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ダイアリー作成

何も頭に浮かばない。なんでここにいるのかわからない。
メンバーがやりたいことをやった後は、スタッフがやりたいことを提案する。 #乃木坂はコミュニティ
期末が始まっていますね。来週もでしょう。 #スタバ風景
書けないから、書ける日記帳そのものを作りましょうか。 #ダイアリー作成
あっしゅみなのスペインの旅の影響で、今日はサイゼリヤでパエリア600円。これが本当にパエリアなのか確認しましょう。 #スペインの旅

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OCR化した8冊

『死んだらどうなるのか?』
 死ぬのは私だ 私とは誰か
  心は脳の機能か
  のび太ロボット--機械の体で永久に生きる
  コピーなんてできるの?
  のび太君が二人
  主観的視点の枝分かれ
  どちらとして目覚めるか
  主観的視点は一つだけ
  言葉の限界
  死ぬのは私だ
  心身問題との関係
  まとめ
『大人のための「世界史」』
 二三世紀の「世界史」を考える
  世界における日本の立ち位置
  「高くつく非西洋」になる日本
  「昇龍」中国の台頭
  「巨象」インドの興隆
  二三世紀の「世界史」
『看護覚え書き』ナイチンゲール
 変化のあること
『GIG WORK』
 コンテンツ化する世界
  古い世界からの解放
   編集者最強説
   なぜ、編集者たちが活躍しはじめたのか?
   製品化からコンテンツ化する世界へ
   昔からコンテンツを制したものが勝ってきた!
   アマソンがスーパーマーケット
   トランプ大統領が生まれたのは
   お金も宗教もコンテンツだ
   昔からコンテンツが先
   情報発信という武器
『正義論』
 家族と教育
  正義の場所としての家族
   個人であること、個人になること
   家族と基底構造
   家族正義の2つの視点
  家族と教育--家族内の問題
   親権と子どもの自律
   ウィスコンシン対ヨーダー判決
   自律を支持ずる儀舗
   寛容を支持する議論
  家族と教育--家族間の問題
   親権と教育機会の平等
   平等を支持する議論
   水準低下批判・
   位置財と水準低下
   適切性を支持する議論:
   平等の価値と家族の価値
  家族の価値
   子どもの観点
   親の観点
   社会の観点
   応用問題としての家族と教育
『実存的変容』
 「ティールの時代」が来るぞっ!!
  「オレンジの時代」から「ティールの時代」へ
  「実存的変容」を起こした実例
  「実存的変容」が深まった人(ティール星人)の特徴
  「ティールの時代」に起こること
『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』
 現代社会における「働くこと」
  自明性が壊れた社会における「働くこと」
  「賃労働社会」の動揺
  労働の道具的コミュニケーション化
  労働からの解放とその方法
  資本主義経済と「死の欲動」
  「資本主義の精神」の不在
『正解は一つじゃない 子育てする動物たち』
 ヒトという動物の子育て
  どんな動物?
   二足歩行で脳の大きなおサルさん
   ゆっくり成長して長く生きる
   ペアが集まって社会をつくる
  どんな子育て?
   大変な出産
   手のかかる乳幼児
   しかし多産
  現代の子育て

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ヒトという動物の子育て

『正解は一つじゃない 子育てする動物たち』より ヒトという動物の子育て
大変な出産
 直立二足歩行と脳の大型化のため、ヒトの出産は特に難産です。腰やお尻の部分にある骨盤は、二足歩行を支える重要な部位であるとともに、その内側には産道が通っています。二足歩行に適応したヒトの骨盤では、産道が湾曲して中央部が狭くなっており、胎児の頭がぎりぎり通れるだけの幅しかありません。これ以上産道を広げようとすると、骨盤の脚のつけ根が離れていき、足を踏み出すたび体の軸が左右にぶれて、二足歩行の子不ルギー効率が低下します。そのため、胎児の頭がかなり通りづらいにもかかわらず、ヒトはこれ以上産道を大きくできなくなりました。そして、ヒトの出産には命の危険がともなうようになり、医療の介入がない場合、出産によって母親が死亡する割合は一・五パーセントにのぼるとする報告もあります。その一方、四足歩行をするほかの大型霊長類ではこうした制約がないため、胎児の頭に対して産道のサイズはわりと余裕があります。
 大きくかたい頭を通すため、胎児のほうにもヒト独自の特徴が見られます。ヒトの産道の入口は左右に幅広で、出口は前後に広くなっています。前後に長い頭を通すため、胎児は、産道の入口では頭を横に向け、中央部で九〇度回転し、出口では頭を後ろに向けて出てきます。そして幅広の肩を通すため、また回転します。また、頭の骨は複数のパーツからなりますが、胎児の段階ではそれらがまだ完全にはくっついていません。頭の形が少し変わることで、産道の通過の困難さをやわらげます。
 新生児の顔の向きも問題になるという説があります。産道から出てきた新生児の顔は、ニホンザルなどの小型の霊長類では一般的に母親の腹側を向いていますが、ヒトでは背側を向きます。これは、胎児の頭の中でも最も大きくかたい後ろ側が、産道をどう通るかが異なるためです。新生児が母親の腹側を向いていれば、母親は頭を出した新生児をひっぱって取り上げることができます。しかしヒトのように背側を向いている新生児を母親がひっぱると、新生児はエビ反りする方向に曲がり、場合によっては脊椎を損傷してしまいます。このため、ヒトの出産では産婆や親類などの他者がつきそい、胎児がなかなか出てこない時には、母親に代わって取り上げてやる必要があります。しかし、ヒトに近縁なオランウータンやチンパンジーでも、新生児の顔は母親の背中を向いて出てくるという報告もあり、頭が背中を向くと他者のつきそいが必要になるという因果関係に疑問を呈する研究者もいます。
手のかかる乳幼児
 ヒトの乳幼児はひときわ無力な状態にあり、子育てには手がかかります。ヒト以外の霊長類では、乳幼児は親の身体に自力でつかまり、眠っている時も離しません。しかしヒトの乳幼児は自力でつかまることができないため、誰かが抱っこしてあげる必要があります。生後しばらくは首もすわりませんし、寝かしつけなども必要です。
 ヒトの乳幼児が特に無力なのは、脳が大型化したためと言われています。ヒトの祖先で脳が大型化し始めたのは直立二足歩行が完成した後だったため、胎児の段階で脳を成長させて大きくすると、もはや産道を通ることができなくなってしまいます。そのためヒトは、胎児のように未熟な状態で生まれ、生後しばらくは急速に脳を成長させることで、脳を大型化させるようになりました。たとえばチンパンジーやゴリラでは、五歳くらいまでに脳重量は出生時の二倍になって大人の大きさに達しますが、ヒトの脳重量は出生後一年で二倍になり、五歳くらいまでには三・五倍になって、ようやく大人の脳の大きさの約九〇パーセントに達します。
 出生後もしばらくは脳の成長にエネルギーをとられるため、ヒトの乳幼児の身体の発達はゆっくりになり、大人に依存する期間が長びきます。安静時のヒトが消費するエネルギーのうち、脳の消費分は、ヒトの大人では二〇パーセント程度なのに対し、五歳以下では約三九パーセントから六六パーセントに達します。
しかし多産
 難産で乳幼児には手がかかるにもかかわらず、ヒトは非常に多産な霊長類です。野生チンパンジー、ゴリラ、オランウータンの平均的な出産間隔はそれぞれ五・五年、四・四年、七・六年ですが、ヒト狩猟採集民では三・七年です。ヒトの出産間隔が比較的短く、短期間にたくさん子どもを産み育てられるのは、共同保育、子どもへの食物提供、早く柔軟な離乳のためです。
 ヒトでは、母親以外の個体も子育てをよく手伝い、子育てのコストを母親から他者に分散させています。ほかの霊長類では、子育てをするのは母親ひとりという種がほとんどです。しかしたとえば、工業化されていない社会の複数のヒト集団を調べた民族学的な研究では、乳幼児に対する直接的な世話(食事、抱っこ、身づくろいなど)のうち母親が担当する時間割合は平均して五〇パーセント程度で、残り五〇パーセントは年上のきょうだいやおばあちゃんや父親が担っていました。母親以‐外の女性による授乳もヒト社会では広く見られ、調べられた約二〇〇集団のうち四七パーセントで観察されていますが、ほかの霊長類では、キンシコウやキツネザルや中南米の新世界ザルの一部でよく観察されるくらいです。
 霊長類の中でヒトの女性にのみ明確な閉経が進化したのも、共同保育に関連があります。個人差はありますが、狩猟採集民の女性は一〇代後半から繁殖可能になり、二五~三五歳くらいで繁殖力はピークに達し、五〇歳までには閉経して子どもを産めなくなります。女性にとっては、死ぬまで繁殖力を保ち自分の子どもを産み育てるよりは、中年以降は繁殖せず、血のつながった孫の子育てを手伝うほうが、ヒトの進化してきた環境では、結果的に多くの子孫を残せたと考えられています。実際、さまざまなヒト集団を調べても、特に母方のおばあちゃんが子育ての重要な協力者であることがわかっています。
 ほかの霊長類とは異なり、ヒトでは、男女や子どもがそれぞれ獲得してきた食物を分かち合い、特に大人から子どもに積極的に食物を提供します。ヒト以外の霊長類でも母子間や大人間で食物を分配することはありますが、他個体が食物を取っていくのを黙認するという側面が強く、ヒトのように積極的に分け与えることはまれです。こうした特徴のため、ヒトの子どもはスキルが未熟で体力が弱くても、肉や根茎など、獲得が難しいけれども栄養価の高い食物を多く食べることができ、病気や怪我をして一時的に食物を獲得できなくなっても、飢え死にすることなく、回復し生きながらえることができます。
 離乳が早く柔軟であることも、ヒトの多産な性質に貢献しています。授乳中は母親の体内で分泌されるホルモンの濃度が変化し、栄養条件がそこまでよくなかった場合、排卵サイクルが停止し、妊娠できない状態になります。そのため、出産間隔を短くするには、離乳を早める必要があります。しかし、ヒト以外の霊長類では、離乳が終わると子どもは自力で生きていかねばならないため、まだ独立できない状態で無理に離乳を早めると、子どもは餓死したり捕食されたりしてしまいます。一方ヒトでは、離乳後も大人が子どもに食物を提供するため、子どもの死亡率を増加させることなく離乳を早められます。また、授乳中は乳を出せる母親の存在が必要ですが、離乳が終われば、ヒトでは共同保育と食物提供によって、母親がいなくとも子どもを育てられるようになり、母親は時間やエネルギーを次の子どもの妊娠に割り振ることができます。こうした特徴のため、平均的な離乳年齢は、チンパンジーで四~五歳、オランウータンでは六~七歳ですが、工業化していないヒトの社会では二~三歳と早くなっています。さらに、ヒト以外の霊長類の離乳年齢はそこまで融通のきかないものですが、ヒトの離乳年齢は柔軟で、全体の分布を見ると○~六歳といった広い幅があります。
 このように、ヒトは、食物提供によって、子どもの死亡率を低下させ、条件に応じて早く柔軟に子どもを離乳させて出産間隔を短くできるようになりました。さらに、共同保育によって、子育ての負担を母親以外にも分散させ(イラスト)、上の子どもがまだ独立していない段階で下の子どもを産み、手のかかる子どもを複数同時に育てられるようになったのです。
現代の子育て
 長い時間をかけて進化してきたヒトの子育てに関する性質が、現代の社会・文化の状況とミスマッチを起こしている例があります。たとえば、二〇世紀になって子育ては核家族などのごく狭い関係に閉じられるようになりましたが、共同保育によって分散させていたコストや苦労が特に母親に集中し、虐待や自殺など、時に母子の命を危険にさらすほどのストレスがかかることになりました。また、帝王切開で産まれる子どもの数は世界的に増加し続けていますが、帝王切開で産まれた新生児は、腔を経由する際に獲得するはずだった、母親の持つ細菌の一部を受け継ぐ機会を失っており、免疫関連の疾患などにかかるリスクがわずかに増加することがわかっています。商業主義の粉ミルクが市場を席巻した結果、ヒトの早く柔軟な離乳が極端に走りすぎ、母乳のもたらす免疫的な防御を受けられずに亡くなる乳幼児が増加したという痛ましい過去もありました。進化によってヒトという動物の性質が生物学的に変わっていく速度より、ヒトをとりまく社会や文化の状況が変化する速度のほうが圧倒的に早いため、こうしたミスマッチが起こっています。
 しかし、ヒトの生物学的な性質と食い違うからといって、こうしたミスマッチをすぐさま悪と断罪することもできません。帝王切開は危険な状況にある母子の命を数えきれないほど救ってきましたし、粉ミルクは親たちの心強い味方でもありましょう。現代の日本であれば、西洋医学や多種多様の公的・私的サービスを適切に活用することで、こうしたミスマッチから生じ得るリスクは無視できるほど小さくなります。
 ヒトも長い進化の歴史を背負った動物であるという事実は、現代に生きる私たちの子育てに対して正解を指し示すものではなく、よりすこやかに子育てをするためのまた別な視点を与えてくれるものであると私は思います。人間にとっての常識や「当たり前」は、わずか数十年で変化し固定し、私たちの子育てを縛り制約します。何十万年という進化の時間の中でヒトが行ってきた子育ての原型を知り、現代社会の子育てがどのくらい同じだったり違ったりするかを考えることで、そうした束縛を一歩引いて冷静に眺めることができるのではないでしょうか。

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自明性が壊れた社会における「働くこと」

『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』より 現代社会における「働くこと」
現代社会において「働くこと」は、どのような意味をもっているのだろうか。
若者にとって「正社員」は当たり前ではなく希少価値となった。働くことの挫折から(長時間労働、パワハラから精神疾患を引き起こして)ひきこもりが量産されている。「生活困窮者支援」(稼動年齢者の「(経済的)自立」政策)が周辺事態ではなく社会のマジョリティにも抵触する重要な政策となっている。障害者が社会的包摂の名の下に「ワークフェア」(就労主導型の福祉)へと駆り立てられている。労働者が足りずに女性労働者や外国人労働者を増加させる政策が謳われる(その内実は、彼らを本気で包摂するものではなく、都合がいい労働力調達)。AI(人工知能)時代で人間の労働システムが根本的に変わっていく(基本はまず首切り)とされる。そんな現在において、「働くこと」の意味を考察するのか本書のテーマである。
私自身の「労働と社会」テーマとの関係は、フランスのプレカリテ問題を起点とした安定さ。二〇〇六年、CPE(初期雇用契約)によって二六歳未満の若者の雇用を、試用期間が二年であり自由に解雇できるとしたことに対する大規模な抗議運動が起こった。『ネオリベラリズムの精神分析』の冒頭で紹介している)プレカリテ社会およびネオリベラリズム社会において問題となるものだった。安定的な「雇用労働社会」(後に見る。それは男性社会でもあった)の解体は、第三の「資本主義の新たな精神」が志向した、ヒエラルキーを廃す水平的・ネットワーク的関係、グローバルな社会での移動自由な主体・社会と呼応している。このことはフランス社会では知識人はもちろんサルコジでさえ名指ししていた、既成の秩序を破壊する六八年世代の志向とイデオロギー(「第三の資本主義の精神」)の帰結でもあった。
しかし、この思想(と社会設計)、すなわち「第三の資本主義の精神」が示す思想や社会設計上の主体や社会についての思考において欠けているのは、人間がもともとは非対称な関係(ケア関係)のもとで構成されており、言語や文化も他者から与えられ、他者を媒介に言語や文化と接続する時に、身体や感情とそれをケアしている生活世界が重要であるという認識であった。そして、新しい社会の構築が、ケアを可能にしている生活世界を知らずして解体してしまう危険性を指摘したのか、ネオリベラリズムの精神分析』。臨床社会学ならこう考える』だった(とはいえ、あれから一〇年、生活世界はすでに根本的に再編成に入っており、労働はもちろん社会について考える新たな枠組みが必要とされている)。
「労働」は、近代社会という新しい社会編成の中で、社会構造の中核に組み込まれている事象であり、その構造に現在軋みが生じているとしても、この構造を再編成し直すことを考えることは、簡単ではない(それだけ労働は福祉や経済、さらには教育、家族、ジェンダーの結節点である)。現在強力な方策の一つである「ベーシックインカム」(BI)を例にとっても、さまざまな思惑からの議論がある(保障を掲げる左派的な議論からも、コスト軽減と福祉削減を求める右派的な議論からも、その両方から異なる観点をもって注目されている)。
また、AIやロボットが社会を担いつつある現在、「第三の資本主義の精神」は、単に既成の制度やヒエラルキーを解体し水平でフレキシブルなネットワークを構成するだけでなく、社会の流動化と解体により、人間を象徴性や言語から引き離してAIの求めるアルゴリズムヘと直結させてそれに適応させていく力や動きももってきた。
経済の中核を占めるようになったサービス産業は、消費者は「王様」であるという言説のもとで、実際には「消費者労働」を含めシステムのアルゴリズムやテクノロジーヘと人々を適応させつっあり、ラカンのいう「アクセス可能になった」「見せかけの現実界化」(「象徴性」や、人々を身体や他者と接合する「想像性」を失って、「もの」化)しつっある。
そこでは、欲求の即時的な充足が人間を幸福にするわけではなく、社会学のアノミー論(社会的規範が弱まり、人々の欲望が規制できなくなって起こる社会不安についての議論)が指摘してきたように、むしろそれによって人々は不安を増大させ、ギデンズがいうように、再帰性が暴走するアディクション(依存)に陥っていく(アディクションは、人間にとって安定的な装置である「他者」の不在を埋め、「他者」の即時的な代替となっている。すなわち結局のところ、他者に関わる装置が主体には必要であることがわかる)。竹中均は、自閉症者(非定型発達者)が「反復」に頼るところを、定型発達者は現在「アディクション」に頼るとする。定型発達者を支えていた社会の制度、定型性、恒常性が解体しつつあるからである。ギデンズは高度近代における「関係の純粋化」について指摘したが、竹中は、私たちは親密性が制度(結婚の確実性等)によって守られず、純粋な関係の再帰的維持(自分たちが常に愛し合っていることを確認しながら関係を持続する)という困難なタスクのために、DVなどの暴力に巻きこまれやすいと述べる。逆にそこでは自閉症にはそのリスクはなく、定型発達にとってのアディクションに当たるものが、彼らにおいては、不確実な世界から身を守る「反復性」になると指摘する。
そうなれば、AIが自由に人々にアクセスする社会では、非定型発達者=自閉症者たちにとって、定型発達者と非定型発達者は同じ土俵に載せられるため、定型発達者が自明としたマジョリティ社会から排除されることはなくなり、今までよりも生きやすい社会となるかもしれない。がそれは、形を変えていえば、非定型発達者が抱えていた困難、「情報の過剰」(フィルタリング不能)や「他者の不在」等の危機が、定型発達者にとっても別の形で自身にとって見えやすくなった(ユニバーサル社会になった)ことを意味し、今までのような自明であり意識しなくて済んだ・「楽園」から定型発達者が追放されるということを意味する(それを定型発達者にとっての「自由」というのが「不幸」というのかは、私たち定型発達者次第である)。
それは野尻英一たちのいう「定型発達の当事者研究の始まり」としての「自閉症学」の始まりでもある。社会の変化に伴う自明性の解体は徐々に進んでいるため、私たち定型発達者は、私たちの自明性の喪失とそれによる「症状」を意識していない(それは、ある時には、貧困者を大量に社会が生んでいるという点だけでない、精神的な「生きづらさ」として現象しているかもしれない)。「自閉症学」‐定型発達者の当事者研究の出現は、こうして、「働くこと」も含め、私だちと社会の関係を根本的に相対化して認識し再編成する時期に私だちがいることを示唆している。
しかし、現実には、その認識や意識をもつよりはアディクショソに陥り、「見せかけの現実界」に同化‐適応し(労働の現場では「過剰労働」)、またはひきこもって、労働および労働と繋がる社会を拒否する。
また、現在のように消費社会の中で消費へのアディクションにおいて主体が形成されている時、待ったなしのグローバルな環境問題も、人々の否認において着手されない状態が続いている。AIに人々が適合していく社会では、環境問題も合理的なアルゴリズムで解決されるとし、そこでは人々は能動性を失い倫理も手放しているかもしれない。
とはいえ、近代の労働が強く結びつく生産至上主義志向は環境問題と抵触するため、むしろ労働なき社会の方が望ましいとする価値志向も現在起こっている。倫理的消費やグローバルブランド大企業への不買運動、グローバル資本主義批判の社会運動等も世界的にネットワーク化されっつある。
もちろん、ここで環境志向は、消費トレンドである、消費の脱物質化、サービス化、情報化とも連動しており、環境と貧困を結び付けて誰一人とりこぼさないとする「SDGs」(Sustainable De-velopment Goals:持続可能な開発目標)は、被投資リスクを避ける企業経済戦略でしかないとする批判もある。
脱物質的で環境を志向する、新しい価値を伴うさまざまな動きは、こうして、シェアリング、SNSによるネットワーク、ベーシックインカム、SDGsなど、第三の資本主義の精神が示唆したようなネットワーク社会において、流動的で、制度的には不安定である。生存する手段と不正や格差、環境問題を解決する新しい社会的制度といえばベーシックインカムや協同組合的な活動等が起こりつつあるが、代替できる状況ではない。またアイデンティティの問題や社会への所属の点でも、グローバリゼーションと個人化の進む社会で、現在の雇用や労働以外に、これだけ強く社会と結びつく代替的な装置を人々は簡単に見出すことはできない。
本書は、労働が現在と新しい社会においてどのようなものとしてあるのが考察するにあたり、これまでの議論で欠けている、他者との関係で構成される主体の観点において、精神分析の枠組み、およびそれが社会構造と関与する点について社会学の枠組みで考察する。

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