未唯への手紙
未唯への手紙
ロシアの破局―世界大戦
『レーニンと権力』より 破局―世界大戦
外国人たちもそう思い込んだ。一九一三年夏に英国外務省が内閣に提出した覚書は、「皇帝が姿を現わすいたる所で、民衆が皇帝その人に表わす愛情と献身は、何ものをも凌駕している。皇帝その人に対する大衆の強い愛着のなかに、ロシア帝政の偉大な強さがあることは疑いない」と確信を込めて述べている。ロンドンの『タイムズ』紙は一九一三年二月、ロマノフ王朝三〇〇周年記念特別号を発行し、皇帝ニコライと彼の国家の「将来はこの上なく確かで明るい」と書いた。
皇帝が、王朝権力の絶頂にいると思い込んでいた、まさにそのとき、彼は多くの稚拙な決定のなかでももっとも破滅的な決定を下す。ほかの何事にもまして、彼の王座と命を奪うことにつながる過ちである。その戦争は、どの参戦国よりも甚大な災厄をロシアにもたらした。レーニンが認めたとおり、もし戦争がなければ「ロシアはあと何年か、場合によっては数十年、資本家に対する革命を経験しないでいられたかもしれない」。
皇帝ニコライにほとんど同情しない一部の歴史家でさえ、一九一四年八月の段階に至ると、開戦を防ぐために皇帝にできることはほとんどなく、戦争への突進はそれ自体の勢いがついてしまっていた、と論じている。これは単純化し過ぎに思える。専制政治--少なくともきちんと機能している専制政治--の要諦とは、専制君主がその時も歴史上も、自らの決定に責任をもつということであるに違いない。ニコライには他にも選択肢があった。開戦せず、自分の生命と自分の国を、一世紀間続く災厄から救う決定を下すことも、その気になればできたのだ。
皇帝の多くの顧問は戦争に反対した。セルゲイ・ウィッテ伯爵は皇帝に、ロシアは「敗北の危険を冒すことはできません。軍隊こそ体制の支柱であり、国内の治安維持のために必要とされているからです」と諌めた。皇帝は彼に感謝しながら、そんなに消極的に考えるのはやめよと言った。ウィッテはこのあと、ロシア駐在フランス大使のモーリス・パレオローグに、ロシアがドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコの三国同盟と戦争するのは「われわれにとって狂気の沙汰です……破滅的な結果にしかならない」と語った。
内務大臣ピョートル・ドゥルノヴォは、一九〇五年革命のあと、警察局長として村落の根こそぎの破壊を命じた極右の人物だが、一九一四年二月、先見の明のある覚書をニコライに奏上し、ドイツとの戦争で予想される長期の消耗戦に、ロシアとその帝政は耐える力がないと諌言した。彼は、何が起きるかを驚くほど正確に予見している。「あらゆる惨状について政府に責任があると非難されることで、困難が始まるでありましょう。立法機関で政府を批判する厳しいキャンペーンが始まり、続いて、社会主義のスローガンを叫ぶ革命派の煽動が全国に広がって、大衆を刺激して結集させ、土地の分割に始まって、すべての有価物と財産の分割がこれに続くでありましょう。敗戦した軍は、もっとも信頼できる人材を失い、土地に対する素朴な農民の欲望に呑み込まれて、志気阻喪のために、法と秩序の防塁としての務めは果たせないでありましょう。立法機関と、知識人による野党各党は、大衆の目から見れば真の権威を有しておらず、自ら目覚めた大衆の大波を押しとどめるには無力であり、ロシアは絶望的な無政府状態に投げ込まれるでしょう。その結末を予見することはいたしかねるところであります」。ツァーリのお気に入りの祈祷僧で、皇后が「神から遣わされたわたしたちの友」としてだれよりも信頼していたグリゴリー・ラスプーチンも戦争に反対し、もしドイツとの紛争が始まれば「あなた方すべてにとって終末になるでしょう」と予言した。彼までが無視された。
すべての交戦国と同じく、戦争はロシアでも愛国主義の熱狂の波に乗って始まった。皇帝はドイツ風の響きをなくすためにサンクトペテルブルクからペトログラードに名前を変えた首都で宣戦を布告し、冬宮のバルコニーに立うてすさまじい歓呼を浴びた。汎スラブ・ナショナリストや主戦論を掲げる新聞は長い間、開戦を要求し続けていた。彼らは戦争は短く「クリスマスまでには終わる」と信じ、勝利するのはロシアであり、ロシアがバルカン半島を掌握し、ロマノフ王朝の長年の野望だったトルコからのコンスタンティノープル奪取が成就する、と考えていた。
緒戦の攻勢はロシアに有利に進んだ。ロシアはあっという間にガリツィア地方の一部をオーストリア=ハンガリーから奪う。ところが、オーストリアの友軍を補強すべく派遣された職業軍人から成る練度の高いドイツ軍と向き合ったとたん、ロシア軍は完全に圧倒され、敗北に敗北を重ねる。ロシア軍はマズーリ湖沼地帯で全滅し、死傷者は一二万人を超えた。開戦からちょうど四週間後のタンネンベルクの戦いはロシア史上最悪の敗戦の一つになった。ロシアの第二軍は一掃され、死傷者は二六万人を超えた。勝利したパウル・フォン・ヒンデンブルク将軍は後年、「われわれはロシア軍の新たな攻撃の波に対し、遮蔽物のない射撃領域を確保するため、塹壕の前に山になっている敵兵の死体を片付けなければならなかった。彼らの損耗兵員を推定しようとすることはできても、正確に数えるのは永遠に無駄な仕事だろう」と書いた。敗軍の将アレクサンドル・サムソノフは指揮所の裏の森に行き、銃で自殺した。三ヵ月もすると、ロシア軍は攻勢に出る現実的可能性を失っており、生き残りのために戦っているだけだった。
レーニンは軍人ではないが、ロシア軍のことを「外見は立派だが芯の腐った林檎」と、正確に形容している。ロシア帝国は一九世紀に東方へ、そして南方はカフカス地方へと拡大した。一九〇〇年代のバルカン戦争では戦果を挙げたが、クリミア半島を巡る英国およびフランスとの戦いはそれほどうまくは運ばず、一九〇四年~○五年の日本との戦いは惨めな結果に終わった。ロシア車の戦術はナポレオン時代からほとんど変わっていなかった。陸軍は消耗戦に対する備えがまったくなかった。
ロシア軍の死傷者数は膨大で、だれの予想をも超え、予備役兵が非常に少なかったため、陸軍は間もなく、訓練されていない二流の召集兵を前線に送らなければならなくなった。一九一四年一〇月末までに、ロシアは戦死あるいは負傷または行方不明で、一二〇万人の兵を失い、そのかなりの部分は訓練を受げた士官が、職業軍人の下士官だった。第八軍の司令官で、後に陸軍の最高司令官になるアレクセイ・ブルシーロフ将軍は、その年一〇月のプシェミシルの戦いが「戦争の前にきちんと教育され、訓練を受げた軍隊」を自分が指揮した最後の戦いだったと書いている。「開戦から三ヵ月も経たないうちに、われわれの正規の職業士官と訓練された兵士はいなくなってしまい、残された骸骨のような軍隊を、補給処から送られてくる、ひどく教育不足の兵士で慌てて補充しなければならなかった……この時期以降は、わが軍から職業的な性格が消え去ってしまった……多くの兵が、小銃に弾丸を装てんすることすらできなかった。こういう連中は、実は兵士と考えることはとうていできなかった……正規軍は消滅し、無知な人間の大群と入れ替わった」と。後方で待機していた増援部隊は「集団脱走と不満、そしてついには革命を引き起こす反乱の培養地」だった。これが、進んでレーニンに加担する兵士たちだった。
陸軍では、兵士よりも先に装備が枯渇した。一九一四年一〇月には六五〇万人が兵役に就いていたが、配給された小銃は四六〇万丁だった。戦争が始まったとき、ロシア軍全体の保有自動車はわずか六七九台で、エンジン付きの救急車は二台だった。鉄道のターミナル駅から、重火器を含む装備品、上級士官、負傷兵が農民の荷馬車に載せ替えられ、泥道をあちこちに運ばれていった。軍事的大失敗の根底には通信の貧弱さがあった。ロシアの長大な西部戦線に沿って電話は二五台、モールス信号機は数台しかなく、電信機による通信はしょっちゅう途絶した。指揮官とその副官たちは前線の状況を掌握するために、馬に乗って走り回らなければならなかった。それはトルストイの『戦争と平和』で描かれた時代の光景だった。
産業は、重砲弾を含め、十分な弾薬類を生産していなかった。一つには、皇帝と宮廷の貴族たちが、実業家が戦争で大もうけすることに反対していたためだ。将軍たちは、短期で終わると確信する戦争のための弾薬は充分にあると考え、開戦から数カ月が経っても武器製造の緊急計画を何も立てなかった。多くの大隊では数週間の戦闘で弾薬が尽きた。一九一四年一〇月中旬には、一部の兵士たちは戦闘中に使う弾丸を一日当たり一〇発に限るよう命令された。ロシア軍の塹壕がドイツ軍の砲撃を受けた場合も、ロシア軍砲兵はたいてい反撃を禁止されていた。プシェミシルでは、ロシア軍兵士はドイツ軍に対して事実上素手で戦い、彼らが倒されると、後方の兵士たちが欠損を埋めるのだが、彼らは、倒れた兵士の武器を取るよう命令されていた。「彼らは片手に銃剣、片手に一種の手投げ弾のようなものを持って前線の砲火のなかに放り込まれた」
兵士の士気は急速に低下し、ボリシェヴィキはそこに付け込んだ。ブルシーロフ将軍によれば、開戦から数週間のうちに職業軍人が一掃されたあと、予備役兵士の大半は自分たちの村や県より遠くのことが理解できず、なぜ戦争が行われているのかまったく分からないのだった。「ロシアの内陸部からやってくる新兵は、この戦争が自分たちにどんな関係があるのか、みじんも分かっていなかった」と、プルシーロフは言っている。
膨大な数のロシア兵が、戦うよりも捕虜になる方を選んだ。戦争の初年に戦死した兵士は二七万人だったが、捕虜になった兵士は一二〇万人を数えた。英国軍ではこの数は逆転し、戦闘中に捕虜になった者は戦死者の約五分の一に過ぎない。戦争の進展につれ、ロシア兵戦争捕虜は戦死者の一六倍になった。「士気の低下が深刻化しているという脅威的兆候は、ますますはっきりしてきていますに。陸軍大臣アレクセイ・ポリヴァノフ将軍は開戦から六ヵ月余り経ったころ、皇帝にこう言上した。口シア軍の最高指揮官の一部は、破滅が近づいていることに気づいていたが、それをどうするすべもなかった。
スイスに亡命中のレーニンは、戦争が不人気であることを、ロシア軍内にボリシェヴィズムを広げる願ってもない好機と見た。だが、彼は自分自身の戦闘を戦っているところだった。彼にとって真に重要な戦いは、ガリツィアやウクライナ西部の塹壕や戦場にはない。労働者階級の数百万の若者が殺戮されつつある血なまぐさい紛争には、彼はそれほど関心がなかった。レーニンの戦争は革命運動の指導権を巡る戦いだった。
外国人たちもそう思い込んだ。一九一三年夏に英国外務省が内閣に提出した覚書は、「皇帝が姿を現わすいたる所で、民衆が皇帝その人に表わす愛情と献身は、何ものをも凌駕している。皇帝その人に対する大衆の強い愛着のなかに、ロシア帝政の偉大な強さがあることは疑いない」と確信を込めて述べている。ロンドンの『タイムズ』紙は一九一三年二月、ロマノフ王朝三〇〇周年記念特別号を発行し、皇帝ニコライと彼の国家の「将来はこの上なく確かで明るい」と書いた。
皇帝が、王朝権力の絶頂にいると思い込んでいた、まさにそのとき、彼は多くの稚拙な決定のなかでももっとも破滅的な決定を下す。ほかの何事にもまして、彼の王座と命を奪うことにつながる過ちである。その戦争は、どの参戦国よりも甚大な災厄をロシアにもたらした。レーニンが認めたとおり、もし戦争がなければ「ロシアはあと何年か、場合によっては数十年、資本家に対する革命を経験しないでいられたかもしれない」。
皇帝ニコライにほとんど同情しない一部の歴史家でさえ、一九一四年八月の段階に至ると、開戦を防ぐために皇帝にできることはほとんどなく、戦争への突進はそれ自体の勢いがついてしまっていた、と論じている。これは単純化し過ぎに思える。専制政治--少なくともきちんと機能している専制政治--の要諦とは、専制君主がその時も歴史上も、自らの決定に責任をもつということであるに違いない。ニコライには他にも選択肢があった。開戦せず、自分の生命と自分の国を、一世紀間続く災厄から救う決定を下すことも、その気になればできたのだ。
皇帝の多くの顧問は戦争に反対した。セルゲイ・ウィッテ伯爵は皇帝に、ロシアは「敗北の危険を冒すことはできません。軍隊こそ体制の支柱であり、国内の治安維持のために必要とされているからです」と諌めた。皇帝は彼に感謝しながら、そんなに消極的に考えるのはやめよと言った。ウィッテはこのあと、ロシア駐在フランス大使のモーリス・パレオローグに、ロシアがドイツ、オーストリア=ハンガリー、トルコの三国同盟と戦争するのは「われわれにとって狂気の沙汰です……破滅的な結果にしかならない」と語った。
内務大臣ピョートル・ドゥルノヴォは、一九〇五年革命のあと、警察局長として村落の根こそぎの破壊を命じた極右の人物だが、一九一四年二月、先見の明のある覚書をニコライに奏上し、ドイツとの戦争で予想される長期の消耗戦に、ロシアとその帝政は耐える力がないと諌言した。彼は、何が起きるかを驚くほど正確に予見している。「あらゆる惨状について政府に責任があると非難されることで、困難が始まるでありましょう。立法機関で政府を批判する厳しいキャンペーンが始まり、続いて、社会主義のスローガンを叫ぶ革命派の煽動が全国に広がって、大衆を刺激して結集させ、土地の分割に始まって、すべての有価物と財産の分割がこれに続くでありましょう。敗戦した軍は、もっとも信頼できる人材を失い、土地に対する素朴な農民の欲望に呑み込まれて、志気阻喪のために、法と秩序の防塁としての務めは果たせないでありましょう。立法機関と、知識人による野党各党は、大衆の目から見れば真の権威を有しておらず、自ら目覚めた大衆の大波を押しとどめるには無力であり、ロシアは絶望的な無政府状態に投げ込まれるでしょう。その結末を予見することはいたしかねるところであります」。ツァーリのお気に入りの祈祷僧で、皇后が「神から遣わされたわたしたちの友」としてだれよりも信頼していたグリゴリー・ラスプーチンも戦争に反対し、もしドイツとの紛争が始まれば「あなた方すべてにとって終末になるでしょう」と予言した。彼までが無視された。
すべての交戦国と同じく、戦争はロシアでも愛国主義の熱狂の波に乗って始まった。皇帝はドイツ風の響きをなくすためにサンクトペテルブルクからペトログラードに名前を変えた首都で宣戦を布告し、冬宮のバルコニーに立うてすさまじい歓呼を浴びた。汎スラブ・ナショナリストや主戦論を掲げる新聞は長い間、開戦を要求し続けていた。彼らは戦争は短く「クリスマスまでには終わる」と信じ、勝利するのはロシアであり、ロシアがバルカン半島を掌握し、ロマノフ王朝の長年の野望だったトルコからのコンスタンティノープル奪取が成就する、と考えていた。
緒戦の攻勢はロシアに有利に進んだ。ロシアはあっという間にガリツィア地方の一部をオーストリア=ハンガリーから奪う。ところが、オーストリアの友軍を補強すべく派遣された職業軍人から成る練度の高いドイツ軍と向き合ったとたん、ロシア軍は完全に圧倒され、敗北に敗北を重ねる。ロシア軍はマズーリ湖沼地帯で全滅し、死傷者は一二万人を超えた。開戦からちょうど四週間後のタンネンベルクの戦いはロシア史上最悪の敗戦の一つになった。ロシアの第二軍は一掃され、死傷者は二六万人を超えた。勝利したパウル・フォン・ヒンデンブルク将軍は後年、「われわれはロシア軍の新たな攻撃の波に対し、遮蔽物のない射撃領域を確保するため、塹壕の前に山になっている敵兵の死体を片付けなければならなかった。彼らの損耗兵員を推定しようとすることはできても、正確に数えるのは永遠に無駄な仕事だろう」と書いた。敗軍の将アレクサンドル・サムソノフは指揮所の裏の森に行き、銃で自殺した。三ヵ月もすると、ロシア軍は攻勢に出る現実的可能性を失っており、生き残りのために戦っているだけだった。
レーニンは軍人ではないが、ロシア軍のことを「外見は立派だが芯の腐った林檎」と、正確に形容している。ロシア帝国は一九世紀に東方へ、そして南方はカフカス地方へと拡大した。一九〇〇年代のバルカン戦争では戦果を挙げたが、クリミア半島を巡る英国およびフランスとの戦いはそれほどうまくは運ばず、一九〇四年~○五年の日本との戦いは惨めな結果に終わった。ロシア車の戦術はナポレオン時代からほとんど変わっていなかった。陸軍は消耗戦に対する備えがまったくなかった。
ロシア軍の死傷者数は膨大で、だれの予想をも超え、予備役兵が非常に少なかったため、陸軍は間もなく、訓練されていない二流の召集兵を前線に送らなければならなくなった。一九一四年一〇月末までに、ロシアは戦死あるいは負傷または行方不明で、一二〇万人の兵を失い、そのかなりの部分は訓練を受げた士官が、職業軍人の下士官だった。第八軍の司令官で、後に陸軍の最高司令官になるアレクセイ・ブルシーロフ将軍は、その年一〇月のプシェミシルの戦いが「戦争の前にきちんと教育され、訓練を受げた軍隊」を自分が指揮した最後の戦いだったと書いている。「開戦から三ヵ月も経たないうちに、われわれの正規の職業士官と訓練された兵士はいなくなってしまい、残された骸骨のような軍隊を、補給処から送られてくる、ひどく教育不足の兵士で慌てて補充しなければならなかった……この時期以降は、わが軍から職業的な性格が消え去ってしまった……多くの兵が、小銃に弾丸を装てんすることすらできなかった。こういう連中は、実は兵士と考えることはとうていできなかった……正規軍は消滅し、無知な人間の大群と入れ替わった」と。後方で待機していた増援部隊は「集団脱走と不満、そしてついには革命を引き起こす反乱の培養地」だった。これが、進んでレーニンに加担する兵士たちだった。
陸軍では、兵士よりも先に装備が枯渇した。一九一四年一〇月には六五〇万人が兵役に就いていたが、配給された小銃は四六〇万丁だった。戦争が始まったとき、ロシア軍全体の保有自動車はわずか六七九台で、エンジン付きの救急車は二台だった。鉄道のターミナル駅から、重火器を含む装備品、上級士官、負傷兵が農民の荷馬車に載せ替えられ、泥道をあちこちに運ばれていった。軍事的大失敗の根底には通信の貧弱さがあった。ロシアの長大な西部戦線に沿って電話は二五台、モールス信号機は数台しかなく、電信機による通信はしょっちゅう途絶した。指揮官とその副官たちは前線の状況を掌握するために、馬に乗って走り回らなければならなかった。それはトルストイの『戦争と平和』で描かれた時代の光景だった。
産業は、重砲弾を含め、十分な弾薬類を生産していなかった。一つには、皇帝と宮廷の貴族たちが、実業家が戦争で大もうけすることに反対していたためだ。将軍たちは、短期で終わると確信する戦争のための弾薬は充分にあると考え、開戦から数カ月が経っても武器製造の緊急計画を何も立てなかった。多くの大隊では数週間の戦闘で弾薬が尽きた。一九一四年一〇月中旬には、一部の兵士たちは戦闘中に使う弾丸を一日当たり一〇発に限るよう命令された。ロシア軍の塹壕がドイツ軍の砲撃を受けた場合も、ロシア軍砲兵はたいてい反撃を禁止されていた。プシェミシルでは、ロシア軍兵士はドイツ軍に対して事実上素手で戦い、彼らが倒されると、後方の兵士たちが欠損を埋めるのだが、彼らは、倒れた兵士の武器を取るよう命令されていた。「彼らは片手に銃剣、片手に一種の手投げ弾のようなものを持って前線の砲火のなかに放り込まれた」
兵士の士気は急速に低下し、ボリシェヴィキはそこに付け込んだ。ブルシーロフ将軍によれば、開戦から数週間のうちに職業軍人が一掃されたあと、予備役兵士の大半は自分たちの村や県より遠くのことが理解できず、なぜ戦争が行われているのかまったく分からないのだった。「ロシアの内陸部からやってくる新兵は、この戦争が自分たちにどんな関係があるのか、みじんも分かっていなかった」と、プルシーロフは言っている。
膨大な数のロシア兵が、戦うよりも捕虜になる方を選んだ。戦争の初年に戦死した兵士は二七万人だったが、捕虜になった兵士は一二〇万人を数えた。英国軍ではこの数は逆転し、戦闘中に捕虜になった者は戦死者の約五分の一に過ぎない。戦争の進展につれ、ロシア兵戦争捕虜は戦死者の一六倍になった。「士気の低下が深刻化しているという脅威的兆候は、ますますはっきりしてきていますに。陸軍大臣アレクセイ・ポリヴァノフ将軍は開戦から六ヵ月余り経ったころ、皇帝にこう言上した。口シア軍の最高指揮官の一部は、破滅が近づいていることに気づいていたが、それをどうするすべもなかった。
スイスに亡命中のレーニンは、戦争が不人気であることを、ロシア軍内にボリシェヴィズムを広げる願ってもない好機と見た。だが、彼は自分自身の戦闘を戦っているところだった。彼にとって真に重要な戦いは、ガリツィアやウクライナ西部の塹壕や戦場にはない。労働者階級の数百万の若者が殺戮されつつある血なまぐさい紛争には、彼はそれほど関心がなかった。レーニンの戦争は革命運動の指導権を巡る戦いだった。
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