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フルシチョフ

『ロシア』より

フルシチョフと軍備拡大競争

 ……わが国を、わが党を、わが国民を、そして彼らが達成した勝利を誇りに思う。われわれはロシアを先進国へと変貌させたのだ‥… ニキータ・フルシチョフ

 宇宙開発競争は軍備拡大競争のショーケースだった。フルシチョフはソ連が地球から飛びだすたびによろこんだ。

 フルシチョフの時代は楽観の時代だった。それは部分的にしか成功しなかった「処女地」計画によく衣われている。最もよい例は、ソ連の宇宙開発と軍事技術開発、さらに外交政策における戦略核兵器の重要性にフルシチョフが目覚めたことだった。

 宇宙ロケット開発がミサイルと核兵器の開発に影響を与えるため、宇宙開発競争と軍拡競争はかなり連動していた。この2つの競争はテクノロジー開発と兵器開発におけるソ連の先進性を世界に示した。戦後、ソ連はドイツの科学者を招いて、核兵器やロケットの研究開発を進め、1949年には核爆弾の開発に成功していた。

 1957年10月4日、ソ連は人類初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功した。1ヵ月後には、ライカ犬を乗せたスプートニク2号が軌道をまわった。ソ連は密かにアメリカを出しぬいていたのである。ソ連のテクノロジーの進歩はアメリカに強い衝撃を与え、そのときから米ソのあいだで宇宙開発競争がはしまった。1961年4月、ソ連のユーリー・ガガーリンは人類で最初に宇宙を旅しか。

 フルシチョフはロケット・テクノロジーに夢中になった。ソ連にとって安価で安全な防衛力の基盤になると考えたのである。スプートニク1号はフルシチョフの外交政策を宣伝する道具にもなった。数年の間、彼は自分の主要国訪問に先立って人工衛星を打ち上げさせた。

 スプートニク1号は西側を驚かせ、ソ連の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発計画が予想よりもけるかに進んでいると示唆したが現実には、アメリカのICBMよりかなり遅れていた。結局、このようなフルシチョフの「ミサイル・ギャップ」に惑わされて、アメリカは軍備拡張に向かい、軍事力の格差はアメリカ優位になっていった。しかし1960年代後半になると、ソ連はアメリカと対等な核兵器をもつようになった。

 1960年代初め、フルシチョフはトルコに配備されているアメリカのジュピター・ミサイルがキエフやモスクワなどのソ連主要都市をねらえることを発見した。この発見が、1962年10月にフルシチョフの経歴で最大の外交危機をまねいたのである。軍事力のアンバランスに対抗するため、フルシチョフはキューバに中距離ミサイルを配備するよう命じ、ICBMでのアメリカのリードを抑えた。米ソの緊張は一気に高まった。ケネディ米大統領はミサイル撤去を要求し、キューバ周辺の海上封鎖を実行した。世界は核戦争へ一触即発の状態に揺れた。 10月28日、鼻息の荒かったフルシチョフもようやく引き下がり、ミサイルの撤去を命令した。

フルシチョフと「処女地」

 共産主義は社会的生産力のたえざる成長と労働生産性の引きあげを約束する……共産主義によって、人民は最良かつ最強の機械を装備し、自然にたいする力を大幅に増強し、生来の力をより広げるえるようになるのである。フルシチョフの『新共産党綱領』1961年

 フルシチョフは政権をにぎるとただちに農業経済の改善に着手し、ステップ地帯の開発を精力的に進めた。

 フルシチョフはスターリン体制下で、ウクライナ首相として農業の再編成や集団農場の統合などの経験を允分に積んだ。 1953年に党第一書記になったとき、フルシチョフは食糧供給問題を解決するために、北部カザフスタン、西部シべリア、ヨーロッパ・ロシア南東部の36万ヘクタールにおよぶ広大なステップ地帯の開拓を提唱した。こうした「処女地」をソ連の主要な穀物生産地帯として開発し、食糧問題を一挙に解決しようとしたのである。当時、伝統的な穀倉地帯であるウクライナは家畜の飼料用トウモロコシの栽培に使用することができた。フルシチョフの最終的なねらいは1970年までに穀物生産高でアメリカをしのぐことだった。

 「処女地」計画はトラクターやコンバインを大量に導入し、コムソモールが指揮する若者の志願者によって遂行された。志願者はヨーロッパ・ロシアからステップ地帯に移り住み、この計画のために急いでっくられた国営農場の原始的な生活環境で暮らした。

 1956年には、もともと土壌が肥沃なおかげで「処女地」は、1953年の3倍の穀物を生産し、大成功と称えられた。

 ところが、開墾計画は性急に進められ、化学肥料で土壌を肥やさなかった。そのうえ輪作も濯漑も行なわなかったため、収穫量は下落しはじめた。さらに追い討ちをかけたのが降雨不足で、ウラル地方は1955年、1957年、1958年に旱魃に見舞われた。風による上壌の侵蝕がはじまり、1960-65年につづいた暴風で一段と悪化した。「処女地」の半分近くが乾燥地帯と化してしまった。

 成功はうかの間だったが、「処女地」計画によって個人経営農地での収穫高が伸び、買い上げ価格が高くなって集団農場には特別手当がついた。1956年、ソ連西部の伝統的な穀倉地帯を旱魃が襲ったとき、「処女地」がソ連を食糧不足から救い、フルシチョフの計画の重要性が証明された。だが1963年には、外国から穀物を輸入せざるをえなくなった。
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外側へ、または内側へ国家をこえる

『歴史の歴史』より グローバリゼーションとローカリゼーションについて

政治権力を専有する国家は、いうまでもなく近代ヨーロッパにおいて、理念上も現実上も、整備の過程をとおして誕生した。多様な権力を内包しつつも、国家は政治主権を単独で所有するにいたった。その国家は、言語や習俗などを共有する集団としての民族を前提とし、所属者を均質な資格たる国民として収容する主体であることから、国民国家とよばれる。代表制という意思決定機構をもち、財政や軍事において単一の構造体を構築することで、国民国家は卓越した政治力を発揮した。さきにみた、近代におけるグローバル化の過程は、もっぱら国民国家によって推進された。植民地経営も世界大戦も、諸国間の競合や紛争をともないつつ、これら国家の事業としておこなわれたこ

国民国家が有用な政治主体としで認められたのは、たとえば運輸や通信などの技術手段に対応して、ほぼ望ましい規模であったからでもあろう。空間や人口のサイズは、国家のありかたについての有為の係数であることは、経験的にも証明できる。▽九世紀までの巨大帝国であるロシアやオーストリア(ハプスブルク朝)などが、国民国家として0調整に苦しんだめも、当然のことであった。

しかしながら、二〇世紀の進行とともに、国民国家の有効性には、疑問が提示されるようになる。その一端は、両次の世界大戦の戦禍に直面して、より高次からなる平和維持機構を追求する必要が感知されたからである。あるいは、合衆国やソ連のような超大国が、政治上の影響力を獲得し、政治主体の規模の利益が認知されたからでもあろう。緊密な内部組織を完成したはずの各国民国家であったが、二〇世紀のあらたな課題にたいして、じゅうぶんに対応できなくなった。また、同一の原理を援用しつつ誕生した無数の後発国家は、適正な規模と内実を実現できず、内外ともに続発する難問を解決しがたかった。こうして、二〇世紀の後半には、国家をこえる政治主体への模索がとなえられる。

実際には、冷戦構造のたかなかにおいて、東西の陣営における国家主権の限定といった、安全保障上の事情がひかえていたのも事実である。軍事、もしくは準軍事的な目的をもった条約機構が、ブロック体制をととのえ、国際政治を左右しはじめた。それは、かつてのウィーン会議議定書やヴェルサイュ条約などの平和規定などにくらべても、より有力な規制力を体現した。これらをうけついで、国際連盟、ついで国際連合が、これらのブロック体制を超越するかたちで構想され、多大な障害をふくみつつも、国家をこえる主体への希望は、ゆるやかではあれ、実現していった。

こうした状況のなかに、国際政治におけるグローバル化の実現をみることもできる。しかしながら、諸国家や諸ブロックのあいだにおける、政治上の関係はますます緊密になってゆくとはいえ、ただちにそれが政治権力のグローバル化を意味するとみるのは、早計であろう。いまだに、政治主体としての国家は健在であり、国民国家のゆるやかた相対化を論ずることはできるとしても、な逼もっともおおきな影響力を行使する主体でありつづけている。

そうした現状にもかかわらず、国民国家の故地であるヨーロッパにおいては、いちはやく国家連合から広域統合にむかう運動が開始された。EECからEC、そしてEU(ヨーロッパ連合)へと推移する運動は、経済上の連携からしだいに、個別国家の専管事項とされてきた貨幣や財政の統合へと移行しつつある。いまだ、その行く手についての予断をゆるさないとはいえ、ョーロツパ諸国は、旧来の国民国家の枠組みをおおきく変換しようとしている。ここには、三つの異なったベタトルが読みとれるであろう。

第一には、段階的な方法による、政治的グローバル化である。数億〇人口と数百万平方キロの空間を支配する統合権力は、地球規模でのグローバルな政治統合への準備として、じゅうぶんに有用である。運輸・通信手段の発展も、この統合の成否について追い風をよせている。冷戦終結後の世界にあっては、ヨーロッパ統合はさらに拡大の可能性をさししめすに至り、構想の妥当性を証明しつっあるようにみえる。

しかし、第1のベクトルがことなった方向をとる。ヨーロッパ統合は、国際政治のうえからみれば、冷戦時代にあって、米ソ両陣営のはざまで、ヨーロッパ諸国の政治的発言力を確保するという目的も明白であった。冷戦終結後となっても、頻発する国際紛争にあっては、EU諸国はきわどい差異をふくみつつも、連携を維持することで影響力の保持につとめている。国際経済においても、EUはヨーロッパ経済を束ねつつ、アメリカやアジアの経済力に対抗して、優位をめざしている。つまり、EUは一定の地域を結集する主体として、グローバル化する世界での地位を保全するための戦略である。

こうした戦略は、グローバル化を視野にかさめつつ発動される。かつて、このような戦略は経済Lの地域主義(リージョナリズム)とよばれた。特定の地域での結束が、国際経済において有効に機能しうるとの見方である。現在では、EU統合に刺激されるかたちで、中南米や東南アジアなど、いくっかの地域においても採用されるにいたった。この動向をグローバル化と呼称するのか、またはローカル化とするかは、用語の定義の問題である。いずれにせよ、地域統合戦略が、その両者のあいだにあ乙て、複雑な状況を作りつつあることは否定しがたい。

第三のベクトルは、EU統合の現場にあって、かねてその地にあって潜在していた、別種の政治行動が顕在化したことにみられる。すでに一九七〇年代から、ヨーロッパ諸国では国民国家を前提といつつも、権力の分散の要請が強調されてきた。それは、現代国家があまりに強大な権力を集中っせたために、国家の構成要素たる地方権力と地域社会が空洞化し、市民と住民にとって由々しい事態がおこっいるとの認識に由米した。地方分権化は、政治権力の適正な配分・配置をもとめる実践的な施策であり、または集権化した政府にたいする地方自治からの奪回運動でもあった。

こうした施策や運動は、広域の統合戦略と均衡をとるかのように、ョーロッパにおいて実をあげてきた。権力の地方分散といった行政システムの転換だけではない。むしろ、広大な地域のだかにおいて、より微小な地方単位が諸種の中間的団体や集団を主体として、固有の文化を継承・創造しつつ、自立性を保持するための方途でもある。それは、ヨーロッパが、その歴史のなかで蓄積した地方的な価値を唱導し、手触りのある個体に活力をあたえる運動とみてもよい。つまり、ヨーロッパ統合という集中化は、地方における分散化をうながしたのである。これこそ、二〇世紀後半になって明瞭になったローカル化現象であるといえよう。

政治権力という側面からみたとき、国民国家の地位の変動は、一方でグローバル化を、また他方ではローカル化をうながし、しかも地域を集約点とした複雑な動向をもうみだした。そこにこそ、グローバルとローカルの現実的な弁証法をみいだすことができる。はたして、この事例が地球上のあらゆる場でびとしく検証できるかどうかは、いまだ不詳である。しかし、冷戦終結後におこったおおくの地域紛争や、あるいはその経過から派生したローカルな自立化運動を目撃したいまとなっては、さらに多様な弁証法の実例を探索しうることが確信できるように思われる。
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三つの立場 ヘーゲルの歴史観

『歴史の歴史』より 歴史の知とアイデンティティについて

歴史学の方法をめぐる二元対立は、一見すると近代的学問の宿命であるかにみえる。しかしながら、歴史的世界を認識するにあたっての論理的基礎を、よりふみこんで考察すると、じっさいには単純な二元対立には還元できたい、いくつかの視点を見いだすことができる。さしあたり、ここでは三つのものを区別しうる。

第一の見方はこうである。歴史学の分析対象はたしかに客観的な存在とみなしうるが、対象はかならずしも自明の理として孤立しているわけではなく、もっぱらこれを認識する主体によって説明されるかぎりでのみ、存在しうると考えられる。この場合の主体とは、対象を認識する理性のことである。主観と客観のあいだには対抗関係があるにしても、不動の極軸としての主観性の理性を厳密に設定するならば、対象は明晰な理性に従属することになり、恣意的な主観を免れるはずだ。

こうした見方の代表として、デカルトの啓蒙理性をあげることができる。周知のとおり、デカルトは認識する主体を「思考するもの(レス・ギタンス)」とみなし、認識される客体を「延長されるもの(レス・ェタステンサ」」とした。徹底した理性的懐疑をくりかえしたのちに、思考は明晰な分析手段となり、いかかる曖昧さをも許容しない純粋な原理として成立する。いわゆる「方法的懐疑」を条件として、世界は曇りのない像を提示することになる。この理性を出発点として、順次、外界は具体的なかたちをとりはじめる。「延長」とは、そうした思考の結果であり、誤謬や欺隔はあばかれて、本来あるべきすがたで描きだされる。

このさい、認識する側は理性という透明な実体であるから、みずからは「延長」にまつわる曖昧さを回避している。主観という概念がもつ危うさは、ここでは排除される。ただ、じゅうぶんの反省をおこたる「理性の欠如」の場合にのみ、誤った世界像が提唱されることになるばかりである。思想史上は、「合理主義哲学」とよばれるデカルト主義が、歴史学の方法にとって、いかなる意味をもちうるかは、のちに論ずることとするが、近代の学問をささえる方法的規準として、まず念頭においておきたい。

第二には、歴史的分析の対象を、主体から分離したものとみなすことを拒否し、むしろその客体を人間的作為の結果として認定する立場である。第一〇立場が、主体と客体を分離することに努めるのにたいして、第二のものは、客体のうえにおちる主体の影を強調する。分析の主体は、客体から自立しているわけではなく、むしろ客体の内部に潜在して、これを構成する要素となっている。客体という対象は、主体がその歴史のなかで造作した結果である。それゆえにこそ、主体からの客体の理解が可能となる。主体と客体とは、つねに相互介入の関係にあり、理解をこころみるたびに、多様な共鳴音を発して感応しあう。

こうした見方の代表としては、ジャン・バティスタ。ヴィーコをあげることができる。「ヂカルトの不倶戴天の敵士を自認したヴィーコは、デカルト哲学における理性的認識を根拠のないものとして反駁する。かれにとって、歴史という対象は、理性から出発して「延長」されるものではなく、認識主体である人間によって作為されたもの、「作られたもの(フアクトウム)」としての真理(ウェルム)を内蔵している。対象は、純粋像として理性のだかに封入されるわけではなく、歴史のなかでくりかえし変化しつつ、人間の営みを体現してゆく。歴史という認識対象と歴史という認識主体とは、たがいに介入しつつ、曖昧で蓋然的な関係を展開してゆく。

古代の人間像を素材にえらんで歴史を考察したヴィーコは、人間活動の本性のうちに「詩的想像力」を看取し、それを規準として、歴史を解釈しうるものと考えた。唯一の規範たる理性にしたがってではなく、詩的感性を基盤として客体(ファクトウム)を捉えようとすれば、当然のことに、自明でアプリオリな真理を歴史にむけて要求することは理不尽であることになり、歴史にたいする「働きかけ」にこそ、学の本質がもとめられることになる。

第三の立場は、こうである。対象としての客体もまた認識する主体も、その関係がいかであれ、ともに両者を包含する、より上位の構造のだかに編成されている。主体が優先するか、客体が優先するかという設問は、ここでは無意味である。そのいずれに認識の契機をみいだすにしても、究極の問いは、その上位構造を解明することにある。歴史像は、そうした広大な図式のうちに構想さるべきである。そこでは、主体は世界を作りだす契機とみなされるが、構造によって規定されており、それを支える実体としてのみ存立する。客体も、おなじく構造のなかにあって機能を保証され、意味をあたえられる。個別な事実や現象として存立しているわけではない。

こうした見方の代表としては、ヘーゲルの歴史観をあげることができる。世界史を「絶対理性の実現過程」とみなしたヘーゲルは、理性をたんに人間の主観に内在する心理過程としてではなく、世界をうみだし、世界を完成させる主体とみなす。歴史は、人間や自然がたまさか出会って実現する偶然の過程ではなく、理性の「校知」がみずからの意図を世界のなかで実現する、壮大な絵図としてえがかれる。ほとんど幻想とでもいうべき絵図であるかにみえるが、この歴史過程にこそ、人間の主観意図や自然の物質的客観性をともに止揚して、単一の構造体が構想される。古代オリエントや古典古代も、プロイセン国家を極とするヨーロッパツパ近代世界も、特異なへーゲル歴史哲学にあっては、絶対理性の自己実現のうちに定位されて、それなりの完結性を保証されたのである。

ここでは、さしあたり三つの立場をあげたが、いずれも世界の認識にあたっての方法的意識を明確にしているという点で、近代の歴史学にたいして、無視しえぬ影響をおよぼし大ものといえる。デカルトもヴィーコもへーゲルも、本来の意味では歴史家ではないものの、それぞれの視点から歴史学にたいして、絶大な刺激をあたえることになった。
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未唯の相手が来た

未唯の相手が来た

 リクが居たのでよかった。私の代わりに未唯の相手に吠えまくっていた。途中から宥められてしまった。だらしがない。奥さんはリクがどういう反応するかを知りたくて、家に寄らせた。

 名前を名乗ったが、覚える気はしない。1年ほど前からの付き合いだそうです。友達の紹介というやつです。

 自動販売機の営業をしている。いずれは本社での営業に戻るつもり。本社は大阪なので、転勤がネックになる。

 当初から、結婚を前提にお付き合い。許可を頂けないか。未唯が好きだから、誰でもいい顔はしないけど、未唯が良ければ、反対はできない。惚れたのか、惚れられたのか? お互い。やさしくて誠実だからと未唯が言っていた。

 自動販売機の将来をどう考えているのか? ルートセールスでの忠実さだけ。業態そのものを考えていかないといけないと私は思うけど。

 趣味は? 具体的にこれといってない。鳥が好きで山歩き。あとは釣りをちょっと。

 イギリスに一か月ほど居た。あとはマダカスタルに行った。

 自販機には色々なものが入っている。付加価値の時代だから。

 将来の夢はありますか? 幸せな家庭のことを話していた。私には夢はありますと言ったら、奥さんから「あなたには将来がない」「糖尿とか…」と茶々が入った。

 「早めに話しておいてね」とは言ってあったそうです。私には唐突に「年内に結婚するから」「18日は空けておいて」と言われた。

 未唯の相手のイメージはまるでなかった。まあ、未唯さえよければいいでしょう。何しろ、自分で決めてくれる子だから。

姪の玲ちゃん

 姪はその後、発作が起きて、救急車で記念病院に運ばれたそうです。
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