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ヘーゲルはわかりやすい若者ではない

『メルロ=ポンティ 哲学者事典』より へーゲル、ゲオルクヴォルヘルム・フリードリヒ ⇒ 出だしが気にいった。「歴史哲学」はすごいと思う。

ヘーゲルはわかりやすい若者ではない。ただし、そう言ったのは批判のつもりではない。哲学者というものはみなむずかしいのだから。おそらく最もむずかしいのは、デカルトのように明晰に書いたり、プラトンのように偉人な詩の力で書いたりする人ダだろう。わたしたちは彼らにまず魅了されてしまうのだが、その奥深さと高みが見えてくるのは後になってからなので、本当に彼らを理解したければ、そこからもう一度、ゆっくりと一歩ずつ、苦労して、その奥深さと高みに挑まなければならないのだ。それとはまったく反対に、これはいつでも断言してよいが、ヘーゲルはその文体の魅力によって読者を誘惑したりしない。信しがたいほどに簡潔で、正薙さに気を遣い、他のことには無頓着な彼の文章は、最初の一行目から読者に警戒心を起こさ廿る。それは、読んでも楽しくない著作、きわめて大きな注意と、きわめて高い精神の緊張とを必要とする著作なのである。

だが、丈体から発するこうした警告が、結局のところは理解を助けてくれるのである。読者は、このような著作を急いで読み進めようとは思わないし、あまりに自明に見えるので、ヘーゲルの言うしかじかのテーゼを認めたがらないし、あまりに力強く語りかけてくるので、しかしかの比喩的表現を信川したがらない、というわけである。わたしたちは思考の流れを反省し、検証し、解きほぐそうと努めるだろう。こういったことはすべて、読者にはあまり楽しくないにしても、理解の助けにはなるはずである。しかしここには何かしら皮肉なもの、つまりが定的なものがある。つまりヘーゲルの書き方は、その哲学のむずかしさをめっき加工で隠すかわりに、むずかしさを端的に表わすのだ。それは、複雑なものを単純なものと取り違えて、余計にむずかしくなるのを防いでくれる。しかし、この助けによっても、ヘーゲル哲学の複雑さそのものと、元からあるむずかしさはなくならないのである。

したがって、繰り返しになるが、やはりヘーゲルはむずかしいのである。もしかしたら彼は、もっ犬不気味で、もっと無愛想かもしれないし、いささか厳格で気むずかしい姿を見せるかもしれない。しかし、だからといって彼は、熱意をもち忍耐力のある読者を受けつけないわけではない。哲学者はみなこの種の読者仁語りかけ、一方で読者は、その熱意を獲得し、その忍耐力を保つために骨を折るのである。ヘーゲルの書くものに人して魅力はなく、名文家としての優れた技法がないと彼を非難したとしても、わかってもらえるだろう。だが、彼はたしかに、世間に謎を差し出したり、玄人にしかわからない言い回しを提案したり、無遠慮な。人や読者の資格をもたない人を追い払うために、奥底や本質を隠したりするような類の人ではないのだ。ヘーゲルにとっては、誰も無遠慮でも無資格でもない。彼にそうした名文家の技法がないのは、まさにすべての人、忍耐力と熱意とを引き換えにしてヘーゲル哲学への入場券を得たいすべての人にとって、近づきやすい存在であろうとした結果なのである。

このことからすれば、彼は、他の偉大な哲学者だちよりも近づきやすい存在であってしかるべきだろう。ところが、専門家や、教養のある目の肥えた読者の判断によれば、彼は少しもとっつきやすくはないのだ--正しい判断である。ヘーゲルは、ただ哲学者であるという理由だけでむずかしい著者なのではない。哲学者のなかでも、よりいっそうむずかしいのである。

このことには二つの理由を割り当てることができる。あまりに軽々しく、ヘーゲルがむずかしい理由は次のことだけだと主張する者もいる。その理由としては、ヘーゲルの思想の詳細がむずかしいのは、明快でなく、不完全で首尾一貫性がないという意味だとか、主要な諸概念が、学問や条件や態度の歴史的進化によって時代遅れになってしまったとか、言葉の意味が変わってしまい、今の時代にヘーゲルを理解すべき者には多大な努力が必要となる、といったことである。しかし、このような非常に現実的な障害物はどこにでもあり、ヘーゲルの場合にだけ特別な事情があることを説明してはくれないだろう。さて、ヘーゲルが哲学者のなかでもいっそうむずかしい理由は、次の見出しでまとめられるように思われる。ひとつは、哲学史に占めるヘーゲルの位置であり、もうひとつは、彼の思想の意図である--しかも、ただちに付け加えておきたいが、その位置はその意図のゆえに独特であり、その意図は、それが歴史上のある特定の時期に出現したがゆえに独特なのである。それでは、こうしたむずかしさから出発して、ヘーゲルの哲学を輪郭づけてみよう。そうすることによって、彼の哲学がいっそう明らかとなり、彼の哲学の意味と、わたしたちにとっての意義とがいっそう明らかになるのは、不可能なことではない。

さらに忠告をひとつしておこう。以下ご覧になるのは、体系の要約や、ヘーゲルとは何かということを二、三行で知りたい人にとって最も便利な、原本のかわりにできるミニチュアサイズの複製品である、などと期待しないでいただきたい。思想の価値は、その細部のなかに、その彫琢の全体のなかにある。究極的な真理や、奥深いものの見方や、絶対的な暴露といったものは不条理か無内容である。別の言い方をすれば、原理というものはその展開のなかで証明されるのであって、最初からなかにめるのはせいぜい約束とプログラムにすぎない。こういうことを最も強調した哲学者こそ、ヘーゲルなのである。この企画がうまくいけば、なぜヘーゲルがわたしたちにとって生き生きとした現実をなすのかを示したことになる。しかし、わたしたちは、この現実とはいかなるものかを示すつもりはない。この現実はあるがままのものであり、それ自身の諸条件のもとでしか、見物人には見えてこないのである。

今のところヘーゲルの哲学は、数々の偉大な哲学のなかで、最後のものである。したがって彼の哲学は、他のどんな哲学も彼の哲学にとって代わっていないという意味では、最初の現代哲学でもある。最初の近代哲学ということではない。誰が最初の近代哲学者だったのか、たとえばデカルトか、ヒュームか、カントか、ということをめぐってなら、意見がまとまるまでに長いあいだ議論することができるだろう。ヘーゲルは、過ぎ去ってしまったと感じられるような時代には属さないという理由で、たんに近代的なわけではない。彼は現代=同時代の人なのだ。つまり彼の哲学は、依然としてわたしたちの世界について語っている。わたしたちに向けて語っている以上に、わたしたちについて語っているのである。わたしたちがこの哲学に同意を表明するのかどうかはまったく別の問題である。ヘーゲルの哲学は、わたしたちについて我慢ならないことを言うかもしれないが、しかしこの哲学がそんなことを言うのは、わたしたちについてなのであって、他の時代や他の世界の人々についてではないのだ。

そのようなわけで、ヘーゲルの哲学は、歴史の結び目と呼んでもよいものをかたちづくっている。この現象をなすのは彼一人だけではない。たとえばアリストテレスについても、同じくらいの理由で同じように言ってよいだろう。これは、歴史における特昼点のことである。すなわち、過去のすべての糸がそのなかで交わり、集められ、取りまとめられ、秩序づけられた後--しばらぐの聞かそれとも永久にか--そこから糸がまた分かれる、そのような地点のことである。このような地点とそこに位置する偉大かまとめ役は、思想の革命と現実の革命の後に登場している--プラトンと古代都市の終焉の後に、カントとフランス革命の後に。あちこちからの水がひとつの巨大な池のなかに集まり、今度はあらゆる方向に分かれる。湖自作が支流の体系を組織しているので地理学者が支流図を描くのはむずかしくないだろう。しかし川の流れは、まだ最後まで流路を掘り切っておらず、流れの道行きか探しているところであり、その終着点はわからない。なので、地理学者がその川の流れを製図するように頼まれたら途方に暮れるだろう。一人だけを帚げるにとどめておくが、アリストテしスに関してはおおよそのところ、その体系から生まれた流れがどのふたりにあったのかがわかっている。しかし、ヘーゲルに対してはわかっていない。わたしたちは、その方向が未だ知られない波に運ばれ、波の流れのままに進んでいるのである。
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