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自由に対する罪 略取・誘拐罪

『たのしい刑法Ⅱ各論』より 自由に対する罪 脅迫・強要罪 逮捕・監禁罪 略取・誘拐罪 強制性交・強制わいせつ罪 住居侵入罪

(1)略取・誘拐罪とは

 略取・誘拐罪(224条以下)は人身の自由に対する罪である。保護法益は、逮捕・監禁罪が保護する移動の自由と重なるところもあるが、それよりも広く、人が現に保護されている状態それ自体も含む。行為態様として、暴行・脅迫等により被害者の意思を制圧する場合が「略取」、偽計や誘惑等による場合が「誘拐」といわれる。本罪を規定している刑法第33章「略取、誘拐及び人身売買の罪」は、人身売買罪を設けた2005年の刑法改正によって大幅に変更されたほか、2017年の刑法改正では親告罪規定が変更された。これらの罪(224条から228条まで)についても、逮捕・監禁罪と同じく、国民の国外犯および国民に対する国外犯が処罰される(3条11号、3条の2第5号)。

 (a)類型

  略取・誘拐は一般的に処罰されているわけではない。処罰の類型としては、未成年者略取・誘拐罪(224条)、営利目的等略取・誘拐罪(225条)、身代金目的略取・誘拐罪(225条の2)、所在国外移送目的略取・誘拐罪(226条)がある。さらに、人身売買罪(226条の2)、被略取者等所在国外移送罪(226条の3)、被略取者引渡し等の罪(227条)も処罰される。人身売買罪は、アジア諸国などから連れて来られた女性が風俗産業などで多数不法就労させられていたにもかかわらず、取締りが十分でなかったことから、国際的な批判もあって、国際条約への対応として設けられたものである。同じ機会に、従来の国外移送目的略取・誘拐罪は「所在国外」移送目的略取・誘拐罪に改められた。

 (b)犯罪の終了時期

  略取・誘拐罪は、逮捕・監禁罪の前に行われる場合が多い。逮捕・監禁罪は継続犯だとされるが、本罪が状態犯なのか継続犯なのかについて争いがある。判例は必ずしも明確ではないが、両者の罪が併合罪になるとした例があり、状態犯説に立っているようである。この立場からは、事後的に関与した者には略取・誘拐罪の共犯は成立せず、被略取者引渡し等の罪(227条)のみが成立すること、また、公訴時効の起算点は略取・誘拐が行われた時点となることが導かれる。

(2)未成年者略取・誘拐罪

 未成年者を略取し、または誘拐した者は、3月以上7年以下の懲役に処される。未成年者とは20歳未満の者をいうが、民法753条により婚姻によって成年に達したものとみなされる場合を除く見解もある。

 (a)保護法益

  未成年者には20歳に近い者も含まれることから、未成年者が自分の意思で移動している場合に、保護者の「監護権」に対する侵害を根拠として犯罪の成立を認めることができるかどうかが問題となる。民法820条は、親権の内容として、監護・教育権を定めており、判例は伝統的に、監護権を中心として本罪の保護法益を理解してきた。たとえば、17歳の少女を連れ出した事案で、「監督権を侵害」しかことにより犯罪が成立するとしている。また、監護権者は親告罪における告訴権者であることが認められている。

  これに対し、近年の学説では、監護権とともに、あるいは監護権に代えて、未成年者の自由もしくは安全またはその両方が保護法益だとする立場が有力になっている。監護権が独立の保護法益でないとすれば、成年に近い者が自己の意思で移動した場合には犯罪の成立を否定することができる。しかし、子どもが欲しいとの動機で赤の他人が乳児を奪取したような場合には、生命・身体に対する危険がなくとも犯罪の成立が認められるべきであるから、保護法益を未成年者の「安全」のみに限定することはできない。保護されている状態としての「自由」を保護法益として考えるべきであろう(なお、未成年者自身のみが被害者であるとしても、法定代理人は告訴権を有する)。

 (b)親権者による子の奪取

  保護法益にも関連して近年問題化しているのが、親等の親族による子の連れ去りである。最高裁は、母親に養育され入院中であった2歳の女児を、別居していた父親がオランダに出国させる目的で奪取した事案において、国外移送(現在は所在国外移送)目的略取罪の成立を認めた。また、母親に養育されていた2歳の男児を、保育園からの帰宅中に、離婚係争中で別居中の父親が連れ去った事案でも、未成年者略取罪が成立するとされている。後者の決定には、情愛に基づく行為は子の安全を害さないし、両親は親権者として対等な立場にあるとする反対意見も付されている。子の養育権は最終的には家庭裁判所によって判断される問題であり、決着前に親権者の一方から他方へと子を移動させる行為を刑法上どのように評価すべきかは、民事と刑事との関係をどのように調整するかの問題を含んでいる

(3)営利目的等略取・誘拐罪

 営利、わいせつ、結婚または生命もしくは身体に対する加害の目的での略取・誘拐は、1年以上10年以下の懲役で処罰される(225条)。未成年者が客体である場合も、より重い本罪が適用される。2005年の刑法改正で、目的要件の中に「生命若しくは身体に対する加害」が加えられた。

 本罪の目的が違法要素か責任要素かについては、特に「営利目的」をめぐって争いがある。違法要素だと理解した場合には、被害者を搾取してさらなる法益侵害を加える危険性を基礎づけるような目的に限定されることになるが、責任要素だとした場合には、利益を得る動機を広く一般に含ませうることになる。判例は、利益が「被誘拐者自身の負担によって得られるものに限ら」ないとし、後者の立場をとっている。しかし、「わいせつ、結婚又は生命若しくは身体に対する加害」は被害者自身の負担であることが明らかであるから、「営利」目的も同様に違法要素として限定的に理解することが可能だろう。これにあたらない行為については、人身売買罪で処罰しうる範囲が拡大したことにも留意すべきである。

(4)身代金目的略取・誘拐罪および身代金要求罪

 本罪は、この種の事件が多発したことから、1964年に設けられた。本罪の成立には、「近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じて」その財物を①交付させる目的で略取・誘拐をすること、②交付させること、または③要求することが必要である。法定刑は無期または3年以上の懲役である(225条の2)。交付の対象が「財物」に限定されていることに注意を要する。

 (a)安否を憂慮する者

  どこまでの人が「近親者その他」「安否を憂慮する者」にあたるかは争われている。婚約者などが該当するとすることには問題がないと考えられるが、他方、およそ誰かが誘拐されていれば、誰でも安否を気づかうのではないかともいえる。最高裁は、銀行の社長を誘拐し、取締役に身代金を要求した場合でも「安否を憂慮する者」の要件にあてはまるとしているが、「近親者その他」と同等の関係が必要ではないかとの批判もある。

 (b)予備と自首減免

  身代金目的略取・誘拐罪は未遂も可罰的である(228条)。228条の3では、身代金目的略取等予備罪と、自首による刑の必要的減免とが規定されている。中止犯と異なり、実行の着手前に関するものである。

(5)人身売買罪

 2005年に創設され、行為類型によって刑の程度に差が設けられている。人を買い受けた者は、3月以上5年以下の懲役に処する(226条の2第1項)。未成年者が客体の場合、上限が7年に加重される(2項)。営利、わいせつ、結婚または生命もしくは身体に対する加害の目的の場合は刑が1年以上10年以下の懲役である(3項)。人を売り渡した者も3項と同じ法定刑で処罰される(4項)。所在国外移送目的売買罪は2年以上の有期懲役で処罰される(5項)。本罪の創設とともに他の条文も改正され、「国外移送」が「所在国外移送」へと改められたことにより、外国から日本への移送も国外移送と同様に扱われることになった。また、目的要件の中に「生命若しくは身体に対する加害」が加えられたのは、臓器の取得を想定したものだといわれる。なお、児童買春・児童ポルノ処罰法に加重類型がある。

(6)解放減軽・親告罪

 身代金目的略取・誘拐罪等に関して、公訴が提起される前に被害者を安全な場所に解放したときは、刑の必要的減軽を受ける(228条の2)。中止犯に類似するが、既遂に達した後でも被害者の保護のために政策的に優遇することを定めたものである。立法事実として、被害者が殺害されるケースの多かったことが背景にある。

 本章の一部の罪は親告罪である(229条)。「未成年者の両親、後見人等に代り事実上の監護権を有する監督者は、告訴権を有する」とされる。監護権を保護法益としない立場からは、監護権者は被害者たる未成年者の法定代理人として告訴権をもつとされる場合が多いことになろう(刑訴230条・231条参照)。
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資源の有効活用を妨げている要因 経済政策の失敗 コーヒー豆の場合

『有資源国の経済学』より 資源の有効活用を妨げている要因とは何か 理論的考察 経験的考察

資源を有効活用できなかった理由としてレンティア国家におけるレント追求活動を集中的に取り上げてきたが、鉱産物資源国と農産物資源国では鉱産物資源国のレントの方が大きくなりがちなため、そこでの分析はどうしても鉱産物資源国が中心となる傾向が強かった。他方、農産物資源国においても資源を有効活用できなかった事例は多く存在するが、その失敗の多くはレントよりもむしろ経済政策の失敗によるところが大きい。そこで、以下では経済政策の失敗がもたらす資源活用の失敗例をコーヒー豆を例に取りながら説明していくこととした。

以下ではタンザにアを例にとりながら、コーヒー豆の生産について如何なる政策的失敗があったかを見ていくこととした。

独立後のタンザュアは大別してウジャマー社会主義時代と構造調整時代という2つの時代を経験した。「ウジャマー」とは家族的連帯感を指す言葉で、この「ウジャマー」を冠することでタンザュアの現地事情に根ざした社会主義社会の構築を目指したが、目標達成のために農業部門とりわけコーヒー産業で実施した政策が国家による流通部門の独占である。そこで、この国家による流通部門の独占がコーヒー産業に如何なる影響を及ぼしたかをまず考察することとする。

タンザェア産のコーヒー豆と言えば、日本では「キリマンジャロ」というブランド名で知られているが、この「キリマンジャロ」は日本では「ブルーマウンテン」、「モカ」と並ぶ三大高級ブランドの1つである。この「キリマンジャロ」の起源は1901年に遡ることができる。というのは、この年にフランスのカトリック伝道団がアフリカ最高峰キリマンジャロ山南麓にある伝道団が運営する複数の小学校でアラビカ種のコーヒーの木の栽培を始めたからである。当時のタンザュアはドイツの植民地時代であるが、ドイツは現地小農民にコーヒー生産を奨励した。第一次大戦の敗戦によってタンザニアはイギリスの植民地となるが、イギリスもドイツの政策を継承し、現地小農民にコーヒー生産を奨励した。そして、1942年以降、コーヒーの国際価格の上昇傾向の中で現地小農民によるコーヒー生産が自主的に急拡大していく。

第二次大戦後の1947年からイギリスは5年間の長期契約制度を導入するとともに、ニューヨーク市場における南米コロンビア産豆の現物価格を基準として1ポンド当たり125~150ポンドの範囲で変動させる価格設定方式を採用した。第二次大戦後、需要面では需要の回復と急増が影響し、また、供給面では世界最大の産地であるブラジルにおける霜害による生産減が影響し、コーヒー豆の国際価格が上昇したが、この国際価格上昇が1950年代にはタンザュアにおける現地小農民によるコーヒー木の植え付け面積の拡大を惹起し、それが1960年代前半の大増産に結びついた。ところが、ニエレレ政権がウジャマー社会主義政策を実施した結果、コーヒー豆の生産はむしろ低下してしまったが、その理由として指摘されるのが国家による流通独占の弊害である。

一般的に言えば、輸出用商品作物の価格は変動しやすく、第10章の図10-9が示す通り、コーヒー豆の価格もその例外ではない。ところが、コーヒー豆の場合、コーヒーの木から摘み取られた果実は生産国で加工されて生豆となり、その生豆が貿易業者によって消費国へ輸出され、消費国においては商社か問屋を経由して焙煎業者の手に渡って焙煎豆となり、その焙煎豆が最終的に消費者の手に渡るという具合に、流通経路がやたらと長いだけに、生産者に不利な価格が設定されやすい。というのは、価格は流通段階ごとに決まっていくが、その決め方は、生産者が流通業者に売り渡す段階で決まった価格に順次利益が上乗せされて、最終的に消費者への売り渡し価格が決まるというやり方ではなく、むしろ消費国における需給関係によって消費者への売り渡し価格が先に決まって、そこから順次仲介業者の利益が差し引かれながら、最終的に生産者の売り渡し価格が決まるというやり方をとるからである。ちなみに、コーヒー豆の場合、スイスのネスレなどの多国籍企業の4社が世界市場を支配していて、価格の97~99%が多国籍企業、流通業者、焙煎業者、小売業者の取り分になるから、生産国の農家の取り分は価格のわずか1~3%ということになる46.これは大いなる矛盾である。というのは、消費者がコーヒーに認める価値は香味によって決まるが、その香味は一般的に7割が生豆、2割が焙煎、1割が抽出によって引き出されるからである。つまり、生産国で7割の使用価値が付加されるにもかかわらず、生産国の取り分は前述の通り全体の1~3%にすぎないのである。

もちろん、生産国側もこうした状況に手を洪いていたばかりではなく、1963年末には生産国と輸入国との経済力の格差による不公平を是正し、価格や供給の安定を図る目的で1963年末にはIC0も設立したが、ICOをもってしても生産者の売り渡し価格を高値安定に導くことはできなかった。加えて、タンザェアの場合は国家による流通独占が生産者にとっては不利に作用した。というのは、価格の決定権をもたない生産国の当局が流通を独占しても生産者に有利な価格を設定することはできないからである。その結果、対外的には、当局は強い交渉力を発揮して高めの輸出価格を勝ち取る存在というよりはむしろ国外で決まった輸出価格を甘受するだけの存在となったし、国内的には、当局自身が組織の存続を維持するためにも、それなりのマージンを中間搾取する必要があったから、生産者からの買取価格もそのマージンを差し引いた分だけ低めに設定せざるを得ないから、生産者の利益もその分圧縮される。他方、当局には生産者が被った不利益を補助金などで補填するだけの財政余力もなかったから、農家の生産意欲は減退し、実際の生産量も徐々に低下していった。なお、こうした生産減は単にコーヒー豆にとどまらず、他の商品作物、食糧作物にも波及し、タンザニア経済は大きく落ち込んだので、ニエレレはその責任をとって、1985年に大統領を辞任した。

ニエレレ退陣後、タンザェアは180度方針転換して世界銀行やIMFの主張する構造調整政策の名の下に自由化政策に踏み切り、コーヒー産業においても国家による流通独占制度は廃止され、民間流通業者が村落レペルでのコーヒー豆買い付けに参入できるようになった。この結果として、生産者は生産物の半分を従来通り当局公認の組合に売り渡し、残り半分を民間業者に売り渡すようになったと言われているが、この民間業者参入という流通自由化後も、現実のコーヒー豆売り渡し価格は一向に改善しなかった。というのは、民閣買付業者はニューヨーク先物価格を基準に決定した上限価格から諸経費を差し引いた上に、今後の価格下落の可能性、流通過程における消耗、品質リスクといったいくっかの条件を加味して、低めの買取価格を設定するからである。これ以外にも自由化が生産者に不利に作用した面がある。その一例が自由化によって輸入に頼る肥料などの投入財価格が上昇したことであり、それが生産コスト増を惹起することによって農家経営はますます苦しくなってしまった。この結果を具体的数字で追跡すると、労働者1人当たり、労働日当たり・畑lha当たりで得られるコーヒー豆生産農家の実質所得は1985年には856シリングであったものが、1995年には554シリングに低下しているが、これは米やバナナという食糧作物を生産している農家の所得の方が高いことを意味している。これではコーヒー豆生産農家は子供の学費や家族の医療費なども満足に賄うことができないから、農家の生産意欲の減退になかなか歯止めがかからないというのが厳しい現実である。

結局、ウジャマー社会主義政策も構造調整政策もコーヒー生産農家にとってマイナスに作用する面が大きく、その結果として全輸出額に占めるコーヒー豆の割合は1976~1980年平均で30%余、1991~1995年平均で20%余、1996年で18.8%、1997年で16.4%という具合に大きく減少しているが、それでも依然として輸出品第1位の地位を守っているし、1991年時点で人口の7.1%を占める約178万人が直接的にコーヒー産業に従事している事実が示しているように、コーヒー産業はタンザニア経済に引き続き大きな貢献をしている。
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一神教の聖典と預言者

『世界は四大文明でできている』より

聖典

 一神教で重要なのは、神の言葉をまとめた聖典です。ユダヤ教の聖典は、タナハ。ヘブライ語で書いてあり、なかみは旧約聖書と一緒です。タナハは、一世紀に、ユダヤ教の学者たちが編纂しました。キリスト教はそれをそのまま、自分たちの聖書にして、旧約聖書とよんだのです。

 キリスト教の聖典は、聖書。旧約聖書と新約聖書からなる。新約聖書は、福音書/使徒言行録/書簡/黙示録、からなる。

 イスラム教の聖典は、クルアーン(コーラン)。ム(ンマドの受けた啓示をまとめたもの。クルアーンには、タナ(や福音書からの引用が多くあり、ユダヤ教、キリスト教の聖典を前提としています。

 ユダヤ教の聖典タナハは、ヘブライ語で書かれている。シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の中央に安置されていて、毎週、ヘブライ語の本文を朗読する。そのため、ユダヤ人はある程度、ヘブライ語を解することになります。

 キリスト教の聖典は、聖書。聖書は、翻訳しても聖書である。東方のギリシャ正教会はギリシャ語を、西方のカトリック教会はラテン語を、教会で礼拝に用いた。今日では、英語/フランス語/ドイツ語/ロシア語/……と、聖書は各国の言語に翻訳されている。

 イスラム教の聖典は、クルアーン。クルアーンは、アラビア語で書かれている。これを翻訳すると、神の言葉でなくなる。礼拝で用いることはできない。翻訳は、人間の解釈なので、神の言葉でなくなってしまうから、です。

 クルアーンの翻訳ができないことは、どのような効果があるのか。

 イスラム教は、アラビア語圏をはみ出して、トルコ語、ペルシャ語、中央アジア、インド、東南アジア、北アフリカ、の地域に拡大した。そうした社会では、一部の人びとが、アラビア語の読み書きを学習し、クルアーンを理解するようになる。そして、アラビア語でクルアーンを解釈できるその地域社会の知識人が、指導者として、人びとを指導するようになるのです。王侯貴族や大商人や軍人も、彼らを無視して勝手なまねはできない。

 この、指導的な知識人が、イラスム法学者です。法学者が、高い社会的地位をうる。

 もうひとつの効果は、人類規模のイスラム共同体(ウンマ)の、コミュニケーションを保証すること。イスラム教徒は、毎日そろってメッカの方向に礼拝する。そして、生涯にコ度はメッカを巡礼で訪れることを奨励される。

 メッカは毎年、世界各地からの巡礼者で溢れかえる。彼らは、母国語もまちまちだが、同じムスリムとして、アラビア語で交流できる。白分たちが一体であることを、体感できる。キリスト教にはない交流の仕組みですね。

 聖典は、このように重要な役割を果たす。聖典をもたらしたのは、預言者である。そこでつぎに、預言者について考えてみます。

預言者

 預言者は、一神教に不可欠な存在です。

 そして、一神教にしか、ありえない存在でもある。

 預言者という存在を理解すると、一神教の成り立ちが根本から理解できます。

 預言者。英語では、Prophet。その定義は、「神の言葉を聞く人」です。

 預言者は、人です。神でない。よって、預言者を拝んだり、あがめたりしてはならない。一神教は、ただひとりの神を拝み、それ以外のものを拝んではならないのですね。

 イスラム教は、この点を特に強調します。預言者ムハンマドの像をつくってはならない。ほかのどんな像もつくってはならない。像をつくると、つい拝みたくなるから。

 預言者は、神の言葉を聞く。そして、語る。預言者の伝える神の言葉が重要で、預言者は重要ではない。この考え方を、よく理解しなければならない。

 さて、どんな社会にも、霊と交流したり、将来を予見したりする、超能力をそなえた人びとがいるものです。彼らを、予言者(fortune teller)と総称します。

 予言者は、人びとの求めに応じて、必要なことがらを告げます。行方不明のヒツジは、どこそこにいますよ。亡くなった親は、幸せにしていますよ。いま戦争すれば、勝ちます。

 相手が満足することを告げるので、報酬がもらえる。つまり、職業にできる。そして、多くの報酬を払える王宮には、たいていこうした予言者が雇われています。

 預言者は、こうした予言者と違う。

 まず、相手が満足するどころか、耳に痛いことを言う。神の命令に背いていると、ひどい目にあいますよ。当然、報酬をもらえない。よって、職業にできない。しばしば、殺されてしまったりする。ムハンマドも殺されかけた。

 では、誰が預言者になるか。皆さん、預言者になりたいですか。

 なりたくてなるわけではないんですね。神に選ばれる。突然、神の声が聞こえてくる。特別な知識や、訓練や、社会的地位や資産は必要ない。預言者に選ばれるのは、危険で迷惑なことなのです。

 一神教の預言者の、社会的機能を確認しておきましょう。

 一神教は、唯一の神(以下、God)に、人びとが従うことである。

 Godに従うためには、Godが何を考えているか、知らなければならない。Godの意思する通りに考え、行動するのが、人びとのつとめだから。

 けれども、ふつうの人びとは、Godの意思を知ることができない。Godは、その辺りを歩いていない。連絡も取れないからです。

 ところが、なかには、神の声を聞くひとがいる。ふつうの人びととはちょっと変わっていて、アルバイトに羊飼いをしていたりする。モーセも、砂漠で羊を飼っていました。羊飼いは、非正規労働で、時間も不規則で、人里離れた場所にいる。神の声を聞きやすいのかもしれない。

 そんな彼が、神の声を聞きます。わたしはGodである。人びとのところに行き、Godがこれこれ、このように言っていると伝えなさい。神の命令なので否応なく、言われた通りに、人びとに伝えに行く。人びとが、それを信じれば、神を信じる一神教の集団のできあがりです。

 預言者は最初、口頭で、神の言葉を伝えていた。

 そのうち、預言者は、神の言葉を文字に書き記すようになる。預言者は、文字が書けるとは限りませんが、助手が預言を筆記する場合もある。そうやって、預言者ごとに、一人一冊、預言書がまとめられる。イザヤ書、エレミア書、エゼキエル書、みたいに。

 モーセは預言者として別格で、一人で五冊も預言書がある。旧約聖書の冒頭にある、モーセ五書。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、の五つの書物です。
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リーマン予想は無限次元空間を可能にした

平等は定義できるのか

 全員が別の目的を持つことが平等。其れが今まで考えが及ばなかったのか。三次元で考えるから出来なかった。無限次元で考えれば、それぞれが自分の三次元を持ちうる。目標が持てる。インバリアントが持てる。それでもって可能になる。それならば、バラバラではないか。というものに対しては、分化に対する統合の考えで、統合していく。素すれば、全てが平等の世界が出来る。

 この社会に生まれてきたのではなく、この社会を創り出す。その人がいなくなっても、その人の空間がなくなるだけ。全体の統合した世界は別の世界になっていくだけのこと。それを三次元から見ているから、お互いが干渉して、差別が起こる。独我論の世界はそんな世界でしょう。

足が浮腫んでいる

 足が浮腫んでいますね。動いていないから。今日は朝から動きましょう。今日は趣向を変えてthinkします。そのために歩きます

リーマン予想は無限次元空間を可能にした

 リーマン予想は無限次元空間を可能にしている。それぞれの人間、何百億人、過去にいた人間も含めて、3次元空間をあてがうことが出来る。

 イスラムにしてもキリスト教にしても、最後に清算することになる。そこではそれぞれが生きている。

 そのイメージを人間のなかに埋め込んである。それが無限次元のなかの3次元。そうでないと、ディスクリートであることが理解できない。それを感じたのは、組織でありながら、各人がヘッドを持つ世界、技術者の世界。そこでは自由であり、平等である。

 組織として目的を一つにしても、それぞれがバラバラで動くことは今までは出来なかった。コレを成り立たせるのが新しい数学。

家族は目的ではない

 その意味では家族は目的ではナイ。移動する単位かもしれないけど、ある時期を過ごさせるためのモノであって、決して、親は親ではない。池田晶子さんが言うとおりに。

数学の可能性は無限

 数学編を感想ではなくて、新しい数学のための手順にしましょう。数学は全てのインフラであることで証明できる。その数学をもとにした哲学。その結論である独我論。独我論が全てに成り立つこと。その上でディスクリートであることをいかに証明するか。

2.4「空間から宇宙」

 2.4の「空間から宇宙」の意味は、本来、宇宙から空間が創られて、そして、空間から宇宙を説明するという最低限のこと。つまり、諸々のことから位相空間が創られて、そして、位相空間で諸々のことを何となく定義する。

2.5「数学史」

 そう考えると2.5「数学史」は、無秩序の状態からハイアラキーの世界を経て、部分から全体の構成を作り出し、分化と統合の世界、最後に集合が点になるという世界。ディスクリートなものが空間になっていく。社会に適用するというのはフィードバックです。モデルを作って、それを数学者が拡大して、社会を再定義していく。

 そして、全体は数学で配置されたモノが意味を持つ。全体が一つのシナリオになっている。バラバラなところから構図を規定して、構造そのものを作り出す。数学が全てのインフラであることの証明。数学は全てであることを表わすのが位相空間。そして、部分から空間を作り、空間から宇宙に発展させる。

 数学史においてもトポロジーの世界に来て、新しい数学に向かう。そして、全体を定義する。新しい、生き生きした社会を創り出す.それは数学的な世界。

第3章「他者の世界」

 第3章は突き放して、社会編ではなく「他者の世界」にすると分かりやすい。

3.1「内からみる」

 3.1は内なる世界から他者の世界を観て、課題を見つけて、どうなっているかのモデルを作り出す。そこから二つのキーワード、循環していることと配置すること、を見出す。コレは従来のハイアラキーという単純な構造ではなく、配置されたところから循環していく、つまり、次元を超えていく。

 重要なのは端と中核の間の中間の存在。それを作り出すインフラがどうなっていくのか。彼らの新しい世界のベースを作り出す。これはあくまでも観察記です。

第4章「歴史編」

 第4章の歴史編はまだまだ未消化です。時空間としてみても、全体を表わすことが出来ていない。やっと、階層みたいなところに辿りついたが、配置に構図になっていない。階層を配置から見ていかないといけない。平等な関係として、集合を点としていく。それの新しいカタチ、トポロジーで言うところのカタチになっていく。

 4.7と4.8はもう少し工夫が必要です。

ブログの御音声入力検索

 未唯空間もスマホの音声入力で、自由に検索できるようになりました。ちなみに、「ムハンマド」は270件。

 蓄積したデータベースの検索はアイデア次第です。この検索機能がいいのはテキストの中身まで対象に出来ることです。

平日なのに、スタバが満杯

 月曜日なのに、この時間なのに、駅前のスタバは満席です。駅前の北側に新しいスタバを作って欲しい。

 ハイアラキーの世界での平等はあり得ない。なのに、アレは何を言っているのか。

 早く、結論付けて、次の世界に行かないと、間に合わない。そんな気がしている。
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