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未唯への手紙

未唯への手紙

姪の玲ちゃん

2015年01月17日 | 7.生活
未唯の相手

 結局、明日10時に家に来ることにありました。奥さんと未唯は掃除できるのかな?

 2年に一度くらいしか、お客様が居ない。珍しく、未唯が掃除をしていました。それをリクが不思議そうな顔して、邪魔していた。

 未唯は親不知を抜いて、アンパンマンになっているのに、やはり、来るんだ。

姪の玲ちゃん

 スタバが満員で、3階の喫茶店でお茶にした。ケーキが高いお店です。スタバなら、ザッハトルテを含めて、お金を出すつもりだった。。

 玲ちゃんは見た目は元気そう。妹と双子の片一方が介添えです。

 アテネでの昏睡5日目のメールが11月18日に入った。それから2か月経ちました。妹は、ギリシャから取り戻すと言って、12月はじめに行って、年末に帰ってきた。

 本人は本当に何も覚えていない。旦那のソホクリスを見て、最初に言った言葉は、「私たち、結婚したの?」7年前のオーストラリアのアデレードに戻っていた。

 ギリシャでも4回、家を替わっている。その間取りがぐちゃぐちゃになっている。気付いたら、ここに居た、という感じ。

 今後の予定は、2月末にギリシャに帰る。向こうで起こったことも何も覚えていないし、ソホクリスがうるさいし。一人では心配なので、妹が一緒に行く。2、3週間リハビリして、それから先のことを考える。

 未唯の話、未唯の相手の話、携帯の話などに話が跳んで、肝心の玲子の話はあまりできなかった。まあ、それでよかったかもしれない。

 最後に、元気そうでよかった。

トルストイの「新しい歴史」

2015年01月16日 | 4.歴史
『戦争と平和』トルストイ より

歴史の対象は諸国民と人類の生活である。人類ばかりでなく、一国民の生活でさえ直接とらえ、ことばで包み尽くすこと、つまり、叙述することは不可能に思える。

昔の歴史家たちはみな、とらえることができないと思えるもの、つまり、国民の生活をとらえ、叙述するために、同じ方法を用いた。彼らは国民を統治する少数の個人の行動を叙述した。そして、その行動は彼らから見れば、全国民の行動を表現していたのだ。

どのようにして個々の人間が国民を自分の意志にしたがって行動させたのか、また、その人間たちの意志それ自体は何によって動かされていたのか、という問いに対する昔の人たちの答えは--第一の問いに対しては、国民をただ一人の選ばれた人間の意志にしたがわせる、神の意志を認めることであり、第二の問いに対しては、選ばれた者のその意志を、予定された目的へ向かわせる、同じ神を認めることだった。

昔の人にとっては、こうした問題は、神が人類の事柄に直接関与すると信じることによって解決されていた。

新しい歴史はその理論において、この主張を二つとも否定している。

人間は神に従い、諸国民がそれに向かってみちびかれる、一定の目的があるという、昔の人の信仰を否定した以上、新しい歴史は権力のあらわれではなくて、それを形づくる原因を研究していたにちがいない、と思えるかもしれない。ところが、新しい歴史はそれをしなかった。理論では昔の人たちを否定しながら、新しい歴史は実際には昔の人たちにならっているのだ。

神の権力を賦与され、直接神の意志にみちびかれている人たちに代わって、新しい歴史は非凡な、人間離れした能力にめぐまれた天才や、あるいは、単に、大衆を指導する王からジャーナリストにいたるまで、ありとあらゆる性質の人たちを持ち出した。以前の神の心にかなう諸国民--ユダヤ人、ギリシャ人、ローマ人たちの目的、つまり、昔の人には人類の運動の目的と思われたものに代わって、新しい歴史は自分独自の目的を持ち出した。それは、フランス、ドイツ、イギリスなどの幸福、さらには、最高に抽象化された、全人類の--といっても普通、大きな陸塊の小さな西北の隅を占めているいくつかの国民のことなのだが--文明世界の幸福という目的である。

新しい歴史は代わりとなる新しい考え方を提出せずに、昔の人たちの信仰をしりぞけてしまった。そして、皇帝たちの神権や昔の人たちの宿命を、見かけだけ否定した歴史家たちは、その主張の論理からしていや応なしに、別の道を通ってまったく同じ帰結にたどり着いた。つまり、ド諸国民は少数の個人によってみちびかれる、諸国民と人類が向かっていく一定の目的がある、ということを認めたのだ。

ギボンからバックルにいたるまで、最新の歴史家たちのすべての著作のなかには、その見かけの食い違いや、その見解の見かけの新しさにもかかわらず、その基礎にはこの二つの古い不可欠の命題がひそんでいる。

第一に、歴史家は人類をみちびいていると自分が考える個人の活動を叙述する(ある者はこういう人物として王、司令官、大臣などだけを認め、ある者は王や雄弁家のほかに、宗教改革をした学僧、哲学者、詩人なども認める)。第二に、人類がみちびかれていく目的が歴史家にはわかっている(ある者にとっては、その目的はローマ、スペイン、フランス国家の偉大さであり、別の者にとっては、それは自由、平等、つまり、ヨーロッパと呼ばれる世界の小さな片隅の文明の一変種である)。

一七八九年にパリに騒動が起こる。それは大きくなり、広がり、諸国民の西から束への運動という形となってあらわれる。何度かこの運動は東に向かい、東から西への逆の運動と衝突する。一八一二年にそれは究極的な限界--モスクワに達する。そして、はっきりした対照をなして、東から西への逆の運動が、はじめの運動とまったく同じように、中間の諸国民を引きずりながら行われる。逆の運動は西の運動の出発点-パリに到達し、そして、おさまる。

この二十年間の時期に膨大な畑が耕されず、家は焼かれ、商業は取引の方向を変え、無数の人間が貧しくなり、金を儲け、移住し、隣人への愛の掟を信奉する無数のキリスト教徒たちがたがいに殺し合う。

いったい、これらすべては何を意味するのか? なぜこんなことが起こったのか? 何かこれらの人々に家を焼かせ、自分と同じ人間を殺させたのか? これらの出来事の原因は何か? どういう力が人々にこのような行動をとらせたのか? これが、過ぎ去った運動の時代の文献や言い伝えに出くわしたとき、人類が自らに提出する自然な、素朴な、まったく当然の問いなのだ。

こうした問題を解決するために、人間の常識は、民族や人類の自己認識を目的とする歴史学に頼ろうとする。

ナターシャが「多産の雌」に

2015年01月16日 | 6.本
『戦争と平和』トルストイ より

中学の時に、ナターシャに惚れていたが、最後に「多産な雌」の表現にはついていけなかった。

ナターシャは一八一三年の早春に結婚して、一八二〇年にはもう三人の娘と一人の男の子がいた。男の子を彼女はとても欲しがっていたし、今では自分で乳をやっていた。彼女は太り、横幅が広くなってしまったので、このたくましい母親が、昔は細い、敏捷なナターシャだった、と見て取るのは難しいほどだった。彼女の目鼻立ちははっきりして、落ち着いた柔らかい、すっきりした表情になっていた。その顔には、以前のように、あのたえまなく燃える、彼女の魅力だった生気の炎がなかった。今ではたいていその顔と体が見えるだけで、魂はまったく見えなかった。見えるのはただ、たくましく、美しい、多産な雌だけだった。今では彼女のなかで昔の火が燃え上がることはごく稀だった。それはただ、今のように、夫が帰って来たときや、子どもの病気が癒ったときや、彼女がマリアと、アンドレイのことを思い起こすときや(ナターシャはその思い出に夫が嫉妬するだろうと思って、一度もアンドレイのことを、夫とは話さなかった)、それに、ごく稀に、何かの機会に偶然、結婚後すっかりやめてしまった歌をうたうようなことになったときに、その火が燃え上がるだけだった。そして、彼女の成熟した美しい肉体のなかで昔の火が燃え上がる珍しい瞬間には、彼女は以前よりもっと魅力的になるのだった。

結婚以来、ナターシャは夫といっしょにモスクワ、ペテルブルグ、モスクワ郊外の村、それに母のそば、つまり二コライの家で暮らしていた。社交界で若いベズーホフ伯爵夫人に会うことは少なく、会った者たちも彼女には不満だった。彼女は愛想がよくもなく、親切でもなかった。ナターシャは佗び住まいが好きだったというのではないが(彼女は自分か佗び住まいを好んでいるのかどうか、わからなかった。彼女は好きではないような気さえしていた)、彼女は子どもを身ごもり、産み、乳をやり、夫の生活の一分一分にいちいちかかわっていると、その要求を満たすためには、社交を諦めるほかはなかった。結婚前のナターシャを知っていた者はみんな、彼女のなかに生じた変化を、何か異常なもののように驚いた。ただ老伯爵夫人だけは、ナターシャの衝動が、オトラードノで冗談というよりむしろ本気で叫んだように、もともとは家庭を持ちたい、夫を持ちたいという欲求にすぎないことを母親の直感で理解していた。母親はナターシャを理解していない人たちが驚くのに驚いていた。そして、自分はナターシャが模範的な妻と母になることを、前からずっと知っていた、とくり返し言っていた。

「あの子はただ、ご主人や子どもを極端なまでに愛していて」伯爵夫人は言うのだった。「ばかばかしいほどだわ」

ナターシャは頭のいい人たち、とくにフランス人たちが説いている、娘は結婚してもたるんではいけない、おしゃれをやめてはいけない、娘のときより以上に、外見に気を遣わなければいけない、昔夫でないときに魅力を感じさせたのと同じように、夫に魅力を感じさせなければいけないという掟に従わなかった。ナターシャは、逆に、すぐに自分の魅力をすべて投げ捨ててしまった。そのなかでとりわけ強い魅力は歌だった。彼女がそれを捨てたのは、それが強い魅力だったからこそだった。彼女は、他人の言い方によると、たるんでしまったのだ。ナターシャは自分の立ち居振舞いにも、ことばのデリカシーにも、いちばんよく見えるポーズで自分を夫に見せることにも、自分のおしゃれにも、自分の押しつけがましさで夫に窮屈な思いをさせてはいけないということにも、気を配らなかった。彼女はこうした掟に背くことをすべてやっていた。彼女は、昔本能が自分に使うことを教えていた魅力は、今では夫の目には滑稽なだけだろうと感じていた。彼女は最初の瞬間から夫にすっかり、つまり、全身全霊をあげて打ち込み、どんな片隅でさえ夫に見せずに残しているところはなかったのだ。彼女は、自分と夫の結び付きは、彼を自分に引きつけたあのロマンティックな感情によって支えられているのではなく、何かほかの、はっきりはしないが、自分自身の魂と肉体の結び付きのように強固なもので支えられているのだと感じていた。

冬戦争 1939年11月~40年3月

2015年01月16日 | 4.歴史
『第2次世界大戦』より

この後に、レニングラード攻防戦があり、ドイツ滅亡前に起きた「奇妙な戦争」に興味がある。ラップランドを舞台に、ロシア・ドイツ・フィンランドでやる気のない戦争が続いた。その間にロヴァニエミが壊滅した。

1939年10月、バルト3国をいとも簡単に手に入れたスターリンは、これに気をよくし、さらなる領土拡大を目指して動き出す。10月12日、スターリンは東カレリアをフィンランドにわたす代わりに、カレリア地峡をソ連に差しだすことを求める条約をフィンランドに提示した。同地峡は、レニングラードの北から、フィンランド本土へと続く、交通上重要な意味をもつ土地であった。ポーランド東部とバルト諸国を強引に奪ったソ連の動きを見ていたフィンランドは、当然ながらこの提案に頭を抱えた。条約締結を受け入れれば、その後は、フィンランドのソヴィエト化を招くのではないかという不安がフィンランド政府を悩ませたのだ。11月3日、条約交渉は決裂してソ連軍がフィンランドに侵攻、ここに「冬戦争」が勃発した。ソ連軍は、その緒戦でフィンランドの激しい抵抗に苦しむことになる。

ソ連は、フィンランド軍の戦闘能力を見くびり、簡単に撃破できると考えていた。まず国境沿いに60万を超える戦力が4軍に分かれて展開した。このうち最北の第14軍はペッサモに侵攻し、その後は南に転じて、フィンランド中部を横切りながらボスニア湾を目指す第9軍を支援、両軍が力を合わせてフィンランドを南北に分断するという作戦が立てられた。同時に、はるか南では第8軍がラドガ湖周辺のフィンランド軍をたたき、さらに南方のカレリア地峡をわたってヴィボルグを攻める予定の主力軍、すなわち第7と第13軍から、フィンランド軍の注意をそらすことになった。フィンランドの総兵力がわずか15万人ほどであったことから、作戦は短期間で終了すると予想され、ソ連軍は装甲車や火砲の支援をほとんど用意していなかった。

しかし、この油断のためにソ連軍は大きな損害をこうむる。ソ連の各軍は互いの連携が悪く、しかも作戦を開始した晩秋という季節は、決して戦争遂行に有利なタイミングとは言えなかった。この時期、北国フィンランドはむろん寒いが、といって点在する湖沼や川の水面が凍るほどの気温ではなく、そのために機甲部隊や機械化部隊が通路として使用することはできない。しかも雲が低くたれこめることが多く、空からの支援もままならなかった。数に劣るフィンランド軍だったが、祖国防衛の熱意に燃える将兵の士気は高かった。11月30日の開戦後、数日はソ連の思惑通りに事態が進んでいるように思われたが、地形や気候をよく知るフィンランド軍が拠点固めに入ると、戦いはつらい消耗戦の様相を呈していった。はるか北のペッサモは予定通りソ連の手に落ち、中部の戦線では第9軍がスオムッサルミやクフモを制圧した。しかし南部のラドガ湖周辺を行くソ連軍の歩みは遅く、カレリア地峡からの侵攻を試みた第7軍にいたっては、マンネルヘイム線と呼ばれるフィンランド側の強固な防衛線を突破できず、立ち往生する始末だった。12月末には、入念な準備の末に行われたマンネルヘイム線への攻撃が、フィンランド軍にはね返された。

こうして、当初フィンランドをやすやすと攻略するつもりだったソ連の構想は打ち砕かれる。北部、中部においても、スキーを履いたフィンランド軍が林道をふさぎ、ゲリラ戦術を駆使してソ連軍を各所で分断し、襲いかかった。1939年12月11日から40年1月8日までに、ソ連軍の2個狙撃兵団がスオムッサルミ周辺でこの戦術の餌食になった。しかしフィンランドの抵抗にも、さすがに限界があった。やがてソ連軍は態勢を立て直し、40年2月に、今度は部隊相互の連携も充実させ、装備もより新しく自然環境に適したものに改めて再度の攻勢をしかけた。これに対しフィンランド軍の総兵力は10万人まで減少し、疲労も極限に達していた。フィンランド政府はこうした状況をすでに冷静に予測しており、1月29日にはソ連政府との休戦交渉を始めていた。だが、ソ連側は交渉中も攻撃の手を休めず、最終的にはマンネルヘイム線を越えて、3月初旬ついにヴィボルグに入った。40年3月2日、モスクワで和平合意(モスクワ条約)がなり、冬戦争はその幕を閉じる。

もちろん、このときにソ連が突きつけた条件は、冬戦争前の39年10月に示したものより厳しい内容となった。カレリア地峡のフィンランド側深くに国境線が設定されただけでなく、フィンランド湾内の島もソ連領となった。北部のサッラとその周辺がソ連のものとなったほか、ソ連はフィンランド南西端に位置するハンコ(ハンゲー)に軍を駐留させる権利も得た。ソ連が支払った代償も大きかった。ソ連は60万名近くの死傷者を出しただけでなく、フィンランド国民の間に将来にわたる反ソ感情をも植えつけてしまった。フィンランド側から見れば、モスクワ条約は国土すべての征服をねらうソ連からの最初の圧力であった。フィンランド軍の戦いぶりは見事であったが、戦争の後半では壊滅的な打撃をこうむった。フィンランドの安全保障にとって唯一の頼みの綱は、ソ連の注意をそらし、失われた領土の回復を助けてくれる同盟国を見つけることしかなかった。1940年代のフィンランドは、勢力の伸張著しいドイツにその役割を期待し、積極的に対独接近をはかるようになる。

免許証更新

2015年01月16日 | 7.生活
郡上八幡の町の活性化プロジェクト

 ボディーランゲージと盆踊りの町にする。盆踊りは一種のボディランゲージです。その意味では、町民は素養を持っています。

 町の活性化の予算で、アメリカに派遣されて、ボディーランゲージを身に付けて、それを幼児に付けていけばいい。発想はチェアです。英語も併せて身に付けておけば、盆踊りで外人が来た時にそれらを発揮できる。

 これが、もてなす心、そのものです。単に盆踊りだけでなく、もてなす心を国際的にするというメリットがあります。図書館の内側の活性化だけど、これは外側に対しての活性化になると同時に、国際化になります。

無印がワン・フロアー

 スタバがリニューアル・オープンする日に、名古屋の無印がリニューアルに入ります。6階のワン・フロワーを占めるそうです。4月中旬以降、名古屋に来たら寄りましょう。

予測しないことにした

 絶対に予測すると来ません。この法則はなかなか難しい。何しろ、予測できないのだから。解がないことが解みたいな状態です。

免許証更新

 視力ギリギリで免許証更新! だからどうしたって。

 右目は0.1だから、点にしか見えないけど、勘で答えていた。それでOKになってしまった。いつもの視野検査もなくて、OKになりました。本当に適当ですね。

 周りには、再検査の老人ばかりいた。現時点でも視力がなさそうな人に、5年後までの許可をすることは考えられないでしょう。まあ、優良である限りは大丈夫でしょう。多分。

 警察の免許証発行・更新の場所の雰囲気は変わらないですね。トイレは昭和の香りです。市民が一番、接する場所だから、もっと、快適な場所にしないとダメです。待っている人も交差しています。ほとんどの市民が善良であることを前提に、甘えています。

作って、売って、買う時代

 「トヨタの危機」的な本じゃないけど、作って、売って、買う時代をいつまで続けるのか? 持たないことから生まれる、本当の「自由」を未唯宇宙から示します。

豊田市図書館の30冊

2015年01月16日 | 6.本
332.06『資本主義の正体』マルクスで読み解くグローバル経済の歴史

336.3『世界最高のリーダー育成機関で幹部候補だけに教えている仕事の基本』

141.5『Think 疑え!』

336.3『リーダーのための「レジリエンス」入門』

404『人間だけでは生きられない』『科学者として東京オリンピックに反対します」

726.6『てつがくのライオン』

238『ロシア』地図で読む世界の歴史

204『歴史の歴史』世界の果てを求める人類の旅路

312.27『メッカ事件』イスラーム・聖地・石油

336.17『失敗学のすすめ』

019.9『本なんて読まなくたっていいのだけれど、』

983『戦争と平和(六)』

309.02『社会主義』その成長と帰結

335.04『人と企業はどこで間違えるのか?』成功と失敗の本質を探る「10の物語」

391.6『非情世界』恐るべき情報戦争の裏側

915.6『空旅・船旅・汽車の旅』

913.6『少女のための秘密の聖書』

397.21『海軍反省会7』

568.06『石油の帝国』エクソンモービルとアメリカのスーパーパワー

002.7『図解 ライフハッカー式整理のアイデア122』賢い人はなぜいつも机がきれいなのか?

019.2『将来の学力は10歳までの「読書量」で決まる!』できる子が幼少期「これだけはしていた」こと

801.2『語源に隠れた世界の歴史』世界史の重要知識もわかる!

253『アメリカ史「読む」年表事典 20-21世紀【1955-2010】』

209.74『第2次世界大戦』地図で読む世界の歴史

301『リスクの社会学』ルーマン

361.42『アメリカを動かすスコッチ=アイリッシュ』21人の大統領と「茶会派」を生みだした民族集団

361.2『社会学の歴史Ⅰ』社会という謎の系譜

914.6『永遠の知的生活』余生を豊かに生きるヒント

699.21『NHK』--危機に立つ公共方法

913.6『『もしドラ』はなぜ売れたのか?』

パブリックと共栄圏

2015年01月15日 | 4.歴史
朝のIさん

 「真剣ですか。頭が回っていないんですよ」「昨日、6時までだと、きついですね」「ふだんはごはん食べ終わって、寝る準備を始めている時間」「ペースが崩れると、結構つらい」

 「ベロナはこの季節です」「名札がないみたいです」「もうちょっと、きれいに書けばいいのに、残念な書き方をしている」「ベロナですか。分かりました」

 「今日、11時まででした」「家帰って、よくよく見たら、11時だって」「モールだと短いんです」「ロードから4人も来たから」「売り上げに対して、受け入れてもらっていると」

 「ロードよりも規模が小さいので」「また、抜けて来るんですか」「私も落ち着かない」「じゃ、行ってらっしゃいませ」

ロードは落ち着かない

 狭くて、次の人が後ろに並ぶので、落ち着けない。レジが二つしかないので、話し込んでいると、ロードは一カ所とモールは二カ所で倍違います。のんびりしゃべれない。これは欠点ですね。

 そういうネックがあると、共同意識になります。これはメリットです。

目的から所有を問う

 本の目的と同様に、クルマの目的は何なのか? そして、鉄道などの公共交通機関の目的は何か? その目的に中に、「所有」というものが本当に入っているのか。

 それが「自由」だとするならば、その到達点はどこになるのか。自由というものと民主主義は関連があります。

 「売る」ということは、商売となり、マーケティングそのものを変質させてしまった。新しい世界ではなくて。それが故に、持たないことが、新しい可能性を持ちます。

 最大の力は存在自身が自分を持ってないことです。共通の世界を持っていない。結局、自分のところに戻ってくる。ならば、持つことは重荷になるだけです。

 愛は所有はできるか。多分、出来るでしょう。だけど、その瞬間でしか所有できない。一番は、<今>しか持ってないこと。それによって変わっていくこと。

図書館からの発想

 これらの発想は図書館から始まりました。シェアすること、というよりもパブリック(公共)。

 図書館は設備だけど、設備ではない。空間だけど、場にしてしている。そこに集まる人によって、違ってくる。そして、集まる。それを示したのは、LAPL(ロサンゼルス公共図書館)です。そして、一番の典型がフィンランドのロバニエミ公共図書館です。そこに行ったことが市民との関係、本との関係、所有しないことのありがたさ。

パブリックと共栄圏

 パブリックがイギリスが始まったというのは、一つの因縁でしょう。資本主義がイギリスから始まり、資本論もイギリスの大英図書館から始まった。

 植民地主義も所有することのデメリットを表わしている。満州にしても、インドにしても、パレスチナにしても、所有することでダメージを受けました。

 日本も「共栄圏」という言葉を出した時に、本来のカタチにすれば、アジアでのいい関係ができた可能性があります。東アジア諸国はそれを期待しました。ただし、中国はそこまで行っていなかった。

 日本の大きな誤解が始まりました。一番大きな誤解は日露戦争です。あんなに大国に「勝った」ということで、自分たちの力を見失った。中国にしても、アヘン戦争で負け、中央しかなく、地域がバラバラで信用されていなかった。

 清朝に女真族が移って、空地であった満州に入り込んだこと。所有するために、満州国を起こした。それに対して、同様な意図を持っていたアメリカからの干渉で、リットン調査団から話がおかしくなってきた。

 「共栄圏」を作り、アジアから参画させれば、本来済んだはずなのに、中国の前の朝鮮があまりにも上手くいったから、そのまま、ロシアに向けて発進していた。

ボディランゲージを活かせないか

 NAWはボディランゲージと英会話を組み合わせた教室を立ち上げた方がいい。

 自分の感情をどう表現するかが、国際的には必要です。チェア的な感覚で幼児教育のなかに取り込めばいい。Iさんは全ての感情を言葉にします。それを素直に受け入れる私があってのことですが。

お昼のIさん

 「抜けて来てくださったんですね」「マナカにチャージするために出てきたが、スタバがあったから、ついでに寄って行こうとしたわけですね」「シフトが12時までならよかったんですがね」「ということで」

 「ベロナの名札が出てきたんですよ」「私が見つけました」「今年は大人っぽいバレンタインですよ」「数年前はポップな感じだったんですけど」「チョコレートがおいしいんですよと」

 (エルメスのパーキン)「中古で80万ですか」「8万ならまだしも」「ブランドには基本的には興味がない」「お財布だけはちょっと」「お金は有効に使うと楽しいですよ」

 「レジにも小さく書いてあるんだけど」「ザッハトルテはココアパウダーよりもチョコレートのプレートの方がいいですよね」「もの足りないですね」「ホイップ付きで450円になると、ご褒美的になりますよね」

 「月曜日は8時じゃなかったっけ」「今、確認しておいた方がいいですね」「月曜日だけ見てきます」・・・「13時でした」「金曜日が8時だと思います」「微妙ですね」

 「ドリップは地味な宣伝しているんですよ」「プロモーション中心になるので」「この辺は私たちが口頭で伝えていこうと」「なんです」

 「私は良いのも悪いのも全部出てしまうので」「悪いのは押しとどめないといけないので、結構大変なんですけど」「今日はお腹空いていたんですよね」

哲学の系譜 1/2

2015年01月14日 | 2.数学
『哲学・思想入門』より実存主義

 キルケゴール(一八一三-一八五五) ニーチエ(一八四四-一九〇〇) ハイデガー(一八八九-一九七六)

 近代とは、人間が「理性」の力を頼りに、自然や社会をコントロール可能なものへと改変しようとした時代といえる。科学技術の進歩は自然の脅威に対処する可能性を向上させた。また多くの国家が伝統的支配から脱し、自由な個々人の契約関係による市民社会に転じていった。人がよりよく生きるための一般条件はかくして高まっていった、かのように見えた。

 いやしかし、果たして「ほんとう」にそうなのか。たとえ首尾一貫した世界説明や、理屈のうえでよく整った社会の仕組みが考案されたとして、この私がその意義を実感できなければ何の意味があるのか(事実、近代以降の歴史は、度重なる世界大戦や個人間の経済格差など、現実的諸問題を産み落としてきた)。大切なのは、ただ一度きりの生を生きる「この私」=「実存」に立ったうえで、「ほんとうによく生きる」ことの内実をが㈹していくことではないか丿元が「実存主義」思想に通底するモチーフである。

 「認識する知性(理性)」ではなく、「気分(情状性)」に揺さぶられつつ生きている現場そのものが、「実存主義」の拠り所となる。キルケゴールの場合、形骸化した教会や欺瞞に満ちた大衆社会に抗い、寄る辺ない生を生きる「不安」を直視する中から、キリストヘの信を主体的に選び直そうとした。

 『存在と時間』のハイデガーも、「生の現場」に足場を据えた考察を通して、人間が自身の可能性をめざして生きていることを明らかにした。「真理、客観など存在しない」ことを明言し、世に正しいとされることの多くに抗ったニーチエにしても、その真意は「生の昂揚感」に根ざして生きることの可能性を見出していくことにあった。

 だがこうした「実存主義」にしても実は、伝統・習俗の私枯から解き放たれ「一人一人の考える私」を礎に展開した近代哲学の潮流から生まれているのだ。理性主義とされ、実存思想とは対極に捉えられがちなヘーゲルにしても、その思想の要は、それぞれの「実存」を活かしあえる社会の実現(一般福祉の向上)にあった。「この私にとって」という視点を徹底させた実存主義は、哲学の営みにとって本当に大切なことを、あらためて気付かせてくれる。

プラグマティズム

 パース(一八三九-一九一四) ジェイムズ(一八四二-一九一〇) デューイ(一八五九一一九五二)

 プラグマティズムは、一九世紀の後半に登場したアメリカ独自の哲学だ。創始者はチャールズ・サンダーズ・パースという哲学者だが、とても風変わりな人で、その気むずかしい性格のせいか大学に定職を得ることもできず、生前はほとんど無名のままたった。そのパースの創始したプラグマティズムを一躍世界的な哲学潮流たらしめたのは、ウィリアムージェイムズとジョン・デューイという、二人の哲学者たちだった。

 プラグマティズムの語源である「プラグマ」とは、ギリシャ語で「行為」や「実践」を意味する言葉。プラグマティズムの哲学者たちは、何か絶対的な真理かとか、何か絶対に正しいことかとかいっか、それまでのヨーロッパの哲学が問うてきたいわばあまりに高邁な問いをやめ、私たちが探究すべきは、真理ではなく「役に立つ」知識だと主張したのだ。

 ヨーロッパの哲学者たちは、プラグマティズムなどいかにも実用主義者の国アメリカの哲学だと、当時は半ば侮蔑的な批判を浴びせていた。しかし、ニーチェやフッサールのぺージにもあるように、今日、絶対的な真理などわれわれには決して分からないのだということが、哲学的にはもはや自明のこととなっている。真理ではなく「役に立つ」知識を探究しようというプラグマティズムの主張は、だからきわめて先駆的な考えだったのだ。

 著書『プラグマティズム』において、ジェイムズは次のように言っている。真理とは、「それを信じる方がわれわれにとってよりよいものである」。それゆえ神の観念でさえ、もしもそれが私たちにとって役に立つのなら、真理であると言っていいのだと。それまでのヨーロッパにはなかった、「使える」ことに徹底的にこだわった哲学の登場だった。

 デューイについて特筆すべきは、プラグマティズムに基づく彼の教育哲学だ。「知識」は詰め込まれるべきものではなく、子どもたちが自らの経験を通して、役に立つものとして獲得していくものでなければならない。デューイのこの考えは、現代の日本をはじめ、世界中の教育に今なお大きな影響を与え続けている。

ポスト構造主義

 ドゥルーズ(一九二五-一九九五) フーコー(一九二六-一九八四) デリダ(一九三〇-二〇〇四)

 ドゥルーズ、フーコー、デリダらに代表されるポスト構造主義は、一九六〇年代末のフランスに登場した。当時はマルクス主義と実存主義に代わり、構造主義が脚光を浴びていたが、ポスト構造主義はその問題点を指摘し、構造主義の後を担う新たな思想として注目されたのだ。

 この思想の中心にあるのは徹底した真理の否定であり、マルクス主義、現象学、そして近代哲学のすべてが真理を前提にした思想として、厳しい批判の対象となっている。

 ポスト構造主義による真理の批判には、大きく分けて二つある。

 一つは、真理が存在しないことを論理的に証明しようとする批判。例えばデリダは『声と現象』(一九六七年)のなかで、現象学は、言語表現の根源には直観的な意味(=真理)があるとしたが、そのような根源を想定すること自体が成り立だないと主張している。これは「脱構築」と呼ばれる考え方だ。

 もう一つは、特定の価値観や制度を絶対に正しい(真理だ)と想定する考え方を否定し、徹底して相対化するタイプの批判。これはドゥルーズとガタリの共著『アンチ・オイディプス』(一九七二年)が典型的である。ドゥルーズ=ガタリによれば、近代以前では、人間の欲望は特定の価値観とルールによって、社会に都合のいい形に方向づけられていた。近代以降の資本主義社会においても、家族の親子関係によって、やはり欲望は一定の形に方向づけられている。親の期待や要求、命令を介して、子どもは社会の価値観・ルールを取り込み、それに準じた行為の価値を信じるようになるからだ。

 特定の価値観やルールを真理として絶対化すれば、個人の自由な考え方や行為が抑圧されてしまう。ナチズムによるホロコースト、共産主義社会における粛清や紛争の数々は、このことを端的に示している。だからこそ、真理の想定が危険視されるようになったのである。

 だが、ポスト構造主義は相対主義に行き着き、価値観の対立がもたらす紛争を解決できなかった。また、深刻なニヒリズムを解消することができなかった。そのためこの思想は、二〇世紀の終わりとともに、退潮の兆しを見せはじめている。

哲学の系譜 1/2

2015年01月14日 | 2.数学
『哲学・思想入門』より 

大陸合理論

 スピノザ(一六三二-一六七七) ライプニッツ(一六四六-一七一六)

 「近代哲学の父」と呼ばれるデカルト。デカルトの世界像を「物心二元論」と呼ぶ。

 この「物心二元論」から一つの難問が生まれた。人間は、「精神」であると同時に身体という「物体」でもある。では、「精神と身体(物体)はどのように結びついているのか?」という問題だ。

 デカルトと同様に、理性的・論理的な推論だけで、世界を合理的に捉えようとしたヨーロッパ大陸の哲学者たちがいた。彼らの考え方を総称して「大陸合理論」という。

 デカルト以後の「大陸合理論」の代表的な哲学者にスピノザとライプニッツがいる。スピノザは、デカルト的「二元論」の矛盾を排して、世界を「一元論」で捉えた。スピノザの主著である『エチカ』によれば、世界は唯一の実体から成っており、その実体は神である。その神(実体)は無限に多くの属性を持っており、世界のすべては神が姿を変えたものである。したがって、人間の「精神」と「身体」も別のものではなく、あくまで神の実体のうちの二つの属性にほかならない。これによって、「物心二元論」の疑問を解消したと考えたのである。

 一方、ライプニッツは、世界はこれ以上分割できない無数の「モナド(単子)」から成り立っているという「多元論」の立場を取る。スピノザの唱えるように「一つの実体が無数の多様性をもつ」のではなく、「無数の実体(モナド)が多様な形を取る」としたほうが合理的であると考えたのだ。モナドは神が創造したものだが、物質的なものではなく、あくまで精神的なものであるとされる。どのモナドも互いに異なった性質をもっていて、それらは外的な要因ではなくあくまで内的な原理で変化する。このような内的原理を欲求と呼ぶ。また、ライプニッツは、それぞれのモナドを「宇宙を映し出している、永遠の生きた鏡」であるという。つまり、同じ町でも見る視点が異なればまったくちがった町に感じられるように、モナドの数だけ異なった世界が存在していることになる。「物心二元論」も、一つの世界(人間)を映し出す異なった鏡(精神と身体)であると考えたのだ。

イギリス経験論

 ロック(一六三二-一七〇四) ヒューム(一七一一-一七七六)

 デカルトは、神から授かった理性の力によって人間は世界を正しく認識できるとした。デカルトとその弟子たちは、人間はいくつかの生得観念、とくに神の観念を生まれつき与えられていると考えた(「生得観念の原理」)。

 だが、ちょっと待った! それはほんとうか? ロック、ヒュームらイギリス経験論は、生得観念の原理を疑い批判する。

 ロックの反論は、「心は白紙(タブラ・ラサ)」説だ。人は、心に浮かぶ諸々の観念をいったいどこで手に入れたのか?

 その答えは、〈心は白紙で、観念はすべて経験から〉である(『人間知性論』)。ここでいう「経験」とは、自分自身の力によってさまざまな観念を作り上げていくことだ。要するに、「生得観念」なるものはなく、外部のものに触れた心は感覚と内省によって観念をもたらす。

 「神」の観念は生まれつき備わっていない。「全人類が普遍的に同意するような原理は一つもない」。それどころか「都合のよいものを生得観念として他人にのみこませることは、他人に対する権力をそうした人に少なからず与えるものである」。ロックは、革命と動乱の時代に生きた哲学者。実際、ピューリタン革命から王政復古、名誉革命へとつぎつぎに権力が替わり、自らの思想や立場を絶対視して政敵を倒すのを目撃する。こうした現実をのりこえるために、ロックは寛容の精神を訴えた。理性によって得られた原理を絶対視してはならない。経験が異なれば観念や思想も異なる。

 その後のヒュームはもっと徹底している。「経験」は、「心のなかの諸観念の動きそのもの」である。外部の存在を前提としたロックと違って、ヒュームは外部のものは存在しないという。フ心という狭い限界内に現れた知覚以外には、いかなる種類の存在も思いいだくことはできない」(『人性論』)。ヒュームは、ただ「知覚」だけが唯一の確かな存在という。経験は諸観念を連合して「信念」をもたらす。すべてが「信念」にすぎない。ヒュームの思想の奥には、異なる思想や宗教は、それぞれの信念にすぎないから互いの信念を認め合おうという〈寛容〉のメッセージが込められている。

ドイツ観念論

 フィヒテ(一七六二-一八一四) シェリング(一七七五-一八五四) ヘーゲル(一七七〇-一八三一)

 「観念論」と聞くと、現実の世界に即さない、頭の中だけの考えに固執する立場のことと思うかもしれない。だが、観念論の本義は、「人間の世界認識は、根本的には(知性をつかさどる)観念の中で成立する」という主張にある。だから「観念」を思考の出発点にすれば、人間の本質も世界の本質も、ただしく認識できるはずなのである。

 ドイツ観念論という思想の流れは、カント哲学の影響のもと、一八世紀末から一九世紀前半にかけて形成された。その中心を担ったのが、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルの三人だ。彼らは皆、ある最も根本的な原理を立て、そこから自然世界も人間世界(精神)をも体系的に説明しようとした。

 フィヒテの原理は「絶対自我」。彼は、「主観が世界を構成する」というカントの観念論をさらに徹底しようとした。一切を「自我の働き」というところから考えよう。すると、客観世界はあくまでも、自我の働きのなかで、「自我でないもの(非我)」として認識される。そう考えると、私たちの知の働きとはまったく無関係な世界など想像すらできない。これはのちの現象学の立場にも通じる卓見だといえる。

 シェリングの原理は「絶対的同一性」。フィヒテにとって自然は自我(精神)に対立するものだった。他方シェリングは、精神と自然は本来つながり合っている、と主張する。自然のうちには精神的なものがある。生命がそれだ。生命は自己の成長や維持のために、自ら活動するからだ。逆に、精神のうちにも自然が見出せる。芸術活動がそれだ。天才が作った作品には、当人の自覚を超えた無意識的なものが表現されているからだ。彼の哲学は総じて、世界を調和的なものと捉える、当時のロマン主義の世界観をよく表現している。

 ヘーゲルの原理は「絶対精神」。ヘーゲルが最も重視したのは歴史だった。人間精神は自由であろうとする本性をも?

 それゆえ歴史は、偶然的な出来事の積み重ねではなく、むしろ人類が未熟な状態から抜け出し、誰もが自由に生きられる社会を作り上げていく過程である。歴史において理性が実現する、このヘーゲルの主張において、近代哲学の歩みは頂点に達したのである。

項目のコンパクト性

2015年01月14日 | 2.数学
前任者の仕事の継承

 私は三回、部門を超えて、異動しているが、前任者の仕事はありません。私が去った後に、私の仕事を受け継ぐ人はいません。それこそ、存在です。居るからできる。それをやるだけです。

 パートナーは、前任者の業務を引き継ごうとします。だけど、裏切られます。パートナーのように、全体を考えられる人間が居ないのだから。だから、前任者が居ないと思わなければいいのです。そうすれば、フラストレーションがなくなります。その代りに、全てが創造になります。

 それは、放り込まれた時と同じです。見習うべき人はいません。

 父親は、当然、反面教師だった。ああはなってはいけないという思いで努力しました。

Iさんとの話のネタ

 無印のショルダーをIさんに見せましょう。話のネタが掛けていると思ったら、ショルダーでした。最終日に思い出の恰好で来たいと言っていたことです。

 スタバのシャッターの貼り紙に落書きを書こうか。「待っています」と。

 朝の笑顔はすごいですね。見かけると同時に、笑いかけてきました。二胡の時もあの笑顔でやればいいのに。皆が魅了しますよ。

NAW

 以前、ふと漏らした、至福のひと時とは何なのか。

項目のコンパクト性

 コンパクト性をいかに出せるか。部品表のイメージが出てきて、サファイアの概念にたって、それでやっと、個人と組織との関係、そこでのポイントはコンパクト性です。

 どんな本を書いている人であろうと、どんな些細なことをしている人だろうと、そこにコンパクトがあれば、つながっていける。つながっていくための情報共有と状況把握さえあれば、そこの間にファンクションが発生する。

 ハイアラキーの下にいつ、何をしているか分からない人が排除することができれば、全体が変わる。その構造図が描ける。だから、サファイア革命といえども、一つ一つのところで、内なる世界を作り出して、そこでコンパクト性を発揮して、つながっていく。そして、一人が色々な役割をする。それによって、全体が成り立つ。個人の目的の元に、全体の和が集合和としてある。

 そこで初めて、私は私の世界、あなたはあなたの世界、これがつながっていきます。そこでない限りは、誰かの世界になり、それは存在しない。

パニック症候群

 haightさんは今月一杯はとりあえず、お休みです。私に黙って、いなくならないで、最終出勤日は必ず、教えることと言ったのは、あなたですよ。

 あの笑顔が見れないのは心残りです。

項目の書き方

 なるべくシンプルにして、多元的に表現します。それで全てか。完結性を要求します。例えば、「アナロジー思考」にしても、そこだけで、「アナロジー思考」ができると同時に、拡張できるようにしておきます。

 例えば、「適切な事例を新しい空間に反映する」のではなく、「新しい空間に適切な事例を反映する」。その方が、言葉のかぶさりが少なくなります。言葉一つひとつに神経を。

列車30分のメール

 パートナーは今日から一人で説明するというメールが入ってきた。いつもの列車30分のメールです。「とても不安」と書かれている。

 こういう時の返答として、「大丈夫」と応えました。決して、なぐさめではない。自分の中では決めているから、そんなものはいらないと分かっています。

 帰りの列車30分後のメールで、反省と落ち込みが書かれていた。それに対しても、「勇気づける」言葉を書きました。そんなことは十分、承知していることは分かっています。

 これで、私の存在を確かめられるのは有難いです。

夕方のIさん 回転率が悪いモールにて

 「まさか、まさかのありがとうございます」「もし、来れたらという感じだったから」「もう、終わったんですか」「今日は、ちゃんと終わったんですね」「ビックリ。うれしい」「なんか飲むんですよね」

 (今日、飲んでないもん)「そうなんですか」「てっきり、朝はここにいらっしゃっていると思っていました」

 「バレンタインなのに、ベロナになっていないんです」「めっちゃ、残っているんですよ」[マクドナルドみたいにならないようにね)「本当ですね」(フォーヒアで)「席が空いていました?」「さっきまで、丁度、一杯だったんですよ」

 (パートナーの話)「明日とかに帰っていらっしゃるんですか」「しばらく、会わないんですね」

 「レジが二台しかないんです」「しばらく、居てくれるんですね。うれしいです」

 「明日はちゃんと朝から居るんで」「金曜日は休みなんです」「土曜日が10時から2時なんですよ」

 「来週は月曜日だけなんですよ」「金曜日がまた午後なんですよ」「確か」「あれ、違ったかな」「確認しておきます。分かりました」

 (その後)「金曜日は8時からでした」

 モールは席が少なくて、回転率が悪いんですね。若い男女が作業をしています。美人度は高いけど。