『人間だけでは生きられない』より
宇宙に「無」はあリ得るか
現代の宇宙論によれば、宇宙は有限の過去(百三十八億年前)にビッグバンで始まったと考えています。では、宇宙はどのようにして始まったのでしょうか?
宇宙とは時間・空間のことですから、時間や空間もその時点で始まったことになります。むろん、そこに存在する物質(=エネルギー)も同時に生まれました(もし、始原的な物ればなりません)。つまり、時間も空間も物質もない完全な「無」から宇宙が誕生したことになります。
「無」から「有」を生み出す、なんだか禅問答のようなものと考えられるかもしれません。
しかし現代の物理学では、実は完全に何もない状態である「無」は存在しないのです。
まず、空間があって、物質が何もない「真空」を考えてみましょう。この場合、空間は空っぽのように見えますが、超ミクロの状態では物質と反物質が生成されたり消滅したりする反応が起こっているのです。
ミクロ状態の物理法則である量子力学によれば、不確定性関係のためにエネルギーと時間が完全に確定せず、ある値の範囲で揺らいでいます。したがって、まったく物質が存在しない状態であっても完全にエネルギーがゼロの状態にはなれず、「ゼロ点振動」と言われる量だけエネルギーが揺らいでいるのです。
また同時に、時間も確定せず、ある幅で時間が生まれたり消えたりしています。
さらに、ごく小さな超ミクロな空間が不確定性関係のために、ある幅で生まれたり消えたりしています。
つまり超ミクロの時空においては完全な「無」はあり得ず、空間・時間・物質が絶えず生まれたり消えたりする振動状態となっているのです。しかし、その状態は仮想的(バーチャル)なもので、そのままでは現実の宇宙とつながっているわけではありません(煮え立っている湯から泡が生まれたり消えたりしている姿を想像してください)。
ところが、ある瞬間に、一つの揺らぎ(泡)が突然、膨張を始めました。揺らぎが持っていた「真空」のプラスエネルギーが一気に解放されたのです。
例えば、摂氏一〇〇度の水蒸気が液体の水になったとき「相転移」が起こったと言い、そのとき水蒸気が内部に持っていた潜熱が解放されることになります。いわば熱湯が持っていたエネルギーが泡の形成を通じて放出されたと言えるでしょうか。これと似て、揺らいでいた「真空」からエネルギーが放出されて、現実とつながる時間と空間が生まれたのです。私たちは、これを「真空の相転移」と呼んでいます。
言い換えれば、「無」とはいえ、エネルギーがプラスになったりマイナスになったりして揺らいでおり、プラスのときに何かの拍子でエネルギーが外部に放出されて宇宙が誕生する、というシナリオです。
荒唐無稽のように思えるかもしれませんが、「真空」といえども、エネルギーに満ち満ちているということ(それは量子力学の世界では当たり前のことなのです)と、その状態の遷移が起こり得ることは、(「水の相転移」のように)ありふれた現象なのです。その意味で、宇宙は、どこでも、いつでも生まれる可能性があると言えます。
とすると、「無は豊穣である」とも言えるでしょう。あるいは、「有」と「無」は融合連結しているという老荘思想や中国仏教で主張されていることに通じるかもしれません。あるいは、『般若心経』の「色不異空」「空不異色」は、このことを言っているのかもしれません。「色」という形ある宇宙は、「空」に起源があるのですから。つまり「色即是空」なのです。
もっとも、以上のような宇宙の誕生劇は、現代の物理学で許される物理過程で最もありそうなストーリーを結びつけたもので、実際に証明されているわけではありません(証明することもできません)。物理学の知見が広がればまた異なったシナリオになるでしょう。その意味で、宇宙は卵から生まれたとか、盤古という巨大な人形から生まれた、という神話時代に語られた物語と同じなのです。その時代に最も自然と思われる事柄をつなぎ合わせて語り継いでいるのですから。
驚くべきことは、神話時代の宇宙創成物語が意外に本質を射ているということです。素朴に考え想像したことが現代科学の真髄につながっているのです。子供たちがアレコレ想像して紡ぎ出す話も、狭い知識にとらわれて判断するのではなく、豊かな可能性があるとゆっくり聞いてやるのも必要かもしれませんね。
心構えて世界が変わるわけ
世の中には「偶然」の発見が多くあります。日本でノーペル賞を得た白川英樹さんや田中耕一さんの発見も始まりは「偶然」でした。しかし、それを「偶然」のまま放っておかず、「必然」に転化させたことが偉大な発明につながったのです。私の研究分野である宇宙論でも、「偶然が必然に転化」した例があります。
一九六五年のことです。ビッグバン宇宙論の直接の証拠である、「宇宙背景放射」(24頁で解説した、ビッグバンで始まった宇宙の残光)が発見されました。ジョージーガモフが一九四六年に予言していたものですが、当時はほとんど誰もがそれを覚えてはいませんでした。
アメリカの電話会社であるベル研究所のウィルソンとペンジアスが、人工衛星を使って電波による電話回線がうまくつながるかどうか実験していたときのことです。空からやってくる電波で、装置をどう改善しても落とせない雑音が入っていることに「偶然」気づいたのが発端でした。つまり、彼らは宇宙背景放射を検出しようとして実験を行ったのではなく(彼らは宇宙論については素人でした)、全く別の目的で望遠鏡を空に向けていたときに「偶然」に、余分の電波を拾っただけだったのです。
しかし、そこに一つの「必然」が控えていました。ベル研究所の技術力は非常に優れていて、その電波雑音が装置から発せられたものではなく、空からやってきていると確信を持って断言できたことです。そのため、ウィルソンとペンジアスは、それが宇宙のどのような天体に起因するのかを探索する気になりました。「偶然」を「必然」に転化する第一歩を踏み出したのです。
実は、この電波はそれより前に日本の科学者も受信していたことが後でわかりました。彼は、その電波が本当に空から来ているものなのか、それとも装置の不具合がまだ残っていて雑音を拾っているだけなのか、はっきりと弁別できなかったそうです。そのため、それが明らかになるまで発表を差し控えました(単なる装置からの雑音では赤恥ですから)。技術に対する確信が「偶然」に得た結果を「必然」にできるかどうかの分かれ道となったわけです。
さらに、ウィルソンたちにはもう一つ「偶然」を「必然」に変える幸運がありました。ベル研究所の近くにプリンストン大学があり、そこに宇宙論を研究する科学者がいたことです。ウィルソンとペンジアスは、さっそく自分たちの結果をプリンストンの科学者に見せ、それが何であるかの相談をしました。運がいいことに、プリンストン大学の科学者はガモフの予言を覚えていて、それを確かめようと実験を開始したばかりでした。ウィルソンとペンジアスはすぐに結果を解析して、「宇宙背景放射」であることを確かめるや、直ちにノーベル賞を授与される論文を書いたというわけです(その論文は、たったてヘージ半だけのごく短いものでした)。
同じような逸話はあるもので、同じ頃、旧ソ連の科学者もやはり宇宙からやってくる電波の存在に気がついていました。そこで彼は、銀河物理学を専攻している同僚の科学者に相談したそうです。そこで彼が得た解答は、「そんな奇妙な電波を発する天体はない」というものでした。銀河を専門に研究している科学者から言えばそれは当然の答えです。確かに、そんな天体はないのですから(それが宇宙論に関係した電波かもしれないと露とも考えなかったのが不幸でした)。そのため、その電波は装置からの雑音だろうと考え、この科学者もやはり発表しなかったのです。
こうして科学の歴史を緩いてみると、「偶然」に始まった事象が「偶然」のままに終わるのか、「必然」に転化するのか、紙一重であるように思えてきます。日本の科学者もソ連の科学者も、世紀の発見のすぐ傍まで行っていたのですから。しかし、それを掴み損ねてしまいました。とはいえ、そこには何か重要な示唆が隠されているような気がします。
パスツールが「偶然の幸運はそれを待つ人間の心構え次第」と言ったように、「偶然」の幸運は漠然と待っていれば来るものではなく、「必然」に変えようと待ち構えている人間に訪れるということです。そのためには、技術力を鍛えて、何事も学ぶオープンな心を持っていなければなりません。「偶然」を「必然」に転化できるのは人間の姿勢次第なの
右の文で、「偶然」を「不幸」に、「必然」を「幸福」に置き換えても同じように成立することがおわかりだと思います。「不幸」は「偶然」にやってくるのがほとんどであり、 「幸福」は「必然」にしたいと求めるものだからです。「不幸」を「幸福」に転化するのも人間の心構え次第なのですね。
宇宙に「無」はあリ得るか
現代の宇宙論によれば、宇宙は有限の過去(百三十八億年前)にビッグバンで始まったと考えています。では、宇宙はどのようにして始まったのでしょうか?
宇宙とは時間・空間のことですから、時間や空間もその時点で始まったことになります。むろん、そこに存在する物質(=エネルギー)も同時に生まれました(もし、始原的な物ればなりません)。つまり、時間も空間も物質もない完全な「無」から宇宙が誕生したことになります。
「無」から「有」を生み出す、なんだか禅問答のようなものと考えられるかもしれません。
しかし現代の物理学では、実は完全に何もない状態である「無」は存在しないのです。
まず、空間があって、物質が何もない「真空」を考えてみましょう。この場合、空間は空っぽのように見えますが、超ミクロの状態では物質と反物質が生成されたり消滅したりする反応が起こっているのです。
ミクロ状態の物理法則である量子力学によれば、不確定性関係のためにエネルギーと時間が完全に確定せず、ある値の範囲で揺らいでいます。したがって、まったく物質が存在しない状態であっても完全にエネルギーがゼロの状態にはなれず、「ゼロ点振動」と言われる量だけエネルギーが揺らいでいるのです。
また同時に、時間も確定せず、ある幅で時間が生まれたり消えたりしています。
さらに、ごく小さな超ミクロな空間が不確定性関係のために、ある幅で生まれたり消えたりしています。
つまり超ミクロの時空においては完全な「無」はあり得ず、空間・時間・物質が絶えず生まれたり消えたりする振動状態となっているのです。しかし、その状態は仮想的(バーチャル)なもので、そのままでは現実の宇宙とつながっているわけではありません(煮え立っている湯から泡が生まれたり消えたりしている姿を想像してください)。
ところが、ある瞬間に、一つの揺らぎ(泡)が突然、膨張を始めました。揺らぎが持っていた「真空」のプラスエネルギーが一気に解放されたのです。
例えば、摂氏一〇〇度の水蒸気が液体の水になったとき「相転移」が起こったと言い、そのとき水蒸気が内部に持っていた潜熱が解放されることになります。いわば熱湯が持っていたエネルギーが泡の形成を通じて放出されたと言えるでしょうか。これと似て、揺らいでいた「真空」からエネルギーが放出されて、現実とつながる時間と空間が生まれたのです。私たちは、これを「真空の相転移」と呼んでいます。
言い換えれば、「無」とはいえ、エネルギーがプラスになったりマイナスになったりして揺らいでおり、プラスのときに何かの拍子でエネルギーが外部に放出されて宇宙が誕生する、というシナリオです。
荒唐無稽のように思えるかもしれませんが、「真空」といえども、エネルギーに満ち満ちているということ(それは量子力学の世界では当たり前のことなのです)と、その状態の遷移が起こり得ることは、(「水の相転移」のように)ありふれた現象なのです。その意味で、宇宙は、どこでも、いつでも生まれる可能性があると言えます。
とすると、「無は豊穣である」とも言えるでしょう。あるいは、「有」と「無」は融合連結しているという老荘思想や中国仏教で主張されていることに通じるかもしれません。あるいは、『般若心経』の「色不異空」「空不異色」は、このことを言っているのかもしれません。「色」という形ある宇宙は、「空」に起源があるのですから。つまり「色即是空」なのです。
もっとも、以上のような宇宙の誕生劇は、現代の物理学で許される物理過程で最もありそうなストーリーを結びつけたもので、実際に証明されているわけではありません(証明することもできません)。物理学の知見が広がればまた異なったシナリオになるでしょう。その意味で、宇宙は卵から生まれたとか、盤古という巨大な人形から生まれた、という神話時代に語られた物語と同じなのです。その時代に最も自然と思われる事柄をつなぎ合わせて語り継いでいるのですから。
驚くべきことは、神話時代の宇宙創成物語が意外に本質を射ているということです。素朴に考え想像したことが現代科学の真髄につながっているのです。子供たちがアレコレ想像して紡ぎ出す話も、狭い知識にとらわれて判断するのではなく、豊かな可能性があるとゆっくり聞いてやるのも必要かもしれませんね。
心構えて世界が変わるわけ
世の中には「偶然」の発見が多くあります。日本でノーペル賞を得た白川英樹さんや田中耕一さんの発見も始まりは「偶然」でした。しかし、それを「偶然」のまま放っておかず、「必然」に転化させたことが偉大な発明につながったのです。私の研究分野である宇宙論でも、「偶然が必然に転化」した例があります。
一九六五年のことです。ビッグバン宇宙論の直接の証拠である、「宇宙背景放射」(24頁で解説した、ビッグバンで始まった宇宙の残光)が発見されました。ジョージーガモフが一九四六年に予言していたものですが、当時はほとんど誰もがそれを覚えてはいませんでした。
アメリカの電話会社であるベル研究所のウィルソンとペンジアスが、人工衛星を使って電波による電話回線がうまくつながるかどうか実験していたときのことです。空からやってくる電波で、装置をどう改善しても落とせない雑音が入っていることに「偶然」気づいたのが発端でした。つまり、彼らは宇宙背景放射を検出しようとして実験を行ったのではなく(彼らは宇宙論については素人でした)、全く別の目的で望遠鏡を空に向けていたときに「偶然」に、余分の電波を拾っただけだったのです。
しかし、そこに一つの「必然」が控えていました。ベル研究所の技術力は非常に優れていて、その電波雑音が装置から発せられたものではなく、空からやってきていると確信を持って断言できたことです。そのため、ウィルソンとペンジアスは、それが宇宙のどのような天体に起因するのかを探索する気になりました。「偶然」を「必然」に転化する第一歩を踏み出したのです。
実は、この電波はそれより前に日本の科学者も受信していたことが後でわかりました。彼は、その電波が本当に空から来ているものなのか、それとも装置の不具合がまだ残っていて雑音を拾っているだけなのか、はっきりと弁別できなかったそうです。そのため、それが明らかになるまで発表を差し控えました(単なる装置からの雑音では赤恥ですから)。技術に対する確信が「偶然」に得た結果を「必然」にできるかどうかの分かれ道となったわけです。
さらに、ウィルソンたちにはもう一つ「偶然」を「必然」に変える幸運がありました。ベル研究所の近くにプリンストン大学があり、そこに宇宙論を研究する科学者がいたことです。ウィルソンとペンジアスは、さっそく自分たちの結果をプリンストンの科学者に見せ、それが何であるかの相談をしました。運がいいことに、プリンストン大学の科学者はガモフの予言を覚えていて、それを確かめようと実験を開始したばかりでした。ウィルソンとペンジアスはすぐに結果を解析して、「宇宙背景放射」であることを確かめるや、直ちにノーベル賞を授与される論文を書いたというわけです(その論文は、たったてヘージ半だけのごく短いものでした)。
同じような逸話はあるもので、同じ頃、旧ソ連の科学者もやはり宇宙からやってくる電波の存在に気がついていました。そこで彼は、銀河物理学を専攻している同僚の科学者に相談したそうです。そこで彼が得た解答は、「そんな奇妙な電波を発する天体はない」というものでした。銀河を専門に研究している科学者から言えばそれは当然の答えです。確かに、そんな天体はないのですから(それが宇宙論に関係した電波かもしれないと露とも考えなかったのが不幸でした)。そのため、その電波は装置からの雑音だろうと考え、この科学者もやはり発表しなかったのです。
こうして科学の歴史を緩いてみると、「偶然」に始まった事象が「偶然」のままに終わるのか、「必然」に転化するのか、紙一重であるように思えてきます。日本の科学者もソ連の科学者も、世紀の発見のすぐ傍まで行っていたのですから。しかし、それを掴み損ねてしまいました。とはいえ、そこには何か重要な示唆が隠されているような気がします。
パスツールが「偶然の幸運はそれを待つ人間の心構え次第」と言ったように、「偶然」の幸運は漠然と待っていれば来るものではなく、「必然」に変えようと待ち構えている人間に訪れるということです。そのためには、技術力を鍛えて、何事も学ぶオープンな心を持っていなければなりません。「偶然」を「必然」に転化できるのは人間の姿勢次第なの
右の文で、「偶然」を「不幸」に、「必然」を「幸福」に置き換えても同じように成立することがおわかりだと思います。「不幸」は「偶然」にやってくるのがほとんどであり、 「幸福」は「必然」にしたいと求めるものだからです。「不幸」を「幸福」に転化するのも人間の心構え次第なのですね。