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独我論の「論」は違和感

好き嫌いには法則があるはずです。子どもが好き、孫が好き、女性が好き。皆、違います。多様性を活かしていくことです。 #家族制度の変革
手袋を探したら、片一方だけのが5つも出てきた。ここでも靴下現象です。まあ、いいけど。 #冬支度
独我論の「論」は違和感です。こんな説があるのではない。これこそ、これしかない。 #独我論
比較するのはおかしい。議論するのも面倒。答えは決まっている。多数決で決まるのではない。私が正義です。 #独我論
このICレコーダーは録音した日付で分けられる。フォルダーを無視しても大丈夫です。#10台目のICレコーダー
言葉が中々、出てこない。こんなことまで忘れるのか。特に名前ですね。「池田晶子」を思い出すのも大変です。「晶子」が先に出てきた、「池田」が後から付いてきた。 #名前が出てこない
家族の単位を拡大すればいい。その時は固定ではなく、バーチャルです。例えば、相乗り、子育て、教育、皆、バーチャルな単位で家族を大きくしていく。コアの単位はその時はあり得ない。 #家族制度の変革
その意味で一気に初孫が増える。だれかが出世すれば、皆で祝う。バーチャルだから出来るのです。好き嫌いで決めていけばいい。
乃木坂のようなコミュニティにも通じます。コミュニティは帰ってくる所 #乃木坂はコミュニティ

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「ティールの時代」が来る

『実存的変容』より
「ティールの時代」が来るぞっ!!
 F・ラルーが意識の新しいステージと呼んだ個人の意識の変容を、本書では「実存的変容」と呼んで詳細に深掘りしてきました。
 人類は、いままでも長い年月をかけて意識を成長・進化させてきましたが、いままでの進化は、「分離」を極めるという方向性がありました。いま人類が直面している「実存的変容」は、それが初めて「統合」に向かいつつあるのです。
 ここまでお読みいただいた読者の中には、「分離=悪い」、「統合=いい」という判別を知らず知らずのうちにしておられる方も多いでしょう。それはじつは、「オレンジ星人」特有の判断なのです。
 「分離のエネルギー」は、確かに「怖れ」を生み、激しい競争社会を出現させ、争いの多い時代をもたらしました。しかしながらその反面、文明を築き、様々な発明を生み、合理的な社会統治システムを確立し、経済を発展させ、私たちの豊かな生活を支えてきました。私たちが努力して能力を伸ばしてきたのも「分離のエネルギー」のお陰です。私たちは、どっぶりとその恩恵に浸っており、「分離=悪い」といって排除したら罰が当たります。
 いま私たちが直面しているパラダイムシフトは、「いい・悪い」ではなく、ただ人類が次のステージに行く、というだけです。この「実存的変容」は、「人類の目覚め」と呼んでいいほどの大きな変革を社会にもたらすでしょう。
 「シャドー」「モンスター」、あるいは「メンタルモデル」が統合されるということは、「真我のエネルギー」が使えるようになり、「無条件の愛」が発揮されるということです。人類は、とても長い年月闘争に明け暮れてきましたが、いよいよ平和で愛と調和に満ちた社会へ移行しようとしているのです。
 本章では、これを「ティールの時代」と呼び、その様子をほんの少しだけ眺めてみましょう。
「オレンジの時代」から「ティールの時代」へ
 4章で述べたように、いまの日本は社会の重心は「後期自我」で、指導層のほとんども「後期自我」であり、人間としての理想像(規範)も「後期自我」です。ですから、「オレンジ星人」の特徴が、社会のあらゆる局面に現れています。
 たとえば「議会制民主主義」や「多数決で物事を決める」などは、まさに「オレンジ星人」にぴったりの方法論です。
 「オレンジ星人」は、自己顕示欲が強いので、我も我もと立候補し、選挙制度はうまく働きます。また、多様性を許容できないので全体としてひとつの意見にまとめないと気が済みません。その決め方は、何事も「正義心悪」という構図で読み解き、「人を説得しようとする」ので、自然に意見が収束することは期待できず、強引に決める「多数決」がどうしても必要になります。
 いま、先進文明国はほぼ「オレンジの時代」にある、といってもいいと思いますが、それはおそらく産業革命の頃からスタートしているでしょう。勤勉な「オレンジ星人」の働きで経済が発展し、軍事力が強化され、開発途上国を植民地化するという弱肉強食の時代がしばらく続きました。
 その中で、国を守るために「戦士」の育成が急務なため、教育は「戦いの人生」を歩む「オレンジ星人」の再生産が優先されました。
 企業経営では、社員の上昇志向と戦う姿勢を利用して、激しく競わせて活性化を図るというマネジメントが一般的になりました。F・ラルー『ティール組織』では、まさにそういう組織を「オレンジ」と呼んでいます。いま、世界中の先進文明国の企業の大多数は「オレンジ」です。
 さて、このような「オレンジの時代」から「ティールの時代」に移行する、というのはどんな様子なのでしょうか? その全貌を語るために、まずは「実存的変容」を起こした人の特性について見てみましょう。
「ティールの時代」に起こること
 いまの日本では、ここまで進んでいる人はごくわずかです。前述のごとく「実存的変容」といっても、入り口付近の方がほとんどであり、このリストのごく一部が該当するだけでしょう。あなたは何項目くらい当たっていますか?
 しかしながら、もし人類がいままでと同じように進化を続けるとしたら、「ティール星人」の数は確実に増加していきます。そして、いままでの社会からは想像もできない「ティールの時代」が到来するはずです。ここからは、それをほのかにのぞき見してみましょう。
 まず、いえることは、すでに4章で述べましたが、日本のGDPは確実に下がることです。日本の過去の高度成長を支えてきたのは、5章で述べたように「中期自我」(アンバー)の特性である「親分・子分」の共依存関係です。
 その後も「オレンジ星人」の「上昇志向」と「戦う姿勢」は、産業界を活性化させてきました。ところが、「実存的変容」を経ると、人々はもうお金や名誉を熱心に追求しなくなり、産業界は確実に不活性になっていきます。
 日本は、過去30年間ほとんどGDPが成長しておりませんが、ひょっとして既に「ティールの時代」の入り口に達しているのかもしれません。
 次に確実にいえることは、「議会制民主主義」の崩壊です。「ティール星人」は自己顕示欲が希薄なため、選挙に立候補はしないでしょう。そうすると候補者は、エゴが強烈に残っている「中期自我」「後期自我」の人たちばかりになり、「ティール星人」たちはその人たちに投票する意欲はなくなるでしょう。ということは、投票率はこれからどんどん下がっていくはずです。もうすでにその傾向は出ていますが、投票率が軒並み30%を切るようになれば、「議会制民主主義」を見直さざるを得なくなります。
 したがって、「議会制民主主義」にかわる、次の社会統治システムを至急検討しなければいけません。私は約20年前からそれを指摘してきましたが、そこまで頭を巡らす人はほとんどいません。
 次に確実なのは、日本の公教育の崩壊です。明治維新の後、列強の植民地にされないために「戦士の教育」が導入されました。それは大変うまくいったのですが、それから百年以上たって、もうすでに世の中が変わっているにもかかわらず、どうしたわけか、いまでもまだその影を引きずっています。
 「ティール星人」までは達していなくても、子どもたちはどんどん進化していますから、時代遅れの「戦士の教育」にはついていけず、不登校がすさまじい勢いで増えています。
 これに関しては、次章で私の活動を少し紹介いたします。
 企業経営に関しては、F・ラルーが『ティール組織』で大きな変革を指摘したことから、そもそも「ティールの時代」という言葉が出てきました。しかしながら、F・ラルーの指摘をはるかに超えて変革が進むことが予想されます。
 ひとつには、企業の壁が淡くなるでしょう。いままでの企業では、社員とそれ以外は明確に区別されていました。社会保険に入っているか、法律上の差異は残りますが、「ダイヤモンドメディア」では社員、業務委託などで実質的な差をなくしており、複数の会社に所属していたり、自分の会社を保有しながら社員になっていたりする人もいます。
 その自然な延長上に企業連合があります。従来の企業連合というのは、資本関係があるか、業務的なつながりがある、などが条件でした。これからは、何の制約もなく、様々な「ゆるい企業連合」が盛んになるでしょう。
 すでにダイヤモンドメディアでは、「tonashiba」という転職支援企業連合を運営しています。「tonashiba」という命名は、「隣の芝は青い」から来ており、「だったら、ちょっと試しに行ってみたら」という軽いノリで段階的な転職を支援するシステムです。
 社員食堂、企業内保育所、会議室、談話室などのインフラや、経理、総務、人事、社員教育などのサポート業務など、共通化によりメリットが出てくる局面はいくらでもあります。
 さらには、企業連合が地域通貨を発行して、ローカル経済の発展を支えたり、小学校から大学まで運営して、自分たちにとって必要な人材の育成まで担ったり、などなど、いくらでも発展形は描けます。
 全般的には「シェア・エコノミー」が発展するでしょう。すでにシェアハウス、シェアオフィス、カーシェアなどが盛んになっていますが、「ティール星人」はエゴが弱くなり、所有に対するこだわりが減るのでどんどん共有の方向へ行くでしょう。これはまた、GDPを下げる方向の力学が働きます。
 結婚制度も大幅に変わるかもしれません。「ティール時代」になると多様性が許容されます。すでに異性間の夫婦に認められている諸権利を同性間カップルでも認めようという運動が盛んになっていますが、これはすぐに定着するでしょう。
 でも、そうするとその諸権利がどうしてセックスと関係しているのか、という疑問がすぐに出てきます。セックスと無関係に「拡張家族」という概念が広がり、共同で子育てをするという文化が広がるでしょう。独占欲と嫉妬がなくなってくれば、性的関係も自由になるでしょう。
 いまの一夫一妻制の結婚制度は、ュダヤ教キリスト教の文化が定着したものですが、大幅に見直されるかもしれません。

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家族と教育--家族間の問題

『正義論』より 家族と教育 正義の場所としての家族 家族と教育--家族内の問題
親権と教育機会の平等
 以上見たように家族と教育をめぐっては、家族内において潜在的な正義/不正義の火種がある。本節では次に、家族間で生じる問題を取り上げよう。問題は、子どもの教育に対する親の熱意と投資の違いが、子どものその後の人生を一変させかねないような影響を残しうることである。もし親にわが子への特別な配慮を認めれば、どの親のもとに生まれるかという偶然性が子どもの将来にもたらす影響はそれだけ甚大になる。要するに家族という場所は、教育を通じて社会的不平等を再生産する場所としても機能しうるのだ。
 近年、格差社会論が人口に諸矢して久しいが、その多くでは教育が格差の原因あるいは結果の一要素として、しばしば登場する。社会学者が指摘するところでは、日本でも確実に階層社会化が進みつつあり、その過程の一部には教育を媒介とした階層の再生産がふくまれるという。これらの議論は、出自→教育→階層の影響関係を実証的に明らかにしている。教育は私たちの生の見通し全体に多大な影響を与えるがゆえに、その資源としての性質と分配の公正性を問うことが必要となる。
平等を支持する議論
 ロールズは、本人の選択の結果ではない偶然性の一種として、才能や意欲などとならんで、どの家族のもとに生まれるかを挙げていた。もし、このような「道徳的観点からは恣意的」な要素が人々の資源分配に影響を与えるならば、正義の第2原理が規定する公正な機会の平等は達成できないだろう。運平等主義の用語を用いれば、家族は本人の自己責任の範躊にあるとは言えない状況の一種である。学校教育はこうした偶然性から生じる不平等を中和するように再設計されなければならない。
 それでは、学校教育をどのように設計すればよいだろうか。1つの方策は、個々の家族の経済力や教育熱の違いにかかわらず、少なくとも一定の教育段階までは教育機会の平準化を行うことである。同学年の子どもに同一の内容を教えれば、家庭背景の違いという道徳的に恣意的な要素が教育資源の分配に与える影響を緩和できるだろう。こうした観点から、ハリー・ブリッグハウスやアダム・スウィフトは、学校の私事化・民営化をふくむ教育の自由化方針に反対している。
 ちなみに戦後日本教育でもまた、1950年代に導入された一連の教育政策(義務教育費国庫負担制度や学級編制および教職員定数の標準化)を骨子として、機会の平等やナショナル・ミニマムの維持という観点から、環境や条件を均した横並びの教育が推奨されてきた。とくに義務教育課程では、一定の学力をすべての子どもに身につけさせるため、全国の同学年の子どもに同一の内容が教えられてきた。高度経済成長期には、経済界の意向を受けて文部省が能力主義を導入しようとするが、教育現場および教育学界では、「競争や序列化は教育本来の目的を歪める」との意見が支配的であった。
水準低下批判・
 しかし他方で、このように教育機会を制限するならば、経済力や教育熱の高い家族は不満をもつだろう。なぜなら、教育投資によって伸ばせるはずだった生徒までも足止めを強いられるからである。これは、平等主義に対してしばしば向けられる水準低下批判の一例である。すなわち、教育機会の平準化は、有利な生徒たちの状況を悪化させるかたちで教育資源の分配を行っているのである。教育機会の平等に熱心なあまり、出る杭を打つ型の下向きの平等主義におちいってしまっているというのだ。
 ただしここでは、水準低下の是非についてさらに検討する余地がある。要点は、教育が位置財(地位財)の一種であることだ。位置財とは、財の相対的所有がその絶対的価値に影響を与えるような財のことである。たとえば、進学率が低いなかで少数者のみが大学に進学するなら、その学歴には高い社会的価値が付け加わる。しかし、進学率がきわめて高いなかで大多数が大学に進学しても、大卒という肩書の社会的価値はそれほど高まらない。教育という財は、自分がそこから得る価値と同様、他人がそこから得る価値によっても左右されるのである。
位置財と水準低下
 教育が位置財としての性質をもつことは、水準低下に新たな意味を与える。すなわち、教育機会を平準化することは、たしかに有利な生徒たちにとってマイナスになるかもしれないが、同時に不利な生徒たちにとってプラスになるのである。学歴がそうであるように、位置財は、全員が十分にもつことはありえず、誰かが利得を得れば、別の誰かが損失をこうむるというゼロサム的性質をもつ。すると、教育機会の平準化によって有利な生徒たちの教育機会を制限するなら、その変化は同時に不利な生徒たちの位置的状況を絶対的に改善する。
 これは下向きの平等主義だろうか。必ずしもそうではない。たとえば優先主義は、社会の相対的・比較的な差異に注目するのではなく、よりめぐまれない人々の絶対的な水準を改善することを重視する。ところで上述のとおり、教育機会の平準化によって、不利な生徒たちの位置的状況は絶対的に改善するのであった。それゆえ、よりめぐまれない人々の利益がより重大であるという優先主義的理由に基づいて、少なくとも位置財としての教育に関しては、水準低下を行うことが正当化されるだろう。
 ただし、この結論は教育がどれほど位置財としての性質をもつかに依存する。教育という財の価値には社会的側面があるが、同時に個人的側面もある。すなわち、教育を受ける者にとって、それは単に社会内の自分の位置を決定するだけの手段ではない。教育はそれ自体で受け手にとって内在的に価値をもつのだ。教育がよい職業に就く、あるいはよい収入を得るための手段であることをやめ、受け手にとって純粋に楽しみや必要の源泉となるならば、私たちは教育格差をそれほど問題視する必要はなくなるだろう。
適切性を支持する議論:
 以上のように、平等主義と優先主義は、ともに教育機会の平準化を支持する議論に結びつく。それに加えて、十分主義に基づく議論もある。十分主義は、すべての人々が適切に設定された一定の闘値以上の水準にあることを重視する。これを敷粉すれば、教育資源の分配指標としては、平等よりも適切性がふさわしい。こうした考え方は、世界人権宣言(第26条)、国際人権規約B規約(第13条)、児童の権利条約(第28条)などに盛り込まれた、初等教育の義務化・無償化のアイデアにも反映されている。
 たとえば、民主的平等論をとなえるエリザベス・アンダーソンは、社会集団の帰属の違いにかかわらず、万人が大学進学への準備に必要な程度の闘値を保障されるべきであると論じる。民主主義社会は、社会全般に対して責任と指導力を発揮するリーダーを必要とするが、そうしたリーダーは、さまざまな地位や階層を代表する各集団から構成され、高等教育を通じて統合されることが望ましい。平等を支持する議論は教育達成を私的財として捉えているが、それを誰にとっても有益なある種のメリット財として捉えるならば、閥値以上で教育資源の不平等が生じても、それが羨望や不平の対象になることはないだろう。
 同様の十分主義的議論は、エイミー・ガットマンも展開している。ガットマンは学校教育の目的を、民主的人格を育成することに求める。それゆえ、すべての子どもに対して、民主的参加の能力を発達させるために必要かつ十分な教育資源を分配しなければならない。その内実は、読み書き能力から、批判的思考や熟議の能力、相互尊重の精神の涵養など多岐にわたる。教育機会の不平等は、もしあるとしてもすべての子どもに民主的参加の能力を付与するという閥値を充たしたあとでのみ許容されるにすぎない。
平等の価値と家族の価値
 実際のところ、教育機会の平等と既存の家族制度を厳密に両立させることは、気が重くなるほど困難である。もしどの家族のもとに生まれるかという偶然性が、道徳的に恣意的であり中和されねばならないのだとしたら、たとえば親が子どもに与える就寝前の読み聞かせも規制の対象にすべきだろうか。ここまで教育機会の平等に固執する社会は、おそらく私たちの大半にとって受け入れがたいだろう。たとえそれ自体で重要であるとしても、私たちは平等と他の価値とのあいだでバランスをとらねばならない。

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コンテンツ化する世界

『GIG WORK』より コンテンツ化する世界 古い世界からの解放
製品化からコンテンツ化する世界へ
 オレが最初に出版社から独立してはじめた事業がコンサルタント業だった。そのときの肩書きを「コンテンツマーケター」にしたのを覚えている。オレが出版社時代から感じていたのは、「本ほど強力なマーケティングツールはない」ということだ。マーケティングツールと言ってしまうと本を冒涜しているように思われてしまいそうだが、あえてこの言葉を使わせてもらう。よく言われることだが、歴史上の一番のベストセラーは聖書と言われているように、聖書がキリスト教を広めるのに役立ったわけだ。つまりキリスト教ってコンテンツだ。これは15世紀に印刷技術が進化したことが最大の要因だ。
 オレが独立した頃は印刷技術に代わりインターネット技術が発達し、スマホが一般化しはしめた頃だったので、コンテンツを活用したマーケティングの需要が増えると予測した。結果は、本だけでなく、電子書籍、ウェブメディアというものが世の中に広まっていき、企業がメディアを持つのが当たり前くらいになってきたので、オレの予測はある程度当たっていたわけだ。
 この頃から企業の宣伝活動も大きく変わり、広告からPR、そしてコンテンツに変わっていくことになる。つまり、消費者は広告を信じなくなり、PRもお金で買えることを知るようになった。テレビ、雑誌、新聞の広告だけでなく、雑誌や新聞に載る記事までも信じなくなってきた。
 オレが編集者をやっていた頃は、新聞に本の広告を出すだけで、アマゾンで1位になることはしばしばあったが、今はほとんど反響はないと言っていい。だから現在はオウンドメディアとかウェブメディアと呼ばれるサイトが力を持ってきている。ニュースを扱うもの、生き方を扱うもの、いろんなメディアがあり、それぞれの趣向に合わせた読者をつかんでいる。当たり前であるが、コンテンツの質が問われてくるようになる。
 さらにオレが面白いと思ったのは、産業そのものの変化だ。本来の産業は生活のあらゆる部分の製品化によって成り立ってきた。たとえば、移動手段としての馬車が自動車に、掃除や洗濯が文字通り掃除機、洗濯機に替わることで産業が発展してきた。つまりあらゆる労働が製品化されたのが、ひと昔前の資本主義だったわけだ。
 ところが今の産業界を見渡してみたときに、自動車業界、家電業界に活気がないのは誰の目にも明らかだ。そのかわりに活気があるのは、GAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)に代表されるインターネットを活用している企業たちだ。彼らはインターネット上においてコンテンツを活用して巨大化しており、もはや時価総額は全産業の中でもトップクラスだ。これは明らかに製品化するビジネスよりもコンテンツ化するビジネスのほうが時代に合っているという証拠だ。
 また、最近の事例で面白いのはKonMariこと近藤麻理恵さんのアメリカでの活躍じゃないだろうか。彼女は2010年に日本で出版した『人生がときめく片づけの魔法』がミリオンセラーになり、その後、アメリカ版もベストセラーに。さらに、ネットフリックスで番組を持ち、大成功をしている。掃除を製品化したのが掃除機なら、コンテンツ化したのがKonMariなわけだ。彼女は40億円以上でネットフリックスと契約したわけだから、まさにコンテンツ化かお金を生むことを証明している。
昔からコンテンツを制したものが勝ってきた!
 先ほど、オレはアマゾンのおかげで編集者として成功したと書いたが、実はアマゾンだってコンテンツを切り口に巨大化した。アマゾンは2018年にアップルに続き株式時価総額が1兆ドルを超えたわけで、ここまで大きくなった要因もすべてコンテンツがあったからだ。そもそも、アマゾンは最初はインターネット書店として起業しただけ。つまり、本をインターネットで売るという、今思えば誰でもできそうなビジネスだ。ここで重要なのは、本を入口にしたことだ。
 ご存知のようにアマゾンは、今ではあらゆる分野に進出しており、利益の大半は本の販売ではない(むしろ本の販売は赤字のことが多い)わけだ。ただオレは、アマゾンが本を扱っていたのが大きいと思っている。それは本がコンテンツだからだ。オレは人はコンテンツがなければ生きていけない生き物と思っている。なぜなら、膨大な処理ができる脳を手に入れた人間は、常に何かを思考している。それは意識的か無意識的かは別として。
 そこで重要なのは、思考する根拠となるものだ。コンピューターで言えば、OSみたいなものを常に必要としていく。なぜなら、オレたちは日々、選択に迫られる。いや、毎時、いや、毎分? いや、毎秒か。ある説によると、1日約9000回の選択を迫られるという。そうなると、ほとんどの場合は無意識で判断していることになるが、顕在意識では常に「これは正しいのか?」という不安を抱くことになる。そこで、人は何か信じるものが欲しくなる。判断基準が欲しくなる。
 その結果、あらゆるコンテンツを欲していくのだと思う。だから、常にコンテンツを欲していく特性を持つオレたちに、本を入り口にビジネスをはじめたのは一つの成功要因だったはず。常に欲しくなるというのは中毒性が強いわけだ。一度買ったらやめられなくなるということ。もはや、オレはスマホ中毒だし。昔ならテレビ中毒、今ならゲーム中毒、ユーチューブ中毒とかいろいろいるだろうが、全部コンテンツだろ。
 GAFAの連中だってみんなコンテンツをビジネスにしてるでしょ。グーグルがユーチューブを持ってるってのもそうだけど、そもそもインターネット空間そのものがコンテンツなわけで、そこの検索エンジン大手なんだし。アップルだってiTunesやアップルミュージックを通して音楽や映画や電子書籍を配信してるわけで、そもそもオレたちがiPhoneやMacを使うのもコンテンツに触れるためだし。フェイスブックなんてオレたちが投稿していくものがコンテンツになっているわけだし。結局、いま世界を支配しているGAFAも全部コンテンツビジネスと言えるわけよ。雑な言い方かもしれないけどね。
アマソンがスーパーマーケット
 ホールフーズというスーパーマーケットを知っているだろうか? オーガニック食品なんかを扱う高級スーパーマーケットだ。やや高級といったところだろうが。オレが前に住んでたホノルルとか、今住んでるサンフランシスコなんかでは結構、人気店だ。日本から来る観光客も、エコバックを買ったり。ある意味、そこそこブランディングできているスーパーマーケットと言っていい。
 少し前の話になるんだけど、2017年8月にホールフーズをアマゾンが137億ドルで買収した。円に変えたら1兆円以上なわけだから、まじですごい。でも、それ以上にオレがこの買収がすごいって思ったのは、アマゾンが日常生活に入ってくるってことだった。
 たしかに、最初は本だけだったけど、今ではネットで何でも買えるようにはなっていた。でも、オレたちが生きていく上で欠かせない食品をリアルで売るスーパーマーケットまでも手に入れたわけだ。本というコンテンツをネットを通じて売っていたアマゾンが、リアルな人生に進出してきたということ。もちろん、本だけではなく、映画も番組もつくるし、音楽も配信するし、新聞社も買収するしでコンテンツ部分の支配には抜かりがない。
 つまり、アマゾンはコンテンツによってオレたちの頭だけではなく、リアル店舗を持つことで、生きていく上で必要な食料品を扱うことで身体まで支配してきていると言ってもいい。今の時代はこうやってコンテンツが頭から入り思考を支配され、リアルな人生における行動が決まってくるわけだ。
 コンテンツは趣味や知的好奇心レベルの話ではなく、リアルな人生における行動すらも支配していく。当然、アマゾンのアカウントを利用して買い物することになるわけで、オレたちの購買データはアマゾンには筒抜けだ。
 さらに、アマゾンはアマゾンGOという無人コンビニの展開もはじめている。実際、サンフランシスコの店舗に行ってみたが、レジがなく、商品を持って店外に出たら勝手にアマゾンアカウントで決済が終わっているという仕組み。おそらくアマゾンはこのシステムを他の小売店にも売るつもりだろう。そうすれば小売店はレジの人件費を削減できるし、アマゾンは顧客データも手数料も手に入れるだろうから。
トランプ大統領が生まれたのは
 フェイスブックのおかげ?
 ここまでは経済について見てきたが、実は政治もかなりやはいことになってきている。オレたちのリアルな人生における行動すらも実はコンテンツに支配されているし、それがわかりやすいのがアマゾンのホールフーズ買収だから一例として紹介したわけだが、さらに投票活動にまで影響していることも明らかになっている。
 先日、行われた日本の参議院選挙でもインターネットをうまく使った党が躍進したと言われている。ある党の政見放送を見れば明らかなように、本当にアホ丸出しな党ですら議席を取ってしまうわけだ。この党はユーチューブをうまく使ったと言われているが、政治すらコンテンツが決めてしまうということだ。
 そして、よく言われているのが、2016年のアメリカ大統領選だ。悪名高きトランプ大統領が誕生した選挙だ。ぽんと、アメリカで移民として生きるオレにとっては、クソ大統領もいいとこなんだが、彼が誕生したのもうまくインターネットを使ったからだと言われている。とくに、この選挙では「フェイクニュース」が結果を左右したと言われている。
 その中でも、フェイスブックから約8700万人の個人情報がイギリスのデータ分析会社であるケンブリッジ・アナリティカ社に渡っていたことは大きな問題になった。同社がこの個人情報を使って、大統領選に影響を与えるような情報を流していたという。先にも紹介した『フェイクウェブ』(高野聖玄著、セキュリティ集団スプラウト著、文芸春秋)によると、
  「なかでもケンブリッジ・アナリティカ社のケースは大きな波紋を呼んだ。同社は米大統領戦やブレグジット(イギリスのEU離脱)を巡る国民投票の結果に影響を与えるため、数千万人分のフェイスブック利用者データを使用していた疑惑で告発され、2018年5月に廃業に追い込まれた。フェイスブックなどから集められたデータは、独自のデータ分析により個人を趣味嗜好別に分類され、そのタイプに合わせて選挙を有利に導くように情報を誘導していたとされる。イタリア、ケニア、ナイジェリアなどの国においても同様の手法で選挙コンサルティングを行ってきたとみられている。
  この個人データの不正利用とも言える問題は、その後、フェイスブックのマーク・ザッカーバーグCEOが、米国議会とEU議会において証言を迫られるという事態にまで発展。巨大IT企業による情報の独占や、それらのビッグデータの扱いを巡るプライバシー論争へと繋がる契機となった」
 とあるように、情報操作によって、政治すらも変わることを示しているわけで、コンテンツの扱い方に長けている者ほど、この世界では優位に生きられるということを示しているのではないか。

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