『核を乗り越える』より
ドイツの環境問題への取り組みは二つの理由から来ている。一つは、温室効果ガスにより地球温暖化が世界的な問題になっているというのに、ドイツでは主要な電力の生産を質の悪い褐炭の火力発電に頼っているため、ことのほか温室効果ガスを排出していることへの反省(罪悪感)である。褐炭は国内で多く産出するため値段が安く、そう簡単には止められない。安い電力と地球環境問題の葛藤があったのだ。もう一つは反原発のうねりである。ドイツでは早くも一九六一年に(日本より一〇年早い)商業用原発が送電を開始し、その後より大きい出力の原発を建設しており、世界的に見ても原発先進国なのである。それだけに原発への反発も強くあった。特に、ドイツは地方分権を重視する国であり、地元が強く反対すれば地方自治体(州政府)としても強行し辛くなる。実際、地元の反対で原発の建設計画が中止になることもあった。また、メディアも原発の安全性や核廃棄物問題やエネルギー政策について積極的に報道し、安全神話を振りまくことがなかったこともある。一九七九年にスリーマイル島原発事故が起こって以来、社会運動としての反原発運動が活性化したのである。
そのような状況の中、一九八〇年に緑の党が結成され、環境への負荷を最小限にするエコロジーを中心に据えて、反原発路線を全面的に打ち出した。一九九六年に起きたチェルノブイリ原発事故によって、現実に放射能によって国土が汚染されたこともあり、原発を拒否する勢力として存在感を増していったのである。そして一九九八年に緑の党は六・七%の得票率を確保してシュレーダーが率いるSPD(社会民主党)と連立政権を組み、「脱原子力合意」を発表した。これによると、原子炉の運転期間を最大三二年間に限り、当時一九基の原発の総発電量に上限を設け、原発の新設を禁止したのである。こうして脱原発の方向が強く打ち出されることになった。
このようなドイツ国内の反原発の動きとは別に、ヨーロッパ連合(EU)としての動きがドイツのエネルギー政策に大きく影響したことも述べておかねばならない。一九九八年にEUの指令として、電力会社の地域独占を廃止して電力の自由化に踏み切ったことである。これによって大手電力会社の電力線を他社が使うことを認めるようになり、一般家庭は電力会社を自由に選べるようになったのだ。そしてドイツの電力取引市場が開設され、電力料金も自由競争にさらされるようになった(しかし、最初は電力線を持つ会社が高い託送料金を課したために値段はあまり下がらなかったのだが、後に送電と発電会社の完全分離によって改善された)。その結果として電力料金はいったん下がったのだが、後に述べるような事情で比較的高くなっているのが問題となっている。
もう一つ連立政権が行なった重要な政策に、二〇〇〇年に成立した「再生可能エネルギーに優先権を与えるための法律」で、送電業者は水力・太陽光・地熱・廃棄物ガス・バイオマスなどのエコ電力の送電網に取り込まねばならない(売りたい人がいれば優先的に法律で決めた固定価格で引き取り、電力系統に流し込まねばならない)としたのだ。事実上の再生可能エネルギーの全量買取制で、価格は二〇年間固定することになった。これによって政府が法律で再生可能エネルギー発電への投資回収を保証することになり、急速に普及したのである(日本では、FITの条項に「再生可能エネルギーが多くなって送電線がパンクすると予想されるときは、接続を拒否することができる」があるのと大きな違いである)。
以上のように、電力の自由化・発送電分離と再生可能エネルギーの全量買取制度の二本の柱によって、ドイツでは急速に再生可能エネルギーの普及が進み、原発への依存度が下がったのである。といっても、この動きがスムーズに進んだわけではない。一つは電力業界や産業界の強い圧力があり、二〇〇九年にCDU(キリスト教民主同盟)/CSU(キリスト教社会同盟)とFDP(自由民主党)が連立した保守中道政権(メルケル首相)は、二〇一〇年に温室効果ガスの排出量を減らすために、再生可能エネルギーの増加とともに脱原子力合意に大幅な修正(原子炉の稼働を平均二七年間延長する)を加えたのである。原発は二酸化炭素を出さず、電力料金の増額を抑えられるという電力会社の主張をそのまま受け入れたのだ。
さらに、二〇〇〇年と二〇一〇年とを比べてみると、ドイツにおける電力料金はなんと七〇%もの増加率になっており、税金(付加価値税、再生可能エネルギーヘの助成金、環境税、送電柱の道路使用料など)が八四・ニ%増えている。特に再生可能エネルギーの助成金がI〇倍にもなったことが目立つ。電力料金が大幅に上昇し、そのかなりの部分が再生可能エネルギーの全量買取のためのコストであることがわかる。ドイツでは高い電力料金と引き換えに脱原発と再生可能エネルギーの普及を図っていることになる。
二〇一一年の3・11で福島原発の過酷事故が起こるや、メルケル首相は三月一五日には一九八○年以前に運転を始めた(つまり運転期間が三一年を超える)七基の原子炉を即時停止させた。原子力のリスクの大きさを深く認識したのである。そして二つの委員会を設置して、将来に対する提言を求めた。一つは「原子炉安全委員会」で、残る一七基の原発すべてについてどの程度の耐久性を持つかを調べさせた。原発の安全性への確信を得ようとしたのだろう。実際、この委員会は「ドイツの原発は福島第一原発より高い安全措置が講じられている」と答申している。しかし、メルケル首相はこの委員会の答申を採用せず、もう一つの「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」の提言である、コ刻も早く原発を廃止し、よりリスクが少ないエネルギーによって代替すべきである」と述べた答申を採用することにした。そして、七基の原子炉に加えてトラブルで停止していた原発八基を即時に廃炉とし、残る九基を二○二二年一二月三一日までに廃炉手続きをすることを連邦議会で決定した(議員の八三%が賛成)。同時に、再生可能エネルギーの割合を二〇一一年一七%であったものを、二〇一三年二〇%、二〇二〇年三五%、二〇五〇年八〇%とするという高い目標を設定したのであった。
以上のようなドイツにおける脱原発と再生可能エネルギーヘの移行路線には、ドイツの人々の環境問題への強い関心と経済よりエコを大事にしようという選択が根底にあり(国民性の問題)、それとともに地続きのヨーロッパ大陸であることの地理性(電力の融通を行なうのが普通である)とEUとして統合していくための方針(EU指令)という国際性の問題も重要な要素であることがわかる。地下資源文明が環境容量の有限性によって壁にぶつかっていると認識し、再生可能エネルギーヘの移行という地上資源文明への転換を図ろうとしていると見倣すことができるのではないだろうか。とはいえ、フランスの原発への依存率は七〇%を超えており(二〇二〇年には五〇%まで下げると言っているが)、なぜ隣国同士のドイツとフランスでこのような大きな差異が生じているのか、研究する価値があると思われる。
ドイツの環境問題への取り組みは二つの理由から来ている。一つは、温室効果ガスにより地球温暖化が世界的な問題になっているというのに、ドイツでは主要な電力の生産を質の悪い褐炭の火力発電に頼っているため、ことのほか温室効果ガスを排出していることへの反省(罪悪感)である。褐炭は国内で多く産出するため値段が安く、そう簡単には止められない。安い電力と地球環境問題の葛藤があったのだ。もう一つは反原発のうねりである。ドイツでは早くも一九六一年に(日本より一〇年早い)商業用原発が送電を開始し、その後より大きい出力の原発を建設しており、世界的に見ても原発先進国なのである。それだけに原発への反発も強くあった。特に、ドイツは地方分権を重視する国であり、地元が強く反対すれば地方自治体(州政府)としても強行し辛くなる。実際、地元の反対で原発の建設計画が中止になることもあった。また、メディアも原発の安全性や核廃棄物問題やエネルギー政策について積極的に報道し、安全神話を振りまくことがなかったこともある。一九七九年にスリーマイル島原発事故が起こって以来、社会運動としての反原発運動が活性化したのである。
そのような状況の中、一九八〇年に緑の党が結成され、環境への負荷を最小限にするエコロジーを中心に据えて、反原発路線を全面的に打ち出した。一九九六年に起きたチェルノブイリ原発事故によって、現実に放射能によって国土が汚染されたこともあり、原発を拒否する勢力として存在感を増していったのである。そして一九九八年に緑の党は六・七%の得票率を確保してシュレーダーが率いるSPD(社会民主党)と連立政権を組み、「脱原子力合意」を発表した。これによると、原子炉の運転期間を最大三二年間に限り、当時一九基の原発の総発電量に上限を設け、原発の新設を禁止したのである。こうして脱原発の方向が強く打ち出されることになった。
このようなドイツ国内の反原発の動きとは別に、ヨーロッパ連合(EU)としての動きがドイツのエネルギー政策に大きく影響したことも述べておかねばならない。一九九八年にEUの指令として、電力会社の地域独占を廃止して電力の自由化に踏み切ったことである。これによって大手電力会社の電力線を他社が使うことを認めるようになり、一般家庭は電力会社を自由に選べるようになったのだ。そしてドイツの電力取引市場が開設され、電力料金も自由競争にさらされるようになった(しかし、最初は電力線を持つ会社が高い託送料金を課したために値段はあまり下がらなかったのだが、後に送電と発電会社の完全分離によって改善された)。その結果として電力料金はいったん下がったのだが、後に述べるような事情で比較的高くなっているのが問題となっている。
もう一つ連立政権が行なった重要な政策に、二〇〇〇年に成立した「再生可能エネルギーに優先権を与えるための法律」で、送電業者は水力・太陽光・地熱・廃棄物ガス・バイオマスなどのエコ電力の送電網に取り込まねばならない(売りたい人がいれば優先的に法律で決めた固定価格で引き取り、電力系統に流し込まねばならない)としたのだ。事実上の再生可能エネルギーの全量買取制で、価格は二〇年間固定することになった。これによって政府が法律で再生可能エネルギー発電への投資回収を保証することになり、急速に普及したのである(日本では、FITの条項に「再生可能エネルギーが多くなって送電線がパンクすると予想されるときは、接続を拒否することができる」があるのと大きな違いである)。
以上のように、電力の自由化・発送電分離と再生可能エネルギーの全量買取制度の二本の柱によって、ドイツでは急速に再生可能エネルギーの普及が進み、原発への依存度が下がったのである。といっても、この動きがスムーズに進んだわけではない。一つは電力業界や産業界の強い圧力があり、二〇〇九年にCDU(キリスト教民主同盟)/CSU(キリスト教社会同盟)とFDP(自由民主党)が連立した保守中道政権(メルケル首相)は、二〇一〇年に温室効果ガスの排出量を減らすために、再生可能エネルギーの増加とともに脱原子力合意に大幅な修正(原子炉の稼働を平均二七年間延長する)を加えたのである。原発は二酸化炭素を出さず、電力料金の増額を抑えられるという電力会社の主張をそのまま受け入れたのだ。
さらに、二〇〇〇年と二〇一〇年とを比べてみると、ドイツにおける電力料金はなんと七〇%もの増加率になっており、税金(付加価値税、再生可能エネルギーヘの助成金、環境税、送電柱の道路使用料など)が八四・ニ%増えている。特に再生可能エネルギーの助成金がI〇倍にもなったことが目立つ。電力料金が大幅に上昇し、そのかなりの部分が再生可能エネルギーの全量買取のためのコストであることがわかる。ドイツでは高い電力料金と引き換えに脱原発と再生可能エネルギーの普及を図っていることになる。
二〇一一年の3・11で福島原発の過酷事故が起こるや、メルケル首相は三月一五日には一九八○年以前に運転を始めた(つまり運転期間が三一年を超える)七基の原子炉を即時停止させた。原子力のリスクの大きさを深く認識したのである。そして二つの委員会を設置して、将来に対する提言を求めた。一つは「原子炉安全委員会」で、残る一七基の原発すべてについてどの程度の耐久性を持つかを調べさせた。原発の安全性への確信を得ようとしたのだろう。実際、この委員会は「ドイツの原発は福島第一原発より高い安全措置が講じられている」と答申している。しかし、メルケル首相はこの委員会の答申を採用せず、もう一つの「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」の提言である、コ刻も早く原発を廃止し、よりリスクが少ないエネルギーによって代替すべきである」と述べた答申を採用することにした。そして、七基の原子炉に加えてトラブルで停止していた原発八基を即時に廃炉とし、残る九基を二○二二年一二月三一日までに廃炉手続きをすることを連邦議会で決定した(議員の八三%が賛成)。同時に、再生可能エネルギーの割合を二〇一一年一七%であったものを、二〇一三年二〇%、二〇二〇年三五%、二〇五〇年八〇%とするという高い目標を設定したのであった。
以上のようなドイツにおける脱原発と再生可能エネルギーヘの移行路線には、ドイツの人々の環境問題への強い関心と経済よりエコを大事にしようという選択が根底にあり(国民性の問題)、それとともに地続きのヨーロッパ大陸であることの地理性(電力の融通を行なうのが普通である)とEUとして統合していくための方針(EU指令)という国際性の問題も重要な要素であることがわかる。地下資源文明が環境容量の有限性によって壁にぶつかっていると認識し、再生可能エネルギーヘの移行という地上資源文明への転換を図ろうとしていると見倣すことができるのではないだろうか。とはいえ、フランスの原発への依存率は七〇%を超えており(二〇二〇年には五〇%まで下げると言っているが)、なぜ隣国同士のドイツとフランスでこのような大きな差異が生じているのか、研究する価値があると思われる。