未唯への手紙
未唯への手紙
ジャンヌ・ダルクの系譜
『聖書のレッスン』より ジャンヌ・ダルクの系譜
ジャンヌ・ダルクの系譜
一番初めに「ジャンヌ・ダルクはこういう感じ」というので、一つ観ていただきましょう。イングリッド・バーグマン主演の『ジャンヌーダーク』ですね。
〈上映 ジャンヌが裁判で悲嘆に暮れるところ。〉
これはハリウッドのヴィクター・フレミング監督による、バーグマン主演の『ジャンヌーダーク』です。おそらく日本で一番有名な、戦争が終わったあとの洋画ブームの中で公開されて、バーグマンブームを作った一本です。
バーグマンという人は、ジャンヌ・ダルクを演じるために生まれてきたような人です。1946年には、すでに舞台でちゃんとやっています。それから48年に映画に出て、そのあとロベルト・ロッセリーニ監督と駆け落ちをして、ローマのチネチッタでも「もう1回ジャンヌ・ダルクをやります」といって、50歳ぐらいになってから、クローデルの戯曲でオネゲルが作曲した『火刑台上のジャンヌ・ダルク』にも出ています。ジャンヌ・ダルクが火灸りになって天国に行く、昇天していく問に、回想場面でいろいろ入っていくという作品です。今日は上映しませんけど、とにかく「私はジャンヌ・ダルクよ!」という感じで、生涯を全うした人でした。わたしは昔、ニューヨークに留学していたとき、ニューヨーク映画祭のレセプションパーティーでイザベラ・ロッセリーニと話す機会がありました。そのとき彼女がいうには、「ニューヨークでは、みんな母のことは知ってるんですけど、父のことは誰も忘れてしまいました。私はロベルト・ロッセリーニ劇場というイタリア映画しかやらない小さな映画館を作って、そこでイタリア映画をかけたい、父の映画をちゃんと見てもらいたいと思います」なんていってました。やっぱりイザベラ・ロッセリーニも、バーグマンの娘としてしかアメリカでは紹介されてないというので、父の映画も見てほしいと強調してました。
さて、そもそもジャンヌ・ダルクという人がどういう人かということをお話ししなければいけません。というのは、案外みんな詳しいことを知らないわけです。イギリスとフランスというのは、EU問題で今でも仲良くないんですけど、とにかく中世を通して犬猿の仲でした。なにしろ120年間戦争をしてましたから。1338年から1453年まで、イギリスとフランスがフランスの王位継承権を取りあうという争いをやっていました。
フランスにイギリスが攻めていったので、その80年目ぐらいの1412年に、フランスの田舎のドンレミというところで、ジャンヌという女の子が普通の農家の貧しい娘として生まれた。彼女は生涯ものを読んだり書いたりすることができませんでした。
ところが、13歳で突然自分の家の庭で声が聴こえてきた。天使ミカエル様とか聖女マルガリータ、聖カタリーナ、そういった神聖なる存在の声が聴こえてきて、続いて似姿も出てきた。「お前はこれから男の格好をして、イギリス軍を駆逐して、シャルルア世を王として迎えよ」というご託宣をミカエルがいうわけです。
「さあ大変だ」というのですが彼女は17歳までは、お告げを信じなかったんです。しかし、17歳になるとますます天使の声が強くなって、強迫観念みたいになってきたので、「わかった。ミカエル様、その通りです」と受け容れ、村を出て、いきなりフランス国王に会いに行くのです。そして、「自分に甲冑と剣を貸してほしい、そして旗を貸してほしい」と。そして、軍隊を率いて、イギリス軍にオルレアンの街が包囲されてるから、オルレアンを解放しなければならないという。そういう使命感に促されて、王様にいったら、王様も「わかった。お前を信用する」というので、民衆もものすごく熱狂するわけです。
イギリス軍はむちゃくちゃ強くて、フランスは負けている。ジャンヌは、いきなり現れて「神の使いだ」というので、人々は「わかった」と頼みの綱として信じたわけです。そして、彼女はオルレアンを解放した。
その前に彼女が本当に処女であるかという、検査があったようなのです。ちゃんと処女だということがわかって、神のお告げを受けた。処女であったので魔女ではないとされた。なぜならば、魔女というのは悪魔とセックスをしなければ、魔女になれない。悪魔のペニスというのは氷のように冷たくて、ものすごく大きいとか、いろんな証言が残されています。本当か嘘かわかりませんが、ミシュレの『魔女』にはそう書いてありますね。
ともかく処女であるということが確認されて、神学的に承認された。そこで、鎧兜に身を固めて、白馬に乗って、そして王家の紋章、百合の花の紋章の軍旗を振りかざして出陣。そして、オルレアンを解放。ついにフランスのシャルル7世を戴冠させる、王様にさせることに成功する。つまり、イギリス側の擁立する王様を蹴飛ばして、シャルル7世がみごとに即位できた。
しかし、そのあと、ジャンヌは非常に運が悪いことに、イギリス軍の捕虜となってしまって、拷問と異端審問にかけられる。魔女だと断定されて、最後は火灸りになりました。そのときが19歳。その後、シャルル7世がイギリス軍を追い出して、百年戦争は終わり、フランス全体はフランスのものになりました、めでたしめでたしという話なんです。フランス側から見ますと、彼女は国を救ってくれた英雄です。しかし、イギリス側の記録ではジャンヌ・ダルクはどんな風に描かれているでしょうか。みなさん、シェイクスピアはご存知だと思いますが、『ヘンリー6世』の第一幕では、ジャンヌ・ダルクというのは魔女として出てきます。それも、周りに悪魔たちがいっぱいいるんですね。ジャンヌはイギリス軍を苦しめる魔女として現れています。やがてヘンリー6世が即位するのですが、最後の幕、第5幕ではヨーク伯によってジャンヌ・ダルクは捕らえられて、「火炙りになることが決まりましたよ」という報告が来る。みんなイギリス人たちが「ああ、よかった」といって終わるのが、『ヘンリー6世』なのです。
ジャンヌはそういう風に一方では大英雄、もう一方では悪魔と契った女と描かれている。イギリス軍に捕まえられて魔女と判定を受けたわけですが、死んでから25年目にしてフランスでは異端の魔女ではないという取り消しが行なわれて、名誉回復した。それどころか19世紀半ばからは国民的に祝われるようになりました。特にフランス革命が起きて、ナポレオンが出てきたあたりから、ジャンヌ・ダルクは民衆の女神として扱われるようになった。革命というのはつねに女性形です。ドラクロワの有名な絵がありますね。フランスの革命が起こっているときに、労働者とか農民とかいろんな人がパーツと立ち上がっている一番先頭に、胸がはだけた女性が立ち上がっている。あれが革命の女神です。革命というのはつねに、revolution、つまり女性形なんです。そういう意味で、ジャンヌ・ダルクは民衆の女神であったと祀り上げられた。
19世紀の終わりにはついに、その当時の裁判記録が古文書の中から出てきて、それを歴史学者が一生懸命きちんと読み解くということになりました。今でもそれは、きちんと普通にフランスで本で売ってます。本屋にもありますし、図書館にもあります。19世紀終わりには、とにかく国民的なヒロインになってしまった。その頃、カトリックというものが、無神論や科学の発展によってきわめて弱体化して危機を迎えていました。そのときにヴァチカンの方は何とかカトリックの威厳を立て直さなければいけない。すると、ちょうど都合のいいことに19世紀の終わりに、立て続けにジャンヌ・ダルクをめぐる奇跡が3回起こったのです。ある女性がいきなりジャンヌ・ダルクの幻を見たとか、マリア様とジャンヌ・ダルクが一緒にいるとか、そういうことが3回起こった。それをそこで、報告書として、ヅァチカンに提出したわけです。秘跡というのは近代では、ヴァチカンがちゃんと認定しなければいけない。それには政治とかお金とかいろんなものがかかるんですけど、とにかく3回起こったというので、無事に認定されました。しかし、いきなり聖女、セイントではありません。まず、福女です。ワンランク下です。福女というのに選ばれて、それから1920年に列聖化され、つまり聖女として認定されました。しかしちょうどこの頃、フランスは共和制ですから、宗教を廃止というか無宗教の立場をとるわけです。フランスは政府としては、ライシテ、つまり政教分離の立場なわけです。今でもそうです。それでも、ヴァチカンとどこかで妥協しなければいけない。だから、フランスという国がジャンヌ・ダルクを国民的な英雄にして、ヴァチカンがそれを川女にするということで、ヴァチカンとフランス共和制政府が握手をする。そういう政治が行なわれました。
1920年代は、ジャンヌ・ダルク大ブームが起きました。『ジャンヌ・ダルク』という小説がいろいろ書かれて、次々とベストセラーになる。ジャンヌ・ダルクそのものがどういう点で、そういう風に評判になったかというと、まず使命感です。使命感というのは、「私は神の御使いである」「神のためにフランスを救いにきたんだ」「神の命によってフランスを救いにきたんだ」。逆にいえば、フランスは神によって保護されている、フランスは神に祝福されている国だということです。
それから、騎士道精神。白い馬に跨ってチャンバラをやる。それからもう一つ、男装の女武者というテーマ。こういうものはだいたい映画が大好きなわけです。みなさんもお分かりでしょう。たとえば、美少女が男の格好をして、馬に乗ってチャンバラをするという映画や大衆文学のヒーローといったらどこの国にもいますよね。『ベルばら』のオスカル様とか、タイの『スリヨータイ王妃』、最近ではディズニーの『ムーラン』とか。
とにかく国が危機になったときに、男たちが戦っても絶対にダメ、みんな負けてしまう、「もうダメ」というときに、処女で17歳の小娘がいきなり男装して、国を救うという物語は世界中にあるわけです。ジャンヌ・ダルクの場合は本当だった。ですから、大ブームとなりました。
ハンナ・アーレントと国民国家の終焉
『分かれ道』より ハンナ・アーレントと国民国家の終焉
ハンナ・アーレントをひとつのカテゴリーに当てはめることが容易であったためしはないが、それはひとつには一九三〇年代から一九四〇年代にかけての政治的著述において彼女が確定されたカテゴリーに対し執拗な批判を展開してきたことにも一因があろう。アーレントの初期の政治思想には彼女が回避し、また再概念化しようとしてきた一連の区分がみられる。たとえばその区分のなかには、シオニズムと同化主義、シオニズムと反ユダヤ主義、国民国家と人権、そして政治的スペクトラム上の二極化した左派と右派といった、これみよがしの差異が存在する。彼女は批評実践のなかでもとりわけ特異な実践、すなわち国民国家の政治的逆説に光をあてようとする批評実践に従事した。それはたとえば次のようなものだ、もしも国民国家が市民の権利を保証するものであるならば、国民国家はむろん必要なものである。しかしもし国民国家がナショナリズムに依拠し、おびただしい数の無国籍者を不可避的に生みだすのならば、国民国家を打倒する必要がある。そしてもし国民国家が打倒されるのなら、はたして、もしあるとして、どのようなものが、その代替物として機能するのか。アーレントは国民国家観に回収しえないような「帰属」の諸様式や「政体」概念についてさまざまなかたちで言及している。さらに初期の論考において彼女は、国家性や領土から分離されうる「国民」概念についても言及をする。そこで私たちは次のように問うこととなる。アーレントは国民国家の終焉がありうるかどうかという問いに対してひとつの答えに逢着していたのか。または、この問題に接近しつつそれを回避しようとするなかで、政治的な生にかんする多くの諸前提をゆり動かすことになったのか。
この問題領域におけるアーレントの政治的思考を特徴づけるある種の曖昧性に対し、私たちが批評的な出会いをはたすことになるであろう、二つの引用について考えてみよう。アーレントはある時、あなたは保守か、それともリベラルなのかと問われたことがある。そして彼女は次のように答えた、「わかりません。ほんとうにわからないし、これまでわかったと思ったためしもありません。そういった立場をとったことがないのではないでしょうか。ご存知のとおり、左派は私を保守的であると思っているし、保守派は私を左派であるか、異端であるか、あるいは得体の知れないものである、と思っています。はっきりといえるのは、私にとってそんなことはどうでもいい、ということです。この種のことは、この世紀におけるほんとうの問題になんの解明をもたらしもしないでしょうから」と。
第二の引用は、政治的な場にみずからを定置すること、そしてまさに、右左のスペクトラムを用いてみずからを位置づけることに対するアーレントの拒絶が、何を意味するのかをよりあきらかにする。この引用は第1章で私が引いた、一九六三年のアーレントとゲルショム・ショーレムの往復書簡に現れるものだ。アーレントのこの発言はよく知られてはいるが、よく理解されているとはいえないように思われる。その背景には、アーレントは少なくともふたつの、ショーレムをいらだたせるような公的な立場をとっていたということがある。ひとつは四〇年代終盤から五〇年代初頭にかけての、イスラエル建国に対するアーレントによる批判と関係があった。だがいまひとつは一九六三年のアーレントの『エルサレムのアイヒマン』出版と、自著に対する擁護だった。アーレントの「悪の陳腐さ」という言葉は、それを強制収容所で行われていた桁外れの悪を否定するものだと考えて、ナチス政権下に起こった六百万人を超えるユダヤ人の破局的ジェノサイドについての私たちの理解を陳腐なものにするのではないかと案じたユダヤ人共同体の多くのメンバーからの怒りを買った。
当時のユダヤ政治を批判するアーレントをショーレムは「心無い」と称し、彼女が提示した批評は愛の失敗の証左として解釈されるべきだと示唆している。アーレントのテクストはむろん、多くの記述において物議を醸すものではあった。裁判事項に関係する歴史--そこにはファシズム下におけるユダヤ人抵抗運動の歴史もふくまれる--をアーレントが誤って記述したと考える者もいたし、アイヒマン自身を悪の寓意と命名し分析すべきであったと考えた者もいた。アーレントの裁判についての記述は、しかしながら、正義に奉仕する判決には、心理学的動機が重要であるという考え方を覆そうとするものであった。そして、アーレントはイスラエル法廷がアイヒマンを有罪とし、死刑に値するとした最終判決に同意はしたものの、判決の基盤にある手続きや根拠には異を唱えた。アーレントのイスラエル法廷に対する公的な批判に対して、イスラエルの政治制度を批判するのは時機を逸しまた不適切であるとして反論するむきもあった。そしてこの裁判を反ユダヤ主義に対するより強力な告発をおこなう機会とすべきだったと彼女に求める者もいた。アイヒマンは出世第一主義者で、混乱しており、白身の恥ずべき行為のさまざまな告発状に意外にも「昂揚」していたというアーレントの見解は、何世紀にもわたる反ユダヤ主義--それはユダヤ人の完璧な抹消を目指す〈最終解決〉政策に反映されているのだが--の論理的な帰結をアイヒマンの動機のなかに見出そうとする者たちをとうてい納得させるものではなかった。
アーレントはこのような解釈(「集合的罪」などの心理的構築物をふくむ)のすべて拒んだ。それは(a)「魔性、ないし悪魔的な底の知れなさをアイヒマンから引き出すことはできず」、またもし彼がこの意味で「陳腐」であるとしても、それはそれゆえ「ありきたり」であることを意味しないということ、(b)彼の行為に関する「より深い説明」に基づいた説明には議論の余地があるが、しかし「議論の余地がないのは、そうした説明に基づくかぎり、いかなる司法処置も実効性を欠くということ」、この二点をはっきりとさせるためだった。
第1章で述べた通り、ショーレムがアーレント白身の動機に疑いをさしむけ、ドイツ左派出身のアーレントはユダヤ民族を愛していないのだと糾弾し批判しつづけたことは、つとに知られている。アーレントはこれに対し、彼女の愛は民族ではなく、個々の人びとに向けられるものだと応答した。
アーレントの回答には感情的要素が欠けていることで際立っているが、それはなぜだろう。アーレントが自分は論争の余地も議論の余地もなく当然のことながらユダヤ人である、というとき、それが何を意味するのか、はたして私たちは理解しているのだろうか。彼女はあくまで名目的にユダヤ人であるにすぎない、といっているのだろうかIつまり、遺伝的形質あるいは歴史的遺産、またはその両者の混合によるものとしてそうだということか。あるいは彼女は自分が社会学的にみてユダヤ人という立場に置かれているといっているのだろうか。ショーレムが彼女を「ユダヤ民族の娘」と呼んだことに対して、アーレントは次のようにいう。「私は自分白身以外の何者であるふりもしていなければ、これ以外の方法で自分であろうしたこともないし、そうしたいと思ったこともありません。それは、私は男であって女ではないというようなものでしょう。いってみれば、正気のさたではないことのように思えるのです」、と。彼女は「ユダヤ人であること」は「私の人生の紛れもない事実」であるとつづけ、さらに言葉を継ぐ--「ありのままのすべてのことについての基本的な感謝の念のようなものはあります。それは作られたものではなく、あたえられたものに対する感謝であり、いわば〈自然的なるもの〉であって〈制度的なるもの〉ではないものに対する感謝です」と。ここで特記すべきは女であることとユダヤ人であることは〈自然的なるもの〉の一部であり、そしてそれゆえに、いかなる文化的秩序や文化的実践に属するものではなく、自然に構成されているということだ。だが彼女は主張を誇張してはいないだろうか。
言い換えれば、そのようなカテゴリーはあたえられたものなのか作られたものなのか、そして〈自然的なるもの〉と〈制度的なるもの〉のあいだのみかけの区分を複雑にするような「所与のもの」ものを「作る」方法は、あるのではないか。結局のところ、人はこれらのカテゴリーを拒むことができるし、ユダヤ性を否定したりジェンダーを変えたりもできるし、あるいはアーレント自身がそうしていると述べるように、これらのカテゴリーを感謝の念をもって受け容れたりもできる。しかし人が割り振られたこうした特定のカテゴリーのいずれに対しても感謝の念を抱かず満足もしないこともありうるのだという事実があり、それが示唆するのは、人がどのようにそうしたカテゴリーに接するようになるかが重要だということだ。つまるところ〈自然的なるもの〉と〈制度的なるもの〉との間には、どっちつかずのあいまいなものが出現するものだし、ここから二者の間の区分を一定に保つことは必ずしもつねに可能なわけではないとことが示唆されるのだ。アーレントが自身を擁護したのは、法廷においてではなく、「ユダヤ民族」を代表するものとしてみずからを選任したショーレムに対してあてた手紙のなかだということは理解しておくべきである。アーレントは自分がユダヤ人であるということの意味を詳述するなかで、つねに自分のユダヤ性を特定のやり方で宣言し形成する。私たちはアーレントの手紙を、言うなれば、言説的自己形成のそうした二例だと読むこともできる。このようにしてみると、重要なことに思われるのは、アーレントがこの手紙のなかで、三〇年代と四〇年代を通してその著作にみられるように、そのような立場を明確にとりうるユダヤ人として自己を表明していると考えることなのだ。彼女のショーレムヘの応答は、彼女白身がそうであるところの〈自然的なるもの〉を理解する、あるいは、それに特定の解釈をあたえる試み以外のものとしては読みがたい。そしてもし実際に彼女がそうしているのであれば、〈自然的なるもの〉は文化的工作に左右されているのである。
答えを問いにする
何故、思考が浅いのか。「どうして、一度きりの人生だから思い切りやろう」という言い草。 #社会の事象
ここまで来たら、本来もっと違うでしょう。なぜ、一度きりの人生なのか、の意味をハッキリさせることでしょう。
答えを問いにしないといけない。答えが答えのままでは意味をもたない。 #答えを問いにする
596『世界一おいしい手抜きごはん』 #本の予約
本当に本は買えないですね。実態を知っているからでしょう。あまりにも内容が少ない。 #本は買えない
スタバのクリスマスのグッズ。ノートとフォークとナイフ。ともに2000円。 #スタバ風景
駅前スタバは勉強チームで占領されているので、元町まであるいてきた。ここも4組ぐらいします。二人組が二つ、一人は3人います。二人組は机を占領します。無印の休憩所にも居た。女性のバイタリティを感じる。 #スタバ風景
答えから問いを作っているけど、これは一気に片づけるものではない。そうでないとグチャグチャになりそう。ゆっくりやっていこう。 #答えを問いにする
問いに内在するものと、拡張するものがある。内在するものは方向だけ示す。拡張するものは新たな問いを展開する。時間の制約をなくす。途中とか終わらないとか関係ないところまで来ている。 #時間の制約をなくす