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未唯への手紙

未唯への手紙

宇宙に「無」はあリ得るか

2015年01月19日 | 2.数学
『人間だけでは生きられない』より

宇宙に「無」はあリ得るか

 現代の宇宙論によれば、宇宙は有限の過去(百三十八億年前)にビッグバンで始まったと考えています。では、宇宙はどのようにして始まったのでしょうか?

 宇宙とは時間・空間のことですから、時間や空間もその時点で始まったことになります。むろん、そこに存在する物質(=エネルギー)も同時に生まれました(もし、始原的な物ればなりません)。つまり、時間も空間も物質もない完全な「無」から宇宙が誕生したことになります。

 「無」から「有」を生み出す、なんだか禅問答のようなものと考えられるかもしれません。

 しかし現代の物理学では、実は完全に何もない状態である「無」は存在しないのです。

 まず、空間があって、物質が何もない「真空」を考えてみましょう。この場合、空間は空っぽのように見えますが、超ミクロの状態では物質と反物質が生成されたり消滅したりする反応が起こっているのです。

 ミクロ状態の物理法則である量子力学によれば、不確定性関係のためにエネルギーと時間が完全に確定せず、ある値の範囲で揺らいでいます。したがって、まったく物質が存在しない状態であっても完全にエネルギーがゼロの状態にはなれず、「ゼロ点振動」と言われる量だけエネルギーが揺らいでいるのです。

 また同時に、時間も確定せず、ある幅で時間が生まれたり消えたりしています。

 さらに、ごく小さな超ミクロな空間が不確定性関係のために、ある幅で生まれたり消えたりしています。

 つまり超ミクロの時空においては完全な「無」はあり得ず、空間・時間・物質が絶えず生まれたり消えたりする振動状態となっているのです。しかし、その状態は仮想的(バーチャル)なもので、そのままでは現実の宇宙とつながっているわけではありません(煮え立っている湯から泡が生まれたり消えたりしている姿を想像してください)。

 ところが、ある瞬間に、一つの揺らぎ(泡)が突然、膨張を始めました。揺らぎが持っていた「真空」のプラスエネルギーが一気に解放されたのです。

 例えば、摂氏一〇〇度の水蒸気が液体の水になったとき「相転移」が起こったと言い、そのとき水蒸気が内部に持っていた潜熱が解放されることになります。いわば熱湯が持っていたエネルギーが泡の形成を通じて放出されたと言えるでしょうか。これと似て、揺らいでいた「真空」からエネルギーが放出されて、現実とつながる時間と空間が生まれたのです。私たちは、これを「真空の相転移」と呼んでいます。

 言い換えれば、「無」とはいえ、エネルギーがプラスになったりマイナスになったりして揺らいでおり、プラスのときに何かの拍子でエネルギーが外部に放出されて宇宙が誕生する、というシナリオです。

 荒唐無稽のように思えるかもしれませんが、「真空」といえども、エネルギーに満ち満ちているということ(それは量子力学の世界では当たり前のことなのです)と、その状態の遷移が起こり得ることは、(「水の相転移」のように)ありふれた現象なのです。その意味で、宇宙は、どこでも、いつでも生まれる可能性があると言えます。

 とすると、「無は豊穣である」とも言えるでしょう。あるいは、「有」と「無」は融合連結しているという老荘思想や中国仏教で主張されていることに通じるかもしれません。あるいは、『般若心経』の「色不異空」「空不異色」は、このことを言っているのかもしれません。「色」という形ある宇宙は、「空」に起源があるのですから。つまり「色即是空」なのです。

 もっとも、以上のような宇宙の誕生劇は、現代の物理学で許される物理過程で最もありそうなストーリーを結びつけたもので、実際に証明されているわけではありません(証明することもできません)。物理学の知見が広がればまた異なったシナリオになるでしょう。その意味で、宇宙は卵から生まれたとか、盤古という巨大な人形から生まれた、という神話時代に語られた物語と同じなのです。その時代に最も自然と思われる事柄をつなぎ合わせて語り継いでいるのですから。

 驚くべきことは、神話時代の宇宙創成物語が意外に本質を射ているということです。素朴に考え想像したことが現代科学の真髄につながっているのです。子供たちがアレコレ想像して紡ぎ出す話も、狭い知識にとらわれて判断するのではなく、豊かな可能性があるとゆっくり聞いてやるのも必要かもしれませんね。

心構えて世界が変わるわけ

 世の中には「偶然」の発見が多くあります。日本でノーペル賞を得た白川英樹さんや田中耕一さんの発見も始まりは「偶然」でした。しかし、それを「偶然」のまま放っておかず、「必然」に転化させたことが偉大な発明につながったのです。私の研究分野である宇宙論でも、「偶然が必然に転化」した例があります。

 一九六五年のことです。ビッグバン宇宙論の直接の証拠である、「宇宙背景放射」(24頁で解説した、ビッグバンで始まった宇宙の残光)が発見されました。ジョージーガモフが一九四六年に予言していたものですが、当時はほとんど誰もがそれを覚えてはいませんでした。

 アメリカの電話会社であるベル研究所のウィルソンとペンジアスが、人工衛星を使って電波による電話回線がうまくつながるかどうか実験していたときのことです。空からやってくる電波で、装置をどう改善しても落とせない雑音が入っていることに「偶然」気づいたのが発端でした。つまり、彼らは宇宙背景放射を検出しようとして実験を行ったのではなく(彼らは宇宙論については素人でした)、全く別の目的で望遠鏡を空に向けていたときに「偶然」に、余分の電波を拾っただけだったのです。

 しかし、そこに一つの「必然」が控えていました。ベル研究所の技術力は非常に優れていて、その電波雑音が装置から発せられたものではなく、空からやってきていると確信を持って断言できたことです。そのため、ウィルソンとペンジアスは、それが宇宙のどのような天体に起因するのかを探索する気になりました。「偶然」を「必然」に転化する第一歩を踏み出したのです。

 実は、この電波はそれより前に日本の科学者も受信していたことが後でわかりました。彼は、その電波が本当に空から来ているものなのか、それとも装置の不具合がまだ残っていて雑音を拾っているだけなのか、はっきりと弁別できなかったそうです。そのため、それが明らかになるまで発表を差し控えました(単なる装置からの雑音では赤恥ですから)。技術に対する確信が「偶然」に得た結果を「必然」にできるかどうかの分かれ道となったわけです。

 さらに、ウィルソンたちにはもう一つ「偶然」を「必然」に変える幸運がありました。ベル研究所の近くにプリンストン大学があり、そこに宇宙論を研究する科学者がいたことです。ウィルソンとペンジアスは、さっそく自分たちの結果をプリンストンの科学者に見せ、それが何であるかの相談をしました。運がいいことに、プリンストン大学の科学者はガモフの予言を覚えていて、それを確かめようと実験を開始したばかりでした。ウィルソンとペンジアスはすぐに結果を解析して、「宇宙背景放射」であることを確かめるや、直ちにノーベル賞を授与される論文を書いたというわけです(その論文は、たったてヘージ半だけのごく短いものでした)。

 同じような逸話はあるもので、同じ頃、旧ソ連の科学者もやはり宇宙からやってくる電波の存在に気がついていました。そこで彼は、銀河物理学を専攻している同僚の科学者に相談したそうです。そこで彼が得た解答は、「そんな奇妙な電波を発する天体はない」というものでした。銀河を専門に研究している科学者から言えばそれは当然の答えです。確かに、そんな天体はないのですから(それが宇宙論に関係した電波かもしれないと露とも考えなかったのが不幸でした)。そのため、その電波は装置からの雑音だろうと考え、この科学者もやはり発表しなかったのです。

 こうして科学の歴史を緩いてみると、「偶然」に始まった事象が「偶然」のままに終わるのか、「必然」に転化するのか、紙一重であるように思えてきます。日本の科学者もソ連の科学者も、世紀の発見のすぐ傍まで行っていたのですから。しかし、それを掴み損ねてしまいました。とはいえ、そこには何か重要な示唆が隠されているような気がします。

 パスツールが「偶然の幸運はそれを待つ人間の心構え次第」と言ったように、「偶然」の幸運は漠然と待っていれば来るものではなく、「必然」に変えようと待ち構えている人間に訪れるということです。そのためには、技術力を鍛えて、何事も学ぶオープンな心を持っていなければなりません。「偶然」を「必然」に転化できるのは人間の姿勢次第なの

 右の文で、「偶然」を「不幸」に、「必然」を「幸福」に置き換えても同じように成立することがおわかりだと思います。「不幸」は「偶然」にやってくるのがほとんどであり、 「幸福」は「必然」にしたいと求めるものだからです。「不幸」を「幸福」に転化するのも人間の心構え次第なのですね。

フルシチョフ

2015年01月18日 | 4.歴史
『ロシア』より

フルシチョフと軍備拡大競争

 ……わが国を、わが党を、わが国民を、そして彼らが達成した勝利を誇りに思う。われわれはロシアを先進国へと変貌させたのだ‥… ニキータ・フルシチョフ

 宇宙開発競争は軍備拡大競争のショーケースだった。フルシチョフはソ連が地球から飛びだすたびによろこんだ。

 フルシチョフの時代は楽観の時代だった。それは部分的にしか成功しなかった「処女地」計画によく衣われている。最もよい例は、ソ連の宇宙開発と軍事技術開発、さらに外交政策における戦略核兵器の重要性にフルシチョフが目覚めたことだった。

 宇宙ロケット開発がミサイルと核兵器の開発に影響を与えるため、宇宙開発競争と軍拡競争はかなり連動していた。この2つの競争はテクノロジー開発と兵器開発におけるソ連の先進性を世界に示した。戦後、ソ連はドイツの科学者を招いて、核兵器やロケットの研究開発を進め、1949年には核爆弾の開発に成功していた。

 1957年10月4日、ソ連は人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功した。1ヵ月後には、ライカ犬を乗せたスプートニク2号が軌道をまわった。ソ連は密かにアメリカを出しぬいていたのである。ソ連のテクノロジーの進歩はアメリカに強い衝撃を与え、そのときから米ソのあいだで宇宙開発競争がはしまった。1961年4月、ソ連のユーリー・ガガーリンは人類で最初に宇宙を旅しか。

 フルシチョフはロケット・テクノロジーに夢中になった。ソ連にとって安価で安全な防衛力の基盤になると考えたのである。スプートニク1号はフルシチョフの外交政策を宣伝する道具にもなった。数年の間、彼は自分の主要国訪問に先立って人工衛星を打ち上げさせた。

 スプートニク1号は西側を驚かせ、ソ連の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発計画が予想よりもけるかに進んでいると示唆したが現実には、アメリカのICBMよりかなり遅れていた。結局、このようなフルシチョフの「ミサイル・ギャップ」に惑わされて、アメリカは軍備拡張に向かい、軍事力の格差はアメリカ優位になっていった。しかし1960年代後半になると、ソ連はアメリカと対等な核兵器をもつようになった。

 1960年代初め、フルシチョフはトルコに配備されているアメリカのジュピター・ミサイルがキエフやモスクワなどのソ連主要都市をねらえることを発見した。この発見が、1962年10月にフルシチョフの経歴で最大の外交危機をまねいたのである。軍事力のアンバランスに対抗するため、フルシチョフはキューバに中距離ミサイルを配備するよう命じ、ICBMでのアメリカのリードを抑えた。米ソの緊張は一気に高まった。ケネディ米大統領はミサイル撤去を要求し、キューバ周辺の海上封鎖を実行した。世界は核戦争へ一触即発の状態に揺れた。 10月28日、鼻息の荒かったフルシチョフもようやく引き下がり、ミサイルの撤去を命令した。

フルシチョフと「処女地」

 共産主義は社会的生産力のたえざる成長と労働生産性の引きあげを約束する……共産主義によって、人民は最良かつ最強の機械を装備し、自然にたいする力を大幅に増強し、生来の力をより広げるえるようになるのである。フルシチョフの『新共産党綱領』1961年

 フルシチョフは政権をにぎるとただちに農業経済の改善に着手し、ステップ地帯の開発を精力的に進めた。

 フルシチョフはスターリン体制下で、ウクライナ首相として農業の再編成や集団農場の統合などの経験を允分に積んだ。 1953年に党第一書記になったとき、フルシチョフは食糧供給問題を解決するために、北部カザフスタン、西部シべリア、ヨーロッパ・ロシア南東部の36万ヘクタールにおよぶ広大なステップ地帯の開拓を提唱した。こうした「処女地」をソ連の主要な穀物生産地帯として開発し、食糧問題を一挙に解決しようとしたのである。当時、伝統的な穀倉地帯であるウクライナは家畜の飼料用トウモロコシの栽培に使用することができた。フルシチョフの最終的なねらいは1970年までに穀物生産高でアメリカをしのぐことだった。

 「処女地」計画はトラクターやコンバインを大量に導入し、コムソモールが指揮する若者の志願者によって遂行された。志願者はヨーロッパ・ロシアからステップ地帯に移り住み、この計画のために急いでっくられた国営農場の原始的な生活環境で暮らした。

 1956年には、もともと土壌が肥沃なおかげで「処女地」は、1953年の3倍の穀物を生産し、大成功と称えられた。

 ところが、開墾計画は性急に進められ、化学肥料で土壌を肥やさなかった。そのうえ輪作も濯漑も行なわなかったため、収穫量は下落しはじめた。さらに追い討ちをかけたのが降雨不足で、ウラル地方は1955年、1957年、1958年に旱魃に見舞われた。風による上壌の侵蝕がはじまり、1960-65年につづいた暴風で一段と悪化した。「処女地」の半分近くが乾燥地帯と化してしまった。

 成功はうかの間だったが、「処女地」計画によって個人経営農地での収穫高が伸び、買い上げ価格が高くなって集団農場には特別手当がついた。1956年、ソ連西部の伝統的な穀倉地帯を旱魃が襲ったとき、「処女地」がソ連を食糧不足から救い、フルシチョフの計画の重要性が証明された。だが1963年には、外国から穀物を輸入せざるをえなくなった。

外側へ、または内側へ国家をこえる

2015年01月18日 | 3.社会
『歴史の歴史』より グローバリゼーションとローカリゼーションについて

政治権力を専有する国家は、いうまでもなく近代ヨーロッパにおいて、理念上も現実上も、整備の過程をとおして誕生した。多様な権力を内包しつつも、国家は政治主権を単独で所有するにいたった。その国家は、言語や習俗などを共有する集団としての民族を前提とし、所属者を均質な資格たる国民として収容する主体であることから、国民国家とよばれる。代表制という意思決定機構をもち、財政や軍事において単一の構造体を構築することで、国民国家は卓越した政治力を発揮した。さきにみた、近代におけるグローバル化の過程は、もっぱら国民国家によって推進された。植民地経営も世界大戦も、諸国間の競合や紛争をともないつつ、これら国家の事業としておこなわれたこ

国民国家が有用な政治主体としで認められたのは、たとえば運輸や通信などの技術手段に対応して、ほぼ望ましい規模であったからでもあろう。空間や人口のサイズは、国家のありかたについての有為の係数であることは、経験的にも証明できる。▽九世紀までの巨大帝国であるロシアやオーストリア(ハプスブルク朝)などが、国民国家として0調整に苦しんだめも、当然のことであった。

しかしながら、二〇世紀の進行とともに、国民国家の有効性には、疑問が提示されるようになる。その一端は、両次の世界大戦の戦禍に直面して、より高次からなる平和維持機構を追求する必要が感知されたからである。あるいは、合衆国やソ連のような超大国が、政治上の影響力を獲得し、政治主体の規模の利益が認知されたからでもあろう。緊密な内部組織を完成したはずの各国民国家であったが、二〇世紀のあらたな課題にたいして、じゅうぶんに対応できなくなった。また、同一の原理を援用しつつ誕生した無数の後発国家は、適正な規模と内実を実現できず、内外ともに続発する難問を解決しがたかった。こうして、二〇世紀の後半には、国家をこえる政治主体への模索がとなえられる。

実際には、冷戦構造のたかなかにおいて、東西の陣営における国家主権の限定といった、安全保障上の事情がひかえていたのも事実である。軍事、もしくは準軍事的な目的をもった条約機構が、ブロック体制をととのえ、国際政治を左右しはじめた。それは、かつてのウィーン会議議定書やヴェルサイュ条約などの平和規定などにくらべても、より有力な規制力を体現した。これらをうけついで、国際連盟、ついで国際連合が、これらのブロック体制を超越するかたちで構想され、多大な障害をふくみつつも、国家をこえる主体への希望は、ゆるやかではあれ、実現していった。

こうした状況のなかに、国際政治におけるグローバル化の実現をみることもできる。しかしながら、諸国家や諸ブロックのあいだにおける、政治上の関係はますます緊密になってゆくとはいえ、ただちにそれが政治権力のグローバル化を意味するとみるのは、早計であろう。いまだに、政治主体としての国家は健在であり、国民国家のゆるやかた相対化を論ずることはできるとしても、な逼もっともおおきな影響力を行使する主体でありつづけている。

そうした現状にもかかわらず、国民国家の故地であるヨーロッパにおいては、いちはやく国家連合から広域統合にむかう運動が開始された。EECからEC、そしてEU(ヨーロッパ連合)へと推移する運動は、経済上の連携からしだいに、個別国家の専管事項とされてきた貨幣や財政の統合へと移行しつつある。いまだ、その行く手についての予断をゆるさないとはいえ、ョーロツパ諸国は、旧来の国民国家の枠組みをおおきく変換しようとしている。ここには、三つの異なったベタトルが読みとれるであろう。

第一には、段階的な方法による、政治的グローバル化である。数億〇人口と数百万平方キロの空間を支配する統合権力は、地球規模でのグローバルな政治統合への準備として、じゅうぶんに有用である。運輸・通信手段の発展も、この統合の成否について追い風をよせている。冷戦終結後の世界にあっては、ヨーロッパ統合はさらに拡大の可能性をさししめすに至り、構想の妥当性を証明しつっあるようにみえる。

しかし、第1のベクトルがことなった方向をとる。ヨーロッパ統合は、国際政治のうえからみれば、冷戦時代にあって、米ソ両陣営のはざまで、ヨーロッパ諸国の政治的発言力を確保するという目的も明白であった。冷戦終結後となっても、頻発する国際紛争にあっては、EU諸国はきわどい差異をふくみつつも、連携を維持することで影響力の保持につとめている。国際経済においても、EUはヨーロッパ経済を束ねつつ、アメリカやアジアの経済力に対抗して、優位をめざしている。つまり、EUは一定の地域を結集する主体として、グローバル化する世界での地位を保全するための戦略である。

こうした戦略は、グローバル化を視野にかさめつつ発動される。かつて、このような戦略は経済Lの地域主義(リージョナリズム)とよばれた。特定の地域での結束が、国際経済において有効に機能しうるとの見方である。現在では、EU統合に刺激されるかたちで、中南米や東南アジアなど、いくっかの地域においても採用されるにいたった。この動向をグローバル化と呼称するのか、またはローカル化とするかは、用語の定義の問題である。いずれにせよ、地域統合戦略が、その両者のあいだにあ乙て、複雑な状況を作りつつあることは否定しがたい。

第三のベクトルは、EU統合の現場にあって、かねてその地にあって潜在していた、別種の政治行動が顕在化したことにみられる。すでに一九七〇年代から、ヨーロッパ諸国では国民国家を前提といつつも、権力の分散の要請が強調されてきた。それは、現代国家があまりに強大な権力を集中っせたために、国家の構成要素たる地方権力と地域社会が空洞化し、市民と住民にとって由々しい事態がおこっいるとの認識に由米した。地方分権化は、政治権力の適正な配分・配置をもとめる実践的な施策であり、または集権化した政府にたいする地方自治からの奪回運動でもあった。

こうした施策や運動は、広域の統合戦略と均衡をとるかのように、ョーロッパにおいて実をあげてきた。権力の地方分散といった行政システムの転換だけではない。むしろ、広大な地域のだかにおいて、より微小な地方単位が諸種の中間的団体や集団を主体として、固有の文化を継承・創造しつつ、自立性を保持するための方途でもある。それは、ヨーロッパが、その歴史のなかで蓄積した地方的な価値を唱導し、手触りのある個体に活力をあたえる運動とみてもよい。つまり、ヨーロッパ統合という集中化は、地方における分散化をうながしたのである。これこそ、二〇世紀後半になって明瞭になったローカル化現象であるといえよう。

政治権力という側面からみたとき、国民国家の地位の変動は、一方でグローバル化を、また他方ではローカル化をうながし、しかも地域を集約点とした複雑な動向をもうみだした。そこにこそ、グローバルとローカルの現実的な弁証法をみいだすことができる。はたして、この事例が地球上のあらゆる場でびとしく検証できるかどうかは、いまだ不詳である。しかし、冷戦終結後におこったおおくの地域紛争や、あるいはその経過から派生したローカルな自立化運動を目撃したいまとなっては、さらに多様な弁証法の実例を探索しうることが確信できるように思われる。

三つの立場 ヘーゲルの歴史観

2015年01月18日 | 4.歴史
『歴史の歴史』より 歴史の知とアイデンティティについて

歴史学の方法をめぐる二元対立は、一見すると近代的学問の宿命であるかにみえる。しかしながら、歴史的世界を認識するにあたっての論理的基礎を、よりふみこんで考察すると、じっさいには単純な二元対立には還元できたい、いくつかの視点を見いだすことができる。さしあたり、ここでは三つのものを区別しうる。

第一の見方はこうである。歴史学の分析対象はたしかに客観的な存在とみなしうるが、対象はかならずしも自明の理として孤立しているわけではなく、もっぱらこれを認識する主体によって説明されるかぎりでのみ、存在しうると考えられる。この場合の主体とは、対象を認識する理性のことである。主観と客観のあいだには対抗関係があるにしても、不動の極軸としての主観性の理性を厳密に設定するならば、対象は明晰な理性に従属することになり、恣意的な主観を免れるはずだ。

こうした見方の代表として、デカルトの啓蒙理性をあげることができる。周知のとおり、デカルトは認識する主体を「思考するもの(レス・ギタンス)」とみなし、認識される客体を「延長されるもの(レス・ェタステンサ」」とした。徹底した理性的懐疑をくりかえしたのちに、思考は明晰な分析手段となり、いかかる曖昧さをも許容しない純粋な原理として成立する。いわゆる「方法的懐疑」を条件として、世界は曇りのない像を提示することになる。この理性を出発点として、順次、外界は具体的なかたちをとりはじめる。「延長」とは、そうした思考の結果であり、誤謬や欺隔はあばかれて、本来あるべきすがたで描きだされる。

このさい、認識する側は理性という透明な実体であるから、みずからは「延長」にまつわる曖昧さを回避している。主観という概念がもつ危うさは、ここでは排除される。ただ、じゅうぶんの反省をおこたる「理性の欠如」の場合にのみ、誤った世界像が提唱されることになるばかりである。思想史上は、「合理主義哲学」とよばれるデカルト主義が、歴史学の方法にとって、いかなる意味をもちうるかは、のちに論ずることとするが、近代の学問をささえる方法的規準として、まず念頭においておきたい。

第二には、歴史的分析の対象を、主体から分離したものとみなすことを拒否し、むしろその客体を人間的作為の結果として認定する立場である。第一〇立場が、主体と客体を分離することに努めるのにたいして、第二のものは、客体のうえにおちる主体の影を強調する。分析の主体は、客体から自立しているわけではなく、むしろ客体の内部に潜在して、これを構成する要素となっている。客体という対象は、主体がその歴史のなかで造作した結果である。それゆえにこそ、主体からの客体の理解が可能となる。主体と客体とは、つねに相互介入の関係にあり、理解をこころみるたびに、多様な共鳴音を発して感応しあう。

こうした見方の代表としては、ジャン・バティスタ。ヴィーコをあげることができる。「ヂカルトの不倶戴天の敵士を自認したヴィーコは、デカルト哲学における理性的認識を根拠のないものとして反駁する。かれにとって、歴史という対象は、理性から出発して「延長」されるものではなく、認識主体である人間によって作為されたもの、「作られたもの(フアクトウム)」としての真理(ウェルム)を内蔵している。対象は、純粋像として理性のだかに封入されるわけではなく、歴史のなかでくりかえし変化しつつ、人間の営みを体現してゆく。歴史という認識対象と歴史という認識主体とは、たがいに介入しつつ、曖昧で蓋然的な関係を展開してゆく。

古代の人間像を素材にえらんで歴史を考察したヴィーコは、人間活動の本性のうちに「詩的想像力」を看取し、それを規準として、歴史を解釈しうるものと考えた。唯一の規範たる理性にしたがってではなく、詩的感性を基盤として客体(ファクトウム)を捉えようとすれば、当然のことに、自明でアプリオリな真理を歴史にむけて要求することは理不尽であることになり、歴史にたいする「働きかけ」にこそ、学の本質がもとめられることになる。

第三の立場は、こうである。対象としての客体もまた認識する主体も、その関係がいかであれ、ともに両者を包含する、より上位の構造のだかに編成されている。主体が優先するか、客体が優先するかという設問は、ここでは無意味である。そのいずれに認識の契機をみいだすにしても、究極の問いは、その上位構造を解明することにある。歴史像は、そうした広大な図式のうちに構想さるべきである。そこでは、主体は世界を作りだす契機とみなされるが、構造によって規定されており、それを支える実体としてのみ存立する。客体も、おなじく構造のなかにあって機能を保証され、意味をあたえられる。個別な事実や現象として存立しているわけではない。

こうした見方の代表としては、ヘーゲルの歴史観をあげることができる。世界史を「絶対理性の実現過程」とみなしたヘーゲルは、理性をたんに人間の主観に内在する心理過程としてではなく、世界をうみだし、世界を完成させる主体とみなす。歴史は、人間や自然がたまさか出会って実現する偶然の過程ではなく、理性の「校知」がみずからの意図を世界のなかで実現する、壮大な絵図としてえがかれる。ほとんど幻想とでもいうべき絵図であるかにみえるが、この歴史過程にこそ、人間の主観意図や自然の物質的客観性をともに止揚して、単一の構造体が構想される。古代オリエントや古典古代も、プロイセン国家を極とするヨーロッパツパ近代世界も、特異なへーゲル歴史哲学にあっては、絶対理性の自己実現のうちに定位されて、それなりの完結性を保証されたのである。

ここでは、さしあたり三つの立場をあげたが、いずれも世界の認識にあたっての方法的意識を明確にしているという点で、近代の歴史学にたいして、無視しえぬ影響をおよぼし大ものといえる。デカルトもヴィーコもへーゲルも、本来の意味では歴史家ではないものの、それぞれの視点から歴史学にたいして、絶大な刺激をあたえることになった。

未唯の相手が来た

2015年01月18日 | 7.生活
未唯の相手が来た

 リクが居たのでよかった。私の代わりに未唯の相手に吠えまくっていた。途中から宥められてしまった。だらしがない。奥さんはリクがどういう反応するかを知りたくて、家に寄らせた。

 名前を名乗ったが、覚える気はしない。1年ほど前からの付き合いだそうです。友達の紹介というやつです。

 自動販売機の営業をしている。いずれは本社での営業に戻るつもり。本社は大阪なので、転勤がネックになる。

 当初から、結婚を前提にお付き合い。許可を頂けないか。未唯が好きだから、誰でもいい顔はしないけど、未唯が良ければ、反対はできない。惚れたのか、惚れられたのか? お互い。やさしくて誠実だからと未唯が言っていた。

 自動販売機の将来をどう考えているのか? ルートセールスでの忠実さだけ。業態そのものを考えていかないといけないと私は思うけど。

 趣味は? 具体的にこれといってない。鳥が好きで山歩き。あとは釣りをちょっと。

 イギリスに一か月ほど居た。あとはマダカスタルに行った。

 自販機には色々なものが入っている。付加価値の時代だから。

 将来の夢はありますか? 幸せな家庭のことを話していた。私には夢はありますと言ったら、奥さんから「あなたには将来がない」「糖尿とか…」と茶々が入った。

 「早めに話しておいてね」とは言ってあったそうです。私には唐突に「年内に結婚するから」「18日は空けておいて」と言われた。

 未唯の相手のイメージはまるでなかった。まあ、未唯さえよければいいでしょう。何しろ、自分で決めてくれる子だから。

姪の玲ちゃん

 姪はその後、発作が起きて、救急車で記念病院に運ばれたそうです。

岡崎図書館の10冊

2015年01月17日 | 6.本
104『人生は愉快だ』

726.5『あんずのアリスBOOK』

673.7『売り場の科学』セルフサービスでの買い方と売り方

673『日本型クリエイティブ・サービスの時代』「おもてなし」への科学的接近

227『西アジア文明学への招待』人類史の大転換の舞台、古代西アジアはなぜ現代文明の基層となりえたのか

385.9『もっとエコ・ラッピング』思わず誰かにプレゼントしたくなる

913.6『イシュア記』新約聖書物語

369.8『分煙社会のススメ。』人を排除しない、多様性のある社会を目指して

675『時間資本主義の到来』あなたの時間価値はどこまで高められるか?

015『困ったときには図書館へ』~図書館海援隊の挑戦~

資本主義のゆくえ

2015年01月17日 | 4.歴史
『資本主義の招待』より

資本主義のゆくえ

 資本主義は戦争から生まれ、戦争に適応した経済システムである。それは全員の生存を目的とせず、株主価値を最大化するためには労働者を解雇する専制的システムであるがゆえに、世界のどこでもきらわれる。しかし資本主義は歴史上どんな文明も実現したことのない大きな富を実現し、人々を飢餓や疫病から救った。ほんの百年前まで、人類の平均寿命は四十年に満たなかったのだ。資本主義がいかに不平等で不安定なシステムだろうと、人々は豊かになった生活から昔に戻ることはできない。

 しかし資本主義はその可能性をほぼ使い切り、長期停滞(収穫逓減)の傾向が見えてきた。それはマルクスが百五十年前に予言した資本主義の行き詰まりだが、彼の考えたアソシエーションで打開することはできない。特にこれから人口の減少する日本では、経済規模が縮小することは避けられない。成長という目標を失った人々は、これから何を目標にすればいいのだろうか。

新たな国家の役割

 マルクスは資本主義を乗り超えて人類の「前史」を終わらせ、国家の死滅する壮大な未来像を描いたが、それはあまりにもナイーブな人類の共同性への信頼にもとづいていた。人間は社会的諸関係のアンサンブルだから、社会が変われば人間も変わる。自分の利益しか考えないエゴイズムは資本主義の生み出した人間像であり、「協同社会」になれば人間も共同存在になる--という彼の人間像は、人間を白紙状態と見なす経験論の極致だった。

 その意味で社会主義は壮大な実験だったが、その結果が示したのは、資本主義がなくなっても人間の欲望はなくならないということだ。特に無制限の国家権力を個人が握ると、二度と手放すことはない。国家は死滅しないのだ。この意味で資本主義は法の支配によるアカウンタビリティと不可分である。

 しかし向こう百年を考えると、法人税率はゼロに近づき、所得税もタックス・ヘイブンを使える大富豪ほど税率の低くなる逆進的な税になるだろう。イギリス海軍が海賊から発祥したように、資本主義は海賊的なシステムである。それを土地で囲い込む近代国家に限界があるのだ。

 カール・シュミットのいうように近代が「陸と海の戦い」だとすると、自由に移動して富を収奪し、それをオフショアに蓄積する海賊に陸の国家は勝てない。英米ではそれが富の格差をもたらしているが、海洋国家だった日本はグローバル化に乗り遅れ、富を国内に貯蓄している。これが日本経済の衰退する最大の原因である。

 だから国際競争力のあるG型企業はL型と妥協せず、世界最適生産すべきだ。トヨタのように「国内生産三〇〇万台」という目標を設定してがんばると収益率が落ち、日本経済を支えられなくなる。

 問題は、労働人口の八割以上を占めるL型労働者である。製造業が効率化して雇用吸収力がなくなる一方、これから高齢化によって福祉・介護に従事する労働者が増えるため、サービス業の比率はさらに上がり、労働人口の九割を超えるだろう。

 L型は「負け組」にみえるため、若者は地方からいなくなるが、都会に出て行ったら「勝ち組」になれるわけではない。実際には、ほとんどの人は都会でも居酒屋やコンビニでL型の労働者になるしかない。これからは、都市の中のL型労働が増えるのだ。

 それはITで単純化され、チェーン・オペレーションで効率化され、時給べースで新興国と競争する。そういう「グローバリズム」のきらいな人は、田舎に引っ込んで暮らすのもいいが、そのためにもG型企業が収益を上げてGNIを上げる必要がある。この意味で、安倍首相が一人当りGNIを経済政策の指標にするとのべたことは重要である。

 G型のスーパーエリートは人口の数パーセントの、超競争的でリスクの大きい世界だ。ほとんどの人は、そういうストレスの多い生活が快適だとは思わないだろう。普通の人は、L型のほうが好きなのではないか。江戸時代には人々はそれで三百年も暮らしたのだから、L型は日本人に向いている。

 ただ人口が減少して高齢化し、労働集約的なL型産業の比重が高まる中で、国民所得を維持するのは容易なことではない。G型産業は世界で一つの「オリンピック」なので、貿易・資本自由化ぐらいしか政府のできることはないが、L型産業の集約化や効率化のために地方自治体のやるべきことは多い。

 資本主義の歴史はマルクスの述べたように闘争の歴史だが、それは階級闘争というよりは国家による戦争の歴史だった。二十世紀は(直感に反して)歴史上もっとも死亡率の低い時代だったが、それを実現したのは平和運動ではなく、核兵器や通常兵器の均衡だった。資本主義を支えているのも人々の善意ではなく、所有権を保証する制度と、それを守る国家である。

 したがって今後、グローバル化によって主権国家の支配力が弱まることは、資本主義にとっては両刃の剣である。それは一方では、資本を国家のくびきから解放して自由な利潤追求を可能にする一方で、先進国では所得格差を拡大して貧困層をさらに貧困化し、資本主義を否定する政治不安をもたらすおそれもある。必要なのは、グローバル資本主義を無条件に賛美することでもなければ「反グローバリズム」を叫ぶことでもなく、資本主義と国家の新しい関係を考えることだろう。

日本型資本主義の終わり

2015年01月17日 | 3.社会
『資本主義の招待』より

日本型資本主義の終わり

 マルクスの思想を「社会主義」ととらえて「資本主義」と対立するものと考えるのは誤りである。彼の思想はアソシエーショニズムであり、これは市場経済と共存できる。今でも多くの組合やNPO(非営利組織)が市場経済で活動している。日本の農村は村落共同体による協同組合であり、これは近世に市場経済と融合して発展した。日本型資本主義が成功した原因は、資本主義とアソシエーションをたくみに接合したことだった。

 しかし、それは彼の想定した「自由の国」ではなかった。組合で生産するには果てしない人間関係の調整が必要になり、タコツボ化した組織の合意で意思決定を行なうと部分最適にはまり込んでしまう。組合の中で評判を共有するためには、労働者を長期雇用と年功賃金で会社に囲い込み、彼らが他の会社に移る自由を奪う必要がある。日本企業の挫折は、マルクスの見落とした問題を示しているのだ。

G型産業とL型産業

 日本中がグローバル資本主義になるというのは錯覚である。この変化を、冨山和彦はG型とL型という分類で論じている。かつて日本経済を支えたG型(グローバル)産業は新興国に生産拠点を移し、日本に残るのは研究開発と経営だけになろう。すでにGDPの七〇パーセント、労働人口の八○パーセントはL型(ローカル)である(前者がおおむね製造業、後者が非製造業だが、正確に一致するわけではない)。

 この意味で雇用が新興国に流出する「空洞化」は避けられないし、避けるべきでもない。海外で上げた利益は海外で投資することが合理的だ。法人税率や賃金が高く、雇用規制の強い日本に投資する意味はない。ピケティも指摘するように、これから重要なのはGDPではなく、GNI(国民総所得)である。これはGDPに企業の海外収益を加えたもので、製造業が日本で生産しなくてもグローバルに収益を上げればGNIは高まる。

 しかし超効率的になったグローバル企業では、雇用は増えない。むしろ研究開発に特化すると、国内の比率は下がっていく。大部分の労働者は流通・外食・福祉・介護などの個人向けサービス業になるしかなく、現実にそういう変化が起こっている。

 G型産業はオリンピックのようなもので、世界中でルールは一つだ。トヨタやパナソニックの生産性は、世界的にみても高い。問題はL型である。この分野の労働生産性(付加価値/労働時間)は先進国の平均よりかなり低い。これは日本人が怠け者だからではなく、古い産業から労働人口が動けないからだ。これを上げることが、日本経済の究極の問題である。

 労働市場と資本市場の改革で、生産要素(労働・資本)を流動化させることが重要だが、これには多くの人が抵抗する。派遣労働の自由化には労働組合が反対し、地方からの雇用流出には自治体が反対する。

 安倍政権の「地方創生」はこれに迎合して公共事業で「地方活性化」しようという政策だが、これは失敗するだろう。地方の衰退をまねいている最大の原因が、こういう「官依存」の体質だからである。

 日本の産業の主流はすでにL型産業であり、それは多くの先進国に共通の現象だ。八○年代にアメリカが日本に追い上げられ、製造業から非製造業に転換したときと同じ変化を、日本も経験しているのだ。その結果おこるのは、労働生産性も賃金も高い製造業から、低賃金のサービス業への労働移動である。

 それは日本人になじみのない世界ではない。江戸時代には二百七十年間、人々は生まれた地方から出ることはなく、L型の農業で労働生産性を極限まで高めた。山の上まで耕された段々畑は、日本の勤勉革命の象徴である。労働人口が土地に固定されたため成長率は下がったが、人々は農作業に生きがいを見出し、労働意欲は高かった。

 アップルやグーグルの成功体験をいくら聞いても、日本の普通の会社には役に立たない。労働人口の大部分は、L型の流通・サービス・福祉・介護だからである。G型産業の雇用は増えないので、これからの日本の中心はL型だ。役所も経済学者もL型には関心をもたないが、真のイノべーションはここにある。

図書館で本をごそっと借りてくる

2015年01月17日 | 6.本
『将来の学力は10歳までの「読書量」で決まる!』より 本を読まずにはいられない「環境」をつくる

「家にたくさんある」状態がいい

 いかに本が安価とは言え、何十冊も一度に買えば何万円にもなってしまいます。また、すべての本を子どもが気に入るとは限らず、1回読んだだけ、あるいはまったく見向きもされない本も出てくるでしょう。

 そんなとき、図書館で「とにかくたくさん借りまくる」のがいいのです。

 上位私立中学校に合格したある女の子のお母さんは、子どもが小さい頃、リビングに絵本コーナーを設け、図書館から借りてきた本を常に20冊くらい並べていました。

 毎晩その絵本コーナーの前で、「今日はどれがいい?」と選ばせます。子どもが手に取った2、3冊を持って、寝室へ向かうということを毎日行っていたと言います。

 この「選ばせる」というのは、とても憎い演出です。子どもは自分が好きなものを選んだ満足感を得ることができ、しかも、寝る前にお母さんに読み聞かせてもらえるのですから、寝る前の読書が大好きになります。

 小学校に上がる頃には、幼年童話を片っ端から読むようになり、読書に裏づけられた学力のおかげで、志望校に合格することができたのです。

 リビングや子ども部屋に、図書館で借りた本を置くスペースを作るのも一法です。たくさん借りてきた本の中でお気に入りができたら、借り直してもいいし、ここで初めて購入することにしてもいいでしょう。

 買うわけではないから、「これはウケないかも……」という本も、あえて借りてくるこ’とができます。そんな中で、意外と子どもがハマる本が出てきたりするのです。

意外に知られていない便利システム

 図書館は使い慣れてしまえば、利用価値は相当のものです。

 最近は、蔵書数の充実を図るだけでなく、施設作りに重点をおいた図書館が増えています。カビ臭い書架のイメージは払しょくされ、キッズスベースや喫茶コーナーなど、魅力的な場として変貌を遂げつつあります。

 インターネットで蔵書の有無、貸出状況をあらかじめ確認しておけば、「せっかく足を運んだのに、ほしかった本がなかった(借りられていた)」ということがなくなります。ひとつの市区にはたいてい複数の図書館がありますが、予約をすれば最寄りの図書館に本を取り寄せることができます。返却も、一括で大丈夫です。

 さらに、図書館の司書さんはとても頼りがいがあります。たとえば「妖怪の出てくる怖い本を探しているのだけれど……」などと曖昧な尋ね方をしても、いろいろな本を見つけ出してきてくれます。

 また、図書カードを作れる図書館は、住んでいる地域に限りません。近隣の市区であれば、たいてい可能です。通うことができるなら、ぜひ隣りの市区の図書館にも足を伸ばしてみてください。

 リビングに絵本コーナーを設けていた先はどのお母さんも、子どもが飽きないよう、地元と隣りの市の図書館を股にかけて借り出していました。

 私の知り合いの世田谷区在住者は、調布市、三鷹市まで足を伸ばし、3つの市区の図書館を使い倒しています。人気の本や新刊はすぐ貸し出されてしまうので、あちこち巡って借りているのでしょう。

大人向けの棚にも手を伸ばしてみる

 本に慣れてくると、子どもがやたらと読みたがる種類のものが出てきます。

 たとえば、おばけのお話が大好きな、ある6歳の男の子。そのなかでも、がいこつのおばけが好きで、がいこつが出てくる絵本ばかり見ているうちに、だんだん「骨」に興味を持つようになりました。

 図書館に行っても、絵本では飽きたらず、小学生向けの骨の図鑑などを片っ端から借りるように。あらかた借り尽くした後は、大人向けの棚にも手を伸ばし、専門書まで借りるようになったと言います。今ではすっかり骨博士で、写真を見ただけで「これは肋骨」「ソウの骨」などと即答するとか。

 子どもだからといって、子ども向けの本しか読んではいけないということはありません。関心を持っている分野の書棚へ行き、大人向けの本格的な本をどんどん見せてあげましょう。

 文章は読めなくても、写真や図、イラストを眺めているだけで、子どもは楽しみを見っけ出します。「大人向けの本なんて、見てもわからない」と決めつけず、子どもの知的好奇心を大いに刺激してください。

 また、こういう経験がベースになって、理科、生物、生命、環境……というように、自分で本が読めるようになったときの読書の守備範囲が広がっていくのです。

 難解な専門書は高価ですから、借りるに限ります。また、そのような本は借りる人も少ないので、少々貸出期間を延長しても大丈夫なのがいい点です。

 図書館で一度楽しみを見つけると、子どもにとって図書館が魅力的な空間として認識されます。「またあの大きな図書館に行こうよ」と子どもが自分から言うようになれば、しめたものです。ぜひそうなるように、親御さんは休日に家族で図書館へ出かけるなど、図書館通いを楽しいイベントとして目常に組み込んでください。

モカとカプチーノ

2015年01月17日 | 7.生活
『語源に隠れた世界の歴史』より

モカ

 コーヒーはヨーロッパよりも先にイスラーム世界で親しまれていた。若い人は「モカ」と聞くと、「カフェモカ」を思い浮かべるだろう。エスプレッソコーヒーにチョコレートシロップ、スチームミルクを混ぜた飲み物で、ホイップクリームなどをトッピングすることが多い。チョコレートシロップとスチームミルクの代わりにココアを使うこともあるようだが、基本的には甘さが売りといっていい。

 だが、ある年齢から上になると、「モカ」といえばコーヒーである。西田佐知子のヒット曲『コーヒールンバ』にも、「素敵な飲み物……モカマタリ」という歌詞が出てくるが、それで「モカ」という言葉を知った人も多いはずだ。

 たしかに、「モカ(Mocha、Mokha)」とはモカコーヒーのことで、その豆にはカカオ(チョコレート)に似た風味がある。昨今はやりの「カフェモカ」がチョコレートを取り入れているのもそのためである。

 その「モカ」はもともと、紅海沿岸の港町の名前である。アフリカ大陸北東部にある国エチオピアが原産のコーヒー豆は、すでに15世紀からイスラーム世界に広く輸出されていたが、まだローカルな飲料にとどまっていた。

 しかし1563年、オスマン帝国がアラビア半島の南西部一帯を占領してから、コーヒー豆は重要な輸出品となる。現在はイエメン共和国の首都サヌアの外港であるモカから輸出される豆は「モカ」と呼ばれ、コーヒーの代名詞ともなった。ちなみに、このモカは1869年、スエズ運河が開通したことで港としての役割を終え、現在は漁業が主で、観光も大きな柱になっている。

 なお、モカコーヒーには「マタリ」と「ハラリ」の2種類がある。

 「モカ・マタリ(Mokha Mattari)」はイエメン北西部の高地で産出される豆のことをいい、さわやかな香りと強い酸味のある味わいが特徴。

 これに対し、エチオピア東部のハラール高原(ハラリ州)で採れる豆が「モカハラリ(ハラールコーヒーとも)」で、こちらは、苦みが少ないことで知られる。そのため、ブラジルなど苦みの強い豆とブレンドして飲まれることが多い。なかでも、とりわけ苦味の強いジャワ産ロブスタ種とのブレンドは「モカジャバ」と呼ばれている。

 コーヒーはイスラーム世界では日常的に飲まれていたものの、ヨーロッパでは17世紀の初めごろまで、植物学者や医学者以外にはほとんど知られていなかった。

 1596年、フランスの医師・植物学者のカロルス・クルシウスが、イタリアの植物学者オノリウス・ペッルスからコーヒー豆とその調理法に触れた書簡を送られたという記録が残っている。

 ちなみに、クルシウスは後にも登場するように、チューリップをヨーロッパに広めたことで名前を残しているが、現代のヨーロッパにとっては忘れてはならない人物といえる。

 しかし、「キリスト教徒にとって聖なる飲み物であるワインをイスラーム教徒は飲めない。その罰として、悪魔からコーヒーを与えられている」として、「悪魔の飲み物」=コーヒーを禁止するよう、ローマ教皇に勧める者もいたようである。

 そこで、17世紀の初め、当時の教皇クレメンス8世はみずからコーヒーを味見したのだが、その香りと味に魅了されてしまった。クレメンス8世はコーヒーに洗礼を授け、キリスト教徒が飲むことを公認したそうである。

 地中海貿易をリードしていたヴェネツィアの商人を介してコーヒーがヨーロッパ各地に広まったのはその後のことで、ビールやワインに代わる、健康的な飲料として受け入れられるようになった。コーヒーの持つ覚醒作用も人々に受け入れられたようで、ときには万能薬として紹介されることもあったようだ。

カプチーノ

 イタリアの修道士と関係のあるコーヒー用語

 アメリカのシアトルに発するスターバックス・コーヒーが世界中に広まってからというもの、日本人のコーヒーに対する嗜好も大きく変わったのではないだろうか。

 一時期流行したアメリカンタイプの薄いコーヒーはすっかり少数派となり、いまでは、深煎りの豆を挽いて滝れた濃い味のコーヒーが中心になっている。

 ただ、その影響だろう、コーヒー単独では濃すぎて……という人たちのために「ラテ」や「カプチーノ」など、コーヒーに牛乳を加えたものが多く飲まれるようになったのも事実。どちらもイタリアで生まれたもので、ヨーロッパでは昔から広く飲まれていたが、日本での歴史はまだ浅い。「ラテ」はイタリア語のlatte(=牛乳)で、エスプレッソコーヒーに熱した牛乳を混ぜ合わせたもの。

 では、「カプチーノ(cappuccio)はというと--。こちらは、エスプレッソコーヒーを陶器のカップに注ぎ、そこにスチーームドミルク(蒸気で温められた牛乳)とフォームドミルク(蒸気で泡立てられた牛乳)を加えて作ったものをいう。イタリア語なのだが、この言葉自体はコーヒーもミルクもまったく関係していない。

 イタリアでは「カプチーノ」のことを「カップッチョ(cappuccio)」ともいう。cappuccioは「頭巾」「フード」のことで、カトリック教会の一派カプチン会の名前に由来している。

 カプチン会は正式にはカプチン・フランシスコ修道会といい、ヨーロッパに宗教改革の嵐が吹き荒れた16世紀、教会刷新運動を展開していたフランシスコ会から分かれてできた。

 彼らが身に着けている、先の尖った頭巾の色(茶褐色)に似ていたことから、この飲み物を「カプチーノ」と呼ぶようになったのだという。普段何気なく飲んでいるカプチーノだが、実はとても神聖で気高い飲み物なのだ。

 それとは別に、エスプレッソに浮かぶ2種類のミルクの泡を「ふだ」に見立てたという説もある。たしかに、cappuccioには「ふた」という意味もある。また、白い泡をコーヒーが囲む様子が、頭頂部だけを剃髪した修道士の髪型に似ているからという説もあるようだ。

 ちなみに、カフェオレ(cafe au lait)は、フランスが発祥。フレンチローストなど深めに焙煎した豆から抽出したコーヒーをドリップで滝れ、同量の温めた牛乳をカップに同時に注いだものである。