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未唯空間第7章生活編 2/2

7.3「生活する」

 存在することは、7.4で気付いてしまっているので、このまま、先に行ったら、クルアーンを作るしかなくなる。だから、「生活する」に戻します。

 最終的にはクルアーンの持って行くかもしれないけど、どのように生活すればいいのか、いかにして覚醒するかの家庭のサンプルにしていく。

 生活はギリギリな状態です。だから、いいんだけど、余分なお金もない。世界を回るといってもきりがない。自分が回らなくとも、得るものはいくらでもある。回ることでなくて、答を見つけることが目的なんだから。

 このICレコーダー一つとっても、これを用意してくれた人のためにも使いこなさないといけない。

 家庭は不思議なものです。生活パターンで日々を送っていく。それは何を意味しているのか。それとは関係なくやってくる。お金も何故か回ってくる。それをなぜ、用意してくれるのか。用意してくれていると感じるのか。この仕組み事態を見させる為なんでしょうね。

海外に行く

 海外にしても、丁度いい時に、なにかの理由を付けて行くことができた。国内も同じです。東フジにいたら、動けなかったけど、販売という理由でどこでも行けるようになった。

 海外もイソベを用意してくれた。おかげで言葉の問題は関係なくなった。

 不思議なのは奥さんですね。最終的には私の方が先に行くからどうでもいいけど。

毎日の思いを示す

 各項目一つ一つがその先がないような感覚で話している。何故か、思いを示すということ。あるところから毎日の思いを示すようになった。

 何を考えたかもあるけど、なにも得たのかも多くなっている。それに伴って、何を出してきたのかも示している。いつの間にか集めることが趣味になっています。

 そこで得たものは、自分のものです。不思議なもんです。その為にネット社会を用意してくれたので、アウトプットしているけど、それで影響を与えようとは思っていない。何しろ、他者がいないんだから。他者がいないことが効いている。

書くことから未唯空間が生まれた

 話すということ、書くということ,考えることをループしています。これは時間を要します。考えるだけなら、瞬間的に終わってしまうことを回りくどいことをしている。それにどういう意味を持たせるのか。

 全てをログに残すことを未唯が生まれた時に決めた。そこから何を出していくのか。最終的には自分に戻ってくる。未唯空間に反映することで、空間を作る軸は何にするのかを含めて決めてきた。

7.3.3「家庭」

 家庭というものが出てきたのは、家庭を変えることが社会を変えることになるからでしょう。偶然に支配されている。何故、こうなったかも,全て偶然です。

 世の中に対する提案を書いているけど、これはもっと、後ろに来るんでしょうね。家庭というものは、家族ではなくて、考える一番小さな世界としてあります。それのサンプルです。なぜ、そこに「持続可能性」の項目が来ているのか。見直さないといけない。

仕組まれたこと

 ある意味では、仕組まれている。仕組まれていながら、仕組んだやつを考えている。夢の中に居ながら、夢を見ている。仕組んだものは、私がそこまで考えるとは、思っていたんでしょう。ざまあみろ!

7.3.4「規範」

 元々,未唯空間を作る為のルールだけど、全体の生活規範にすることにした。世の中にいかにばれずに活動するのかがテーマです。デカルトはシンプルに考えるために,世の中に受入れなくても弾かれないために規範を作った。私は宇宙人としてそれをやっていかないといけない。ほとんど、そのルールは守っていないけど。

 得たものをどうしていくのか。仕事もその為に使ってきた。情報も同じように生活のなかにいかに浸透させるのか。仮のターゲットとして、未唯を設定しました。ネルーのように未唯に見識を渡していくのか。そういうカタチにしている。

 家庭での生活はなるべくバレないように、人々の生活を基準にしていく。ここまで来ただけでも、まだ7.3です。本当にこんな生活を持っていますね。多分,逆なんでしょうね。

7.4「生きる」

 生きるの最初が独我論です。どうなっているんでしょうか。生きるベースが独我論とは。といっても、言葉を作ってみましたという感じです。決して、独我論ではないけど、「独我論」と称しておきます。この生活を抽象的にして、世の中から見た時にどう見えるか。そこで、「独我論」として見ました。

 全てに依存しないというのがベースです。私は私の世界で生きていく。こりつした存在になっていく。元々、孤立だから、孤立した存在になるわけではない。そして、不安定。安定から見て、不安定はどこでも行けるという自由を持つ。宇宙のなかで必要なことです。宇宙のなかで安定したら、潰されます。それは「宇宙の旅人」としての心得です。常に動いていること、自分がないということ、唱えること。

無限次元空間の住人

 空間はいくらでもあります。それは無限次元空間で得たものです。二次元、三次元と思うと窮屈です。無限次元空間の中のサブ空間と思えば、どこでも存在できます。世界中を回った人間よりもはるかに大きな世界です。

7.4.2「ライフログ」

 「生きる」にライフログが出てきます。全てを記述すること。何もない世界だから、これをしないと単に何もしないだけではなく、それもよいけど、忘れっぽいから。それでもって、自由に発信して、誰も居ない世界で語っていく。

 歴史を考える。時空間を考える。これに虚しさを感じないというのが、特徴かもしれない。

7.4.3「啓示」

 大いなる意思からのメッセージが啓示です。配置の考えは啓示です。考えよ!というのも啓示です。自分からは発信しない。問われたら応えよ、というのも啓示です。啓示をまとめていく。誰に対してやっているかわからないけど、来ているのは確かです。ムハンマドも同じ心境だったんでしょう。

 その啓示の一つが行動しないということ。行動するのは私に合わない。というか、行動することに意味がない。考えることに意味がある。その為に,数学に導いたんでしょう。ものを作ることでなくて、考えて、モデルを作り、実証する。

 考えるだけにすることで大きく進歩した。存在自体も武器です。それ以外の武器はない。存在もあやふやです。ここまでが第7章の半分です。
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未唯空間第7章生活編 1/2

他者が存在しない生活

 他者が存在しない生活は何をしていけばいいのか。ひたすら、内に向かうしかない。内に向かってどうするのか。やはり、内に向かっていくしかない。他者が存在しないけど。生きていること、生まれてきたことの謎に向かうことにないという生活。

絶対的孤独

 そうなると、ロマンチストにならざるを得ない。対象は孤独と女性ですね。そして、未唯への手紙で未唯に希望を託した。

 その中で考える。何を考える。考えることを考える。生きることを考える。考えることは生きること。そして、池田晶子さんの言葉に出会った。

 そこから考え抜くこと。本当に何なの。有るのか亡いのか。相手がナイのは確かだけど。これだけ、宙ぶらりんの状況ですから、そこでの好奇心、好奇心があれば、何をやってもいい。

日常と非日常が共存する世界

 扉を開けないと世界は拡がらない。これはSFPLの館長室は自分のために用意されていた。扉はなかったけど、入り込んだ。

 日常と非日常を最初に味わったのは、エヴァンゲリオンの風景。日常と非日常に境はないんです。わざわざ、ロヴァニエミに行って、非日常を味わうことと、この日常で非日常を感じるのとは多分同じなんでしょう。それを確認するためにフィンランドまで行った。

 こんな濃密な生活と世の現実はあまりにもかけ離れている。その中で考える元は「時間」です。存在すること、与えられた時空間の内で生きていること。

 ベースは放り込まれたこと。本当は時間を止めたいけど、ここからまだ、何かを得ていかないと。と同時に、与えられたものの中に自分がいるということ。

本から得られるもの

 ここ・今だけでない時空間は周りの本から得られる。自分が行かなくても、変わりに任務を負った人間がいる。そこから報告を聞くことができる。それらを私が考えるベースにする。

 この膨大な現象から簡単にするのも、私の役割です。

 考えるのは考えるけど、書くことはいい加減にする。きりがない。ロックに陥る。分かりやすくする。その内に生きること。

私のために用意されているもの

 自分が考えたり,生きたりするために、大いなる意思が用意してくれたもの。

 それらは、タイミング良く出てくる。寝ながら操作できるできるようなものはふつう考えたらおかしいでしょう。私のために用意されたとしか思えない。ビル・ゲイツもスティーブ・ジョブズも私のツールのために存在した。それを味合わないといけない。

 目が悪く,パソコンが見えなくなっている。その前にこのようなカタチを提供されている。ネット放送についても同様です。テレビは一方向であったものが、探しに行ける様になっている、それもリアルタイムでのやりとりが可能です。

 周りの人間は適当に使っているけど、私はそれなりに真剣に使います。何しろ、私のために用意されたものだから。

7.2.1「生まれてきた」

 生まれてきた理由を解明するとか、意味を探るとかがあるけど、残っていることをちゃんと表現していかないといけない。この宙ぶらりんの状態に不安を抱いています。哀しくなる存在というのは、自分にとって納得のいく表現です。

7.2.2「存在と無」

 「存在と無」が一番の謎です。

 何故、こんなにも小さな存在、無に近いのに自分から見ると、大きな世界と一緒になっている。全てとゼロが一緒になっている状態。

 それを他の人がどう思っているのかわからない。多分、何も思っていないでしょう。だから、他者の存在が信じられない。時々、本に存在に関する記述があるけど、十分、表現できていない。哲学の本はすぐに別の方向に行く。そして、我田引水。

 全てと無が一緒になっている状態ということしか言えない。最初にそれを融合で考えた。高度な数学になると、この状態はあり得る。独我論もここから生まれた。融合でいいかどうか分からないけど、これを考えていく。

心はどこにあるという問いと答

 以前。「心はどこにあるか」というと問いに対して、とっさに浮かんだのが、宇宙の端と私の内に同時に存在する感覚でした。あの時から変わってきた。それが一緒になる究極なカタチが全ての答ではないのか。

 それを探して、まあ、適当だけど、色々やってきた。

 1千冊の雑記帳、2.2万冊の新刊書、1万のブログ、6万のツイッター、そして、それらを包括する未唯空間。そこには1280項目があり、参考資料を付加している。内なる世界から未唯宇宙に送り出していく世界。

 それをやればやるほど感覚的にはノマドです。浮遊します。

 こんな本質的なことばかり考えていては、とてもじゃないけどループしてしまう。同じ事しか言わなくなる。そこからまた掘り出していけばいいかもしれない。

自分の役割から啓示を得た

 とりあえず、未唯宇宙での自分の役割を決めた。数学者であり、社会学者であり、歴史学者であり、他者の世界を預言するもの。

 60歳の時点で、デルフォイとか赤ピラミッドに行けた。それは誘導されたんでしょうね。

 デルフォイは一神教に潰されたみたいですね。多神教のアポロンは一神教では存在できない。それをもとに戻すことになるでしょう。一神教に先行きは見えている。

 宇宙と自分が一緒の世界とは,神と自分が融合する世界を目指すことになる。「存在する」の最期は内なる世界、私は私の世界をいかに作って行くのか。

7.2.4「内なる世界」

 生活編の中で考えた時に、自分の内のモチべーション、奥さんとの関係、絶対的存在の未唯との関係との関係の謎が解けていない。何故、彼らはいるのか。何を示唆しているのか。隔離されている世界なのに、それでつながっている不思議な感覚。

 なぜ、ご飯を作るのか,子どもというもの、孫というもの。それらとのつながり。自分の中の一つの特徴は、絶対的存在です。相対的ではなく、子どもだからではない。絶対的になればなるほど、一方的になります。相手からは何かを求めるならば,絶対的にはならない。
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ヘーゲルはわかりやすい若者ではない

『メルロ=ポンティ 哲学者事典』より へーゲル、ゲオルクヴォルヘルム・フリードリヒ ⇒ 出だしが気にいった。「歴史哲学」はすごいと思う。

ヘーゲルはわかりやすい若者ではない。ただし、そう言ったのは批判のつもりではない。哲学者というものはみなむずかしいのだから。おそらく最もむずかしいのは、デカルトのように明晰に書いたり、プラトンのように偉人な詩の力で書いたりする人ダだろう。わたしたちは彼らにまず魅了されてしまうのだが、その奥深さと高みが見えてくるのは後になってからなので、本当に彼らを理解したければ、そこからもう一度、ゆっくりと一歩ずつ、苦労して、その奥深さと高みに挑まなければならないのだ。それとはまったく反対に、これはいつでも断言してよいが、ヘーゲルはその文体の魅力によって読者を誘惑したりしない。信しがたいほどに簡潔で、正薙さに気を遣い、他のことには無頓着な彼の文章は、最初の一行目から読者に警戒心を起こさ廿る。それは、読んでも楽しくない著作、きわめて大きな注意と、きわめて高い精神の緊張とを必要とする著作なのである。

だが、丈体から発するこうした警告が、結局のところは理解を助けてくれるのである。読者は、このような著作を急いで読み進めようとは思わないし、あまりに自明に見えるので、ヘーゲルの言うしかじかのテーゼを認めたがらないし、あまりに力強く語りかけてくるので、しかしかの比喩的表現を信川したがらない、というわけである。わたしたちは思考の流れを反省し、検証し、解きほぐそうと努めるだろう。こういったことはすべて、読者にはあまり楽しくないにしても、理解の助けにはなるはずである。しかしここには何かしら皮肉なもの、つまりが定的なものがある。つまりヘーゲルの書き方は、その哲学のむずかしさをめっき加工で隠すかわりに、むずかしさを端的に表わすのだ。それは、複雑なものを単純なものと取り違えて、余計にむずかしくなるのを防いでくれる。しかし、この助けによっても、ヘーゲル哲学の複雑さそのものと、元からあるむずかしさはなくならないのである。

したがって、繰り返しになるが、やはりヘーゲルはむずかしいのである。もしかしたら彼は、もっ犬不気味で、もっと無愛想かもしれないし、いささか厳格で気むずかしい姿を見せるかもしれない。しかし、だからといって彼は、熱意をもち忍耐力のある読者を受けつけないわけではない。哲学者はみなこの種の読者仁語りかけ、一方で読者は、その熱意を獲得し、その忍耐力を保つために骨を折るのである。ヘーゲルの書くものに人して魅力はなく、名文家としての優れた技法がないと彼を非難したとしても、わかってもらえるだろう。だが、彼はたしかに、世間に謎を差し出したり、玄人にしかわからない言い回しを提案したり、無遠慮な。人や読者の資格をもたない人を追い払うために、奥底や本質を隠したりするような類の人ではないのだ。ヘーゲルにとっては、誰も無遠慮でも無資格でもない。彼にそうした名文家の技法がないのは、まさにすべての人、忍耐力と熱意とを引き換えにしてヘーゲル哲学への入場券を得たいすべての人にとって、近づきやすい存在であろうとした結果なのである。

このことからすれば、彼は、他の偉大な哲学者だちよりも近づきやすい存在であってしかるべきだろう。ところが、専門家や、教養のある目の肥えた読者の判断によれば、彼は少しもとっつきやすくはないのだ--正しい判断である。ヘーゲルは、ただ哲学者であるという理由だけでむずかしい著者なのではない。哲学者のなかでも、よりいっそうむずかしいのである。

このことには二つの理由を割り当てることができる。あまりに軽々しく、ヘーゲルがむずかしい理由は次のことだけだと主張する者もいる。その理由としては、ヘーゲルの思想の詳細がむずかしいのは、明快でなく、不完全で首尾一貫性がないという意味だとか、主要な諸概念が、学問や条件や態度の歴史的進化によって時代遅れになってしまったとか、言葉の意味が変わってしまい、今の時代にヘーゲルを理解すべき者には多大な努力が必要となる、といったことである。しかし、このような非常に現実的な障害物はどこにでもあり、ヘーゲルの場合にだけ特別な事情があることを説明してはくれないだろう。さて、ヘーゲルが哲学者のなかでもいっそうむずかしい理由は、次の見出しでまとめられるように思われる。ひとつは、哲学史に占めるヘーゲルの位置であり、もうひとつは、彼の思想の意図である--しかも、ただちに付け加えておきたいが、その位置はその意図のゆえに独特であり、その意図は、それが歴史上のある特定の時期に出現したがゆえに独特なのである。それでは、こうしたむずかしさから出発して、ヘーゲルの哲学を輪郭づけてみよう。そうすることによって、彼の哲学がいっそう明らかとなり、彼の哲学の意味と、わたしたちにとっての意義とがいっそう明らかになるのは、不可能なことではない。

さらに忠告をひとつしておこう。以下ご覧になるのは、体系の要約や、ヘーゲルとは何かということを二、三行で知りたい人にとって最も便利な、原本のかわりにできるミニチュアサイズの複製品である、などと期待しないでいただきたい。思想の価値は、その細部のなかに、その彫琢の全体のなかにある。究極的な真理や、奥深いものの見方や、絶対的な暴露といったものは不条理か無内容である。別の言い方をすれば、原理というものはその展開のなかで証明されるのであって、最初からなかにめるのはせいぜい約束とプログラムにすぎない。こういうことを最も強調した哲学者こそ、ヘーゲルなのである。この企画がうまくいけば、なぜヘーゲルがわたしたちにとって生き生きとした現実をなすのかを示したことになる。しかし、わたしたちは、この現実とはいかなるものかを示すつもりはない。この現実はあるがままのものであり、それ自身の諸条件のもとでしか、見物人には見えてこないのである。

今のところヘーゲルの哲学は、数々の偉大な哲学のなかで、最後のものである。したがって彼の哲学は、他のどんな哲学も彼の哲学にとって代わっていないという意味では、最初の現代哲学でもある。最初の近代哲学ということではない。誰が最初の近代哲学者だったのか、たとえばデカルトか、ヒュームか、カントか、ということをめぐってなら、意見がまとまるまでに長いあいだ議論することができるだろう。ヘーゲルは、過ぎ去ってしまったと感じられるような時代には属さないという理由で、たんに近代的なわけではない。彼は現代=同時代の人なのだ。つまり彼の哲学は、依然としてわたしたちの世界について語っている。わたしたちに向けて語っている以上に、わたしたちについて語っているのである。わたしたちがこの哲学に同意を表明するのかどうかはまったく別の問題である。ヘーゲルの哲学は、わたしたちについて我慢ならないことを言うかもしれないが、しかしこの哲学がそんなことを言うのは、わたしたちについてなのであって、他の時代や他の世界の人々についてではないのだ。

そのようなわけで、ヘーゲルの哲学は、歴史の結び目と呼んでもよいものをかたちづくっている。この現象をなすのは彼一人だけではない。たとえばアリストテレスについても、同じくらいの理由で同じように言ってよいだろう。これは、歴史における特昼点のことである。すなわち、過去のすべての糸がそのなかで交わり、集められ、取りまとめられ、秩序づけられた後--しばらぐの聞かそれとも永久にか--そこから糸がまた分かれる、そのような地点のことである。このような地点とそこに位置する偉大かまとめ役は、思想の革命と現実の革命の後に登場している--プラトンと古代都市の終焉の後に、カントとフランス革命の後に。あちこちからの水がひとつの巨大な池のなかに集まり、今度はあらゆる方向に分かれる。湖自作が支流の体系を組織しているので地理学者が支流図を描くのはむずかしくないだろう。しかし川の流れは、まだ最後まで流路を掘り切っておらず、流れの道行きか探しているところであり、その終着点はわからない。なので、地理学者がその川の流れを製図するように頼まれたら途方に暮れるだろう。一人だけを帚げるにとどめておくが、アリストテしスに関してはおおよそのところ、その体系から生まれた流れがどのふたりにあったのかがわかっている。しかし、ヘーゲルに対してはわかっていない。わたしたちは、その方向が未だ知られない波に運ばれ、波の流れのままに進んでいるのである。
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アメリカのアジアシフト そこで問われているもの、その影響の大きさ

『PIVOT アメリカのアジアシフト』より ピボットの舞台 興隆するアジア、そこで問われているもの、その影響の大きさ ⇒ アメリカはアジアを狙っているが、日本のスタンスがよく分からない。日本が超国家を考えるとしたら、まずは、極東から抜出すことなのに。

いまや全面的に太平洋の世紀を迎え、世界の勢いとエネルギーは刻一刻と、また、あらゆる物差しで測ってみても、アジアヘと移行しつつある。アジアは今、ほとんどすべての計測基準で世界を主導し始めているが、しばしば、この地域の潜在力と課題が明らかになり、また、時には、驚異と矛盾が浮かび上がる。アジアには温暖化ガスの排出で世界最大級の国々が集まり、その一方でグリーンな技術への最大の投資家たちがいる。この地域の都市人口は世界最大だが、個別の国を見ると、大半は世界で最も都市化比率の低い部類に入る。アジアは世界のどの地域よりも電力を消費するが、人口の5分の1は電力にアクセスできない場所で暮らしている。長くて誇れる文化的な歴史があるにもかかわらず、「洋風」に見える美容整形が流行していて、二重まぶたにする手術は韓国だけで年間3万件に上る。そして飲酒の習慣のない人の多さでインドネシアなどが世界ランキングのトップになる一方で、アルコール消費で上位5ヵ国のうち4ヵ国がアジアの国々である。中国は赤ワインの消費量で世界1位になり、共産主義革命に続く第2の「赤い革命」が進行中だ。蒸留酒(スピリッツ)についていえば、韓国は国民1人当たり消費量が1週間に13・7杯で世界をリードし、伝統的な重量級であるアイルランド、スコットランド、そしてロシアの2倍以上の水準である。

本章で我々は、アジアの驚異的な興隆の背景にある事実と数値を見ていく。この地域が再び浮上するにあたっては中国が最大の役割を果たした。しかし、中国に限らず、この地域のすべての国が人類の歴史で最も素晴らしい成長と開発をめぐる物語に参加したのである。アジアの目もくらむような経済発展の規模と広がりによって、歴史上のどの時期よりも多くの人々が貧困から抜け出し、それは、普段は一番、シニカルな観察者たちにも畏敬の念を抱かせるほどである。

アジアは今日までに並外れたことを成し遂げてきた。将来も明るい。しかし、それは保証されたものでは決してない。政治家や専門家は長年、アジアの潜在能力に感嘆し、巨大な市場とあふれんばかりの人の多さについて息を弾ませて語ってきた。その一方で、アジアは期待を現実に変えるにあたって多くの課題に直面している。本章で取り上げていくように、この地域の大半では、貧困が今もあちこちにあり、公衆衛生分野の整備は遅れ、環境汚染は著しく、インフラは不十分で、エネルギー消費は急増し、人口の高齢化が進み、そして気候変動の脅威が未来へと広がっている。こうした障害があり、中国の経済成長も減速する中では、アジアの奇跡は終わったと書かれることが、かなり一般的になっている。優れたエコノミストたちも、アジアの成長率は歴史的な平均値まで下がると予測している。確かにアジアの興隆は、さまざまな挑戦に直面する段階を迎えた。しかし、これまでの台頭の期間に、アジアはこれらの挑戦に対応できる相当な資源を手にした。世界で最も分厚い中間層があり、世界最大級の経済規模を持つ国々が存在することは言うまでもないだろう。アジアの成長は歴史的にみて、危険なほどの猛スピードから次第に緩やかになっているが、この地域の興隆で問われているのは、そのスピードだけではない。公衆衛生の改善から経済格差の是正、文化的なアイデンティティーの維持から環境保護まで、幅広い分野で質が改善し、恩恵が広く及んでいるのかどうかがより強く問われている。アジアの物語で重要なのは、聞こえのよい話だけではなく、挑戦や逆境を前に、成功し、前進することを求めて苦闘する部分である。

その帰結はアメリカに大きく影響する。アジアが興隆するにつれて、アメリカ国民とアジアの人々を長年、結んでいた絆は、さらに密なものになる。オバマ大統領は初めての訪日の際に次のように述べた。

 「アジアとアメリカはこの偉大な海洋、太平洋によって隔てられているのではない。それによって結びついている。我々は歴史でつながっている。アジアからの移民はアメリカの国づくりに貢献し、アメリカの兵士は何世代にもわたってこの地域の安全と自由のために尽くしてきた。我々は繁栄を分かち合うことで結びついている。貿易と通商は何百万人もの仕事と家族を支えている。我々は、人と人でつながっている。アジア系のアメリカ人はあらゆる分野でアメリカの暮らしに貢献している。この地域のすべての人々の生活は、アメリカと日本の両国のように、織り合わされ、ほどけない関係にある」

このタペストリーのようなアメリカとアジアの関係は、アジアにおける著しい開発と進歩という朗報がアメリカの発展を剌激し、強化するということを示している。目を見張るイノベーションが生まれ、中間層が急増している地域との結びつきをアメリカが拡充することは、2008年の金融危機後の経済の回復ぶりが遅々としていることを考えれば、とりわけ重要である。アメリカの輸出を世界へ、特にアジアに向けて促進、拡大することは、景気回復の維持ならびに質の高い仕事をアメリカで生み出すための中心的な取り組みといえる。アジアの興隆はアメリカ経済の健全性と発展には欠かせない。だが、アジアの世紀に期待される利益は、アメリカが責任を果たして初めてもたらされるものだ。この地域がアメリカの将来にとって大切なように、アジアの未来にはアメリカの関与が重要である。

我々が将来に向けて地政学的な変化と経済のダイナミックな動きに備えるためには、アジアで今、起きている出来事の影響が及ぶ範囲を理解し、そのドラマの内容と規模を知り、そして、まだ現れていない姿について考えをめぐらさなければならない。その目的のために、本章ではアジアの興隆について、その潜在力と課題に注意を払いつつ、幅広く言及していく。都市化やエネルギー消費などの従来型の経済指標、そして健康や衛生など社会の発展に関わる重要な評価基準に焦点を合わせる。続いて、いくつかのグローバルな産業は、アジアの勃興によって決定的に変貌してしまったことを深く分析する。海運、国防、そしてテクノロジー関連の産業など容易に想像される業種のほか、映画、美術品など一般には取り上げられない業種も吟味しながら、この章ではアジアの変容がもたらしている広く見られる特徴と劇的な衝撃について述べていく。まずは、このダイナミズムを計量するところから始めよう。

アジアをめぐる議論の際には膨大な数値を引用する必要がある。各国の経済規模は1兆ドル単位で計測され、人口が10億人を超す国もあり、各国の軍には100万人単位で兵士が配属されている。これらの数値が、どの程度の大きさもなのか、容易には実感できない。進化生物学の研究者らは、人間の脳は繰り返し現れることを最もよく理解する方向に進化してきたと指摘する。我々が日々の暮らしで兆という単位に出くわすことはまれである。大きな数字をより上手に把握するには、具体的な例をいくつか挙げるのにとどめたほうがよいだろう。

我々のほとんどは1ドル札のおよその大きさや厚みを知っている。だから、それがたくさんある状態を想像するところから始めよう。1枚のドル紙幣は普通紙よりも薄いが、100万枚も重ねると、30階建てのビルの高さになる。10億枚ならば70マイル(約113キロメートル)で、大気圏外まで伸ぴる。1兆枚では月までの距離の4分の1に到達する。アジアには名目GDP(国内総生産)が1兆ドルを超す国が5カ国あり、合計では、ざっと20兆ドルになる。1ドル札を積み重ねて月まで届く束にまとめると、それが5束ある計算になる。

こうした数値の大きさを理解する2番目のやり方は時間から考えることだ。もし、あなたが1秒につき、数字をひとつ数えていくとしよう。1000の数字を数えるまでには17分かかる。数字が100万なら昼夜、休みなく続けても12日を要する。10億ならば、32年である。アジアの人口はざっと40億人余りだから、数えるのに140年以上かかかる。そして、アジアでは1秒に16人が生まれているから、この作業は実際には終わらないのである。

もし、以上の頭の体操が何かを証明しているのだとするなら、それは「100万」や「10億」という数値は普段からあちこちで見かける割には、あまりに巨大で簡単には理解できないということである。アジアの規模は本当に分かりにくい。この章で取り上げる統計数字は、すでに目を見張るほど大きく、しかも、例外なく、このまま比較的高い伸び率で膨らんでいくと予想されている。噛みくだいた分析を進めるためには、アジアの驚異的な成長と、めまいがするほどの巨大さに関する、いくつかの事実と数値に、きちんと目を向けなければならない。我々は、まず、この地域の膨大な人ロ--アジアに関する驚愕させられるような統計の大半が次々に湧き出す泉のようなものである--から始めよう。
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アクセス保障とベーシック・インカム

『不平等を考える』より 社会保障の新たな構想 どのような制度によって保障するか?

アクセス保障の構想

 さて、人々の生活条件を具体的にどのような制度によって保障するかについては、大きく分けて、所得保障およびアクセス保障という二つの考えがある。社会保障論の用語で言えば、「現金給付」と「現物給付」(サービス給付)がそれぞれ前者、後者におおむね対応する。所得保障は、所得や資産の保有を保障するものであり、それらをどう用いるかについては各人の判断に委ねられる。他方、アクセス保障は、基本的な諸機能を達成するために必要な財やサービスに無料ないし低コストでアクセスしうる機会を各人に保障することを指す(実際にアクセスするかどうかは成人の場合には各自の選択に委ねられる)。

 言いかえれば、所得保障は所有権(a right to have)を保障し、アクセス保障は利用権(a right to use)を保障する。利用権の保障は、コモンズ(共有地)の用益をコミュニティの成員に認める場合のように、思想史的には長い伝統をもっており(たとえばH・グロティウスやS・プーフェンドルフらの一七世紀の思想に見られる)、アクセス保障の考え方には、基本的な諸機能を達成しうる生活条件の保障をこの伝統に沿って再生しようとする意味合いもある。

アクセス保障の制度

 アクセス保障は、すでにさまざまなかたちで制度化されている。たとえば、民主党政権のもとで義務教育に加え高等学校での教育も無償化されたが、これは(中等)教育機会へのアクセスを保障しようとするものである。また、健康保険や介護保険は、医療サービスや介護サービスヘのアクセスを保障するものである(ただし、そのアクセスは社会保険料をすでに拠出してきた有資格者に限定されており、しかも、近年における自己負担分の引き上げは貧困世帯にとって実際の利用を阻む障害となっている)。

 公共交通機関や水道・電気・ガスなどライフラインヘのアクセス、また情報や通信(公共メディア・インターネッ卜等)へのアクセスもすべての人々にひらかれている必要がある。ケア・サービスや保育サービスの供給が不十分であればキャリアを形成したり、継続することは困難になるし、住居へのアクセスが保障されていないことはとくに若年失業者の就労を阻む原因になっている。利用料金のかかるライフラインに関しては、最低限の利用に関しては無償化することも検討する余地がある。

 いま述べたように、アクセス保障は、さまざまな形で制度化されながらも、アクセスを実質的に阻む諸要因--必要な財やサービスの供給不足をはじめとして、自己負担、相対的に高額の利用料金など--には十分な注意が向けられていない。

アクセス保障のメリット

 もちろん、所得保障をアクセス保障によって代替することはできないし、またそうすべきでもない。代替することができないのは、自己負担や利用料金をともなう公共サーピスヘのアクセスは一定の所得を必要とするからであり、また代替すべきでないのは、自分の意思で用益できる一定の資産(住居や二定の金融資産等)があることは生涯を通じての拠り所--湯浅誠の言葉を使えば「溜め」--となるからである。とはいえ、アクセス保障(利用権の保障)には、所得保障にはない次のようなメリッ卜がある。

 第一に、十分な所得があっても、たとえば過疎地域に見られるように、必要な医療サービスや食料へのアクセスが容易ではないこともあり、所得保障のみによって人々が基本的な諸機能を達成しうる生活条件を保障することはできない。

 第二に、アクセス保障においては、用途および利用の限度が定まっており、所得保障(現金給付)が惹き起こしうる濫用--それが基本的な諸機能を達成するためではない用途に向けられること--を抑制し、それを通じて、受給者に向けられる負の感情を抑制することができる(生活保護の不正受給率は二パーセントにも充たないにもかかわらず、メディアによるバッシングは繰り返されている)。

 第三に、アクセス保障は、対象者を特定しないュニバーサルな性格をもっており、対象者を限定する選別主義的な福祉(生活保護制度など)が招くスティグマ化を回避することができる。アクセス保障を充実させることはすべての利用者にとっての便益ともなるので、人々の間に分断が生じる事態を抑制し、社会保障制度への幅広い政治的支持を得ることができる。

 最後に、アクセス保障は、各種のサービス--『教育、保育、医療・看護、介護等』--を提供する人々に労働や仕事の機会をひらくことができるし、しかもこの種の労働や仕事はそれぞれの地域に定着しうる(余所に移転することが困難な)ものである。

 このように、アクセス保障は、個人に財を分配することではなく、人々が市民として必要とする公共財(公共サービス)へのアクセスを保障することを通じて、すべての市民が特定の他者の意思に依存せずにすむ生活条件を構築しょうとするものである。

 アメリカの経済学者R・ライシュは、交通機関、教育機関、病院、公営住宅、公園などの公共財がはなはだしく劣化し、富裕層が公共の施設やサービスから離脱している現状に警鐘を鳴らしているが、日本の社会もとくに教育機会の保障や住居保障について大きな問題をかかえでいる。GDPに占める公的な教育支出の割合はOECD諸国のなかで下から二番目のレベルにあり、公営住宅の供給や家賃補助心きわめて不十分である。こうした公共財の不足は、人々の生計を圧迫し、学資ローン等の大きな負担を若年者に負わせている。

補完的な所得保障

 いま挙げた理由から、生活条件の保障はアクセス保障をベースとすべきであると考えられるが、それによって所得保障を完全に代替することはできない。社会保障の制度としては、所得保障が労働による所得およびアクセス保障を補完するとともに、あわせて自らが所有するものを自らの判断で用益できる個人の自由を擁護し、それを可能にする制度が望ましい。そうした補完的な所得保障の制度としては、「給付つき税額控除」の仕組みがある。

 これは、働くことへのインセンティブを維持しながら、就労が十分な所得をもたらさない人々に対して、税を徴収せずに所得を補う仕組みであり、そうした給付を行わない現行制度(所得控除および給付を行わない税額控除)に比べ、課税所得をもたない不利な立場にある人々の生活条件を改善することができる。これは所得調査のみで実施できる制度であり生活保護制度のような漏給やスティグマ化を避けることもできる。この制度は、アメリカ、イギリス、フランスなどですでに実施されている。

 ただし、この制度がすでにアメリカにおいて実施されていることからも分かるように、補完的な所得保障(現金給付)は、保育、教育、医療、介護、住居などのアクセス保障(現物給付)がしっかりと整備されていなければ、人々の生活条件を十分性のレベルにまで引き上げることはできない。

ベーシック・インカムについて

 雇用の機会が今後さらに減少していくことが予想されるなかで、労働の有無に関わりなくすべての人々に所得を保障する制度、すなわちベージック・インカムの制度について論じられることが多くなった(これは、所得や資産の多寡とは無関係にすべての市民に対して定期的に一律の現金--たとえば月額七万円ほどの--を給付する制度である)。ベーシック・インカムは、労働による生活保障を主、労働する能力/機会を持たないものに対する生活保障(社会保障)を従とする、これまで長く受け入れられてきた考えを根本から問い直し、この関係を逆転するものである。

 労働する能力/機会をもたない人々を劣位の者として扱う規範を疑問に付し、ともかくも労働することへと駆り立てる強制的な圧力から人々を解放するという点で、たしかに、この制度構想は大きな魅力をそなえている。基礎所得が保障されれば、自らにとってやりがいのある仕事や活動に従事しようという意欲が喚起され、社会はより多様な生き方をする人々から構成されるようになるかもしれない。

 しかし、今日の条件のもとでこの制度を導入することは難しいと思われる。この制度を維持していくためにはかなりの財源が必要であり、その財源は働こうとするインセンティブが多くの人々から失われないかぎりで得られる。とすれば、この制度によって保障される所得は、そうした労働へのインセンティブを損なわない程度に抑制される必要がある。それに加えて、この制度のもとでは、働く人々の抱く不満は、働かない人々へのルサンチマンに転化しやすく、制度への支持はきわめて不安定なものになるだろう。

 ベーシックインカムは、先に引用した見田宗介の文章にある、「就労」(主)と「福祉」(従)の関係を逆転し、生活の保障を労働から切り離すラディカルで魅力ある制度構想である。しかし、この制度は、かなりの好条件がそろわなければ持続可能なものとはならず、そうでない条件のもとでは、むしろ負担をおう者と受益する者との間に分断を生みだしやすい。

 この先も就労機会の減少が避けられないとすれば、P・ヴァン・パリースらが指摘するように、その機会それ自体が貴重な財となり、それをどのように分配するかという課題も緊要なものとなっていく。それに対しては、労働時間を短縮することによって就労の機会をより多くの人々に分配するというワークシェアリングによって対応し、それが所得の減少をともなうとすればそれを補完型の所得保障によってカバーするのが基本的な方向性であるように思われる。
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