未唯への手紙
未唯への手紙
オペラ ワーグナー
『オペラ入門』より ワーグナー~巨大な、あまりにも巨大な「過剰の人」
禁じられた愛の物語
ワーグナーは、極端なエゴイストでした。そのせいでいろいろな人の人生を変えてしまいました。最初の妻が死んだのち、自分の作品を積極的に演奏してくれる名指揮者の妻を奪って再婚しました。恵まれない時期に自分を援助してくれたスイスのお金持ちの奥さんと、怪しい関係になったこともあります。
南ドイツのバイエルン王国の王様ルートヴィヒニ世(一八四五-八六)とワーグナーの交遊もよく知られています。ワーグナーが借金で首が回らなくなり、もう首をくくるしかないという瞬間に、この即位したばかりの青年王の使者がやってきて、救われたのです。まだ二〇代だったルートヴィヒニ世は、ワーグナー作品に夢中になっており、借金を肩代わりしてくれたばかりか、さらなる膨大な出費も厭いませんでした。ワーグナーはそれを利用し尽くしました。しかも、金だけの問題ではありません。政治にも口を出したがりました。廷臣たちが、このままだと王国が危ないと心配して、ワーグナーを追放しようと決意したほどです。
結果的には、ワーグナーは、バイエルン王国のはしっこにあるバイロイトという地方都市に移り住み、ここで理想の劇場を建てることにしましたが、その際彼が大いにあてにしたのも、ルートヴィヒ二世の財布でした。
こんなふうにワーグナーは、恩を仇で返すことを繰り返しています。人でなしと呼んでも言い過ぎではないでしょう。そんな芸術家が生み出した作品だからすばらしいのか。すべての悪行は、名作を生み出すための肥やしだったのか。そうかもしれません。金銭問題はともかく、ややとしい男女関係の経験が生かされていることは間違いありません。ワーグナーが書いた作品の中でもとりわけ名作とされている「ワルキューレ」(一八五六年)と「トリスタンとイゾルデ」(一八五九年)は、どちらも禁じられた愛の物語です。「ワルキューレ」では、兄と妹が激しくひかれあい、ついに一線を越えてしまいます。その結果生まれるのが、比類なき英雄ジークフリートです。ワーグナーは、近親相姦によってこそすぐれた血筋が続くといわんばかりです。ナチの純血主義を思い出させます。
「トリスタンとイゾルデ」は、若い騎士トリスタンが、老王の若い妻イゾルデと激しく愛し合ってしまう話です。この不倫カップルには、反省や罪悪感などありはしません。逆に、自分たちの関係こそ最高の真実であり、一般の世の中は嘘だらけだと罵る始末です’ワーグナーが書いた禁断の愛のシーンが、すさまじい恍惚感に満ちているのは、間違いなく実体験があればこそでしょう。芸術家の人間性と作品は必ずしも一致しているわけではなく、一応は切り離して考えるべきなのですが、そうは言っても、ワーグナーの波瀾万丈の人生が、作品と無関係のはずがありません。
「さまよえるオランダ人」--「妄想」にして真実の物語
さて、そのワーグナーの代表作とは何でしょうか。どれが最高傑作の名に値するのでしょうか。いろいろな意見があり得るでしょう。先に挙げた「トリスタンとイゾルデ」はもちろん大傑作です。そして、「ワルキューレ」を含む大作「ニーベルングの指環」もオペラ史上に輝く金字塔です。しかし、しばらく前から私は、ワーグナーのもっともワーグナーらしい作品は、「さまよえるオランダ人」(一八四二年)と「ローエングリン」(一八四八年)ではないかという気がしています。二〇~三〇代の仕事です。
このふたつは、ワーグナーが書いた、もっとも馬鹿馬鹿しいストーリーのオペラではないでしょうか。「さまよえるオランダ人」の主人公は、傲慢さゆえに、永遠に海をさまよわなくてはならないという呪いをかけられた船長です。七年に一度陸に上がることが許されているだけ。あとは、荒れた海を永久に漂いつづけるしかないのです。でも、この呪いが解ける可能性がただひとつだけあります。船長に永遠の愛を誓う乙女が現れたときだけ、救われるというのです。
とはいえ、船長はいったいどうすれば、そんな乙女に出会えるのでしょうか。上陸ができなければ、出会いの場などありません。しかも、どんな物好きの乙女が、呪われた陰気な船長を好きになるというのでしょうか。可能性は、まずないと考えるしかありません。そんなことは船長もとっくに承知ですから、永遠に苦しみ続けねばならないことを嘆くばかりです。
だが、ひとり、本当に船長に愛を捧げるつもりになった乙女が現れたのです。その名はゼンタ。一応、エリックという彼氏らしい男はいます。少なくとも彼のほうは、ゼンタと結婚するつもりでいます。でも、ゼンタのほうは、伝説のような話で聞いたことしかない船長に妙に関心を持ち、心から同情して、自分が彼を救うのだと信じるに至ったのです。家にはオランダ人の肖像画があり、それが彼女の空想をかきたてたのでした。
話を聞いて、絵を見ただけで、夢中になるとは……。いやはや、若い娘のロマンティックな思い込みだとしても、いささか度が過ぎます。周囲の人々は、ゼンタの空想を笑いますが、「ゼンタのバラード」と呼ばれる激烈な歌で彼女の本気度が示されると、黙ってしまうしかありません。彼女の周囲だけどす黒く怪しい異界の霧が漂っているようなこの歌、狂気の熱が噴きあがるようなこの歌は、しばしばコンサートでも歌われる名曲です。
周囲の嘲笑とは逆に、物語は、ゼンタが思い描いている方向へ進みます。本当に船長が姿を現したのです。ゼンタの父親は、船長からたくさんのプレゼントをもらってほくほく、ふたりが結婚することに異存はありません。
エリックが駆けつけ、ゼンタを引き留めようとします。ゼンタに婚約者がいたと勘違いした船長は、怒り、絶望し、再び船を出します。ゼンタは、船長への愛が本物であることを証しするため、海に飛び込んで死にます。その瞬間、船長の魂は救われます。
普通に考えれば、ありえない話です。たとえあったとしても、正気から逸脱したような話です。傲慢ゆえに神に罰せられた男。なぜ彼を愛する乙女が現れれば、救われるのでしょうか。理由がよくわかりません。
あるとき、さるドイツ人の教授にここのところがよくわからないと言ったことがあります。「キリスト教の伝統的な考え方で云々」と説明してくれたのですが、そういう月並みな説明を私は欲していたのではありませんでした。心の底から納得するような理由を知りたかったのです。乙女の純粋な心によって救われたいという男の願いは、たとえばゲーテの『ファウスト』にも描かれているように、どうやら男の側がひっそりとかつ一方的に抱きがちな願望であり、早い話、虫のいい甘えです。特に男女平等が常識となっている現代においては、噴飯ものと言うしかないでしょう。
しかし、私が、「さまよえるオランダ人」が本当にワーグナーらしい作品だと思うのは、まさしく、こういう常識からすれば馬鹿馬鹿しい物語だからなのです。心底、自分で信じていなければ、願っていなければ、こういう類の馬鹿馬鹿しい物語など作れません。つまり、「オランダ人」はワーグナー自身にとっては抜き差しならぬ真実の物語に違いないのです。そして、芸術とは、こういう、自分にとっての真実を極限の誠実さで表現するものでなくて何でしょう。自分が作っているものが、世の中や他人とはかけ離れていることくらいわかりそうなものです。でも、わかっていても作るしかない。それが、選ばれた芸術家の仕事です。
「ゼンタのバラード」の迫真性、鬼気迫るような迫力。こんな野蛮な、聴く者を力ずくで圧倒するような歌は、そうあるものではありませんが、狂っているように見える人間のほうが、他の人々よりも正しいのだと思わせる説得力があります。夢こそが真実。想像力こそが真実。ワーグナーの作品は、それを強く言っています。だからこそ、ワーグナーの芸術は危険でもあるのです。毒があると言われるのです。ワーグナーを聴いていると、これこそが正しいのではないかという気がしてきます。もしかしたらナチの人々はワーグナーの誇大妄想的な作品の影響を受けたのではないか、そんな疑いが生まれてしまうのは、このような音楽の力ゆえです。
所有権 共有
『民法Ⅱ--物権』より
共同所有の諸形態
共同所有
社会には、種々の原因により2人以上の者が一個の物を共同して所有する場合がしばしばある。たとえば、①友人2人で資金を出し合ってヨットや別荘地を購入した場合、②複数の相続人が家屋敷を共同相続した場合、③共同の事業を営むため数人が出資して組合をっくり、店舗を購入した場合、④村落共同体の構成員が入会地(共同で利用する山林原野)を全員で所有する場合、などである。こうした場合における各人の権利は、他の共同所有者との関係でも、第三者との関係でも、単独所有の場合とはおのずから異なった性質を帯びるから、民法は、これをひろく「共有」(広義)と呼び、特殊な取扱いを定めている。ただし、上の例示にもあるように、そのなかには多様なものが含まれているので、学説は、通常、次の三つの形態を区別する。
共有・合有・総有
第一は、狭義の共有であり、さきの例では①がこれにあたる。この場合には、共有者の間には特別な人的共同関係は存在しない。各共有者は、目的物に対してそれぞれの持分を有し、これを自由に処分できるうえ、いつでも目的物の分割を請求できる。その意味では、共有者各自の権利(持分権)は、基本的には個別の所有権と異なるところはなく、ただ目的物が一個の物であるために相互に一定の拘束を受けているにすぎない。民法249条以下の「共有」は、このような個人主義的な共同所有に関するものである。この共有は、①の例のように当事者の意思(法律行為)によっても成立するが、法律の規定によって生ずることもある。
第二は、合有であり、組合財産(例の③)がこれにあたる。この場合には、一定の共同の目的による団体的拘束が存在するため、各共同所有者(組合員)は、各自の持分は有するものの、その処分の自由を制限され、目的物の分割請求も禁止される。共同の目的の遂行のために各共同所有者の管理権能が制約されうることも、狭義の共有とは異なる点である。なお、分割前の共同相続財産も合有であるとする有力説があるが、戦後の民法改正で、分割前の持分の処分が許容されたこともあって、今日では、通常の共有の特殊なものとみる説のほうが多い。判例もこの立場をとる。
第三は、総有であり、入会財産がこれにあたる。この場合には、構成員の変動にかかわらず存続する村落共同体等の集団の存在がまず前提となり、目的物の管理・処分などの権限はこの集団に総体として帰属する。したがって、各構成員は、団体的統制の下で目的物を各自使用・収益する権利は認められても、個人的な持分はもたないのが原則で、持分の処分や分割請求も問題となりえない。各共同所有者の権利は、集団の構成員としての地位と不可分であって、その地位を失うと権利もまた消滅するのである。このような総有は、個人主義的な近代的所有関係が確立する以前のふるい共同所有形態に由来する。判例では、権利能力なき社団の財産関係も「総有」とされるが、それは一種の擬制といえよう。
これらの三形態のうち、以下で扱うのは、狭義の共有である。
共有の法律的性質と持分権
共有の性質
従来から学説には、一個の所有権を数人が量的に分有する関係だとする説明と、共有者の数だけ存在する所有権が、目的物が一つであるために相互に重なり合い制限し合っている関係だとする説明との二つがある。判例の立場は、必ずしも明確でないが、最近までは、とくに共有者相互間の紛争にかかる事案で前説に近いようにみえる論旨を説いた判決が目立っていた。しかし近時に至り、一部の共有者と第三者との間の紛争の事案においてむしろ後説との理論的親近性を示すようにもみえる判決も登場している。もちろん、学説における両説の相違は基本的には理論的なもので、具体的な適用上の差異はあまりないから、さほどこだわる必要はないとする見方もありうるが、むしろ、共有には上の二つの性質が同時に内在しており、共有の性質が問題とされる局面の違い(ないしは紛争・訴訟の類型の違い)に応じてそのいずれかがより強く現われると理解することも可能なように思われる。
持分権
各共有者が目的物に対して有する権利--すなわち共有持分権--の性質についても、上記の両説に対応して異なった説明がなされるが、その権利が基本的には個別の所有権と同一の権利であって、その効力は共有物の全体に及ぶと解することは、共通している。両説の差異は、その権利が他の共有者の権利によって分量的に制限されていると考えるか、考えないかの違いにある。なお、民法の規定では、持分権を単に「持分」と呼んでいる場合と、同じことばで持分の割合を指している場合との双方があるので、注意を要する。
共有者相互間の関係
持分の割合
各共有者の持分の割合は、その成立原因に応じて、法律の規定または共有者の意思表示によって定まる((1)の(ア)、(イ)であげた諸例参照)が、その割合が不明なときは、相互に等しいものと推定される。不動産につき共有の登記をするときは、各自の持分の割合を必ず記載しなければならない。
なお、共有者の一人が持分を放棄し、または相続人なくして死亡したときは、その者の持分は、持分の比率に応じて他の共有者に帰属する。通常、共有の弾力性に由来するものと説かれるが、近時では、むしろ立法政策上の考慮によるとする見方が有力である。共有者の相続人が不存在でも特別縁故者がいる場合にどうなるかについては、学説上種々の議論があったが、判例は、近時の多数説と同様に、特別縁故者のための処理が優先するとしている。
共有物の利用と変更
①各共有者は、その持分の割合に応じて共有物の全部を使用できる。収益についても同様である。もっとも、共有者間の協議で具体的な使用・収益の方法が定まっている場合には、それに従うことになる。
共有物の維持・管理に関する事項のうち、②保存行為は、各共有者が単独ですることができる。たとえば、共有建物の修繕などであるが、判例はさらに、他の共有者の不利益にならないような行為をひろく保存行為と認める傾向にある。それに対して、③ふつうの管理に関する事項は、持分の価格の過半数で決定される。共有者間での共有物の利用や改良の方法などのほか、共有物を第三者に利用させる場合も含まれるが、借地借家法上の借地権の設定は、とくに存続期間が長期に及ぶものにっいては、むしろ次の④にあたるとみる余地もある。共有者の一人への使用貸借や第三者への賃貸借を解除することも管理行為にあたり、かつ、その場合には544条1項の適用もない。ただし、共有物の利用・占有状態を変更させるには、持分の価格の過半数による意思決定ということだけでは不十分な場合もないわけではない。
しかし、④共有物の変更には全員の同意を必要とする。通常、田の畑への変更、山林の伐採、共有物の損傷・改変などのほか、共有物の法律的な処分(売却や地上権・抵当権の設定など)を含むとされるが、後者は他人の持分権の処分を伴うのだから、本条の規定をまっまでもないことであろう。
共有物の負担
(a)共有物の「管理の費用」その他の負担(公租公課など)は、各共有者が持分に応じて負担する。(イ)の③に関する費用だけでなく、①、②、④等に関する費用等も含まれる。そして、(b)この義務を催告後1年内に履行しない共有者があるときは、他の共有者は、相当の償金を払ってその者の持分を取得し、その者を共有関係から排除することができる(253条2項)。また、(c)共有物の分割時にその義務の未履行者(債務者)があるときは、その者に帰属すべき共有物の部分もしくはその対価をもって、上の未履行の費用等を立て替えた共有者(債権者)への弁済が行われる。のみならず、(d)254条によれば、このような共有物に関する共有者相互間の債権は、債務者の共有持分の譲受人等に対しても行使できる。この規定も(b)、(c)と同じく管理費用等の支払を確保して共有物管理の実をあげるためのものであるが、第三者に不測の損害を及ぼすおそれもあるので、立法論としては問題視されている。