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師・アリストテレス アレクサンドロス

『ギリシャ人の物語Ⅲ 新しき力』より

父王フィリッポスが偉かったのは、息子に、「スパルタ教育」を授けただけでは充分でないと考えたところにあった。

頭脳の強化と向上には、哲学者のアリストテレスを招聘している。

この時期のアリストテレスの年齢は、四十代に入ったばかり。生れから言えばマケドニア人だが、若い頃からアテネに留学し、プラトンが創設した「アカデミア」で二十年も学んだ人だから、もはやアテネ人と考えてよい。プラトンの弟子ということは、プラトンの師であったソクラテスの弟子にもあたる、ということである。

四十代前半という、壮年も真盛りの時期にあった哲学者が、十三歳から十六歳になるまでのアレクサンドロスと、何をするにもどこに行くにも一緒というヘーファイスティオンも加えた学友仲間に、教養のすべてを教える教師になったのである。老いた教師が、孫の世代の少年を教育するのではないのだった。

レオニダスが与えたスパルタ式の教育に比べて、アリストテレスが与えたアテネ式の教育の、具体的な内容まではわかっていない。だが、次の二つのことから、推測は可能なように思う。

第一に、哲学者アリストテレスの知的関心が向う先が、実に広範囲に及んでいたということである。それを現代の大学の講座別に分ければ、十七人もの教授が担当しなければ果せないほどの数になる。

悲劇を論じたかと思えば、政体を詳細に分析する。人文系の学問の専門家でありながら、自然科学から医学にまで興味を示す。百科全書的知識人と言いたいところだが、それも彼にしてみれば、多くの分野を視界に収めてこそその中の一分野への認識も深まり、それに基づいての判断も正確になると考えてのことだろう。

自然界の現象であろうが人間界のことであろうが関係なく、何にでも関心を示した好奇心の強さには感嘆するしかないが、それでいながら抜群のバランス精神の持主でもあった。

論理学の創始者というのに、次の一句でその乱用に警鐘を鳴らしている。

 「論理的には正しくても、人間世界でも正しいとはかぎらない」

「知識」と「知力」のちがいを、痛感せずにいられない一句である。

哲学者アリストテレスの特質の第二だが、マケドニアの王子の家庭教師を終えた後に彼は、再びアテネにもどる。もどってまもなく、アテネの郊外にあるリュケイオンと呼ばれていた地で学校を開いた。

プラトン開校の「アカデミア」が大学とすれば、「リュケイオン」は高校と考えてよいだろう。専門課程に進む前に会得しておかねばならない教養全般を教えるのが、「リュケイオン」開校の目的であったのだかそして、この精神ならば、現代でもなお、「リュケイオン」を語源にした、フランスの「リセ」やイタリアの「リチェオ」に受け継がれているのである。

とはいえ、なぜ哲学者がそこまで?

そう思うのは、古代の哲学を現代に生きるわれわれが、現代ではそれしかなくなってしまった講壇哲学と同じと考えているからだ。

哲学とはもともと、知識を得る学問ではなく、知力を鍛える学問なのである。

古代の哲学者であるアリストテレスが年少の弟子たちに教えたのも、基本的には、次の三つに集約されていただろう。

第一に、先人たちが何を考え、どのように行動したかを学ぶこと。

これは歴史であり、つまり縦軸の情報になる。

第二は反対に横軸の情報で、言うならば日々もたらされる情報。

学ぶべきことは、これらの情報に対しては偏見なく冷静に受け止める姿勢の確立、につきる。

最後は、第一と第二に基づいて、自分の頭で考え自分の意志で冷徹に判断したうえで、実行に持っていく能力の向上、になる。

この三つは哲学を学ぶうえでの基本的な姿勢でもあるが、この三つを会得しさえすれば、その後は何をやろうがどの分野に進もうが、応用が完全に可能な原則でもあるからだった。

教養とはもともと、応用可能であるからこそ、学ぶ価値もあるのだ。

後のローマ人が言うようになる「アルテスーリペラーレス」、英語に直せば「リベラル・アーツ」を、少年のアレクサンドロスは、それを教えるのに最もふさわしい人から学んだことになる。しかも、十三歳から十六歳までという、感受性が最も豊かな年頃に。

しかし、師の教えをそのまま受け入れるだけであったら、単なる優等生で終わってしまう。アレクサンドロスは、そうではなかった。師の説く次の教えには、まったく従わなかったからである。

「ギリシア人に対しては同等の友人として接してよいが、非ギリシア人(つまり蛮族)には、動物か植物とでも思って接すべきだろう」

この教えには、ペルシアヘ行ってからのアレクサンドロスはとくに、正反対としてもよい態度で臨むのである。

また、アリストテレスの著作を読んでの私なりの感想にすぎないが、この人は所詮、都市国家時代のギリシア人であったのだ、ということである。反対にアレクサンドロスのほうは、都市国家を超越したギリシア人になるのである。

とはいえ、師からはすべてを学び取りながらも、師の説くすべてに従うわけではないというのも、優れた弟子の証しではないだろうか。

なにしろ哲学そのものからして、自分の頭で考える重要性を教えているのだから。

もう一つ、私の関心を刺激した事柄があった。それは、十三歳から始まって十五歳までの三年間に集中的に成されたという、レオニダスによる訓練とアリストテレスによる授業の日程が、どのように組まれていたのかということである。

レオニダスによるスパルタ式の猛訓は、陽も昇らないうちに始まり、しばしば陽が落ちた後もっづけられ、そのすべてが終わった後は死んだように眠りこむしかなかったという。

それでは、アリストテレスによる授業などは入りこむ余地はない。また、成育途上にある少年の肉体を、鍛えるどころか壊してしまいかねない。

しかし、スパルタ式の猛訓とアテネ式の授業は三年間、厳格につづけられたということはわかっている。ならば、スパルタ式とアテネ式は、互いに三日ずつとか、日を分けて行われたのではないだろうか。

もしもそうであったならば、三日つづいた猛訓練の後に訪れるアリストテレスによる授業は、アレクサンドロスにとって、知への愛を全身で吸収する、愉しくも快適な時間になったのではないか。長い眼で見れば役立っても今すぐには役立たないという性質をもつ教養とは、愉しく学ばなければ身につかないものなのである。

肉体と精神両面でのこの特訓も、成長するにつれて終わりに近づく。つまり、精神と肉体ともに少年期を脱しつつあったアレクサンドロスに、父王フィリッポスは、もう一つの重要事を学ぶ機会を与えたからであった。

紀元前三四〇年、四十二歳になっていたフィリッポスは、ギリシア北辺一帯で進めてきた制圧の網を、ビザンティオンにまで広げる軍事行動に発つ。片腕と言ってもよいパルメニオン率いるファランクスを従えての出陣なので、マケドニア王国の主戦力総出の遠征になった。

王不在中のそのマケドニアの統治を、十六歳の息子に託したのである。

王国全般の統治、しかも主戦力は空っぽの中での統治だ。机に向っていれば済む任務ではまったくなく、スキと見れば侵入してくる北の蛮族への対処も怠ることは許されない中での、統治であった。

十六歳は、初めてのこの公務を、目的を果して帰国した父親が満足する状態で、再び父の手に返すことができた。統治面での「初陣」は、成功で終わったことになる。

ここで一休み。

後世からは「大王」と呼ばれることになるこの人の幼少年期を書いていてしばしば笑ってしまうのは、フィリッポスってけっこうちゃんと父親をやっているではないですか、と思うからである。

野蛮だ下品だと奥さんには軽蔑されながらも、息子の教育には相当に適切な配慮で臨んでいたのがこの父親だった。

体育面はスパルタ式に、教養となればアテネ式を採用し、しかもそのやり方で一貫している。
フィリッポスの胸中には常にあった、名実ともに正真正銘のギリシア人でありたいという願望を、息子に託す想いゆえであったのか。

後のアレクサンドロスの演説に見られるとおり、息子は父の成し遂げた成果を正しく評価していたし、それゆえに認めていた。

父親のほうも、予想を常にはずされるものだから驚くことしばしばであったにかかわらず、息子の才能を、父として誇りに思うとともに、一人の人間としても完全に認めていたのである。

でいながらこの父と子は、面と向うや言い争いになってしまうのだ。

憤然と席を起ち、仲間を引き連れて出ていく、アレクサンドロス。

その背に怒りの声を浴びせる、フィリッポス。

それでいて、この父と息子の関係は、しばらくするともとにもどるのである。

息子が、強情の鉾を納めたからではない。関係改善の試みは、常に父親の側から成されている。私の想像では、フィリッポスが秘かにへ・‐-ファイスティオンを呼び、どうにかせよ、とでも言ったからではないかと思っているのだが。

いずれにせよ仲直りは実現するのだが、面と向うやまたもケンカになってしまうのだから、オカシナ父と息子ではあった。

翌年、十七歳になった息子に父親は、戦場を初めて経験させる。

とは言っても、戦闘に参加させたのではない。パルメニオンにでも頼んで、北方のギリシア人相手の小ぜり合いとはいえ、実際の戦闘を現地で見せたのである。この体験は、早くも一年後に花開くことになる。
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自分の内側を観察する

『自分を支える心の技法』より

自分の内側を観察する

 怒りをコントロールする方法論にはさまざまなものがありますが、そのなかで、僕が最も普遍的な方法と考えているのが、「自分の内側を観察する」ことです。

 ものごとの外側を観察することは、誰でも当たり前にやっています。子どものころには昆虫観察やアサガオ観察、さらには親の顔色を観察して、欲しいものをねだるタイミングを計ったりもしていました。顔色をうかがう、空気を読む、というのも外側の観察です。とりわけ日本人は、外側の観察には長けていて、それが精緻なモノづくりや、世界トップレベルの技術力にもつながっているわけです。

 ところが、自分の内側の観察となると、どうしたらいいのか、皆目わからなくなってしまうという人がほとんどです。日本人には向いていないのかというと、そんなことはありません。じつは、日本人は昔から、「こもる」というやり方で自分自身の内側を見つめてきたのです。

 たとえば、神社の宮司さんやお寺の和尚さんは、祭礼が近づくと、一定期間、社寺にこもって五穀を断ち、食を細くして、勤行や祈願などを行ってきました。あるいは、芸能の分野でも、浄瑠璃やお能などを演じる際には、本番前にこもって精神を集中させたといいます。おそらくかつては一般の人のなかにも、夏祭りや秋祭りの前にはこもる人が大勢いたのではないでしょうか。そこで自分の内側を見る、身体を見直す、心をじっと見つめる、同時に神仏に感謝する--そういう集中の仕方を、お祭りの一環として、あるいは芸能の一環として、習慣化させていました。

 これに限らず、山野を歩き続ける、冷水をかぶるなど、こもる形態はさまざまです。

 いまでも、書斎にこもって本を読むとか、部屋にこもって勉強をするというように、「こもる」という言葉は使われていますが、もともとは「ひとりになって心を何かに集中させる」ということだと思います。つまりは、「瞑想」です。

 瞑想というと、なにか高尚なことのように思えますが、日本の文化は、このように瞑想を日常の生活のなかに取り入れていました。僕たち現代人も、瞑想をもっと身近なものとしてとらえてもいいのかもしれません。

 瞑想の効用は、単に「怒りを消す」ための方法論というだけでなく、いろいろな意味で非常に射程が広いものです。

本当の知恵を得る方法

 そのひとつに、「本当の知恵」を得るための方法論としての瞑想があります。たとえば、西洋医学はこれまで、僕が本書で紹介してきた仏教や東洋思想の知恵を援用してきませんでしたが、その理由の一端は、「瞑想を知らなかった」ことにあるのではないか、と僕は考えています。

 「わしも知らんがな」といわれそうですね。たしかに、僕ら現代人も、ほとんど瞑想を知りません。しかし、かつて瞑想はかなり一般的なものだったのです。たとえば、般若心経という有名なお経のなかに出てくる「般若波羅密」は、〝瞑想のなかで得たすばらしい知恵〟という意味です。

 つまり、本や人の話などから得た情報や知識はもちろん重要ですが、もっと大切な本当の知恵は、「自分の内側」や「世界の外側」といった〝目に見えない世界〟にある。そして、そこヘアクセスするためには瞑想しなければいけない、というのが、仏教という巨大な思想体系が教えてくれるひとつの核心です。
 じつはこうした考え方は、西洋思想でも、ギリシア哲学くらいまでさかのぼれば、そう珍しいものではありません。ギリシア哲学の祖といわれるソクラテスは、ダイモーンとの対話によって自らの哲学を構築したといわれています。では、ダイモーンとは誰かというと、簡単にいえば神さまです。

 さて、ソクラテスといえば、ヨーロッパ思想史上に輝く賢人ですが、いったいどれだけ勉強した人なのでしょう? 我々が想像するのとは違い、その知識は、本を読んだり、講義を聞いたり、実験したりして得たものではないようです。ソクラテスの弟子のプラトンが『饗宴』という本でソクラテスのことを書いていますが、それによると、ソクラテスは瞑想のなかで、神であるダイモーンから啓示を受けていた。それが、ソクラテスの知を形づくったというのです。

 ソクラテスは生きていた当時から、誰もが認める大賢人でしたから、何かの集まりがあるときにはみな、ソクラテスが来てすばらしい話をしてくれるのを心待ちにしていました。しかし、ソクラテスは遅刻の常習犯でもありました。なぜ遅刻してしまうかというと、しょっちゅう「神がかり」になって、2、3時間のあいだ、固まって動かなくなってしまっていたからです。この神がかり状態はおそらく、ヒンドゥー教でいうところの「サマーディ」にあたるものだと思いますが、つまり、瞑想によって神との対話に入っているわけです。ダイモーンからの啓示を受け、感動でボロボロ泣いている。そして、サマーディのあいだにダイモーンと交わされた対話をみんなに伝える。そうしたものが後世、ソクラテスの哲学として僕らに伝わっているわけです。知の源流には、そういう見えない世界との「内なる対話」があったのです。

 洋の東西を問わず、2000年以上前の世界で知の最前線にいた人たちは、人間が人間たるべき知恵を求めて瞑想し、自己との対話を行う習慣を持っていました。いまは「知」というと、ほとんど自分の外側にある「情報」とイコールになってきていますね。自己との対話によって得られる知がどんどん目減りしてきていることによって、僕たちは、自分らしい言葉をだんだんと発せられなくなっている面があるのだと思います。

 もちろん、外部的な知、つまりは「情報」も重要です。ただ一方で、自分の心のなかと対話することがないと、人間知としてのバランスが取れなくなるだろうと僕は思います。自分の心のなかには宇宙にも負けないくらい、汲めど尽きせぬ知の井戸がある。少なくとも、かつてはそのように考えることが常識だったのです。

 一方で、僕らの日常を支える心の技法としても、瞑想の役割は大きいものがあります。本書のテーマである「怒りを消す」ことについても、いろいろな技法があるものの、結局のところすべては瞑想につながっている、といっても過言ではないのです。実際、ここまで述べてきた「心を見つめる」、「深呼吸」、「念仏を唱える」といった方法論は、瞑想の技法の一部を使ったものです。

 瞑想によって「網の目的世界」を実感として自分のなかで認識することができれば、怒りは消しやすくなります。それは「なんで人間関係がうまくいかないんだ」「なんでこんなに仕事が辛いんだ」という悩みが、じつはすべて僕らの心に起因したものだということを、心の底から納得できるようになるからです。

 怒り、悲しみ、イライラにかられている自分の心が出している「毒」に気づくことができれば、視界が開けて、自然と怒りが消えていきます。怒りにしても、妄想にしても、自分にはすごくリアルに感じられるので、実在しているとしか思えませんが、実際には、僕らの心のなかだけに存在しているものなのです。

 「すべての感情は幻である」というのは、理屈では理解できると思うのですが、実際にそれを消すのは非常に難しいことです。瞑想することによってはじめて、僕らは心の底から「怒りの妄想性」に納得し、受け入れることができる。そして、そういう〝心の底からの納得〟なしには、根強い〝怒り〟を消し去ることはなかなか難しいのです。

 怒りを消し去り、心をリセットすることができれば、エネルギーがわき、やる気も起こってきます。頭がスカッとすることで、仕事の能率も、遊びの効率も上がります。瞑想には、疲れた心を再生させる効果もあるのです。
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ワールド・カフェが地域コミュニティに拓く可能性

『ワールド・カフェから地域コミュニティづくり』より 地域コミュニティのインフラとしてのワールド・カフェ

他花受粉により新しい発想を得ることができる

 ワールド・カフェの対話のプロセスには「他花受粉」というメタファーで語られる特徴か含まれています。ワールド・カフェでは、参加者が100人、200人になっても、基本となる話し合いの単位は4~5人という少人数です。少人数で話し合うことにより、一人ひとりが発言する機会が増える一方、多様な考え方を持った参加者が出会い、お互いに啓発し合うこともできます。また、途中でメンバーの組み合わせを替えて話し合うことにより、様々なアイデアがつながり、新しい気づきや着想を得ることができます。このようにしてワールド・カフェではアイデアが「他花受粉」されるのです。

 新しい発想は、これまで慣れ親しんだ組織や、親しく付き合ってきた仲間からは、なかなか得られません。新しい時代を生き抜くための知恵やヒントを得たいと考えるならば、これまで付き合ったことのない様々な分野の人々との出会いを求めることが必要になります。

 地域コミュニティにおいては、地域の人々が抱えている様々な課題の解決を目指して、多様なステークホルダーが集まり知恵を結集する必要があります。そうした場合、ワールド・カフェが持っている「他花受粉」の機能は、そこで表現された様々なアイデアを結合して新しいアイデアを生み出す上で非常に効果的な話し合いの方法だと言えます。

 ワールド・カフェには、様々な分野から多様なものの見方を提供してくれる人々が参加します。

 ワールド・カフェに参加することは、そうした人々と出会い、新しい発想を得るチャンスとなる

市民と行政の新しい形での協働の形を生む

 ワールド・カフェは、様々な立場の人が、それぞれの置かれている立場や意見に固執することなく話し合い、無理やり決めようとしなくても、いつの間にか同じ方向に向かって皆が動き出すきっかけとなる会議なのだと説明してきました。

 これを言い換えると、誰かが決めて他の人々がそれに従うということでもなく、多数決による意思決定の仕組みとも異なるアプローチです。これは本来の意味での民主主義を実現するための有効な話し合いの手法と言えるのかも知れません。

 本書で紹介する桜井市や、塩尻市、宮代町でも見られるように、すでに数多くの自治体や市民団体によってワールド・カフェが地域で積極的に活用されています。

 そのような地域では、市民、自治体、大学、NPO法人、企業が新しい協働の活動が進んでいます。例えば、桜井市では市民による「桜井市本町通・周辺まちづくり協議会」、桜井市役所などが協働して地域資源を活かしたまちづくりに取り組むことにより、住民同士のつながりや地域の賑わいを取り戻しつつあります。こうした動きがさらに加速された場合、地域コミュニティの運営方法も大きく変わってくる可能性があります。それは、市民の参加を求めながら行政主導で進めていくのではなく、市民が働きかけて行政にやってもらうのでもないコミュニティ開発です。市民と行政の新しい形でのコラボレーションの可能性を切り拓く強力なツールの一つとしてワールド・カフェが活用されていくことになるでしょう。

 このように、地域コミュニティにおいて、解決したい問題に関連する様々な人々が一堂に集ってワールド・カフェを開催することにより、新たな未来を再構築する可能性が生まれてくるで

地域のビジョンを共創し、知識を共有する

 これからは、知識の創造を一部の専門家が担うのではなく、皆で相互作用を積み重ねることによって、知識を共創し共有していく時代になると説明しました。

 ワールド・カフエは、知識の共創、共有を具体的に実行するための有効な手段として、今後広く活用されることになると思います。

 例えば、桜井市のまちづくりでは、市民と行政、まちづくり協議会が協働して、街の将来ビジョンを創造し、アクションプランを立てていきました。ここでは、行政と市民は、サービスを提供する側とされる側といった関係性ではなく協働関係にありました。地域のビジョンをつくるのは行政で、それを実現するのも行政だったのが、行政と市民が一体となったビジョンの構築がありました。

 市民は町のビジョンを「自分ごと」として考えるようになります。また行政などの他の参加者と話し合うことにより、多様な視点からテーマについて検討できるようになります。自分の提示したアイデアに対する、意味のあるフィードバックを受け取り、さらに理解を深め、誰もが新しい知識創造のヒントを得ることができます。

 場の活用を共に考えることが新しいビジネスのスタートにつながる

 前述のように、組織の枠を超えた交流と協力関係の樹立を望む人が増えてきています。この傾向が続くと、それを実現するためにワールド・カフェの場をデザインし運営する人と、物理的な場を提供する人が必要になります。そしてこのことは、新しいビジネス機会を様々な人や組織にもたらしてくれることになるでしょう。

 例えば、事例で紹介する塩尻市では空き家が問題になっています。そこで、空き家の大家さん、空き家を借りて何かをやってみたい芸術家、飲食業の方、起業家などがその空き家で開催するワールド・カフェを実施したらどうでしょうか?

 空き家の大家は、芸術家、飲食業の方、起業家の声を直接聞いて、自分が持っている空き家が彼らにどんな価値があるのかを知ることができるでしょう。また、大家さんは自分が閉めている空き家でやってみたいこと、社会貢献のヒントを得ることもできるでしょう。大家さんは、彼らとの直接のコミュニケーションにより彼らの人となりを知ることができ、安心感や信頼感を感じれば、貸してあげたくもなりますし、一緒に何かできることが見つかるかもしれません。ワールド・カフェによって、空き家はこうした可能性を拓く場になることができるのだと考えます。

 カフェも新しいビジネスの可能性を感じさせる分野の一つです。もし、カフェが定期的にあるいは常設的に対話する拠点となったらどうでしょうか?

 現在のカフェは、コーヒーを飲んだり、軽い食事をとったり、友人・知人とおしゃべりを楽しみ、ビジネスの打ち合わせを行い、本を読んだり、資料づくりをするなどの目的で使われているようです。

 しかし、カフェはこうした機能だけでなく、地域活性化の拠点となる可能性を秘めています。

 本書でも紹介している塩尻市や桜井市ではいくつかのカフェがまちづくりの拠点として機能しています。

 カフェが対話をする場として機能するようになるならば、知らない同士でも気楽に語り合い、新鮮な刺激を与え合い、人間関係のネットワークづくりの拠点として、新しい社会インフラのIつとしてかけがえのない役割を果たすことになるでしょう。

 以上、地域コミュニティの活性化における、ワールド・カフエの様々な可能性について述べてきました。ワールド・カフエの活用はまだその緒についたばかりです。これまでに応用されてこなかった様々な分野で、今後ワールド・カフエの可能性が開花することを信じています。
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何を探してるかもわからず探していた

山の中を探していた。ひたすら探していた。帰る道も帰るところもわからずに、探していた。何を探してるかもわからず探していた。

夢だとわかってた。どんな奥に入っても目を開ければ、布団の中だとわかっていた。そして目を開けた。今は何かを探してる。それが何かわからない
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