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現代の大聖堂、現代の図書館

『新たなルネサンス時代をどう生きる』より 大聖堂、信じる人と疑う人

五百年後、やや小さな集団が、クレーンと大型機械の助けを借りて、サン・ピエトロより数倍大きな建築物を、数十年早く建てられるようになった。他の多くの分野では、人はいまだに規模に太刀打ちできずにいる。しかし今、人々の集合的能力の向上は、現代のいかれた夢想を手の届くところまで引き寄せつつある。

ほとんどの人は、すでに新しい力を鋭く感じ取っている。ほんの十年前には不可能だったことが、今では当たりは、何万もの人々によって、一クリックずつ構築された。こういう人々は世界じゅうに散らばっているが、共通の関心によってインターネット上に集められている。彼らの共同作業は、それぞれの分野できわめて幅広く利用されるようになった。ウィキペディアは、印刷版の百科事典のほとんどを市場から締め出してしまった。アパッチはあらゆるインターネットサーバーの六十パーセントを動かしている。前回のルネサンス時代の図書館と同じく、フェ前になっている。ウィキペディアやオープンソースソフトウェア(リナックス、アパッチ)のような現代の大聖堂イスブックやユーチューブはおおぜいの人々によってまとめられ、多くの形で人類の歴史を記録している。〝コラボレーション〟は流行語となり、日常生活の一部となった。それは人々の仕事ぶりを測る尺度や、助成金申請の基準、企業戦略と政府計画の優先事項、そしてまったく新しいソフトウェア産業にもなっている。

モバイルデータ接続の広がりによって、今やコラボレーションは生活のあらゆる瞬間の一部となっている。前回のルネサンス時代、人々は互いの顔を見るために町の広場へ行った。新しいルネサンス時代、町の広場は、人々の個性、選択、行動に関するリアルタイム・位置ベースのデータという形で、常にそばにある。買い物、食事、運動、旅行、待ち合わせなど、ますます幅が広がる必要を満たすため、いつでもそこを訪れられる。愛やセックスを求めるパートナー同士を引き合わせたり、さらには、起業家と投資家、運転手と乗客、空き部屋と旅行者、地方自治体と町の小さな問題、助けが必要な人と優れたカウンセラー、問題とそれを解決する人材、、被害者と支援者と監視機関を結びつけたりすることができる。

十年前には、こういう事業やフォーラムは、どれも実現不可能だった。今では、誰もが話し、学び、つくり、共有し、実行し、援助する方法として不可欠な一部であり、そういうあらゆる物事をさらにすばやく、効率的に、大きな規模で、(ときには)内密に行うことを可能にしている。

しかし、新たな集合的努力のなかで最も野心的なものは、あまり知られていない。それは、日常生活の支援ではなく、人間の文明と科学を束縛してきた長年にわたる規模の限界-日進月歩の計算資源でさえ乗り越えられない限界を打ち破ることを目的としている。

第一は言語だ。それは人間の文化と知識を、理解し合えない孤島に分断する。今日の〝共通語〟である英語を理解できるのは、世界人口の約二十五パーセントにすぎず、そのレベルもさまざまに異なっている。母語の意味をきちんと把握して人類の半分と接するには、十四言語以上、四分の三と接するには四十言語以上話せなくてはならない。人類の言論の主要な場であり、知識の宝庫であるインターネットも、同じように言語の壁で区分されている。何を見るかは、使う言語に左右される。英語を話す人は最も豊かな貯蔵庫を利用している。世界のツイートとオンラインでの最も学術的な研究の半分は、英語のみだ。五百万本の記事を載せている英語版のウィキペディアは、次点の言語版(ドイツ語、百九十万本)の二・五倍以上、上位五十言語版の中央値の十五倍以上大きい。一方で、英語利用者は、非英語のウェブで進展している大規模な現象には、ほとんどまったく気づかないでいる。たとえば、中国のソーシャルメディア(主要な通信プラットフォームであるウェイボーとウェイシンは、ユーザー基盤とチャット量に関してはツイッターをはるかに上回る)、ノリウッド(ナイジェリアのハリウッドという意味で、その携帯動画は、この国をインドのボリウッドに続く世界第二位の映画制作の中心地にする一助となった)などだ。総合的な結果として、国境を越えるデータの流れは二〇〇五年以来、約二十倍に急増したものの、もとの地域を出ていく国際取引は約半分しかない。これは国境を越える商品(六十八パーセント)よりはるかに少ない。商品は、かさや重さがあっても、言語や文化の相違に邪魔されにくいからだ。

完全な多言語のウェブは、文明にとって計り知れない価値のある贈り物になるだろう。残念ながら、これまでのところそれは、人間の能力を超えている。ウィキペディアの英語版全体を、たったひとつの主要他言語に翻訳するだけで、少なくとも一億ドルのコストと、一万人年の時間がかかる。たとえ誰かが資金を出す気になっても、目的言語によっては、取り組む翻訳者の数が足りないかもしれない。コンピューター作動の翻訳エンジンが、いくらかその作業を自動化できる。たいてい、外国語の発言が意味することの要点は伝えられる。しかし、一九九〇年代のアルタビスタのバベルフィッシュから、今日のグーグル翻訳まで、あらゆるエンジンの利用者が明らかにしているとおり、意味の多く、明瞭さのほとんど、文体のすべてが、今も翻訳の過程で失われている。人間の翻訳者は原文全体の意味を把握することから始め、次にそれを目的言語で忠実に表現しようとするが、コンピューターは個々の単語--またはせいぜい熟語--を認識することから始め、次に全体の結果を考慮せずに、他言語の類似語をつなぎ合わせる。本当に優れた翻訳ができるようになるには、あと数年かかるだろう。

それでも、多言語のウェブはすでに実現可能になりかけている。かつて要素に組み込まれていなかったのは、他言語に対する学習意欲の広がりだ。最近の推計では、十二億人強にのぼる。また、ウェブの文章を少しばかり翻訳することは、多くの言語学習者が楽しみ、無料でもやりたがる有益な練習であることがわかった。その結果、集合的な翻訳資源は途方もない伸びを示している。すでにエンターテイメントや他の人気コンテンツでも、その存在感は増してきた。中国では、ハリウッドの超大作やヒットしたHBOのテレビシリーズが、アメリカでリリースされたその日のうちに、中国語の字幕つきでオンラインで手に入れられる(字幕は英語を学んでいる熱心なファンたちがつける)。オンライン教育ポータルのカーンアカデミーでは、六千本の教育ビデオのほとんどが、ボランティアによって六十五言語からひとつ以上の字幕をつけられている。別のオンラインポータル、TEDは、二万二千人以上のボランティアを集め、八万以上のjlEDトーク〃を百以上の言語に翻訳している。合計すると、二〇一五年には世界じゅうのボランティア翻訳者の数が、およそ二百~四百万人にのぼったと推定される。彼らはたった一年で、エンターテインメント、教育、ニュース、災害救助(たとえば被害者のツイートをリアルタイムで翻訳して緊急時対応者に伝える)などの分野で、二千五百万~五千万時間の無料の翻訳サービスを行った。

才気あるビジネスモデルは、どうやって集合的な翻訳力をさらに拡大して、ボランティアが放置している公的なコンテンツに(あるいは報酬を払って私的なコンテンツに)適用すべきかを考案している。カーネギーメロン大学計算機科学部准教授ルイス・フォン・アン博士が創設したデュオリンゴは、その一例だ。これはウェブとアプリベースの学習プラットフォームで、言語学習者にウェブからーたとえばウィキペディアの記事やCNNのニュース記事から--の実際の文章を示して、翻訳を促す。複数の生徒が同じ文章を同じように訳したら、システムがその翻訳を信頼できると見なし、次にそれを原文の所有者に返すか、売り戻す。学習ツールは利用者には無料で、ゲーム性があって効果的なので、学習者が殺到している。デュオリンゴは、二〇一二年六月、利用者三十万人で始まった。三年後には、二千五百万人(アクティブユーザー千二百五十万人)が十三の異なる言語を学び、さらに八言語が開発中となった。もし充分な数のデュオリンゴ利用者が第二言語熟達度で初心者から上級レベルに進歩すれば、すぐにでも、ウェブでかつて克服できなかった言語の壁の多くが破られるだろう。上級のユーザーが百万人いれば、デュオリンゴは英語版ウィキペディア全体を約百時間で翻訳できる。

集団で打ち破りつっある第二の規模の限界は、科学データ分析だ。〝科学の多くの分野で障害となるのは、どんなデータを得られるかではなく、持っているデータで何かできるかだ〟と天体物理学者のクリス・リントットは言う。データは豊富にある。その選別能力がないのだ。コンピューター作動の機器は、研究者が求めるデータ--リントットの場合、遠い銀河の画像--の収集は日々上達しているが、求めるパターンの認識や、意味のある信号と無意味な雑音との区別はまだかなり不得意だ。その結果、いつか研究するための膨大なデータの備蓄がますます増えていく。スイスにあるCERNの大型(ドロン衝突型加速器は、素粒子がどんな動きをするかについて、毎秒一ギガバイト近くの新しいデータを生んでいる。世界じゅうのDNA配列解析装置は、人間の遺伝子の働きについて、合算すると毎秒一~ニギガバイトのデータを量産している。NASAでは、データが空から降ってくる。その多様な任務は、宇宙について毎秒約百五十ギガバイトの新たな観測結果を生んでいる(ちなみに二〇一五年、フェイスブックの十五億人余りの利用者は、合計で毎秒約五ギガバイトをアップロードした。あなたは世界全体のニュース配信についていけるだろうか? NASAの問題はそれより三十倍大きい)。同じデータの大洪水が、気象学者、地質学者、社会学者、経済学者などのほとんどのデータ主導の研究者たちに押し寄せている。科学はすでに、たくさんの大きな疑問に対する答えを集めてきた。人間がまだ、それを知らないだけだ。

しかし、じきに知るようになるだろう。集合天才のさまざまな功績のおかげで、パターンをとらえて雑音を除去するのはコンピューターには困難かもしれないが、人間の脳には簡単にできることがわかった。間違いは、白衣を着ていない人を科学研究から締め出したことだった。現在、コンピューターを最も得意な分野に集中させるよう研究方法を設計し直し、最も必要な場所に人間の知力が提供されるようにおおぜいのボランティアを募ることで、〝市民科学〟が、広範囲の分野を悩ませてきた分析上の障害を克服し始めている。

二〇〇七年、クリス・リントットとケヴィン・シャヴィンスキーはギャラクシーズーを共同創設して、アマチュア天文学者を募集し、二〇〇〇年から撮影されてきた約九十万の銀河の目録づくりと分類の援助を頼んだ。その作業は、ひとりの熱心な大学院生が一日二十四時間、週七日、年三百六十五日休まずに働いたとして三年から五年、作業を二重チェックすればその二倍かかるはずだった。しかし、十万人以上のボランティアによって半年以内に終わり、それぞれの銀河は平均で三十八回再チェックされた。二〇一四年半ばには、数十万人のギャラクシーズーのボランティアたちは、七つの巨大規模のデータセットを処理し、以前のどの版より十倍大きい銀河の目録をまとめ、四十四本の科学論文に相当する結果を生んだ。そのあいだ彼らは、長年の推測だけで未発見のまれな天文現象を見つけ、ほかにも、たとえばまったく予想外の〝ハニーの天体〟などを発見した。オランダの学校教師ハニー・ファン・アルケルは、天空の物体に自分の名前をつけてもらった。プロの天文学者でもめったに成し遂げられない栄誉だ。

ギャラクシーズーはズーニバースへと広がり、二〇一五年には、百十万人の登録ボランティアを抱える世界最大の市民科学ポータルになった。全体として、天文学、生物学、生態学、気候科学、人文科学などに及ぶ数十の活発なプロジェクトの膨大なデータセットに取り組んでいる。〝プラネットフォー〟というプロジェクトでは、火星愛好家を募り、赤い惑星の表面の地図作成に協力してもらっている。チンプ&シーでは、動物好きの人たちに、ヒョウ、ゾウ、チンパンジーなどが、アフリカの森じゅうに置かれた何百台ものカメラの前を歩いたり走ったり跳んだりする姿を見つけてもらっている。オールドウェザーは、十九世紀半ばまでさかのぼって航海日誌を書き起こすため、一般の人々の協力を求めている(古い航海日誌は、現存する最も完全な長期の気象データセットになっているが、マヌティウスの時代に見つかった古代ギリシャの原稿と同じく、散逸して世界じゅうの海事博物館や文書館でほこりをかぶっている)。エンシェントライブズは、考古学マニアを集めて、二千年前の何千枚ものエジプトの古文書を翻訳してもらっている(象形文字の知識は必要ない)。ヒッグスハンターズは、ヒッグス粒子や他のエキゾチック粒子の証拠をさらに探すため、大型ハドロン衝突型加速器のデータを選り分けてくれる人を募集している。

ズーニバースは、市民科学プラットフォームの一例にすぎない。ほかにも、ボランティアが衛星写真を調べて密漁を防いだり、行方不明の航空機を探したりするトムノッドや、人間の脳の地図をつくるのに役立つゲーム、アイワイヤーなどがある。世界じゅうで、さらに何百万人ものボランティアが、他の方法では実現できない何千もの大がかりなプロジェクトに関わっている。市民科学は、さまざまな研究分野で労働力を大きく増やしてきた。効率的な研究室の人々が一生をかけてやっていたことが、今ではひと握りの管理人によってほんの数年でまとめ上げられるのだ。

市民科学は万能薬ではない。データを大衆が利用しやすい形にし、慎重に各プロジェクトを管理して、結果が同業者のきびしい評価に耐えられるようにするには、やはり専門家の多大な努力が必要だ。ときには、それができないことがある。写真や音や特異な原稿であふれたデータセットの分析は、たとえば世界の粒子加速器によって送り出される数値の絶え間ない流れの分析より、人々の参加を募りやすい。研究機器によって生み出されたデータが膨らみ続けるにつれ、人員十万人の研究チームでさえ、遅れを取りたくなければ研究を加速する必要があるだろう。二〇二〇年に稼働する予定の巨大な電波望遠鏡スクエア・キロメートル・アレイは、それ自体が、フェイスブック五千個分と同量の新しいデータを毎日生み出すことになる。ズーニバースのチームが、効率のよい処理方法--たとえば、ほかの人より精確な仕事をするボランティアを選り抜いて、再チェックの回数を減らすなど--に取り組み、困難打開の手助けをしている。

市民科学プラットフォームはもっと洗練される必要があり、そうなっていくだろう。現在行われている最良の研究は、市民科学と、そこから学習できる機械を結びつけ、人間が新しい銀河を見つけたりヒョウとチーターを見分けたりしているあいだに、機械がそのやりかたを学び、アルゴリズムを向上させるものだ。こうすれば、人材に余裕ができ、最も複雑な事例に集中できる。一方、既存のプラットフォームはすでに、科学が発見を予期していたより何十年も早くいくつかの答えを出し、できるとは想像もしなかった疑問に取り組む後押しをしてきた。
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ロシアの破局―世界大戦

『レーニンと権力』より 破局―世界大戦

外国人たちもそう思い込んだ。一九一三年夏に英国外務省が内閣に提出した覚書は、「皇帝が姿を現わすいたる所で、民衆が皇帝その人に表わす愛情と献身は、何ものをも凌駕している。皇帝その人に対する大衆の強い愛着のなかに、ロシア帝政の偉大な強さがあることは疑いない」と確信を込めて述べている。ロンドンの『タイムズ』紙は一九一三年二月、ロマノフ王朝三〇〇周年記念特別号を発行し、皇帝ニコライと彼の国家の「将来はこの上なく確かで明るい」と書いた。

皇帝が、王朝権力の絶頂にいると思い込んでいた、まさにそのとき、彼は多くの稚拙な決定のなかでももっとも破滅的な決定を下す。ほかの何事にもまして、彼の王座と命を奪うことにつながる過ちである。その戦争は、どの参戦国よりも甚大な災厄をロシアにもたらした。レーニンが認めたとおり、もし戦争がなければ「ロシアはあと何年か、場合によっては数十年、資本家に対する革命を経験しないでいられたかもしれない」。

皇帝ニコライにほとんど同情しない一部の歴史家でさえ、一九一四年八月の段階に至ると、開戦を防ぐために皇帝にできることはほとんどなく、戦争への突進はそれ自体の勢いがついてしまっていた、と論じている。これは単純化し過ぎに思える。専制政治--少なくともきちんと機能している専制政治--の要諦とは、専制君主がその時も歴史上も、自らの決定に責任をもつということであるに違いない。ニコライには他にも選択肢があった。開戦せず、自分の生命と自分の国を、一世紀間続く災厄から救う決定を下すことも、その気になればできたのだ。

皇帝の多くの顧問は戦争に反対した。セルゲイ・ウィッテ伯爵は皇帝に、ロシアは「敗北の危険を冒すことはできません。軍隊こそ体制の支柱であり、国内の治安維持のために必要とされているからです」と諌めた。皇帝は彼に感謝しながら、そんなに消極的に考えるのはやめよと言った。ウィッテはこのあと、ロシア駐在フランス大使のモーリス・パレオローグに、ロシアがドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコの三国同盟と戦争するのは「われわれにとって狂気の沙汰です……破滅的な結果にしかならない」と語った。

内務大臣ピョートル・ドゥルノヴォは、一九〇五年革命のあと、警察局長として村落の根こそぎの破壊を命じた極右の人物だが、一九一四年二月、先見の明のある覚書をニコライに奏上し、ドイツとの戦争で予想される長期の消耗戦に、ロシアとその帝政は耐える力がないと諌言した。彼は、何が起きるかを驚くほど正確に予見している。「あらゆる惨状について政府に責任があると非難されることで、困難が始まるでありましょう。立法機関で政府を批判する厳しいキャンペーンが始まり、続いて、社会主義のスローガンを叫ぶ革命派の煽動が全国に広がって、大衆を刺激して結集させ、土地の分割に始まって、すべての有価物と財産の分割がこれに続くでありましょう。敗戦した軍は、もっとも信頼できる人材を失い、土地に対する素朴な農民の欲望に呑み込まれて、志気阻喪のために、法と秩序の防塁としての務めは果たせないでありましょう。立法機関と、知識人による野党各党は、大衆の目から見れば真の権威を有しておらず、自ら目覚めた大衆の大波を押しとどめるには無力であり、ロシアは絶望的な無政府状態に投げ込まれるでしょう。その結末を予見することはいたしかねるところであります」。ツァーリのお気に入りの祈祷僧で、皇后が「神から遣わされたわたしたちの友」としてだれよりも信頼していたグリゴリー・ラスプーチンも戦争に反対し、もしドイツとの紛争が始まれば「あなた方すべてにとって終末になるでしょう」と予言した。彼までが無視された。

すべての交戦国と同じく、戦争はロシアでも愛国主義の熱狂の波に乗って始まった。皇帝はドイツ風の響きをなくすためにサンクトペテルブルクからペトログラードに名前を変えた首都で宣戦を布告し、冬宮のバルコニーに立うてすさまじい歓呼を浴びた。汎スラブ・ナショナリストや主戦論を掲げる新聞は長い間、開戦を要求し続けていた。彼らは戦争は短く「クリスマスまでには終わる」と信じ、勝利するのはロシアであり、ロシアがバルカン半島を掌握し、ロマノフ王朝の長年の野望だったトルコからのコンスタンティノープル奪取が成就する、と考えていた。

緒戦の攻勢はロシアに有利に進んだ。ロシアはあっという間にガリツィア地方の一部をオーストリア=ハンガリーから奪う。ところが、オーストリアの友軍を補強すべく派遣された職業軍人から成る練度の高いドイツ軍と向き合ったとたん、ロシア軍は完全に圧倒され、敗北に敗北を重ねる。ロシア軍はマズーリ湖沼地帯で全滅し、死傷者は一二万人を超えた。開戦からちょうど四週間後のタンネンベルクの戦いはロシア史上最悪の敗戦の一つになった。ロシアの第二軍は一掃され、死傷者は二六万人を超えた。勝利したパウル・フォン・ヒンデンブルク将軍は後年、「われわれはロシア軍の新たな攻撃の波に対し、遮蔽物のない射撃領域を確保するため、塹壕の前に山になっている敵兵の死体を片付けなければならなかった。彼らの損耗兵員を推定しようとすることはできても、正確に数えるのは永遠に無駄な仕事だろう」と書いた。敗軍の将アレクサンドル・サムソノフは指揮所の裏の森に行き、銃で自殺した。三ヵ月もすると、ロシア軍は攻勢に出る現実的可能性を失っており、生き残りのために戦っているだけだった。

レーニンは軍人ではないが、ロシア軍のことを「外見は立派だが芯の腐った林檎」と、正確に形容している。ロシア帝国は一九世紀に東方へ、そして南方はカフカス地方へと拡大した。一九〇〇年代のバルカン戦争では戦果を挙げたが、クリミア半島を巡る英国およびフランスとの戦いはそれほどうまくは運ばず、一九〇四年~○五年の日本との戦いは惨めな結果に終わった。ロシア車の戦術はナポレオン時代からほとんど変わっていなかった。陸軍は消耗戦に対する備えがまったくなかった。

ロシア軍の死傷者数は膨大で、だれの予想をも超え、予備役兵が非常に少なかったため、陸軍は間もなく、訓練されていない二流の召集兵を前線に送らなければならなくなった。一九一四年一〇月末までに、ロシアは戦死あるいは負傷または行方不明で、一二〇万人の兵を失い、そのかなりの部分は訓練を受げた士官が、職業軍人の下士官だった。第八軍の司令官で、後に陸軍の最高司令官になるアレクセイ・ブルシーロフ将軍は、その年一〇月のプシェミシルの戦いが「戦争の前にきちんと教育され、訓練を受げた軍隊」を自分が指揮した最後の戦いだったと書いている。「開戦から三ヵ月も経たないうちに、われわれの正規の職業士官と訓練された兵士はいなくなってしまい、残された骸骨のような軍隊を、補給処から送られてくる、ひどく教育不足の兵士で慌てて補充しなければならなかった……この時期以降は、わが軍から職業的な性格が消え去ってしまった……多くの兵が、小銃に弾丸を装てんすることすらできなかった。こういう連中は、実は兵士と考えることはとうていできなかった……正規軍は消滅し、無知な人間の大群と入れ替わった」と。後方で待機していた増援部隊は「集団脱走と不満、そしてついには革命を引き起こす反乱の培養地」だった。これが、進んでレーニンに加担する兵士たちだった。

陸軍では、兵士よりも先に装備が枯渇した。一九一四年一〇月には六五〇万人が兵役に就いていたが、配給された小銃は四六〇万丁だった。戦争が始まったとき、ロシア軍全体の保有自動車はわずか六七九台で、エンジン付きの救急車は二台だった。鉄道のターミナル駅から、重火器を含む装備品、上級士官、負傷兵が農民の荷馬車に載せ替えられ、泥道をあちこちに運ばれていった。軍事的大失敗の根底には通信の貧弱さがあった。ロシアの長大な西部戦線に沿って電話は二五台、モールス信号機は数台しかなく、電信機による通信はしょっちゅう途絶した。指揮官とその副官たちは前線の状況を掌握するために、馬に乗って走り回らなければならなかった。それはトルストイの『戦争と平和』で描かれた時代の光景だった。

産業は、重砲弾を含め、十分な弾薬類を生産していなかった。一つには、皇帝と宮廷の貴族たちが、実業家が戦争で大もうけすることに反対していたためだ。将軍たちは、短期で終わると確信する戦争のための弾薬は充分にあると考え、開戦から数カ月が経っても武器製造の緊急計画を何も立てなかった。多くの大隊では数週間の戦闘で弾薬が尽きた。一九一四年一〇月中旬には、一部の兵士たちは戦闘中に使う弾丸を一日当たり一〇発に限るよう命令された。ロシア軍の塹壕がドイツ軍の砲撃を受けた場合も、ロシア軍砲兵はたいてい反撃を禁止されていた。プシェミシルでは、ロシア軍兵士はドイツ軍に対して事実上素手で戦い、彼らが倒されると、後方の兵士たちが欠損を埋めるのだが、彼らは、倒れた兵士の武器を取るよう命令されていた。「彼らは片手に銃剣、片手に一種の手投げ弾のようなものを持って前線の砲火のなかに放り込まれた」

兵士の士気は急速に低下し、ボリシェヴィキはそこに付け込んだ。ブルシーロフ将軍によれば、開戦から数週間のうちに職業軍人が一掃されたあと、予備役兵士の大半は自分たちの村や県より遠くのことが理解できず、なぜ戦争が行われているのかまったく分からないのだった。「ロシアの内陸部からやってくる新兵は、この戦争が自分たちにどんな関係があるのか、みじんも分かっていなかった」と、プルシーロフは言っている。

膨大な数のロシア兵が、戦うよりも捕虜になる方を選んだ。戦争の初年に戦死した兵士は二七万人だったが、捕虜になった兵士は一二〇万人を数えた。英国軍ではこの数は逆転し、戦闘中に捕虜になった者は戦死者の約五分の一に過ぎない。戦争の進展につれ、ロシア兵戦争捕虜は戦死者の一六倍になった。「士気の低下が深刻化しているという脅威的兆候は、ますますはっきりしてきていますに。陸軍大臣アレクセイ・ポリヴァノフ将軍は開戦から六ヵ月余り経ったころ、皇帝にこう言上した。口シア軍の最高指揮官の一部は、破滅が近づいていることに気づいていたが、それをどうするすべもなかった。

スイスに亡命中のレーニンは、戦争が不人気であることを、ロシア軍内にボリシェヴィズムを広げる願ってもない好機と見た。だが、彼は自分自身の戦闘を戦っているところだった。彼にとって真に重要な戦いは、ガリツィアやウクライナ西部の塹壕や戦場にはない。労働者階級の数百万の若者が殺戮されつつある血なまぐさい紛争には、彼はそれほど関心がなかった。レーニンの戦争は革命運動の指導権を巡る戦いだった。
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