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OCR化した3冊

 『140字の戦争』
  フェイスブックの戦士--仮想国家の誕生
 『ゴルバチョフ』
  瓶の中の二匹のサソリ一九八七年
 『外交と移民』
  革命と反革命--ワシントン、ハバナ、マイアミの三角関係
  革命という名の過去との決別
  キューバ革命とアメリカ合衆国
  同時進行する反革命運動
  米国政府と反革命勢力の「同盟」
  イデオロギー闘争への戦術的変更
  国境をまたぐ革命運動
  経済封鎖と人の移動-一九六五年カマリオカ危機
  マイアミにおける移民社会の形成
  移住者と故国
  「テロ」の意味--ハバナからの視線

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キューバ革命とアメリカ合衆国

『外交と移民』より 革命と反革命--ワシントン、ハバナ、マイアミの三角関係
 経済封鎖と人の移動-一九六五年カマリオカ危機
  ただし、革命政策のすべてが上手くいったわけではない。キューバは一九六二年から六三年にかけて、深刻な経済不況に見舞われているが、これは必ずしも米国の政策のみに起因するものではなかった。たしかに経済制裁による損失は甚大であり、莫大な外貨が失われたことは否定できない。工場の稼働に要する米国製の機械部品が輸入できなくなったこと、腕利きの技術者たちが米国へと流出したこともある。しかし、ある経済学者が指摘するように、革命政権が策定した経済計画にも原因があった。工業化政策はあまりに野心的で、外貨の収入源であった砂糖生産からの脱却をあまりに性急に進めた上、事業経営の多くを、革命への忠誠は強いが経験も知識もない役人たちに任せるものであった。結局、資源の浪費と需給バランスの悪化に直面した革命政権は、六五年に路線を修正し、再び砂糖生産に力を入れている。
  では、経済的苦境が継続したにもかかわらず、なぜキューバの政情は比較的安定していたのか。これについては、キューバ側の内政事情に加え、一九六五年に発生したカマリオカ移民危機のことも振り返る必要がある。この事件の発端は、キューバ・ミサイル危機の後、米・キューバ間の飛行機の往来が禁じられたことにある。米国政府は合法的な出国ルートを塞ぐことによって、経済制裁で不満を高めたキューバ国民が留まり、革命政権への圧力が増幅されることを望んでいた。このため合衆国への移住を目指すキューバ人たちは、第三国を経由するか、ボートを漕いでフロリダ海峡を渡るか、あるいは東部グアンタナモの米軍基地に駆け込むかを選択せざるをえなくなり、最終手段として、船舶のハイジヤヅクなど、危険な違法行為に及ぷことも強いられたのである。その上、米国政府はこうした不法出国を共産主義の失敗を強調する宣伝材料として利用した。国外へと逃れる人々の勇気と自由への渇望が称賛されたわけである。
  カストロも黙ってはいなかった。六五年九月、観光地バラデロの西に位置するカマリオカ港を開いた革命政権は、米国政府への対抗措置として、出国規制の一斉解除を発表した。国外の移住者たちに、希望する家族を直接引き渡すことを宣言したのである。こうして無数の船舶がフロリダからキューバヘ押し寄せると、さすがに大量の移民が無秩序に連れ込まれることを望まなかった米国政府は、革命政権との間に秘密交渉の場を設け、家族再結合を原則とする人の移動を協議した。その結果として始まったのが、一九六五年一二月から七三年四月まで二六万人以上のキューバ人たちを輸送したバラデローマイアミ間の特別運行便である。米国の主要メディアは、運行便を「フリーダム・フライト」と呼び、まるですべての乗客たちが政治目的だけで出国したかのように報じた。キューバから米国への移住は、依然として政治の色を帯びていた。このように収束したものの、カマリオカ移民危機は、米国の対キューバ政策に潜む根源的な矛盾を露わにした。すなわち、キューバーミサイル危機を経て、米国の政策決定者たちは、もはやソ連を巻き込むような形でフロリダ海峡の対立が先鋭化することを望まなかった。そのため軍事侵攻ではなく、経済封鎖を行い、人民の不満を煽ることによって、革命が内部瓦解することを期待したわけである。ところが、キューバから米国への人の移動は、この政策の失敗をほとんど宿命づけていた。経済封鎖で増殖したはずの不満分子が移住によって外に排出されるかぎり、期待された大衆反乱は、永久に実現しないからである。大量移住によって反革命組織の支持基盤が「かなりの程度において縮小された」ことは、前述のキューバ諜報機関の機密報告においても認識されている。つまり、人の移動はすでにこの時期から、国際政治の影響を蒙りつつも、重要な政治的帰結を伴っていたのである。
 マイアミにおける移民社会の形成
  以上に見る人の移動と国際政治の連環は、やがてマイアミで台頭する移民政治によっても強められている。一九五九年以前のマイアミ(マイアミ市を含む現在のマイアミ・デイド郡)は、退職したユダヤ人たちや、ゲットーに隔離された黒人たち、新しい成功の機会を嗅ぎつけた白人たちが暮らす田舎街であった。それ以外に目立ったのは、冬の寒さを逃れて年に数ヶ月を過ごす一時滞留者ぐらいである。ところが、フロリダ海峡の対岸でキューバ革命が起きると、街の空気が二変した。数万ものキューバ人たちがなだれ込み、この地に新しい文化や生活様式を持ち込んだのである。キューバ系社会が成長すると、マイアミはさらに多くのスベイン語話者たちを引き寄せた。マイアミが全米諸都市に先駆けて「ラテン化」したことは、米・キューバ関係にも重要な影響を与えることになる。
  多くのキューバ人たちにとって、移住は一時的なものであるはずだった。合衆国はあまりに近く、移住は不都合な政局の変化を乗り切る手段として、過去にもくり返されてきた。ところが、一九五九年の革命のあとは、勝手が違った。革命政権が予期に反して存続したために、移住者の滞在は数ケ月から数年へと延び、故国に帰れなくなった移住者たちの数も増加の一途をたどったのである。革命直前には二万人であったマイアミ在住のキューバ人の数は、一九八〇年代前半までに六〇万人に急増した。移住者たちは独特な世界観と生活様式を保ち、自らを「移民」ではなく「亡命者」と呼び、キューバ人でありながらアメリカ人であるという二重のアイデンティティを育んだ。歴史家マリア・クリスティーナ・ガルシアに言わせれば、「マイアミは合衆国の(バナとなった」のである。
  移民社会の多様性も、本国ほどではないとはいえ、より豊かになった。特権階級や中産階級が多くを占める革命直後の移住第一波と比べ、第二波となったバラデローマイアミ特別運行便には、より多くの非熟練労働者、主婦、自営業・小売業従事者が含まれていた。全体的な数が少ないとはいえ、一九六八年の「革命攻勢」(革命政権にょって五万七千もの自営業が接収された)によって押し出された華僑やュダヤ系もいた。また、兵役年齢に近い男子の出国が許されなかったために、女性や高齢者の割合が高いことも一つの特徴となった。逆に比較的少なかったのは、革命政権の支持基盤となった黒人や青少年、農民である。なお、黒人の出国が極端に少なかったことについては、単に忠誠の問題だけでなく、家族再結合を奨励する米国の移民政策の影響も働いていた。すでに出国していた白人移住者の家族が、まるで芋づるのょうに優遇されたのである。
  合衆国に入ったキューバ人移民の状況が他の中南米系移民の場合と大きく異なるのは、連邦政府から多大な支援を受けたことである。「難民支援」という名目で、まず食事や居住、所得手当が提供され、つづいて職業訓練、教育ローンの優遇、健康保険の加入、成人教育、そして保護者がいない児童のための養護サービスも行われた。ある学者の算定によると、一九七三年までの支援総額は九億五七〇〇万ドル近くに達したという。また一九六六年一一月、米国議会は「キューバ人資格調整法」を可決した。以後、米国に入国したすべてのキューバ人は、一年と一日滞在するだけで、永住権の申請が認められた。当然、この特別待遇には反対の声も上がっている。地元住民の声を代弁する『マイアミ・ヘラルド』紙は、英語を話せず、所得の低い移民が増えれば、生活様式が変わり、住宅価格が下がり、教育の質が落ちると訴えた。連邦政府は南フロリダの負担を軽くするため、一九七四年までに支援プログラムに登録した四六万一三七三名のキューバ人のうち、二九万九三二六名を別の地域に移している。
  それでも数万人ものキューバ人たちは、マイアミの「リトル・ハバナ」にとどまった。ここでは多くの近隣組織や相互扶助組織、芸術教室が活動し、キューバの歴史を教える民間学校が子どもたちを集めた。また、数百ものスペイン語の新聞やタブロイド、ニューズレター、雑誌、書物が刊行され、故国のニュースを伝え、懐かしい音楽を流すラジオ放送局も登場した。学校や公園、記念碑、街路、商店の看板には、ホセーマルティをはじめ、キューバ独立戦争の英雄たちの名前が記され、伝統料理や季節の祝祭、社交儀礼も続けられた。慈悲の聖母をときどき訪れるカトリック信者もいれば、プロテスタントやュダヤ教、サンテリア(アフリカの民俗信仰とキリスト教の混淆)を信じる者もいた。全米各地へ分散させられた多くのキューバ人たちも、仕事や友人、文化の紐帯、そして温暖な気候を求め、しだいにマイアミに戻ってきた。
  キューバ系の経済活動は、このリトル・ハバナを拠点に発展したといわれる。同胞たちの零細企業で最初の職を得たマイアミのキューバ人たちは、自立して新規事業を立ち上げると、今度は後続の移民たちを雇用した。彼らの創意工夫と安い賃金で働く豊富なバイリンガル労働力の存在は、南北アメリカを結ぶマイアミの地理的特性と相まって、地域経済を活性化させた。マイアミが西半球における貿易、金融、航空運輸の中心地となり、一時は「中南米の首都」と評されたのもそのためである。キューバ系には、メキシコ系やプエルトリコ系など、他のラティーノよりも高い教育を受け、高い収入を稼ぐ傾向があった。合衆国における平均居住期間が著しく短いにもかかわらず、キューバ系米国人は一九九〇年初頭までに、おおよそ全米平均と肩を並べるほどの経済水準を達成している。
  こうした経済的成功を糧に、キューバ系が共産主義に対する優越感を抱いたのも不思議ではない。とはいえ、移民社会の話は必ずしも薔薇色ではなかった。言語の障壁や、職住環境の劇的な変化のために、社会的地位の下降を挽回できない者もいた。高齢者のなかには、頼るべき身内もなく、貧困にあえぐ者も多かった。またきわめて少数ではあるが、麻薬取引に手を染め、犯罪組織で暗躍する者もいた。以上のことと並んで重要だったのは、異なる政治的意見への不寛容である。革命政権を絶え間なく批判するマイアミのキューバ系メディアにとって、革命政権への反対は道徳的問題であり、「大義」であった。カストロは必ず「独裁者」なのであり、彼に反抗した者は誰しもが「英雄」なのである。このような同調志向に着目した社会学者たちは、マイアミのキューバ系社会を「道徳共同体」と呼んでいる。
  それでも滞在が畏引けば、米国の生活にも注意が向けられていくものである。有資格者に占める米国市民権の取得率は、一九七〇年の時点で二五%にとどまっていたものの、一九八〇年までに五五%に上昇している。新しい専門職能団体も現れ、ラテン系商工会議所やキューバ系医師会などは、それぞれの分野で集団の利害を代表した。雇用や社会保障、言語教育といった問題に取り組む非営利組織としては、全米キューバ系計画会議や「差別に反対するスペイン語系米国人連盟」が、また女性の権利と民族少数派としての権利を同時に追求するものとしては、全米キューバ系米国人女性会議などが登場している。地方政治に参加し、公職に就く者も出てきた。一九七三年には元ピッグズ湾退役軍人のマノロ・レボーソとアルフレド・デュランが、それぞれキューバ系として初めて、マイアミ市の市会議員とデイド郡の教育委員になっている。
  キューバ系の票をめぐり、合衆国の二大政党が競争を始めたのもこの時期である。もともとフロリダを牙城とする南部民主党は、地区レベルから州レベルまで、ほぼすべての主要ポストを独占していた。ところが、フロリダの人口が増え、大統領選挙における重要性が高まるにつれ、共和党は民主党に対抗し始め、新しい有権者であるキューバ系米国人たちへの働きかけを強めていった。有能な集票運動家が起用され、エドガルド・ブターリやマヌエル・ギベルガたちは、ピッグズ湾侵攻の失敗について、ケネディの民主党を徹底的に批判した。まもなく民主党も反撃を開始し、移民社会が抱える社会経済問題の解決を訴え、政府の役割を強調し、一九七六年には前述のデュランをフロリダ州党委員長に選出している。こうした集票競争の結果、一九八〇年代初めまでに、キューバ系米国人の支持は二大政党の間で措抗することになった。

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ゴルバチョフとエリツィン

『ゴルバチョフ』より 瓶の中の二匹のサソリ一九八七年
 ゴルバチョフによれば、エリツィンには一九八五年以前から「懸念」を抱いていた。中央委員会がスヴェルドロフスク州の農業を調査する要員を派遣したことがあった。エリツィンは調査の後でゴルバチョフに、批判的な調査結果を中央へ報告せずに、スヴェルドロフスク州当局に自ら誤りを正させてほしい、と要望した。ゴルバチョフは同意した。だがエリツィンはそれを実行しなかったので、調査担当者とエリツィンの間で非難の応酬を招いた。ゴルバチョフは、エリツィンが「自分に対する意見に適切な反応をしなかった」と記している。このような遠回しな言い方をエリツィンは好まない。ゴルバチョフもエリツィンが酔った状態で最高会議に現れたと聞いた時、嫌悪感を催した。ゴルバチョフは禁欲的な人物だった。
 アンドロポフがエリツィンを評価していたので、ゴルバチョフも一定の影響を受けた。エリツィンを中央委員会建設部長に推挙したのはリガチョフだった。アンドロポフは死の数週間前に、その人事を裁可したが、チェルネンコ書記長のもとでは実現しなかった。アンドロポフがエリツィンヘ寄せた期待は限定的だった。アンドロポフにとってエリツィンは、特に優れた地方指導者でもなく、ソヅィエトの将来を担う逸材でもなく、「優秀な建築家」でしかなかった。ゴルバチョフはモスクワ市第一書記に据えたエリツィンを、「活動的で決断力があり、革新の気概を持つ」部下として当初は評価した。エリツィンはグリーシンが残した混乱も見事に収拾した。グラチョフによれば、ゴルバチョフは「エリツィンを政治のチェスで重要な駒とみなしてはいなかった」。グラチョフはいかにして、そのようなゴルバチョフの胸中を知ったのだろうか?ゴルバチョフ家では毎晩のように、クレムリンの政治家たちをめぐり人物談義が交わされていた。娘のイリーナがグラチョフに語ったところによると、その場でエリツィンの名は、ごく稀に出る程度だった。
 ゴルバチョフは要人深く慎重だった。エリツィンは衝動的で危険を恐れなかった。ゴルバチョフの所作は穏やかだった。あるいは穏やかに見えた。エリツィンは好き嫌いが激しく、それを隠さなかった。ゴルバチョフは生来の民主主義者だった。エリツィンは権威主義的なポピュリストだった。ゴルバチョフは人文科学に造形が深く、哲学者と結婚した。エリツィンは建設畑で鍛えられ、技師と結婚した。ゴルバチョフは如才なく、エリツィンは荒々しかった。ゴルバチョフは説得に長け、エリツィンはすぐに怒鳴り散らした。ゴルバチョフは饒舌で話が長かった。一つの主題の周囲を幾度も巡り、自説を繰り返した。喋りながら考えをまとめているような印象を与えた。エリツィンは多くを語らなかった。しばしば「第一に、そして第二、第三に」と要点のみを挙げた。ゴルバチョフは妻との長い散歩を好んだ。エリツィンは若い時は優れたバレーボールの選手で、最初の心臓発作を起こした後もテニスを楽しんだ。音楽の趣味も異なっていた。ゴルバチョフは交響楽やオペラを愛した。民謡を上手に歌った。エリツィンはポップスが好きだった。
 このような相違が、二人の相互理解を強く妨げた。だが、共通点もあった。二人とも農村の出身だった。ソヴィエトの指導者は大部分が地方出身者だった。モスクワ出身者は賢明すぎて政治家には向かないのかもしれない。二人とも祖父がスターリン時代にテロルの犠牲となった。二人ともほぼ同じ年頃に、親の暴力を自力で阻止した。ゴルバチョフの場合は相手が母で、エリツィンは父だった。しかし、これらの共通点は二人を結ぶ絆にならず、むしろ互いに反発を強める方向へ作用した。互いに高め合うこともなく、不快感ばかりが募った。
 エリツィンが九月一二日付で出した書簡に、なぜゴルバチョフはすぐに反応しなかったのだろうか?エリツィンは、ゴルバチョフが何らかの行動を起こす、と期待していた。「電話で面会を求めてくるだろうか?今の仕事をそのまま続けてほしいと、電話越しに告げるのではないか?」。あるいはゴルバチョフが「緊急的措置」に踏み切り、「政治局で健全で建設的な態度をとる」のではないか?エリツィンは、ゴルバチョフが自分とリガチョフを交代させるとでも考えたのだろうか?ゴルバチョフは上位に立つ者の視線で、エリツィンの書簡は彼とリガチョフの川の「つまらぬ揉め多」に起因する、と片付けてしまった。「革命七〇周年へ向けて、重要で機微に触れる準備」に取り組んでいる時、そのような雑事は構っていられない、と考えた。
 栄光を夢見たエリツィンの白日夢とは対照的に、九月の時点でゴルバチョフには、もっとマキャヴェリ的な思惑が働いていた、との指摘もある。改革派のエリツィンをリガチョフと措抗させ、理性的な中道路線を歩む環境を整えるためだった、との見方もある。ゴルバチョフはのちに、ヤコヴレフがまさに、そのような策を進言した、と証言している。また一説によれば、保守派に恩を売るため、さらに時期を待ってから大々的にエリツィンを排除したほうが、静かに引退させるより得策との判断があったともいう。しかし、怒りやすく手に負えないエリツィンに構っている余裕が、ゴルバチョフにはなかった。それが実態である。致命傷を負わずに事を片付けられる時機を、彼は逃してしまった。ゴルバチョフは一〇月二一日、なぜエリツィンが発言するように仕向けたのだろうか?エリツィンが自分の非を認めるだけではなく、リガチョフを陥れる発言をすると期待した、という見方もできる。事実、ゴルバチョフの同僚には、この説を唱える者もいる。ゴルバチョフがそのように考えても不思議ではなかった。エリツィンがゴルバチョフに深い痛手を負わせられる状況ではなかった。とすれば、中央委員会での発言を禁じる必要が果たしてあったであろうか?
 一〇月二一日のエリツィン発言に、ゴルバチョフがあれほど激した理由はどこにあるのだろうか?その後のゴルバチョフは、エリツィンの言動が攻撃的であろうがなかろうが、いつも過剰な反応を示した。それはいかなる理由によるのだろうか?一〇月二一日のゴルバチョフは、こみ上げてくる怒りを制御しようと努力した。それでも憤怒が顔を「紫色」に染めた。ボルディンによれば、ゴルバチョフはしばらくの間は「落ち着きを保っていた」。だが、その後で逆上した。グラチョフが語る。エリツィンに「政治の第一線」へもう戻さないと言い渡した時のゴルバチョフは、既に感情の虜となっていた。
 今に至るもゴルバチョフがエリツィンに抱く怒りは収まっていない。改革はゴルバチョフの旗印だった。エリツィンはそれを奪って、自分のものにしようとした。ゴルバチョフの欠陥を、あからさまに指摘した。はっきりと戦略を示さず、説明に明確さが欠ける、と批判した。話が長く、できない約束までしてしまう、と非難した。ゴルバチョフはエリツィンと接して、かつてスタヴロポリ時代に軽蔑した粗野な同僚たちを思い出した。だが二人には共通の欠陥があった。傲慢で虚栄心が強く、誇り高かった。ゴルバチョフは自分の欠点を十分に知り、隠そうと努めていたのに、エリツィンが全て暴露してしまった。ゴルバチョフはエリツィンの行為を、ペレストロイカの大義を傷つける許しがたい暴挙とみなした。だが怒りの一部は自分自身に向いてもいた。
 エリツィンがライーサに示した態度、ライーサのエリツィンに対する姿勢も事態を険悪にするばかりだった。ライーサは、赤の広場に面するデパートのGUMを、美術館に変えようと提案した。モスクワ市の第一書記だったエリツィンは、すげなく却下した。そして夫のゴルバチョフを相手に、ライーサの行為をなじった。ゴルバチョフは激怒した。ライーサのエリツィン嫌いが、ゴルバチョフの怒りをさらに煽った。ゴルバチョフは感情が激しやすい性格だった。映画を見て泣くような男だった。だが政治に取り組む時は、感情に流されて判断を誤ってはならない、と厳しく戒めてもいた。だからエリツィンヘの怒りも抑制しようと努力し、実際の態度でも示した。例えば一〇月二一日にエリツィンを招いて、発言の機会を与えもした。猛烈な逆襲を加える前に、たとえ短時間でも我慢をし、一一月一一日にはエリツィンの腕を自ら支えもした。回想録では、その日のエリツィン攻撃は苛烈に過ぎたと後悔の念を記し、エリツィンは「真の男」として立派に耐えた、と賞賛している。
 なぜゴルバチョフはエリツィンを、モスクワの政治の舞台から放逐せずにおいたのだろうか。ゴルバチョフが下した様々な判断の中でも、粗野で冷酷な指導者ばかりを見てきたロシア人が最も理解に苦しんだのは、このようなエリツィンヘの処遇である。その謎は今も解けてはいない。ゴルバチョフ自身ものちになって、エリツィンは追放しておくべきだった、と認めている。グラチョフや他の補佐官は、エリツィンの排除を進言した。ゴルバチョフは、「君たち、それはだめだ。問題外だ。彼は根っからの政治家だ。簡単に放り出すわけにはいかない」と述べた。KGBのクリュチコフ議長には「よく見ておきたまえ。奴の頭が禿げたら、君の責任だぞ」と言った。ブルテンツによれば、ゴルバチョフはエリツィンを制御できる自信があったので、いかにエリツィンが自分にとって危険な政敵であるか認識が足りなかった。おそらく、それが真実であろう。だが良心と信念に照らして、最も正しいと考える選択をしたと言っても間違いではないだろう。

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