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1.3「そこにいる」の詳細

1.3.1「生まれてきた」

 「癌が原因ではない。死ぬのは生まれてきたのが原因だ」。by 池田晶子。Googleアシスタントで「池田晶子さんが亡くなったのは何歳」と聞いたら、46だそうです。肝癌で机に座った状態で亡くなった。

 生まれてきたことの重み/最大の悩みは何故<今>なのか?/前でも後ろでもなく、137億年の<今>なのか/たった一人なのか/そして遅いこの時間の流れは何を意味するのか/果たして私は存在するのか/存在の不思議さに少しでも近づけるのか/時間をどう感じたらいいのか/なぜこうも静かなのか/

願うために生まれた

 預言者は願うために生まれた。願うために放り込まれた。何を願うかを知らされずに、それは考えるということなんですよね。人類のことではないことだけは確かです。

飛鳥とひめたん

 飛鳥とひめたんは扇風機の時に交差しながら、別の道を歩いた。格差社会の底辺から別の道を歩き出した。飛鳥はアイドルが普通の人間に、ひめたんは普通の人間がアイドルに。

1.3.2「宇宙の旅人」

 預言者ではなく観察者。そして見るならば、宇宙の旅人がぴったりきます。さすが池田晶子さんです。人類の最後を見るために偶々、やってきたんでしょう。そう考えることにしました。その方が気が楽です。上手くいけば救えるかもしれない。

握手会考察

 握手会で飛鳥のレーンは速いと聞いていたけど、状況がわかった。納得です。

 ネットで載っていたけど、握手券を1100枚出した人間がいるみたいです。理由は思い切り話してみたかった。40分もらったみたいです。以前、スカイラブハリケーンがひめたんの前で漫才をする構想を聞いたことがある。これも一つの願いですね。

1.3.3「私がいる」

 こう考えてくると以前考えた「私がいる」の意味が違ってきますね。透明な観察者の立場ぐらいで、他者の世界の様相を書いていきましょうか。それではあまりにも夢がない。

 「私がいる」で何をさせたいのか。ウンマのような中間の存在としてのコミュニティ、上からの力に頼らずに、下からの力を強くできるコミュニティ。そのイメージ一番近い乃木坂。特徴はメンバーが乃木坂が好き。家族も学校も会社もこれで変革させていく。それでしか多くの人が生き残るやり方はないことを示す。

夢があるもの

 夢があるものって何かな。現状を突破できるもの。今、割と気に入ってるものは「戦艦長門艦橋の集合写真」と呼んでいるもの。世界に進出意気込み。この小さな集合写真でも、フロントの個性がみんな出てます。いくちゃんの笑顔、センターの二人の貫禄、若の真面目さ、生駒の足の構え、キャプテンの前向きさ。

1.3.4「私は諦めない」

 それらに向かうための自分のスタンス、行動しなくて考えるだけの自分のスタンス、自己弁護はしない自分のスタンス、そんなものをここで語りましょう。組織との関係、他者との関係、内なる世界、そして突破口。
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数学という学問の特徴

『生きること学ぶこと』より

「素心」ということが、ものを創造する上で、なぜ大切なのか。それを考えてみる前に、数学という学問の特徴は何かという点を述べたい。そして、数学の一研究者として創造を続けていく上で、常々私がどういうことを自分にいい聞かせているかに触れておきたい。これは」数学者としての研究態度であると同時に、一人の人間としての生活態度でもある。

まず、数学という学問の特徴であるが、これには四つのことが指摘できると思う。第一の特徴は、数学という学問には、正確な「技術」が要求されるということである。方程式であれ、微分積分であれ、幾何であれ、問題を正確に解けなければ、数学という学問は成り立たない。

第二の特徴は「思想」としての側面をもっている点である。数学はあらゆる科学の基本であるといったが、例えば農耕を主としたエジプト文明は幾何学や数の演算法を発展させ、海洋民族であったギリシア人は科学の源を築いたように、ものの見方、自然観といったものが非常に数学に影響を与えているのである。

第三の特徴は、数学の本質ともかかおることであるが「抽象性」の強い学問であることだ。いろいろな現象そのものではなく、その中に何か共通した技術や見方がないかを、かなり抽象化して考えるのが数学の特徴である。調和と秩序の美しさを要求されるのもそのためだ。

第四の特徴は、数学には「国際性」があることだ。カソトールが「数学の本質はその自由性にある」といったように、究極的には、利害関係やお国柄などにまったく関係しない、完全に自由でオープンな世界が数学の世界である。

以上のように数学には、「技術性」「思想性」「抽象性」「国際性」の四つの特徴がある。では、そういう特徴を理解した上で、私自身がどのような学問的姿勢をとってきたかを語ることにしよう。とはいっても、それは学問的姿勢に限らず、一般的な人生の生き方を考える上でも大切なことである。

まず第一に、何が「事実」で何が憶測であるかをはっきり見極め、事実は事実としてありのままを受け止めなければならないというこ

「事実」というものは、例えであるが、こちらが七転八倒しても逆立ちしても、変えることのできない、動かすことのできない厳粛なものである。こういうと、何を今さらあたりまえのことを、と人は思うかもしれないが、事実を事実としてありのまま受け止めるということは、いうほど簡単なことではない場合が多いのである。

最近の出版物を見てみると、ノンフィクションとかドキュメンタリーといわれる作品が非常に注目されているが、最近、ノソフィクショソ作家の柳田邦男氏と「事実」について話し合う機会を得た。

柳田氏の著書『事実を見る眼』の中に、こんな一文がある。

 ノンフィタショソの真髄は「事実をもって語らしめる」ところにあると、よくいわれるが、この言葉は、ノソフィタションを成立させている二つの条件を、巧みに表現している。二つの条件とは、一つは、語るべき「事実」を発掘しなければならないと、いうことであり、もう一つは、その「事実」を読者の共感を得る形で「語らしめる」、つまり作品化しなければならないということである。

 よいノンフィクションを書こうとするときに立ちはだかる壁は、何といってもこの「事実」を発掘することの困難さである。しかし、なまなかな取材では知り得ないような「事実」を提示すればこそ、そこにノンフィクションの醍醐味がにじみ出てこようというものである。

事実を事実として受け止めることが、いかに困難かを柳田氏は指摘しているのだ。

もう一つの例を示そう。人間の脳は、前にもいったように、コンピューターやロボットなどと違って、寛容性というものをもっている。この特質から人間の「知恵」というものが生まれるのだが、逆に、この寛容性ゆえに思わぬ誤りを犯し、事実認識を見間違うことがある。

例えば、ある若者が恋をしたとする。当然、彼の中には、相手にも自分を好きになってくれたらいいな、といった願望が生じる。すると、この願望はいつの間にか、「ひょっとしたら、相手も自分のことを好きなのかもしれない」という淡い期待に変わり、その期待がどんどんふくれあがって、ついには「相手も自分のことが好きなのだ」という確信にまで到達してしまいがちなのである。

なぜ人間にそのような考えができるかというと、寛容性があるゆえに、人はものを少しずっずらして思考できるし、連想と推測によって想像をどんどんふくらませていくことができるからである。そして、想像をあたかも事実であるかのように思い込んでしまうことがある。

しかし今、この若者の希望的観測とはうらはらに、事実は、彼女は彼にまるで好意をもっていなかったとしよう。彼女は彼からもしプロポーズされればそれをはねつけるだろうし、あるいはいつの間にか他の男性との恋に走ってしまうということもあるだろう。すると、その男性は彼女に裏切られたと思う。「こんなにまで愛していたのに」と、相手をなじりたい気持ちになる。そして、それが悪くすると、第三者に害を与えるまでに発展することもあり得るのだ。

毎日の新聞やテレビなどで報道される、人と人との間に起こったトラブル、事件、大は国際紛争に至るまで、憶測と事実を混同することが直接、あるいは間接の原因になっている場合が割合多いのだ。

米国のニクソソ元大統領が辞任に追いこまれた日、「私が何をやったというのか」と泣きながら、彼はかがみ込んだという。ウォーターゲート事件を、それに関連する事実をありのまま事実としてさらけ出し、適切な処置と責任を国民の前で正していれば、大統領辞任まで直結しなかっただろう。事実を隠蔽しようとし、事実をまげて形をつくろうと無理に工作したため、隠蔽と反事実が積み重なり、大統領の権威というイメージに安住した希望的観測が、判断を誤らせて大事件に至ったといえる。

また、「先入観」という言葉があるが、数学の問題を解く態度においても、あるいは、相手の人間を評価する、相手の気持ちを汲みとるという場合においても、この先入観というのがしばしば妨げになることがある。

数学の問題を解こうという時に、初めから答えがあるというよりは、どちらに転ぶかわからないという問題設定がある。一方、人間に対する評価でも外見上の印象や周囲の人の意見にふり回されて、その人の正しい評価を見誤ることがある。いずれも先入観が強すぎて、客観性が失われてしまっているのである。

「杞憂」とか、「取り越し苦労」も事実認識を曇らせ、トラブルを起こす要因になる場合がある。例えば、自分猷船 っている病気に対する不安がつのって他の病気まで併発することもあり、仕事に対する不安が大きくて自分のもっている実力さえも十分に発揮できない例は枚挙にいとまがない。

このように希望的観測も、先入観も、取り越し苦労も、事実と憶測との間の「ずれ」を見抜けず、事実でもないことを事実と思い込んでしまう点に、そもそもの誤りがあるのである。いいかえれば、事実を事実としてそのまま素直に受け入れず、事実と想像との境界を混然としてしまっているのである。

こうはいっても、事実を事実としてありのまま受け止めることは意外と難しい。難しいからこそ、私はこれを常々自分にいい聞かせているのだ。さもなければ、生活していく上でも、学問する上でも、とんでもない誤りを犯しかねないからである。

どこまでが事実で、どこからが希望的観測、あるいは憶測であるかをはっきり認識することが、大切なことである。
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ロスアラモスの物理学者

『ご冗談でしょうファインマンさん』より 下から見たロスアラモス

僕もはじめはほんの下っ端だったが、後でグループのリーダーになり、しかも実に偉い人たちに何人か会うことができた。あれだけのすばらしい物理学者に会うことができたのは、僕の生涯を通じて最も豊かな経験だったと思う。

その中にはあのエンリコ・フェルミもいた。ロスアラモスで困難があれば、その相談にのって助力するという役目をおびて、フェルミはシカゴからやってきた。その彼をまじえて会議が開かれた。僕はずっと計算の仕事をしていて、かなりの結果も出していたのだが、この計算は非常に複雑でわかりにくいものだった。普通なら答がだいたいどのようなのかを予言したり、出た答についてなぜそうなったのかを説明するのは僕の得意とするところなのだ。ところがこのときの計算だけは複雑すぎて、さすがの僕もどうして答がそうなるのか説明できなかった。

とりあえず僕はフェルミに今やっている問題を話し、その結果を説明しはじめると、フェルミは「ちょっと待った。君が結論を言う前にちょっと考えさせてくれたまえ。多分こういう風な答が出るだろうと思うね(その通りだった)。そのわけはこうこうだ。そしてこれにはわかりきった説明もつくよ。」

これにはおどろいた。フェルミは僕のお株をすっかり奪ってしまったのだ。奪ったどころか数倍もうわてである。これは僕にとって非常に良い薬になった。

また大数学者ジョン・フォン・ノイマンもいた。僕たちは日曜になると散歩に出かけては、峡谷深く分け入ったりしたものだったが、これにはよくベーテや、ボプ・バッカーもついてきて、ほんとうに楽しかった。このとき、我々が今生きている世の中に責任を持つ必要はない、という面白い考え方を僕の頭に吹きこんだのがフォン・ノイマンである。このフォン・ノイマンの忠告のおかげで、僕は「社会的無責任感」を強く感じるようになったのだ。それ以来というもの、僕はとても幸福な男になってしまった。僕のこの「積極的無責任さ」の種はフォン・ノイマンが播いたのである。

ここで僕はニールス・ボーアにも会った。その頃ニコラス・ベイカーという名で知られていた彼は、息子のジム・ベイカー(ジムの名もほんとうはオーガ・ボーアというものだ)と二人で、ロスアラモスにやってきた。知っての通り、彼らはデンマークから来た有名な物理学者たちだ。いわゆる物理の大御所にとってすら、ボーアといえば神様のようなものだったのだ。ボーアが来て最初の会議では、誰もがかの有名なボーアを一目見たいと思っていたから、出席者はいつになく多かった。中心議題は原爆の問題だった。僕は後ろの隅に座っていたので、ボーアが入ってきたときと、出ていったとき、人の頭の間からその姿がちらりと見えただけだった。

次にまたボーアが来ることになった日の朝、僕に電話がかかってきた。

 「もしもし、ファィンマンかね?」

 「はあ。」

「こちらはジム・ベィカーだが、おやじと僕とで君と話がしたいんだが…・・・」相手はボーアの息子だ。

 「え? 僕にですか? 僕はファインマンといいまして、ただの……」

 「その通り。八時ならいいかね?」

というわけで僕はみんなが起き出す前の朝八時に、約束の場所に出かけていった。技術関係の事務所に入ると、ボーアが口を切った。

 「僕らはずっと原爆の効率をもっと上げる方法を考えてきたんだが、次のような考えがある……かくかくしかじかだ。」

「だめだ、だめだ。そんなものはうまくいくはずがない。ぜんぜん効率が悪いですよ」とばかり僕がまくしたてると、彼が「これこれではどうかね?」と言う。

「その方がまだましですね。しかしそれにはこのおよそ下らんアイデアが入っていますよ。」といった調子で二時間ぐらい、いろいろな考えをぶっつけ合い、口角泡をとばして議論を闘わした。あの大ニールスは、一所懸命パイプに火をつけるのだが、そのたんびに消えてしまう。しかもむにゃむにゃ言う彼の話し方ときた日には、わかりにくいことおびただしい。息子の方はおやじよりはまだましだった。

最後に「さてと」とニールスがパイプにまた火をつけながら言った。「これでお偉方を呼びいれるとするか。」こうして彼らは他の連中を呼びいれて、全員での話合いとなったのだった。

ことの次第はあとでニールスの息子から聞いた。前にロスアラモスに来たとき、ニールスは息子に向って、「後ろの方に座っているあの若者の名前を覚えてるかな? 僕をおそれず僕の考えが無茶なら無茶だと平気で言えるのは、あいつだけだ。この次にまた、いろいろな考えを論じるときには、何を言っても「はいはいボーア博士、ごもっともです」としか言わない連中と話したって無駄だ。まずあの男をつかまえて先に話をしてからにしよう。」

僕はいつもそういった意味では間抜けだったのだ。話す相手が誰であるかなど、ついぞ気にしたことがない。僕の関心があるのは、いつも物理学そのものだけだ。だから誰かの考えがお粗末だと思えばお粗末だと言うし、よさそうならよさそうだと言うだけの話で、いとも簡単だ。

僕はいつもこういう生き方をしてきた。誰でもそれができれば、たいへん楽しい生涯が送れるはずだ。こういった生き方のできる僕は、実に幸せな男と言わねばなるまい。

さて原爆エネルギーの計算がすむと、次の段階はむろん爆発実験だ。家内の死後、短い休暇をとって家に帰っていた僕のところに「○月○日赤ん坊出産の予定」という知らせが来た。

僕は急進ロスアラモスにとんだ。僕が着くのと、実験地点行きのバスが出るのとが、ほとんど同時だったので、僕はそのまま実験地点へ直行することになった。爆発地点から二〇マイル離れたところで僕たちは待機した。無線装置を通して、何時何分の爆発実験の始まりから逐次その経過を伝えてくるはずだったのに、肝心の無線が故障ときて、何事が起こっているのかさっぱりわからない。ところが爆発のほんの数分前にこの無線が急に聞こえはじめ、僕たちのように遠くの地点にいる者には、あと二〇秒くらいだと伝えてきた。もっと近く、六マイルの地点にいた者もあった。

全員に黒眼鏡が配られていた。黒眼鏡とは驚いた! 二〇マイルも離れていては黒眼鏡ごしでは何も見えるわけがない。僕は実際に目を害するのは紫外線だけだろうと考え(いくらまぶしいからといって明るい光が眼を害することはない)、トラックの窓ガラスの後ろから見ることにした。ガラスは紫外線を通さないから安全だし、問題のそいつが爆発するのがこの目で見えようというもんだ。

ついにそのときが来た。ものすごい閃光がひらめき、その眩しさに僕は思わず身を伏せてしまった。トラックの床に紫色のまだらが見えた。「これは爆発そのものの像じゃない。残像だ!」そう言って頭をあげると、白い光が黄色に変ってゆき、ついにはオレンジ色になった。雲がもくもく湧いてはまた消えてゆく。衝撃波の圧縮と膨張によるものだ。

そしてその真ん中から眩しい光をだす大きなオレンジ色の球がだんだん上昇を始め、少し拡がりながら周囲が黒くなってきた。そしてそのうち、消えてゆく火が中でひらめいている、巨大な黒い煙の固まりに変っていった。

だがこのすべては、ほんの一分ほどのできごとだったのだ。すさまじい閃光から暗黒へとつながる一連のできごとだった。そして僕はこの目でそれを見たのだ! この第一回卜リニティ実験を肉眼で見たのはおそらく僕一人だろう。他の連中は皆黒眼鏡をかけてはいたし、六マイルの地点にいた者は床に伏せろと言われたから、結局何も見てはいなかった。おそらく人間の眼でじかにこの爆発実験を見た者は僕のほか誰一人いなかったと思う。

そして一分半もたった頃か、突然ドカーンという大音響が聞こえた。それから雷みたいなゴロゴロという地ひびきがしてきた。そしてこの音を聞いたとき、僕ははじめて納得がいったのだった。それまではみんな声をのんで見ていたが、この音で一同ほうっと息をついた。ことにこの遠くからの音の確実さが、爆弾の成功を意味しただけに、僕の感じた解放感は大きかった。

「あれはいったい何です?」と僕の横に立っている男が言った。

「あれが原子爆弾だよ」と僕は言った。これがウィリアム・ローレンスという男で、この実験の実況を記事にするために来ていたのだ。僕が彼を案内する係だったのだが、彼が理解するには、すべてがあまりに専門的すぎるということがわかったので、あとになってH・D・スミスという人が代りにやってきたのを案内することになったのだった。僕は彼をある部屋に連れていき、幅の狭い台の端にのった銀メッキの球体を見せた。手をのせてみると暖かい。放射能の暖かみだ。この球こそプルトニウムだった。ドアのところで僕らはこれを話題にしゃべっていた。これこそ人間の手で造られた新しい元素、おそらく地球の誕生直後のほんの短期間を除いては、今まで地球に存在したことのない元素なのだ。それがここにこうして隔離され、放射能を放ちながらその特性をちゃんと持って存在しているのだ。しかも僕たちがこの手でこれを造りだしたのである。だからこそ測り知れない価値があるのだ。
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