未唯への手紙
未唯への手紙
人間の価値の再構成
人間の価値の再構成
国民国家で兵隊としての国民の価値が作られた。工業化で労働力としての人間の価値が高まった。いずれも、国家と企業からみた価値です。教育もそれにしたがッラ。
そして、戦争の形態が変わって、ロボット化が始まった。そして、人間の価値がなくなった。単に消費者としての価値しかない。だから、新しい価値を創り出さないと行けない。それで国家とか企業自体を変えないといけない。
そこに家族というモノが絡んでくる。家族を養うために働くという大義名分。家族のための国を超えるという移民。国家というレベルを変えていく。国家のためにというレベルからより大きな単位に変わっていく。超国家とつながる個人。
クルアーンのようなメロディ
クルアーンのようなメロディのためには助詞はいらない.そこは埋める必要はない。論理的である必要はないです。自分が納得するモノを出していくだけです。
直接入力することにしました。
直接入力の方が面倒くさくなくていい。ただし、長文の時は自分的に区切ることは必要です。ノイズを強いフィルターでカットして、速度は若干遅らせました。
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世界を構築する ソ連の対日参戦の政治的条件
『ローズヴェルトとスターリン』より 世界を構築する
この機会を利用して自分のほうの値段を付けた--すなわち、ソ連の対日参戦の政治的条件である。
米国軍部だけではなく、米国人の全員が、一九四三年~四四年の冬の間に目撃した日本人の残忍な凶暴さと狂信に恐れをなしていた。米軍部隊がジルバート諸島のタラワ島に上陸を敢行すると、彼らは二五六三名の日本兵に攻撃された。そして日本兵は捕虜になった八名を除き、全員が死ぬまで戦った。マーシャル諸島のクェゼリン環礁を守備していた日本兵も同様だった。日本兵は降伏よりも戦って死ぬことを選んだ。彼らの戦死率は平均九八パーセントを上回っていた。これは米軍側の膨大な死者数を意味した。しかし米国が、日本の民間人もその軍人と同じように狂信的であることを知ったのは、米軍部隊がマリアナ諸島最大の島サイパンに上陸した時のことである。この島には日本の民間人二万名が住んでいた。米軍部隊はこの島でただ座視するよりなかった--それは追い詰められた日本の民間人が投降する代わりに自ら死を選択する光景だった。母親たちは子供の手を握ったまま、そして父親たちは先に子供を投げ落としたあと、断崖から海へ身を投じた。とりわけ、サイパンをめぐる激戦は、米国人たちに来るべき日本本土諸島への上陸作戦を恐れさせた。彼らが知ったのは、日本は最後の一人まで戦い、その過程でできる限り多くの米国人を殺そうとすることだった。これは米軍の損耗率が甚大になることを意味した。マッカーサー将軍の推計では第一段階--一九四五年十一月一日に計画されている本土最南の島、九州の上陸作戦では、一〇〇万の米国人が命を落とすと見積もられていた。D-デイは日本上陸作戦に比べれば、ピクニックの類になるだろうと。ソ連からの支援への要望が強まったのは、もし赤軍が参戦すれば、米国の死者が少なくなるというはっきりした理由からだった。それゆえに、マーシャルとリーヒ個人はもちろんのこと、統合参謀本部は二年の大半をつうじて口ーズヴェルトに、ソ連の対日参戦が絶対必要であると強く助言し続けていたのである。メモがローズヴェルトのデスクにひっきりなしに届けられていた。
「われわれが日本に攻め入る前に、ソ連を対日戦へ参加させるためにあらゆる努力をすべきだ。さもなければ、やがてソ連軍が主要な抵抗を受けない地域へ前進している間に、われわれは日本軍師団の圧力を引き受けて敗北を喫することになるだろう」と、マッカーサーは勧告した。「もし満州の日本軍がソヴィエト軍によって食い止められなければ、日本諸島のいかなる部分へ攻め入ることも検討しないだろう」。ヤルタの二週間前、統合参謀本部から公式のメモが届いた。「参謀長たちは次のことを提案する--スターリン元帥に、米ソ間の協力をより効率的かつ迅速に機能させるべく管理上の手段をとるように求めること。そしてまた元帥に、部下たちが米国と働く上で経験した非効率および遅延の実情がいかなるものか提示するように求めること」。五日後、統合参謀本部は緊急性を強調して別のメモをローズヴェルトに送った--われわれは「ソ連の対日参戦に向けて邁進している……攻勢作戦に携わるその能力に見合った可及的速やかなソ連参戦が必要なのは、太平洋作戦にとって最大限の支援になるからである」。
もう一つのメモは、ローズヴェルトがヤルタでスターリンに言うべきことを正確に記載していた
(a) われわれは、攻勢作戦に携わるその能力に見合った可及的速やかなソ連の参戦を望む。
(b) ソ連極東軍の使命は、満州に対して全面的攻勢を実施し、さもなければ日本防衛に使用される可能性のある中国北部および満州の日本軍と資源の戦闘参加を強制することであると考える。
日本はロシアの歴史的な敵国だった。スターリンは二九三四年に米国の初代駐ソ大使ウィリアム・ブリットに赤軍参謀総長アレクサンドル・エゴーロフ元帥を紹介したとき、これは「日本が攻めてきたら、わが軍を日本に対して勝利に導く人物」だと述べた。後にも先にもスターリンが酔っぱらっているところを目撃されたのはたったの一回、一九四一年四月十三日の日ソ中立条約締結ですっかり安堵して、松岡洋右日本外相をモスクワの駅頭で見送ったときのことである。
ポーツマス条約でロシアが日本に失ったものを取り戻すことが、今やスターリンの目標だった。今年になってからローズヴェルトは、太平洋で日本と戦っている諸国の大使や元首たちの会合である「太平洋戦争会議」において、自分が何をソ連に与えようとしているかをきちんと公表していたが、スターリンはそのことを承知していた。ローズヴェルトはこう述べていた--
日本はその島々の所有権をはく奪される……シベリアに不凍港を持たないソ連はそれを手に入れることを望んでおり、スターリン元帥は大連を全世界のための自由港にしたいと考えているようだ。これはシベリアの輸出入を大連港経由、満州鉄道経由でシペリア地域へ保税運送できるとの考えに基づいている。彼は満州鉄道が中国政府の財産になることに同意している。彼はサハリン全島のソ連返還、シベリアの諸海峡を支配できるようにクリル諸島のソ連返還を望んでいる。
クリル諸島は南の日本の北海道から北のソ連のカムチャッカ半島までの間にある四七の島々を鎖状につないでいた。ロシアがクリル諸島を日本に譲渡したのは一八七五年のことだった。これらの島々はオホーツク海とソ連の東部海岸への水路を牛耳っていた。
相互補完的な動機が二人の首脳の会話を支配した--米国人の生命を救うためにソ連の対日参戦を確実にしたいという米国の願いと、一九○五年に日本に奪われた領土、それに加えてクリル諸島を取り戻したい、そして同じように重要なことだが、日本の帝国的野望を砕くのに加わりたいというソ連の願いである。日本がこの領土変更に従うかどうかは、どちらの側にも問題外のことだった。ソ連を戦争に参加させることが米国にとって必要だったので、この場合、国境線を引く力を持っているのはローズヴェルトだけだったからである。米国上院はこの問題を、赤軍がポーランドを解放した後のポーランド国境の線引きと同じようには考えないだろう。
米国の戦争計画は十一月の米軍日本上陸作戦を要求していた。これは、作戦に関係する兵姑のことを考えれば、ローズヴェルトとスターリンはすぐに合意に達する必要があった。事実、ローズヴェルトとスターリンはソ連が参戦するという前提でテヘラン以来、作業を進めていたのである。数ヵ月間にわたり、米国からの大量のレンドリース物資がひそかにシペリアを横断して輸送されていた--関東軍と対戦することになるソヴィエト軍の戦闘準備のために。
口ーズヴェルトの疑問は、スターリンはロシアがポーツマス条約で日本に失ったものの返還で我慢するのだろうか、それとも、クリル諸島を本気で強く要求するのだろうか、ということだった。クリルは疑いなく最高の不動産で、米国海軍が目を付けていた。ここに基地を建設する(恐らく国際連合の後援のもとに)という構想に興味を持っていたのだが、ローズヴェルトがそのことを知らされていたかどうかははっきりしない。
ローズヴェルトは太平洋戦争会議で、スターリンがサハリン全島とクリル諸島を手に入れることを望んでいると述べた。しかし彼は、スターリンがそれらを手に入れることに賛成だとは言っていなかった。しかし、他方、なぜ日本が持っていなければならないのか? フィリピン、パラワン島での六週間前の虐殺が米国人の頭に生々しく残っていた。このぞっとする事件で日本軍は約一五〇名の米国人捕虜を塹壕へ連行し、ガソリンを注ぎ、彼らを焼き殺した。一名が逃れて、事実を伝えたのである。
ソヴィエトの諜報員たちは、サハリン南部も南グリル諸島もソ連に渡すべきでないと勧告する国務省のメモを入手し、スターリンはそれを読んでいた。このメモはスターリンの懸念の度合いを高めたに違いない。スターリンには、それがローズヴェルトに影響を及ぼしたかどうか、あるいは実際に口ーズヴェルトがそれを目にしたかどうか、見当がつかなかった。スターリンは自分が望んでいるものを知っていたが、それを得られる保証はなかった。恐らく、ローズヴェルト自身、確信がなかっただろう。
なぜソ連は対日戦に参加しなければならないのか? ソ連には貴重なニンジンが提供されねばならながった。スターリンは間違いなく知っていた--米国は日本より強い、そして米軍が日本内地の島々に上陸作戦を開始するのは時間と立案の問題であると。ソ連の対日参戦を米国の戦争計画立案者だちとローズヴェルトにこれほど重要視させているのは、必要不可欠の問題ではなかった。それは日本人との戦闘で命を落とす米国人の数を少なくする問題だったのである。原子爆弾はその時点では未完成で、当てにするわけにはいかなかった。問題は米国人の生命を救うためにソ連の戦闘部隊に協力を求めるということに落ち着いたのである。
スターリンには対日参戦の理由がいくつかあった。領土獲得、将来の援助の見通し、賠償、そして米国との平和な関係のためである。二人は互いを必要としていた。
二人が話している今が、スターリンの正念場だった。スターリンは、ソ連が対日参戦に同意できる政治的条件については自分とハリマン大使がすでに話し合ったと述べた。もちろん、ローズヴェルトは十二月十四日に彼らがクレムリンでの会談で話したことを逐一承知していた。実は、彼がハリマソ大使に命じて、スターリンに会い、彼の付ける値段が正確にいくらであるのか探るように指示したのである。そして、それはローズヴェルトに伝えられていた。スターリンとハリマソが会談したとき、スターリンは隣の部屋へ行き、地図を持ってきてハリマンに言った。「クリル諸島とサハリン南部がソ連に返還されるべきだ」。それからスターリンは旅順港と大連を含む遼東半島南部の周囲に線を引き、ハリマンに語った。「ソ連はこれらの港と周辺地域を再び租借し……[満州の]東支鉄道を租借したい……彼はとくに、満州における中国の主権に介入するつもりはないという自分の意図を再確認した」。ローズヴェルトは、スターリンがモンゴルについて何の計画も持たず、同国が「独立国」として残ることを希望していると知って安心した。ローズヴェルトにはそれから七週間、スターリンの要求について考える時間があったわけだ。
ローズヴェルトは日本の弁護をまったくしなかった。なぜ、しなければならないのか? 結局、日本は侵略者として、ドイツと同じように、土地を失うのに値するのだ。ローズヴェルトは前置きなしにスターリンに自分の回答を伝え、こう述べた--自分はクレムリンでの会談の報告を受け取った。サハリンの南半分とクリル諸島がソ連領になることに関してはまったく困難はないだろう、と。極東の不凍港に関しては、二人はテヘランで話しており、その時ローズヴェルトは、ソ連は恐らく大連で不凍港の使用が認められるだろうと示唆したのだった。いま彼が言ったのは、ソ連は中国から大連を完全に租借することもできるし、あるいは大連を国際委員会からの誰かのもとで自由港にすることもできるということだった。ローズヴェルトは、香港のことがあるので自分は後者の方法を選ぶと付け加えた。彼は英国が香港の主権を中国に返還し、香港が国際化された自由港になることを希望していた。この提案にチャーチルが強く反対することは承知している、とローズヴェルトは述べた。
スターリンは餌に食いつかず、満州鉄道を取り上げた。彼はロシア皇帝が持っていたこの鉄道を望んだのである。ローズヴェルトはそれを実現するには方法が二つあると答えた--それを租借することと、中国人一名、ソヴィエト人一名からなる委員会を設立することだと。
スターリンは細部にまで手抜かりがないように慎重を期した--「はっきりしているが、もしこれらの条件が受け入れられなければ、なぜソ連が対日戦に参加するのか、ソヴィエト国民に説明するのが難しくなるだろう。彼らはドイツに対する戦争をはっきりと理解している。ドイツはソ連の存在そのものを脅かしたからだ。だが彼らは、自分たちが問題を抱えていない相手国に対する戦争になぜ参加するのか理解しないだろう」。ローズヴェルトは答えた--自分はまだ、蒋介石にこのことを話していない。中国人に話したことは何でも二四時間で世界中に知れ渡るからだ、と。スターリンは、まだ中国と話す必要はないと答えた。それから、議題を変えて言った。「ここでは、これらの条件は三大国によって合意されたと明記しておくだけでいいだろう」。ローズヴェルトは同意した。スターリンはソヴィエト軍の二五個師団がヨーロパから解放され、極東へ移動できるようになるまで中国側には話さないほうがいいと提案した。そして次のように締めくくった--不凍港の問題に関してはソ連が困ることはないだろう、自分は国際化された自由港に反対しないだろうと。
数分間で二人は合意に至った。
海軍作戦部長のキング提督は、ソヴィエト軍が間違いなく対日戦に参加すると知らされて、とてつもなく安堵してこう述べた--「われわれは二〇〇万米国人の生命を救った」。
この機会を利用して自分のほうの値段を付けた--すなわち、ソ連の対日参戦の政治的条件である。
米国軍部だけではなく、米国人の全員が、一九四三年~四四年の冬の間に目撃した日本人の残忍な凶暴さと狂信に恐れをなしていた。米軍部隊がジルバート諸島のタラワ島に上陸を敢行すると、彼らは二五六三名の日本兵に攻撃された。そして日本兵は捕虜になった八名を除き、全員が死ぬまで戦った。マーシャル諸島のクェゼリン環礁を守備していた日本兵も同様だった。日本兵は降伏よりも戦って死ぬことを選んだ。彼らの戦死率は平均九八パーセントを上回っていた。これは米軍側の膨大な死者数を意味した。しかし米国が、日本の民間人もその軍人と同じように狂信的であることを知ったのは、米軍部隊がマリアナ諸島最大の島サイパンに上陸した時のことである。この島には日本の民間人二万名が住んでいた。米軍部隊はこの島でただ座視するよりなかった--それは追い詰められた日本の民間人が投降する代わりに自ら死を選択する光景だった。母親たちは子供の手を握ったまま、そして父親たちは先に子供を投げ落としたあと、断崖から海へ身を投じた。とりわけ、サイパンをめぐる激戦は、米国人たちに来るべき日本本土諸島への上陸作戦を恐れさせた。彼らが知ったのは、日本は最後の一人まで戦い、その過程でできる限り多くの米国人を殺そうとすることだった。これは米軍の損耗率が甚大になることを意味した。マッカーサー将軍の推計では第一段階--一九四五年十一月一日に計画されている本土最南の島、九州の上陸作戦では、一〇〇万の米国人が命を落とすと見積もられていた。D-デイは日本上陸作戦に比べれば、ピクニックの類になるだろうと。ソ連からの支援への要望が強まったのは、もし赤軍が参戦すれば、米国の死者が少なくなるというはっきりした理由からだった。それゆえに、マーシャルとリーヒ個人はもちろんのこと、統合参謀本部は二年の大半をつうじて口ーズヴェルトに、ソ連の対日参戦が絶対必要であると強く助言し続けていたのである。メモがローズヴェルトのデスクにひっきりなしに届けられていた。
「われわれが日本に攻め入る前に、ソ連を対日戦へ参加させるためにあらゆる努力をすべきだ。さもなければ、やがてソ連軍が主要な抵抗を受けない地域へ前進している間に、われわれは日本軍師団の圧力を引き受けて敗北を喫することになるだろう」と、マッカーサーは勧告した。「もし満州の日本軍がソヴィエト軍によって食い止められなければ、日本諸島のいかなる部分へ攻め入ることも検討しないだろう」。ヤルタの二週間前、統合参謀本部から公式のメモが届いた。「参謀長たちは次のことを提案する--スターリン元帥に、米ソ間の協力をより効率的かつ迅速に機能させるべく管理上の手段をとるように求めること。そしてまた元帥に、部下たちが米国と働く上で経験した非効率および遅延の実情がいかなるものか提示するように求めること」。五日後、統合参謀本部は緊急性を強調して別のメモをローズヴェルトに送った--われわれは「ソ連の対日参戦に向けて邁進している……攻勢作戦に携わるその能力に見合った可及的速やかなソ連参戦が必要なのは、太平洋作戦にとって最大限の支援になるからである」。
もう一つのメモは、ローズヴェルトがヤルタでスターリンに言うべきことを正確に記載していた
(a) われわれは、攻勢作戦に携わるその能力に見合った可及的速やかなソ連の参戦を望む。
(b) ソ連極東軍の使命は、満州に対して全面的攻勢を実施し、さもなければ日本防衛に使用される可能性のある中国北部および満州の日本軍と資源の戦闘参加を強制することであると考える。
日本はロシアの歴史的な敵国だった。スターリンは二九三四年に米国の初代駐ソ大使ウィリアム・ブリットに赤軍参謀総長アレクサンドル・エゴーロフ元帥を紹介したとき、これは「日本が攻めてきたら、わが軍を日本に対して勝利に導く人物」だと述べた。後にも先にもスターリンが酔っぱらっているところを目撃されたのはたったの一回、一九四一年四月十三日の日ソ中立条約締結ですっかり安堵して、松岡洋右日本外相をモスクワの駅頭で見送ったときのことである。
ポーツマス条約でロシアが日本に失ったものを取り戻すことが、今やスターリンの目標だった。今年になってからローズヴェルトは、太平洋で日本と戦っている諸国の大使や元首たちの会合である「太平洋戦争会議」において、自分が何をソ連に与えようとしているかをきちんと公表していたが、スターリンはそのことを承知していた。ローズヴェルトはこう述べていた--
日本はその島々の所有権をはく奪される……シベリアに不凍港を持たないソ連はそれを手に入れることを望んでおり、スターリン元帥は大連を全世界のための自由港にしたいと考えているようだ。これはシベリアの輸出入を大連港経由、満州鉄道経由でシペリア地域へ保税運送できるとの考えに基づいている。彼は満州鉄道が中国政府の財産になることに同意している。彼はサハリン全島のソ連返還、シベリアの諸海峡を支配できるようにクリル諸島のソ連返還を望んでいる。
クリル諸島は南の日本の北海道から北のソ連のカムチャッカ半島までの間にある四七の島々を鎖状につないでいた。ロシアがクリル諸島を日本に譲渡したのは一八七五年のことだった。これらの島々はオホーツク海とソ連の東部海岸への水路を牛耳っていた。
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米国の戦争計画は十一月の米軍日本上陸作戦を要求していた。これは、作戦に関係する兵姑のことを考えれば、ローズヴェルトとスターリンはすぐに合意に達する必要があった。事実、ローズヴェルトとスターリンはソ連が参戦するという前提でテヘラン以来、作業を進めていたのである。数ヵ月間にわたり、米国からの大量のレンドリース物資がひそかにシペリアを横断して輸送されていた--関東軍と対戦することになるソヴィエト軍の戦闘準備のために。
口ーズヴェルトの疑問は、スターリンはロシアがポーツマス条約で日本に失ったものの返還で我慢するのだろうか、それとも、クリル諸島を本気で強く要求するのだろうか、ということだった。クリルは疑いなく最高の不動産で、米国海軍が目を付けていた。ここに基地を建設する(恐らく国際連合の後援のもとに)という構想に興味を持っていたのだが、ローズヴェルトがそのことを知らされていたかどうかははっきりしない。
ローズヴェルトは太平洋戦争会議で、スターリンがサハリン全島とクリル諸島を手に入れることを望んでいると述べた。しかし彼は、スターリンがそれらを手に入れることに賛成だとは言っていなかった。しかし、他方、なぜ日本が持っていなければならないのか? フィリピン、パラワン島での六週間前の虐殺が米国人の頭に生々しく残っていた。このぞっとする事件で日本軍は約一五〇名の米国人捕虜を塹壕へ連行し、ガソリンを注ぎ、彼らを焼き殺した。一名が逃れて、事実を伝えたのである。
ソヴィエトの諜報員たちは、サハリン南部も南グリル諸島もソ連に渡すべきでないと勧告する国務省のメモを入手し、スターリンはそれを読んでいた。このメモはスターリンの懸念の度合いを高めたに違いない。スターリンには、それがローズヴェルトに影響を及ぼしたかどうか、あるいは実際に口ーズヴェルトがそれを目にしたかどうか、見当がつかなかった。スターリンは自分が望んでいるものを知っていたが、それを得られる保証はなかった。恐らく、ローズヴェルト自身、確信がなかっただろう。
なぜソ連は対日戦に参加しなければならないのか? ソ連には貴重なニンジンが提供されねばならながった。スターリンは間違いなく知っていた--米国は日本より強い、そして米軍が日本内地の島々に上陸作戦を開始するのは時間と立案の問題であると。ソ連の対日参戦を米国の戦争計画立案者だちとローズヴェルトにこれほど重要視させているのは、必要不可欠の問題ではなかった。それは日本人との戦闘で命を落とす米国人の数を少なくする問題だったのである。原子爆弾はその時点では未完成で、当てにするわけにはいかなかった。問題は米国人の生命を救うためにソ連の戦闘部隊に協力を求めるということに落ち着いたのである。
スターリンには対日参戦の理由がいくつかあった。領土獲得、将来の援助の見通し、賠償、そして米国との平和な関係のためである。二人は互いを必要としていた。
二人が話している今が、スターリンの正念場だった。スターリンは、ソ連が対日参戦に同意できる政治的条件については自分とハリマン大使がすでに話し合ったと述べた。もちろん、ローズヴェルトは十二月十四日に彼らがクレムリンでの会談で話したことを逐一承知していた。実は、彼がハリマソ大使に命じて、スターリンに会い、彼の付ける値段が正確にいくらであるのか探るように指示したのである。そして、それはローズヴェルトに伝えられていた。スターリンとハリマソが会談したとき、スターリンは隣の部屋へ行き、地図を持ってきてハリマンに言った。「クリル諸島とサハリン南部がソ連に返還されるべきだ」。それからスターリンは旅順港と大連を含む遼東半島南部の周囲に線を引き、ハリマンに語った。「ソ連はこれらの港と周辺地域を再び租借し……[満州の]東支鉄道を租借したい……彼はとくに、満州における中国の主権に介入するつもりはないという自分の意図を再確認した」。ローズヴェルトは、スターリンがモンゴルについて何の計画も持たず、同国が「独立国」として残ることを希望していると知って安心した。ローズヴェルトにはそれから七週間、スターリンの要求について考える時間があったわけだ。
ローズヴェルトは日本の弁護をまったくしなかった。なぜ、しなければならないのか? 結局、日本は侵略者として、ドイツと同じように、土地を失うのに値するのだ。ローズヴェルトは前置きなしにスターリンに自分の回答を伝え、こう述べた--自分はクレムリンでの会談の報告を受け取った。サハリンの南半分とクリル諸島がソ連領になることに関してはまったく困難はないだろう、と。極東の不凍港に関しては、二人はテヘランで話しており、その時ローズヴェルトは、ソ連は恐らく大連で不凍港の使用が認められるだろうと示唆したのだった。いま彼が言ったのは、ソ連は中国から大連を完全に租借することもできるし、あるいは大連を国際委員会からの誰かのもとで自由港にすることもできるということだった。ローズヴェルトは、香港のことがあるので自分は後者の方法を選ぶと付け加えた。彼は英国が香港の主権を中国に返還し、香港が国際化された自由港になることを希望していた。この提案にチャーチルが強く反対することは承知している、とローズヴェルトは述べた。
スターリンは餌に食いつかず、満州鉄道を取り上げた。彼はロシア皇帝が持っていたこの鉄道を望んだのである。ローズヴェルトはそれを実現するには方法が二つあると答えた--それを租借することと、中国人一名、ソヴィエト人一名からなる委員会を設立することだと。
スターリンは細部にまで手抜かりがないように慎重を期した--「はっきりしているが、もしこれらの条件が受け入れられなければ、なぜソ連が対日戦に参加するのか、ソヴィエト国民に説明するのが難しくなるだろう。彼らはドイツに対する戦争をはっきりと理解している。ドイツはソ連の存在そのものを脅かしたからだ。だが彼らは、自分たちが問題を抱えていない相手国に対する戦争になぜ参加するのか理解しないだろう」。ローズヴェルトは答えた--自分はまだ、蒋介石にこのことを話していない。中国人に話したことは何でも二四時間で世界中に知れ渡るからだ、と。スターリンは、まだ中国と話す必要はないと答えた。それから、議題を変えて言った。「ここでは、これらの条件は三大国によって合意されたと明記しておくだけでいいだろう」。ローズヴェルトは同意した。スターリンはソヴィエト軍の二五個師団がヨーロパから解放され、極東へ移動できるようになるまで中国側には話さないほうがいいと提案した。そして次のように締めくくった--不凍港の問題に関してはソ連が困ることはないだろう、自分は国際化された自由港に反対しないだろうと。
数分間で二人は合意に至った。
海軍作戦部長のキング提督は、ソヴィエト軍が間違いなく対日戦に参加すると知らされて、とてつもなく安堵してこう述べた--「われわれは二〇〇万米国人の生命を救った」。
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新兵器--原子爆弾 歴史は何が起きたのか
『ローズヴェルトとスターリン』より
歴史は何が起きたのか--どのようにして、あるいはなぜチャーチルが原子爆弾の問題で口ーズヴェルトの説得に成功したのか決して知ることがないだろう。最も可能性のある説明としては、ローズヴェルトは、署名の前に注意を喚起する者がそばに誰もいなかったので、後で自分の論拠を結集し、態度を翻そうと考えて、チャーチルにとりあえず従うことに決めたのだろうということである--ちょうど、ローズヴェルトがドイツを牧畜国家にすることについてあっという間にモーゲンソーの話に乗ったのと同じように。結局のところ、覚書の形式では、ローズヴェルトに取り消せないようなことを義務づけることはなかったのである。そしてチャーチルとの最後の会談の一つの後でローズヴェルトが言ったと伝えられているように、「そう、私は本当に疲れたよ! 五年間ずっとウィンストンを手押し車に乗せて上り坂を押し続けて過ごしたら、君だって同じだろうよ」--というような二人の関係だったのである。
ローズヴェルトは覚書に署名したことについてすぐに不安になった。ホワイトハウスに戻ってからのことだが、四日後、彼はヴァネヴァー・ブッシュ、英国のチャーウェル卿と長い午後の会談を行ない、二人が秘密主義政策は間違いだと考えていることを知っていたので、原子爆弾と原子エネルギーの将来を心配そうに議論した。ローズヴェルトは、何が何でもそれを日本に使用することについて再考することまでして、「この手段が日本に実際に使用されるべきかどうか、あるいはこれはこの国において本格的実験をするとの威嚇としてのみ使用されるべきどうかの問題」を提起した。ローズヴェルトはこの問題についてむしろどっちつかずの印象を与えたに違いない。あるいは、恐らく彼は、原子爆弾の管理を他国と共に担うことへの反対を除去するために第一級の論拠を求めたのだろう。というのは、ブッシュはジェームズ・コナントの助けを借りてこ一日後に、覚書で示された方向を完全に否定する文書を作成したからである。明らかにそれを妨げるために書かれた文書で、ブッシュとコナントは自分たちの首と知識を賭けて、そのような行動方針の愚かさに明確な反論を書き、共同で署名し、スティムソンに送った。陸軍長官のスティムソンは二人の直接の上司であり、マンハッタン計画の総責任者だった。二人の狙いは的確だった。表題は「原子爆弾問題の将来の国際的な処理に関して」となっていた。
文書は第一、第二項で米国の原子力とその軍事的可能性の現状を説明し分析してから、次のように続いていた--
第三項。米国と英国の現在の優位は一時的である。
……良好な技術的、科学的資源があればどの国にとっても、三ないし四年でわれわれの現在の位置に到達することが可能だろう。それゆえ、米国と英国がこの新兵器において常に優勢であり続けると考えるのは愚の骨頂だろう……
第四項。戦争終結後に完全な秘密主義を維持することの不可能性。
膨大な数の技術者を計画に投入することが必要だった。そのさまざまな側面に関する情報はそれゆえに広まっている。その上、すべての基本的事実は開発が始まる前から物理学者に知られていた。計画の外にいる一部の者が、何が進行中であるか多くを推測していたことは間違いない……われわれはこの状況に鑑みて、原子爆弾が実証されたら直ちに、開発史と、爆弾の製造および軍事的詳細を除くすべてを完全に公開するために、計画は提出されるべきだと強く勧告する第五項。部分的秘密主義と国際軍備競争の危険。
……米国と英国がこの技術の軍事利用のさらなる発展を完全な秘密のうちに実施しようとするのは、きわめて危険だろう。もしこれがなされるならば、ソ連が秘密のうちに同じ路線を進むのは間違いないだろう。
第六項は、国際的な情報交換がどのように実施されるべきかについて概要を述べていた。
ブッシュとコナントは秘密主義に全面的に異議を唱え、それどころか、それは米国がとり得る最も危険な方針だと主張した。二人は形成途上にある国際機構の庇護下での自由な情報交換を提案したのである。
スティムソンは当然ながら二人の知識と勧告に感銘を受けた。彼は今やマンハッタン計画の幹部たちによって自分宛に書かれた、秘密主義は無益だという文書を手にしたのである。十二月三十日の昼食前の会見で、彼とグローヴス将軍は、原子爆弾の開発進行について最新の情報を知らせるために口ーズヴェルトと会った。グローヴスは大統領に、TNT火薬一万トン相当の威力を持つ最初の爆弾が一九四五年八月一日頃に準備できるはずだ」と伝えた。それは若干の問題が表面に現れることを意味した。決断を下さねばならなかった。翌日の日曜日、スティムソンはローズヴェルトの唯一の予約客だった。正午、彼は大統領とオーヴァルオフィスで一時間の「年納め」の会談をした。スティムソンが日記に書いているところによると、ローズヴェルトに「バルジの戦い」におけるアイゼンハワーの進度について報告してから、S-1の将来とソ連に関して自分の見解を述べた。ソ連には言うべきだ、だが、今すぐにというわけではないと自分は大統領に語り、ローズヴェルトがそれはいい考えだと思うと答えた、とスティムソンは書いているー
私は彼にソ連と関連してS-1の将来について自分の考えを述べた--彼らがわれわれの作業をスパイしているのを知っていること、しかし彼らはそれについてまだ真の知識を何も得ていないこと、彼らにその作業を今も秘密にしていることから起こり得る結果について自分は心を痛めているが、自分たちの率直さから真のお返しを得られると確信するまで、彼らにわれわれの秘密を知らせないことが必要不可欠だと自分は信じていること、等々。私はそのような秘密を永久に保持する可能性について幻想を持っていない、が、ソ連とそれを共有すべき時だとはまだ思わないと言った。彼はそのとおりだと思うと語った。
スティムソンの意見はきわめてもっともだった。ハリマンが報告していたように、米国とソ連の関係は、一九四四年には一連の摩擦を切り抜けていた。スティムソンは目標へと続く道を提案していた。数ヶ月が過ぎるうちに、スティムソンがますます確信を深めたのは、ソ連は核の知識の国際的な枠組みの中に入れられるべきだということだった。同時に、彼もローズヴェルトも情報の単純な引き渡しは考えていなかった。彼らはその代わりにスターリンを働かせようと期待していた--同盟の基準に従うようにスターリンに圧力が加えられるべきだと。それこそが「真のお返し」の意味だったのである。
この時までにローズヴェルトは悟っていたに違いない--原子爆弾に関する情報はソ連に秘密にされるべきだという意見では、チャーチルは自身の周囲でもかなり孤立していると。駐米英国大使ハリファックス卿は、戦前は強い反ソ感情を抱いていたが、今ではソ連と情報を共有すべきだと考えていた。チャーチル内閣で核計画を担当している科学者である蔵相サー・ジョン・アンダーソンも同様だった。アンダーソンは最初の実験が予定されたときにソ連に通告することを提案して、一九四四年三月のあるメモでこう書いた--「われわれがこの壊滅的な兵器をある特定の日までに持ちたいと考えているというありのままの事実を、近い将来にソ連に連絡することについてもっと論じるべきだ。そして、国際管理構想の準備において彼らをわれわれとの協力に招くことについても同様である」。物理学者でチャーチルのもう一人の科学顧問であるチャーウェル卿も、原子爆弾についてソ連に話すことに賛成だった。それが最も分別のある人たちには最も妥当な行動のように思えた。
ローズヴェルトはステティニアスを国務長官に任命すると、すぐに彼を議論に引き込んだ。例によって、話し合いは船の模型が並んでいるローズヴェルトの書斎で行なわれた。ローズヴェルトは前任者のハル長官には原子爆弾のことを隠していたが、ステティニアスにはほとんどすぐに話し、「国務省が原子爆弾の問題に加わる時が来たのだ」と語った。ステティニアスはたちまち深入りするようになり、米国におけるソ連のスパイ活動を監視した。これは彼がすぐに知ったように、無視できないものだった。したがってローズヴェルトもスティムソンも、「ソ連が兆候をつかんでいるのは確かだ」と知っていた。
口ーズヴェルトは原子爆弾の情報をソ連と共有したいと、ヤルタ会談までに完全に決心していた。そのため、会談の期間中に、これが時宜を得た考えであることを説得しようとチャーチルに会いに行った。ローズヴェルトの最高顧問たちが、情報共有が最も賢明な針路であると彼を説得しただけではなかった。ローズヴェルトはまた、スターリンがマンハッタン計画について知っているだけでなく、もっと多くのことを探るために諜報機関に発破をかけていることも承知しており、そのことを少しも疑っていなかった。ステティニアスは会談二日目にローズヴェルトに伝えたー核競争はすでに始まっている、ソ連は二二五名のスパイを動員している、それゆえ大統領はスターリンとこの問題を討議する準備をすべきだ、なぜなら彼は「それについて尋ねるかもしれないから」と。(すでにステティニアスはマーシャル将軍と、ローズヴェルトが原子爆弾についてスターリンに何を言うべきかを練り上げるために実際に作業していた)。さらに付け加えて、ステティニアスは新たな脅威があるとローズヴェルトに語ったーモントリオールのあるフランス人科学者が原子爆弾のために働いているか、彼はソ連に共感を抱いており、ソ連スパイに重大な情報を漏らすかもしれない、と。
その結果として、そのしばらく後で、口ーズヴェルトはチャーチルにショックを与えた(相手を不可避の事態に準備させるローズヴェルトのいつものやり方)--ローズヴェルトがさりげなく宣言したのである。スターリンに秘密を教えるいい頃合いだと思うと。「なぜならドゴールが爆弾のことを耳にしたら、確実にわれわれを裏切ってソ連に寝返るだろうから」。当然、チャーチルは激怒した。
ヤルタ会談の直後、ヴァネヴァー・ブッシュは再びスティムソンに、自分は核情報をソ連と共有したいと考えていると語った。その結果、スティムソンは核問題の自分の補佐ハーヴェイーバンディー(やはりイェール大学の秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」会員)にこう言うことになる。「ブッシュは今朝届いたヤルタでの合意のニュースにとても喜んでいる。彼はこの問題ではソヴィエト人に対してしっかり騎士道精神でやりたがっているんだよ」。スティムソンはブッシュにそれはいい考えだと賛成したが、ただ、もう少し待つように勧めたIIそれを交渉の切り札として使えるように。具体的に言えば、「ソ連側への情報提供のお返しとして、彼らから何かもっと目に見える〝仮悔の成果〟を受け取るまで、この問題に関する会議を遅らせるために」。それはスターリンに知らせるべきかどうかという問題ではなかった。それは情報を実のある形で利用するという問題だったのである。
歴史は何が起きたのか--どのようにして、あるいはなぜチャーチルが原子爆弾の問題で口ーズヴェルトの説得に成功したのか決して知ることがないだろう。最も可能性のある説明としては、ローズヴェルトは、署名の前に注意を喚起する者がそばに誰もいなかったので、後で自分の論拠を結集し、態度を翻そうと考えて、チャーチルにとりあえず従うことに決めたのだろうということである--ちょうど、ローズヴェルトがドイツを牧畜国家にすることについてあっという間にモーゲンソーの話に乗ったのと同じように。結局のところ、覚書の形式では、ローズヴェルトに取り消せないようなことを義務づけることはなかったのである。そしてチャーチルとの最後の会談の一つの後でローズヴェルトが言ったと伝えられているように、「そう、私は本当に疲れたよ! 五年間ずっとウィンストンを手押し車に乗せて上り坂を押し続けて過ごしたら、君だって同じだろうよ」--というような二人の関係だったのである。
ローズヴェルトは覚書に署名したことについてすぐに不安になった。ホワイトハウスに戻ってからのことだが、四日後、彼はヴァネヴァー・ブッシュ、英国のチャーウェル卿と長い午後の会談を行ない、二人が秘密主義政策は間違いだと考えていることを知っていたので、原子爆弾と原子エネルギーの将来を心配そうに議論した。ローズヴェルトは、何が何でもそれを日本に使用することについて再考することまでして、「この手段が日本に実際に使用されるべきかどうか、あるいはこれはこの国において本格的実験をするとの威嚇としてのみ使用されるべきどうかの問題」を提起した。ローズヴェルトはこの問題についてむしろどっちつかずの印象を与えたに違いない。あるいは、恐らく彼は、原子爆弾の管理を他国と共に担うことへの反対を除去するために第一級の論拠を求めたのだろう。というのは、ブッシュはジェームズ・コナントの助けを借りてこ一日後に、覚書で示された方向を完全に否定する文書を作成したからである。明らかにそれを妨げるために書かれた文書で、ブッシュとコナントは自分たちの首と知識を賭けて、そのような行動方針の愚かさに明確な反論を書き、共同で署名し、スティムソンに送った。陸軍長官のスティムソンは二人の直接の上司であり、マンハッタン計画の総責任者だった。二人の狙いは的確だった。表題は「原子爆弾問題の将来の国際的な処理に関して」となっていた。
文書は第一、第二項で米国の原子力とその軍事的可能性の現状を説明し分析してから、次のように続いていた--
第三項。米国と英国の現在の優位は一時的である。
……良好な技術的、科学的資源があればどの国にとっても、三ないし四年でわれわれの現在の位置に到達することが可能だろう。それゆえ、米国と英国がこの新兵器において常に優勢であり続けると考えるのは愚の骨頂だろう……
第四項。戦争終結後に完全な秘密主義を維持することの不可能性。
膨大な数の技術者を計画に投入することが必要だった。そのさまざまな側面に関する情報はそれゆえに広まっている。その上、すべての基本的事実は開発が始まる前から物理学者に知られていた。計画の外にいる一部の者が、何が進行中であるか多くを推測していたことは間違いない……われわれはこの状況に鑑みて、原子爆弾が実証されたら直ちに、開発史と、爆弾の製造および軍事的詳細を除くすべてを完全に公開するために、計画は提出されるべきだと強く勧告する第五項。部分的秘密主義と国際軍備競争の危険。
……米国と英国がこの技術の軍事利用のさらなる発展を完全な秘密のうちに実施しようとするのは、きわめて危険だろう。もしこれがなされるならば、ソ連が秘密のうちに同じ路線を進むのは間違いないだろう。
第六項は、国際的な情報交換がどのように実施されるべきかについて概要を述べていた。
ブッシュとコナントは秘密主義に全面的に異議を唱え、それどころか、それは米国がとり得る最も危険な方針だと主張した。二人は形成途上にある国際機構の庇護下での自由な情報交換を提案したのである。
スティムソンは当然ながら二人の知識と勧告に感銘を受けた。彼は今やマンハッタン計画の幹部たちによって自分宛に書かれた、秘密主義は無益だという文書を手にしたのである。十二月三十日の昼食前の会見で、彼とグローヴス将軍は、原子爆弾の開発進行について最新の情報を知らせるために口ーズヴェルトと会った。グローヴスは大統領に、TNT火薬一万トン相当の威力を持つ最初の爆弾が一九四五年八月一日頃に準備できるはずだ」と伝えた。それは若干の問題が表面に現れることを意味した。決断を下さねばならなかった。翌日の日曜日、スティムソンはローズヴェルトの唯一の予約客だった。正午、彼は大統領とオーヴァルオフィスで一時間の「年納め」の会談をした。スティムソンが日記に書いているところによると、ローズヴェルトに「バルジの戦い」におけるアイゼンハワーの進度について報告してから、S-1の将来とソ連に関して自分の見解を述べた。ソ連には言うべきだ、だが、今すぐにというわけではないと自分は大統領に語り、ローズヴェルトがそれはいい考えだと思うと答えた、とスティムソンは書いているー
私は彼にソ連と関連してS-1の将来について自分の考えを述べた--彼らがわれわれの作業をスパイしているのを知っていること、しかし彼らはそれについてまだ真の知識を何も得ていないこと、彼らにその作業を今も秘密にしていることから起こり得る結果について自分は心を痛めているが、自分たちの率直さから真のお返しを得られると確信するまで、彼らにわれわれの秘密を知らせないことが必要不可欠だと自分は信じていること、等々。私はそのような秘密を永久に保持する可能性について幻想を持っていない、が、ソ連とそれを共有すべき時だとはまだ思わないと言った。彼はそのとおりだと思うと語った。
スティムソンの意見はきわめてもっともだった。ハリマンが報告していたように、米国とソ連の関係は、一九四四年には一連の摩擦を切り抜けていた。スティムソンは目標へと続く道を提案していた。数ヶ月が過ぎるうちに、スティムソンがますます確信を深めたのは、ソ連は核の知識の国際的な枠組みの中に入れられるべきだということだった。同時に、彼もローズヴェルトも情報の単純な引き渡しは考えていなかった。彼らはその代わりにスターリンを働かせようと期待していた--同盟の基準に従うようにスターリンに圧力が加えられるべきだと。それこそが「真のお返し」の意味だったのである。
この時までにローズヴェルトは悟っていたに違いない--原子爆弾に関する情報はソ連に秘密にされるべきだという意見では、チャーチルは自身の周囲でもかなり孤立していると。駐米英国大使ハリファックス卿は、戦前は強い反ソ感情を抱いていたが、今ではソ連と情報を共有すべきだと考えていた。チャーチル内閣で核計画を担当している科学者である蔵相サー・ジョン・アンダーソンも同様だった。アンダーソンは最初の実験が予定されたときにソ連に通告することを提案して、一九四四年三月のあるメモでこう書いた--「われわれがこの壊滅的な兵器をある特定の日までに持ちたいと考えているというありのままの事実を、近い将来にソ連に連絡することについてもっと論じるべきだ。そして、国際管理構想の準備において彼らをわれわれとの協力に招くことについても同様である」。物理学者でチャーチルのもう一人の科学顧問であるチャーウェル卿も、原子爆弾についてソ連に話すことに賛成だった。それが最も分別のある人たちには最も妥当な行動のように思えた。
ローズヴェルトはステティニアスを国務長官に任命すると、すぐに彼を議論に引き込んだ。例によって、話し合いは船の模型が並んでいるローズヴェルトの書斎で行なわれた。ローズヴェルトは前任者のハル長官には原子爆弾のことを隠していたが、ステティニアスにはほとんどすぐに話し、「国務省が原子爆弾の問題に加わる時が来たのだ」と語った。ステティニアスはたちまち深入りするようになり、米国におけるソ連のスパイ活動を監視した。これは彼がすぐに知ったように、無視できないものだった。したがってローズヴェルトもスティムソンも、「ソ連が兆候をつかんでいるのは確かだ」と知っていた。
口ーズヴェルトは原子爆弾の情報をソ連と共有したいと、ヤルタ会談までに完全に決心していた。そのため、会談の期間中に、これが時宜を得た考えであることを説得しようとチャーチルに会いに行った。ローズヴェルトの最高顧問たちが、情報共有が最も賢明な針路であると彼を説得しただけではなかった。ローズヴェルトはまた、スターリンがマンハッタン計画について知っているだけでなく、もっと多くのことを探るために諜報機関に発破をかけていることも承知しており、そのことを少しも疑っていなかった。ステティニアスは会談二日目にローズヴェルトに伝えたー核競争はすでに始まっている、ソ連は二二五名のスパイを動員している、それゆえ大統領はスターリンとこの問題を討議する準備をすべきだ、なぜなら彼は「それについて尋ねるかもしれないから」と。(すでにステティニアスはマーシャル将軍と、ローズヴェルトが原子爆弾についてスターリンに何を言うべきかを練り上げるために実際に作業していた)。さらに付け加えて、ステティニアスは新たな脅威があるとローズヴェルトに語ったーモントリオールのあるフランス人科学者が原子爆弾のために働いているか、彼はソ連に共感を抱いており、ソ連スパイに重大な情報を漏らすかもしれない、と。
その結果として、そのしばらく後で、口ーズヴェルトはチャーチルにショックを与えた(相手を不可避の事態に準備させるローズヴェルトのいつものやり方)--ローズヴェルトがさりげなく宣言したのである。スターリンに秘密を教えるいい頃合いだと思うと。「なぜならドゴールが爆弾のことを耳にしたら、確実にわれわれを裏切ってソ連に寝返るだろうから」。当然、チャーチルは激怒した。
ヤルタ会談の直後、ヴァネヴァー・ブッシュは再びスティムソンに、自分は核情報をソ連と共有したいと考えていると語った。その結果、スティムソンは核問題の自分の補佐ハーヴェイーバンディー(やはりイェール大学の秘密結社「スカル・アンド・ボーンズ」会員)にこう言うことになる。「ブッシュは今朝届いたヤルタでの合意のニュースにとても喜んでいる。彼はこの問題ではソヴィエト人に対してしっかり騎士道精神でやりたがっているんだよ」。スティムソンはブッシュにそれはいい考えだと賛成したが、ただ、もう少し待つように勧めたIIそれを交渉の切り札として使えるように。具体的に言えば、「ソ連側への情報提供のお返しとして、彼らから何かもっと目に見える〝仮悔の成果〟を受け取るまで、この問題に関する会議を遅らせるために」。それはスターリンに知らせるべきかどうかという問題ではなかった。それは情報を実のある形で利用するという問題だったのである。
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戦後構想 ドイツに対する無条件降伏
『ローズヴェルトとスターリン』より 戦後構想 ドイツに対する無条件降伏
無条件降伏の原則は、ローズヴェルトの世界構想のもう一つの側面だった。これもまた一連の問題を解決した。きわめて重要なのは、無条件降伏が講和会議を片づけたことである。そういうものは必要なかったからだ。これはヴェルサイユの悪夢に常につきまとわれていたローズヴェルトにとって大きなプラスだった。交渉による講和は一切なくなるのである。講和会議がなければ、彼はコントロールする立場にとどまれるだろう。条件は各枢軸国が降伏した時点のその場その場の基盤にもとづいて決定することができるだろう。
これはワシントンでは人気のある構想だった。一九四二年五月下旬、ハルと口ーズヴェルト両名の友人であるノーマン・デイヴィスが主宰する国務省の有力な小委員会が大統領に次のように勧告した。「連合国の勝利が決定的であるとの前提に立ち、敵国からは(恐らくイタリアを除いて)停戦よりもむしろ無条件降伏が追求されるべきである」。
十二月末、統合参謀本部は意見を一本化し、大統領にすべての枢軸国にそれを適用するように勧告した--「統合参謀本部の代表たちは、ドイツ、日本、イタリアと衛星諸国に対して、彼らが自国軍隊の〝無条件降伏〟を申し出るまでいかなる停戦も与えないことを勧告する」と。一月上旬、ローズヴェルトは統合参謀本部に対し、無条件降伏はこれ以後、連合国の基本政策になるだろうと語った。ローズヴェルトは方針を採用したものの、この政策の説明、定義、あるいは緩和を拒否した。彼がハルにメモで助言したところでは、定義は無駄になるだろう。なぜなら「われわれが合意してまとめたどんな言葉も、どこかの国が降伏を申し出たら、恐らくその途端に修正あるいは変更しなければならなくなる」からだ。一九四二年十二月上旬にマッケンジー・キングから、チャーチルは講和会議を期待していると知って、ローズヴェルトは両手で顔を覆い、頭を少し振ってから「言った……何か講和会議があるなんて自分は知らない。自分が知っている限りでは、あるのは無条件降伏だ、と」。彼は付け加えた。「諸問題を処理する一連の小さな会議は適宜開かれるかもしれないが、それはヴェルサイユ会議のような性質を帯びたものを避けるためだ」。
無条件降伏はまた、ローズヴェルトの別の意図とも一致していた。それは、この戦後、第一次世界大戦の場合とは反対に、ドイツ国民にドイツ軍の敗北を確実に思い知らせたいということである。そして、ローレンス・リース著『ナチス--歴史からの警告』に引用されているドイツ軍兵士ヘルベルト・リヒターのごとき言辞を、確実にドイツの誰もが言えないようにすることである。リヒターは言っている--「われわれは負けたとは全然感じなかった。前線部隊は自分たちが打ち破られたとは感じていなかった。そしてわれわれはなぜこんなにすぐに停戦となるのか、われわれはまだ敵の領内にいるのに、なぜこんなに慌てて陣地をすべて明け渡さねばならないのか疑問に思っていた」。
ローズヴェルトが無条件降伏政策を発表したのは、一九四三年一月二十四日、カサブランカで行なわれたチャーチル同席の記者会見でのことだった。チャーチルによれば、政策にはすでに実質上同意していたとはいえ、この発表は彼にとって不意打ちだった。その時点では、ドイツ国防軍の猛攻を受けているスターリンに、米英が戦争をとことん戦い抜こうとしていることをローズヴェルトが再保証したかったのだろうと考えられた。無条件降伏は米国で人気があった。世論調査では八一パーセントがこれを支持した。ほとんどの人がドイツはもう一度戦争を起こすかもしれないと考えていたのである。
ローズヴェルトは常に自分のヒーロー、ユリシーズ・S・グラント将軍をこの政策を鼓舞する源泉として引き合いに出した--この政策、すなわち寛大ではあるが、敵に無条件降伏を強制する政策である。ヴェルサイユはないだろう。決定を下すのは勝利者だけなのだ。一八六二年二月十六日のドネルソン砦の占拠後、南軍司令官サイモン・バックナー将軍に対するグランドの言葉は、「無条件および即時降伏以外の条件は一切受け入れられない」だった。そしてグランドは戦争中この政策にこだわり、リー将軍にこれが適用されることを確実にした。ローズヴェルトは物語をもっと都合よくするためにこれを潤色することもいとわなかった。そして時間の経過とともにグラントに熱狂的になった。以下は、ローズヴェルトがハルに行なった、グランドの無条件降伏政策の説明ぶりである--「グラントに降伏したリーの話は、最良の実例だ。リーはあらゆる種類の条件について話し合いたいと考えていた。グラントはリーに、自分の公平さを信頼しなければならないと言った。そこで、リーは降伏した。直ちにリーは南軍士官たちの馬の問題を持ち出した。これらの馬は大抵の場合、士官たち個人の所有物だった。そしてグランドは、春の耕作のために士官たちは馬を自分の家に連れて帰るべきだとリーに言うことで、この問題を解決した」。
多くの人は、ローズヴェルトが求めているのは報復的な講和であるという不安を抱いていた。それに対処する必要から、ローズヴェルトは自分の考えをより十分に説明するため、二月十二日にラジオに出演した。「自己の犯罪の結果から逃れようとするこれらのパニック的な試みに対して、われわれは言う(すべての連合国は言う)--枢軸国政府および枢軸党派とわれわれが取り上げる唯一の条件はカサブランカで宣言された条件、すなわち〝無条件降伏〟である。われわれの非妥協的な政策が意図するのは枢軸諸国の一般人に対する仕打ちではない。しかし彼らの犯罪的な、野蛮な指導者たちに対しては、処罰と報復を十分に与えるつもりである」。
一九四三年三月、大統領の書斎で行なわれたイーデン、ハル、ホプキンスと昼食をとりながらの会議で、ローズヴェルトはこの政策を繰り返した。ホプキンスのノートによると、「彼が望んだのは敵の崩壊後の交渉による停戦ではない。われわれは敵の降伏後に何であれ、敵にいかなる言質も与えることなく全面的降伏を要求すべきだということだった」。
戦争が進行するにつれ、ローズヴェルトはハルやその他の人たちから無条件降伏に関する姿勢を和らげるべきだという圧力を受けた。その論拠は、声明の過酷な本質が敵の衛星諸国を戦い続けさせるというものだった。スターリンがモロトフをつうじて伝えたのもそういう意見だった。そしてスターリンはハリマン大使に無条件降伏の明確な定義を求めた--説明不足は人々の不安を刺激し、衛星諸国の降伏を妨げるということを前提にして。ローズヴェルトは用語の定義を拒否した。ハルが説得を試みたとき、ローズヴェルトは一九四四年一月十七日に返信の手紙でこう書いた--
私は率直に言って、〝無条件降伏〟の用語を話し合いで定義するという考えを好まない。ソ連、英国、米国は、互いに協議することなくいかなる講和も結ばないことで合意している。そういう意味で、それぞれのケースはそれ自身の利点に依拠すべきだと思う。
ドイツ国民は私がクリスマスイヴ談話で話したことを耳にしているはずだ--つまり、われわれにはドイツ国民を粉砕する考えはないということだ……もちろん、彼らが現在の征服哲学と絶縁することを条件にしてだが・・・…たとえどのような言葉でわれわれが同意していようが、どこかの国が降伏を望んだ途端に、多分それらは修正あるいは変更されるだろう。
スターリンはローズヴェルトの決定を理解した。そして一九四四年六月十日、ハリマン大使に対し外交的に自分から次のように伝えた--「ドイツの降伏に関する限り、不一致はない」。
ローズヴェルトは一九四四年六月に、衛星諸国に適用する場合にはこの政策を手直しすることに同意した。スターリンとモロトフが、衛星諸国の降伏を促す上での無条件降伏の宣伝的側面を過小評価したので、ローズヴェルトは〝無条件降伏〟の用語を衛星諸国に関係する宣伝情報から省いてもいいと同意した。一般的に言って、衛星諸国の降伏条件となるのは、ドイツと手を切り、赤軍を含む連合国軍と共に戦い、ソ連に損害賠償を支払い、ソヴィエトと連合国の捕虜を送還することだったのである。
ローズヴェルトの無条件降伏政策は、ドイツ人の間に大きな不安を引き起こし、戦争を長引かせるのではないか、と考える人たちもいた。多分、これは実際に戦争を長引かせた。ローズヴェルトはその可能性があることに気づいていた。彼がそれを堅持すべき原則と考えたのは、それが将来の戦争を抑止するからだった。
「一部の立派な、高潔な人たちの間には無条件降伏についてかなりの不満があった。もしわれわれが無条件降伏の用語を変えたなら、ドイツはもっと早く降伏するかもしれないのに、とか……それはあまりにも強硬で過酷すぎる、とか」と、口ーズヴェルトは一九四四年にホノルルである記者に語った。
「無条件降伏はまだ生きているのか?」と記者が尋ねた。
「そうだ。事実上すべてのドイツ人は前の大戦で降伏したことを否定する。だが今回はそのことを思い知ることになる」とローズヴェルトは答えた。
無条件降伏の原則は、ローズヴェルトの世界構想のもう一つの側面だった。これもまた一連の問題を解決した。きわめて重要なのは、無条件降伏が講和会議を片づけたことである。そういうものは必要なかったからだ。これはヴェルサイユの悪夢に常につきまとわれていたローズヴェルトにとって大きなプラスだった。交渉による講和は一切なくなるのである。講和会議がなければ、彼はコントロールする立場にとどまれるだろう。条件は各枢軸国が降伏した時点のその場その場の基盤にもとづいて決定することができるだろう。
これはワシントンでは人気のある構想だった。一九四二年五月下旬、ハルと口ーズヴェルト両名の友人であるノーマン・デイヴィスが主宰する国務省の有力な小委員会が大統領に次のように勧告した。「連合国の勝利が決定的であるとの前提に立ち、敵国からは(恐らくイタリアを除いて)停戦よりもむしろ無条件降伏が追求されるべきである」。
十二月末、統合参謀本部は意見を一本化し、大統領にすべての枢軸国にそれを適用するように勧告した--「統合参謀本部の代表たちは、ドイツ、日本、イタリアと衛星諸国に対して、彼らが自国軍隊の〝無条件降伏〟を申し出るまでいかなる停戦も与えないことを勧告する」と。一月上旬、ローズヴェルトは統合参謀本部に対し、無条件降伏はこれ以後、連合国の基本政策になるだろうと語った。ローズヴェルトは方針を採用したものの、この政策の説明、定義、あるいは緩和を拒否した。彼がハルにメモで助言したところでは、定義は無駄になるだろう。なぜなら「われわれが合意してまとめたどんな言葉も、どこかの国が降伏を申し出たら、恐らくその途端に修正あるいは変更しなければならなくなる」からだ。一九四二年十二月上旬にマッケンジー・キングから、チャーチルは講和会議を期待していると知って、ローズヴェルトは両手で顔を覆い、頭を少し振ってから「言った……何か講和会議があるなんて自分は知らない。自分が知っている限りでは、あるのは無条件降伏だ、と」。彼は付け加えた。「諸問題を処理する一連の小さな会議は適宜開かれるかもしれないが、それはヴェルサイユ会議のような性質を帯びたものを避けるためだ」。
無条件降伏はまた、ローズヴェルトの別の意図とも一致していた。それは、この戦後、第一次世界大戦の場合とは反対に、ドイツ国民にドイツ軍の敗北を確実に思い知らせたいということである。そして、ローレンス・リース著『ナチス--歴史からの警告』に引用されているドイツ軍兵士ヘルベルト・リヒターのごとき言辞を、確実にドイツの誰もが言えないようにすることである。リヒターは言っている--「われわれは負けたとは全然感じなかった。前線部隊は自分たちが打ち破られたとは感じていなかった。そしてわれわれはなぜこんなにすぐに停戦となるのか、われわれはまだ敵の領内にいるのに、なぜこんなに慌てて陣地をすべて明け渡さねばならないのか疑問に思っていた」。
ローズヴェルトが無条件降伏政策を発表したのは、一九四三年一月二十四日、カサブランカで行なわれたチャーチル同席の記者会見でのことだった。チャーチルによれば、政策にはすでに実質上同意していたとはいえ、この発表は彼にとって不意打ちだった。その時点では、ドイツ国防軍の猛攻を受けているスターリンに、米英が戦争をとことん戦い抜こうとしていることをローズヴェルトが再保証したかったのだろうと考えられた。無条件降伏は米国で人気があった。世論調査では八一パーセントがこれを支持した。ほとんどの人がドイツはもう一度戦争を起こすかもしれないと考えていたのである。
ローズヴェルトは常に自分のヒーロー、ユリシーズ・S・グラント将軍をこの政策を鼓舞する源泉として引き合いに出した--この政策、すなわち寛大ではあるが、敵に無条件降伏を強制する政策である。ヴェルサイユはないだろう。決定を下すのは勝利者だけなのだ。一八六二年二月十六日のドネルソン砦の占拠後、南軍司令官サイモン・バックナー将軍に対するグランドの言葉は、「無条件および即時降伏以外の条件は一切受け入れられない」だった。そしてグランドは戦争中この政策にこだわり、リー将軍にこれが適用されることを確実にした。ローズヴェルトは物語をもっと都合よくするためにこれを潤色することもいとわなかった。そして時間の経過とともにグラントに熱狂的になった。以下は、ローズヴェルトがハルに行なった、グランドの無条件降伏政策の説明ぶりである--「グラントに降伏したリーの話は、最良の実例だ。リーはあらゆる種類の条件について話し合いたいと考えていた。グラントはリーに、自分の公平さを信頼しなければならないと言った。そこで、リーは降伏した。直ちにリーは南軍士官たちの馬の問題を持ち出した。これらの馬は大抵の場合、士官たち個人の所有物だった。そしてグランドは、春の耕作のために士官たちは馬を自分の家に連れて帰るべきだとリーに言うことで、この問題を解決した」。
多くの人は、ローズヴェルトが求めているのは報復的な講和であるという不安を抱いていた。それに対処する必要から、ローズヴェルトは自分の考えをより十分に説明するため、二月十二日にラジオに出演した。「自己の犯罪の結果から逃れようとするこれらのパニック的な試みに対して、われわれは言う(すべての連合国は言う)--枢軸国政府および枢軸党派とわれわれが取り上げる唯一の条件はカサブランカで宣言された条件、すなわち〝無条件降伏〟である。われわれの非妥協的な政策が意図するのは枢軸諸国の一般人に対する仕打ちではない。しかし彼らの犯罪的な、野蛮な指導者たちに対しては、処罰と報復を十分に与えるつもりである」。
一九四三年三月、大統領の書斎で行なわれたイーデン、ハル、ホプキンスと昼食をとりながらの会議で、ローズヴェルトはこの政策を繰り返した。ホプキンスのノートによると、「彼が望んだのは敵の崩壊後の交渉による停戦ではない。われわれは敵の降伏後に何であれ、敵にいかなる言質も与えることなく全面的降伏を要求すべきだということだった」。
戦争が進行するにつれ、ローズヴェルトはハルやその他の人たちから無条件降伏に関する姿勢を和らげるべきだという圧力を受けた。その論拠は、声明の過酷な本質が敵の衛星諸国を戦い続けさせるというものだった。スターリンがモロトフをつうじて伝えたのもそういう意見だった。そしてスターリンはハリマン大使に無条件降伏の明確な定義を求めた--説明不足は人々の不安を刺激し、衛星諸国の降伏を妨げるということを前提にして。ローズヴェルトは用語の定義を拒否した。ハルが説得を試みたとき、ローズヴェルトは一九四四年一月十七日に返信の手紙でこう書いた--
私は率直に言って、〝無条件降伏〟の用語を話し合いで定義するという考えを好まない。ソ連、英国、米国は、互いに協議することなくいかなる講和も結ばないことで合意している。そういう意味で、それぞれのケースはそれ自身の利点に依拠すべきだと思う。
ドイツ国民は私がクリスマスイヴ談話で話したことを耳にしているはずだ--つまり、われわれにはドイツ国民を粉砕する考えはないということだ……もちろん、彼らが現在の征服哲学と絶縁することを条件にしてだが・・・…たとえどのような言葉でわれわれが同意していようが、どこかの国が降伏を望んだ途端に、多分それらは修正あるいは変更されるだろう。
スターリンはローズヴェルトの決定を理解した。そして一九四四年六月十日、ハリマン大使に対し外交的に自分から次のように伝えた--「ドイツの降伏に関する限り、不一致はない」。
ローズヴェルトは一九四四年六月に、衛星諸国に適用する場合にはこの政策を手直しすることに同意した。スターリンとモロトフが、衛星諸国の降伏を促す上での無条件降伏の宣伝的側面を過小評価したので、ローズヴェルトは〝無条件降伏〟の用語を衛星諸国に関係する宣伝情報から省いてもいいと同意した。一般的に言って、衛星諸国の降伏条件となるのは、ドイツと手を切り、赤軍を含む連合国軍と共に戦い、ソ連に損害賠償を支払い、ソヴィエトと連合国の捕虜を送還することだったのである。
ローズヴェルトの無条件降伏政策は、ドイツ人の間に大きな不安を引き起こし、戦争を長引かせるのではないか、と考える人たちもいた。多分、これは実際に戦争を長引かせた。ローズヴェルトはその可能性があることに気づいていた。彼がそれを堅持すべき原則と考えたのは、それが将来の戦争を抑止するからだった。
「一部の立派な、高潔な人たちの間には無条件降伏についてかなりの不満があった。もしわれわれが無条件降伏の用語を変えたなら、ドイツはもっと早く降伏するかもしれないのに、とか……それはあまりにも強硬で過酷すぎる、とか」と、口ーズヴェルトは一九四四年にホノルルである記者に語った。
「無条件降伏はまだ生きているのか?」と記者が尋ねた。
「そうだ。事実上すべてのドイツ人は前の大戦で降伏したことを否定する。だが今回はそのことを思い知ることになる」とローズヴェルトは答えた。
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