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ナポレオン・ボナバルト--時代のプロメテウス、そして交響曲作曲家ベートーベン

『ベートーヴェンの交響曲』より

ベートーヴェンがフランス革命の正真正銘の信奉者であったかどうかは、我々には分からない。だが、少なくとも遠くから共感を抱いていたことは確かだ。「善良な人間である限り、この世の偉大な者たちを私は愛する。--中略--悪しき君主を私は盗賊以上に嫌悪する」というのが、彼のボンの作曲教師ネーフェのモットーであった。ベートーヴェン自身、一七九三年というきわめて重要な年に、ニュルンペルクのテオドーラ・フォッケのサイン帳にこう記している。「何よりも自由を愛すること。真実を(たとえ王位に刃向かうことになろうとも)決して放棄してはならない」。

一八一二年になってもなお、後期の交響曲第九番の最初のスケッチに次のような記述がある。「王侯のようにみすぼらしい楽曲は物乞い同然である」。これは、シラーの『歓喜に寄せて』の初版にある「物乞いたちは王侯の兄弟となる」というフレーズを先鋭化したものである。これは、フランス革命に対するベートーヴェンの理想がーあくまで理想である点を強調しておく--、このときまだ忘れられていなかったことを意味している。

一七九四年の夏、彼はウィーンからボンの友人ジムロックに宛てて綴っている。「革命を起こさなければならないと人は言う。しかし、黒ビールと腸詰めが手に入る限りは、オーストリア人は革命を起こすまい」。この記述から、彼がジャコバン派の動きに密かに共感を覚えていたことがうかがえる。どのみち、書簡検閲の圧力ゆえに、これ以上明確には表現できなかったのである。

いずれにせよ、その前年にフランス軍の指揮官に、そして一七九九年十一月九日のクーデターによって第一統領になり、これにより十年にわたってフランスの専制君主となったナポレオンーボナパルトの台頭とともに、ベートーヴェンの人生の政治的側面において新たな一章が始まった。しかし、フランス革命の灰のなかから立ち上がったこのコルシカ人を不死鳥のごとく捉えたのは、ベートーヴェンだけではなかった。むしろ、その姿はさまざまな絵画や文学で取り上げられた。後者において彼を称揚した人物のなかにはゲーテもいた。彼はシラーとは異なりフランス革命を敵視していたが、疾風怒涛の時代の詩『プロメテウス』で讃美したあのプロメテウス像をナポレオンのなかに見出していた。フリードリヒ・ニーチェすらも、『偶像の黄昏』に次のように書いている。「ゲーテにとって、ナポレオンと呼ばれたあの『最も現実的なもの ens realismum』を超える体験はなかった』。さらに、[『善悪の彼岸』には]こうも書いている。「『ファウスト』を、そして『人間』という問題すべてを考え直すきっかけとなった出来事は、ナポレオンの出現だったのである」。

「すべての偉大な創造物と同様に、芸術世界において目指すべきは、自由と前進なのです」。このベートーヴェンの告白は一八一九年にルドルフ大公に宛てたものであるが、なおもナポレオン時代の精神に根ざしているのは明らかだろう。ベートーヴェンには、ゲーテにとってのリーマー、フォン・ミュラー、エッカーマンのような、一子」句をしっかりと捉えてくれる、信頼のおける話し相手はいなかったが、かろうじて筆談帳があった。そのなかには、一八二○年一月付けで--これは先述の手紙の数ヶ月後にあたる--、ナポレオンに関する次のような記述がある。確かにナポレオンは己の不遜によって敗北を喫したが、「芸術と学問に対する感受性を備え、暗闇を嫌った。彼はドイツ人をもっと評価すべきで、ドイツ人の権利を守るべきだった。[中略]しかし、至るところで彼は封建制を突き崩し、権利と法の守護者であった」。

この文を読めば、すでに一七九八年の春にベートーヴェンがこのコルシカ人と最初の接点を得たであろうことも驚くにはあたらない。伝承によれば、ベートーヴェンは当時、フランスの将軍ベルナドットのウィーンの宿舎に出入りしていた。ペルナドットはカンポ・フィルミオ講和条約の後、勝利したフランス人の召喚を行うようナポレオンから命じられていた人物である。とあるフランス劇場の柿落しが行われた際に、ベルナドットはベートーヴェンのなかに(ナポレオン》交響曲の構想を芽生えさせ、さらにヴァイオリン奏者ロドルフ・クロイツェルを仲介者として、ゴセック、カテル、ケルビーニの作曲したフランス革命の新たな音楽をベートーヴェンに教えたと言われている。

これが事実なのかは分からない。惑が少なくとも、一七九九年から一八〇二年の間にベートーヴェンが作曲した最初の二つの交響曲に、フランス革命の音楽の響きが聞き取れるのは否定できない。第一番の第一楽章に現れる主要主題は、新たに設立されたパリ音楽院の教授であったロドルフ・クロイツェルが、一七九四年のマラトンの日の記念祝典にちなんで作曲した序曲の主題をはっきりと想起させる。この祭典は、第一次対仏大同盟との戦争期間中、パリの人々の戦意高揚を目的として開催されたのだった。

このことを、ベートーヴェンが単にパリの流行に熱中したに過ぎないと考えたところで、交響曲第一番と第二番の間に上演されたバレエ作品(プロメテウスの創造物》作品四三を視野に入れれば、そうした考えはとたんに揺らぐこととなる。この作品は、ベートーヴェンがバレエ振付師のサルヴァトーレ・ヴィガノと共同で担当したもので、ウィーンの宮廷劇場で二十回以上も上演された。「英雄的で寓意的なバレエ」の筋立ての草稿は神話的叙事詩『イル・プロメテオ』を下敷きにしており、その最初の歌は、イタリアの詩人ヴィンチェンツォーモンティが、ナポレオンの軍事的政治的な功績に感銘を受けて一七九七年に綴ったものだった。モンティがナポレオンヘの献辞のなかで彼をプロメテウスと明らかに同一視していることからも、両者の類似性は疑いようがないだろう。

さらに、ベートーヴェンの音楽には公式の革命歌《国の防衛に努めよ》の響きがはっきりと認められることを考えると、この分野に詳しいペーター・シュロイニングの指摘は的を射ているのかもしれない。「人はこのバレエのなかに、神話的な人類育成を成し遂げた同時代人ボナパルトヘの敬意を感得するに違いない。しかしそれだけでなく、封建主義の支配の下であえぐ民衆を解放せよという、フランスやその他のヨーロッパ諸国の統領に対する、神話という形をとった呼びかけをも感じ取るだろう。これは当時の進歩的な人々の誰もが抱いていた願望だったのである」。

交響曲第三番《英雄》で、ベートーヴェンは以前バレエ作品で扱ったプロメテウス/ナポレオンというテーマを、今度は交響曲の分野で取り上げた。この最終楽章の主要主題には、バレエ音楽のフィナーレと同一の主題が使われている。それだけではない。ベートーヴェンはこの交響曲の出だしで、フィナーレでのプロメテウス礼賛を予感させており、冒頭からこのフィナーレを目指しているのである。プロメテウスと第三番の相似性が内容的に無関係ではなく、本来の主題と結び付いていることは、ベートーヴェンが交響曲第三番をナポレオンにちなんで名づけるか、あるいは彼に献呈しようと考えていた事実が証明している。一八○四年八月の作品の浄書総譜の表紙には、後に作曲家自身がかき消すことになる「ボナパルトと題して」の文字が、そして「ボナパルトに捧ぐ」という自筆による鉛筆の覚書が確認できる。

崇拝する英雄が一八〇四年十二月二日にパリで自ら皇帝として戴冠したとの知らせを受けて、ベートーヴェンは--彼の教え子だったフェルディナント・リースの回想によれば--現在は所在不明の自筆スコアの、英雄を讃える献呈が書かれた表紙とびらを引き裂き、こう叫んだと言われる。「あの男もまた、他の人間と変わらぬ凡人にすぎなかった! こうして自己の野心に溺れ、あらゆる人権を踏みにじることになるのだろう」。

事実に鑑みれば、これには信憑性がある。だが真相はもっと無味乾燥なものだった可能性もある。ベートーヴェンは《英雄》を後援者であるロプコヴィッツ侯爵にーすなわちオーストリアの高位の貴族を代表する人物に--七百グルデンで売却し、さらに八十ドゥカーテン金貨を得て献呈しているため、ナポレオンに向けた文言を公然と付すことはできなくなったのである。しかし、たとえ皇帝即位をきっかけに、ベートーヴェンがナポレオンから離れていったのだとしても、それで「ナポレオン」というテーマに片を付けたわけではなかった。

なぜなら、彼は自分の音楽が当時のパリで高い評判を得ていたことを、もちろん見逃してはいなかったからである。そして、一八○四年に何度も決然と表明していた計画、すなわち、かの地へ赴き、後に《フィデリオ》と名づけられることになるオペラ《レオノーレ》を上演する計画が、まだそこにあった。そのため彼は一八○九年に--つまり、ゲーテがナポレオンに謁見してまだそれほど経たないうちに--、訪ねてきたフランス人のド・トレモン男爵に、自分がパリに赴いたら皇帝は迎え入れてくれるかどうかと尋ねている。それだけでなく、ベートーヴェンはその頃、ナポレオンの弟ジェローム王のカッセルの宮廷で、宮廷楽長の役職を引き受けることを真剣に思案していた。そしてその後まもなく、ナポレオンに(長調ミサを献呈すべきかどうか考えを巡らせた。その後の創作にも、当時優勢であったナポレオン崇拝と結び付く要素が色濃く表れている。つまり、最初の三つの交響曲だけでなく、第五番と第六番、オペラ《フィデリオ)の序曲や、その他の多くの箇所に聞き取れるのだ。

ナポレオンが自ら戴冠したことは彼を幻滅させたが、それでもゲーテ同様にあの偉大なるコルシカ人と対等な立場で交流したいという根本的な願望を揺るがせはしなかったようだ。このことは、イェーナとアウエルシュテットでのナポレオンの勝利の後に、ベートーヴェンがヴァイオリン奏者のクルンプホルツに言ったとされる言葉に象徴されている。「残念だ! 私が音響の技術と同じくらいに戦争の技術を心得ていたなら、彼を打ち負かすことができるだろうに!」

単純化して言えば、自らの創作のいわゆる「英雄様式期」のベートーヅェンは、ナポレオンを国家の芸術家画家を成す芸術家一と見なし、彼が自分を国家の芸術家[国家を代表する芸術家]にしてくれることを願っていたのだろう。このような考えのもと、ベートーヴェンは--同い年のヘルダーリンと同様に--、政治家が芸術家であり哲学者でもあった、あるいは芸術家や哲学者によって高き目標へと導かれていた、古代の理想像を取り上げたのである。

このより高き目標に至る手がかりを、ベートーヴェンは特にプロメテウスのなかに見出した。プロメテウスとは、まだ「人類」という名に値しないおぼろげな存在に光と火をもたらした神話上の人物像である。言うまでもなく、こうした「啓蒙」は数少ない偉人にしか果たすことはできない。その意味で、ベートーヴェンは現世的な政治家としてではなく、自らの民衆と全民衆をプロメテウス的行為へと導き鼓舞する、天才的な同時代人としてのナポレオンを、光輝に満ちた人物として捉えていた。ベートーヴェンは芸術という領域で、この偉大な同志に匹敵する行為を成し遂げようとしたのだ。彼を音楽界のナポレオンと見なしていたのは彼自身だけではなかった。他の人々の目にもそのように映らなかったならば、ある訪問者が筆談帳にこう書き込むこともなかっただろう。「行動とは、あなたにとって作曲することではないのですか?」この見ず知らずの客が見たベートーヴェンは音楽という領域で、当時の時代思潮を、つまり、ベートーヴェンの手紙のなかの表現を用いるなら、「自由」と「前進」を実現したのである。
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分配についての主要な概念

『不平等』より 分配についての主要な概念 所得とは何か 市場所得とは何か

支出の分配とは何か

 多くの国、特にアジアでは、経済学者は所得を調査する代わりに、世帯の消費や支出のパターンに注目して、これらを調査するという方法を(一般的に)選んできた。このアプローチは、人口の大部分が自分の食料を生産したり、個人サービスを食料や住居と交換したりするような国で特に有効な方法である。というのも、これらは現金所得の調査では通常計上されないためである。他方で、消費に焦点を合わせるという方法は同時に、豊かな人の貯蓄が計上されず、その結果、現金所得のかなりの部分が調査からもれてしまうことを意味する。この両方の理由から、ほとんど常に消費ないし支出の不平等は、あらゆるタイプの所得の不平等を大きく下回り、とりわけ、同じ社会において測った場合の総所得あるいは市場所得の不平等を下回る。

 例を挙げれば、インドにおける消費をベースとした調査は、そこから計算した不平等の尺度を所得調査が一般的な(例えば)ラテンアメリカの主要国のものと単純比較した場合、インドは相対的に平等主義的であるという結果を何年もの間にわたって示すことになるだろう。しかし、インドにおける所得の不平等を測定しようという近年の試みは、世界で最も貧しい国々の間で比べても、インドが非常に不平等な国であるということを示している。所得データは、観察される富と貧困の両極端と一致する。

 賃金とは、そしてその分配とは何か

 ここで概観する最後の概念は、「賃金」の概念である。所得と支出が個人および世帯という単位で測定され、これらの単位における資源の流出入を見るものであるのに対し、賃金とは個人とではなく、その就いている仕事と結びついた概念である。これは、労働時間に応じて雇い主が支払うものである。時間の経過とともに、さまざまな人が仕事に就いている。個人や世帯は複数の職に就くこともできる(しばしばそうしている)。したがって、雇い主側から見た帳簿の記録に基づく不平等を世帯の側から見た不平等へと直接変換することはできない。すなわち、賃金が十分に高い仕事を一つだけ持つ大規模世帯は、比較的お金に困っているかもしれない。一方で、そこそこの賃金の仕事を三つ四つ持つ小規模な世帯の方が、少なくとも貨幣表示では非常によい暮らしをしている可能性がある。

 賃金に基づくデータの利点は、多数の国で多数の時点にわたって容易に利用可能だということである。世帯の記録は、たとえ存在するとしても一か所にまとめて保管されていない。このため、しっかりした税制が存在する場合を除いて、データの収集のために調査を行う必要があり、これには費用を要する。世帯は時間とともに移り変わるので、アメリカにおいては「所得動態パネル調査」(PSID)がこれを正確に行うために存在するものの、その経時的追跡は難しい作業となる。そして、過去において調査が行われていない国では、事実の発生後にそれをつくり直すことは不可能である。すなわち、世帯に対して二〇年前や三〇年前の所得がいくらだったかを質問しに行くことは不可能である。他方で、雇い主は年月が経っても業務を継続している傾向があり、企業として業務を行っている以上、彼らは帳簿をつけている。それゆえ、賃金の支払い記録を見つけることは比較的たやすい。そのうえ標本を集める代わりに、相当容易にこの記録のすべてを入手することが可能である。ほとんどの国では、一定規模以上の事業者であれば、その雇用者と賃金支払い状況を申告することが求められ、したがって、中央政府はこの種の情報を定期的に収集し、長い期間にわたって保管している。

賃金の部門間もしくは地域間分配とは何か

 賃金の原データは、政府が個々の回答者のプライバシーを保護する義務を負っているため、しばしばすぐには入手できないという難しさがある。そして、大企業の場合、雇い主はしばしば特定の都市や地域における有力者であるため、多くの場合、個人が非常に容易に特定されてしまうだろう。しかし、オリジナルのデータソースにあたって分析しなくても済む場合もしばしばある。政府が定期的に公表しているデータだけでも、賃金の不平等に関する大まかな傾向を測るにはまったく十分であるという場合も珍しくはない。これらのデータは部門ごとおよび地域ごとにまとめた雇用および賃金表として示されている。

 この種の部門データは政府機関によって選ばれた何らかの分類表にしたがって収集されるのが通例である。すなわち、典型的な単純なケースでは、賃金は農業、工業、金融業、建設業、サービス業、林業および水産業、およびその他のいくつかの重複しないカテゴリーヘと分類される。後にわかるように、この種の比較的大ざっぱな分類であっても、部門間の賃金の不平等に関する大ざっぱだが有効な尺度をつくるのに用いることが可能である。そして、例えば産業をもっとたくさんの異なる部門へと細分化することによって分類表がもっと精緻なものになれば、不平等の尺度もまたより正確なものとなる。

 すべての国が地方や州から、地方は郡から、郡は町からといった具合に下位の地域からデータを収集しているという事実を利用すれば、地域的な不平等もまた同じ方法で計算することができる。国より下位の地域が部門ごとにデータを収集している場合には、活動の種類と立地の双方について多様なデータが集まるので、地域内における部門間の不平等を測ることができる。この方法によって、相対的に賃金がどのように分配され、時間とともにその分配がどのように変化するかを非常に詳細かつ正確に描き出すことが可能となる。

 いくっかの分析上の目的のためには、所得は望ましい尺度である。それは例えば、世帯の暮らし向きのよさの差を明らかにすることに関心がある場合などである。他の目的のためには、賃金のほうが好ましいこともある。例えば、経済理論は長い間、時間当たり賃金の決定要因に焦点を合わせてきた。にもかかわらず、時間当たり賃金率は、直接にはほとんど測定不可能である(そして農業のようなある種の職では、これが存在しない)。しかし、時間当たり賃金の概念には、所得に基づくデータよりも賃金支払い総額のデータのほうがより近い。というのは、所得に基づくデータが、労働時間および職種に依存する週当たりの給料として収集される一方で、賃金は企業が所定の労働時間数に対して支払う現金の直接の測定値だからである。

 さらにここからは、国内における主要部門間あるいは主要経済地域間の相対的な賃金もしくは所得のばらつきによって、その経済全体におけるばらつきの驚くほど大きな部分を説明できることがわかる。例えば、中国自体の不平等の拡大の多くは沿岸部の諸都市の発展に由来しており、中国の各省の中でのそれの多くは金融業、運輸業、公益事業、およびその他の独占的支配力を持つ部門の発展による。一九九〇年代末のアメリカにおける不平等の拡大の多くは、マンハッタン、カリフォルニア州シリコンバレーの三郡、マイクロソフト社の本拠地であったワシントン州キング郡という、わずか五つの郡において計上された所得によるものだった。部門に注目して見ると、これはほとんど金融業と技術産業だけの発展によるものであった。

 賃金から得られた不平等の尺度は、所得から得られた不平等の尺度とどのくらい近いのだろうか。ほとんどの場合、その答は驚くほど近いというものである。そしてこの発見のおかげでわれわれには、この二つのアプローチを結び付ける統計モデルを構築することが可能となる。経済的な暮らし向きのよさの分配を解明することを試みる経済学者にとっての大きな関心の対象である、所得の不平等の値を推定するために、われわれは賃金のデータが持つ高い有用性を利用することができる。
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日本の財政の現状 財政に関するQ&A

『【図説】日本の財政』より 日本の財政の現状 財政の現状 財政の課題

Q1 日本人が国債を買っているから、財政は破綻しない?

A1 日本の財政について、「日本人が国債を買っているから、財政は破綻しない」という意見がある。

 平成28年12月時点では、国債及び国庫短期証券(以下「国債等」)発行残高のうち、9割程度は国内投資家が保有し、海外投資家が保有する割合は1割程度(10.5%)に過ぎない。これは、日本の金融機関が安全資産である日本国債を持ち続ける傾向にあるためだが、この状況は変わり得る。現に、足もとでは低金利環境が続くなか、日本の金融機関では、国債中心の運用から外債を含め資産運用を多様化する動きがみられている。

 さらに、流通市場における海外投資家の売買シェアは現物では31%程度、先物では48%程度であり、保有割合と比べて相当大きなプレゼンスを占めている。海外投資家の国債保有については、投資家層の多様化により国債の安定的な消化につながる一方、活発な取引により金利水準に影響を及ぼす一要因となり得るため、その動向について注視する必要がある。

 現在、日本国債は市場で安定的に消化されているが、仮に日本国債の返済能力に対する市場の信認が失われる事態が生じれば、金利の上昇を通じて市場からの資金調達が困難となる可能性がある。このため、財政に対する市場の信認を確保できるよう、財政健全化を進めていくことが重要である。

 また、金利が大幅に上昇した場合、国債等発行残高1075兆円のうち, 228.7兆円を保有している銀行等に大きな評価損が生じ、金融機関の財務の悪化、ひいてはマクロ経済に悪影響を及ぼす可能性がある。

 この点に関して、日本銀行が2017年4月に公表した金融システムレポートの試算によると、金利が全ての年限でI%上昇した場合、金融機関が保有する債券の評価額が7.5兆円(銀行だけでも5.4兆円)減る。全国銀行の経常収益は平成27年度決算(単体ベース)で約16兆円であることから、評価損の影響は甚大といえる。

Q2 日本銀行が国債を買い続けるから、国債の消化は問題ない?

A2 日本の財政について、「日本銀行が国債を買い続けるから、国債の安定消化に問題はない」という意見がある。

 「日本銀行が国債を買い続けるから、国債の安定消化に問題はない」という考え方は、政府と日本銀行を一体の存在ととらえて政府の財政状況を見るべきであるという考え方に立っているといえる。こうした考え方は、政府はあたかも日本銀行に対して国債の売買・引受けを強制できるということを前提とする一方で、日本銀行が保有する国債は政府の債務ではないとみなすものであって、中央銀行である日本銀行が、政府の財政赤字を補填するかたちで資金を提供することを意味する「財政ファイナンス」を容認した考え方であるといえる。しかしながら、「財政ファイナンス」は、戦前、戦中において大量の公債発行が日本銀行の直接引受けによって行われた結果、激しいインフレーションを引き起こしたことへの反省に基づいて規定された財政法第5条本文における「すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない」との条文に反することになる(*#)また、日本銀行法第3条第1項における「日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない」との条文にも反することとなる。

 政府と日本銀行の政策連携について、政府と日本銀行は、平成25年1月に、「デフレ脱却と持続的な経済成長の実現のための政府・日本銀行の政策連携について(共同声明)」を公表し、その連携を強化した。同共同声明において、日本銀行は、「物価安定の目標を消費者物価の前年比上昇率2%とする」「上記の物価安定の目標の下、金融緩和を推進し、これをできるだけ早期に実現することを目指す」こととされている。これを受けて、日本銀行は、平成25年4月に「量的・質的金融緩和」を導入した。その後、日本銀行は、累次の追加緩和を行い、平成29年5月現在においては、「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」の枠組みのもと、10年物国債金利がゼロ%程度で推移するよう、長期国債の買入れを行うこととしている。

 このように、「量的・質的金融緩和」に始まり「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」の枠組みに至るまで、日本銀行による国債買入れは、2%の物価安定目標の実現という金融政策の目的のもと、具体的な金融政策の手法の1つとして、日本銀行自らの判断により行われている点に留意する必要がある。一方、同共同声明においては、「政府は、日本銀行との連携強化にあたり、財政運営に対する信認を確保する観点から、持続可能な財政構造を確立するための取組を着実に推進する」こととされている。政府には、この共同声明にしたがって、財政健全化の取組みを着実に進めていくことが求められている。

 (参考)小村武「五訂版 予算と財政法」新日本法規出版、平成28年。

 (注)平成26年10月に「量的・質的金融緩和」の拡大、平成28年1月に「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」の導入、平成28年7月に「金融緩和の強化」が行われ、平成28年9月に「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」が導入された。

Q3 債務をネット(純債務)で見ればたいしたことないのではないか?

A3 一国の財政の健全性を見る際、国際機関などでは、中央政府・地方政府・社会保障基金を合わせた負債の残高(「総債務残高」)の対GDP比が用いられることが多いが、我が国は253.0%(一般政府ベース、2017年)に達しており、主要先進国中最悪の水準である。

 ただ、こうした計算に用いる、我が国の「債務残高」を考えるにあたっては、上記のような「総債務残高」のほかに「純債務残高」を用いる場合もある。

 純債務残高とは、総債務残高から、一般政府が保有する金融資産を差し引いたものである。確かに、純債務残高の対GDP比は、総債務残高の対GDP比に比べると小さくなるが、我が国は、純債務で見ても、債務残高の対GDP比が主要先進国でひときわ厳しい水準(130.7%(一般政府ベース、2017年))となっており、純債務残高を用いれば、総債務残高を用いた場合と異なり、財政の健全性に問題がないとの結論が得られるわけではない。

 また、そもそも、一般政府の金融資産の多くは、①将来の年金給付のための備えや、②為替政策上必要な外貨証券などの政策上保有が必要な資産などであり、売却し債務の返済に用いることができない性質のものである。したがって、政府の純債務のみに着目して議論をするのは必ずしも適当ではないことに留意する必要がある。なお、ユーロ圏においては、過剰財政赤字を是正する手続きの指標として、グロスの政府債務残高(対GDP比60%)が採用されている。

 また、純債務残高を用いる考えには、「一般政府の金融資産に加え、日本銀行の保有資産も差し引くべき」との説もある。しかしながら、①Q2で述べたように、そもそも日本銀行と政府はそれぞれ独立した存在である。②また、「日本銀行は政府の子会社だから連結すれば子会社が保有する親会社の債務はネットアウトされる」という主張であれば、当然、日本銀行の負債も連結ベースの債務としてカウントする必要がある。③さらに、この説では、政府から独立して金融政策を決めている日本銀行が、現在、長短金利操作付き量的・質的金融緩和等を通じて買い入れている国債をあたかも永遠に保有し続けることを前提としているように見える。仮にこうした説をもって日本の財政の健全性を見る考えが一般に広がれば、結果的に我が国は「財政ファイナンス」を狙っているのではないかとのそしりを招きかねない点に留意する必要がある。

 財政の健全性を見る際、どのような指標を用いるかは、単なる技術論を超え、我が国に対する市場や国際社会からの信認の確保に影響を及ぼし得るということを常に念頭に置かなければならない。また、財政赤字は社会保障制度における給付と負担のアンバランスと裏腹であり、債務をどう見るにせよ、社会保障制度の持続性確保のために財政健全化を進める必要がある。

Q4 今まで何も起こっていないから問題ないのではないか?

A4 日本が長く経験してきたデフレの状況下では、企業がリスクをとった投資を行うことは難しく、安全資産としての日本国債を保有するインセンティブが働き、日本国債の価格も高い水準で推移してきた。

 しかし、国債の安定消化を支えてきた資金環境は大きく変化しつつある。

 企業は海外へのM&A等をはじめ投資を活発化させ、最近では日本の金融機関が資産運用を貸付や外国資産購入へと振り替える動きも見られる。

 また、いわゆる「金融危機」が発生した他国を見てみると、例えば、欧州債務危機の多くは財政状況の悪化によって市場の信頼が揺らいだことから始まった。日本でも、債務残高の累増が示すとおり、財政状況はきわめて厳しい状況にあるなか、財政危機が金融危機を起こす可能性はゼロではない。そして、我が国は国内金融機関や中央銀行の保有割合が高いことから、国債価格下落の影響は国内金融機関に対してきわめて大きい影響を及ぼす可能性があり、財政危機が金融市場・金融機関に及ぼす影響はきわめて大きいことをよく認識する必要がある。

 リーマン・ショックと同じレベルの大きな金融危機は「100年に一度」と言われたように、確かに珍しい事象ではあるが、金融危機自体は、過去20年を見ても、複数回発生しており、テールリスクが顕在化することがある。そして、一度発生した危機は、グローバル化した現在の世界において、かつては想像もできなかったほどの早さで広がり、伝搬していく。また、特に金利のようにマーケットで決定されるものは、そのときのマーケット・センチメントに影響され、それをコントロールすることは困難である。

 このような急激な危機や変化が起きるリスクが少しでもある以上は、「今まで大丈夫だったのでこれからも問題ない」とするのではなく、そのリスクを回避すべき政策を立案していくことが国として重要といえるだろう。
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他者の世界に関する本質的な疑問

他者の世界に関する本質的な疑問

 第9章が他者の世界の問題解決をなぜしないといけないのから始まった。第8章は小さな変革、第9章は大きな変革。これらは全て他者の世界。なぜ、関与しないと行けないのか。何らかのミッションを持っているのでしょう。そのための第5章仕事編ではないけど、色々な経験をさせてもらった。私のために作られた世界。それに対しての答えを自分なりに作れというミッションなんでしょう。第8章、第9章はそれに応えられたかどうか。

日本は変な社会

 それにしても日本は変な社会です。誰も何も考えていない。自分のことだけは考えているけど。「総選挙」というものが訴えるものがない。AKBの方がショールームなどを使って、はるかに身近になっている。

 それはこの国の媒体である企業を見れば分かります。哲学は全て物真似です。

なぜ、大いなる意思はこんな世界を作ったのか

 要するにコレが答えだと言うことが言いたいんでしょう。だけど、なぜ、こんな世界を作ったのかがよく分からない。それの答えが第10章。内なる世界です。世界を作ったんではなく、あなたを作ったと言いたいんでしょう。
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