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第四次産業革命のシナリオ

「第四次産業革命」のシナリオは合っていない

 産業からシステムを変えて、個人に影響を及ぼすというシナリオです。ムーアの法則のように指数関数的な産業での変化を元にしている。完全に人間がついていけない状態になっている。

 デジタル化もケータイにしても人間はついてこれていない。だから、コメンターのような者が増えてきています。分散しているだけです。つながりで分化するだけで、統合できない。結局、バラバラのままで、人類そのものが終わってしまう。

 これは向きを逆にすべきです。人間から変えていくことで、その上で産業を取捨選択する。基本はシェアです。使うと言うことです。持つことでも、変えることでもない。

リーダーが存在しないのが特徴

 自動運転車にしても、争う技術ではなくて、今までの車が中途半端だと言うことです。「リーダーズ」ではすごいことをやったという感覚で語られているけど、すごい悪を作っただけです。

 まず、雇用に影響を与えると言っているけど、雇用自体が一番の問題です。その形態そのもの、、個人を枠に納めようとすること、ハイアラキーの枠に収めることが問題です。多様性が生かされない。生きている理由が明確にされない。

未唯空間の説明資料

 未唯空間の説明を余裕がある時にプレゼンのカタチにしましょう。その為に、何に気をつけたらいいのか。

  ・だから、どうしたいのか。

  ・結論に至までのストーリ

  ・参考資料の扱い方

  ・キーワードは明確に

  ・配置の考え方を活かす

考えがドンドン変わっていく

 これから、未唯空間の見直しも遅くなりそうです。考え方がドンドン変わってきている。逸れも根底から変えるようなものが。表層は変わらないけど。

 本を書く人は、その時点でよく止められる。いくらでも考えが進んでいくのに、無理矢理停止させて、これが全てという。哲学もそうですね。ドンドン変わっていくのに、結論はこれって言わざるを得ない。

 ウィトゲンシュタインのように、これが全てと言えるのは奇跡ですね。多くの哲学者は亡くなった後に出版する。または、本人は何も残さずに感化された人が本にして残す。本がダメなのは固定的な表現しかできないことです。

Yahoo!リアルタイム

 Yahoo!リアルタイムは時々刻々とコメントが上がってきます。これを頭の中で総合的にして、形作るけど、その次には違う状況になります。乃木坂の情報などはバスラにしても、Yahoo!リアルタイムで見ていた。蘭世はひめたんへのメッセージを出したのも、ほぼ、リアルタイムで追いついた。

 こういう時代に追っていくのは難しい。だから、先回りする。未来から考えます。

「とんでもなく役に立つ数学」の一節

 「高速道路の渋滞はどういうときに起きるのか。どうやってなくせるか」

 こんなモノは簡単です。車を減らせばいいんです。そして、移動することをなくせばいい。それが数学です。原因を明確にする。本質を求める態度です。

 数学の本になると、数式が出てきます。だけど、大学で習った、四方さんの位相幾何学には数式は出てこなかった。出てきたのは、(0,1)区間だけです。そこでの連続性、局所での位相、そして、全体を作ること。

 逆に言うと、全体のインバリアントから空間を作ること,その空間が役に立つこと。なぜ、そういう数学が世に出ないのか。四方さん、作ってよ!

四方教授の最期のメッセージ

 四方教授の4年生最期のゼミでは、抵抗回路の作り方をならった。

 ある抵抗を作るのに、計算して,正確に計った、切断する方法はナンセンスだということ。適当に切って、抵抗を計って、抵抗の目的に併せて、それを袋に入れればいいんだ。それが位相幾何学です。これを最期に贈られた。有意義だった。人生を変えられた。

 そこにあるのは、「割る」という考え方です。インバリアントで割る、目的で割ると言うこと。位相幾何学の最大の特徴である「いいかげんさ」がそこに生きています。

本からDNA抽出

 本から抽出するルールが決まってきた。未唯空間との関係です。例えば、不平等、統合、デモクラシーなどの言葉で抽出します。キーワードのつながりは未唯空間にあります。それと一致するモノを持ってきます。

 OCRがキッカケ作りになっている。アンチを含め、そのキーワードから問題意識を創出させることです。言っていることは,反対していることも多い。

新しい社会保障の答

 社会保障にしても、答を簡単にすることです。言っているのではなく、どうすればいいのかからすると、事前補償なのか,事後補償なのかです。個人の責任なのか、社会での共有なのか。そこから、ベーシック・インカムを出てきます。

OCR化した本の感想

 『第四次産業革命』

  第四次産業革命でシステム変革といっているけど、産業にとって、都合のいいことを述べているだけです。「作って売る」という基本的な部分が保障されていない。消費者資本主義そのものが継続できることが証明されていない。

  その上で、社会、個人への影響というのは、論点が逆です。いつまでも産業が主役ではない。マーケティングは細胞から心臓に向かって動き出す。個人の多様性を活かす形での循環になっていく。

 『二十一世紀の若者論』

  ここで言っているオタクのイメージは過去のモノです。「電車男」の時代です。今や、乃木坂などのアイドルグループを取り囲むのはオタクを核にして、周辺に拡がったいる。ベビメタルに至っては国境とか年齢層が完全に異なっている。

  その分野のオタク論を述べる時の中心はコミュニティ論になる。ジンメルではないけど、国と個人の中間の存在としてのコミュニティのあり方になる。

 『長倉洋海の眼』

  9.11の直前にマスードは自爆テロで亡くなった。かれが生きていれば、多分、9.11次隊は起こらなかったかもしれない。そのまま、テロを実行したら、アフガニスタンを真っ当なカタチで支配されてしまうぐらいはビン・ラディンでも予測ついたでしょう。

  そういうことを三ヶ月後に知った。その時点で,何も知らない自分を知った。新刊書に絞って、借り出し冊数を倍の年間1200冊にした。30冊×40週=1200冊。
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アフガン戦士マスード

『長倉洋海の眼』より ⇒ 9.11後にマスードと長倉さんを知った。自分がいかに知らないかを知った。本の借り出し冊数を倍にした。年間1500冊以上。

アフガン戦士マスードとともに

 「対ソ戦の英雄」と紹介された若者の姿をテレビのニュース映像で初めて見たとき、その存在に惹かれた。80年、ソ連軍侵攻下で撮った写真を雑誌などで報告してきたが、日本の読者には伝わっていないと感じた。破壊された戦車や撃墜されたジェット機、ソ連兵の死体、壊れた民家や国外に逃れる難民たち。そうした「戦争らしい写真」では、もう人の関心を引かないのではないか、もっと人間に迫ったドキュメンタリーが撮りたいと思った。戦士側の機関誌でも、「比類ない智略を発揮し、ソ連軍の大攻勢を何度も退けてきた司令官」と紹介されていた。その若者の名はアハマッド・シャー・マスード。彼は「死ぬこと、生きることをどう思っているのだろうか」「恋人はいるのだろうか。結婚をどう思っているのか」--。同年代の若者として聞いてみたいことがたくさんあった。戦争の中に身を置く一人の人間の苦悩や喜びに触れてみたいと、83年3月、日本を発った。

 隣国パキスタン西部の街ペシャーワルで待機すること35日、マスードの故郷パンシールに向かうイスラム戦士に同行することができた。旅に出て12日目、出会ったマスードを目の前にして、「あなたと暮らしたい。あなたを通して、この戦争を日本に、そして世界に伝えたいのです」と一気にペルシャ語で話しかけた。彼が最後に「ありがとう」とつぶやくように答えた瞬間、飛び上がりたいような気持ちになった。世界から多くのジャーナリストが訪れても、生活をともにした者はいないと聞いていた。しかし、ソ連軍や敵対するゲリラ勢力の待ち伏せ攻撃、夜間の渡河、地雷原の走破、岩棚に寝泊まりし、粗食に耐えた12日間の旅の苦労がやっと報われたと思った。マスードは私の思いを察したのか、静かに微笑んでいた。

 ともに暮らして彼のエネルギッシュさに驚いた。120キロの渓谷沿いにある5つの事務所を順繰りに回り、待ち受ける村人たちの相談に応じる。地域の行政や教育の担当者、イスラム戦士の地域司令官とも会合を重ねる。その合間にゲリラ戦を学ぶために全国から集まった戦士志願者に訓練を施し、提携を求めてやってくる各地の司令官だちと会談をする。睡眠時間は4時間前後だったが、早朝一番に起き出し、仲間たちを礼拝に起こす。彼の底しれぬ行動力に圧倒された。

 岩だらけの悪路をソ連軍から奪ったジープで移動。途上で老人が手を上げると必ず車を停め、話を聞く。危険も多かった。マスードがソ連とカブールを結ぶ幹線を攻撃することに手を焼き、攻勢をかけても勝利できないソ連軍は100万ドルの賞金をかけて暗殺隊を送り込んできた。米国からの武器を供給するパキスタンも、意のままに動かない彼に敵意を見せていた。それでも幾度も危機を乗り越えてきた。

 そのマスードを支えているのはイスラムヘの信仰心、そして、祖国への思いだ。アフガニスタンは民族の対立がうずまいていた。民族や宗派にとらわれないアフガニスタン--。それがマスードの夢だった。しかし、深夜に起き出しコーランを唱えながらクルミの木の周りを回る姿や、仲間との礼拝が終わっても座ったまま神に語りかけるような姿を見たとき、その夢の実現の困難さを思った。

 1993年春、ついにソ連軍を撤退に追い込んだマスードは首都カブールに入城、イスラム暫定政権の国防大臣となった。しかし、旧ゲリラ組織の権力抗争が続き、95年には、パキスタン軍部が支援する過激派組織タリバーンが首都に迫ってきた。一度は攻勢を退けたものの翌年、東部戦線司令官の寝返りによって首都防衛網が崩れると、「市街戦になれば首都がこれ以上に破壊される」とマスードは撤退を決意、その後は北部を拠点に抵抗を続けた。

獅子よ眠れ

 2001年9月9日、マスードはアラブ人のテレビインタビューに応じる最中、カメラとバッテリーに仕込んだ爆弾が咋裂し、命を失った。自爆テロだった。事故の知らせを受けたときは信じられず、間違いであってほしいと願った。しかしその思いはついに届かなかった。

 私がマスードの墓前に立ったのは事故から2ヵ月後だった。彼が眠る大地に手を置くと、ほんのりと温かさが感じられた。彼はまだ生きているような錯覚を覚えるほどだった。その夜、戦士たちと食事をしているとき、カブールから「タリバーンが撤退し、マスード派の戦士が首都に入った」という無線連絡が入った。マスードの墓参りを果たした日に、タリバーンが撤退した……その奇遇に驚いた。

 多くの戦士たち、地域の住民に愛され続けた指導者マスード。最初の生活の中で、「いつ死ぬかはわからない。ただ、そのときまでを懸命に生きれば、神が見ていて喜んでくれる」と話したことがあった。生の一瞬一瞬を燃焼させながら49年を駆け抜けたマスード。彼はいまもサリチャの丘から愛してやまなかった祖国と人々を見守っている。
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社会学的オタク論へ

『二十一世紀の若者論』より オタクたちの変貌 ⇒ オタクをコミュニティでのコメンターから分析するキッカケにする

こうしたオタクの相対化を経たうえで、いかにオタクを論じたらよいのだろうか。

この点については、もっぱらメディアの悪影響を嘆いたり、あるいは奇異な心理的特性によるものとみなしたりするなど、近視眼的にならぬように、むしろ時代ごとの背景も踏まえて、社会学的に論じることが重要ではないだろうか。そしてそのような社会学的オタク論の系譜が存在してきた。

社会学的なオタク論には、いくつかの特徴がある。一つには、多くのオタク論と同じように、そのコミュニケーションに着目はするのだが、それをまったく新しい奇異なものではなく、ある種の合理性をもって存在してきたものとしてとらえ、それゆえに、肯定か否定かの極論に直接的には関与しないということである。

もう一つには、どちらかといえば社会の側が変化したために、オタクに対する見方が変わってきたのではないか、というとらえ方をすることである。

たとえば筆者は以前、オタクの特徴を「想像力の文化」と呼び表し、現実を超え出たものに想いを寄せ、現状に肯定的な立場をとらないようなそのコミュニケーションが、長らく日本社会において、男性たちが担うべきものと思われてきたこと、そしてそれが、戦前や高度経済成長期のような近代化の著しい段階における、ある種の「時代の要請」のようなものであったことを、鉄道オタクの歴史から明らかにしたことがある。具体的には、そこには四段階にわたる歴史的な変化があり、明治期から敗戦時に至るまでの近代化過程の中で、発展を遂げる日本社会を蒸気機関車の姿に重ね合わせた「空想の時代」や戦後、経済的成長に特化する中で想い描いた未来像を新幹線に重ね合わせた「夢想の時代」を経て、低成長期に入るとそうしたポジティブな「想像力の文化」が抱きづらくなり、ノスタルジーや虚構を愛でるようになる「幻想の時代」や、それがより強まって今日の「妄想の時代」へと至ることを明らかにした。

こうした「想像力の文化」は、「空想の時代」や「夢想の時代」といった遠い過去においては、その担い手はオタクではなく「少年」と呼ばれる輝かしき存在であった。しかし「幻想の時代」以降においては、成熟した社会の訪れとともに、ファッションやデートカルチャーといった消費文化が席巻するようになり、「想像力の文化」は相対的に評価が低下して、「オタク」の特徴とみなされるようになっていったのである。

同様の認識は、社会学的オタク論におけるいくつかの代表的な研究においても述べられてきたことであった。

たとえば、宮台真司らの『増補 サブカルチャー神話解体』や『制服少女たちの選択』においては、一九七〇年代以降の情報消費社会化の進展とともに、「新人類」と呼ばれた若者たちと並んで「オタク」が登場してきた時代的な背景が分析されている。すなわち、それ以前の時代のように、欧米の先進社会に対する「理想」や未来への「夢」を抱きやすかった状況とは異なり、高度経済成長も終わりを迎え、さらに学生運動をはじめとする諸々のカウンターカルチャーも敗北したのちの情報消費社会においては、「現実」を超え出るような目標は急速にそのリアリティを失っていき、そうした状況下で、若者たちの対応の仕方が大きくニパターンに分かれることとなったのだという。その一つ目が、消費の記号と戯れながら「いまここ」の「現実」に適応していく若者たちであり、二つ目が、それでもなお「虚構」の中に「現実」を超え出るものを見出そうとしていった若者たちであった。前者はファッションやデートカルチャーといった華々しい消費文化に戯れていく「新人類」と、そして後者はマンガやアニメ、ゲームといった虚構との親和性を高めていった「オタク」と名指されることになり、とりわけ一九八○~九〇年代ごろにおいては、前者の文化が隆盛を迎えたのは事実であるが、このように考えてみると、「新人類」と「オタク」は、対極的な存在であるかに見えて、実は出発点は同じだったのだという。宮台らは、この時期の特に「オタク」たちにおける変化について、より具体的には「SF同好会からアニメ同好会へ」の変化と呼び表した。すなわち高校などの部活動において、未来を「夢」見てSF小説をむさぼり読んでいた若者たちの集いは、この時代になると徐々にアニメ同好会へと遷り変わっていったのだという。

こうした認識は、森川嘉一郎の『趣都の誕生』や、東浩紀の『動物化するポストモダン』といった、他の代表的な社会学的オタク論にも共通するものである。森川は、オタクの集う秋葉原という都市空間(あるいはそれと対照的に「新人類」が集う渋谷などの都市空間)に注目してこうした歴史的な変遷を論じており、また東は、インターネットの普及を経た一九九〇年代以降の「萌えヲタ」と呼ばれるような「オタク」たちのふるまいに注目した。

東の分析について触れておくならば、一九九〇年代以降のオタクたちは、コンテンツの虚構世界に対し親和性が高いこと自体は変わらないものの、その関心の向け方において、「作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心」になり、「原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく」ようになったのだという。こうした動向は、先に述べた「妄想の時代」とほぽ重なるものだが、その典型ともいえるのが「萌え」と呼ばれるふるまいであろう。具体的に言えば、一九八〇年代のアニメ『うる星やつら』であれ、同じく一九九〇年代の『エヴァンゲリオン』であれ、そのヒロインが人気を博したのは、ストーリーによるものという以上に、「猫耳」と呼ばれるような「萌え要素(卜感情移入のための断片的な対象)」を持ち合わせていたことが大きいのである。

このように、「萌え」に代表されるような、コンテンツの内部で完結する設定やキャラクターの諸々の特徴の組み合わせだけを楽しむようになったふるまいを、東は「データベース消費」と呼び表した。そしてその背景には、マスメディアがその時代の先端的な情報を占有的に送り出していた状況とは異なり、インターネット上に、過去から現在に至るまでのコンテンツに関する膨大な情報(データベース)が、溢れかえるようになってきたという時代変化が存在していたのである。
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第四次産業革命での不平等の悪化

『第四次産業革命』より 第四次産業革命とは何か

根底からのシステム変革

 本書の前提は、テクノロジーとデジタル化が万事を大きく変革するということだ。使い古されているうえにたびたび間違って使われてきた「今回は違う」という言葉は、今回にこそ当てはまる。主要な技術革新は、いままさに世界中の重要な変革に勢いを与える寸前にあり、これはもう不可避なのだ。

 変革の規模と範囲を考えれば、破壊とイノベーションが急速なものに感じられる理由が明らかになる。イノベーションの開発と普及のスピードはこれまで以上に速い。いまやおなじみとなったエアビーアンドビー、ウーバー、アリババといった現代の破壊者たちの社名は、わずか数年前にはほとんど知られていなかった。また、いまではあちこちで使われているiPhoneが最初に発売されたのは二〇〇七年のことで、二〇一五年末時点で二〇億台ものスマートフォンが使用されている。グーグルが最初の完全自動運転車を発表したのが二〇一〇年のことで、こういった自動運転車が広く普及し道路上を走るのはもう間もなくだろう。

 事例はもっとある。だがスピードだけでなく、規模に関する収穫も信じがたいものとなっている。デジタル化とは作業の自動化を意味し、それは企業が収穫逓減の法則を経験しなくても済む(あるいは収穫逓減の度合いが弱まる)ことを意味している。この意味を理解するために、一九九〇年のデトロイト(当時の伝統的産業の主要な中心地)と二〇一四年のシリコンバレーを比較してみよう。一九九〇年当時、デトロイトの三大企業を合わせた時価総額は三六〇億ドル、収益は二五〇〇億ドル、従業員数は一二〇万人だった。二〇一四年のシリコンバレーの三大企業の時価総額ははるかに多い一・○九兆ドルで、収益はほぼ同じ二四七〇億ドル、従業員数は約一〇%の一三万七〇〇〇名だった。

 今日、富を築くのに必要な従業員数が二○年ないし一五年前と比較してはるかに少なくてすむのは、デジタル事業の限界費用がゼロに近づきつつあるためだ。さらに多くの新興企業が提供しているのは、保管、輸送、複製コストが事実上ゼロの「情報財」だというのがデジタル時代の現実である。一部の破壊的なテクノロジー企業は、成長に資本を必要としていないようにも見える。たとえば、インスタグラムやワッツアップは、多額の起業資金を必要としなかった。第四次産業革命を背景として、資本の役割とビジネス拡大のあり方は変化している。全般的に見て、収穫逓減しないことがさらに規模を追い求めさせており、システム全体の変革に影響をおよぼしている。

 スピードや広がりのほかにも、第四次産業革命がユニークなのは、非常に多くの専門分野や発見の調和や統合が増大していることだ。さまざまなテクノロジーが相互依存状態にあることで生み出されるイノベーションは、もはやSFの世界の出来事ではない。たとえば、今日のデジタルファブリケーションの技術は、生物学の世界と相互に交流している。デザイナーや建築家のなかには早々と、コンピューター設計、付加製造(3Dプリンタ)、材料工学、合成生物学を融合して、微生物、私たちの身体、私たちが消費する製品、さらには私たちが住む建物の相互作用に関係するシステムの開発に取り組んでいる人もいる。その際、動植物界の特徴である「突然変異と環境適応を繰り返す」物体を製作し、育ててさえいる(原註々)。

 プリニョルフソンとマカフィーは、『ザ・セカンド・マシン・エイジ』の中で、コンピューターは利口すぎて、ほんの数年後であってもどのようなアプリケーションが使用されるか予想できないと論じている。AIは、自動運転車やドローン、バーチャル・アシスタント、翻訳ソフトなど、すでに私たちの身の回りにも存在しており、私たちの生活を変容させつつある。コンピューターの演算性能の急激な向上と利用可能になった膨大なデータのおかげで、創薬に用いられるソフトウェアや私たちの文化的関心を予測するアルゴリズムまで、AIは見事な進歩を遂げている。こうしたアルゴリズムの多くは、私たちがデジタル世界に残したデータの「パンくず」の痕跡から情報を読み取る。それに伴い、インテリジェントロボットやコンピューターが自動プログラミングを行い、第一原理から最適なソリューションを見つけ出すことを可能にする、新しいタイプの「機械学習」や自動発見が生まれている。

 アップルのSiriのようなアプリケーションでは、急速に進歩しているAI分野の一部、いわゆるインテリジェント・アシスタントの能力を垣間見られる。インテリジェント・アシスタントが出現しはじめたのはわずか二年前だが、今日の音声認識やAIの発展は急激なため、コンピューターとの対話機能が標準装備となり、一部の技術者がアンビエント・コンピューティングと呼ぶもの(ロボットのパーソナル・アシスタントが常にノートをとり、ユーザーの疑問に回答できるよう待機している)が発明される日も近いだろう。デバイスが私たちの声に耳を傾け、ニーズを予測し、頼まなくても必要なときに私たちを支援してくれるものとして、一人ひとりのエコシステムの中で存在感を増していくだろう。

構造的問題としての不平等

 第四次産業革命では、大きな利益がもたらされるが、それと同じくらい大きな問題が生じることにもなる。とくに懸念されるのは、不平等の悪化だ。不平等が高まることによる問題は、私たちの大半が消費者であり生産者でもあることから定量化が難しく、イノベーションと破壊が私たちの生活水準と幸福に好影響と悪影響の両方をおよぽすことになる。

 最も得をしているように見えるのは消費者だ。第四次産業革命は、実質無料で消費者の個人生活の効率を高める新たな製品やサービスを可能にしている。タクシーを予約する、フライトを確保する、製品を購入する、支払いを行う、音楽を聴く、映画を見る--どれもいまや手元で行うことができる。すべての消費者にとってテクノロジーが有用なものであることに議論の余地はない。インターネット、スマートフォン、数千ものアプリは、私たちの生活を楽にし、概して生産性の高いものにしている。私たちが読書、インターネットの閲覧、コミュニケーションに使うタブレットのようなシンプルなデバイスには、三〇年前のデスクトップコンピューター五〇〇〇台分の処理能力があるが、情報の保存コストはほぼゼロだ(一ギガバイトの保存コストの平均は、二〇年前は一万ドルを超えていたのに対し、今日では年間○・○三ドル未満)。

 第四次産業革命により生じた問題のほとんどは、供給側(すなわち労働と生産の世界)で起こったように思われる。過去数年にわたり、最先進国の圧倒的大部分や、中国のような成長著しい経済大国で、労働分配率が大幅に低下した。この低下の半分は、投資財の相対的な価格下落で説明できる。この価格下落自体、イノベーションの進展が要因である(これにより企業は資本を労働で代替するようになった)。

 その結果、第四次産業革命の大きな受益者は、知的資本または物的資本の提供者であるイノペーターや投資家、株主となっている。これにより、労働に依存する人々と資本を所有する人々の間に、富の差が拡大していることがわかる。それはまた、実質所得が」生増えないことや子供たちの暮らしが自分たちよりよくならない可能性があると確信した多くの労働者の間に幻滅感が広がっていることの説明にもなる。

 不平等の増加と不公正に対する懸念の増大は重大な問題なので、3章で別に論じることにしよう。一握りの人々に利益と価値が集中する状況は、いわゆるプラットフォーム効果によりさらに悪化している。デジタル企業は、幅広い製品やサービスの買い手と売り手をマッチングさせることで、規模に関する収穫逓増を享受するネットワークを構築することができる。

 プラットフォーム効果の結果、少数の強力な独占的プラットフォームヘの集中が起きる。その利点はとくに消費者には明らかである。価値と利便性が高く、コストは低い。社会的リスクも同様に明白だ。価値と権力がごく少数の人々に集中しないようにするには、協調的イノベーションをオープンなものにし、機会を広げることにより、(産業基盤を含む)デジタループラットフォームの利点とリスクのバランスをとる方法を見つけなければならない。

 これらはすべて、経済、社会、政治システムに影響をおよぼす根本的な変化であり、グローバリゼーションのプロセスをどうにかして逆回転させたとしても元に戻すことは難しい。すべての産業と企業の疑問は例外なく、「破壊があるのか?」ではもはやなくなり、「破壊はいつ、どのように、どんな影響をおよぼすのか?」というものになるだろう。

 破壊が現実であり、破壊が私たちにおよぽす影響が不可避であるといっても、それに直面する私たちが無力だというわけではない。政策の選択肢を増やし、第四次産業革命をすべての人々の機会とする変革を実施するために共通の価値を築くのは私たちの責任である
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