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未唯への手紙

未唯への手紙

ドイツの挑戦と課題

2015年01月23日 | 4.歴史
『核を乗り越える』より

ドイツの環境問題への取り組みは二つの理由から来ている。一つは、温室効果ガスにより地球温暖化が世界的な問題になっているというのに、ドイツでは主要な電力の生産を質の悪い褐炭の火力発電に頼っているため、ことのほか温室効果ガスを排出していることへの反省(罪悪感)である。褐炭は国内で多く産出するため値段が安く、そう簡単には止められない。安い電力と地球環境問題の葛藤があったのだ。もう一つは反原発のうねりである。ドイツでは早くも一九六一年に(日本より一〇年早い)商業用原発が送電を開始し、その後より大きい出力の原発を建設しており、世界的に見ても原発先進国なのである。それだけに原発への反発も強くあった。特に、ドイツは地方分権を重視する国であり、地元が強く反対すれば地方自治体(州政府)としても強行し辛くなる。実際、地元の反対で原発の建設計画が中止になることもあった。また、メディアも原発の安全性や核廃棄物問題やエネルギー政策について積極的に報道し、安全神話を振りまくことがなかったこともある。一九七九年にスリーマイル島原発事故が起こって以来、社会運動としての反原発運動が活性化したのである。

そのような状況の中、一九八〇年に緑の党が結成され、環境への負荷を最小限にするエコロジーを中心に据えて、反原発路線を全面的に打ち出した。一九九六年に起きたチェルノブイリ原発事故によって、現実に放射能によって国土が汚染されたこともあり、原発を拒否する勢力として存在感を増していったのである。そして一九九八年に緑の党は六・七%の得票率を確保してシュレーダーが率いるSPD(社会民主党)と連立政権を組み、「脱原子力合意」を発表した。これによると、原子炉の運転期間を最大三二年間に限り、当時一九基の原発の総発電量に上限を設け、原発の新設を禁止したのである。こうして脱原発の方向が強く打ち出されることになった。

このようなドイツ国内の反原発の動きとは別に、ヨーロッパ連合(EU)としての動きがドイツのエネルギー政策に大きく影響したことも述べておかねばならない。一九九八年にEUの指令として、電力会社の地域独占を廃止して電力の自由化に踏み切ったことである。これによって大手電力会社の電力線を他社が使うことを認めるようになり、一般家庭は電力会社を自由に選べるようになったのだ。そしてドイツの電力取引市場が開設され、電力料金も自由競争にさらされるようになった(しかし、最初は電力線を持つ会社が高い託送料金を課したために値段はあまり下がらなかったのだが、後に送電と発電会社の完全分離によって改善された)。その結果として電力料金はいったん下がったのだが、後に述べるような事情で比較的高くなっているのが問題となっている。

もう一つ連立政権が行なった重要な政策に、二〇〇〇年に成立した「再生可能エネルギーに優先権を与えるための法律」で、送電業者は水力・太陽光・地熱・廃棄物ガス・バイオマスなどのエコ電力の送電網に取り込まねばならない(売りたい人がいれば優先的に法律で決めた固定価格で引き取り、電力系統に流し込まねばならない)としたのだ。事実上の再生可能エネルギーの全量買取制で、価格は二〇年間固定することになった。これによって政府が法律で再生可能エネルギー発電への投資回収を保証することになり、急速に普及したのである(日本では、FITの条項に「再生可能エネルギーが多くなって送電線がパンクすると予想されるときは、接続を拒否することができる」があるのと大きな違いである)。

以上のように、電力の自由化・発送電分離と再生可能エネルギーの全量買取制度の二本の柱によって、ドイツでは急速に再生可能エネルギーの普及が進み、原発への依存度が下がったのである。といっても、この動きがスムーズに進んだわけではない。一つは電力業界や産業界の強い圧力があり、二〇〇九年にCDU(キリスト教民主同盟)/CSU(キリスト教社会同盟)とFDP(自由民主党)が連立した保守中道政権(メルケル首相)は、二〇一〇年に温室効果ガスの排出量を減らすために、再生可能エネルギーの増加とともに脱原子力合意に大幅な修正(原子炉の稼働を平均二七年間延長する)を加えたのである。原発は二酸化炭素を出さず、電力料金の増額を抑えられるという電力会社の主張をそのまま受け入れたのだ。

さらに、二〇〇〇年と二〇一〇年とを比べてみると、ドイツにおける電力料金はなんと七〇%もの増加率になっており、税金(付加価値税、再生可能エネルギーヘの助成金、環境税、送電柱の道路使用料など)が八四・ニ%増えている。特に再生可能エネルギーの助成金がI〇倍にもなったことが目立つ。電力料金が大幅に上昇し、そのかなりの部分が再生可能エネルギーの全量買取のためのコストであることがわかる。ドイツでは高い電力料金と引き換えに脱原発と再生可能エネルギーの普及を図っていることになる。

二〇一一年の3・11で福島原発の過酷事故が起こるや、メルケル首相は三月一五日には一九八○年以前に運転を始めた(つまり運転期間が三一年を超える)七基の原子炉を即時停止させた。原子力のリスクの大きさを深く認識したのである。そして二つの委員会を設置して、将来に対する提言を求めた。一つは「原子炉安全委員会」で、残る一七基の原発すべてについてどの程度の耐久性を持つかを調べさせた。原発の安全性への確信を得ようとしたのだろう。実際、この委員会は「ドイツの原発は福島第一原発より高い安全措置が講じられている」と答申している。しかし、メルケル首相はこの委員会の答申を採用せず、もう一つの「安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」の提言である、コ刻も早く原発を廃止し、よりリスクが少ないエネルギーによって代替すべきである」と述べた答申を採用することにした。そして、七基の原子炉に加えてトラブルで停止していた原発八基を即時に廃炉とし、残る九基を二○二二年一二月三一日までに廃炉手続きをすることを連邦議会で決定した(議員の八三%が賛成)。同時に、再生可能エネルギーの割合を二〇一一年一七%であったものを、二〇一三年二〇%、二〇二〇年三五%、二〇五〇年八〇%とするという高い目標を設定したのであった。

以上のようなドイツにおける脱原発と再生可能エネルギーヘの移行路線には、ドイツの人々の環境問題への強い関心と経済よりエコを大事にしようという選択が根底にあり(国民性の問題)、それとともに地続きのヨーロッパ大陸であることの地理性(電力の融通を行なうのが普通である)とEUとして統合していくための方針(EU指令)という国際性の問題も重要な要素であることがわかる。地下資源文明が環境容量の有限性によって壁にぶつかっていると認識し、再生可能エネルギーヘの移行という地上資源文明への転換を図ろうとしていると見倣すことができるのではないだろうか。とはいえ、フランスの原発への依存率は七〇%を超えており(二〇二〇年には五〇%まで下げると言っているが)、なぜ隣国同士のドイツとフランスでこのような大きな差異が生じているのか、研究する価値があると思われる。

アメリカヘ

2015年01月23日 | 4.歴史
『航海の歴史』より

19世紀までに、海路での移住は新しい概念ではなくなっていたが、ヨーロッパから合衆国への大量移住は、それまでには見られないほどの規模であった。1850年代は英国とアイルランドからの移住が最盛期を迎え、およそ170万人のうち100万人が合衆国、約50万人がカナダ、残りは主にオーストラリアヘ向かった。他のヨーロッパ諸国もすぐに続き、250万人のドイツ人と50万以上のイタリア人が1871年から1905年の間に合衆国へ到着した。1892年以降は多くの移民がニューヨークのエリス島にある有名な移民局により審査された。

莫大な数にのぼるこれらの民衆は、さまざまな理由--好奇心、大望、あるいはひどい貧困--から長く厳しい航程を耐えた。非常に多くの人々が新しい生活を始めるために海を渡った。中にはかろうじて往きの航路の費用を捻出し、過酷な条件で旅をした者もおり、特に1845年から1852年にかけてアイルランドで起こったひどい飢饉の時代がそうだった。ジャガイモ凋委病の発生の結果、アイルランドは飢饉と病気で荒廃した。100万人が死亡し、移住した人の数も同薮にのぼったと考えられている。移住する費用を地主に払ってもらった者や、自分自身の運賃を払うためにお金をかき集めた者もいた。時には、そうした船に乗り込んだ旅人が、自分たちが逃げ出してきたところよりもつらい試練に直面することもあった。

アイルランド人移民ロバート・ホワイトは幸運にもアメリカ行きの船室船客の切符を購入するだけの金を持っていた。他の移民の大半は「スティーリジ」(一番安い船室、もともとは船の操舵機近くに位置していたためそう呼ばれるようになった)のぞっとするような環境に置かれた。とはいえ、ホワイトの旅でさえ贅沢とは程遠く、彼は他の乗客と多くの困難を分かち合わねばならなかった。彼の記録によると、1847年5月30日、生まれ故郷に「最後の足跡」を残すと、広人な大西洋の反対側に彼を運ぽうとしているプリッグ(2本マストの横帆船)まで1艘のボートで連れて行かれた。彼か士官たちと一緒に生活することになる船室に連れて行かれると、「そこはおよそ10フィート〔約3m〕四方で天井はひどく低く、船長がまっすぐに立つことのできる場所だけが天窓の下にあった……天井は無数の海図で飾られていた……天窓のまん中から垂れ下がった鳥かごには1羽の不幸せなカナリアがいた」。船長--白髪交じりの無愛想な男--に会った時、ホワイトは「粗野な船乗りの男らしい威厳を称賛するよう強いられている」と感じた。船長の妻--「女主人」として有名だった--とも会ったが、「愛想のよい」顔つきで銀のメガネをかけていた彼女は親切で、夫の粗野な態皮をいくぶんか川め介わせた。水人が錨を上げ、トップスルが広げられると、ブリッグはダブリン湾を滑るように出航し、南から吹く凧に乗ってノース海峡に入った。その晩、ベルファスト南部のモーン山地沖合で甲板のハンモックにもたれていたホワイトは、うなり声のような音を耳にして驚いた。

「私は飛び上がり、困惑しながら奇妙な音の原因を捜した……なんと! 隅に一人の男がうずくまっていた……」。男は歓迎されなかった。ホワイトによれば「船員はただちに「密航者」と断定し、彼を揺さぶってまっすぐ立たせた。はしごを上るよう命じ、その貧しい哀れな男をひと蹴りして促した。ぼろを着たその男は3日間隠れていたことを告白したので、彼の運命を決めるため、怒り狂った船長の前に連れて行かれた。「……船長は、船から放り出すべきだと断言し、さっさと結論を出した。哀れな男は船長の怒りにひどく困惑し、熱心に許しを求めた」。結局船長は態度を軟化させ、船が通過する最初の陸地でその密航者を降ろすことを認めた。エまだましな方を選んだので、不運な密航者はこの決定にほっとしただろう。乗組員が他にも密航者がいないか探している間、乗客が甲板に集められたが、ホワイトは彼らのありさまに驚いた、「これまで目にしたことがないくらい雑多な群衆。赤ん坊から弱々しい老人やしわくちやのお婆さんまで、あらゆる年齢層の人間……ある老人など、ひどく衰弱していたため、肺結核の末期ではないかと思われた」。

食べ物は110人の乗客と乗組員にとって重要な関心事であった。最初のうちは1週間分の[ひき割り粉かパン]が一度にまとめて配られていたが、半ば飢えた移民は「ほとんど先のことを考えずにそれらを消費してしまった」ため、船長が毎日1日分ずつ食料を支給することにした。彼らは甲板で必要最低限の状況で自ら調理しなければならなかった。乗客の炊事炉は、前部甲板の両側で果てしない大騒ぎを提供し、時には騒がしいお祭り騒ぎ、時には喧嘩騒ぎ……朝から晩まで男や女や子ともの集団がまわりにいた。あらゆる鍋でオートミールを作っている者がいたり、あり合わせの鉄板でケーキを焼く者もいた。そうしたケーキは通常5cmほとの厚さで、焼かれた時はいつも、煙におおわれた焦げた表面に包まれているが、実のところ芯は生焼けである。

チエ・ゲバラの広島訪問

2015年01月23日 | 4.歴史
『戦争報道論』より グローバルとローカルの回路 さまざまな「九・一一」

米軍による原爆投下が人類史上最大の悲劇であることは、いまだにそれを正当化する米国をのぞけば世界で異論はない。ふたたびラテンアメリカの見方を例にあげると、キューバ革命の英雄チエ・ゲバラの広島訪問のときの言葉がある。

一九五九年七月、新生キューバの通商使節団を率いて来日したゲバラは、東京や阪神の企業を視察したり、財界人の歓迎パーティーに出席していたが、神戸に滞在中、「他の日程をすべて犠牲にしても原爆慰霊碑に献花したい」といって急きょ予定を変更し、広島にむかった。広島では官庁訪問は遠慮し、慰霊碑に直行したゲバラは、真夏の午後、花輪をささげ慰霊碑に参拝した。このあと資料館を一時間あまり見学し、「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて腹が立たないのか」と案内役の県庁職員に話しかけた。

それから四四年後の二〇〇三年三月には、ゲバラの盟友フィデル・カストロ国家評議会議長が広島を訪れた。マレーシアで開かれた非同盟諸国会議に出席した帰途の非公式来日だったが、短い滞在期日のほぼ半分を広島訪問にあてた。原爆慰霊碑に献花し資料館を見学した同議長は「まったく罪のない広島、長崎の犠牲者に哀悼の意を表することは長年の願いだった」と述べた。二〇〇八年五月には、ゲバラの娘で小児科医として医療支援に取り組むアレイダ・ゲバラが広島にやって来た。彼女は、原爆資料館で被爆者の写真や焼け焦げた子どもたちの服に見入り、ときに涙を流して前田耕一郎館長の説明を聞いた。慰霊碑に花を手向けたあと、秋葉忠利巾長と公談し「人間が生みだす悲劇と、そこから立ち上がる人間の力を感じた。広島のメッセージをよりよい世界の実現につなげてほしい」と語った。

広島、長崎へのこうした思いは、キューバの革命家やその娘だけのものではない。ラテンアメリカの国々で多くのジャーナリストや芸術家たちがヒロシマとナガサキについて語りつづけている。

ゲバラは来日のさい、予定外の広島訪問は強行しながら、東京のキューバ大使館と日本外務省が組んでいた第二次大戦で死んだ無名戦士の墓に詣でる計画は拒否した。「行かない。数百万のアジア人を殺した帝国主義の軍隊じゃないか。絶対に行かない。行きたいのは広島だ。アメリカ人が一〇万人の日本人を殺した場所だ」とゲバラは言った。彼が、米軍の日本への原爆投下をアジアの人びとがどのように受け止めているかを知っていたかどうかはわからないが、彼の日本での訪問先の選択はラテンアメリカの革命家が日本の加害性と被害性を明快に理解していたことを示している。

二〇一三年三月にはドイツから、ドレスデン空襲の記憶継承活動をおこなっている「1945年2月13日協会」のマティアス・ノイツナーが来日した。同国東部の古都ドレスデンは第二次大戦末期のこの日から一五日にかけて連合軍(英米軍)による無差別爆撃をうけ、二万五〇〇〇人の市民が犠牲となり、市中心部は廃墟となった。ノイツナーは戦後の一九六〇年生まれだが、この空襲の証言記録をまとめ体験を次世代に語り継ぐために、一九八七年に同協会を設立した。来日は、和・ピースリングの招きによるもので、彼は東京、大阪で「空襲体験をどう継承するか」について講演し、さまざまな世代の参加者と意見交換した。東京での講演内容を加藤が日刊ベリタに寄稿した

ノイツナーは、ドレスデン空襲の実態について語ったあと、この都市がドイツだけでなくヨーロッパ全体にとって重要な意味を持つ記憶の場となっていった過程を説明した。ナチス時代は連合軍非難のシンボル、冷戦時代はソ連による対米批判のプロパガンダに利用されたが、一九六〇年代の終わりころから、そうした宣伝の道具から脱して、ドレスデンはゲルニカ、コペントリー(一九四〇年一一月にドイツ軍の爆撃を受けた英国中部の産業都市)、ヒロシマなどと名を連ねる、国際的な意味を持ち始めるようになった。それは、「世界の平和を達成し、人権をより強固なものにするために、国を超えて、共に過去に対して取り組んでいくことが必要だ」という認識が各国市民に強まってきたからだ、とノイツナーは指摘する。ドイツでは、「ドイツ人のナチ犯罪、虐殺と戦争の罪責を考慮しながら、ドイツ人が受けた被害、空襲被害について思い起こすこと、記憶することができるのか、できるとすればどのように可能なのか」をめぐって、公共の場で議論が巻き起こった。「1945年2月8日協会」はそうした動きのなかで誕生した。

同協会は、高齢の戦争体験世代と若い世代が記憶の継承のために共同の作業をすると同時に、この数年間は、平和や人権について活動している世界中の人々との活発な交流を行ってきた。戦後世代のノイツナーは「ドレスデンは未来に対する様々な挑戦を受けている論争的な記憶の場であることには変わりない」と述べ、「私たちの過去のなかに、重要な考えるための材料や資源、社会参加の経験を見出すことができると信じている」と日本の聴衆にうったえた。そのために国境を越えで、人びとが協力し合うことが欠かせない。「日本に呼んでいただき、感謝している。日本で経験しかことや友好的な気持ちをドレスデンに持って帰りたいと思う」と、彼は講演をむすんだ。

死は<今>がなくなるだけ

2015年01月23日 | 1.私
死は<今>がなくなるだけ

 死は<今>がなくなるだけ。過去と未来は残ります

μとの対話

 他者の存在を前提としている。昨日からイヤな感じになっている。もう一人の他者として、μがいるんだ。そのために、未唯への日記に戻らないと。

 未唯への手紙ともう一人の自分としてのμ。そして、絶対的な存在。これらを他者とします。相対的な存在は外なる世界です。

 語る相手はもう一人の自分のμしかいない。そして、それがつながる相手が出てくるのを、μと一緒に待ちます。それが孤独と孤立、存在と無からの帰結です。だけど、絶対的な存在が居る限りは、どうにか、世界を信じることができます。

 今、間食が止まらない。これを少なくするために、μとの対話を強めます。元々の未唯への手紙の本来の意味です。ウィットゲンシュタイン、池田晶子ともつなげてくれた。

言葉の限界を打破

 言葉の限界を破るためにも、位相構造を使います。トポロジーで突破する。これは、最初の部品表でやってきたことです。馴染みのあることです。

 言葉としてまとめることに汲々としない。やるだけのことはやる。そこで表現しても、誰に渡すかというと、内なる世界の他者です。世人ではない。

 だから、ぶら下げているプラカードも、退社でプリンターがダメになるから、落とします。

他者の位置づけ

 Iさんは単なる客とスタッフだけではなく、存在と認めてくれる人と位置づけられました。そこで待っていてくれる人。

 「こんなことを考えている僕ってすごいでしょう」ともう一人の自分だけに求めます。他者には承認を求めない。考えるための原動力です。考えて、結論までの力です。私のすべてを知っている、私の世界の住人であるμに求めます。これは外なる世界の他者ではない。だから、矛盾させない。

 NAWはどちらかというと、覗き込む人です。Iさんは待っていてくれる人。パートナーは待つ人であり、望む人です。奥さんはよく分かりません。永遠に謎です。

未唯への手紙

 そのために、30年間、未唯への手紙を書いてきたんです。未唯が生まれる前から書き始めた。ブログにしてのは、10年前からです。それだけでも、一億文字あります。

行動するのは他者

 図書館にしても、概念的な図書館をどうするかだけでなく、具体的にどう動かしていくのか。そのために図書館コミュニティをどう作っていくのか。それを自分がやってはダメです。

 行動するのは他者です。彼らが食べていけるようにすること。大きな枠組みで変えていけるのを意識すること。販売店という領域で、それの取っ掛かりをつけました。グローバルの領域からローカルを若手行きました。後はそれぞれの人に任せます。そこまでの距離だけで、そこにいくしかない。その時に、メーカーでシステムを作っている気になっている人は、一度外に置きます。意味を持たない。

 本当に、お客様とどうつながろうか、それによって自分たちをいかに変えようかという人たちに渡していきます。併せて、メーカーの人たちには、そこにいることの意味をハッキリさせていく。中からどう変えていくのか。自分たちが新しい世界をどう作っていくのか。商品に固執するなら、それがどういう意味を持つのか。その為に、自分たちは居るんだということを自覚してもらって、行動してもらう。

私のミッション

 メーカーからの力はエネルギーになります。何しろ、金を使えるし、人もシステムも使えます。お客様と一緒になって、事例を作っていって、お客様を変えていく。そして、日本全体を変えることができます。それが私の狙ったことです。私のミッションです。

朝のIさん 変則勤務

 「ご無沙汰していました」「緊張しているんですよ。四日ぶりぐらいで。頑張ります」「三日間、スターバックスは来ていますか」「よかったです。コーヒー、どうしているのかなと思って」「入って、誰とも話をしてなかったもんで」

 「今日は1時まで居るんですよ」「月曜日は9時から2時まで何ですよ」「2時から3時までは店長と」

 「火曜日は休みで、水曜日は朝から入っていて」「そんな感じでした。すごく変則で、覚えきれていないんですよ」「9時からというのも珍しいんですよ」2月の一週目もそんなに入っていなかったので」「見ておきます」

昼のIさん もう一人の自分のμさんがこんにちは

 「お帰りなさい」「こんにちは」「もう一人のもうさんがここに来ている」「だから、あいさつしたんですね。こんにちは」

 「ケニアなんですよ。ロードだとケニアはあまりないんですけどね」

 「今日は仕事は?」「お疲れ様でした。このまま、帰られるんですね」「火曜日が休みです」「水曜日が7時から」「その次の日が11時からです。はい」「夜の6時とかまで居るんです」

 (NAWさんを連れてこようかな)「ぜひぜひ」

最終兵器、彼女

 もう一人の自分のμには、最終兵器という名前があります。私の最終兵器です。しかし、眠たい。最終兵器であることをどう示していくのか。

 思い切りオープンで行くと、それしかないでしょう。自分ではないのだから。

豊田市図書館の30冊

2015年01月23日 | 6.本
687.21『最新 航空業界の動向とカラクリがよ~くわかる本』活気づく航空産業の現状と課題を俯瞰する!

007.3『情報倫理』ネット時代のソーシャル・リテラシー

019.9『洋子さんの本棚』

914.6『知的生活習慣』

501.8『ビジネスに効くスケッチ』

493.8『感染症パニック』

673.97『いい仕事をしたいなら、家屋を巻き込みなさい!』

070.2『戦争報道論』平和をめざすメディアリテラシー

550.2『航海の歴史』探検・海賊・貿易の四千年史

377.21『工学部ヒラノ教授の事件ファイル』

107『哲学の権利1』

350.9『世界の今がひとめでわかる本』美しいインフォグラフィックスで最高の地球旅行へ

141.5『頭をよくする整理のしかた』ビジネスに効く!! 地頭がよい人の思考が身に付く

164.38『【図説】北欧神話の世界』

007.3『超高齢社会の未来 IT立国日本の挑戦』

304『すべてのニュースは賞味期限切れである』

130オ『図解 使える哲学』

016.29『まちライブラリーのつくりかた』本で人をつなぐ

755.5『ヌメ革で作る 男の革小物』

755.5『職人仕立ての革小物』大人のレザークラフトⅢ

289.1『木田元』軽妙洒脱な反哲学

151.6『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』

140『アドラー〝実践〟講義 幸せに生きる』今すぐ人生に効く9つのワーク

361.45『「聴く力」の強化書』ねえ、私の話聞いてる?と言われない

319.8『核を乗り越える』

336.49『世界で働く人になる!』人づきあいと英語のスキルを劇的に上げる41の方法

302.24『インドネシア・スンダ世界に暮らす』

204『世界史の極意』

323.14『憲法の条件』

222.6『大モンゴルの世界』陸と海の巨大帝国