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ドイツとフランスの緊張にみちた関係

『ドイツ・フランス共通歴史教科書【近現代史】』より

第二次世界大戦中のドイツ社会

 ドイツにおける終戦までのヒトラーの人気と体制への抵抗の弱さは、どのように説明できるか。

 比較的高い生活水準

   ヒトラーは、「故郷」が前線で戦う兵士を見殺しにしたために1918年に敗北したという誤った理解の記憶に突き動かされていた。ゆえに、彼は1916年から1917年にかけての飢餓と窮乏と似たような状態になることを避けるためなら何でもした。1日当たりの食糧配給量は1939年に2400キロカロリーと定められ、1945年初頭までは2000キロカロリーを維持した。それは他の欧州諸国の人々が摂取したよりも、はるかに多かった。状況が深刻になったのは、戦争の最後の数カ月のことである。

   1940年3月から軍需大臣に就任したフリッツ・トットの圧力によって、国家は経済への統制を強めた。 1942年2月以降も、後継者アルベルト・シュペーアはその政策を継続し、特に生産の集中化と合理化を進めた。しかし、とりわけ占領地域の徹底した収奪と600万人の労働力のドイツヘの連行によって、体制は、ドイツ国民に通常とはほとんど変わらない生活ができるという幻想を抱かせようとしたのである。

 戦争の中で苦しむ民衆

   それにもかかわらず、ドイツはフランスと違って、第二次世界大戦中に第一次世界大戦よりもはるかに傷ついた。特にドイツ兵の戦死者の半分以上をもたらすことになる東部戦線が開かれて以降、人命の喪失は著しく増加した。死者の数は350万人を超えたとされ、1925年生まれの男性の40%が亡くなった。

   大都市は連合軍の空襲による激しい爆撃にさらされ、特に焼夷弾が使用されたことにより、死者数が増えた。1943年7月24日から8月2日までの爆撃だけで(「ゴモラ作戦」)、ハンブルクでは4万1500人の住民が死亡した。1945年2月13日から14日にかけての連合軍最後の大空襲であるドレスデンヘの爆撃では3万5000人の死者が出た。

   戦争中、「第三帝国」が東部で行った犯罪的な暴力は、今度はドイツ東部地区の住民にはね返ってきた。彼らを守る者はなく、ソ連軍の弾圧を前にして逃亡を余儀なくされた。戦争の最後の数カ月間で東部地区では50万人の民間人が命を落とした。

 孤立し、少数派となった抵抗運動

   民衆は1939年の開戦に熱狂はしなかったが、強力な国民の連帯は存続し、1943年から続く一連の敗北によっても、それがくつがえされることはなかった。 1943年2月にゲッペルスがすべてのドイツ人に「総力戦」に向けて準備するように呼びかけたとき、彼は「総統」の絶大な人気が相変わらずあり、それを当てにすることができることをわかっていたのである。

   戦争によって、あらゆる形の組織化された抵抗が、いっそう不人気で危険なものとなった。他のヨーロッパ諸国の闘士たちと異なり、ドイツの抵抗運動の闘士たちは、解放者ではなく裏切り者と見られるという事態に直面した。1943年2月に死刑を執行された白バラの学生たちは、その行動によっても、わずかしか世論の反響を呼ばなかった。1944年7月20日のクーデターの試みは、ヒトラーの命が失われていたかもしれないという意味で、体制にとって、はるかに危険なものであったが、それに参画したのは軍部と保守派の少数のエリートに過ぎなかった。

   はるかに数が多かったのは、積極的な抵抗ではなく、民間の反抗(不服従)やナチスの政策の一定の局面に反対する反対行動であった。また、プロテスタント教会監督のテオフィル・ヴルムとクレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン司教が、T4作戦への世論の批判をもって、短期的に政権側の譲歩を引き出すことに成功した。それに対して、ユダヤ人の運命は限られた個人の反応しか呼び起さなかった。

ドイツとフランスの緊張にみちた関係(1919~1939年)

 かつて互いに主要敵であった両国の関係は、どのように発展したか。

 独仏間の「冷たい戦争」(1919~1924年)

   1919年以降、独仏間の平和条約をめぐる交渉は厳しい緊張関係のもとで進められた。フランスは確かに勝利を勝ち取ったが、非常に疲弊しており、ヴェルサイユ条約の決定を厳密に実行することを目標とする政策を取った。しかし、この条約はドイツからは「強制」と見なされ、ドイツの修正政策を招くものとなった。

   独仏間の「冷たい戦争」の中心には賠償問題があった。フランスの国民ブロ雀グ政権は、[ドイツが支払うであろう]という決まり文句を繰り返した。ドイツ政府はわずかな支払い能力しかないことを示し、この議論はロンドンとワシントンで一定の共感を呼んだ。そして1923年にレイモン・ポアンカレ首相が、ルール地方を「生産上の担保」として占領することを決定すると、危機は頂点に達しか。ドイツは「ルール闘争」をもって応じたが、この闘争を若きヴァイマル共和国は成功裏に終わらせることができなかった。というのも、ヴァイマル共和国はハイパーインフレーションと内政上の強い緊張関係と闘わなければならなかったからである。

   この危機は、イギリスとアメリカによって行使された圧力とフランスの政権交代によって脱せられることとなった。 1924年にドーズ案が受け入れられ、翌年、ルール地方からフランスが撤退した。

 ロカルノとジュネーブの「精神」(1924~1932年)

   グスタフ・シュトレーゼマンとアリスティード・ブリアンは、緊張緩和を実現した最初の独仏の「カップル」であった。両者はロカルノ条約に調印し、その中でドイツは西部国境線を承認した。そして、それに基づいてドイツは1926年に国際連盟に加入することができた。 1926年、二人は独仏の和解をもたらしたことを評価されて、ノーベル平和賞を受賞した。このことにより、ブリアンはヨーロッパの理想を再び政治日程に載せることとなった。

   その後数年間は「ロカルノと(国際連盟の本部があった)ジュネーブの精神」が支配した。つまり対話を重視する態度であり、それは当時の好調な経済に支えられた。しかし、批判はなくならなかった。独仏両国で民族主義的右翼は、「裏切り者」と叫び、激しく攻撃した。この批判に対する反応は、両国で異なっていた。ブリアンは、弱体化したフランスには他の選択肢はないとの認識のもと、権力ではなく、法に基づく新たな外交を誠実に擁護した。それに対して、常に国家の守護者としての姿勢を取ってきたシュトレーゼマンは、ヴェルサイユ条約の修正を達成する上で、自らの政策を最良の手段と考えていた。

   ヤング案によって、ラインラントを予定よりも早く明け渡すことが1930年に可能となったが、その実現は世界経済危機によって困難になった。賠償金の支払いは、1932年には完全に停止された。もはや、どの国も国内問題に集中したのである。

 後退(1933~1939年)

   1933年1月のヒトラーによる政権掌握は、独仏の接近に著しい困難をもたらした。 1933年10月にドイツはジュネーブ軍縮会議と国際連盟から脱退した。

   1935年1月、ヅェルサイユ条約によって予定されていたザール住民投票において、投票した有権者の90%がドイッヘの併合に賛成した。この成功がヅェルサイユ条約を破棄する新たな口実となった。1935年3月、フランスの徴兵期間延長をきっかけにヒトラーはドイツに再び徴兵制を導入した。1936年3月、彼は1935年の仏ソ条約をロカルノ条約違反とみなし、ラインラントに進駐した。そして、これに対するパリとロンドンのか弱い反応は、彼の力の政策を促し、戦争準備も進めさせることになった。
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ヨーロッパのにおける民族運動(1815~1949年)

『ドイツ・フランス共通歴史教科書【近現代史】』より

ヨーロッパのにおける民族運動(1815~1949年)

 民族統一と独立への努力は、どの程度まで全ヨーロッパ的な現象と見ることができるのだろうか。

 ネーション--19世紀を導く概念

  独立した主権を有する国民国家というモデルはフランス革命から始まって、19世紀の政治的な主要概念となった。19世紀前半には、民族意識の発展は解放運動の性格が強かった。民族運動はギリシア、ポーランド、イタリア、またラテンアメリカのスベインやポルトガルの植民地などでのように、しばしば他者による支配に向けられていたり、あるいはドイツやイタリアのように領邦国家によって分割された領地を一つの国民国家へと統一しようと努力していた。

   各国の民族運動の間には、国境を超えた連帯の感情が生まれた。これは例えば親ギリシア主義やポーランド熱に見られる。しかし同時にまた民族主義的なルサンチマンというものも存在し、例えばドイツとフランスの間では1840年のライン危機において浮き彫りとなった。

 ギリシア解放戦争と親ギリシア主義(1821~1832年)

   ビザンチン帝国の崩壊(1453年のコンスタンチノープル陥落)以来、ギリシア人はオスマン帝国の支配下に生きていたが、ギリシア語と正教の信仰は守ることができた。1821年、ギリシア人によるトルコ人に対する民族主義運動が起こったが、即座に鎮圧された。

   しかしヨーロッパではギリシアに同調する親ギリシア主義の流れが生まれ、オスマン帝国の支配からキリスト教徒のギリシア人を解放するためにヨーロッパ諸国が介入することを求めた。キリスト教を前面に掲げているにもかかわらず、神聖同盟の加盟国は当初、他の民族運動を君主への反逆へと刺激しないためにこれを拒んだ。1827年になって、ようやくロシア、フランス、イギリスがオスマン帝国への軍事介入を決め、オスマン帝国はナヴァリノの海戦での敗北を受けて独立国ギリシアを認めた(1829年)。1832年にはギリシアの国民議会が列強の勧めによりバイエルンの王子オットー・フォン・ヴィッテルスバッハをギリシア王に選んだ。

 ポーランド--国家を持たない民族

   1830年フランスの七月革命はヨーロッパ各地に影響を及ぼし、例えばベルギーはオランダから革命によって独立した(1830/1831年)。ポーランドの民族運動もまた、フランスの例によってロシアの支配に対する反乱への勇気を得た。

   ポーランドは1772年以来、強大な隣国ロシア、プロイセン、オーストリアによる政治的な分割の犠牲となっていた。ウィーン会議ではポーランドの大部分は「会議王国」としてロシア帝国との同君連合となった。西側の部分はプロイセン領(ポーゼン)となり、南のガリツィアはオーストリア領となった。1830年には、1815年のポーランド憲法に違反したとしてロシア皇帝に対する反乱が起きた。この蜂起はヨーロッパ各地でポーランドヘの熱狂を呼び起こしたが、1831年にはプロイセンの支援を受けたロシア軍によって鎮圧された。ポーランドの自由の闘士たちは国を追われ、ヨーロッパ各国に受け入れられたが、その亡命先では解放運動、民族運動の一部として、ポーランド協会がポーランド解放のための戦いを支援した。

プロイセン=フランス戦争

 フランスとドイツにとって戦争は何を意味したのか。

 双方の意志による戦争

   ビスマルクは、ドイツの政治的統一はフランスとの摩擦なしには完成しないと考えていた。中央ヨーロッパに新たな大国が誕生することは、フランスの強国政策と安全保障上の利害に抵触せずにはいないからである。このことはすでに1866年の戦争で、ナポレオン三世が自らの中立およびプロイセンの勢力強化の容認と引き換えに、将来にわたる南ドイツ諸国の中立とルクセンブルクとを要求し、ビスマルクがこれを拒否したことにも表れていた。

   こうしたドイツの態度はフランス国民の怒りを呼び、これは1870年にプロイセン国王の親類であるレオポルト・フォン・ホーエンツォレルン-ジグマリンゲンがスペイン王に推挙されたことでさらに悪化した。ナポレオン三世の外相グラモンはプロイセン王室によるフランス包囲を恐れ、レオポルトが候補から退いたあとも、それに加えてヴィルヘルム一世が継承権を永久に放棄することを要求した。ビスマルクはこれをフランスとの戦争開始の好機と見た。ヴィルヘルム一世はグラモンの要請を拒否したことを「エムズの電報」でビスマルクに伝えた。ビスマルクはこの電報を意図的に短縮して扇動的に変え、新聞に公表した。この侮辱にフランス政府は1870年7月19日、プロイセンヘの宣戦布告をもって応えた。

 戦争からフランス内戦へ

   南ドイツ諸国にとっては、これにより軍事同盟の発動となり、ドイツ諸国は共同して軍事的に優勢な形でフランスに立ち向かった。 1870年9月2日のスダンの戦いでフランス軍は降伏した。ナポレオン三世は捕虜となった。これに続くパリでの蜂起から、レオン・ガンペッタとジュール・ファーヴルが指導する共和派の「国防政府」が誕生した。国防政府はドイツとの戦争を継続したが、パリ包囲を防ぐことはできず、1871年1月に降伏を余儀なくされた。

   1871年2月に新たに選挙された君主制支持者が多数を占める国民議会によりアドルフ・ティエールが首相に選ばれ、厳しい講和条件を飲まされることになった。フランスは2月にすでにアルザス(エルザス)とロレーヌ(ロートリンゲン)の一部を手放し、(1871年5月10日付のフランクフルト講和条約により)50億フランの賠償金を払い終わるまでドイツによる占領を受け入れなければならなかった。これは1871年3月18日に起こった政府に対するパリ・コミューンの蜂起に有利に働いた。

 戦争の結果としてのドイツ帝国設立

   共同の戦争に勝利したことで、ビスマルクは南ドイツ諸国に対して、北ドイツ連邦とともにドイツ帝国をっくり上げるよう説得することに成功し、1871年1月1日にその憲法が発効した。1871年1月18日にはプロイセン国王ヴィルヘルム一世がヴェルサイユ宮殿の鏡の間で諸候と軍の高官とに囲まれるなか「ドイツ皇帝」に即位した。自由主義者たちの求めていたドイツ統一はこうして達成されたが、それは「下から」の民衆運動の結果としてではなく、上層部と軍事力によって「上から」実現されたのである。

   皇帝即位宣言の場としてヴェルサイユが選ばれたことは、フランスにとって大きな屈辱であった。ヴェルサイユ宮殿はルイ十四世時代のフランス王国の偉大さと、また1789年にここで国民議会が開催されたことから、主権を持つ国民の誕生を象徴する場所であった。第一次大戦に敗戦したドイツが、1919年にヴェルサイユ宮殿の鏡の間で講和条約を受け入れざるを得なくなったのも、1871年の恥辱への返報であった。
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国際経営戦略は変わった 日本的特徴は消えていく

『国際経営』より 国際経営の新展開 消えていく国際経営の日本的特徴

1970年代までは、輸出中心の国際経営がつづいた。輸出から海外生産に国際経営戦略の主軸が変わりはじめるのは、1985年のプラザ合意のあとの急激な円高からである。その後、海外研究開発が行なわれるようになる。

日本企業の国際経営は、輸出、海外生産、海外研究開発の順序的かつ累積的な展開としてみることができる。順序的とは、時期的Iに、まず輸出が行なわれ、つぎに海外生産がっづき、最後に海外研究開発が行なわれることを意味している。累積的とは、輸出から海外生産に国際経営戦略の主軸が変わっても、輸出がなくなるわけではなく、輸出はひきっづいて行なわれる。ただ、国際経営の主軸が海外生産に変わる。つまり、輸出にプラスして海外生産が行なわれるのである。同じように、輸出と海外生産の2つにプラスして海外研究開発が行なわれる。こんにちでは、輸出、海外生産、海外研究開発の3つが同時平行的に展開されている。

国際経営で長年にわたって中心的な役割を演じていた輸出は、じっは、商社、とくに総合商社を通じての輸出(間接輸出)である。そのうちに、電機、精密機器、自動車・同部品、機械、化学などの製造企業は自社の輸出部門によって直接輸出を行なうようになる。いわゆる商社離れである。こんにちでは、製造企業の直接輸出が普通になっており、商社経由の間接輸出は輸出のうちの一部分(特殊な市場むけや、一部の製品など)になっている。

総合商社の側にも変化が生じており、製造企業の製品の輸出をあっかうビジネスは大幅に減っており、原油、鉄鉱石、石炭、穀物など各種の資源の開発・貿易や投資事業など他の分野のビジネスをのばすことによって、成長をめざすようになっている。

1960年代になると、製造企業は海外生産をはじめる。それは、輸出を現地生産に変える性格のものが多かった。海外生産子会社には、合弁、とくに商社参加型合弁が多かった。これは、輸出が総合商社を通じてのものだったことに由来する。しかし、時代が経っにつれて、合弁が減少して、完全所有の子会社が増えていった。商社参加型合弁はほぼみられなくなづた。

1970年代前半までの海外生産には、っぎのような特徴がみられた。

 アジアなど発展途上国に集中

 小規模な工場

 労働集約的な最終生産工程

 標準化技術

 現地市場むけの生産

 合弁

 グリーンフィールド投資

これらの特徴は、多国籍化の日本的パターンとして注目された。先進技術をベースに、欧州の先進国を中心に、現地企業の買収も多く行ない、完全所有子会社を中心にして進出していった米国企業の多国籍化のパターンに対比された。しかし、その後、日本的パターンはしだいに弱まり、米国企業との共通性を強めていった。

また、海外直接投資に、発展途上国で生産、先進国で販売という地理的二分法がみられた。その後、米国や欧州でも海外生産が行なわれるようになり、現在では米国での生産とアジア(ASEANおょび中国)での生産が両輪になっている。

業種についても特徴があった。海外生産は繊維と電機が両輪だった。繊維企業の海外生産の多いことは、注目された。

その後、業種のこの特徴も消えていった。繊維は減少し、電機についても家電は減少した。電機では電子部品、産業用機器などに変わっていき、自動車・同部品、化学、機械が主役になった。海外生産において、機械(広義)と化学が両輪となり、業種についても欧米の多国籍企業との共通性が強まった。

1970年代までの海外生産にみられた前記のような特徴から、国内ハイテク・海外ローテクの対比がみられた。すなわち、国内工場は製品、生産設備、技術などが最先端であるのと比較して、海外工場は小規模で技術的に成熟したものであった。それが、その後の海外生産の増大の結果、こんにちでは、主力工場が海外工場であるという例が増加している。

また、初期の海外生産には、「仕方なしの海外生産」という特徴をあげることができる。仕方なしの海外生産は、経済的には合理性を欠くが、政治的な理由でやむを得ず行なわれるものである。 1985年のプラザ合意後の円高によって状況が変わり、輸出よりも現地生産のほうが経済的にも合理性をもつようになる。その結果、グローバル適地生産への変化が生じる。

海外企業進出は、海外に企業を新設する方法(グリーンフィールド投資)と既存企業を買収するものに大別できる。当初は、海外企業進出のほとんどはグリーンフィールド投資だった。その後、状況が変わり、外国企業の買収がふえている。外国企業との戦略的提携もふえている。

研究開発はもっぱら国内で行なわれていた。海外生産がふえるにっれて、製品、デザイン、生産設備などの現地適応のために、研究開発の海外進出がふえていった。外国の技術者や研究者を獲得することを目的にした海外研究開発も行なわれるようになっている。最近の注目できるうごきに、ソフトウェア開発のオフショア・アウトソーシングがある。対象国は、インドと中国がおもなものである。

全体として、研究開発は、国内集中開発からグローバル分散開発へと変化してきている。

輸出中心の国際経営のときには、輸入はそれほど重要でなかった。時間が経つにつれて、輸入の重要性が増していった。その輸入には、製品の輸入と部材の輸入がある。

製品輸入と部材輸入をふくめて、最近ではグローバル・サプライチェーン・マネジメントが行なわれるようになっている。材料・部品の調達から生産、組立、物流、販売など製品を顧客にとどけるまでのモノの流れ、およびこれに関連する情報の流れであるサプライチェーンを、グローバルにマネジメントしようとするのが、グローバル・サプライチェーン・マネジメントである。
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現在とは何なんだろうか? 過去は本当に存在したのだろうか?

『哲学するって、こんなこと?』より

現在とは何なんだろうか?

 知彦 天真先生! 時間を表すときに直線を書くことがありますよね。左から右に長い矢印を書いて、その一番右端が現在で、そこからさらに右に伸ばしていけば未来の時間ということになります。

 天真 その過去と未来の境目が現在というわけだね。

 知彦 何だか、変ですね。現在は過去と未来のつなぎ目だとすると、ずいぶん小さいような気がする。

 天真 小さいのかなあ。そのつなぎ目は点だろう? 数学で習ったかもしれないけど、点というのは大きさがない、小さいのではなく大きさがゼロだ。

 知彦 現在は大きさがないということになりますね?

 天真 だから現在は存在しない。                       ’‘

 知彦 現在は存在しないり‥

 天真 現在だけではない。過去も未来も存在しない。

 知彦 どういうことでしょう?

 天真 過去はもう存在しない時間、未来はまだ存在しない時間。現在も大きさがないから存在しない。つまりは、時間はまったく存在しないということになる。

 知彦 時間は存在しない!?天真 時間が存在しなければ世界は存在できない!

 知彦 えっ!? でも私たちも世界も確かに存在する。

 天真 存在できないものが存在する。

 知彦 それ、何だか矛盾してますよね?

 天真 そうだ。だから時間を線と点で表すとそのような矛盾が生じることになる。

 知彦 科学はそれで困らないのでしょう?

 天真 どうもそうらしいね。でも、私たちの時間の感覚はそうじゃないよね。

 知彦 私たちは時間をどんな風に考えて生活しているんだろう?

 天真 考えてみようか。そうだな、現在というのは、点ではなくちょっとまとまりがある大きさかな。

 知彦 どういうことです?

 天真 たとえば、目の前にあるおいしいケーキをパクッと食べる。その時間を時計で測れば、三分くらいかかっているかもしれない。しかし、私たちは「今それを食べている」と言う。

 知彦 つまり、このときの現在は点ではなくて三分間なんですね。

 天真 だから、「おいしい!」と言う時間は存在する。

 知彦 そして三分たったら、ケーキはもう過去のもので存在せず、「もうケーキはない!」という次の現在の残念な気持ちになるんですね。

 天真 そうかもしれないね。

 知彦 でも、それも何だか変ですね。現在というのがとってもあいまいですね。

 天真 私もそう思うよ。もっと考えてみよう。

過去は本当に存在したのだろうか?

 天真 今日は私が時間について尋ねてみよう。

 知彦 何でしょう?

 天真 過去は本当に存在したのだろうか?

 知彦 変なことをおっしゃいますね。過去はかつて存在した時間であって、今は存在しない。そして、現在、記憶として過去は存在する。

 天真 なるほど。過去は思い出として現在存在するのだね?

 知彦 そうですよ。

 天真 その現在存在する過去の思い出は、どうして過去のものだと分かるのだろうか?

 知彦 思い出は、現在経験していることがら、たとえば、今こうして先生と話しをしていることがらとは違いますからね。この前、先生と山登りしたのは過去のことで、今はそれを思い出すことができるだけです。

 天真 しかし、現在、君の心に浮かぶものは、もちろんすべて現在のものだからね。

 知彦 存在するのは現在だけだということですね?

 天真 そうだろう? その中で、現在直接経験しているものと現在残っている思い出とどうやって区別するのだろう、という疑問なんだ。

 知彦 記憶として心に浮かぶものはぼんやりしてたり、途切れ途切れでつながりがはっきりしないことがありますね。でも、現在経験しているものははっきりしています。

 天真 なるほど。しかし、そのぼんやりしているものが、本当の記憶であるか間違った記憶であるかは確かめようがない。

 知彦 記憶間違いもあるということですね? でもそのときは、その過去を一緒に経験した人に確かめてみればいいですね。一緒に山登りした先生や愛子ちゃんに確かめれば、その山登りの記憶が本当の過去だと分かるでしょう。

 天真 私も愛子ちゃんも同じ記憶違いをするかもしれない。

 知彦 ありそうにもないことだけど、可能性としては、そういうこともありますね。

 天真 過去なんて、それほど確かなものじゃないと言いたいのさ。

 知彦 そうすると過去と妄想とも区別できませんね?

 天真 そうさ。もし悪魔がいて、君の心の中にいろんな記憶を埋め込むとする。それは現実に起こったことではなくて、単に記憶として持たされるわけだ。そして、君はそれを本当に過去の出来事だと思い込むことになる、ということも考えられる。

 知彦 先生、その話はちょっと変ですよ。先生の考えだと、本当の過去なんて確かめようがないんですからね。悪魔が埋め込んだ記憶は本物かどうかは区別できないはずです。

 天真 いやあ、参ったね。君の言うとおりだ。存在するのは現在の心に浮かぶものだけだからね。それが過去の記憶か悪魔が植えつけた記憶か、あるいは妄想か、区別できない。

 知彦 だから、他の人の記憶と比べてみるしか方法はないのですよ。

 天真 本当の過去とは、それを記憶としてみんなが共有しているかどうかだ、というわけだね。

 知彦 少々頼りない過去になりましたね。

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働いていることはそんなに偉いのか

働いていること

 働いていることをこれほど、重要視するのか。自分のやるべきことをする。それだけのことにすればいい。そうでないと、退職ということが曖昧になる。消費する対象としての稼ぎではなく、逆のことにしていく。

 ヨーロッパも若者が好きなことをやればいい。職業というものに縛られずに。ヨーロッパは混乱の世界に居て、生きることが求められる。それを抜けた時に、どういう世界が在るのか。
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