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未唯への手紙

未唯への手紙

インタープリターション

2015年01月10日 | 5.その他
ゲーム化からコミュニティ化

 ネット依存症からコミュニティに抜けることができるか。宗教しかできないのか。日本を覚醒させるには、考えないといけない。教育の分野でデジタルを使うというアイデア。

世界の美しい図書館

 フィンランド国立図書館:2006年にヘルシンキ大学図書館からフィンランド国立図書館の改称された。2004年に訪れています。地下のコーヒーショップでガラスカップのカプチーノを飲んでいた。

 見たことあると思ったら、名前が変わったんだ。螺旋で順に上がっていける。リナックスへの思いを感じていた。階段の上に、一冊の本があった。

スウェーデンモデル

 スウェーデンモデルを内から見ていくための本。特に女性の参画。パートナーも少しは感じていると思っている。そういう時代になったのか。「なったんです、さらに進めないといけない」と書いた途端に、メールダウン。メルトダウンの代わりにメールダウン。

メールの作法

 残り少ないけど、話を聞くことに徹しましょう。メールは同意だけにしましょう。オープンの疑問符で返すのはまずいでしょうね。相手にプレッシャーを与えます。クローズ系にします。

 それにしても、パートナーからのメールの意味を考えてしまいます。何を期待しているのかが不明です。何も期待していないので、返事を書かなければいいと思いながら、返事を書いてしまいます。

 メールでも、相手の思惑を考えすぎるのはよくない。本人が気づいていないことを応えると富んだものになります。相手はそれを避けようとします。気づかないふりをするのではなく、素直にこたえればいい。それを携帯のメールでやるのは、色々な訓練になります。ただ、その機会が少ない。相手からの発信に寄るから。

本のDNA

 本を読むときに、この人が何を言いたいのかの訓練に尽きるかもしれない。それがDNAです。それが分かれば、あとは読む必要はありません。自分の問題です。

 その一番端的なのは、池田晶子です。言いたいことは少ないけど、事例に合わせて色々と言います。そこに存在と言うDNAがあります。

インタープリターション

 インタープリターは翻訳と言う形で使っているけど、もっと、広大で本質的なカタチにしないといけない。

 自然に対する説明というカタチになっている。もっと、広い概念で。いかに自分たちの意見を吸い上げていくかに、インタープリテーションと言う言葉を使っていきたい。本来のインタープリターは橋渡し役と表現されることが多い。ツナギスト?

 インタープリターを個人から組織への橋渡しにしました。これは2005年の愛知万博のブランティアの時に決めたことです。ファシリテーターが組織から個人への橋渡しだから、それと対の関係になります。

意識してから名前を聞くまで

 5年前に意識してから、名前を知るまで、2年掛かりました。感受性が低いのか。

「寄り添う」心の伝播

 私はパートナーに「寄り添う」。次はパートナーは販売店に「寄り添る」ればいいです。「寄り添う」ことは相手を変えることではない。気付かせることです。

 そして、言いたいことを言って、自分がどうするかを決めさせることです。ツールを入れることではない。それをどう使っていくかという問題にどう気付かさせるか。そこで助けれるものは助けていく。

スタバらしさ

 やはり、個人ごとのメッセージを書けるようにしておいた方が、スタバらしい。「私たちは戻ってきます」

消えたメッセージの謎解き

 消えたメッセージはやはり、フリクションでした。年賀状を冷蔵庫に入れておいたら、見えるようになりました。熱で消えたんですね。

東アジア共同体の夢

2015年01月10日 | 3.社会
『戦後70年 保守のアジア観』より 「平和の海」にできるか

日韓関係に目を転ずれば、韓流ブームが盛り上がったのも束の間、昨今の日本には「嫌韓」の出版物があふれ、町にはヘイトスピーチの行進が現れた。かつて余裕をもって見下ろすことのできた韓国が、いまや経済的にも文化的にも日本の水準に近づき、一部では追い越してしまった。それならもう、韓国の「反日」に反撃するのに遠慮はいらない、という意識の表れのように思える。とかく反日的な韓国の新聞記事が、インターネットの日本語版で普通に読めるようになったことも、嫌韓ムードを強める要因になった。

つまり、それだけ両国が近い存在になったともいえるのだが、政治の指導者がこうした空気を抑えるよりは乗っかり、あるいは煽っている面もなしとはしない。

二〇一五年は日韓の国交正常化から五十年という節目でもある。この間、両国は何度も危機的な局面にぶちあたった。それでも両政府の間には事態を収めようという強い意志があり、何とか危機を乗り越えてきた。それに比べて昨今は、政治のトップが相手を刺激して危機をつくりだしている。李明博の竹島行きも、小泉や安倍の靖国参拝も、そうだった。ナショナリズムの罠である。

二〇一四年十一月に北京で開かれたAPECに向けて、日中首脳会談の実現へと汗をかいたのも福田だった。北京で習近平と会談を重ねたのだ。その福田は常々「三つのアジア」を口にする。力強い「成長するアジア」と、高齢化の進む「老いるアジア」、そして「いがみあうアジア」である。成長にはエネルギーや環境汚染という国境を超えた課題も伴う。老いが進んでしまう前に「いがみあい」をやめてさまざまな分野で緊密に協力しあわないと、将来に大きな禍根を残すというのだ。その通りだと思う。

領土問題はいかにも悩ましい問題だが、竹島にしても尖閣にしても、かつて両国の指導者には必要以上に事を荒立てまいとする意思があった。本書で焦点をあてた通りである。

EUがドイツとフランスの紛争の元だった地下資源の共有を起源としているように、東アジアの領土問題もそうした発想で解決していくしかないのではないか。それは「東アジア共同体」を看板にした民主党の鳩山由紀夫の考えでもあったが、警戒したアメリカの反発にあった鳩山は、地に足のつかぬ宇宙人というイメージとともに退陣。中韓両国との対立激化によって「東アジア共同体」は口にするのもはばかられるような空気になってしまった。

しかし、一気に共同体とはいかずとも、東シナ海のガス田開発でいったん合意したような「共同開発」の発想を広げることは可能だろう。二〇〇六年に日中の「共同プレス発表」で「東シナ海を平和の海とする」ことで胡錦濤と合意したのは、誰あろう安倍だった。二〇〇八年には福田と胡錦濤の日中共同声明で「今や日中が、アジア太平洋地域及び世界の平和、安定、発展に対し大きな影響力を有し、厳粛な責任を負っている」とまで表明した。両国が信頼を取り戻し、この自覚を再確認するなら、共同開発を尖閣周辺に広げていくことも不可能ではあるまい。習近平も島の領有問題は譲らぬとしつつ、資源の共同開発を進める意向を語っていると報じられている。

二〇一二年に台湾の馬英九が「東アジア平和プロセス」として提案した共同開発論は、大いに注目に値する。台湾も加わることによって日中間や日本国内の対立が緩和される可能性があるからだ。

この「むすび」を書いている二〇一四年十一月、中国漁船が赤珊瑚を密漁するため小笠原の領域まで大挙して押し寄せ、日本人の不安と反発を誘っている。まさに「平和の海」に逆行する話だが、これには強い取り締まりの姿勢をとる一方で、中国政府に対応を迫る必要がある。それにつけても政府間に基本的な信頼がなければ、話しあいにもならない。

東アジアには環境やエネルギーなど、手を携えて解決していかなければならない深刻な共通課題がある。一方で、中東やウクライナのような先鋭な宗教対立がなく、幸いにして経済的にも文化的、人的にも、さまざまなパイプが生きている。いまはナショナリズムが高まりを見せる各国ではあるが、政治指導者たちにアジアの大きな将来像を描く英知が戻ることを期待したいものである。

本書ではタイトルをはじめとして「保守」という言葉を多用してきた。自民党を中心とする政治勢力を「保守」と呼んだのだが、最近では右翼的で攻撃的な言動を特徴とする勢力が「保守」と呼ばれることも多い。しかし、本書で見てきたように、かつての保守勢力には思想的にかなりの幅があり、それを認めあう寛容さがまた保守の売りものだった。

マハートマ・ガーンディーとアヒンサー

2015年01月10日 | 4.歴史
『中村元の仏教入門』より 仏教の実践倫理

ガーンディーが独立運動をはじめた当時のインド人は、イギリスから搾取され、迫害されていました。しかし、それに対してイギリスの勢力を追っ払うのに武器を取るということを知らない。爆弾を使うことを知らなかった。というのも、もし爆弾を使うとすると人をあやめることになる。そうなれば理想は高くても、手段が悪いために無関係の人を殺してしまう。それでは結局自分も、自分たちを搾取し、迫害しているイギリス人と同じ罪を犯したことになる、というわけです。これがガーンディーの説くところでした。暴力を使わないで外からの圧迫に対抗できるかどうか、これは難しい問題ですね。

けれど、ガーンディーはとにかくそれをやりとげたわけです。まず不買運動をやりました。イギリスのものを買わないようにしたわけです。イギリスのものを買わないということを、なぜしたか。インドは人口が多いから、何億人といるから、イギリスはマーケットとしてインドを占領したわけです。イギリスのランカシャーの紡績製品を売り込んだのです。しかし、ガーンディーはそれを買わないようにしました。しかし、買わないといっても裸でいるわけにはいかない。インドは暑い国だから、半分裸でも暮らせますけれど、まったく裸というわけにはいかない。では、どうするか。自分たちの手で紡ぐということをした。

もちろん以前にはインドでも織物工場はあったわけです。ムリシダーバードというところがベナレスの近くにあります。そこは織物工業の中心地でした。ペナレスは昔から良い織物が作られるところで、歴史の上でも有名です。イギリスは自国の製品を売るために、それを破壊したわけですね。ムリシダーバードの熟練した織物工の指を、理屈をつけて切ってしまったとか、そのようなことが歴史書に書かれています。織物工が全滅してしまったために、織物はすっかりだめになってしまった。インドの織物工業は全滅したのです。

ガーンディーは、その状況下において織物工業を復興させるにはどうしたら良いか考えました。インドに余っているものは労働力ですね。資本はない。技術もない。けれど人間だけは残っている。この人々を生かしたら良いのではないか、と考えたわけです。そこで、各家庭で糸を紡ぐということを勧めました。家内工業ですね。インドは綿が取れます。その綿を持ってきて糸に紡ぐわけです。この綿を紡ぐ機械のことをチャルカと言います。がIンディーは、このチャルカで糸を紡ぐことを、神聖な勤めとしたわけです。彼の教えは、インド人の間に瞬く間に普及しました。

インドが独立して最初の大統領はラージェーンドラ・プラサード(一八八四~一九六三)という人でしたが、この方が日本に来たときに飛行機の中にこのチャルカを持って入って、それを回して紡いでいたといいます。彼は日本に来ても毎日やっていたのです。わざわざそういうことをする必要もないのでしょうけれど、一種の宗教的な勤めだったのです。それほど重んじましたから、インドが独立したときに国旗にチャルカをあしらおうという意見がありました。けれどチャルカには国旗の模様としては、ちょっと問題があった。つまり左右の釣り合いが取れないわけです。そこで落ち着かないからやめましょう、ということで取りやめになりました。それで、今見られるような仏教の法輪にしたわけです。この法輪は、仏教ばかりではなく、ジャイナ教もヒンドゥー教でも使う、一種のシンボルです。輪が回るということが活動を示す。車の輪と考えても良いわけです。教えを説くことを転法輪、法の輪を回すと言います。

このようにガーンディーは糸を紡ぐことを人々に教えました。またインドは貧しくて栄養が不足していましたから、牛乳を飲むことを勧めました。しかし、牛を飼うことはゆとりがないとできない。そこで安く手に入る山羊の飼育を勧めた。安価な山羊なら普通の農家でも飼うことができるわけです。そこで牛の代わりに山羊の乳を飲むことを勧めた。彼は、当時のインド人に実行可能な方法を考えたのです。このような努力と工夫の上に、暴力を用いないでイギリスを駆逐するという運動をやったわけです。それがガーンディーのアヒンサーでした。

ガーンディーが育ったところは西インドのカーティアワール半島のポルバンデルという港町です。彼の家はその地域の藩王、殿さまの宰相の家だったといいますね。その辺りはジャイナ教の感化がひじょうに強いところです。このジャイナ教という宗教は、仏教とほぼ同じ時代に、同じ地域で並んで興って、広がった教えですから、元々はベンガルを中心としたものです。皆さんが仏蹟巡礼をするあの辺りに、ジャイナ教も広がっていたのです。

ところがその後、勢力の消長がありまして、仏教は消えてしまったけれど、ジャイナ教には一三世紀にヘーマチャンドラという、立派な精神的指導者が出ました。この人が、西インドの方の王さまの帰依を受けてジャイナ教を広めた。ですから現在では、ジャイナ教の本拠地はムンバイ(ボンベイ)のあるマハーラーシュトラ州、その北のグジャラート、その北のラージャスターン、どちらも砂漠の多い所です。そういう所がジャイナ教の中心地です。ガーンディーはその影響を受けているから、アヒンサーということを言ったわけです。少なくとも自然と彼の口から出てきたわけです。このアヒンサーの理想というのはある意味でグローバルな意味を持っています。

少なくとも、それに感化を受けた運動が二つあります。一つはアメリカのマーティン・ルーサー・キング牧師(一九二九~一九六八)の黒人公民権運動、人権運動です。当時のアメリカは黒人が不当な待遇を受けていました。彼は、黒人の権利を認めさせるために、白人への対抗運動を組織しました。しかし、その際に暴力を使ってはいけない、ということで非暴力運動を展開しました。もちろんデモはやりましたけれど、その際暴力を使わないでデモをやったのです。つまり、非暴力の精神で自分たちの権利を回復するということをやったわけです。この運動はある程度成功を収めています。

もう一つは東ヨーロッパのハンガリーで、やはり民主化運動が起きたのですが、それは失敗に帰しました。近くに共産主義の大国があったからでしょう。戦車に乗って一斉に入ってきて粉砕したのです。だから非暴力の運動が、簡単に成功するという性質のものではないのですね。東ヨーロッパで失敗したということは考えねばならないことです。

ガーンディーが非暴力運動で成功したということについて、ガーンディーは生き神さまみたいにインドでは見られています。それはそれでいいのですが、しかし、これを世界史的に見ると、つまり客観的にみるといろいろな問題があります。つまり、その程度の抵抗運動だけでイギリスを叩くことができたかどうか、ということですね。

インドの独立には、日本がイギリス軍を叩いたということが一つの理由にはなっている、と言えるでしょう。と同時にイギリスが、ちゃっかりと合理主義で懸命に考えたということもあります。ここまでイギリスの軍事力が弱っている、それならここでがんばっていたってしようがない、と見切りをつけたのです。インド人に独立を与えた方がいい、四億から五億の人間を敵にまわすより、味方につけたほうがいい。そう考えて、イギリス人は見切りをつけてインドに独立を与えてすぐに引いた。だからイギリス人はあれだけ悪いことをしていながら、今インド人からそれほど嫌われていないのですよ。

いずれにしてもアヒンサーというのは、本当に崇高な理想、最高の理想で実現すべきである。だけど現実は必ずしも甘くないということです。

目的の王国

2015年01月10日 | 1.私
『はじめての哲学・宗教』より カントの「コペルニクス的転回」

目的の王国

 人格の完成を目指す主体は、同様に人格の完成を目指す他の主体に対しても敬意を払う必要があります。定言命法の形式をとって言えば、他の人格は人格であるというただそれだけによって尊敬されるべきだ、ということです。

 カントはこれを、問題の資料文にあるとおり、「汝の人格および他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決して単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」と表現しました。

 例えば、「情けは人のためならず」と言います。情けをかけるのはその人のためにならないから良くない、というように誤解されることもありますが、本来は、人にかけた情けはめぐりめぐって自分に戻ってくる、だから人のためにするのではなく自分のためにするのだ、という意味です。しかし、カントはそうした他人を自分のための〈手段〉とする行為を否定します。他人そのものを〈目的〉とせよ、と言うのです。

 以上の内容を踏まえて、選択肢の具体例を検討しましょう。①は、「こうした意図で相手を手段と見なす意図」による結婚は決してすべきではない」とするなら、「互いを尊重し合」う、つまり、互いが互いを「目的」として扱う機会さえ失われてしまいます。カントは「単に手段としてのみ扱わないように行為せよ」と言っているのであって、手段とする行為がすべてダメだと言っているわけではないことに注意してください。

 ③も同様に、「アルバイトをしてお金を貯め、必要なものは自分で購入すべき」と自己完結している点で誤りです。また、④も「自分の教養を高めるという純粋な動機」で大学に行けと、良いことを言っているような感じがしますが、他者が出てこない時点で最初から問題の条件を満たしていません。

 これらに対し、②は「施設の子どもや老人を自己宣伝の手段にする」だけでなく、「大切にする」、つまり、「目的」として扱う姿勢を伴っている必要があると述べられており、正解と判定できます。

 カントは、各人が互いの人格を尊重し合う理想の共同体を、「目的の王国」と呼びました。そして、それを国際社会に押し広げて、道徳法則を体現した国際平和機関の設置による世界共和国の実現を、著書『永遠平和のために』で構想しました。現実の世界は、国連まではいきましたが、各国の自己愛が邪魔をして、世界共和国は夢のまた夢です。

あとがき

 プラトンを〈哲学=考える〉の道に誘ったのがソクラテスの死であったように、筆者が〈哲学=考える〉営みの真髄を見せつけられたのは、池田晶子さんの死によってでした。

 難解な哲学用語を振り回すことなく、平易な言葉で「私」という存在の不思議さを語ってみせた、文字どおり〈哲学者=考える人〉であった池田さんが、腎臓がんにより四六歳の若さで亡くなったのは、二〇〇七年のことです。死の直前まで精力的に執筆活動を続けており、その研ぎ澄まされた文章には忍び寄る死の影などまったく感じられませんでしたから、誰もが死に際しても決して動じることのなかった鋭敏な思考に驚嘆しました。

 雑誌での連載の最後となった、その名も「墓碑銘」と題された一節で、池田さんはこう語っています(『人間自身 考えることに終わりなく』新潮社所収)。私の墓碑銘として、「さて死んだのは誰なのか」はどうだろう--こんな言葉を残して旅立たれたら、〈哲学=考える〉しないわけにはいかないではないですか。池田さんは、「無知の知」の逆説をその身で生き抜いた、現代のソクラテスでした。

 それ以来、〈哲学=考える〉の本を書くことは、筆者の目標であり続けました。途中、図らずも東大日本史の本が多くの読者を獲得し、寄り道をしてしまったようです。ですが、それも機が熟すのに必要な準備期間だったということなのでしょう。

 これで、池田さんの夫であり、NPO法人「わたくし、つまりNobody」理事長である伊藤貢さんとの約束は、半分は果たせたでしょうか。不義理にしてしまいましたが、やっと書き上げました。しかし、残りの半分の約束を、筆者は忘れていません。酪酎状態で言われた、「相揮くん、死を味わい尽くすんだ」という言葉は、つねに頭の片隅にあります。ですが、その約束を果たすのには、もう少し時間がかかりそうです。