goo

家族と教育--家族間の問題

『正義論』より 家族と教育 正義の場所としての家族 家族と教育--家族内の問題
親権と教育機会の平等
 以上見たように家族と教育をめぐっては、家族内において潜在的な正義/不正義の火種がある。本節では次に、家族間で生じる問題を取り上げよう。問題は、子どもの教育に対する親の熱意と投資の違いが、子どものその後の人生を一変させかねないような影響を残しうることである。もし親にわが子への特別な配慮を認めれば、どの親のもとに生まれるかという偶然性が子どもの将来にもたらす影響はそれだけ甚大になる。要するに家族という場所は、教育を通じて社会的不平等を再生産する場所としても機能しうるのだ。
 近年、格差社会論が人口に諸矢して久しいが、その多くでは教育が格差の原因あるいは結果の一要素として、しばしば登場する。社会学者が指摘するところでは、日本でも確実に階層社会化が進みつつあり、その過程の一部には教育を媒介とした階層の再生産がふくまれるという。これらの議論は、出自→教育→階層の影響関係を実証的に明らかにしている。教育は私たちの生の見通し全体に多大な影響を与えるがゆえに、その資源としての性質と分配の公正性を問うことが必要となる。
平等を支持する議論
 ロールズは、本人の選択の結果ではない偶然性の一種として、才能や意欲などとならんで、どの家族のもとに生まれるかを挙げていた。もし、このような「道徳的観点からは恣意的」な要素が人々の資源分配に影響を与えるならば、正義の第2原理が規定する公正な機会の平等は達成できないだろう。運平等主義の用語を用いれば、家族は本人の自己責任の範躊にあるとは言えない状況の一種である。学校教育はこうした偶然性から生じる不平等を中和するように再設計されなければならない。
 それでは、学校教育をどのように設計すればよいだろうか。1つの方策は、個々の家族の経済力や教育熱の違いにかかわらず、少なくとも一定の教育段階までは教育機会の平準化を行うことである。同学年の子どもに同一の内容を教えれば、家庭背景の違いという道徳的に恣意的な要素が教育資源の分配に与える影響を緩和できるだろう。こうした観点から、ハリー・ブリッグハウスやアダム・スウィフトは、学校の私事化・民営化をふくむ教育の自由化方針に反対している。
 ちなみに戦後日本教育でもまた、1950年代に導入された一連の教育政策(義務教育費国庫負担制度や学級編制および教職員定数の標準化)を骨子として、機会の平等やナショナル・ミニマムの維持という観点から、環境や条件を均した横並びの教育が推奨されてきた。とくに義務教育課程では、一定の学力をすべての子どもに身につけさせるため、全国の同学年の子どもに同一の内容が教えられてきた。高度経済成長期には、経済界の意向を受けて文部省が能力主義を導入しようとするが、教育現場および教育学界では、「競争や序列化は教育本来の目的を歪める」との意見が支配的であった。
水準低下批判・
 しかし他方で、このように教育機会を制限するならば、経済力や教育熱の高い家族は不満をもつだろう。なぜなら、教育投資によって伸ばせるはずだった生徒までも足止めを強いられるからである。これは、平等主義に対してしばしば向けられる水準低下批判の一例である。すなわち、教育機会の平準化は、有利な生徒たちの状況を悪化させるかたちで教育資源の分配を行っているのである。教育機会の平等に熱心なあまり、出る杭を打つ型の下向きの平等主義におちいってしまっているというのだ。
 ただしここでは、水準低下の是非についてさらに検討する余地がある。要点は、教育が位置財(地位財)の一種であることだ。位置財とは、財の相対的所有がその絶対的価値に影響を与えるような財のことである。たとえば、進学率が低いなかで少数者のみが大学に進学するなら、その学歴には高い社会的価値が付け加わる。しかし、進学率がきわめて高いなかで大多数が大学に進学しても、大卒という肩書の社会的価値はそれほど高まらない。教育という財は、自分がそこから得る価値と同様、他人がそこから得る価値によっても左右されるのである。
位置財と水準低下
 教育が位置財としての性質をもつことは、水準低下に新たな意味を与える。すなわち、教育機会を平準化することは、たしかに有利な生徒たちにとってマイナスになるかもしれないが、同時に不利な生徒たちにとってプラスになるのである。学歴がそうであるように、位置財は、全員が十分にもつことはありえず、誰かが利得を得れば、別の誰かが損失をこうむるというゼロサム的性質をもつ。すると、教育機会の平準化によって有利な生徒たちの教育機会を制限するなら、その変化は同時に不利な生徒たちの位置的状況を絶対的に改善する。
 これは下向きの平等主義だろうか。必ずしもそうではない。たとえば優先主義は、社会の相対的・比較的な差異に注目するのではなく、よりめぐまれない人々の絶対的な水準を改善することを重視する。ところで上述のとおり、教育機会の平準化によって、不利な生徒たちの位置的状況は絶対的に改善するのであった。それゆえ、よりめぐまれない人々の利益がより重大であるという優先主義的理由に基づいて、少なくとも位置財としての教育に関しては、水準低下を行うことが正当化されるだろう。
 ただし、この結論は教育がどれほど位置財としての性質をもつかに依存する。教育という財の価値には社会的側面があるが、同時に個人的側面もある。すなわち、教育を受ける者にとって、それは単に社会内の自分の位置を決定するだけの手段ではない。教育はそれ自体で受け手にとって内在的に価値をもつのだ。教育がよい職業に就く、あるいはよい収入を得るための手段であることをやめ、受け手にとって純粋に楽しみや必要の源泉となるならば、私たちは教育格差をそれほど問題視する必要はなくなるだろう。
適切性を支持する議論:
 以上のように、平等主義と優先主義は、ともに教育機会の平準化を支持する議論に結びつく。それに加えて、十分主義に基づく議論もある。十分主義は、すべての人々が適切に設定された一定の闘値以上の水準にあることを重視する。これを敷粉すれば、教育資源の分配指標としては、平等よりも適切性がふさわしい。こうした考え方は、世界人権宣言(第26条)、国際人権規約B規約(第13条)、児童の権利条約(第28条)などに盛り込まれた、初等教育の義務化・無償化のアイデアにも反映されている。
 たとえば、民主的平等論をとなえるエリザベス・アンダーソンは、社会集団の帰属の違いにかかわらず、万人が大学進学への準備に必要な程度の闘値を保障されるべきであると論じる。民主主義社会は、社会全般に対して責任と指導力を発揮するリーダーを必要とするが、そうしたリーダーは、さまざまな地位や階層を代表する各集団から構成され、高等教育を通じて統合されることが望ましい。平等を支持する議論は教育達成を私的財として捉えているが、それを誰にとっても有益なある種のメリット財として捉えるならば、閥値以上で教育資源の不平等が生じても、それが羨望や不平の対象になることはないだろう。
 同様の十分主義的議論は、エイミー・ガットマンも展開している。ガットマンは学校教育の目的を、民主的人格を育成することに求める。それゆえ、すべての子どもに対して、民主的参加の能力を発達させるために必要かつ十分な教育資源を分配しなければならない。その内実は、読み書き能力から、批判的思考や熟議の能力、相互尊重の精神の涵養など多岐にわたる。教育機会の不平等は、もしあるとしてもすべての子どもに民主的参加の能力を付与するという閥値を充たしたあとでのみ許容されるにすぎない。
平等の価値と家族の価値
 実際のところ、教育機会の平等と既存の家族制度を厳密に両立させることは、気が重くなるほど困難である。もしどの家族のもとに生まれるかという偶然性が、道徳的に恣意的であり中和されねばならないのだとしたら、たとえば親が子どもに与える就寝前の読み聞かせも規制の対象にすべきだろうか。ここまで教育機会の平等に固執する社会は、おそらく私たちの大半にとって受け入れがたいだろう。たとえそれ自体で重要であるとしても、私たちは平等と他の価値とのあいだでバランスをとらねばならない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 豊田市図書館... 「ティールの... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。