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未唯への手紙

未唯への手紙

退職準備

2015年01月04日 | 7.生活
正月休み

 29日から31日は長かったけど、1日から4日までは短い。それにしても、29日(月)から4日(日)の一週間の出来事です。

退職準備

 退職準備をしないといけない。

 家に置くプリンターはどれでも同じでしょう。カラーである必要はないです。線が邪魔だから、無線です。部屋の中に場所を確保した後に買いましょう。会社のプリンターのように、中にバッファーで貯めるものはないみたいです。取りあえずは、ビジネス用にしておきましょう。コンコーズのようなサービスも探しましょう。

 プリンターこそ、シェアで十分です。図書館コミュニティでビジネスサポートで考えていく。自分にニーズのあるモノをサポートしていくことで、シェア社会が現実になる。

本の破損

 岡崎図書館で、本の破損に対しては、弁償せずに、誓約書だけで済みました。ラッキーです。ちなみに、誓約書の中身は読まずに、サインだけしました。

『考える日々』抜粋 三年目 3/3

2015年01月04日 | 1.私
歴史の中の自分の人生
 プラトン、四十歳、アテナイにアカデメイアを創設する。すごい娑婆気だな、これから打って出るつもりだな。
 ヘーゲル、四十歳、『精神現象学』完成。失職していたが職を得て、続けて結婚。やっぱり鼻の下長くしたんだろうな。
 ニーチエ、四十歳、サロメに失恋して、「ツァラトゥストラ」に着手。劇的に発狂するには上限の年齢だ。狂気とは徐々に慣れるべきものなのだ。
 「とりあえず」この世の肉体は四十歳、生物学的には、人間が最も脂の乗ってくる時期とされているらしい。

なぜ人は長生きしたいのか
 生きることの楽しみを、それら外的な楽しみに求めていると、遅かれ早かれ、人は飽きるに決まっている。飽きたな、次は何をしようかな、本当は何をしたいのかな。そうやって求めてゆくと、長生きすることによって「何を」したいのか、あんがい人は不明確なのである。さて、バリバリ、ピカピカのまま、百五十年という歳月、何をして過ごしましょう。

死の向こうの存在と宇宙
 生きながら、死の向こうの存在と宇宙について思索できるなんて面白さ、さらに深く、さらに奥へ、究めてみるのも悪くない。それで私は、長生きするのも悪くないかなと思い始めたのである。つまり、長生きすることで、私はもっと「考えたい」。
 これはナンセンスである。なぜなら、考えるというまさにそのことによって、この世の生死などとうに越えているからである。

哲学の言葉に哲学はあるか
 「考える」というのは、言葉で考えるのだと思っている人がほとんどである。哲学的思考というのは、言葉によって為されるのだと思うようなのである。
 しかし、これは違うのである。私自身は、もうずっと言葉で考えるということをしていないので、それが当たり前なのだと思っていたのだが、何かの折に、考えるのは言葉ではないというふうなことを言うと、意外なほどに人が反応するので、私はそのことを知った。えっ、考えるのは言葉じゃないんですかと、人は驚くのである。
 しかし、そう驚かれてみれば、この勘違いの根は相当深い。この世の中には、「哲学入門書」「哲学解説書」という奇態なシロモノが存在するが、それらが揃って、言葉の解説から入門しようとしているという事実が、それである。「哲学辞典」なんてのは、そのものズバリであって、「イデア」という項目には、プラトンによるかくかくの考えである、「コギト」という項目には、デカルトによるしかじかの考えである、というふうに書かれてある。
 つまり、人々は、プラトンはイデアという言葉によってイデアを考え、デカルトはコギトという言葉によってコギトを考えたと、こう思うらしいのである。
 どの哲学者がいったい、そんな奇態な考え方をすることができるだろうか。さっき私は、私もまた言葉で考えることをしていないと言ったが、これは正確には、人は言葉によって考えることはできない、「考える」とは、言葉によらずに考えることをのみ言うのだと言うべきだろう。なぜなら、人が考えるのは、わからないからに他ならず、わからないことは、わからないのだから、未だ言葉にはなっていないからである。これはあまりに当たり前のことではなかろうか。
 考え始めるためには不可欠の、「わからない」「だからわかりたい」という切なるモチペーションを欠いているために、考え始めることができない。「哲学」でもしてみたいなど思うから、哲学者が著わした書物の、その言葉の側から入ろうとして、つまずく。そんなことは無理に決まっている。哲学者たちが考えている現場には言葉はなく、言葉を用いているにすぎないから。

生きられないから自由をよこせ
 共産主義が観念であるように、民族主義も観念である。人は、民族主義者であることをも、自ら選べるのである。ただ、共産主義の場合は、人はそれを自ら選んでいることを比較的自覚しやすいのに対して、民族主義の場合は、自分たちの民族に関わるものであるために、自覚されにくい。ある民族が、ある民族であることは自ら選んでいる観念だと自覚するのは、至難の技である。

主張のない人は考える人だ
 そのような人々が、わからないなりにわかっている通りに、私はいかなる主義をも主張していない。言論活動とは、何らかの主義を主張することなのではなく、逆に、そのようにして主張されているあれこれの主義を、整理整頓することなのだと知っているからである。そして、それこそが正当にも哲学の活動、政治思想や社会思想に対する、哲学の解毒作用なのである。

「親子の縁」それ自体が奇跡
 人が親になるためには、いかなる努力も、いかなる才能も必要ではないという事実。つまり、獣性にまかせて性交をすればよろしいのである。そうすれば、誰もが自ら親になることができる。獣性にまかせて親になったような親に、どうして寛容であり毅然として、等の人間の精神性の理想像を、いきなり要求できるだろう。単純なカテゴリーエラーである。要求するほうが無理である。

学術用語に要注意
 人が社会で他人と接して生きている限り、あれこれの摩擦や衝突が起こるのは、当たり前のことである。それをそのつど、傷ついた、トラウマが残ったと言ってみたい理由は、要するに甘えであろう。摩擦や衝突によって自分を鍛え、苦しみを乗り越えてゆく過程を拒否して、「卜ラウマ」という名の権威の下に庇護されていたい。傷ついている自分に安心していたいのである。

お受験は母子ともに気の毒
 お受験をクリアしたからといって、決して気は抜けないのである。しかし、そんなことは子供にはまるっきり関係がないことなのだから、やっぱりお受験お入学は、母親たちの道楽である。しかし、なにしろ彼女らは、他にすることがないものだから、道楽でも真剣にならざるを得ない。仲間関係でノイローゼになる人も出てくるというわけだ。

ロゴスの果て、個の消滅
 近未来のネット社会において、個人性は、強まるのだろうか、弱まるのだろうか。誰もが平等に発言の機会を与えられることによって、誰もが自分をひとかどの者だと思うようになる。しかし、そのひとかどの内容はといえば、内省することのないぶんだけ、垂れ流し状態で入ってくる外界の情報にすぎないはずだ。これは、望ましいことなのか、望ましくないことなのか。

いきなりこの世に産み出されて
 子供を作るという行為は、精神の自己克服なのではなかろうかと思うことがある。
 われわれ、いきなりこの世に産み出されて、自分を産んだ親と対面するわけである。最初のうちこそ親という存在は、絶対だが、育つにつれその相対性が見えてくる。未熟な部分もあれば、気に入らない部分もある。ああいうふうにはするまい、ああいうところは似るまい、そう思いながら、子供は育つ。

何が私であるのか
 実際私は、考えるほどに、自分が誰であるのか、わからない。
 「私は」と書き出そうとして、「誰は?」と反射的に問うてしまう。その問いのほうに入り込んでしまうと、それ以上書くことができなくなる。
 その池田某とは誰なのかは、よく考えるとやはり不明ある。その人がその人であるというのは、いったいどういうことなのか。

ここまで読んでくれた皆さん!
 哲学の物書きとして私は、「認識する」。認識するということは、それ自体が不断の運動性だから、認識していることを書いているそばから、ひっくり返す。ネガティブにもポジティブにも立ち止まらせずに、宙吊りにする。じっさいそれが、存在が生成するというそのことなのだから、そうする以外に何かをすることはできないはずだ。

ソクラテスの遺志
 民主主義とは、そもそも何か。愚者がそれを至上と掲げる民主主義は、そのようなイデオロギーとして機能している。権利と自由と平等、その内実を述べてみよと問うたなら、おそらく彼らは答えるはずだ、快楽の享受と。
 誰もが平等に無内容な消費、誰もが平等に出鱈目なセックス、それを指して権利と自由と、彼らは答えるはずである。こんなもののどこがいったい、追求されるべき至上の価値なのだろうか。

わからないものを考え続ける
 「わからない」といったところで、私が言っているのは、いかなる場合も、「生きて死ぬ」とか「自分である」とか「宇宙は存在する」とかいった、驚くべき当たり前のことばかりである。そういう当たり前のことがどういうことなのか、むろん私にもわからなかったので、私は考えていたのだし、考えたそのことをそのように書いたのでもある。これが人にはわからないらしい。私は困惑した。

『考える日々』抜粋 三年目 2/3

2015年01月04日 | 1.私
おっしゃる通り、理想論です
 プラトンの理想国、あんなものが「現実に」存在するわけがない。字義通りの理想としてのみ存在する、まさにそのことによってあれは明らかに現実なのだということを、ほとんど人は理解しない。さほどにまで深く、人は理想と現実とを別物だと思い込んでいる。もしそうなら、人が何事かを言語によって語り出す理由など、あるはずもないではないか。

耳を貸すだけで時間の損害
 どうして政治家のことを書かないのか、もっと政治家のことを批判すべきではないかと言われることもあるのだが、ああいう人々は私の精神活動において、およそ「批判」の対象になど、なり得ないのである。猿や狸の行動様式について、人間が理性により批判を加えるものだろうか。動物行動学者だって、彼らはそれを「観察する」のであって、対等に「批判する」ことはしない。

私の孤島は海中に没し
 私は、ある種の先細り感に襲われる。それは、かろうじて立てる程度の孤島の岸辺が、波にさらわれ浸食されてゆく、その速度がいよいよ速くなってきたと感じるのである。人がどんどん馬鹿になってゆく、私にはどうしようもないという無力感と諦観である。私の孤島が海中に没し、最後の考える種族が絶滅したあとの世界で、遺された文書の謎めいた言葉は、はたして解読可能だろうか。

未来を知り、失われるもの
 人間は本来、先のことを知って生きるようにはなっていない。先のことを知っているなら、現在を生きる理由はなくなるはずなのだが、人間の浅知恵、浅はかな欲望が、先のことを知れば今を安心して生きられると思わせる。しかし、先のことのために常に取り逃がされる現在が、どうして安心であり得るだろうか。いったいいつ幸せになるつもりでいるのだろうか。

神の国のけっこうな美徳
 「なぜ人を殺すのは悪いのか」。この問いに論理的に答えることは不可能である。なぜなら、「善悪」の語はそれ自体が言語であり、いかなる内実も示してはいないからである。にもかかわらず、人は、「善悪」の語によって、自分が何を言っているかを明らかに知っている。これは、どういうことなのか。

考えることは一円にもならない
 松坂投手は羨ましいな、と私が思うのは、それがお金になる才能だったということである。私は自分に、他人にはあまりない考える才能があることを自覚しているが、こんなもの、それだけじゃ、一円にだってなりゃしない。どころか逆に、この世間を生きるのには損ばかりである。私には、あの世のことを考える才能があります、そう言って威張ってたって、笑われるだけである。

ダメな人ほど主張する
 考えると無限に考えられるのは、存在の内容が無限だからで、存在することしか考えられないのは、それが存在の形式だからです。存在の内容と存在の形式が矛盾するのは存在の真実なので、真実に気づいたあなたは病院に行く必要はありません。この世の中には、この真実に気づいている人と気づいていない人の二種類の人がいますが、気づいている人のほうが断然少ない。

そうでなければ、それまでだ
 いつ頃からなのだろうか、大人が子供に接するに際し、「教える」「叱る」という態度ではなく、「理解してあげよう」「話してごらん」というふうな態度を取るようになったのは。私自身は、そんなふうな猫撫で声で教育された覚えは、家庭でも学校でもないし、もしもその手の態度に出合ったなら、自分の気性を鑑みても、かえって反発し、深く軽蔑したに違いない。

臓器が見る、混沌の夢
 生きている間は、それこそが至上であり最重要事であり、人間が人間であるために不可欠の器官だと思われているその脳が、死んでしまえば、最も要らないもの、煮ても焼いても食えないものということになるのだから、いずれにせよ脳の価値とはその程度なのだということがよくわかる。脳それ自体が価値なのではなく、その価値は付与された価値だということだ。

IT革命の本質と試練
 グーテンペルグの革命により、聖書は遍く人類に読まれるようになった。しかし、そのことによって、人類は遍く賢くなったか。私はそのことを言っているのである。何億光年先の宇宙の光景が居ながらにして見られる。しかし、そのことによって、宇宙が存在するという謎が、謎ではなくなるか。

あの犬はいま何処に
 たいていの共同住宅では禁止されるなど、日本の社会一般が犬を飼うことに寛容でないのは、そのような、自分と犬とをきちんとしつけられない人の振舞によるところが大きいと思う。しかし、愛情と信頼でつながれば、犬が人の心の伴侶たること、ひょっとしたら人間の伴侶以上である。既に飼っている人も、これから飼いたい人も、だからこそ、飼うことの社会性を心がけたい。

心と呼ばれるもの
 心とは、それを心だと思っているまさにそれが心だという、心の不思議である。機械か生物かが問題なのではじつはない。機械アニミズム、各種フェティシズム、対象に心があるかないかではなく、あると「思う」そこに心があるということだ。だからこそ、問い「心とは何か」は、正当に底知れぬものとなるのである。

心で感じる仮想と現実
 「心とは何か」という問いに、認識論的に答えるのはじつは不可能なのである。なぜなら、その問いは既に、「心」と呼ばれる何らかのものがそれ自体で存在することを前提しているが、問われているのは、当の「心」、その何であるかだからである。こうして問いは、存在論へと変換する。「何か心であるのか」。もしくは、心と呼ばれるものとして存在しているのは何なのか。

ところで、生活はどうするのですか
 死ぬとは何かということをわれわれは知らないのだから、生きるとは何かということも知らない。知らないにもかかわらず、なぜそれを知っていることであるかのように生きているのか、生きようとするのか。生きるとはいったいどういうことなのか、それを考えることを「考える」と言うのです。
 生きるとはどういうことなのかを考えるのが哲学なのですね。ところで、生活はどうするのですか。

普通の人が、普通の場面で
 私は、普通の人が、普通の場面で、知りたいと思う、だから考える、という筋道に沿って、考えて知ることを行なっているので、そのような方々の知の技法は関知するところではない。。「知る」ということは、そのことの何であるか、その「本質」を知るということである。いかなる意識表象であれ、それが何であるかを考えて知るということは、その「本質」を知るということ以外ではあり得ない。

私の値段はおそらくO円
 査定基準によれば、私の査定基準はほぼ間違いなく零点である。リーダーシップ皆無(面倒くさい)、交渉能力絶無(喧嘩っぱやい)、語学力零点(忘れ果てた)、パソコン技能零点(触れたこともない)、それに加えて、経済観念がない、危機管理能力がない、計画性も協調性もない、なのに自分だけは絶対に正しいと思い込んでいる。


『考える日々』抜粋 三年目 1/3

2015年01月04日 | 1.私
池田晶子『考える日々』より

千年に一度 一年に一度
 私のところへ新聞から仕事の依頼がくるのは、お正月だけなのである。ここ数年来の傾向を鑑みるに、お正月特集、年頭の展望といったような企画にのみ、有難くもお声がかかり、あと一年は、ピタリと来ない。一年間の閑古鳥である。
 編集者にたずねたら、決まってるでしょう、人が内省するのは年に一度でいいのです。お正月だけで、いいのです。

生きるために食べている
 科学は言う、「死後はない」。宗教は言う、「死後はある」。さて、「本当は」どっちなのだろう。あなたはどう考える。

 「狂信的」科学者と「狂信的」宗教者のはざまで、「常識的に」生きているわれわれは、それらの問いは決して他人事ではないはずなのに、どういうわけだか他人事のように思い為して、あれらの事件を面白がっている。
「永遠の生」という異常事態
 伝統的宗教の開祖たちが語り出したのも、じつはこの絶対的な謎の「意味」についてであって、決してその「解答」ではなかったのだ。彼ら以後のわれわれは、そのことを忘れている。彼らが何らかの解答を与えてくれているようなので、あれを信じれば救われるのだと、こう思い為したわけである。し彼らとて、宇宙はなぜかくも奇妙なのか、ということは、じつはまるきりわかっていない。

はるか未来の自分を想う
 千年後には自分はいないと、どうして言い切れるのですか。失敗のツケを払うのは、あくまでも自分である。千年後の変てこな社会で、いま努力しなかったことのツケを払うのがイヤなので、それで私は全体が少しでもよくなるように、日々の努力を続けているのだ。要するに全部自分のためである。

換金できない言葉の価値
 この絶対性、この自己同一性こそ、プラトンが「イデア」の名で呼ぼうとした不動の範型であって、言葉の不思議を正当に語ることができるのは、この地点だけだ。言葉の相対性は、とくに驚くべきことではない。正当に驚くべきなのは、それら相対性が相対性であり得るのはなぜなのか、それら相対性が沈黙のうちに必ずや示してしまう不動点、その存在の謎だけだ。

生き残るだけが価値ではない
 私などの場合は、偶然と強運がこれまでのところ重なっているだけであって、そうでなくなれば、くだらない文章を書く前に、さっさとやめる。自己リストラである。そのあと何をするかなんて、まるきり憂えていない。そんなことはどうでもいい。どうにかなればなるだろうし、ならなければ、ならない。それだけのことではなかろうか。

そうまでして、そうするべきか
 私は自分が馬鹿なのを知っているから、だからこそ情報なんかを欲しいとは思わない。欲しいのは、ひたすら知識である。あるいは知恵である。自分がより賢明に生きるために必要なものは、真実の知識、内なる知恵であって、巷間に出回る情報の類ではない。少なくともそのことだけは、私は知っているので、だからゴミの山の中に砂金を探すような無駄な時間は使わずにすんでいる。

正直者は馬鹿をみるか
 正直というのは、一切の勘定というものをもたないから正直というのである。正直者が法律を守るのは、守らないと罰せられるから守るのではない。そもそも自分の行動規範がそのような損得勘定にはない、そのことが結果として法律を守ることになっているだけである。守らないと罰せられるから守るのは、小心なのであって正直なのではない。

善く生き、正しく在る事
 死刑囚が脱力するほど、それらの文書の愚劣さは大したもので、私はあきれた。許し難いのはその無神経である。デモをした、公安につけられたがそのあとコンパで盛り上がった、なんてことを、得々と報告している。そのうえ、そんな愚劣なものを、獄中の彼らに送りっけてくる無神経、これを「支援」というそうだが、要するに、死刑囚を肴にした暇人たちの余暇である。

私は間違っている?
 私は、自分の陸の孤島状態を愛しているので、基本的に孤独でいられるこの物書きの仕事は、とても性に合っている。短気なので、人に教えている間に、考えが先に行ってしまうのである。独りで考え考えしているうちに、考えはいよいよ人間離れしたものになってくる。どうやって言葉にしよう。それは、けっこう大変なのである。

今さらの人間中心主義
 言語の視点から世界を見ると、世界は確かにこんなふうに見える。全部が同一平面でつながって、境い目がなくなるのである。当然、「人間」という呼称自体も、じつは無意味であると気がっく。「人間」とは、言語による呼称に他ならないからである。「人間」などいない。言語が動いているだけだ。今さら「人間中心主義」とは何のことやら。

だって、にんげんだもの
 かねてより私は、「人間」という語に、いかなる意味も見出せたことがない。いやむしろ、人が語「人間」に与えている過剰もしくは不明瞭な意味、それが常に不審であったために、未だに考え続けていると言ってもいい。ちょっと考えてみてください。人が、「人間」の語を使用して、「人間らしい」「人間的な」「人間として」等と述べる時、それはいかなる意味なのか。

日本人の誇り
 『国民の歴史』という本が、ペストセラーだそうである。
 どのようなことが書かれているか、読まなくてもわかる。つまり、国民の歴史であろう。だから私が不審に思ったのは、その本に書かれているであろう事柄ではなくて、その本がなぜさほどに売れているのか、そっちのほうである。なぜ、「今さら」、国民の歴史なのだろうか。

閉じていたから開くのか
 大きな活字で三文字、「ひらけ」と書いてある。はあ、何を。
 若干の興味を覚えて見てみると、その下には小さく、「朝日新聞」とある。「ひらけ、朝日新聞」と。
 ははあ、するとやっぱり、これまでは開いていなかったのだな。
 思考の流れ方としては、自然とそうなるはずである。

身に覚えのある夢
 人はたいてい、ケッタイな夢を見ても、それが「夢である」という理由で、それを納得してしまうものだが、しかしなぜ夢というのは、ああケッタイでしかあり得ないのかというこの不思議に驚いて、大真面目に考え始めたのが、フロイトやユングといった、あれら「立派な」人々である。つまり、彼らもやっぱり零点やオバケなのである。やっぱりこりゃあ可笑しいや。
 夢、いったいあれは「何」なのか。われわれは、毎夜毎夜いったい「何を」しているのか。じっさい、よく考えるとこれは、とてつもなくケッタイなことなのである。

考えなければわからないこと
 「臨死体験」などは、調べるほどに、考えなければわからない事柄の典型である。その考え方を知らなければ、どうわからないのかすら、わからないはずだ。それははたして本当なのかと悩むためには、では「本当」とはどういうことなのか、先にそれが知られていなければならないからである。「本当」とはどういうことかと考える、その考え方は、事例を集めて調べるだけではわからない。

他人を言い負かしたいだけの人
 あえて教科書的なことを述べるけれども、この言葉の本来の意味、その行為と精神の本来は、カントの『純粋理性批判』、あの意味における「批判」に尽きている。考える機能としての理性が、自身の妥当性を吟味し、判断するということである。易しく言えば、「考える」ということを考えることで、それがどう正しくどう正しくないのか、より明らかに知ることである。

見よ、ウチが燃えている
 私はようやく、事態の意味がわかった。私は昔からこうなのだ。言うところの「危機管理意識」というのが、致命的に脱落している。運転免許を取るのに、人の倍近い時間がかかったのも同じ理由による。ぶつかるまでぶつかるとは思えない。ぶつかってもぶつかったとは思っていない。どこかがこの世界を見ていないのである。


『論考』を捨てるにいたる、二つの危機

2015年01月04日 | 1.私
『ウィトゲンシュタイン』より 今こそ読むべきウィトゲンシュタイン 危機の時代にこそ読むべき存在

『論考』で得られた救済を、ウィトゲンシュタインはある段階できっぱりと捨て去ります。それはこの「救済」の破綻が自分にとって隠しようのないものになってゆくからです。ふつう、いったん作ったものがだめだとわかっても、なかなか全部壊してIから出直すことはできないでしょう。しかし、ウィトゲンシュタインは、それをあえてやらないと生きられなかったのです。そこが、彼のいちばん特徴的な点で、読む側としては非常に真剣さを感じるところです。読んで信頼できると感じさせる部分だと思います。

『論考』という救済が破綻し、この考えは駄目だったことに気付いた結果、ウィトゲンシュタインの生は、二重の危機に陥ります。より正確に言うなら、『論考』という救済の破綻はウィトゲンシュタインにとって、二重の生の危機として体験されるのです。そうした危機の最も根本的な理由は、彼がどこまで意識していたかはわかりませんが、『論考』のいちばん根本にあった、プラトニズムの考え方だったと言えるでしょう。プラトニズムというのは、数、様々な数学的な構造、言語の構造、さらには論理形式といったものが、それ自身において存在している、あるいは、人間や人間の活動とは独立して存在しているという考えです。『論考』の救済は、言語の構造的な限界を定めることによって実現したわけですが、そのためには、言語の構造が実際に存在するという信念がないとできません。つまり、ここで得た救済は、プラトニズム、すなわち論理形式が人間と独立に存在していることと表裏一体だったわけです。

では、プラトニズムがいかにしてウィトゲンシュタインの生に二重の危機をもたらしたのか。それは、言語について、現実的、具体的に考えてみると見えてきます。毎日私たちが話している言葉を考えてみてください。すると、言語は、彼が『論考』で言ったような非常にきれいな数学的な構造などはまったくしていないでしょう。そして言語と言ったときに、実際に私たちが話している言語のことを意味しなかったら、いったい何を意味するんだろうと考えてしまうでしょう。現実を直視するとしたら「この『論考』の理論は誤りである」ということになるでしょうし、この理論にしがみつくと現実をまったく見ないで勝手な像を描いているにすぎないということになるでしょう。もともと『論考』において彼は「現実の言語の根本」について考えていましたから、現実の言語から離れてしまうことはそもそも本意ではない。そこでひとつの選択を迫られるわけです。今まで考えてきたことをすべて捨てるか、自分で嘘だと知りつつごまかすか。これが第一の危機として迫ります。

一方、数や関数だけではなく、理想などもプラトニズムの対象です。そこでプラトニズムに基づいて、人間の理想や社会の理想などが、人間から独立してあると考えますと、自分が理想的な人間を目指す行為は、現実の自分と関係なく存在している理想的なあり方にとにかく近づかなくてはならないということですから、実際やってみるとものすごく大変なわけです。「こういうふうになりたい」と思いながら少しずつ自分を改めていくのであれば、自然なよい方向への進歩となるのでしふうが、最初から「理想的な社会や理想的な人間はこうでなくてはならない」という目標がはるか高くにあって、それに進むことになると、実際には非常に苦しくて、そんなことを実現するのは誰だって嫌でしょう。

それにもかかわらずやるとすると、その真の動機は、「やると人が褒めてくれる」ということになってしまうことにウィトゲンシュタインは徐々に気づいてゆくわけです。つまり、なぜこんなにもしんどいことを自分かやっているのかを考えたときに、それが「いい」と思っているからではなく、自分の虚栄心の充足をどこかで感じているからだということをウィトゲンシュタインは次第に強く意識していきます。「いい」と思っていいことをやっているのではないとすると、「偽善」ということになります。つまり、本当に「こういう人間になりたい」と思って少しずつ歩むのではなく、「理想を演じる」ことになるわけです。こうしてウィトゲンシュタインは自分の偽善と虚栄心をますます強く意識し、自ら非難してゆくのです。それが、プラトニズムが人間の行為に及ぼす非常に根本的で大きな影響なのです。

ウィトゲンシュタインのこうした自己叱責の過程は、『日記』前半(一九三〇圭二二年)から手に取るように読み取れます。最初は自分が「そうすべきなのだ」と思って山の中の小学校に行って、人知れないところで慎ましく生きる生活をしていたのですが、徐々に自分がそのような暮らしをしている本当の動機や姿がわかってきて、苦しむようになり、結果として日記を書くようになるのです。しかしながら、理想は自分の生活と独立してあるものではなく、言語の構造は、毎日私たちが話している行為と独立してあるものではないというまったく新しい考えへと、最も根本的なところにある物事の順序や方向に関する自分の考えを変えない限り、出口は絶対にありません。『日記』前半の記述には、彼が自分自身のことを真剣に批判しつつも、「こういうふうに批判している自分はえらいとみんなが思ってくれる」といったことを書いています。それは、そのいちばん根本が変わらない限り、その上で何をやっても同じことの繰り返しであることの表れと言えるでしょう。

独我論が示されるところ

2015年01月04日 | 1.私
『ウィトゲンシュタイン』より 独我論--「限界」としての「私」とは何か 独我論は示されうるか

独我論が「語りえない」のは、「語る」ことが「像を作る(写像する)」ことだからである。独我論の言わんとすること(「私」の特異なあり方)は、世界内の一個の事実ではなく、世界全体・思考全体に関わることなので、その像を作ることができない。すなわち、独我論は「語りえない」。

しかし逆に言えば、どんな像を作ろうとも何について語ろうとも、独我論は、つねに影のように取り憑いて離れない、とも言える。というのも、「像」や「意味」が成立するためには「思考」が働いていなければならず、「思考」が働く限り、そこには二重性を持つ「私の思考」が入り込んでいるからである。したがって、独我論についての「像」は作れないが、すべての「像」が「像」として働くことの内に、すでに独我論は入り込んでしまっている。ありとあらゆる「写像」「語り」の中で、「私の思考」は、つねにすでに働いてしまっている。

このように働いてしまっているはずの独我論は、どこでどのように自らを「示す」ことができるのだろうか? ウィトゲンシュタインは「言語」に注目する。「言語」は、「世界」や「思考」や「論理」とは違って、その中で「限界」を引くことができる唯一の領域だからである。『論考』の序文と5・61の一部分から、引用しよう。

(……)思考に対してではなく、ぞの表現に対して限界を引く。というのも、思考に限界を引くためには、私たちはその限界の両側を思考できなければならない(それゆえ思考不可能

 5・61 論理は、世界を満たしている。世界の限界は、論理の限界でもある。

 それゆえ私たちは、論理の内部で、世界の内にはこれこれは存在するが、あれは存在しないと語ることなどできない。(中略)

 私たちは、思考しえないことを思考することはできない。それゆえ私たちは、思考しえないことを語ることもできない。

序文では、「限界を引く」という作業は、「思考」においてはできず、「言語」においてのみできると言われている。5・61では、同じ趣旨のことが、「論理」「世界」についても言われる。すなわち、「論理」や「世界」については、その限界を、限界の向こう側から考察することなどできない。つまり、両側を見渡して限界を引くことなどできない。しかし、「言語」においては、そのような「限界引き」ができるのである。なぜだろうか。

答えは、「無意味な領域」があるからである。「言語」においては、「有意味な領域」七「無意味な領域」の両方がある。「論理」と「世界」と「思考」に関しては、その「限界」の両側を考察することはできない。「限界」の向こう側など、まったく思考不可能だからである。しかし「言語」に関しては、「有意味な領域」の向こう側、すなわち「無意味な領域」をも考察することが可能である。二つの領域を見渡して、その境として「言語の限界」を考えることができるのである。

「無意味な領域」とは、たとえば「一郎は父親の太郎の次郎であり、3は美男子である」のような、記号列のことである。この記号列は、論理形式に反しているために、意味を与えることができない。つまり、要素の配列の仕方や性質を適用するカテゴリーがまちがっているために、味を持つことができない。言語は、そのような「無意味な記号列」と「有意味な記号列」とに二分できる。いわば、「無意味な領域」という広大な闇の中で、「思考」「論理」の光が当たっている部分のみが、「有意味な領域」である。「言語の限界」とは、その光と闇の境に相当する。こうして、「世界」や「思考」では引くことのできなかった「限界」が、「言語」では引くことができるのである。この「言語の限界」こそが、「世界の限界」としての「私」、すなわち独我論の示されるところである。

 5・6 私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。

 5・62(第二段落) 世界が私の世界であることは、この言語(私が理解するただI?の言語)の限界が、私の世界の限界を意味するということのうちに示されている。

「私の言語の限界」「私が理解するただ二つの言語の限界」とは、「有意味な言語の領域」全体のことである。「私の」「私が理解する」が付いているのは、「私の思考」という像の働きが、有意味性を付与するからである。そして、「有意味な言語の領域」全体は、「私の思考」という像を介して(つまり「意味する」という関係を介して)、「私の世界の限界」ともぴったり重なっている。世界=思考‥‥言語の一致と、その一致への「賜の思考」の浸透。そこが独我論の示されるところである。

岡崎図書館の10冊

2015年01月04日 | 6.本
704『イメージ人類学』

302.2『社会人のために現代中国講義』

002.7『文化情報学ガイドブック』情報メディア技術から「人」を探る

135.5『90分でわかるサルトル』

130『高校生のための哲学・思想入門』

519.0『インタープリター。トレーニング』自然・文化・人をつなぐインタープリテーションへのアプローチ

026『図説 よりすぐり国立国会図書館』--竹取物語から坂本龍馬直筆まで--

375.1『高校新聞ルネサンス実践集』

007.3『ネットが生んだ文化』誰もが表現者の時代

913.6『潜水空母Z艦隊』