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ナポレオン・ボナバルト--時代のプロメテウス、そして交響曲作曲家ベートーベン

『ベートーヴェンの交響曲』より

ベートーヴェンがフランス革命の正真正銘の信奉者であったかどうかは、我々には分からない。だが、少なくとも遠くから共感を抱いていたことは確かだ。「善良な人間である限り、この世の偉大な者たちを私は愛する。--中略--悪しき君主を私は盗賊以上に嫌悪する」というのが、彼のボンの作曲教師ネーフェのモットーであった。ベートーヴェン自身、一七九三年というきわめて重要な年に、ニュルンペルクのテオドーラ・フォッケのサイン帳にこう記している。「何よりも自由を愛すること。真実を(たとえ王位に刃向かうことになろうとも)決して放棄してはならない」。

一八一二年になってもなお、後期の交響曲第九番の最初のスケッチに次のような記述がある。「王侯のようにみすぼらしい楽曲は物乞い同然である」。これは、シラーの『歓喜に寄せて』の初版にある「物乞いたちは王侯の兄弟となる」というフレーズを先鋭化したものである。これは、フランス革命に対するベートーヴェンの理想がーあくまで理想である点を強調しておく--、このときまだ忘れられていなかったことを意味している。

一七九四年の夏、彼はウィーンからボンの友人ジムロックに宛てて綴っている。「革命を起こさなければならないと人は言う。しかし、黒ビールと腸詰めが手に入る限りは、オーストリア人は革命を起こすまい」。この記述から、彼がジャコバン派の動きに密かに共感を覚えていたことがうかがえる。どのみち、書簡検閲の圧力ゆえに、これ以上明確には表現できなかったのである。

いずれにせよ、その前年にフランス軍の指揮官に、そして一七九九年十一月九日のクーデターによって第一統領になり、これにより十年にわたってフランスの専制君主となったナポレオンーボナパルトの台頭とともに、ベートーヴェンの人生の政治的側面において新たな一章が始まった。しかし、フランス革命の灰のなかから立ち上がったこのコルシカ人を不死鳥のごとく捉えたのは、ベートーヴェンだけではなかった。むしろ、その姿はさまざまな絵画や文学で取り上げられた。後者において彼を称揚した人物のなかにはゲーテもいた。彼はシラーとは異なりフランス革命を敵視していたが、疾風怒涛の時代の詩『プロメテウス』で讃美したあのプロメテウス像をナポレオンのなかに見出していた。フリードリヒ・ニーチェすらも、『偶像の黄昏』に次のように書いている。「ゲーテにとって、ナポレオンと呼ばれたあの『最も現実的なもの ens realismum』を超える体験はなかった』。さらに、[『善悪の彼岸』には]こうも書いている。「『ファウスト』を、そして『人間』という問題すべてを考え直すきっかけとなった出来事は、ナポレオンの出現だったのである」。

「すべての偉大な創造物と同様に、芸術世界において目指すべきは、自由と前進なのです」。このベートーヴェンの告白は一八一九年にルドルフ大公に宛てたものであるが、なおもナポレオン時代の精神に根ざしているのは明らかだろう。ベートーヴェンには、ゲーテにとってのリーマー、フォン・ミュラー、エッカーマンのような、一子」句をしっかりと捉えてくれる、信頼のおける話し相手はいなかったが、かろうじて筆談帳があった。そのなかには、一八二○年一月付けで--これは先述の手紙の数ヶ月後にあたる--、ナポレオンに関する次のような記述がある。確かにナポレオンは己の不遜によって敗北を喫したが、「芸術と学問に対する感受性を備え、暗闇を嫌った。彼はドイツ人をもっと評価すべきで、ドイツ人の権利を守るべきだった。[中略]しかし、至るところで彼は封建制を突き崩し、権利と法の守護者であった」。

この文を読めば、すでに一七九八年の春にベートーヴェンがこのコルシカ人と最初の接点を得たであろうことも驚くにはあたらない。伝承によれば、ベートーヴェンは当時、フランスの将軍ベルナドットのウィーンの宿舎に出入りしていた。ペルナドットはカンポ・フィルミオ講和条約の後、勝利したフランス人の召喚を行うようナポレオンから命じられていた人物である。とあるフランス劇場の柿落しが行われた際に、ベルナドットはベートーヴェンのなかに(ナポレオン》交響曲の構想を芽生えさせ、さらにヴァイオリン奏者ロドルフ・クロイツェルを仲介者として、ゴセック、カテル、ケルビーニの作曲したフランス革命の新たな音楽をベートーヴェンに教えたと言われている。

これが事実なのかは分からない。惑が少なくとも、一七九九年から一八〇二年の間にベートーヴェンが作曲した最初の二つの交響曲に、フランス革命の音楽の響きが聞き取れるのは否定できない。第一番の第一楽章に現れる主要主題は、新たに設立されたパリ音楽院の教授であったロドルフ・クロイツェルが、一七九四年のマラトンの日の記念祝典にちなんで作曲した序曲の主題をはっきりと想起させる。この祭典は、第一次対仏大同盟との戦争期間中、パリの人々の戦意高揚を目的として開催されたのだった。

このことを、ベートーヴェンが単にパリの流行に熱中したに過ぎないと考えたところで、交響曲第一番と第二番の間に上演されたバレエ作品(プロメテウスの創造物》作品四三を視野に入れれば、そうした考えはとたんに揺らぐこととなる。この作品は、ベートーヴェンがバレエ振付師のサルヴァトーレ・ヴィガノと共同で担当したもので、ウィーンの宮廷劇場で二十回以上も上演された。「英雄的で寓意的なバレエ」の筋立ての草稿は神話的叙事詩『イル・プロメテオ』を下敷きにしており、その最初の歌は、イタリアの詩人ヴィンチェンツォーモンティが、ナポレオンの軍事的政治的な功績に感銘を受けて一七九七年に綴ったものだった。モンティがナポレオンヘの献辞のなかで彼をプロメテウスと明らかに同一視していることからも、両者の類似性は疑いようがないだろう。

さらに、ベートーヴェンの音楽には公式の革命歌《国の防衛に努めよ》の響きがはっきりと認められることを考えると、この分野に詳しいペーター・シュロイニングの指摘は的を射ているのかもしれない。「人はこのバレエのなかに、神話的な人類育成を成し遂げた同時代人ボナパルトヘの敬意を感得するに違いない。しかしそれだけでなく、封建主義の支配の下であえぐ民衆を解放せよという、フランスやその他のヨーロッパ諸国の統領に対する、神話という形をとった呼びかけをも感じ取るだろう。これは当時の進歩的な人々の誰もが抱いていた願望だったのである」。

交響曲第三番《英雄》で、ベートーヴェンは以前バレエ作品で扱ったプロメテウス/ナポレオンというテーマを、今度は交響曲の分野で取り上げた。この最終楽章の主要主題には、バレエ音楽のフィナーレと同一の主題が使われている。それだけではない。ベートーヴェンはこの交響曲の出だしで、フィナーレでのプロメテウス礼賛を予感させており、冒頭からこのフィナーレを目指しているのである。プロメテウスと第三番の相似性が内容的に無関係ではなく、本来の主題と結び付いていることは、ベートーヴェンが交響曲第三番をナポレオンにちなんで名づけるか、あるいは彼に献呈しようと考えていた事実が証明している。一八○四年八月の作品の浄書総譜の表紙には、後に作曲家自身がかき消すことになる「ボナパルトと題して」の文字が、そして「ボナパルトに捧ぐ」という自筆による鉛筆の覚書が確認できる。

崇拝する英雄が一八〇四年十二月二日にパリで自ら皇帝として戴冠したとの知らせを受けて、ベートーヴェンは--彼の教え子だったフェルディナント・リースの回想によれば--現在は所在不明の自筆スコアの、英雄を讃える献呈が書かれた表紙とびらを引き裂き、こう叫んだと言われる。「あの男もまた、他の人間と変わらぬ凡人にすぎなかった! こうして自己の野心に溺れ、あらゆる人権を踏みにじることになるのだろう」。

事実に鑑みれば、これには信憑性がある。だが真相はもっと無味乾燥なものだった可能性もある。ベートーヴェンは《英雄》を後援者であるロプコヴィッツ侯爵にーすなわちオーストリアの高位の貴族を代表する人物に--七百グルデンで売却し、さらに八十ドゥカーテン金貨を得て献呈しているため、ナポレオンに向けた文言を公然と付すことはできなくなったのである。しかし、たとえ皇帝即位をきっかけに、ベートーヴェンがナポレオンから離れていったのだとしても、それで「ナポレオン」というテーマに片を付けたわけではなかった。

なぜなら、彼は自分の音楽が当時のパリで高い評判を得ていたことを、もちろん見逃してはいなかったからである。そして、一八○四年に何度も決然と表明していた計画、すなわち、かの地へ赴き、後に《フィデリオ》と名づけられることになるオペラ《レオノーレ》を上演する計画が、まだそこにあった。そのため彼は一八○九年に--つまり、ゲーテがナポレオンに謁見してまだそれほど経たないうちに--、訪ねてきたフランス人のド・トレモン男爵に、自分がパリに赴いたら皇帝は迎え入れてくれるかどうかと尋ねている。それだけでなく、ベートーヴェンはその頃、ナポレオンの弟ジェローム王のカッセルの宮廷で、宮廷楽長の役職を引き受けることを真剣に思案していた。そしてその後まもなく、ナポレオンに(長調ミサを献呈すべきかどうか考えを巡らせた。その後の創作にも、当時優勢であったナポレオン崇拝と結び付く要素が色濃く表れている。つまり、最初の三つの交響曲だけでなく、第五番と第六番、オペラ《フィデリオ)の序曲や、その他の多くの箇所に聞き取れるのだ。

ナポレオンが自ら戴冠したことは彼を幻滅させたが、それでもゲーテ同様にあの偉大なるコルシカ人と対等な立場で交流したいという根本的な願望を揺るがせはしなかったようだ。このことは、イェーナとアウエルシュテットでのナポレオンの勝利の後に、ベートーヴェンがヴァイオリン奏者のクルンプホルツに言ったとされる言葉に象徴されている。「残念だ! 私が音響の技術と同じくらいに戦争の技術を心得ていたなら、彼を打ち負かすことができるだろうに!」

単純化して言えば、自らの創作のいわゆる「英雄様式期」のベートーヅェンは、ナポレオンを国家の芸術家画家を成す芸術家一と見なし、彼が自分を国家の芸術家[国家を代表する芸術家]にしてくれることを願っていたのだろう。このような考えのもと、ベートーヴェンは--同い年のヘルダーリンと同様に--、政治家が芸術家であり哲学者でもあった、あるいは芸術家や哲学者によって高き目標へと導かれていた、古代の理想像を取り上げたのである。

このより高き目標に至る手がかりを、ベートーヴェンは特にプロメテウスのなかに見出した。プロメテウスとは、まだ「人類」という名に値しないおぼろげな存在に光と火をもたらした神話上の人物像である。言うまでもなく、こうした「啓蒙」は数少ない偉人にしか果たすことはできない。その意味で、ベートーヴェンは現世的な政治家としてではなく、自らの民衆と全民衆をプロメテウス的行為へと導き鼓舞する、天才的な同時代人としてのナポレオンを、光輝に満ちた人物として捉えていた。ベートーヴェンは芸術という領域で、この偉大な同志に匹敵する行為を成し遂げようとしたのだ。彼を音楽界のナポレオンと見なしていたのは彼自身だけではなかった。他の人々の目にもそのように映らなかったならば、ある訪問者が筆談帳にこう書き込むこともなかっただろう。「行動とは、あなたにとって作曲することではないのですか?」この見ず知らずの客が見たベートーヴェンは音楽という領域で、当時の時代思潮を、つまり、ベートーヴェンの手紙のなかの表現を用いるなら、「自由」と「前進」を実現したのである。
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