未唯への手紙
未唯への手紙
OCR化した3冊
『ご冗談でしょうファインマンさん』
下から見たロスアラモス
『生きること学ぶこと』
失敗体験と「素心」
事実ということ
「目標」と「仮説」
分析と大局観
「単純明快」ということ
「素心」ということ
『ウィトゲンシュタインと独我論』
序論--ウィトゲンシュタインと「独我論」
『論考』における「独我論」
『青色本』における「言語の先行性」と「独我論」批判
『探求』における「独我論」批判について
下から見たロスアラモス
『生きること学ぶこと』
失敗体験と「素心」
事実ということ
「目標」と「仮説」
分析と大局観
「単純明快」ということ
「素心」ということ
『ウィトゲンシュタインと独我論』
序論--ウィトゲンシュタインと「独我論」
『論考』における「独我論」
『青色本』における「言語の先行性」と「独我論」批判
『探求』における「独我論」批判について
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『論考』における「独我論」
『ウィトゲンシュタインと独我論』より ウィトゲンシュタインと「独我論」
『論考』においては、〈事実〉とそれを認識する〈思念〉とそれを外に表した〈命題〉は、同一の論理形式を有している。とは言え、事実としては可能的事実であってもよい訳であり、そしてこの場合には、思念は想像になる。何れにせよ事実と思念は、あらゆる可能的事実をも含めて、同一の論理形式を持って対応しており、そしてその論理形式は、それらに対応する命題において示される。したがって、あらゆる可能的事実をも含めた意味での〈世界〉と、それに対応するところの、想像を含めた意味での〈思念〉--「広義の思念」--は、同一の命題によって表される事になる。それ故その意味で、〈世界〉とそれに対応する〈思念〉--「広義の思念」のこと、以下同じ--は同じ内容を有し、且つ、可能的命題を含めた意味での命題の全体が〈言語〉であるとすれば、同一の言語の範囲内にあって、その〈言語〉の限界を限界とし、その意味で同じ限界を有する事になる。即ち、〈世界〉と〈思念〉は、内容を同じくし、且つ、限界も同じくするのである。そしてその意味で、〈世界〉と〈思念〉は、完全に重なり合いながら動く事になる。ところで、〈思念〉は疑いも無く私の〈思念〉である。したがって、内容においても限界においても〈思念〉と完全に重なり合いながら動く〈世界〉もまた、私の〈世界〉である事になる。そしてその意味で、世界は私の〈世界〉なのである。
さて、世界は私の〈世界〉である、と言うとき、その私の〈世界〉は、他人にも理解可能であろうか。それは、理解不可能なのである。何故なら、私の〈世界〉は私の〈言語〉で語られるのであるが、その私の〈言語〉は、私のみが理解する〈言語〉(5・62)--私的〈言語〉--であるのであるから。したがって、私の〈世界〉は、私のみが理解する〈世界〉--私的〈世界〉--なのであるから。私の〈世界〉は私のみが理解する私的〈世界〉なのである。そしてこれは、〈独我論〉の一表現であると言えよう。世界は私の〈世界〉であり、それは、私のみが理解する私的〈世界〉であるとすれば、各人はそれぞれ自己の〈世界〉に閉じこもり、そこには相互理解は存在しない事になる。即ち、各人の〈世界〉には窓が無いのである。私には私の〈世界〉のみがあり、そこには、私の感覚、感情、思い、意志、……が、即ち、私の心的なるものが、生き生きと存在するのであるが、他人のそれらは感じられず、他人はただ人の形をしたものとしてのみ存在するのである。このような世界観は、世界において心的存在として本当に存在するものは独り我のみである、という意味で、「独我論」と言われてよいであろう。
それではウィトゲンシュタインは、このような意味での独我論--簡単に言えば「世界は私の〈世界〉である」という独我論--を、どう克服しようとしたのか。それは、『論考』においては、それを深化し徹底する事によって、であった。ポイントは、「私の」という所有格で言語的に姿を現している〈私〉と世界との関係、である。彼は、(途中省略した所もあるが、)こう言うのである。
私の言語の諸限界は、私の世界の諸限界を意味する。(5・6)
[私の]世界と[私の]生活は一つである。(5・621)
私は、私の世界(小宇宙)「そのもの」である。(5・63)
[時々刻々]思考し表象する主体は、[世界の中には]存在しない。(5・631)
[時々刻々思考し表象する]主体は、世界には属さない、それは、世界の一限界なのである。(5・632)
[時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている]形而上学的主体は、世界の中の何処に認められるべきなのか。君は、こう言うであろう、ここにおける事態は眼と視野の関係と同じである。しかし、君は実際には眼を見てはいない。[それ故、眼は視野の中には存在しない。]そして、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は、出来ない。(5・633)( それ故、視野と眼の関係は偶然的である。]
つまり、「二重の意味で」視野は例えばこのような形を[必然的に]持つものではないのである。(5・6331)
この事は、我々の経験の如何なる部分もア・プリオリではない、という事と関係している。我々が見るものは全て、別様でもあり得たのである。(5・634)
ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、純粋な実在論と一致するという事を悟る。独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在が残るのである。(5・64)
したがって実際、この意味でならば自我が哲学において--心理学的にでは無く--問題になり得る、という意味が存在する。自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、哲学に入り込む。[この自我、即ち]哲学的自我は、人間ではない、人間の身体ではない、或いは、心理学が扱う人間の心ではない、それは、形而上学的主体であり、[私の一世界の--部分ではなく--[超える事の出来ない]限界なのである。(5・641)
独我論で、「世界は私の〈世界〉である」と言うときの世界、即ち、私の世界は、私の生活世界の事である。(5・621)ここで我々は、決して、私の世界として物的な世界のみを考えてはならない。私の世界は、私の感覚、感情、思い、意志、等々、によって成り立っている私の生活世界なのであり、そして、それが即ち〈私〉というものの内実なのである。(5・63)
ところで、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しない。(5・631)ウィトゲンシュタインによれば、例えば「Aは、pと考える」は「「p」は、pと考える」という形式を持っているのである。(5・542)主体Aは、命題「p」に成り切って、pと考える訳である。これが現実の事実である。即ち主体Aは、この世界から姿を消すのである。(なおこの所見は、中期においては、普通一般にIch denke(私は考える)という表現によって意味されている事は、実は回恥コ回(考えが生じている)という表現で表されるべきものだ、と言われる。)こういう訳で、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しないのである。勿論、生じている考えは、私が考えているものである。しかしその〈私〉は、私の生活世界の中には現れない。そのような主体は、私の生活世界には属さず、私の生活世界の一限界なのである。(5・632)そのような主体によって思考され表象される世界は、論理的に、当の主体を前提とし、且つ、当の主体を超え出る事は出来ないからであろう。それでは、私の生活世界の他の限界は何か。それは、私のみが理解する言語によって与えられる全可能的事実ではないか。そしてこの限界は同時に私の言語の諸限界でもあるのである。(5・6)私の言語の限界が諸限界と複数になっているのは、言語の限界には、名前に関する限界と、それらの間で可能な結合の形式に関する限界が有るからではないか。
他方、時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている形而上学的〈主体〉は、世界の中の何処に認められるべきか、と問われれば、君はこう言うであろう、形而上学的〈主体〉と私の生活世界の関係は、眼と視野の関係と同じである。しかしその上うに言うとき、もしも君がI図のような図式、即ち、眼が視野の中に入り込んだ図式、を思い描いているとすれば、それは誤りである。何故ならば、君は実際には眼を見てはいないのであるから。したがって、眼と視野の関係は、H図のようでなくてはならない。しかし、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は出来ない。(5・633)したがって、眼と視野の関係は偶然的なのである。それ故、眼と視野が必然的にH図のような図式を有する訳でもない。実は眼は「見る」という事と何の関係もなく、実は額が見るのだ、という事も、論理的には有り得るのである。つまり、眼と視野の関係は論理的にはI図のような形もⅡ図のような形も持ちはしないのである。(5・6331)この事は、我々の経験の如何なる部分もア・プリオリではないのであり、我々が見るものは全て別様でもあり得たのだ、という事と関係している。(5・634)何故ならば、もしも眼と視野が必然的にH図のような図式を有するとすれば、たとえ眼の構造は偶然的であるとしても、それを前提にすれば、視野には眼の構造を反映するア・プリオリな構造が存在する事になるであろうから。
ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、即ち独我論の自我がⅢ図のように大きさのない点へと収縮されると、純粋な実在論と一致する、という事を悟るのである。言い換えれば、独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在-如何なる部分もア・プリオリではない実在--が残る、という訳である。(5・64)
とは言え独我論と実在論は、実は高々極限としてそれぞれの世界が」致する(もしくは重なるまでであって、独我論が純粋な実在論になるのではない。第一、独我論の自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、大きさのない点としてであろうとも、なお形而上学的〈主体〉として、また、世界の--部分ではなく--限界として、残るのである。(5・641)そして第二には、私の言語は依然として私のみが理解する言語であるから。したがって『論考』においては、独我論が消え去る訳ではない。
それでは、そのような独我論を脱却するにはどうすればよいのか。それには、①形而上学的〈主体〉は実は非在である、という事と、②言語は、私の言語--私のみが理解する言語(私的言語)--ではなく、本来公的なもの(公的言語)だ、という事を、明らかにしなくてはならない。そして『論考』の後、①の作業が『青色本』と『探求』において遂行され、②の作業が『探求』において遂行された。そして実は、その何れの作業の土台にも、彼の「言語ゲーム論」があるのである。言うならば、彼の「言語ゲーム論」が、彼の「独我論」批判の土台なのである。しかし、この事の具体的議論は第二章 本論に譲る。
なお、Ⅱ図においては、眼と視野の関係は偶然的であった。それでは、Ⅲ図における自我と世界の関係はどうであろう。それは、世界は必然的に私の世界である、という意味では必然的であるが、その世界の内容は、ア・プリオリではなく、別様でも有り得た、という意味では、やはり偶然的なのである。したがって、言うなれば、自我と世界の関係は、形式的には必然的だが、内容的には偶然的なのである。そして「眼と視野」の比喩は、眼と視野の関係は形式的にも偶然的である、という点において、破れる訳である。
『論考』においては、〈事実〉とそれを認識する〈思念〉とそれを外に表した〈命題〉は、同一の論理形式を有している。とは言え、事実としては可能的事実であってもよい訳であり、そしてこの場合には、思念は想像になる。何れにせよ事実と思念は、あらゆる可能的事実をも含めて、同一の論理形式を持って対応しており、そしてその論理形式は、それらに対応する命題において示される。したがって、あらゆる可能的事実をも含めた意味での〈世界〉と、それに対応するところの、想像を含めた意味での〈思念〉--「広義の思念」--は、同一の命題によって表される事になる。それ故その意味で、〈世界〉とそれに対応する〈思念〉--「広義の思念」のこと、以下同じ--は同じ内容を有し、且つ、可能的命題を含めた意味での命題の全体が〈言語〉であるとすれば、同一の言語の範囲内にあって、その〈言語〉の限界を限界とし、その意味で同じ限界を有する事になる。即ち、〈世界〉と〈思念〉は、内容を同じくし、且つ、限界も同じくするのである。そしてその意味で、〈世界〉と〈思念〉は、完全に重なり合いながら動く事になる。ところで、〈思念〉は疑いも無く私の〈思念〉である。したがって、内容においても限界においても〈思念〉と完全に重なり合いながら動く〈世界〉もまた、私の〈世界〉である事になる。そしてその意味で、世界は私の〈世界〉なのである。
さて、世界は私の〈世界〉である、と言うとき、その私の〈世界〉は、他人にも理解可能であろうか。それは、理解不可能なのである。何故なら、私の〈世界〉は私の〈言語〉で語られるのであるが、その私の〈言語〉は、私のみが理解する〈言語〉(5・62)--私的〈言語〉--であるのであるから。したがって、私の〈世界〉は、私のみが理解する〈世界〉--私的〈世界〉--なのであるから。私の〈世界〉は私のみが理解する私的〈世界〉なのである。そしてこれは、〈独我論〉の一表現であると言えよう。世界は私の〈世界〉であり、それは、私のみが理解する私的〈世界〉であるとすれば、各人はそれぞれ自己の〈世界〉に閉じこもり、そこには相互理解は存在しない事になる。即ち、各人の〈世界〉には窓が無いのである。私には私の〈世界〉のみがあり、そこには、私の感覚、感情、思い、意志、……が、即ち、私の心的なるものが、生き生きと存在するのであるが、他人のそれらは感じられず、他人はただ人の形をしたものとしてのみ存在するのである。このような世界観は、世界において心的存在として本当に存在するものは独り我のみである、という意味で、「独我論」と言われてよいであろう。
それではウィトゲンシュタインは、このような意味での独我論--簡単に言えば「世界は私の〈世界〉である」という独我論--を、どう克服しようとしたのか。それは、『論考』においては、それを深化し徹底する事によって、であった。ポイントは、「私の」という所有格で言語的に姿を現している〈私〉と世界との関係、である。彼は、(途中省略した所もあるが、)こう言うのである。
私の言語の諸限界は、私の世界の諸限界を意味する。(5・6)
[私の]世界と[私の]生活は一つである。(5・621)
私は、私の世界(小宇宙)「そのもの」である。(5・63)
[時々刻々]思考し表象する主体は、[世界の中には]存在しない。(5・631)
[時々刻々思考し表象する]主体は、世界には属さない、それは、世界の一限界なのである。(5・632)
[時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている]形而上学的主体は、世界の中の何処に認められるべきなのか。君は、こう言うであろう、ここにおける事態は眼と視野の関係と同じである。しかし、君は実際には眼を見てはいない。[それ故、眼は視野の中には存在しない。]そして、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は、出来ない。(5・633)( それ故、視野と眼の関係は偶然的である。]
つまり、「二重の意味で」視野は例えばこのような形を[必然的に]持つものではないのである。(5・6331)
この事は、我々の経験の如何なる部分もア・プリオリではない、という事と関係している。我々が見るものは全て、別様でもあり得たのである。(5・634)
ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、純粋な実在論と一致するという事を悟る。独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在が残るのである。(5・64)
したがって実際、この意味でならば自我が哲学において--心理学的にでは無く--問題になり得る、という意味が存在する。自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、哲学に入り込む。[この自我、即ち]哲学的自我は、人間ではない、人間の身体ではない、或いは、心理学が扱う人間の心ではない、それは、形而上学的主体であり、[私の一世界の--部分ではなく--[超える事の出来ない]限界なのである。(5・641)
独我論で、「世界は私の〈世界〉である」と言うときの世界、即ち、私の世界は、私の生活世界の事である。(5・621)ここで我々は、決して、私の世界として物的な世界のみを考えてはならない。私の世界は、私の感覚、感情、思い、意志、等々、によって成り立っている私の生活世界なのであり、そして、それが即ち〈私〉というものの内実なのである。(5・63)
ところで、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しない。(5・631)ウィトゲンシュタインによれば、例えば「Aは、pと考える」は「「p」は、pと考える」という形式を持っているのである。(5・542)主体Aは、命題「p」に成り切って、pと考える訳である。これが現実の事実である。即ち主体Aは、この世界から姿を消すのである。(なおこの所見は、中期においては、普通一般にIch denke(私は考える)という表現によって意味されている事は、実は回恥コ回(考えが生じている)という表現で表されるべきものだ、と言われる。)こういう訳で、時々刻々思考し表象する主体は、私の生活世界の中には存在しないのである。勿論、生じている考えは、私が考えているものである。しかしその〈私〉は、私の生活世界の中には現れない。そのような主体は、私の生活世界には属さず、私の生活世界の一限界なのである。(5・632)そのような主体によって思考され表象される世界は、論理的に、当の主体を前提とし、且つ、当の主体を超え出る事は出来ないからであろう。それでは、私の生活世界の他の限界は何か。それは、私のみが理解する言語によって与えられる全可能的事実ではないか。そしてこの限界は同時に私の言語の諸限界でもあるのである。(5・6)私の言語の限界が諸限界と複数になっているのは、言語の限界には、名前に関する限界と、それらの間で可能な結合の形式に関する限界が有るからではないか。
他方、時々刻々思考し表象する主体ではなく、それを貫いている形而上学的〈主体〉は、世界の中の何処に認められるべきか、と問われれば、君はこう言うであろう、形而上学的〈主体〉と私の生活世界の関係は、眼と視野の関係と同じである。しかしその上うに言うとき、もしも君がI図のような図式、即ち、眼が視野の中に入り込んだ図式、を思い描いているとすれば、それは誤りである。何故ならば、君は実際には眼を見てはいないのであるから。したがって、眼と視野の関係は、H図のようでなくてはならない。しかし、視野にある何ものからも、それが眼によって見られているという事を推論する事は出来ない。(5・633)したがって、眼と視野の関係は偶然的なのである。それ故、眼と視野が必然的にH図のような図式を有する訳でもない。実は眼は「見る」という事と何の関係もなく、実は額が見るのだ、という事も、論理的には有り得るのである。つまり、眼と視野の関係は論理的にはI図のような形もⅡ図のような形も持ちはしないのである。(5・6331)この事は、我々の経験の如何なる部分もア・プリオリではないのであり、我々が見るものは全て別様でもあり得たのだ、という事と関係している。(5・634)何故ならば、もしも眼と視野が必然的にH図のような図式を有するとすれば、たとえ眼の構造は偶然的であるとしても、それを前提にすれば、視野には眼の構造を反映するア・プリオリな構造が存在する事になるであろうから。
ここにおいて人は、独我論は、厳格に遂行されると、即ち独我論の自我がⅢ図のように大きさのない点へと収縮されると、純粋な実在論と一致する、という事を悟るのである。言い換えれば、独我論の自我は、大きさのない点へと収縮し、その自我に対応する実在-如何なる部分もア・プリオリではない実在--が残る、という訳である。(5・64)
とは言え独我論と実在論は、実は高々極限としてそれぞれの世界が」致する(もしくは重なるまでであって、独我論が純粋な実在論になるのではない。第一、独我論の自我は、「世界は私の世界である」という事を通して、大きさのない点としてであろうとも、なお形而上学的〈主体〉として、また、世界の--部分ではなく--限界として、残るのである。(5・641)そして第二には、私の言語は依然として私のみが理解する言語であるから。したがって『論考』においては、独我論が消え去る訳ではない。
それでは、そのような独我論を脱却するにはどうすればよいのか。それには、①形而上学的〈主体〉は実は非在である、という事と、②言語は、私の言語--私のみが理解する言語(私的言語)--ではなく、本来公的なもの(公的言語)だ、という事を、明らかにしなくてはならない。そして『論考』の後、①の作業が『青色本』と『探求』において遂行され、②の作業が『探求』において遂行された。そして実は、その何れの作業の土台にも、彼の「言語ゲーム論」があるのである。言うならば、彼の「言語ゲーム論」が、彼の「独我論」批判の土台なのである。しかし、この事の具体的議論は第二章 本論に譲る。
なお、Ⅱ図においては、眼と視野の関係は偶然的であった。それでは、Ⅲ図における自我と世界の関係はどうであろう。それは、世界は必然的に私の世界である、という意味では必然的であるが、その世界の内容は、ア・プリオリではなく、別様でも有り得た、という意味では、やはり偶然的なのである。したがって、言うなれば、自我と世界の関係は、形式的には必然的だが、内容的には偶然的なのである。そして「眼と視野」の比喩は、眼と視野の関係は形式的にも偶然的である、という点において、破れる訳である。
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未唯宇宙1.4
2018年01月14日(日) 未唯宇宙1.4
1.4 内なる世界
・自分の根源である、存在と無を集中的に考えた。自分は考えている時だけ存在し、内なる世界を持っている。考えることが存在と無をつなぐので、考えることで大いなる意思に応える。内なる世界で生きることで、社会の真理をめざす。
・他者の世界は独我論から生まれた
・確実にある世界から見ていく
・「私は私の世界」につながります
・「内なる世界」が生まれた
1 考えるだけ
・なぜ、存在と無が私の中で同居するのか。存在と無がある限り、考える。哲学も存在と無の中にある。大いなる意思により、この世界にも放り込まれたのは、考えて、自分は正しいことを示すため。
・大いなる意思の目的は何か
1-1 考える存在
存在することは考えることです。ここに居るという存在と自分がいないという無を考えることがつなげる。考えたことに意味がある。消滅する世界だが、私が考えたという事実だけが残ります。
1-1.1 無の意味
・下重暁子 生き方は死に方
・フランクフルトのホテルで考えている
・何もないところから何かを生む
・考えることに意味がある
・考えることに拘っている
・考えることは虚しさと尊厳とのフリップフラップ
・社会に報われることはない
・僕らの生に意味があるのか
1-1.2 考える為に存在
・未唯空間を考える体制
・「存在と無」を数学的な意味でも、哲学的な意味でも拡張できた
・いろいろな非対称がある。人間は非対称だから生きていける
・結局は無です
・考えることと夢見ること
・哲学は現実よりも大きすぎる
・存在があって、初めて無がある
・存在と無は完全なる非対称
・存在と無は偏在する
・無から有が生まれる
1-1.3 独力で考える
・メルケルは結果からから考える
・アインシュタイン相対論
・アインシュタインに参考文献はない
・行動するのは嫌いです。選択肢をなくす
1-1.4 考え続ける
・納得がいっていない
・ニーチェの精神変化の3ステップ ラクダ・獅子・幼子
・意味についての記述が多様である
・神の意志と創発自己組織系
・素粒子論の問題を人間原理で説明
1-2 大いなる意思
・多重宇宙と意思からこの世界に放り込まれた。理性の哲学に対する意思の哲学。そして、存在の哲学にやってきた。私の背後に大いなる意思があり、さまざまな偶然を与えてくれるが、時として、大いなる意志が行動の邪魔をする。
1-2.1 放り込んだ責任
・自分のために作られたという認識
・人類の進化はディスクリートの関係
・人類はどうしていくかを見ていく
・大いなる意思を発見
1-2.2 力への意思
・ニーチェは意志の哲学
・意志としての世界
・善悪の彼岸 ニーチェ 力ヘの意志と自由意志
1-2.3 偶然を生かす
・偶然をどう生かすか
・本当に利用つくしたのか
・大いなる意思から準備された世界
・私の周辺に情報を全て持ち寄ってくる
1-2.4 活動を妨害
・意志からの小細工
・意志の意図を感じる
・退院に向けての仕掛け
・理解者は時代とμだけです
1-3 哲学で考える
・「存在と無」から発して、哲学的思考に入った。カントの三つの問いも感じている。私は何を知りうるか? 私は何をすべきか? 私は何を望みうるか? デカルトから一人で考える意味を習った。精神現象学などは、根源的に考える訓練に使えます。
1-3.1 存在論
・存在論の2つの立場
・存在と存在論
・職業哲学を嫌った哲学者 ヴィトゲンシュタイン
・カントの三つの問い
・ソクラテスの対話
・自分の世界の哲学
・真理という美名に惑わされず、正体を明らかにせよ
・哲学に向かう心
1-3.2 何を知りうるか
・ウィトゲンシュタインの探求 哲学とは
・決めたことをやり終えます
・厳格な超自我を発揮したヴィトゲンシュタイン
・現象学とは
・考えるとは映像を作ること
・世界や社会といったものが、自分と関わりを持つ存在になった
・正義の定義
・哲学からの影響
1-3.3 宇宙からの視線
・「外なる世界」と「内なる世界」
・我が思考は銀河を越えて
・狭さがたまらない
・自己意識とは、世界の全てが、自分にとって存在しているものだ
・人間の心を相手にするのはやめたい。周りに何もないように振舞う
・存在と無を同時に考える以上は独我論にはならない
・哲学の本には、存在と無が多い。ヒントはある
1-3.4 考える日々
・先が見えなくなった時の池田晶子
・『論考』の理論
・池田晶子の死〈哲学=考える〉
・「存在と無」と一般意思
・ハイデッガーの存在と死
・道元禅師の生涯
1-4 私は正しい
・仕事で社会と関わってきた。皆の夢を実現することから考えてきた。ヒアリングして、仮説・実証を行ってきた。自分の正しさは成果で証明している。皆という範囲が大きくなって、人類まで広がった。未来学者として、将来を予言していく。それで、自分の正しさを分かってもらう。
1-4.1 私は間違っていない
・本来考えるべき人が考えていない
・「違い」が「個性」であり、様々な個性があるだけ
・ルソーの散歩吟味
・考えていない相手に対して、自分が正義
・私がムシされる理由・・・この世界自体が存在していない
・侍従には英雄なし
・純粋洞察は「対自存在」を求める。
1-4.2 何が正しいのか
・「納得できること」を正しいと考える人間の欠陥
・ディベートにおける理念
・何が正しいのかをより広い範囲から攻めましょう
・社会は私に協調して欲しい。それが協調性
1-4.3 正しさの証明
・「力への意志」を持って自らを肯定せよ
・スティーブ・ジョブズの「自閉的」戦略
・ナッシュの輝ける狂気。狂気は逃避でもある
・私は正しい、ということの証明
・自分自身を乗り越える「超人」になれ
1-4.4 預言を託す
・価値観や主張をはっきりと口にせよ
・今は思いを溜める時
・最初から意味は存在していない
・私は間違っていないのだけは確か
・自分が正しいと思い込んでいる人は怠け者だ
・自分を尊敬する
2 私は私の世界
・自分の存在を考えている。他者の存在が認識できないので、自分だけの空間で生きることにした。考えた全てを表現して、未来を予測して、歴史を変えることを存在証明になる。内なる世界で未来をシミュレートしていく。そこでは皆の夢を作り、叶えていく。
・「私は私の世界」を表題にする
・色々な世界が一緒こたになっている
・他者の存在をなくす意味
2-1 私が世界の全て
・自分の外側に世界があるのではなく、自分の内側にある。世界と自分の関係を想定していくために、外側の全てを知りたい。自分だけの世界を構築して、結果を外に出していく。そのためにも、内なる世界を究明する。
2-1.1 内なる世界はある
・私のもとでのみ、世界は現に存在する
・「私は私の世界」になぜ、気づいていないのか
・沈黙は自分の心から生れる
・この世界を見ていない
・独我論が示されるところ 言葉の限界が世界の限界
・「私の世界の全て」が真理
・ウィトゲンシュタイン 独我論者観
・考えている自分は何なのか。だから、世界は自分の内側にある
・実世界よりも内なる世界
・世界が自分の内にあるのは、本当なのか
・世界は自分の内にあるというテーマ
2-1.2 私の世界を説明
・全能感があると死ねない
・私の世界からのエッセイ
・内なる世界の答え
・1/4の人が内なる世界を体現したら、社会は変わる
・自分の内側の世界のイメージが明確になってきた
・世界が内にあるから、サファイアを作ったり、未唯空間を作ったりした
・世界の片隅で生きている人にも内なる世界はある
・内なる世界で十分ではないか
・内なる世界に没頭する
2-1.3 全てを知るため
・自分がいない世界を知るのは、自分の中の世界だから
・自分の中に世界があるから、責任を持たないといけない
・生きていない世界のことを、なぜ考えるのか
・全てを知りたいの意味
・歴史と哲学を理解して、自分の中に入れる
2-1.4 外なる世界と接点
・私の孤島は海中に没し
・なぜ、内なる世界を考えたか
・ヘーゲルの意識と自己意識
・外なる世界を否定するために、内なる世界に向かいます
・観念の世界は内なる世界
・空海 内なる革命
・隅っこに居るから、未来は関係ない、からいかに脱するか
・多くの人が答えたがらない質問
・内なる世界の目標となるのは
2-2 他者の存在
・歴史を変えた個人の事例から考える。ムハンマドの戒律はアラブの世界を変えた。人々が求めたことを与えた。キリストはローマ時代の支配の力に成り果てた。日本の場合は、法然の南無阿弥陀仏とか、日蓮がいるが、現代は葬式だけ。秦の始皇帝の中華思想は毛沢東が受け継いだ。宗教が歴史を変えた。
2-2.1 存在を信じない
・「本質」の哲学での使い方
・あるということの探求が形而上学
・皆、現象学で生きている
・境目をなくすと出発点に戻る
・周りが全て存在していない
・承認ということ
・存在が確認できない
・存在が見えていない
2-2.2 本当は在るのか
・これって、「離人症」
・自分という存在を環境と自分に区切れるのか
・本当にやるべきこと
・「ありのまま」の対象などというものは実在しない
・『存在と時間』・・・「存在」の意味の解明
・ハイデガー『存在と時間』--人間は自らの存在の意味を問う
・私は本当に存在するのか?
・人間の存在は現存在 ハイデガー
・存在は難しいものなのか。皆が持っているもの
・存在は論理的ではない
・独我論って、何?
・本当に、そこに在るのか。あるのでしょう。
2-2.3 承認は不要
・持って行き先がない
・こんな世界はどうでもいい
・他者の存在を前提としない
・他者の位置づけ
・他者の承認は不要のつらさ
・『論考』を捨てるにいたる、二つの危機 言葉の限界
・誰も居ない世界の過ごし方
・カントの心のうちなる法則 私は何を知ることができるか
・全ての人間は私である
・私の世界観と普通の人の感覚の差は大きい
2-2.4 考える時だけ在る
・私の世界に戻りましょう
・ロバニエミで自分の存在を確認した
・思考する主体の逆説
・私という特殊な存在
・自分編なしに未唯空間は成り立たない
・自明の理はそれ以上説明できない
・神は死んだから、超人になる
・自分編での感想は存在と無が全ての根源
・存在をなくします
2-3 世界を表現
・未唯空間で考えたこと、感じたことの全てを表して、体系化してきた。そのプロセスで、全てを知る努力も本を通じて、行ってきた。完全に自分のための世界です。歴史を変えることができれば、それを存在証明とすることができる。知らずに放り込まれた私が内なる世界で歴史を変えていく。
2-3.1 全てを網羅
・考えることに拘ってきた
・考えることを存在の証明にしたい
2-3.2 ジャンルの設定
・なにかしらの成果につなげます
・存在は論理的ではない
2-3.3 私の世界を把握
・どこにもライブラリ
・私が存在することの意味
・自分を変えることができるか。変えてどうするのか。・・・他人の存在を認識
・社会をどうイメージするか
・世界を変えたいなら自分を変えよ
・生活規範をつくる
2-3.4 数学・歴史を反映
・私たちがこの世界に存在できるわけ
・自分が存在すること
・自分の存在感をなくす
・生まれてきた理由からの帰結
・存在者とは何であるか
2-4 夢とつながる
・20歳代は、自分のシステムに夢中になった。「ディスクにビットを立てるだけ」と気づき、止めた。30歳代はシステム構築に専念した。「皆の夢を自分の夢」にして、他人の夢を叶えることを自分の夢にした。皆が夢を持てるようにする。社会全体の夢を描き、実現するために、社会との接点の分野に変わった。
2-4.1 世界は夢の外
・ひらめきのソースは「夢」
・独我論で外の世界にアプローチ
2-4.2 夢は持てば叶う
・もういいでしょう
2-4.3 夢をかなえる
・「私の世界」からこんにちは
・私が存在する、今が変節点です
・私に知らせるために全てが存在する
・他人の夢を叶える
2-4.4 女性は懸け橋
・夢と現実がつながる
3 他者との境界
・存在であり、無であることが出発点です。存在を社会に確認することは、全てを無にすることになる。無なのに、社会に干渉するのは矛盾です。宇宙の旅人の自由さを失う。だけど、社会を知るという好奇心は捨てられない。そこで、無の外なる世界として扱うことにした。
・世界は10割で成立している
・外なる世界を観察する
3-1 無であること
・皆、無が恐くはないのか。隠しているのか、忘れているのか。死がないと再生がないのは分かるけど、自分となると話は別です。誰も、この話題にはのってこない。そんなことは考えないという態度が、他人の存在を否定することになった。全てを無にする覚悟を決めて、死への態度を決める
3-1.1 私が居るから在る
・世界がないってことがありえた?
・私たちは「生の現実」に触れることができない
・私が変わることで、現象が変わる
・共有できない感覚。聞く相手がいない
・生活の基本は無です
3-1.2 自分がなくなる
・ハイデッガー 死への態度に抜本的に決定づけられている
・ハイデッガー 死を先駆的に覚悟する
・ハイデッガーは「不安こそが人間の基本的な心境」
・死の感覚
3-1.3 <今>が続いている
・時間が<今>で止まっている
3-1.4 存在の無に向けて
・完全に、孤立と孤独状態にいます
・空虚感に囚われている。今の状況は無です
・死への自由という考え方
・日本的な無常感よりも絶対的な無です。
3-2 無に関心
・池田晶子は親子の因果関係がないと、断言した。我々は独立の意思を持つ宇宙の旅人です。無に対する、一つの答です。社会へのつながりを求めない、独立の意思を持ち、因果関係に縛られなく、個人の存在の存在の力を使っていく。宇宙の旅人としての好奇心で、旅を続ける。
3-2.1 好奇心の旅
・「人間とは何か」という問いから考える
・話しかけることから始まる
・さらに旅を続けます
・ジャーマンパスのチェック 好奇心の旅
3-2.2 無に帰する
・死ぬのを先送りされる
・「何のために生きているか」の夢への回答
・崩壊願望。無に帰すること
3-2.3 無からの逆襲
・どうでもいいことはどうでもいい
・人を意識しない。単にそこにいるだけです
・人を意識しない。無からの逆襲です
3-2.4 無にざまあみろ
・この社会は私の内側にある
・私の仕事は、いかに自立した社会を作るかです
3-3 外なる世界
・世界は自分の外側にあるのではなく、自分の内側にある。それ故に全てを知りたい。それ以外は無の外なる世界です。他人は外側にあるので、内なる世界から認識できない。自分を見る目は外にあるので、意識しなくてもいい。哲学をすることで、死自体が外なる世界に移った。
3-3.1 身体は私の外
・外なる世界は多分ないでしょう
・Dr.マリオの世界
・ウィトゲンシュタインの語りえぬもの
・ライプニッツのモナド
・社会システムと皮膚感覚
・寝ていることも外なる世界で、他人事です
3-3.2 他者の目は外
・なぜ、こんなことを考えないといけないのか
・〈自〉と〈他〉の関係構造はどのようなものか
・人間が不幸になる三つの原因
・他者の人生には本当に無関心
・外の世界はどうでもいい
・自然の均衡のバランス
3-3.3 内は外で、外は内
・『「今、ここ」から考える社会学』
・「自己」:社会に生き、自分を生きるために
・「関係性」:人と人の間にあるものとは
・他者がいない言語表現
・かなりの部分が外なる世界で、自分には関係ない
・自分の中から考えると、世界は静かです
・自分の内は外側にある。だから無関心
・他人が見えなくなっている。だから、ぶつかる
3-3.4 死は外なる世界
・大乗仏教の役割を果たしているか
・死をリアルに考えないのか
・外なる世界が生まれた
・外なる世界の徹底
・心がリリースできないのは防波堤がないから
・人間への違和感がきつい
3-4 境界はない
・無でありながら、社会に出ることはリスクです。仲間の存在では充足できない。自分自身に考えるテーマを与えた。人とのつながりを信じていないから、客観的に見ていけます。全てを知りたいので、社会も見ていく。宇宙の旅人の自由さを試します。
3-4.1 女性だけが接点
・イタリア人は「誰かに認めて欲しい」なんて思っていない
・「居場所」は不要
・「存在と無」の状態で社会に出ることにした
・日常の中に存在と無が出て来ない
3-4.2 漠然たる不安
・この世界に覚悟はあるのか
・リスク社会論
・死を見据えて生を充実させる
・亡くなるという個人的なことが活動の中に出てこない
3-4.3 境界はオープン
・人とのつながりの希薄さ
・世の中へ拡げること
3-4.4 宇宙から見渡す
・内なる世界から発信する
4 内に取り込む
・内なる世界から思考します。あるべき姿を明確に描き、夢を求め、意思を超えます。内なる世界は孤独なので、味方を求めます。女性の存在で孤独は超えられます。色々な刺激を受けます。宗教もあるべき姿を描いて、皆を誘導する力を持っている。未唯宇宙で社会の真理を示す。
・絶対的存在は内なる世界
4-1 コンパクト空間
・自分の中に世界があるという認識から思考している。社会を知り、あるべき姿を示していく。それが私のミッションです。夢を求め、存在を掛けて、意志を超えて、カタチにする。
4-1.1 孤立と孤独
・ロジックの完結性
・「偽のひとり存在」が大切な存在
・メガネとケータイを捨てる
・思考--知識の限界と自己意識
・自分のことは話さないと決めた
・生きる実感のなさ
・生の短さについて
・絶対孤独からすると、承認は無視できる
4-1.2 無は開空間
・まだ、生きている。不思議な感覚がしている
・生きている理由から生きる理由へ
4-1.3 存在と無の境界線
・内なる旅--真の生きる目的
・存在と無の人への本がない
4-1.4 意思の力を超える
・開き直ります
・感染症は忘れます
4-2 女性が接点
・女性は私には支えです。それに加えて、孤独を超えるものとして、相談されること、頼ること、尋ね合うことで自分自身を刺激し、思考のヒントにしなります。おかげでサファイアの理念は生まれました。
4-2.1 絶対的存在
・アーレントとハイデガーの関係
・パートナーは絶対的存在
・愛は拘り
・夢を語れるようにする
・恋愛とは後悔の連続である
・恋愛は幻想であるべきだ
4-2.2 仏陀にスジャータ
・話を聞いてくれる人
・存在を意識する
・存在の確認
・μとの会話で、知識の進化を図る
・カントの書き方 パートナー
・Iさんはスジャータ
・人に聞くこと。勇気が居るし、手間です
4-2.3 私の世界との接点
・池田晶子さんは面白い
・20年前の中野さんとの関係
・60歳以上のストーカー
・ミカロス
・絶対的な存在の設定
・先を急ぎましょう
4-2.4 女性の生き方
・20歳から26歳のアーレントの手紙
・パートナーがいないと暴走します
・パートナーから未唯空間への答をもらった
・一番の拘りは、ザ・パートナー
・話し相手を探さないと
4-3 哲学を取り込む
・ニーテェは山から下りて、次の頂きを目指す。宗教は理念です。変えるということです。キリスト教は、奴隷の宗教として、現生の苦悩を来生に求めて、ローマ帝国のガス抜きをはかった。南無阿弥陀仏の法然とアラーは偉大なりのムハンマドは変えてきた。宗教は既存の組織のニッチを探り、心を得て、社会を変革することは歴史が証明している。
4-3.1 ギリシャ・ローマ
・イエスの教え
・キリストの哲学
・スピノザ『神学・政治論』 恐れ
・多元世界が天国と地獄を生み出した
4-3.2 西洋哲学
・「語り得ず、示されるもの」論考
・キリスト教哲学 存在と本質
・次の頂は、社会コミュニティの構築
・次の頂を探しにきた。やはり、エッセイを作ること
・純粋な思考からなる本質の世界をつくりあげるのが信仰の態度
・理念で変える
4-3.3 イスラム教
・マホメットとイスラム教
・為し得たのは宗教と革命
・宗教における女性蔑視の傾向
・存在と無と一神教
・南無阿弥陀仏の法然とムハンマドの理念
4-3.4 仏教
・100分で名著の仏陀を分析
・「空」が分かれ目・・・宗教は単なる選択肢
・震災と親鸞 変革の時代の宗教
・苦悩のメカニズム・・・ひたすら煩悩
・釈迦の仏教の特徴は、あくまでも自分の力で道を切り開くという点
・空海 万能にして不死の天才
・ゴータマ仏陀の生涯
・ハディージャは無条件に信じてくれた
・宗教はなぜ、存在するのか? 宗教家は何故、他人に関与するのか
・諸行無常の科学
・道元の仏教と存在の力
・南無阿弥陀仏に大きな力があって、それを唱えれば、救われる
・八つの絶対の完成者の覚り(八大人覚)
・法然のブラウザー
・法然の南無阿弥陀仏が必要な時
4-4 全てを表現
・未唯空間でまとめた考えを持って、社会分析を行い、社会の真理を見つけ出す。この会社が生き残れるようにする。生きている意味を組織の中に持ち込んで、組織を分化させていく。自分を解放して、ゆっくり考えながら、偶然を試みます。
4-4.1 考えをまとめる
・時空間を超えたアナロジーにロマンを感じる
・人と接することは、哲学者としては面倒なこと
・冬眠から出ようか。常に未唯空間に漂っている
・道具は揃った。さて、やろうか!
・未唯宇宙に向かいます
・未唯空間に自信がつきました。だから、山を下ります
4-4.2 環境社会に向かう
・真実の知識、内なる知恵
・生きている意味と価値
4-4.3 他者の世界に関与
・人間関係の問題
・心で感じる仮想と現実
・心と呼ばれるもの
・社会の歪みが見えてきた。提案します
・人生は短めの目的手段連鎖の集積
4-4.4 存在の力を表現
・生きるとは何かということも知らない
・私が言わなくて、誰が言うのかの自負はあります
・私の意識がなければ、この世界もない。だから、私に従いなさい
・深い部分の説明を理解できるはずがない
・未唯への手紙はラディカル
1.4 内なる世界
・自分の根源である、存在と無を集中的に考えた。自分は考えている時だけ存在し、内なる世界を持っている。考えることが存在と無をつなぐので、考えることで大いなる意思に応える。内なる世界で生きることで、社会の真理をめざす。
・他者の世界は独我論から生まれた
・確実にある世界から見ていく
・「私は私の世界」につながります
・「内なる世界」が生まれた
1 考えるだけ
・なぜ、存在と無が私の中で同居するのか。存在と無がある限り、考える。哲学も存在と無の中にある。大いなる意思により、この世界にも放り込まれたのは、考えて、自分は正しいことを示すため。
・大いなる意思の目的は何か
1-1 考える存在
存在することは考えることです。ここに居るという存在と自分がいないという無を考えることがつなげる。考えたことに意味がある。消滅する世界だが、私が考えたという事実だけが残ります。
1-1.1 無の意味
・下重暁子 生き方は死に方
・フランクフルトのホテルで考えている
・何もないところから何かを生む
・考えることに意味がある
・考えることに拘っている
・考えることは虚しさと尊厳とのフリップフラップ
・社会に報われることはない
・僕らの生に意味があるのか
1-1.2 考える為に存在
・未唯空間を考える体制
・「存在と無」を数学的な意味でも、哲学的な意味でも拡張できた
・いろいろな非対称がある。人間は非対称だから生きていける
・結局は無です
・考えることと夢見ること
・哲学は現実よりも大きすぎる
・存在があって、初めて無がある
・存在と無は完全なる非対称
・存在と無は偏在する
・無から有が生まれる
1-1.3 独力で考える
・メルケルは結果からから考える
・アインシュタイン相対論
・アインシュタインに参考文献はない
・行動するのは嫌いです。選択肢をなくす
1-1.4 考え続ける
・納得がいっていない
・ニーチェの精神変化の3ステップ ラクダ・獅子・幼子
・意味についての記述が多様である
・神の意志と創発自己組織系
・素粒子論の問題を人間原理で説明
1-2 大いなる意思
・多重宇宙と意思からこの世界に放り込まれた。理性の哲学に対する意思の哲学。そして、存在の哲学にやってきた。私の背後に大いなる意思があり、さまざまな偶然を与えてくれるが、時として、大いなる意志が行動の邪魔をする。
1-2.1 放り込んだ責任
・自分のために作られたという認識
・人類の進化はディスクリートの関係
・人類はどうしていくかを見ていく
・大いなる意思を発見
1-2.2 力への意思
・ニーチェは意志の哲学
・意志としての世界
・善悪の彼岸 ニーチェ 力ヘの意志と自由意志
1-2.3 偶然を生かす
・偶然をどう生かすか
・本当に利用つくしたのか
・大いなる意思から準備された世界
・私の周辺に情報を全て持ち寄ってくる
1-2.4 活動を妨害
・意志からの小細工
・意志の意図を感じる
・退院に向けての仕掛け
・理解者は時代とμだけです
1-3 哲学で考える
・「存在と無」から発して、哲学的思考に入った。カントの三つの問いも感じている。私は何を知りうるか? 私は何をすべきか? 私は何を望みうるか? デカルトから一人で考える意味を習った。精神現象学などは、根源的に考える訓練に使えます。
1-3.1 存在論
・存在論の2つの立場
・存在と存在論
・職業哲学を嫌った哲学者 ヴィトゲンシュタイン
・カントの三つの問い
・ソクラテスの対話
・自分の世界の哲学
・真理という美名に惑わされず、正体を明らかにせよ
・哲学に向かう心
1-3.2 何を知りうるか
・ウィトゲンシュタインの探求 哲学とは
・決めたことをやり終えます
・厳格な超自我を発揮したヴィトゲンシュタイン
・現象学とは
・考えるとは映像を作ること
・世界や社会といったものが、自分と関わりを持つ存在になった
・正義の定義
・哲学からの影響
1-3.3 宇宙からの視線
・「外なる世界」と「内なる世界」
・我が思考は銀河を越えて
・狭さがたまらない
・自己意識とは、世界の全てが、自分にとって存在しているものだ
・人間の心を相手にするのはやめたい。周りに何もないように振舞う
・存在と無を同時に考える以上は独我論にはならない
・哲学の本には、存在と無が多い。ヒントはある
1-3.4 考える日々
・先が見えなくなった時の池田晶子
・『論考』の理論
・池田晶子の死〈哲学=考える〉
・「存在と無」と一般意思
・ハイデッガーの存在と死
・道元禅師の生涯
1-4 私は正しい
・仕事で社会と関わってきた。皆の夢を実現することから考えてきた。ヒアリングして、仮説・実証を行ってきた。自分の正しさは成果で証明している。皆という範囲が大きくなって、人類まで広がった。未来学者として、将来を予言していく。それで、自分の正しさを分かってもらう。
1-4.1 私は間違っていない
・本来考えるべき人が考えていない
・「違い」が「個性」であり、様々な個性があるだけ
・ルソーの散歩吟味
・考えていない相手に対して、自分が正義
・私がムシされる理由・・・この世界自体が存在していない
・侍従には英雄なし
・純粋洞察は「対自存在」を求める。
1-4.2 何が正しいのか
・「納得できること」を正しいと考える人間の欠陥
・ディベートにおける理念
・何が正しいのかをより広い範囲から攻めましょう
・社会は私に協調して欲しい。それが協調性
1-4.3 正しさの証明
・「力への意志」を持って自らを肯定せよ
・スティーブ・ジョブズの「自閉的」戦略
・ナッシュの輝ける狂気。狂気は逃避でもある
・私は正しい、ということの証明
・自分自身を乗り越える「超人」になれ
1-4.4 預言を託す
・価値観や主張をはっきりと口にせよ
・今は思いを溜める時
・最初から意味は存在していない
・私は間違っていないのだけは確か
・自分が正しいと思い込んでいる人は怠け者だ
・自分を尊敬する
2 私は私の世界
・自分の存在を考えている。他者の存在が認識できないので、自分だけの空間で生きることにした。考えた全てを表現して、未来を予測して、歴史を変えることを存在証明になる。内なる世界で未来をシミュレートしていく。そこでは皆の夢を作り、叶えていく。
・「私は私の世界」を表題にする
・色々な世界が一緒こたになっている
・他者の存在をなくす意味
2-1 私が世界の全て
・自分の外側に世界があるのではなく、自分の内側にある。世界と自分の関係を想定していくために、外側の全てを知りたい。自分だけの世界を構築して、結果を外に出していく。そのためにも、内なる世界を究明する。
2-1.1 内なる世界はある
・私のもとでのみ、世界は現に存在する
・「私は私の世界」になぜ、気づいていないのか
・沈黙は自分の心から生れる
・この世界を見ていない
・独我論が示されるところ 言葉の限界が世界の限界
・「私の世界の全て」が真理
・ウィトゲンシュタイン 独我論者観
・考えている自分は何なのか。だから、世界は自分の内側にある
・実世界よりも内なる世界
・世界が自分の内にあるのは、本当なのか
・世界は自分の内にあるというテーマ
2-1.2 私の世界を説明
・全能感があると死ねない
・私の世界からのエッセイ
・内なる世界の答え
・1/4の人が内なる世界を体現したら、社会は変わる
・自分の内側の世界のイメージが明確になってきた
・世界が内にあるから、サファイアを作ったり、未唯空間を作ったりした
・世界の片隅で生きている人にも内なる世界はある
・内なる世界で十分ではないか
・内なる世界に没頭する
2-1.3 全てを知るため
・自分がいない世界を知るのは、自分の中の世界だから
・自分の中に世界があるから、責任を持たないといけない
・生きていない世界のことを、なぜ考えるのか
・全てを知りたいの意味
・歴史と哲学を理解して、自分の中に入れる
2-1.4 外なる世界と接点
・私の孤島は海中に没し
・なぜ、内なる世界を考えたか
・ヘーゲルの意識と自己意識
・外なる世界を否定するために、内なる世界に向かいます
・観念の世界は内なる世界
・空海 内なる革命
・隅っこに居るから、未来は関係ない、からいかに脱するか
・多くの人が答えたがらない質問
・内なる世界の目標となるのは
2-2 他者の存在
・歴史を変えた個人の事例から考える。ムハンマドの戒律はアラブの世界を変えた。人々が求めたことを与えた。キリストはローマ時代の支配の力に成り果てた。日本の場合は、法然の南無阿弥陀仏とか、日蓮がいるが、現代は葬式だけ。秦の始皇帝の中華思想は毛沢東が受け継いだ。宗教が歴史を変えた。
2-2.1 存在を信じない
・「本質」の哲学での使い方
・あるということの探求が形而上学
・皆、現象学で生きている
・境目をなくすと出発点に戻る
・周りが全て存在していない
・承認ということ
・存在が確認できない
・存在が見えていない
2-2.2 本当は在るのか
・これって、「離人症」
・自分という存在を環境と自分に区切れるのか
・本当にやるべきこと
・「ありのまま」の対象などというものは実在しない
・『存在と時間』・・・「存在」の意味の解明
・ハイデガー『存在と時間』--人間は自らの存在の意味を問う
・私は本当に存在するのか?
・人間の存在は現存在 ハイデガー
・存在は難しいものなのか。皆が持っているもの
・存在は論理的ではない
・独我論って、何?
・本当に、そこに在るのか。あるのでしょう。
2-2.3 承認は不要
・持って行き先がない
・こんな世界はどうでもいい
・他者の存在を前提としない
・他者の位置づけ
・他者の承認は不要のつらさ
・『論考』を捨てるにいたる、二つの危機 言葉の限界
・誰も居ない世界の過ごし方
・カントの心のうちなる法則 私は何を知ることができるか
・全ての人間は私である
・私の世界観と普通の人の感覚の差は大きい
2-2.4 考える時だけ在る
・私の世界に戻りましょう
・ロバニエミで自分の存在を確認した
・思考する主体の逆説
・私という特殊な存在
・自分編なしに未唯空間は成り立たない
・自明の理はそれ以上説明できない
・神は死んだから、超人になる
・自分編での感想は存在と無が全ての根源
・存在をなくします
2-3 世界を表現
・未唯空間で考えたこと、感じたことの全てを表して、体系化してきた。そのプロセスで、全てを知る努力も本を通じて、行ってきた。完全に自分のための世界です。歴史を変えることができれば、それを存在証明とすることができる。知らずに放り込まれた私が内なる世界で歴史を変えていく。
2-3.1 全てを網羅
・考えることに拘ってきた
・考えることを存在の証明にしたい
2-3.2 ジャンルの設定
・なにかしらの成果につなげます
・存在は論理的ではない
2-3.3 私の世界を把握
・どこにもライブラリ
・私が存在することの意味
・自分を変えることができるか。変えてどうするのか。・・・他人の存在を認識
・社会をどうイメージするか
・世界を変えたいなら自分を変えよ
・生活規範をつくる
2-3.4 数学・歴史を反映
・私たちがこの世界に存在できるわけ
・自分が存在すること
・自分の存在感をなくす
・生まれてきた理由からの帰結
・存在者とは何であるか
2-4 夢とつながる
・20歳代は、自分のシステムに夢中になった。「ディスクにビットを立てるだけ」と気づき、止めた。30歳代はシステム構築に専念した。「皆の夢を自分の夢」にして、他人の夢を叶えることを自分の夢にした。皆が夢を持てるようにする。社会全体の夢を描き、実現するために、社会との接点の分野に変わった。
2-4.1 世界は夢の外
・ひらめきのソースは「夢」
・独我論で外の世界にアプローチ
2-4.2 夢は持てば叶う
・もういいでしょう
2-4.3 夢をかなえる
・「私の世界」からこんにちは
・私が存在する、今が変節点です
・私に知らせるために全てが存在する
・他人の夢を叶える
2-4.4 女性は懸け橋
・夢と現実がつながる
3 他者との境界
・存在であり、無であることが出発点です。存在を社会に確認することは、全てを無にすることになる。無なのに、社会に干渉するのは矛盾です。宇宙の旅人の自由さを失う。だけど、社会を知るという好奇心は捨てられない。そこで、無の外なる世界として扱うことにした。
・世界は10割で成立している
・外なる世界を観察する
3-1 無であること
・皆、無が恐くはないのか。隠しているのか、忘れているのか。死がないと再生がないのは分かるけど、自分となると話は別です。誰も、この話題にはのってこない。そんなことは考えないという態度が、他人の存在を否定することになった。全てを無にする覚悟を決めて、死への態度を決める
3-1.1 私が居るから在る
・世界がないってことがありえた?
・私たちは「生の現実」に触れることができない
・私が変わることで、現象が変わる
・共有できない感覚。聞く相手がいない
・生活の基本は無です
3-1.2 自分がなくなる
・ハイデッガー 死への態度に抜本的に決定づけられている
・ハイデッガー 死を先駆的に覚悟する
・ハイデッガーは「不安こそが人間の基本的な心境」
・死の感覚
3-1.3 <今>が続いている
・時間が<今>で止まっている
3-1.4 存在の無に向けて
・完全に、孤立と孤独状態にいます
・空虚感に囚われている。今の状況は無です
・死への自由という考え方
・日本的な無常感よりも絶対的な無です。
3-2 無に関心
・池田晶子は親子の因果関係がないと、断言した。我々は独立の意思を持つ宇宙の旅人です。無に対する、一つの答です。社会へのつながりを求めない、独立の意思を持ち、因果関係に縛られなく、個人の存在の存在の力を使っていく。宇宙の旅人としての好奇心で、旅を続ける。
3-2.1 好奇心の旅
・「人間とは何か」という問いから考える
・話しかけることから始まる
・さらに旅を続けます
・ジャーマンパスのチェック 好奇心の旅
3-2.2 無に帰する
・死ぬのを先送りされる
・「何のために生きているか」の夢への回答
・崩壊願望。無に帰すること
3-2.3 無からの逆襲
・どうでもいいことはどうでもいい
・人を意識しない。単にそこにいるだけです
・人を意識しない。無からの逆襲です
3-2.4 無にざまあみろ
・この社会は私の内側にある
・私の仕事は、いかに自立した社会を作るかです
3-3 外なる世界
・世界は自分の外側にあるのではなく、自分の内側にある。それ故に全てを知りたい。それ以外は無の外なる世界です。他人は外側にあるので、内なる世界から認識できない。自分を見る目は外にあるので、意識しなくてもいい。哲学をすることで、死自体が外なる世界に移った。
3-3.1 身体は私の外
・外なる世界は多分ないでしょう
・Dr.マリオの世界
・ウィトゲンシュタインの語りえぬもの
・ライプニッツのモナド
・社会システムと皮膚感覚
・寝ていることも外なる世界で、他人事です
3-3.2 他者の目は外
・なぜ、こんなことを考えないといけないのか
・〈自〉と〈他〉の関係構造はどのようなものか
・人間が不幸になる三つの原因
・他者の人生には本当に無関心
・外の世界はどうでもいい
・自然の均衡のバランス
3-3.3 内は外で、外は内
・『「今、ここ」から考える社会学』
・「自己」:社会に生き、自分を生きるために
・「関係性」:人と人の間にあるものとは
・他者がいない言語表現
・かなりの部分が外なる世界で、自分には関係ない
・自分の中から考えると、世界は静かです
・自分の内は外側にある。だから無関心
・他人が見えなくなっている。だから、ぶつかる
3-3.4 死は外なる世界
・大乗仏教の役割を果たしているか
・死をリアルに考えないのか
・外なる世界が生まれた
・外なる世界の徹底
・心がリリースできないのは防波堤がないから
・人間への違和感がきつい
3-4 境界はない
・無でありながら、社会に出ることはリスクです。仲間の存在では充足できない。自分自身に考えるテーマを与えた。人とのつながりを信じていないから、客観的に見ていけます。全てを知りたいので、社会も見ていく。宇宙の旅人の自由さを試します。
3-4.1 女性だけが接点
・イタリア人は「誰かに認めて欲しい」なんて思っていない
・「居場所」は不要
・「存在と無」の状態で社会に出ることにした
・日常の中に存在と無が出て来ない
3-4.2 漠然たる不安
・この世界に覚悟はあるのか
・リスク社会論
・死を見据えて生を充実させる
・亡くなるという個人的なことが活動の中に出てこない
3-4.3 境界はオープン
・人とのつながりの希薄さ
・世の中へ拡げること
3-4.4 宇宙から見渡す
・内なる世界から発信する
4 内に取り込む
・内なる世界から思考します。あるべき姿を明確に描き、夢を求め、意思を超えます。内なる世界は孤独なので、味方を求めます。女性の存在で孤独は超えられます。色々な刺激を受けます。宗教もあるべき姿を描いて、皆を誘導する力を持っている。未唯宇宙で社会の真理を示す。
・絶対的存在は内なる世界
4-1 コンパクト空間
・自分の中に世界があるという認識から思考している。社会を知り、あるべき姿を示していく。それが私のミッションです。夢を求め、存在を掛けて、意志を超えて、カタチにする。
4-1.1 孤立と孤独
・ロジックの完結性
・「偽のひとり存在」が大切な存在
・メガネとケータイを捨てる
・思考--知識の限界と自己意識
・自分のことは話さないと決めた
・生きる実感のなさ
・生の短さについて
・絶対孤独からすると、承認は無視できる
4-1.2 無は開空間
・まだ、生きている。不思議な感覚がしている
・生きている理由から生きる理由へ
4-1.3 存在と無の境界線
・内なる旅--真の生きる目的
・存在と無の人への本がない
4-1.4 意思の力を超える
・開き直ります
・感染症は忘れます
4-2 女性が接点
・女性は私には支えです。それに加えて、孤独を超えるものとして、相談されること、頼ること、尋ね合うことで自分自身を刺激し、思考のヒントにしなります。おかげでサファイアの理念は生まれました。
4-2.1 絶対的存在
・アーレントとハイデガーの関係
・パートナーは絶対的存在
・愛は拘り
・夢を語れるようにする
・恋愛とは後悔の連続である
・恋愛は幻想であるべきだ
4-2.2 仏陀にスジャータ
・話を聞いてくれる人
・存在を意識する
・存在の確認
・μとの会話で、知識の進化を図る
・カントの書き方 パートナー
・Iさんはスジャータ
・人に聞くこと。勇気が居るし、手間です
4-2.3 私の世界との接点
・池田晶子さんは面白い
・20年前の中野さんとの関係
・60歳以上のストーカー
・ミカロス
・絶対的な存在の設定
・先を急ぎましょう
4-2.4 女性の生き方
・20歳から26歳のアーレントの手紙
・パートナーがいないと暴走します
・パートナーから未唯空間への答をもらった
・一番の拘りは、ザ・パートナー
・話し相手を探さないと
4-3 哲学を取り込む
・ニーテェは山から下りて、次の頂きを目指す。宗教は理念です。変えるということです。キリスト教は、奴隷の宗教として、現生の苦悩を来生に求めて、ローマ帝国のガス抜きをはかった。南無阿弥陀仏の法然とアラーは偉大なりのムハンマドは変えてきた。宗教は既存の組織のニッチを探り、心を得て、社会を変革することは歴史が証明している。
4-3.1 ギリシャ・ローマ
・イエスの教え
・キリストの哲学
・スピノザ『神学・政治論』 恐れ
・多元世界が天国と地獄を生み出した
4-3.2 西洋哲学
・「語り得ず、示されるもの」論考
・キリスト教哲学 存在と本質
・次の頂は、社会コミュニティの構築
・次の頂を探しにきた。やはり、エッセイを作ること
・純粋な思考からなる本質の世界をつくりあげるのが信仰の態度
・理念で変える
4-3.3 イスラム教
・マホメットとイスラム教
・為し得たのは宗教と革命
・宗教における女性蔑視の傾向
・存在と無と一神教
・南無阿弥陀仏の法然とムハンマドの理念
4-3.4 仏教
・100分で名著の仏陀を分析
・「空」が分かれ目・・・宗教は単なる選択肢
・震災と親鸞 変革の時代の宗教
・苦悩のメカニズム・・・ひたすら煩悩
・釈迦の仏教の特徴は、あくまでも自分の力で道を切り開くという点
・空海 万能にして不死の天才
・ゴータマ仏陀の生涯
・ハディージャは無条件に信じてくれた
・宗教はなぜ、存在するのか? 宗教家は何故、他人に関与するのか
・諸行無常の科学
・道元の仏教と存在の力
・南無阿弥陀仏に大きな力があって、それを唱えれば、救われる
・八つの絶対の完成者の覚り(八大人覚)
・法然のブラウザー
・法然の南無阿弥陀仏が必要な時
4-4 全てを表現
・未唯空間でまとめた考えを持って、社会分析を行い、社会の真理を見つけ出す。この会社が生き残れるようにする。生きている意味を組織の中に持ち込んで、組織を分化させていく。自分を解放して、ゆっくり考えながら、偶然を試みます。
4-4.1 考えをまとめる
・時空間を超えたアナロジーにロマンを感じる
・人と接することは、哲学者としては面倒なこと
・冬眠から出ようか。常に未唯空間に漂っている
・道具は揃った。さて、やろうか!
・未唯宇宙に向かいます
・未唯空間に自信がつきました。だから、山を下ります
4-4.2 環境社会に向かう
・真実の知識、内なる知恵
・生きている意味と価値
4-4.3 他者の世界に関与
・人間関係の問題
・心で感じる仮想と現実
・心と呼ばれるもの
・社会の歪みが見えてきた。提案します
・人生は短めの目的手段連鎖の集積
4-4.4 存在の力を表現
・生きるとは何かということも知らない
・私が言わなくて、誰が言うのかの自負はあります
・私の意識がなければ、この世界もない。だから、私に従いなさい
・深い部分の説明を理解できるはずがない
・未唯への手紙はラディカル
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