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未唯への手紙

未唯への手紙

豊田市図書館の30冊

2015年01月23日 | 6.本
687.21『最新 航空業界の動向とカラクリがよ~くわかる本』活気づく航空産業の現状と課題を俯瞰する!

007.3『情報倫理』ネット時代のソーシャル・リテラシー

019.9『洋子さんの本棚』

914.6『知的生活習慣』

501.8『ビジネスに効くスケッチ』

493.8『感染症パニック』

673.97『いい仕事をしたいなら、家屋を巻き込みなさい!』

070.2『戦争報道論』平和をめざすメディアリテラシー

550.2『航海の歴史』探検・海賊・貿易の四千年史

377.21『工学部ヒラノ教授の事件ファイル』

107『哲学の権利1』

350.9『世界の今がひとめでわかる本』美しいインフォグラフィックスで最高の地球旅行へ

141.5『頭をよくする整理のしかた』ビジネスに効く!! 地頭がよい人の思考が身に付く

164.38『【図説】北欧神話の世界』

007.3『超高齢社会の未来 IT立国日本の挑戦』

304『すべてのニュースは賞味期限切れである』

130オ『図解 使える哲学』

016.29『まちライブラリーのつくりかた』本で人をつなぐ

755.5『ヌメ革で作る 男の革小物』

755.5『職人仕立ての革小物』大人のレザークラフトⅢ

289.1『木田元』軽妙洒脱な反哲学

151.6『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』

140『アドラー〝実践〟講義 幸せに生きる』今すぐ人生に効く9つのワーク

361.45『「聴く力」の強化書』ねえ、私の話聞いてる?と言われない

319.8『核を乗り越える』

336.49『世界で働く人になる!』人づきあいと英語のスキルを劇的に上げる41の方法

302.24『インドネシア・スンダ世界に暮らす』

204『世界史の極意』

323.14『憲法の条件』

222.6『大モンゴルの世界』陸と海の巨大帝国

言葉の限界

2015年01月22日 | 1.私
女性が活力源

 女性が活力源です。それがないと、普通にへたります。

 なぜ、あのメッセージボードを掲げているのか。同じことを考えている女性を探しているんです。「私はここに居る」と。本当は池田晶子さんがいいんですけど、それはムリなことです。

死ぬときは痛いのか

 足をつっていた。トイレに行く時だから、やばいと思った。死ぬ時はもっと、痛いんだろうね。そんなことはあまりにも世人的です。

 死で<今>を消失するということは、過去と未来は残るんです。死ぬという感覚しか、得られません。どう、拡げようとしても。動く範囲は手が届く範囲しかないけど、考える範囲は無限大です。結局、「存在と無」に戻ってしまう。部品表を含めて。

 なぜ、自分が亡くなった時の意識を感じるのか。<今>ではないのに。デジャブじゃないでしょう。これがある限りは、哲学は答を求めます。

記憶障害

 玲ちゃんの記憶障害と言っても、私が言った、未唯の由来を知っていた。「知ってる、知ってる」と言っていた。

 同時に、ノブの相手の印象をひらがなの「ふつう」と言ったことも興味を示した居た。「普通」と「ふつう」の差にも興味を示していた。日本語の感覚。本当の玲ちゃんは、話せば、辿りつける気がした。

Iさんとの連絡手段

 これの素材はIさんかもしれない。だけど、一ヵ月に一回ではおぼつかない。2月15日に連絡手段を決めようか。

 2月に入ったら、中野美代子にも、会社メールを送ります。

言葉の限界

 言葉にロジックが要るのか。そういう意味では、哲学に論理が必要であることとと同じです。全てを知るには論理が必要です。点から空間に拡げないといかない。哲学は論理であり、数学は空間です。

 数学は空間ということは、やはり、グローバルなんでしょう。宇宙です。哲学が論理ということはローカルです。哲学と数学がドッキングする時が、LL=GGです。

 トルストイが描こうとした世界にも近いです。彼の歴史観。そして、ヘーゲルの歴史観。言葉を空間化した世界は、ローカルとグローバルをつなげるための連続関数になります。キーワード空間がそうです。キーワードをつなげたものと文章が同値であるいうことは、これは大きなことです。

 言葉にできないものを空間で表すことができる可能性があります。それは多層化します。言葉が多層化します。全体の知っていることが多層化されます。六次のつながりで、宇宙全体と同じような感覚です。全てを知らなくても、全てを知ることになります。

 言葉と言った時に、全てを与えられるわけではない。結局、キーワードになる。「論考」にしても、キーワードの塊だけです。それに対しての補足だけ。あとは読む人のイメージです。

 言語空間の難しさと楽しさはそこに在るのでしょう。全てを埋めることはできない。カバーできると言っても、その人にフィールドによって異なる。それぞれの世界で違う。時として、それが空間に穴を開けることになる。他次元とつながる。そこが発想です。

 言葉の限界。現実の言葉と数学の言葉の違い。それについて、ウィットゲンシュタインは危機を迎えた。だから、彼は作り変えた。だけど、私はその中にロマンを見つけます。和とか関数ではなく、空間として見ます。空間の中に突破口を見つけ出す。

 空間ならば、多層的な発想とか、ディスクリート的な配置とか含めて、大きなマルチ宇宙を表わすことができる。

 ウィットゲンシュタインが頼ったのは、ラッセルの集合論です。トポロジーの空間論はもっと、大きな空間を提供します。次元を超えるし、超空間もイメージできます。現に、無限次元空間もそこには存在します。どこにでも進めます。こんなのは集合論ではムリです。それでもって、ウィットゲンシュタインを超えていく。もっと、宇宙に近づいていく。

笑いかけてくれる

 50m先から笑いかけてくれるくれるのは、Iさんともう一人。

 サービスの高度化も、従来のアイデアボックスレベルから、スタッフ一人ひとりの振る舞いまで、上がってきています。これは全て、Iさんのおかげです。

ポータルの項目説明

 ポータルの項目説明は進化します。当初よりも、実際にモノを作る時に概念を先行させます。その概念を述べます。パートナーが直す時に、参考にできるように準備しておきます。全体を考え、先が見えるようにする。

 大いなる意思が用意してくれたのは、ITツールだけではありません。では、あと、何があるのか。これもサブテーマにしましょう。項目説明は、先に行きましょう。9章・10章は置いていきます。

タブレットに切り替える

 紙でやることとタブレットでやることをシンクロさせます。来週からはタブレットを中心にするために、紙でどうやるのかを決めます。その意味では、真ん中のモノを上下に動かします。

他者の存在を前提としない

 彼のロジックの中に、「やると誰かが褒めてくれる」という、エヴァンゲリオンのシンジみたいな世界があります。他者の存在がない以上は、それは単なる欺瞞になります。

 内なる世界で単に構築すればいいものを外なる世界に出そうとするから、欺瞞が始まる。そして、虚栄心が高まる。

 そして、「日記」のなかで、かれはこういう風に批判している自分は偉いと、皆が思ってくれるに至った。超えられなかった。

 本を書くことは自慢することと一緒です。欺瞞です。それがあることで助かる人もいます。自分だけではないという思い。自分と他者との関係にループが掛かります。

理想の状態なのに疲れた

 何しろ、今日は疲れました。何となく。何をしたら、よく分からないけど、とりあえず、休みましょう。

 だれも、自分のことを気にしない。存在を見ていない。孤独と孤立の私にとっては、本来、理想の状態です。だけど、めげている自分がいます。この状態も孤立と孤独の中で散々、云っています。これが一番、最高の状態です。

 死の実態も見えてきたし、言葉の限界の突破方向も見えてきた。言うことは無いでしょう。<今>がなくなる、死を満喫しないといけないです。こんな状態で。絶対に格好つけてはいけない。それは欺瞞です。

 今はすべてを捨てたい感じ。

死を問う人々 池田晶子から見たヴィトゲンシュタイン

2015年01月21日 | 2.数学
『人生は愉快だ』池田晶子 死を問う人々--語り、騙り、物語る

《いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるとでもいうのだろうか。その永遠の生もまた、現在の生と何ひとつ変わらず謎に満ちたものではないのか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の外にある。(ここで解かれるべきものは自然科学の問題ではない。)》(『論理哲学論考』)

そして、時間と空間の外については、我々の言語では語り得ない。語り得ないことについては沈黙しなければならない。謎は何ひとつ解決されてはいない。むしろ逆に、語り得ないことについての問いは消滅する。ゆえに、謎は何ひとつ存在しないとも言える。世界は、在るがままに在る。

謎は、「世界がいかにあるか」ではなく、「世界が在るというそのことだ」と見えている者は皆、結局この地点に回帰することになる。この人にとっては、死後に魂が存在するか否かが謎なのではない。そうではなくて、死後の魂の存在を問う問い自体が謎なのだ。どのようにすれば、このような問いは、有意味であり得るのか。この人にとって、世界とは、語り得る論理以外のものではあり得ないからである。

ゆえに、この人は、そういった事柄については「語り得ない」と言ったのであって、そういった事柄は「存在しない」と言ったのではない。この両者は決定的に違うことだ。しかし、科学主義者とは言わば、謎は世界が在るというそのことだとは捉えていない人である。ゆえに、この言葉は、そういった事柄の存在を否定しているように聞こえてしまう。「語り得ないことは存在しないのだ」と。しかし、否定するためには、先に肯定されていなければならないはずである。それをこの人は、否定も肯定もできない、なぜならそれは語り得ないことだからだと、繰り返し強調しているのだ。《われわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない》(前掲書)

このような文脈における「形而上学の除去」を、自分の理解できる仕方での「形而上学の除去」として理解する人は、同じ著者が同時にこのように語るのを、どう理解するものだろう。

《哲学的自我は人間ではなく、人間の身体でも、心理学が扱うような人間の心でもない。それは形而上学的主体、すなわち世界の一部分ではなく--限界なのである》(前掲書)

これを理解するためには、世界とはすなわち「私」なのだということが、理解されていなければならない。世界とは「私」である、ゆえに「私」は世界の部分ではない、属さない。「私」は形而上学的主体である。

だからこそ、それが世界の限界なのだ、と言うところが、この人の独自性、一種独自の論理癖である。たいていの哲学者は、「私」は形而上学的主体である、だからこそ--それは無限である、という側を向く。ところがこの人は、視野に限界がないように、世界は見られる限りにおいて在る。まさにそれが限界なのだと言う。なぜなら、世界すなわち存在であるところの「私」は、それについて語り得る論理を所有していないからだ! 《限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある》(前掲書)

独自の形而上学である。論理的形而上学と言うべきだろうか。形而上学とは、語り得ないことについて、何らか「頭の中の」妄想的なことを勝手に述べ立てることだと思っていた耳には、斬新に響くはずである。この世界とはどこか別のところに、形而上世界など存在するわけがない。当たり前である。この世界が、すなわち形而上なのだ、こう在ることが神秘なのだとは、しかし、論理以前の直観ではなかろうか。論理以前に神秘は直観されているのでなければ、それに向け論理が紡ぎ出されるはずもないからである。

人はここを理解しないが、論理的に語られても神秘は解消しないということだ。論理的に語るということと、神秘を感じるということは、完全に別のことである。感じるということは、どこまでも受動的なことだ。だから、たとえ自然科学が宇宙の構造を解明したとしても、人生が存在することの神秘は解消しない。たとえオカルトが霊魂の存在を「証明」したとしても、事態はまったく同様である。何を神秘と感じているかにれがその人の世界を決定づけていると言ってもいい。

たいていの人は、世界が在ることそのこと、自分が居ることそのことが神秘なのだとは感じていない。神秘はどこか別のところにあると思っている。だから科学でありオカルトなのだ。本当の神秘を感じた人は哲学をする。しかしこの哲学的天才の見ていたものを、続く研究者たちは見ていない。亜流は魂を受け継がない。天才の技術や方法を真似ることはできても、その天才を真似ることだけはできない。そうでなければ、この人の最期の言葉、これを真似ることのできる者はいるものだろうか。

《私は長くはないのはわかっているが、〈来世〉について全く考えないのは奇妙ではないか。私の関心のすべては、依然としてこの世の生にある》(『ウィトゲンシュタイン』)

参考文献 『論理哲学論考』(野矢茂樹訳、岩波文庫、二〇〇三年)

『ウィトゲンシュタイン1、2』(『レイ・モンク著、岡田雅勝訳、みすず書房、一九九四年』

死を問う人々 池田晶子から見たハイデガー

2015年01月21日 | 2.数学
『人生は愉快だ』池田晶子 死を問う人々--語り、騙り、物語る

《死後に何か存在するのかということが、意味と正当性とをもって、そもそも方法的に確実に問われることだけでもできるのは、死がその完全な存在論的本質において把握されているとき、そのときにはじめてなのである》(『存在と時間』)

そして、こう続く。

《いったいそのような問いが一つの可能な理論的な問いをなしているかどうかは、ここでは未決定のままにしておこう。死の此岸的な存在論的な学的解釈が、あらゆる存在的・彼岸的な思弁に先立っているのである》

「存在的・彼岸的な思弁」というのは、平たく言えば、それが「生きている」ことだと一般的に思われているところの生物学的、生理学的な生命現象と、それに対して、それが個体から失われて「死ぬ」ことだと一般的に思われているところのものについての想像や表象である。平たく言おうとしても、これだけややこしいことになる。それほどこの「死」についての思索と言及は、正確さを期すほど厳密を要するのである。

一般的な思い込みの壁は、それほど厚いということだ。

「一般的な思い込み」、つまりこの人言うところの「世人」による死と「死後」への勘違い、これを排して、「存在論的な学的解釈」を遂行したのが、この人の仕事である。「存在的」に対する「存在論的」とは、平たく言えば、そんなふうであるように見えているところのものが、「本当のところはどうあるのか」と考えることである。いかに平たく言おうとも、これが「考える」ということの本質であることは動かない。これ以上平たくは言えないのである。

「考える」ということをしない、この人言うところの「現存在の顛落形態」としての世人は、「死」とくると反射的に「死後」と思う。しかし「死後」を問うことができるのは、まず「死」、それが本当のところはどうあるのかを把握してからである。哲学者としては、当然ここで立ち止まる。いやここで立ち止まることで哲学者なのである。そうでなければ、「考える」もしくは「問う」とは、何について問うことなのだろうか。

ゆえに、まず「死」を問え。のちに「死後」を問え。しかし、そう言いつつその後、「死後」を問うている条りは、どうも見当たらない。死後「以前に」、死についての思索に没入し、死後など雲散霧消してしまうの好例である。じっさい、思索の厳密に即するならば、そうなるしかないのは決まっているのだ。

今さらながら、主著の書名は『存在と時間』である。現存在は時間のうちに存在する、平たく言えば、人は死に向かって生きているということだ。逆から言えば、死が時間の始まりだということだ。しかし、自らの死を忘却することでせわしなく生きている現代の世人は、揃って「時間がない」と言う。死までの時間がないと思っているということは、同時に、死までの時間はあると思っているということだ。なべて、自分が死ぬということ、この人言うところの「死の実存論的分析」を経ていない人生は、こういう矛盾に落ち込んでいる。

さらに、その直線的時間軸の表象を、そのまま延長して「死後」と言い出す。「此岸」を知らずに、いきなり「彼岸」なのだ。にもかかわらず、此岸を知るためのこのような厳密な思索を指して、「形而上学」と世人は冷笑する。世人と哲学とは、いつもこのように直行に交差してすれ違うのである。

それはさておき、死は時間の始まりであることで、思索の始まりでもある。この人の思索、膨大な著作の全篇は、死を巡り、死へと紡がれているものだと言っていい。繰り返すが、哲学者だから考えるのではない。すべての人は、自身の死を意識した瞬間に、等しく哲学の可能性に開かれているのだ。「死というこの現象の豊かで錯綜した構造」と言う。「死の豊かさ」とは、これを思索する者の実感である。自身の死、その不可能性。翻って、いま在るとはどういうことか、広げて、存在するとはどういうことか、立ち止まり、世界は存在している、究極の問い、何が存在しているのか--!。

問いを問いつつ、巻き込むことで巻き込まれ、一点、「死」に気づくことから立ち上がる思索は、死を越え生を包み、生死の区別の向こう、「人間」すら越えて広がるのである。広がりつつ、しかしここにいるのである。謎を思索することで、思索自体が謎と化す。今さら「私」とは誰であり得るのか。

この人の著作と思索は、『存在と時間』を代表とする前期のものより、後期の宇宙論的存在論の方が、断然魅力的である。「人間の」実存分析から、「存在そのもの」と化して為される思索への転回である。人間は存在の現象である、あるいは現象に「すぎない」。人間としても現象しているところのこの「存在とは何か」。

この問いは我々を、生死の日常に汲々として暮らす人間を、微細にして広大な領域へと解き放ってくれる。それは困惑するような、しかし家へ帰るような懐かしさと安らぎの感覚が、そこには混在している。

参考文献『存在と時間』(原佑・渡辺二郎訳、『世界の名著74 ハイデガー』中公バックス、一九八〇年所収)

先を見て、サファイア構成にした

2015年01月21日 | 5.その他
パートナーとのお別れ会

 パートナーは今日で一段落です。そして、月曜日はお別れ会です。唯一です。

 三人です。裾野の時は四人でした。中野が仕切ってくれたことしか残っていない。他に送別会はあったのかな。多分、裾野のことだから、そんなことに構ってはいられないでしょう。あれが好きでした。

 名古屋みたいに、皆、何も考えていないから、単に従うだけです。どれだけ、酒を飲んだか、それだけをメジャーにします。何も残らない。それで何を知ったのか、知った上で何ができるのか。あんな所で語れるわけはないし、語ったところで、何のベースを持っていない人にとっては関係ない。

エッセイとしましょう

 だから、すべてをまとめると言っても、あくまでも内なる世界です。

 池田晶子ではないけど、もう少し、長い文章を書くようにしましょう。一つひとつの項目がコンパクトであること。相手が存在しなくてもいい書き方にします。同意を求めるとか、承認を促すようなことはしない。あくまでも、内なる世界の完結性です。

イスラムとLL=GG

 イスラムには、ある意味で、LL=GGを感じます。それは何が言えるのか。国とか国境とかは、個人には存在しない。個人と超国家だけが存在し、全てを決めるのは、個人です。イスラムの戒律の典型かもしれない。イスラムには国はないです。

 キリスト教のように、教会がない。ましては、英国のような国教会と国王はない。同胞団のようなコミュニティがある。

 LL=GGの世界に立ち向かえるのは、LL=GGになろうとする連中です。国ではなく、コミュニティで答を出していく。日本にはそれができない。だから、守るだけです。どういうカタチでやっていくのか。個人が国を超えないと平和にはならない。

ロード以外のスタバ

 名鉄のスタバに居るけど、何か合わない。落ち着かない。ここの店ナンバーは1210です。

間食が止まらない

 腹が張っているから、間食はやめないといけない。それが分かっているけど、落ち着かないので、間食に向かいます。

死の定義

 生死が分けられないと同じように、退職の前と後も分けられない。単に<今>というモノがなくなるだけです。それしかない。

 だから、前と後では生死は同じです。

サブテーマ

 サブテーマを選びます。例えば、「新しい数学」。項目ではあるけど、それを一つの本とします。

先を見て、サファイア構成にした

 よく考えると、サファイア構成で、メーカーが販売店の中に入り込めるという、当初の設計、それが現実になっています。皆はそれとも気づかずに、当たり前の世界にしています。

 20年後の世界から来たから、それが発想で来た。今の段階でも、20年後の世界になっていない。ちょっと、先に進んだだけです。一番は、そういう世界を目指していない、個人の力です。あまりにも先を考えない。

 先を考えるマネージャーが居れば、簡単にできることなのに。先の先から先を見るというカタチで、ここの組織自体を完全に置き去りにします。

 方向を示すのが私のミッションで、それを行うのは私の仕事ではない。かれらはそれを自分のレベルで、自分に都合のいいようにやっている。それも大きな顔をして。ちょっと考えれば分かることなのに。

 それは作ることが目的ではなく、知ることが目的だったから、私はそれでいい。彼らは生活のために、この社会を存続させるために、そして、破壊するために。

項目の説明

 社会編は最初の販売店だけの説明から、大きく飛ばしています。項目の説明は当初のままになっているので、その差異がわかります。これをすべて、上げないといけない。上げると同時に、項目説明でハッキリさせる。

池田晶子から見た哲学者

 ハイデッカー。「存在的」に対する「存在論的」とは、平たく言えば、そんなふうであるように見えているところのものが、「本当のところはどうあるのか」と考えることである。いかに平たく言おうとも、これが「考える」ということの本質であることは動かない。これ以上平たくは言えないのである。これが池田晶子。

 ウィットゲンシュタイン。「私」は形而上学的主体である。世界とは私である。だから、私は私の世界。

OCRした10冊

2015年01月20日 | 6.本
『第2次世界大戦』

 冬戦争 1939年11月~40年3月

 ギリシア電撃戦 1941年4月~5月

 レニングラード包囲戦 1941年9月~44年1月

『戦争と平和』

 中学の時に、ナターシャに惚れていたが、最後に「多産な雌」の表現にはついていけなかった。

 多産な雌

 新しい歴史

『語源に隠れた世界の歴史』

 モカ

 カプチーノ

『将来の学力は10歳までの「読書量」で決まる!』

 本を読まずにはいられない「環境」をつくる

 読書は習慣。習慣づけは親の役目です

 一日の中で「本を読む時間」を決める

 本は惜しまずどんどん買おう

 図書館で本をごそっと借りてくる

 この誘導作戦で、本を読まずにいられなくなる!

『資本主義の招待』

 日本型資本主義の終わり

 日本的経営の起源

 所有と経営の分離

 日本は経営者資本主義のモデル

 勤勉革命から産業革命へ

 アソシエーションの挫折

 民主制から独裁へ

 企業の解体・再編

 G型産業とL型産業

 都市間競争の時代

 資本主義のゆくえ

 成長から幸福度へ

 必要の国と自由の国

 労働と余暇の分離

 労働が目的になる社会

 ヨーロッパ中心主義の限界

 新たな国家の役割

『歴史の歴史』

 歴史の知とアイデンティティについて

 グローバリゼーションとローカリゼーションについて

 1 グローバルとローカルの弁証法か

 2 外側へ、または内側へ国家をこえる

 3 環境問題を手がかりに

 4 グローバルな貨幣、ローカルな貨幣

 5 最後に、情報について

『ロシア』

 ハルバロッサ作戦

 スターリングラード攻防からべルリン陥落へ

 戦後のスターリン政治

 フルシチョフと軍備拡大競争

 フルシチョフと「処女地」

 ブレジネフ時代

 ゴルバチョフ--民族主義とヨーロッパ

 ソヴィエト連邦の崩壊

『人間だけでは生きられない』

 人間はどこから来たのか

 すべての始まりはビッグバンから

 宇宙に「無」はあリ得るか

 大量生産・大量消費・大量廃棄

 心構えて世界が変わるわけ

 東京オリンピックに反対します

『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』

 大きな図書館の中にある小さな図書館

 電子書籍の使い心地(あくまでも個人の感想です)

『海軍反省会7』

 必要だった一〇〇〇機、用意できた三〇〇機

 ヒトラーの本当の日本観とは

 真珠湾攻撃--日本のミス、アメリカのミス

なぜ、報告するのか

2015年01月20日 | 5.その他
ポータル検討会

 ど素人のあつまり

 点が集合のプログラムを作れないのか。SFDCはやはり、ダメです。ポータルから市民コミュニティを作りたかった。やはり、地域ポータルですね。

NAWとの火曜日友の会

 スペイン料理です。割引で1000円です。昼休みは短すぎるけど。

パートナーからメール

 販売店あいさつ回りが明日まで。いよいよ、独り立ちです。

 ハレー彗星はどこから信号を出しているのか。どう応えればいいのか、まるで不明です。

スケジュール表の使い方

 半々で使いましょう。今のやつだけではダメです。家を含めると三分割です。それをスケジュールで行います。

 反映がまるで出来ていません。1月分は。池田晶子が入っていません。スケジュールに入れます。

 当然ながら、読書は捨てています。これはあとからゆっくりするしかないでしょう。下手すると、ほぼ、一年分になります。反映で最低限をフォローしています。

 またしても時間が縦に流れています。

なぜ、報告するのか

 会社の仕事を見ていて思うことは、何も問題意識を持っていない上司に対して、報告するのか。レベルがはるかの下のモノに話しても、何の意味も持ちません。分かるはずがない。

 一応、それでお墨付きをもらったような形で展開するけど、そんなものはダメです。彼らを動かさないと。それだけの能力を持った人間が来ないというのは、組織の問題です。思いがないのです。

 全体を考えていないし、先を見ていない。いかにローカルなところに押し込めて、済ませようとしている。その取り巻き連中をこの間のセミナーでハッキリ見ました。あんな会話では無能さだけを示しています。

池田晶子から見たウィトゲンシュタイン

 これを理解するためには、世界とはすなわち「私」なのだということが、理解されていなければならない。世界とは「私」である、ゆえに「私」は世界の部分ではない、属さない。「私」は形而上学的主体である。

 たいていの人は、世界が在ることそのこと、自分が居ることそのことが神秘なのだとは感じていない。神秘はどこか別のところにあると思っている。だから科学でありオカルトなのだ。本当の神秘を感じた人は哲学をする。しかしこの哲学的天才の見ていたものを、続く研究者たちは見ていない。亜流は魂を受け継がない。天才の技術や方法を真似ることはできても、その天才を真似ることだけはできない。そうでなければ、この人の最期の言葉、これを真似ることのできる者はいるものだろうか。

Iさんとの会話は楽しい

2015年01月19日 | 1.私
未唯の相手

 未唯の内面が好きだというけど、本当に内面が分かっているのか。まあ、内面ではないでしょう。

 相手が誰だろうと、生きていける強さを感じました。だから、相対的なモノはどうでもいいです。

退社後の生活

 退社後、何をするのと言われても、この4年間やってきたことと同じことをするだけではない。全てを知るというのは、そんな簡単なテーマではないから。

所有は幻想

 やはり、所有は幻想なんでしょう。

奥さんの記憶力

 奥さんはよく覚えている? 働きに出ようかと言った時に、俺が言った言葉は一字一句、述べていた。

未唯宇宙の作業遅れ

 「4.5.5 未来の姿」は組み替えられていない。歴史編は途中にロジックを変えたから、底辺まで徹底させないといけない。

 未唯宇宙の作業がほとんど、出来なかった。3日間のイベントが大変だったのと、本を借り過ぎました。

Iさんとの昼過ぎの会話 何のためにお店に行くのか

 「時間は大丈夫ですか」「マナカはこの間、チャージしましたもんね」「ありがとうございます。まさか、まさか」

 「だって、本当に少ないんだから」「今日来たら、また、明日から三日、休みで、次は8時からですから」「出勤は全部、○で出しているんですけど」

 「今日、一杯目ですか。もしかして」「すごく、待ってましたよね。コーヒー、飲みたくて、飲みたくて」「コーヒーを家で淹れたりはしないんですか」「VIAでしのいでいてくれる感じ」

 (昨日は、未唯の相手と)「ああ、そうですか」「幸せな家庭の根底には仕事が…」「心配ですもんね」「しっかりしていても、心配は心配ですよね」

 (免許更新の話)「よかったですね」

 (記憶障害の話)「そうなんですか」

 「今日は6時まで何ですよ」「本当ですか。6時まで首を長くして、待っていますので、来てくださいね」

 「来た甲斐がありました」「今日は会えないしなーと思って」「何のために、お店に行くのかと内心、思ったりしていたので」「大きな声では言えないですけどね」

 「金曜日はそうしていただいたら」「8時から1時まで居るので」「また、待っています」

夕方のIさん お持ち帰り?

 (入口のスタッフ)「お持ち帰りですか」「Iさんですか。それはちょっと、飲み物でないと」

 「お帰りなさい。お疲れ様でした」「もう、終わったんですよね」「聞きましたよ。私は6時を過ぎないと、テイクアウトの時間にならないんですよ」「6時まではフォーヒアの時間です」

 「もう、眠たいんですよ。めちゃくちゃ」「すごいしんどくて、眠たいから」「いつもなら、そういう準備に入っている頃なんで、体が温かくなってきているですよ」「最後はバーと言われたので、このレジが終わったら、バーなんです」

 「ありがとうございます。今日も諦めていたので」「三日間、空きますけど、その間どうするんですか」「来てくれますか」

 「明日からは名鉄なんですか」「その時の気分次第なんですね」「結構、皆さん、別れるみたいで。モール派と名鉄派で」

 「ここはずーと、満席です」「居心地がいいんだと思います」「そうなんですよ、学生さんではないんですよ」「ロードもこの時間だとワーとなっている」

 「6時になると、テイクアウトの時間なんだけど、まだ、フォーヒアなんです」「4時半ぐらいから怪しくなってきて」「9時に寝るというサイクルで生きているので、しんどいですね」

 「お会いできてよかったです」「金曜日にお会いできれば」「金曜日は2回、お会いできますので」

素因数分解

 前に車のナンバーは「58-506」だった。何となく、大きな素数を感じたので、素因数分解をした。58=2×29、506=2×23×11だった、予感は当たっていた。

 豊田市から名鉄電車で、名古屋の大学に通っていた。その時は、列車番号を毎回、素因数分解していた。大きな素数同士の掛け算の時はいいことがあると信じていた。今日はいいことあるのかな。

ヒトラーの本当の日本観とは

2015年01月19日 | 4.歴史
『海軍反省会7』より

ヒトラーの本当の日本観とは

これも佐薙(毅・兵50)さんのあれ(報告)に書いておられますが、ヒトラーが非常に対日不信感を持っておったということはここに述べられておるようでありますが、これは私どもがちょっと現地で聞いておりました限りにおいては、ヒトラーは非常に日本のことをよく勉強して日本に対しては非常な尊敬を持っておりましてね。それで大使あたりはちょいちょいヒトラーと直接話をしておりますが、その都度私どもの耳に入っておったヒトラーという者は、決して日本をこういうふうにばかにして、あんなものは相手にならんというような考え方は持っていなかったというふうにしか聞いておりません。

そこまで大島(浩・士18)大使は、嘘はおっしゃらないと思いますが、いつも我々が聞いておったのは、ヒトラーは非常に日本のことをよく勉強しておる。それから、日本を尊敬しておると。そして、独ソ戦を始めてから後も、決して日本に無理強いをして、東のほうからソ連をつつけということは一回もヒトラーの口から、大島(浩・士18)大使はそういう気配を聞いたことがないと。そういう要請をされたことがないと。やっぱりあれだけ苦労しておってもヒトラーは偉いわいという考え方を、これは度々大使の口から我々は聞いておりました。

ヒトラーがまたそのほかにしょっちゅう言っておったことは、日本という国は実に立派なうらやましい国体の国だと。結局私がこのヒトラーの時代に、ヨーロッパを完全に席巻してみても、それは一時期の英雄としてとどまるだけであって、決してそれが長続きするという何の保証もない。その点、日本は上に万世一系の陛下を戴いておるので、これはもう世界にもその類がないし、この点だけはいくら逆立ちをしても真似のできないことだということをよく言ったというふうなことでありました。もちろんそれは下のほうは色々作戦の状況その他によって、日本側につらく当たったり、あるいはドイツが苦戦しておっても日本は東からちっとも助けようとしないじゃないかと。何のための同盟なんだというようなことを言った者も、それはあると思います。

現に私どもも空軍と連絡しておりまして、独ソ戦を開始して初めての冬将軍に悩まされたあの時期ぐらいから、私らは空軍に行っても風当たりが今までと違ったことを感じたことはよくありました。そういうことはあったと思いますが、ヒトラー自身はこういうふうなことを口にしたりあれしたりするというのはないんじゃないかと、私どもは現地におって思いますが、これは藤村(義朗・兵55)君がここに来ておられますが、何か私の記憶その他で間違っているようなことがあったら訂正をして頂きたいと思います。それだけであります。

寺崎 ありがとうございました。佐薙(毅・兵50)君は何か意見が。

佐薙 最後のヒトラーの対日不信の問題で、これは出処はどこかというと、ヒトラーが戦陣中で戦争の塹壕か何かの中で、幕僚に話した言葉なんです。その言葉は”Worlds of what Japaneseasy”、日本の言うことは、早く言えば片言半句も信用できないという言葉なんです。これは考えてみると、結局潜水艦作戦あるいはインド洋作戦とか、ドイツ側にある程度予告をしているわけです。今度日本軍は、ことにS作戦ですか。十七年のガダルカナルの直前にインド洋で大作戦をやるとか、そのほか潜水艦作幟で中心近くまで出すとか、色々言っていたことがみんなとりやめになってしまったと。こういったことで、日本は口先だけは言うけれども実行しないじゃないかということで、日本の言うことは信用できないということで、作戦が始まってそういう段階のヒトラーの述懐だと私は見ております。

豊田 それは逆に私のほうの聞いたのは、ヒトラーにもそういう日本が何もやらないんじゃないですかと、もう少しつついたらどうでしょう、というような意見に対してだろうと思いますが、大島(浩・士18)さんの口からヒトラーの言として聞いたのは、そういうことは日本に圧力的にかける必要は一つもないと。日本という国は、それは情勢が色々違うからこちらの要望でできるだけのことはやるんだというふうに、逆にヒトラーは言って、下のほうから突き上げてくるやつをなだめておったという点もヒトラーというのは偉いよと。一つも泣き言を言わないということをよく聞かされておりました。そういう状況です。

寺崎 藤村(義朗・兵55)さん、何か関連していることで何かあったら。

藤村 大島(浩・士18)大使とヒトラーとのつながりは、我々の想像を絶するようなもので非常に深いものがあったと思います。大使はヒトラーのところへ行って帰ってこられて、(私が)ドイツの作戦が今こんなに弱っているじゃありませんかと大使に申しましても、いや、ヒトラーはこう言ってい。るから間違いないんだ、と言うんですね。大島(浩・士18)大使はもうヒトラーと本当に、今頃の口ン、ヤス(ロナルド・レーガン米大統領と中曽根康弘首相)のような状況だったと思いますよ、ヒトラーと大島(浩・±18)さんはね。だから、大島(浩・士18)大使が色々言われたことをそのまま受け取っていいかどうかということは、私どもはその当時からベルリンにおってやはり一つの疑問を抱いておりました。そういう状況で、大島(浩・士18)さんからヒトラーを通じて色々聞いたということは、やっぱり最後のときに日本は信用できなかったと、そういうこともあったでありましょうし、また非常に親しかったと、両面があったと思います。だから、片方だけ見てどうということはできないのであります。

それからもう一つ、私どもがドイツにおりまして、本当に今度の大戦争で我々がしっかりと将来のことを考えなきゃならんと思ったことがありますが、日本が南方にずっと出て行ってうんと勢力を張った頃、ドイツがロンメル軍でアフリカにまで席巻した頃、つまり日独ともに一番力が出た頃です。

昭和十六年の暮れ頃でございますが、その頃ドイツ陸軍の大将ぐらいの人なんですが、海軍武官のパーティーに来られまして、横井(忠雄・兵43)さんのときでございましたが、そのパーティーにおられまして、そして言いました。今ドイツはうんと勢力を張っているし、日本も大変に南方まで伸びておるが、この次は日本とやるんだよ、と、こういうことを言いましたですよ。ドイツ陸軍の大将級の人でございますが、私どもが同盟国であって一生懸命にやっていると思っておりましたが、ドイツ側にはそういう考えがあったんであると。アングロサクソンにはそういう思想があるということを私どもは考えました。

そういうものがあって、戦争の大指導、根本的な指導にやはりうんと考えていかにゃならんものがあるということを彼らに学びました。終わります。

寺崎 なお、この機会にドイツ関係の豊田(隈雄・兵51)さんとか、これは藤村(義朗・兵55)君がおるので、今のことに関連して何か疑念があったら質問その他、意見があったら言って下さい。

豊田 今、藤村(義朗・兵55)さんの言われた点で、私も大島(浩・±18)さんを、ほかの面については、今、藤村(義朗・兵55)君の言われたように、大島(浩・±18)さんというのはドイツ側ぴったりですから、それは決して信用しない。ほとんど信用しないというのが海軍側の現地の空気でございましたが、ヒトラーと会ってきて日本とのそういう関係についてまでヒトラーに言いもしない。あるいは、反対のことを述べるとも思われないので、その点を佐薙(毅・兵50)さんの記述に関連して私は申し上げた形なんです。それはもう大島(浩・±18)さんはドイツぴったりで、もう海軍とは色々な判断でいつもそれが大きな問題になって、大使の打った報告はそれを訂正する意味で必ず海軍からまた、同じ事件について別の電報を出していたぐらいですから、その点は一つ申し上げておきます。

電子書籍の使い心地

2015年01月19日 | 6.本
『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』より

以前、ある原稿で「本は重いから本なのだ」などと偉そうにいってしまった。ところが、その後ぎっくりと腰をやってしまい、今やなるべく鞄を軽くして歩く日々。足下も必ずスニーカーで、本棚を触るときは、コルセットが欠かせない。つまり、なるべく腰に負担をかげないよう気をつげてなければいけない。一言でいうと、「とほほ」である。

そんな状況下、少しでも手荷物を軽くしようと思ったら、やはり電子書籍の話になるのだろう。僕の場合、数年前から紙の本と電子書籍を車の両輪のように使い分げなから読んでいるのだが、マンガの一気読みなどでは存外に便利なのだ、電子書籍か。日々少なくなる家の居住空間を本に占拠される恐れもない。

電子書籍リーダーにはブラウザビリティの限界かある。つまり、片ページずつしか読めないので、六インチ端末の場合、マンガの見開き表現がもの足りないのは仕方かない。読むマンガの種類に気をつけるのが賢明だ。見開きを使った大コマに特徴がある作品は避け、コマのリズムか安定している四コマなどをよく読んでいる。また、セリフが多く、絵の描き込み密度か高いマンガもそのサイズではちと厳しい。ただ、画面の大きい端末を選ぶと結局重くなってしまい、最大の特徴であるモビリティがなくなってしまう。なかなか難しいバランスだ。僕がもうひとつ気になるのか、最適化の問題だ。インターネットマンガが紙の書籍になる時には、それ用にコマ割などをつくり変える。対して、紙のマンガを電子書籍化する際は各端末に対する最適化はほとんど行われない。マンガ作品はどんどん長大なものか増加しているのに比例して、それを保管する場所に困る人も同じように増えている。電子端末でもより読み易くなると、そちらでマンガを愉しむ人は格段に増えると思うのだが、何年か後はどうなっているのだろう。ともあれ、電子書籍は僕の腰痛と本の保管問題を思いのほか助けてくれているのは確かだろう。

併読を常とする僕の読書は、とにかく無理なく読むことを信条としている今夜の晩ご飯について、肉を喰らうか、冷奴と野菜で済ませるのかと悩むように、体がいま一番読みたいものを読む。だから、目の前にはマンガに限らず常に何冊かの選択肢かあって欲しい。そんな僕が、一週間ほどの旅行に出ようものなら、以前はスーツケースが重い本で埋まってしまっていた。だか、電子書籍リーダーなら二百グラム弱ほどのプラスチックを持ち運べばこと足りてしまう。軽い電子書籍リーダーのモビリティは、確かに画期的だと思える。しかも最近は、辞書や書き込み、検索や単語学習など、電子ツールの特徴を活かした機能がどんどん付け加えられている。

他方、電子書籍リーダーで読み終えた本の中でも、再読したいものは必ずといっていいほど紙の本で買いなおし、本棚に並べてしまう自分がいる。単純に考えれば、出版社のいいカモである。パソコン内にデータとして保存した本は、昔デジカメで撮った写真のように、なかなか再生する縁がない。日常の生活導線上に実存感のある「もの」として本があると、なにはともあれ安心する。そして、事務所や家の本棚にひょいとその本を入れておけば、安堵して忘れることかできるというものだ。「ただそこに在る安穏」という意味では、近い将来に紙の本棚か「神棚」化してしまうのかもしれない。

電子書籍リーダーを使うようになって幾許か経つか、その新型ツールを使えば使うほど、紙の本を読むことがフィジカルな行為だと気づくようになった。例えば、「読み戻り」が特徴的だ。かつて僕は、紙の本をただめくりなから目と脳で読んでいたつもりだった。だか、「あれ、この人は誰だったかしらん?」と読み戻る時に、指先の感覚と記憶の交差点をまさぐり、近いページを開くことか不思議とできるのは、すべて体で読んでいたことに由来する。最新機種の電子書籍リーダーでは、圧力センサーと振動を使って紙に近い「ページめくり」感を追求しているが、やはり慣れ親しんだ紙のそれとはまったく違う感触だ。そもそも紙の本を真似るということには、電子書籍の未来はなく、別の道具として独自に進化するべきだと思っているのは僕だけではないはずだ。

以前、脳卒中のリハビリ病院にライブラリーを制作した時、紙の本を一ページずつ丁寧にめくることが、リハビリになることを知った。そう、紙の本を読むという行為は、ささやかなから、ちゃんとした運動にもなっていたのだ。一方で、その事実を別の方向から考えてみると、体が万全でない状態では、紙の本を読むことが難しいともいうことができる。本に向かう好奇心や持久力は、体のコンディションに大きく左右されるのだ。

そんな時、体への負荷か少なく文字サイズの調整もできる電子書籍リーダーには、紙の本とは別の担うべき大きな役割かあると思えてくる。病気や老眼など身体的理由で読書への興味を失いつつある人をつなぎ止める、お年寄り向け読書ツールとしての進化である。電子書籍は来るべき高齢化社会の読書を支えるといったら大袈裟な妄想だろうか。

そんな電子書籍リーダーが抱える問題点も幾つか挙げておかねばなるまい。紙と比べ、「読み戻る」操作かまだおぼつかない電子書籍は、直線的な物語の再生にこそ本領を発揮する。けれど、断片が複雑に組み合わさり、いくつかの時間軸が並行したり、行き来するような物語は、実のところ少し読みにくい。だから、電子リーダーで読まれることか物語の主流になれば、シンプルでRPG的な物語ばかりか増え、大きくて複雑な物語か描かれなくなってしまう危惧もある。幾つかの断片を縦横無尽に行き来しながら読ませるような長大な物語は、ひょっとしたら書かれなくなる可能性もある。

またテキストの容れ物の変化に応じて文体か変わってしまうことも予想かできる。巻物の時代に造本の技術が輸入され、ページという概念が生まれた時に文体も大きく変換したといわれている。そのときと同じように、Eペーパーで読まれることが潮流となれば、そのメディア特性に合わせた言葉の使い方に移り変わってゆくのだろう。

紙とEペーパーでは、情報の容量がかなり違う。乱暴にいえば、紙の方が深くて奥行きのある器といえる。ひとつの文字が持つ情報の総量は、表音文字よりも表意文字の方が多いのは皆さんご存知の通りだろう。紙では簡単に再生できていた漢字という表意文字か、モニター上だとチラチラして読みにくいといった経験には誰もか頷く。Eメールを誰かに送る際の「様」か、どんどん表音文字の「さま」に変わってきているのにも理由があるのだ。現在、携帯端末でのコミュニケーションか表音文字と絵文字やスタンプといった図像中心で交わされているのと同じように、Eペーパーや液晶で読まれる文章も表音文字の平仮名か中心となり、漢字はほとんど使われなくなってしまうかもしれない。

と、ここまで電子リーダーについて所感を書いてきたか、正直なところ、僕は紙でも電子書籍でもどちらでも構わないと思っている。重要なのは、何に載っているテキストを読むかではない。読んだ情報を活かし、日々の生活のどこかの側面を一ミリでも上に向かせること。人間か主体となってじっくりテキストに向き合うことか大切で、紙の本だろうかEペーパーだろうが、どちらも人が有用に使うため生まれた道具に過ぎない。

電子書籍は、平穏だった(?)本のマーケッ卜を壊す黒船として紹介され続けてきたが、本当に大切にすべきは人が本を読む機会か増えることだ。今までの既得権をもっている者は利益確保に必死だが、もっと読者の方を向いた電子図書政策か進んでいくことを切に願っている。主役はガジエットではなく、あくまで読み手であって欲しいのだ。