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未唯への手紙

未唯への手紙

ピッツバーグとデトロイトの明暗

2013年06月29日 | 4.歴史
『新時代アメリカ社会を知るための60章』より

アメリカの工業化は19世紀半ば以降、大陸横断鉄道の建設に後押しされながら進展した。鉄鋼産業のペンシルベニア州ピッツバーグと自動車産業のミシガン州デトロイトは、ともにそれぞれの産業が都市の代名詞となるほど有名であり、アメリカを代表する工業都市として発展してきた。20世紀後半に脱産業化が進むと、両市はともに大きな打撃を受けた。とはいえ、1970年代以降の両市の状況は、さまざまな要因によって明暗が分かれてしまった。

ピッツバーグは建国期から石炭、ガラス業、造船業などで繁栄してきた都市であったが、その名が全国に知れわたったのは、鉄鋼産業が台頭し始めた19世紀後半からである。1870年代、「鉄鋼王」アンドリュー・カーネギーがカーネギー鉄鋼会社(後のUSスチール)を創設し、ピッツバーグの鉄鋼産業は19世紀半ばから20世紀初頭にかけて、鉄道建設や軍需景気によって成長した。たとえば、1901年の銑鉄の全米生産量は2400万トンであったが、ピッツバーグはその約4分の1を生産するまでになっていた。また、14年の全米の鋼材生産量は4268万トンであったが、ピッツバーグでの生産量はそのうちの726%を占めていた。こうした経済的繁栄により、ピッツバーグの人口は1890年に23万8617人、1900年に32万1616人、10年に53万3905人と順調に増え、その後50年まで増加し続けた。鉄鋼産業を中心に発展したピッツバーグには、多くの移民が労働者として流入したのである。

デトロイトは19世紀に交通の要所として栄え、水上運搬業や馬車と自転車産業などによって経済的な発展を遂げた。馬車や自転車産業の技術の蓄積をもとに、デトロイトは19世紀末から自動車産業の一大拠点として急成長する。1903年に、ヘンリー・フォードが自動車の大量生産が可能な工場を建設し、その後「T型フォード」と呼ばれる大衆車を開発したことで、デトロイトは全米一の自動車産業都市となった。フォードに続いて、ゼネラル・モーターズ(以下「GM」)とクライスラーもデトロイトに工場を作り、これら三社は自動車業界の「ビッグ・スリー」と呼ばれて、デトロイトは世界の自動車産業の中心都市としてその名を馳せた。

ところが、工業都市として繁栄を享受してきたふたつの都市は、20世紀半ば以降脱産業化か進む社会の変化に対応していかなければならなかった。ピッツバーグでは第二次世界大戦後から、鉄鋼所が出す大量の煙による大気汚染と工場排水による水質汚濁が深刻な社会問題になった。1970年代になるとそれに追い打ちをかけるように、鉄鋼産業は海外企業との競争にも敗れ、ますます斜陽化した。基幹産業である鉄鋼業に大きく依存した経済構造のため、ピッツバーグの都市経済は徐々に衰退していった。

デトロイトでは、1943年の人種暴動後に、都市に住む多くの比較的裕福な白人が黒人との人種対立を嫌って郊外に移動した。都市部の人口減少は、デトロイト市に税収減をもたらしただけでなく、都市の経済活動も鈍化させた。73~79年までの石油危機は、堅調であったデトロイトの自動車産業に大きな打撃を与えた。加えて、良質な日本車が70年代にはアメリカでも受け入れられ始めていたので、「ビッグ・スリー」の本拠地を擁するデトロイトの都市経済は大きな損害を被った。

このように20世紀前半のアメリカ経済を牽引してきたふたつの都市は、どちらも1970年代に工業都市としての影響力を低下させたが、その後の都市再生に向けた道筋はまったく異なっていた。ピッツバーグでは戦後から70年代にかけて、メロン銀行頭取のリチャード・メロンとデイビッド・ローレンス市長が中心となって、同市の環境問題や都市の再生に向けた改革を行った。製造業が徐々に衰退するなかで、民間企業、行政府、大学、非営利団体など産官学民が一体となった取り組みによって、ピッツバーグはそれまでの鉄鋼産業への依存から脱却し、医療、金融・保険業、IT産業、教育・文化産業などの多様な産業によって発展することを目指した。ピッツバーグの改革は、かならずしもすべてが成功したわけではないが、2008年の金融危機に際しても経済的損害は比較的小さかった。その証拠に、ピッツバーグはアメリカの都市再生の好例として、09年の20カ国地域・首脳会議(G20)の会場に選ばれた。

ピッツバーグが脱産業化後の都市のモデルとされたのとは対照的に、デトロイトは自動車産業の特性上、簡単にその経済構造を転換できなかった。自動車産業はガラス、タイヤ、精密機器など多くの関連部品を抱えるすそ野の広い産業であり、構造化された流通体制を転換することは困難であった。そのため、デトロイトは多様な産業による発展を目指すのではなく、既存の自動車産業の強化を図った。ところが、2008年の金融危機が自動車産業に与えた損害は壊滅的で、「ビッグ・スリー」のGMとクライスラーは政府からの援助を受けるほど疲弊していた。公的資金の投入や企業努力の効果もあり、自動車産業崩壊はかろうじて免れたが、労働統計局のデータによると、12年10月の失業率は全国平均7・9%に対してデトロイトは10・8%と依然として高く、いまだに本格的な経済回復までには至ってない。

このように、同じ工業都市として発展してきたふたつの都市であったが、脱産業化後の行方は、その社会環境や経済構造によって、大きく明暗が分かれてしまったのである。

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