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OCR化した5冊

『人口減少時代の論点90』
 結婚
  結婚しない若者が増えているというが、 その現状は?
  晩婚化が進んでいるが、何が問題なのか?
 孤立化
  「孤独死」が問題にされる理由は何か?
  「核家族化」が何を引き起こしたか?
 社会インフラ
  道路や橋などのインフラの再生整備が必要な理由は?
  墓地や火葬場の不足の現況は?
  書店激減の実態は?
『ベストセラー全史【現代篇】』
 史上一位のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』
 『Santa Fe』旋風 
『米中ハイテク覇権のゆくえ』
 躍進する中国--AIを制するものが世界を制す
  1 次々と躍進する中国系自動運転ベンチャー
   グローバル企業を目指す〝中国系〟企業
   米中のはざまで悩むポニー・ai
  2「国ぐるみ」で狙うアメリカ超え
   中国政府が打ち出す「中国製造2025」
   「製造大国」から「製造強国」へ
   「中国製造2025」は何が問題なのか
   圧力を受ける中国。産業政策はどこに向かうのか?
   「製造強国」へのもう一つの課題
  3 勃興する人材獲得ビジネス
   海亀を狙うヘッドハンターたち
   急増する海亀への需要
   トランプ大統領が生んだ? 海亀ブーム
   アメリカVS.中国〝人材獲得競争〟
  4 滴滴の衝撃
   北京を変えた「ライドシェア」
   AIで都市を管理する「交通大脳」プロジェクト
  5 日本に上陸した〝中国の巨人〟
   自動車産業への危機感
   予想を超えるスピードで日本上陸
   「凄いですね、中国のAIは」
『超訳 ヨーロッパの歴史』
 政治の第一形態--民主主義
『旅、国境と向き合う』
 北欧の入り組む国境線--バイキングの末裔が探る融合への道
 スカンジナビア諸国
 北欧三国とフィンランド
 絶えざる侵略と征服
 北欧諸国の国情と実態
 スカンジナビアヘの旅、始まりはコペンハーゲン
 マーブル教会とアマリエンボー宮殿
 クロンボー城への旅
 平和の誓い、フレデリックスボー城
 クヌート・ハムソンの世界に惹かれて
 白夜が開けて、ヘルシンキでの一〇日間
 いよいよクヌートの世界、ノルウェーヘ
 オスロからフィヨルドめぐりの旅ヘ
 最大級のフィヨルド、ソグネフィヨルド
 クヌートの世界を追って
 北欧最後の町、ベルゲンで
 北欧の旅を振り返れば

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北欧の入り組む国境線

『旅、国境と向き合う』より 北欧の入り組む国境線--バイキングの末裔が探る融合への道
国境は、日本やイギリスのように、島国なればこそ海洋によって仕切られ、一方、ヨーロッパなど大陸では、地続きであるがゆえに複数の国々と国境を交える。国境のありようはさまざまである。その中で北欧諸国は、海と地続きの両様で国境線を持ち、多くの場合、その国境線は限られた国々の間で絶えず奪いあっては、また奪回されていった。
北欧諸国の中でも特に北欧三国と呼ばれるデンマーク、スウェーデン、ノルウェーは、王国初期にあっては、それぞれが海洋を制する北方の巨人として古くから威力を発揮した。海に囲まれてきた地の利から、彼らは否応なしに近海での漁業のみならず遠洋に船を駆り、国威を外に向けて命運を賭してきた。ことに八世紀から一一世紀にかけて、デンマークを始めとする北方領域に住むようになったノルマン人はヨーロッパの各所で侵略を行い、海洋では貿易以外にも他国の船を襲う行為を繰り返したとして、北欧のバイキングと恐れられるようになった。
彼らにとってみれば、おそらくは国威というよりも、単に生計をたてるための船出であったろう。だが、荒々しい北海を乗りきる船乗りたちの猛々しさは、事実、彼らが財宝を積む貿易船を襲っては富を略奪する海賊行為を行うことで、北海の暴れ者といったイメージを北欧諸国全体に色濃く残してしまった。
北欧バイキングたちの活動範囲は広範囲で、財宝を求め海洋に乗り出すうち、やがて北米大陸にも到着した。およそ一一世紀中頃のことである。現在のカナダを流れるオリノコ川を下って、彼らはマサチューセッツ周辺にヴィニヤードと呼ばれる植民地を築いた。アメリカ大陸を最初に発見したのは、のちに来る大航海時代のスペインやポルトガルではなく、それより四世紀も前に遡る北欧バイキングたちであったと伝えられている。その足跡はノルウェーの叙事詩にも謳われ、新開地の発見は、レイフ・エリクソン率いるノルウェー・バイキングの偉業だと讃えられてきた。
バイキングが支配した植民地は持続的に開発されなかったため、やがて海賊たちの拠点は失われてしまう。しかし一九七〇年代に、かつてバイキングがアメリカ大陸を移動したとされる古地図がエール大学図書館で発見され、真偽はともあれ全米の話題をさらったことがあった。
スカンジナビア諸国
 バイキングの祖国となる北欧三国は、フィンランドやアイスランドとともに、しばしばスカンジナビア諸国と呼ばれている。それはスウェーデンやノルウェーが北ヨーロッパのスカンジナビア半島にあるからだが、三国のうち今一つの国デンマークは、バルト海と北海に挟まれたユトランド半島にあり、スカンジナビア半島には位置していない。しかもデンマークは南でドイツと陸続きとなり、この陸地と周辺の島々--大きな島では、首都のあるシェラン島やフェラン島--を併せて領土を構成し、肝心のスカンジナビア半島とは境界線で接しているに過ぎないのである。一方、スウェーデンに隣接するフィンランドも、同じくスカンジナビア半島には存在しない。
 つまり、これらの国々の位置関係を改めて整理すれば、まずスカンジナビア半島の西半分にノルウェーが、東側にスウェーデンがある。さらにスウェーデンを真ん中にして、その東隣、つまりボスニア湾・バルト海を挟んで、半島の外側にフィンランドがロシアと国境を接している。これに対し、デンマークはそれら三国とは向き合う形で、カテガット海峡を挟んで南にあるユトランド半島に存在する。さらにスカンジナビア諸国の今一つの国アイスランドに至っては、これらいずれの半島上にもなく、西に離れた北海洋上に位置しているのである。したがってスカンジナビア諸国とは、スカンジナビア半島にある諸国という意味ではなく、スカンジナビア地方にある国々から成るということであろう。そこでここでは、洋上にあるアイスランドを除き、ごく近隣で国境を競り合う北欧三国とフィンランドに照準を当て、北欧諸国としての形成をみていきたい。
北欧三国とフィンランド
 北欧三国やフィンランドの成り立ちは著しく古く、有史前から人類が居住していた。一時、氷河期に人類はこの地を追われたが、やがて一万二千年前くらいから、ノルウェーやデンマーク一帯に再び人々が住みつくようになったという。石器時代の遺跡の発掘は今でも行われ、かつてフィンランドの歴史都市サロに旅した際、考古学専攻の学生たちが台地に浅く掘られた畔の間で発掘跡の砂を丹念に掬いながら、粛々と検分を試みていたのを見たことがある。
 北欧三国はいずれも今は立憲王国で、古くから王朝を築いて国を発展させていった。およそ一一世紀から一三世紀にかけてのことである。なかにはデンマークのように、一一世紀初期にはイングランドのクヌート王により「北海帝国」として統治されていたのが、やがて自ら王朝を堅固にし、一四世紀後半にはマルグレーテー世のもと、カルマル同盟を提唱してスウェーデンやノルウェーをも支配下に置くようになった。
 これら王国に対してフィンランドは共和国を形成する。しかし、フィンランドはある時はスウェーデンの、ある時は帝政ロシアのもとに統治され、広い国土を持ちながら国家造りが進まず、他国の支配を受けることが多かった。その意味で、フィンランドはスカンジナビア諸国の中では後進国であり、近代的発展にも遅れをとった。加えてフィンランドは、紀元前期の民族大移動期にヴォルガ川周辺にいたウラル語族のフィン人やサーミ人が移住してきたため、ゲルマン文化を主流とする北欧三国とは別の言語や文化体系を移入した。
 スカンジナビア地方でフィンランド語を公用語とするのはフィンランドのみであるが、その言語には特徴があり、母音を語尾に持つ言葉で構成され、どこか日本語とも似ている。町を歩いて頻繁に見かけるbankiとは英語のbankに当たる銀行のことだが、固有名詞をつけてOsaki Bankiといった表現を見ると、何か懐かしい響きを感じたりもする。一方、スウェーデン、ノルウェー、デンマークにはフィンランド語と異なる原語体系の公用語がそれぞれにあるが、いずれもゲルマン諸語として類縁関係を持ち、ある程度は相互に通じるという。
 このように異文化の国フィンランドが、北欧三国と異なり他国の侵略を受けた長い歴史があることはある程度推察できるが、実は、文化的・民族的にも類縁関係にあるとされるノルウェー、スウェーデン、デンマークの間でも侵略と征服は頻繁に繰り返され、お互いの主権争いが一種恒常化していたところがあった。したがって、これらスカンジナビア諸国における国境の変更、あるいは国境を巡る紛争が絶え問なく起こるのは当然で、現在もなお国境に関する係争が未解決のまま続いている。カナダとの係争問題を抱えるアイスランドもまた同じである。
絶えざる侵略と征服
 北欧三国で王朝国家が築かれたのはほぼ一一世紀頃と述べたが、なかでもデンマークはユトランド半島を中心に、のちに首都が置かれるシェラン島やスウェーデン南部にも勢力を広げていった。一方、スウェーデンは一三世紀頃になって王朝の力がようやく安定し、フィンランドを含むスウェーデン地帯を制圧する。さらに、今一つの北欧国家ノルウェーも一一世紀のバイキング時代に王朝を築いたが、その後一二世紀から一三世紀にかけ王位継承を巡る内乱が続いたうえ、黒死病が蔓延して王家は途絶えてしまった。そのため一四世紀から一五世紀にかけてはデンマークの配下に置かれるようになった。そのデンマークはと言えば、さらに勢力を拡大させ、すでにみたとおり、マルグレーテ一世のもとで形成されたカルマル同盟により、ノルウェーのみならずスウェーデンをもその傘下に治めるようになっていく。
 カルマル同盟は、その後一五世紀になってスウェーデンが脱退した結果崩壊したが、それにより、デンマークとスウェーデンの間では戦闘を免れ得なくなった。その間、スウェーデンはバルト海への進出を果たし、一七世紀にバルト帝国を建設する。しかし北欧三国は、一七世紀から一九世紀にかけても宗教改革に端を発した三〇年戦争・北方戦争・大北方戦争や、フランス革命に続くナポレオン戦争などに激しく翻弄され、それぞれの国の命運は左右されていく。三〇年戦争でも、北方戦争でも、スウェーデンに大敗したデンマークは衰退の一途を辿ったが、さらにナポレオン戦争でも、フランスに加担したことで敗戦し、その結果ノルウェーをもスウェーデンに奪われてしまう。そして、そのスウェーデンは一八一五年のパリ条約でフィンランドを失った。
 スウェーデンによるフィンランド支配は、もともと十字軍遠征への大義名分で一二世紀半ば頃から行われていたが、北方戦争でスウェーデンが帝政ロシアに大敗してその一部を失い、さらにパリ条約に先立つ一八○九年に敗戦が色濃くなると、フィンランドは帝政ロシアの支配下に移譲されることが決定的となった。
 以後、一九一七年に至るまで、フィンランドは大公国としてロシアの統治下に置かれ、大公はロシア皇帝が兼任した。この時期フィンランドの本格的な開発が進み、やがてロシア革命の混乱に乗じて独立を得たフィンランドは共和国として誕生する。しかし、独立後の政情が不安定であったため、スウェーデンとは領土問題での紛争が絶えなかった。そのうえ、革命を成したソ連から再び政治的支配を受けるようになった。
 第一次大戦、第二次大戦下では、北欧三国はいずれも中立を保つが、第二次大戦ではデンマークはドイツに進軍されて支配下に置かれ、ドイツの敗戦で解放されるまで独立を失った。同じく侵略を受けたノルウェーは連合国によって解放され、大戦末期には対日交戦を宣言したが実戦を交えることはなかった。

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ギリシャの民主主義の根源は軍隊

『超訳 ヨーロッパの歴史』より 政治の第一形態--民主主義
古代ギリシャ人は民主主義国家を発明した。これに伴って彼らは「政治 politics」という言葉も発明したのだが、これは彼らの「都市でoF」に由来するものだった。長い歴史においてさまざまな種類の政治形態が生まれてきたが、ギリシャ人が生み出したのは、全市民が話し合い、最終決着は投票による多数決で決定するというものだった。これは、すべての市民が一か所に集まり、案件を討議し、最終決議にかける形式で、これを直接民主制と呼ぶ。ただし、ギリシャのすべての都市国家が民主主義を実践していたわけではないし、またその民主主義は常に不安定なものだった。すべての民主主義を奉ずる小国家(とりわけアテネが有名だが)では、何度かの中断はあったものの、一七○年間にわたって民主主義の政治が行われた。アテネでは、この町に生まれた男子は全員政治に参加する権利を持っていたが、女性と奴隷はこの権利を持てなかった。
現代の我々の政治も民主主義なのだが、これはアテネの人々の民主主義とは大きく異なっており、我々の行っているものは間接民主制と呼ばれる。我々は定期的に政治のプロセスに関与することはなく、何年かに一度投票をするだけである。我々は現行の政治に不満を表明するためにデモを行ったり、意見書を提出したりすることはできる。しかし、議会で審議される個々の案件すべてに対して投票することはできない。
人々が民主主義政治に直接関わろうとしたとしても、現行のシステムとは大きくかけ離れたものになることは目に見えている。膨大な数の人々が一か所に集まることは不可能だが、ギリシャの直接民主制を再現することはできる。特定の案件について、インターネットを使って国民投票が実施された経験はすでにある。このようなシステムを使った世論調査によって、私はオーストラリア国民が次のように考えていることを知っている。つまり、オーストラリアはイギリス以外の国からの移住者を受け入れるべきではない(間違いなくアジア系移民を減らすことができる)、犯罪者はすべて絞首刑にすべきである、海外援助は不要である、シングルマザーに年金を支給すべきではない、学生が受けている恩恵も今後は廃止すべきである……といった具合である。これらの意見について、なんたる無知、人々の偏見には抑制がきかないのか、と読者が思うのも無理はない。
そう思ったとしたら、いま、あなたはソクラテス、プラトン、アリストテレスといった偉大なるアテネの哲学者たちの視点に近づいている。彼らならオーストラリアの民主主義に厳しい疑いの目を向けるだろうし、彼らの批判は我々の行動を理解するのに役立つことだろう。彼らは人々が常に揺れていて、優柔不断で、無知で、簡単に他人の意見に影響されてしまうことを嘆いている。政治は知恵と判断力が求められる、きわめて精妙な技術であり、国民のすべてがその技術に長けているとはとうてい言い難い。アテネの哲学者たちは今日の間接民主制のシステムを知ったらきっと喜ぶことだろう。私たちが選んだ政治家に対して何を言うのも自由だが、彼らは一般的に言って高い教育を受け、情報量も豊かである。政治家は公務員の指導を受けていて、公務員の中には非常に有能な人がいる。国民は政府から直接支配されることはなく、政府の事業全般については訓練された人々が協力している。しかし、ソクラテスもプラトンもアリストテレスも、我々の民主主義とは呼ばないだろう。
ギリシャの民主主義の根源は軍隊にある。さまざまな政治形態を検討してきたなかで、我々は軍事力の性質と国家の性質との間に深いつながりがあることに気がつく。古代アテネには正規のフルタイムの軍隊はなかった。つまり、兵舎に常駐し、いついかなる時でも戦いへ出動できる常備軍を持っていなかった。アテネの兵士たちは全員が「パートタイムの兵士」だった。しかし彼らは密集陣形を組む歩兵として戦うために厳しい訓練を受けていた。開戦が宣言されると、商人や農民といった市民たちは普段の仕事をやめて、ただちに軍隊を結成した。民主主義的な集会〔民会〕は、市民兵が参集し、指導者から行進命令を受けるといったことからスタートしたものだった。戦争や和平、さらに個々の戦術などに関する最終判断は、部族の上層階級にあたる長老たちの評議会によってすでに決められていた。長老たちは兵士の集団の前に位置していた。目の前に長老たちの姿を見ることによって、兵士たちは戦う心構えができた。兵士たちは集会を開いたが、その目的は何かを討論したり、新たな問題を提案したりすることではなく、全員で戦争を承認し、戦争の歌を歌うことだった。
しかしこのような集会は大きな力を持つようになり、最終的に完全な支配力を有するようになった。どうしてこのような経緯に至ったのかはよくわからない。しかし、都市国家が市民兵の参加を不可欠のものとし始め、さらに、このような集会が度重なっていけば、兵士たちがより強固な力を得るのは当然のことである。つまり民主主義は、戦う者たちの「連帯」として始まったものだった。しかし、それは同時に部族的な性質を帯びていた。アテネにはもともと四つの部族があり、戦争の際は部族ごとに集まって敵と戦った。各部族は政務にあたる職員を選出したが、この部族の縛りはアテネが民主主義をさらに高めて選挙区制度を作るようになってもなお続いていて、ある人間が別の場所に移り住んだとしても、その男は自分の生まれた選挙区民として昔の選挙区で投票していた。つまりアテネ市民は、現在住んでいる場所とは関係なく、自分が生まれ育った選挙区と一生涯結びつけられていたのである。
直接民主制には人々が積極的に加担することが求められていたが、それだけ人々はこの制度に大きな信頼を寄せていた。アテネの民主主義の理想は、アテネの指導者ペリクレスの演説に示されている。これはスパルタとの戦いで死んだ兵士たちの葬儀における弔辞だった。その内容はトゥキディデスの『戦史』〔ペロポネソス戦争の歴史〕に記録されている。トゥキディデスは歴史を客観的かつ公平な目で記そうと試みた最初の歴史家だった。トゥキディデスの歴史書の原稿はコンスタンティノープルに保存されていた。この書物が書かれてから一八〇〇年後のルネサンス期に、その原稿がイタリアに持ち込まれ、ラテン語に翻訳され、ここからさらに現代のヨーロッパのさまざまな言語に翻訳された。リンカーンのゲティスバーグの演説が登場するまで、ペリクレスの演説は政治家が墓地で行った最も有名な演説とされていた。ペリクレスの演説はリンカーンのものよりかなり長いので、以下に示すのはその抜粋である。
 我々の政体は民主政治と呼ばれる。なぜならそれが少数者の独占するものではなく、すべての人々のものだからである。個人間に紛争が生じた場合、法律の前にはすべての人々が平等である。社会的責任のある個人という場合でも、重要なのはその人がいかなる階級に属しているかではなく、その人が本当の才能を持っているか否かということである。
 人はその仕事を終えれば、魂を休めるために、ありとあらゆる種類の娯楽を享受することができる。一年を通じて、定期的に競技会や犠牲の祭りが行われる。各人はその家庭において美しく良い趣味をもつことができる。それは日々の暮らしを明るくし、心配事を振り払うものである。
 各個人は、日頃の家計のみならず、同様に国の政治にも大きな関心を抱く。ほとんどすべてを自身の生業に費やす者にはとくに詳しく国政の情報が伝えられている。これこそが我々の特性である。政治に関心を示さない人間のことを、我々は、自身の仕事しか興味のない人間とは呼ばず、「為すべき仕事を持だない人間」と呼ぶ。
仕事に従事しつつ社会参画意識の高い人々による、文化的で開かれた社会……、これこそ現在の民主主義のあり方を模索する人々にとって魅力的かつ理想的な姿だろう。もちろん、アテネの娯楽や美が奴隷制をもとに成り立っていたこと、さらに時として、市民は集会に強制的にでも参加しなければならなかった、という特殊な事情もあった。とはいえ、ペリクレスの演説が良い影響を長く及ぼし続けたのは事実だった。数世紀にわたって、ヨーロッパのエリートたちは民主主義にただ興味を示すばかりではなく、民主主義を警戒するための教育も行ってきた。なぜなら彼らが読んだ古代の著作家たちの大半は民主主義に敵意を持っていたからである。一九世紀初頭のイギリスの急進的な学者ジョージ・グロートは民主主義を論ずるために、ギリシャに関する新しい研究を行い、民主主義と高等教育は互いに関連し合っていて、一方を非難し、別の一方を受け入れることは不可能であると説いた。これはイギリスの民主主義の根源に関わる彼の大きな貢献だった。
現代の我々にとっても、ギリシャの民主主義には我々の理想とは相反する側面がいくつかある。それはあまりにも共同体への参加意識が強調され、なかば強制的ですらあって、個人の権利という意識がほとんど見られないことである。アテネ市民の特権は、その一員であるということであり、ペリクレスが言ったように、政治に興味がない人間はここで仕事をしてはならない、ということでもあった。我々が関心を持つ個人の権利は、アテネとは別のところに起源があるようだ。
アテネをはじめとするギリシャの小都市国家は、前四世紀初頭にギリシャの北のマケドニアの支配者アレクサンドロス大王によって独立を奪われた。民主主義は失われたが、アテネで育まれたギリシャ文化は相変わらず繁栄を続けていた。それがさらに、アレクサンドロスの帝国内で広がった。その帝国は東地中海から中東にまで拡張された。アレクサンドロスがギリシャ世界にもたらしたものは、後世のローマがこの地を征服し、それがギリシャ語を話す帝国の東半分〔東ローマ帝国〕になった時にもなお残っていた。

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