批判を、重要な底流として形成してきたのではないか。
しかしアレントは哲学と政治を、異なる真実に関する思考と活動として鋭く区別することによって、むしろ哲学にも政治にもいくつかの根本的な問いをつきつけることになった。確かに彼女は〈政治におけるリアリズム〉対〈哲学におけるイデアリズム〉という常識や通念とは似て非なる、別の異質な問いをたてていたのである。
政治の実質であるべき公共性、あるいは複数性における「活動」は、たえず危機にさらされ、裏切られる。現代において、政治がまったく非政治化されてしまった究極の例として、アレントはとりわけ「全体主義」と「絶滅戦争」をあげている。二つとも、いわば最悪の政治によって、最悪の政治として、もたらされたものだ。二つとも、自己の体制と国民の生命の保全だけを目的とする手段と化した、生きのびのための政治の結果である。そのような「政治」をもたらした歴史とは何か考察することが、アレントの探求のなかで大きな比重を占めている。アレントにとってそのような「政治」は、他者との共存を、人間のあいだの差異と平等そして自由を目的とする政治の要件をみたしていない。そこに出現するのは「政治の砂漠」なのである。この「砂漠」に対するアレントの批判は多岐にわたる。
生きのびや生命の保全だけを目的とするようになった政治は、すでに政治の砂漠である。政治とは、単に統治と等しいものではない。公共性を創出し、持続することをめざすのではなく、生産と労働そして経済だけを視野に置く政治も、あるいは唯物史観にとっての歴史的必然性に政治を委ねるような立場も、すでに政治の本質的要件を見失っている(アレントのマルクスに対する評価はしばしば否定的に見える)。「家族」という私的空間のモデルは、政治を構成する多様性に対して、排他的な単一性をもたらすという意味で、政治の砂漠でありうる。多様性を許さない唯一性として支配する神は、政治の砂漠をもたらす。たとえ権力の抑制をめざすとしても、法的次元の議論にだけあけくれて、公共性の創出という問いを見失ってしまうような政治も、政治の砂漠に道を開く。人民の主権を唱えながら、それを口実に敵対する党派を抹殺していくような恐怖政治をもたらす革命は、もちろん政治の砂漠そのものである。つまり政治は、いつでも、いたるところで、政治の砂漠に取り囲まれている。そしてプラトンのように政治の次元に哲学者のイデアリズムを注入し、哲学的統治を目指すような方向も、やはり政治の崩壊を招く危険をはらんでいる。『全体主義の起源』に集約されたようなアレントの批判的歴史研究は、人類史にどのようにして破局的な「政治の砂漠」が出現するかを考えぬくことを核心のモチーフにしていたのである。
そしてアレントは、哲学の思考を政治から厳密に区別しようとしたが、ただ「単独的」として哲学的思考を退けようとしたわけではなかった。アレントは「政治哲学」がありうることを決して否定していない。ただ政治哲学は、しばしば「政治に固有の深さ」をとらえそこねるというのだ。したがって哲学のほうもまた、「政治に固有の深さ」に対面して、みずからの「固有の深さ」を見直さなければならないのだ。
政治と哲学を、つねに厳しく対立させる思索を続けながら、アレントは、マルクスの「労働」や「国家」の概念を批判したあとでも、「あらゆる伝統的解釈とは逆に、活動は、思考の反意語などではまったくなくて、リアルな真の思考の媒体だったのであり、政治は哲学的威厳など微塵も帯びていないと言うのでは決してなくて、本質的に哲学的な唯一の活動力だったのである」などと書いている。マルクスにおける政治と哲学について、「活動」という概念を鍵にして、なお肯定的に考えることもできたのだ。
そもそも哲学の起源とは「驚愕」(タウマゼイン)であって情念の次元にあり、「飛び火から点火されるように明かりが灯される」とき、哲学の思考は出現したのである。だからこそ、その激しい思考は単独性として、その勢いのままに貫徹されてしまいやすい。むしろ哲学は、政治における「複数性」を、その「固有の深さ」を「驚愕」の対象とすべきなのだ。哲学と政治を、それぞれの固有の深さの次元で結びつけようとするこの思考にとって、もちろん二つは本来結びついていたのだ。そういう思考は、哲学者の思考そのものよりも、むしろホメロスによって、勝者(アキレウス)と敗者(ヘクトール)を決して差別しないで讃える公平性の表現によって、すでにまぎれもなく実現されていた。アレントの思考はそのように古代ギリシアとの深い親密性を手放そうとしない。

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フランスのシリア・レバノン分断支配の破綻

『ナショナリズムと相克のユーラシア』より フランスのシリア・レバノン分断支配の破綻
フランスはシリアを占領していたハーシム家のファイサルを一九二〇年七月に駆逐し、二二年七月に国際連盟もシリア、レバノンヘのフランスの委任統治規約を承認した。一九二〇年八月にすでにレバノンはシリアから切り離され、分離国家として宣言されていたが、イギリス、フランスの委任統治によって、伝統的な「シリア」からトランスヨルダン、レバノン、パレスチナも切り離された。
「委任統治」によってフランスにはシリアの行政を創設し、執り行う責任が与えられ、フランスは資源を開拓し、将来のシリア政府の統治に道を開くことになった。地方にも自治が与えられるようになり、アラウィー派が多く住むアル・アンサジーヤ山岳地方、ドルーズ派の居住地域であるジャバール・アル・ドルーズ地方、そして首都ダマスカスを中心とするその他の地域に分割された。
フランス委任統治は社会・経済インフラの整備にも着手していった。道路が建設され、都市計画によって都市環境が整備されていく。農地改革も一部の地域で行われ、とくに肥沃なアル・ジャズィーラ地域で農業が奨励された。アラビア語でほとんどの教育を行うダマスカス大学も創設された。
フランスはシリア統治を長期にわたるものと考えていたが、多数派のムスリムに将来その統治を委ねることを躊躇し、レヴァント地方においてクリスチャンを保護するフランスの伝統政策を放棄することはなかった。シリアのマイノリティー、あるいは一部のムスジムはフランスの委任統治が継続し、シリアの社会・経済発展に貢献してほしいと望んだが、都市の人々の多く、とくにエリート層はレバノン、パレスチナ、トランスヨルダン、さらにアラウィー派やドルーズ派の居住地域を含めてシリアの独立を求めていた。
フランスの委任統治に対する不満は、一九二五年にダマスカスの民族主義者たちと、ジャバール・アル・ドルーズのドルーズ派が連携することで頂点に達した。新たに組織された人民党主導の反フランス勢力はシリアの各地を支配するようになったが、フランスは、シリアの反委任統治政府の動きを封じ、新聞や出版の活動を制限し、反植民地主義を唱える政治勢力の活動を許さなかった。一九二五年にジャバール・ドルーズ州で反乱が発生すると、フランスはこれを空爆や砲撃で制圧し、一四〇〇人が犠牲となる事態となった。反仏暴動で一九二五年から二七年までの間におよそ六〇〇〇人が亡くなったが、それほどシリアにおけるフランスの弾圧は過酷をきわめるものだった。
フランスに対する反乱は一九二七年まで鎮静化しなかった。フランスは次第に現地住民に対して懐柔政策をとるようになり、一九二八年に制憲議会のための選挙が行われ、民族主義者たちが選挙で勝利し、彼らが新たな政府を担うことになった。議会は憲法の草案をつくったが、しかしこの草案はフランスの委任統治を保証するものではなかったために、フランスに受け入れられることはなかった。
一九三〇年五月にフランスの高等弁務官は議会を解散して独自の憲法を制定した。フランスとシリアの間では対立的な関係が続いたが、一九三六年にフランスで人民戦線内閣が成立すると、シリアの民族主義者たちと交渉に入り、その年に両者の間で条約が成立し、シリアの独立を認めるものの、外交についてはフランスとの協議によるものとされ、フランスはシリア国内の二つの軍事基地を維持していくことになった。そしてシリアにアラウィー派とドルーズ派の地域も含まれることになったが、シリア政府は一九三六年末にこの条約を批准した。しかし、シリアの国民的アイデンティティーを形成したくないフランスは、シリアを「分割して統治」することを目論んで、各宗派や民族の対立や競合を意図的に煽り、シリアとの条約をフランスが批准することに躊躇した。トルコはトルコ系住民の多いアレクサンドレッタ地方をシリアがトルコに割譲することを要求したが、フランス政府はこの要求を受け入れ、アレクサンドレッタ地方は一九三七年に自治が与えられ、一九三九年にトルコに編入された。フランスに条約批准の姿勢が見られないために、同年七月に大統領は辞任し、憲法は停止されることになった。
フランスは統治を自分たちと異なる宗教のスンニ派アラブ人に渡すことを望んでいなかった。フランスはあくまでシリア内におけるクリスチャンを優遇することを考えていた。シリアのクリスチャンやアラウィー派などマイノリティーには利権を維持するためにフランス支配の継続を望む傾向があった。一九四六年の独立後、シリアの宗派の中でも二代にわたるアサド大統領の出身宗派であるアラウィー派が最も強力であり続けた。アラウィー派はスンニ派からは「異端」とされる宗派で、スンニ派によって迫害されてきた歴史をもつ。独立したシリア国家を構成する宗派・民族の中では最も貧しいコミュニティーを構成したが、アラウィー派がシリアの政治・社会の中で上昇を果たしたのは、フランスがアラウィー派の若者たちを軍隊の中で重用したことに背景がある。
他方、第一次世界大戦の終結に際してレバノンは連合軍に占領され、フランス軍統治の下に置かれた。一九二〇年、ベイルートや他の沿岸地帯アルービカーは一八六一年からオスマン帝国の任命でクリスチャンの知事が行政を行っていたレバノン山地と合わせて大レバノンを形成することになった。一九二三年に国際連盟がレバノンに対する委任統治をフランスに認めると、親フランスの立場をとっていたクリスチャンのマロン派はこれを歓迎し、フランスの委任統治時代の二〇年間、マロン派は優遇されることになった。しかし、フランスはマロン派が多数の地域を「レバノン」として統治するつもりだったが、ムスリム人口が増加するにつれて、マロン派とムスリムの数はほぼ同数となり、少なからぬムスリムたちはフランスに統治されたり、独立レバノン国家の一部になったりすることを好まず、アラブ国家やシリア国家による支配を望んだ。マロン派とムスリムの妥協点を探って一九二六年の憲法ではそれぞれが公職においては平等に仕事に従事するものとされた。
レバノンでもフランス支配によって、社会・経済インフラは発展し、教育の拡充も図られた。ベイルートは地域の商業の中心として繁栄したが、農業は絹産業の衰退や世界的な経済不況によって落ち込んだ。ベイルートなど大都市で中開層が育つに従って、宗派に対する執着はあったものの、独立への欲求は高まっていった。レバノンは、ナチス・ドイツがフランスを占領後、ヴィシー政権の下に置かれたが、一九四一年にイギリスと自由フランス軍に占領された。自由フランス軍は、レバノンとシリアの独立を宣言したが、レバノンに対する統制をけっして緩めようとはしなかった。しかし、一九四三年に総選挙を実施すると、レバノンでは独立を希求する民族主義者たちが勝利し、新政府はフランスの影響を排除する改憲を行おうとしたものの、一九四三年十一月十一日、大統領や他の政府の要職にある者ほとんどがフランス当局によって逮捕された。これによって現地住民たちの暴動が発生したが、イギリスの仲介でフランスは選挙によって選ばれた政府を回復し、権力の移譲を行わざるをえなかった。一九四三年十一月二十二日に独立が宣言されたものの、英仏軍撤退の合意が成立したのは四五年で、四六年の終わりに撤退が完了した。

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