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ブラジル 専制的な家父長の人間関係

『ブラジルの人と社会』より 家族制度の展開 ⇒ 典型的家族制度がどのように変遷するのか

家父長制家族は、基本的には血族と姻族によって構成されていた。その中心的核は、家族の長、その妻、嫡子、孫から成っていた。この核の周辺に家父長制家族の補助的成員として親族、非嫡子あるいは家人の子ども、代父母、捨て子、友人、寄宿人、雇い人、奴隷がおり、家父長制家族は多様な構成員を集合させた拡大家族でもあった。さらに、この家父長的拡大家族の影響下に零細農ラブラドル、モラドル、ホセイロ、シチアンテ、自由労働者、移住者といった貧農が組み込まれるというかなり複雑な様相を呈する家族構造であった。

血のつながりも婚姻関係もないが、その他の社会的な関係によってつながっていた擬制親族をも含む家父長制拡大家族の家長は妻、子ども、その他の従者に対して絶対的な権威を行使して一族の財産の管理、増大を計り、家族の系図と名誉を保持することがその主要な役割であった。家長の権威は絶対的で、生殺与奪権さえ有していた。レイタンというペルナンブコのある家長は、ある日、自宅の裏庭にハンカチが翻っているのをみた。そのハンカチは娘が干したものであった。それがどこかのドン・ファンに対する娘からの合図であると確信したレイタンは、自分の名誉を汚すものだとして直ちに、ナイフを抜いて娘の胸を刺してしまった。

こうしたカザ・グランデ内の秩序は、基本的にはイベリア半島からもたらされた家父長制を基盤にしていた。しかし植民地のブラジルでは、植民地政府の権限が砂糖きび農園内に及ばず、白人女性が稀少であったために、カザ・グランデの家長の権力はさらに強化された。まさに、家長は法的にも精神的にもドンだったのである。

ブラジルの植民地時代で家族が政治、経済、社会の単位である以上、婚姻は重要な役割を担うものであった。すなわち、それは財産の分散を防ぎ、時には増大につながり、一族の成員を増やすことで政治力及び社会的威信の拡大につながった。また、奴隷制社会では婚姻は一族の高貴な血統を守る役割も担っていた。したがって、婚姻は個人的事柄ではなく、きわめて社会的、かつ政治的事柄であり、家長に配偶者の決定権が握られていた。こうした目的を達成するための好ましい手段として、自集団内に婚姻相手を求める内婚制がとられた。同時に、家族内以外に自分の世界をもてなかった家父長制下の女性にとって、同じ屋根の下に住むオジやイトコは、初めて出会う異性でもあった。パライバ渓谷のコーヒー大農園主の一族7世代(1780~1900年)の婚姻62件のうち、親族間の婚姻は26件を数え、その内訳はイトコ婚20件、オジ・姪婚3件、オバ・甥婚1件、兄嫁婚2件であった。

婚姻による新しい結合が一族に政治的に有利である以上は、その婚姻は早期になされることが期待され、子・どもの早熟が好まれた。 19世紀ブラジルの独立時代、リオで生活をしたフランス人医師は、ブラジルには子どもがいないと書き残している。家父長制度下でブラジル人が子どもとして扱われるのは5歳までで、それ以後は大人になるためのさまざまな訓練を受け、10歳くらいには大人としての態度と行動が期待されていた6.しかも男性には、性的早熟も期待されていた。女性は12~14歳が結婚の時期とみなされていた。娘が15歳を過ぎても未婚でいると、両親は聖人に願をかけたり、場合によっては修道院に送った。婚姻が一族の結束を強化する目的であったことは、12~14歳の少女の結婚が30歳や40歳、時には70歳のオジやポルトガル大商人との間で行われた記録をみても充分に理解できよう。

結婚披露宴はカザ・グランデの最も見栄を張る行事で、その宴は一週間も続いた。それは、一族の社会的威信を示す機会であった。花嫁道具で飾られた寝室を披露し、牛、豚、七面鳥を殺して宴に供し、テーブルはたくさんのデザートで飾られた。カザ・グランデの中では白人奴隷主たちがヨーロッパ風のダンスを舞い、中庭では奴隷たちがアフリカの踊りを踊って結婚を祝った。喜びの印として奴隷が解放され、また花嫁には奴隷が贈られた。

華やかな結婚披露宴とは対照的に、花嫁にとって結婚は、父親の圧政から夫の圧政へと移行する儀式でもあった。娘時代はすべての自発的行為は否定され、幼い子どもと同様に常に父親に依存する者として扱われた。年上の人に口応えをしたり、目立つ娘には採るなどの体罰が加えられた。内気で謙遜であることが好ましいとされた。このため、家族以外の人の前では声すら上げることができなかった。娘の部屋は外部に面した窓のない家の内部に設けられ、夜は不寝番がついた。当時ブラジルの農村を訪れた外国人の記録によれば、一週間まったくその家の女性に、一人として出会うことがなかったという。

奴隷主に「セニョール」の敬称をもって話すことが奴隷に義務づけられていたと同様に、奴隷主の子どもたちにも両親を「父上(SenhorPai)」、「母上(Senhora Mae)」と呼ぶことが強いられていた。「お父さん(Papai)」、「お母さん(Mamae)]と呼ぶことが許されたのは幼児期の5歳までであった。12~13歳で幼い妻になると、奴隷主の自分の夫を女性は奴隷同様「ご主人様(Senhor)」と敬称で呼ばねばならなかった。しかし、精神的にも肉体的にも母親になるには未熟であったカザ・グランデの幼い妻は出産と同時に死ぬか、たとえ無事出産できても人形ではなく、本物の乳児を育てることは不可能であった。奴隷主の子どもの養育を一手に引き受けたのは、「黒いお母さん」と呼ばれた黒人の女奴隷であった。

家父長制社会では外部世界は男の世界であって、女の世界ではなかった。女性の役割は、さまざまな家事の采配を振ることであった。19世紀の奴隷主の家族生活を記録した司祭ロペス・ガマ(Lopes Gama)は、当時伝統的な習慣が崩れて、土地貴族の女性たちが家事を疎かにして社交生活に専念し始めたことに憤慨し、家族の良き母親としてあるべき姿を次のように書いている。「朝4時には起きて奴隷たちに一日の家事をいいつけなければならない。薪を割り、竃の準備をさせ、カンジャ(日本の粥に類似したもの)の材料となる鶏を選び、夕飯の支度をさせなければならない。そして家の者の衣服を縫ったり、繕ったりすることや、石鹸、蝋燭、ワイン、リキュール、ケーキ、ゼリーなどを作ることを奴隷に指示しなければならない。こうしたことは、すべて奴隷主の夫人が監視していなければならないことで、時には鞭を手にしてすることである」。

このように家父長制下の女性の世界は家の中に限られていた。出産と家事が女性の主要な役割とされ、その世界は家族及び親族、司祭、奴隷との接触のみに限られ、自由は制限されていた。精神的にも物理的にも、女性は幽閉された生活を余儀なくされていたのである。

妻や娘が男性の圧政下に置かれたのとは対照的に、男性には最大の自由が与えられていた。女奴隷との性的交渉は頻繁に行われ、妻はそれを黙認しなければならなかった。夫にとって、こうした放縦を謳歌するのに妻の存在が多少でも不都合であれば、妻を修道院に入れてしまうことさえあった。かくして家長は一族の数を増し、政治及び経済的力を増大するのであるが、このことは家父長家族内に嫡子と非嫡子が一緒に生活するという、ブラジルの奴隷制社会の特異な家族形態を出現させることとなった。

先述したように19世紀中頃、ブラジルに滞在したイギリス人女性は家父長制家族の日常生活を描写した中で、若い母親が、自分の子どもと一緒に庶子を分け隔たることなく育てているのを見て驚いたと同時に、それをブラジル社会の庶子7に対する寛容な態度と評価している。

未成年の男子も父親の圧政の下に置かれた。女性と同様に父親を「セニョール」の敬称を付けて呼ばねばならず、年上の人の前では口を挟むことも許されなかった。結婚するまで、父親の前でタバコを吸うには許しが必要であった。同様に、髭をたくわえるのにも、父親の許可を得なければならなかった。先述のイギリス女性は次のようにブラジルの親子関係を記録している。「口髭をたくわえた息子が、父親の前で喫煙の許可を得る光景に出会うことは珍しいことではなかった。両親は常に息子たちを三人称で呼んだ。また自分自身をも子どもたちの前では三人称で扱い、時にはセニョール、セニョーラの敬称を自分自身に使用した。こうしたことはすべての社会階層の人びとの間でみられることであった」。

家父長制社会では成人男性と未成年男性との社会的距離は大きく、それはあたかも人種やカーストが異なるかのように違っていたのである。このため、成人した男性の威信の大きい家父長制社会では幼児期が短く、早熟が好まれたのである。若者は青年ではなく老人を真似た。髭をはやし、老眼鏡をかけ、もったいぶった顔つきをして、青年期のすべての輝きや喜びを隠してしまったような雰囲気を漂わせていた。なかには未成熟であることを隠すために、髭を書いている者さえいた。

成人していない息子に対する父親の支配は生殺にも及んだ。家長は家族の大義のためには絶対者であった。エンジェニョのカシューの樹の下で、多くの父親は家父長主義の過酷で悲しい行動をとらねばならなかった。黒人奴隷ばかりでなく、自分の息子や娘を殺させた。ミナスのカピタニアの金鉱地帯ピタンギで、18世紀初頭に起こったことである。翁の敬称をもって呼ばれる奴隷主タイパという家長がいた。その娘マルガリーダは、ポルトガル王国から来た若者と結婚した。ある日、一人の女性がポルトガルからこのピタンギにやって来た。その女性は娘婿のポルトガルの妻であった。タイパ翁はこのとき、自分で斧をもち出してきて、その婿を二つに割り、一つを娘に、もう一つは夫を探しにきた女性に与えたという。このように、家長の自分の家族に対する管理は、非情なものでさえあった。
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