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未唯空間第10章 次の世界

多くの人が生きられる

 第10章は人の観点から見ています。その意味では第1章の帰結です。自分自身です。多くの人が生きていくにはどうしたら、というテーマです。どうしたら生きられる。存在も含めて、どうすればいいのか。根源的で、具体的でないといけない。何しろ、自分自身に関係するところだから。

 如何に覚醒したらいいのかで、歴史哲学をどう変えるか。意思の力から存在の力に変わるシナリオを描く。そのために、今までの高度サービス化とかは当然、在ります。もっと、哲学的に、数学的に思考していく。政治・経済ではないけど、自由と平等を、格差をなくす世界をどう作っていくのか。覚醒からどう持って行くのか。

意識の改革

 ベースは意識の改革です。個人が分化して、それを拡げていく世界。それを地域で行って、地域そのものを独立させていく。その動きをどう作っていくのか。

 新しい民主主義のカタチは、フランス革命と似たような形になっていく。個人に対する要求は大きくなっていく。それに人類が耐えられるかどうかわからない。

配置と位相

 それらを取り持つのが、数学の中の配置と位相という考え方です。それでもって、共同体を作り出して、統合させていく。未唯空間そのものを支えるキーワードをここで出していきます。

変節点に向かって

 2050年に変節点を向かえる。今までの意思の力が持たなくなり、カリスマには頼られない。何度も裏切られてきた。歴史としての進化が存在の力で再構成される。歴史そのものです。変節点は、個人が為すモノになります

 フランス革命が容易だったと同じように、サファイア革命も容易なんでしょうね。ただ、アラブではないけど、それぞれがバラバラで動いてはしょうがない。かと言って、従来の力は大きい。宗教とか民族の力は大きい。民主主義という名の化け物も大きい。

 どうしても、皆、依存しようとします。自分が中心となって動く世界は、それを維持する方がさらに大変です。これは人間はそれに耐えられるかどうかというものが含まれます。

存在=無の構図

 この時点で出発点の存在=無の構図が全体を支配します。個人は全体と一緒、点は集合と同値、個人と組織との関係になります。一番のベースはここです。自分とそれを含むモノとは一緒です。認識とはそういうものです。数学、哲学、歴史とか宗教の面から見ているだけです。それらが一体化した世界です。

 だから、最初に答があるということです。存在と無から出発したことの当然の帰結です。矛盾しているものがそのまま成り立つ。問題はこれが本当に答なのか。答というものがあるのか。答を求めることがあるのか。そういうことでしょう。それらは次元をさらに大きくする世界です。とりあえず、未唯空間ではここまでです。次の未唯宇宙を含む世界で考えましょう。

個人と超国家が同じ

 個人と超国家が同じというのは、滑稽に見えるかもしれなけ度、ムスリムと同じです。その間に中間の存在があるだけです。基本は同じ構造です。当初よりも崩れてきています。一神教の世界でも異なる。やはり、キリスト教の影響が大きい。

 余分な力を使って、色々な権力を作ることで、力を描いている人間が多すぎます。実際、この世界を潰していくつもりなんでしょう。そんなことをしている世界ではなくなってくるのは確かです。時間のコードがさらに短くなってきます。

全てを知るとは何か

 そして、最終章に入ります。全てを知るとは何なのか、先に行ってどうするのか、先に進むことでできるのか。全てというものはありえないのに。本来、そんなものはありえないのに。だから、自分の存在と全ては同じです。これを夢にします。私の思いです。

自己肯定

 それで初めて、宇宙の旅人として、自己肯定できる。池田晶子さんのように、世界を描いていく。そうしないと、この137億9千万年の説明ができない。当然、これを承認してもらうことはない。他者は存在しないからありえない。これはニヒリズムではない。ここまでで、言葉をもっと、明確にしていきます。
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もしもドイツがマルクを使いつづけていたら

『ヨーロッパから民主主義が消える』より

「昔はよかった」と悲嘆にくれるドイツ人

 EUで起こっていることをみていると、お金を握っている者が世界を支配するという冷徹な鉄則があぶり出される。EUを支配している国々は、保守が政権を握っている国もあれば、リべラルが政権を握っている国もある。しかし、そのどちらにあっても、守られているのは、「お金を握っている人たちの都合」だった。

 そして、「お金を握っている人たちの都合」によれば、ギリシャはまだ倒産してはいけない。だからEUの援助を受け入れ、さらに金融引き締めを行ない、構造改革に取り組み、国有資産の民営化を進めるべきなのだ。黒字が期待できそうな一四の空港は、ドイツの会社に買収されることが決まった。港湾施設は中国の手に渡るらしい。

 ドイツには非情にも、ギリシャは島を売ればよいという人までいた。ギリシャは三〇〇〇の島からなる国だ。このまま民営化か進んでいけば、「お金を握っている人たち」は、ほんとうに島を買うだろう。一島全体が売り払われることは稀だとしても、いずれ、ギリシャの美しい海岸の多くがプライべートビーチとなって、一般市民の立ち入れない場所になる可能性はある。

 二〇一二年、EUはユーロ導入十周年を祝った。ドイツはおそらく、ユーロの冥利をいちばん多く授かった幸運な国にちがいない。思えばユーロが導入されたとき、すでにドイツとフランスには経済格差があった。ましてやドイツとギリシャなら、いわずもがなだった。

 一国のなかでの貧富の差なら、問題は少ない。北海道で産業が回らなければ、東京のお金を回して支援すればよい。同じ日本人なのだから、誰にも異存はないだろう。北海道の子供と東京の子供が同じ教育を受け、山陰の老人と大阪の老人が同じ年金を受けることに反対する日本人はいない。

 ドイツ人も、東西統一のあと、長いあいだ、西の人々が東の人々を経済援助しつづけた。しかし、ギリシャは東ドイツではない。さらに深刻な問題は、助けなければならないのは、ギリシャだけではないかもしれないということだ。イタリアやスペインといった南欧の赤字国が同じ問題を抱えていることは、すでに誰もが知っている。しかも、彼らはほんとうは財政規律よりも、金融緩和をしたがっている。彼らがこぞってギリシャの味方につくなら、おそらくドイツ人はユーロ防衛などバカバカしくて、やる気をなくすだろう。経済格差のある国々が、共通通貨を使うことの無理が、いま、はっきりとみえはじめている。

 ドイツ人の心境を代弁するなら、「昔はよかった」というところではないか。ギリシャの通貨ドラクマがあった時代は、美しいギリシャの空の下、気安いホテルに泊まって、安い物価に嬉々としながら、美味しいギリシャ料理とギリシャワインを前に、青い海に散らばる無数の島々を眺めて、安らかな休日を過ごせたのだ。いま、ドイツのアンケートの結果では、回答者の六〇パーセントが、ギリシャはEUから離脱してほしいと思っているそうだ。EU間で協力し合おう、助け合おうという綺麗ごとを唱えるには、人々の気持ちは冷めすぎている。

 「ヨーロッパは一つ」を達成するどころか、自国の暮らしを守りきれなくなる危機感から、人々は反ヨーロッパに向かっているようにみえる。

もしもドイツがマルクを使いつづけていたら……

 もし、ドイツがユーロに参加せず、マルクを使いつづけていたらどうなっていただろう。かつての最強通貨マルクは、はたして独り勝ちできただろうか。これに関しては、興味深い例がある。世界中から信用されていたスイスフランが二〇一五年初頭、まさかの高騰に見舞われたことが、「もし、マルクがいまも存在していたら……」という想像をかきたてる。

 スイスは物価が高い。スイスにいると、ただ突っ立って息をしているだけでも、お金が出ていく気がする。ということは、スイスの人にしてみればドイツの物価は安いわけで、当然のことながら、国境を越えたドイツ側の町々は、いつもスイスからの買い物客で賑わっていた。たとえば、ボーデン湖畔のコンスタンツ。定期的にクルマで来ては、ショッピングにいそしみ、スーパーで大量に食料品を買い込み、ご飯を食べて、最後にガソリンを満タンにして帰る常連さんはたくさんいる。

 スイスは物価だけでなく、賃金も高いので、毎日、国境を越えて近隣諸国からスイスヘ仕事に通っている人たちも三〇万人近くいる。いちばん多いのはフランス人で五割強、その次がイタリア人、ドイツ人はおよそ二割で六万人弱だ。通いでなく、住み着いて働いているドイツ人なら、私の知り合いだけでも三人もいる。ドイツに住民票があるかぎり、スイスで払う税金は四・五パーセントの源泉徴収分だけで、所得税はドイツに落ちるため、国境の自治体は、スイスで働く人々が落としてくれる税金で、けっこう潤っているという。EUではここ数年、スイスの秘密口座が問題視されていて、透明度を増すようにという圧力が掛けられてはいるものの、スイスの底力というものは、まだまだかなりあるようで、スイスが不景気だという話はあまり聞かない。

 そのスイスで、スイスフランの暴騰が起こった。なぜか?

 二〇一一年九月、スイス国立銀行は、為替を一ユーロ=一・二スイスフランに固定した。当時、ユーロ危機でEUの株は暴落し、安全な投資場所とみなされたスイスフランは、日本円と同じく高くなりすぎていた。スイスフラン高はスイスの輸出産業を圧迫し、スイス経済にかなりの打撃を与えた。そこでスイス国立銀行が介入し、スイスフランをユーロと連動させることで、フラン高を抑えた。それを国銀が、二〇一五年一月十五日に突然、解除してしまったのだ。国銀の介入が中止された途端、為替市場は混乱し、スイスフランは一夜でドンと値上がりした。

 これは、スイスで働いているドイツ人にしてみれば、何もしないのに、寝て起きたら、賃金が二割か三割上がったことになる。スイスの人々にしてみたら、もちろんユーロでの買い物がさらにお買い得になったわけだ。そのため、もともとスイスからの買い物客で賑わっていた国境の町では、それがさらに増えた。やってきたスイス人がお金を引き出そうとしたため、ユーロ紙幣が品切れになり、一時、機能しなくなったATMが続出したという。

 一方、スイスに輸出しているドイツ企業は仕事がやりやすくなったが、スイスの輸出企業は困っている。スイスからEUに働きに来ている人にしてみても、かなりの賃下げになってしまう。スイスはドイツにとって八番目に取引が多い交易の相手だ。為替の変動は、商売にはマイナス要因でしかない。交易が滞ると、もちろん経済は落ち込む。観光客も減るだろう。それを見越して、スイスの大手銀行であるUBSは、二〇一五年の経済成長予測を、すぐさま一・八パーセントから〇・五パーセントに引き下げた。もしもドイツがユーロに加わっていなければ、やはり同じことが起こったのではないかと思われる。

 ドイツにとってのユーロは、弁天様のようなものだ。今回のユーロ危機さえ、大儲けの機会となっている。ドイツの国債は安全とみなされているため、手堅いユーロの貯蓄法を求める人たちは、利回りがゼロでも、ときにマイナスでもドイツの国債をほしがった。安全なら増えなくてもよいということだ。

 ドイツがこの四年半のあいだに、そのために節約できた利息の額は一〇〇〇億ユーロ以上になるという。これは、ドイツがギリシャに援助している額よりも多い。ドイツの独り勝ちというのは嘘ではない。


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古代ギリシャにおける民主主義とは、どんなものだったのだろう?

『ヨーロッパから民主主義が消える』より

現代のギリシャ人が誇りに思っているアテネの民主主義は、当然のことながら、現代人が最良の政治形態だと信頼を寄せているそれとは異なる。市民が主権をもち、多数決で事を決めるところまでは同じだが、あとはことごとく違う。似て非なるものとさえもいえない。おそらく似てもいないし、相違点のほうがずっと多いだろう。

まず、アテネの民主制は、完全な直接民主制であった。これにより市民の意思かくまなく政治に反映するし、権利や義務もおおむね平等に保てるという長所はある。ただ、肝心の有権者である市民の定義が、いまとはまるで違った。

アテネでは、政治に参加できるのは十八歳以上の成人男子のみで、紀元前四三〇年当時、その数は三万人ほどだったという。アテネ市民の人口は一二万人なので、あとの九万人は女性と未成年だったのだろう。そしてそのほかに、外国人が三万人、奴隷が八万人いたが、もちろん彼らは参政権とは縁がなく、奴隷には人権さえなかった。いまならこんな制度を民主的とはいわない。

近代民主主義の直接の起源はどこらへんにあるかといえば、これはまぎれもなくフランス革命である。十八世紀末、点として始まったそれはヨーロッパ各地に市民革命として広がって線となり、みるみるうちに面となった。フランス人は、彼らが導いた人民の革命が、世界に近代化を促し、民主主義という果実をもたらしたと信じている。ボロボロになったオランド政権が率いてさえも、フランスという国がEUでからくも指導的立場を維持できているのは、二百年以上前のこの功績のおかげかもしれない。

ちなみにこのころのギリシャは十五世紀半ばよりオスマン帝国の支配下に入ったままだった。それ以前も、すでに紀元前二世紀ごろからローマ帝国に組み込まれてしまっていたので、ギリシャという国家は長らく世界史から消えていたことになる。一八二九年、ギリシャはほぼ二千年ぶりにようやく国として復活するが、当時の首都アテネは荒廃し、人口がたった四〇〇〇人の寒村だった。しかも、ギリシャ王として即位したのは、ドイツのバイエルン王国の王子だったのだから、この独立はギリシャ人の意向というよりも、列強の都合だった。国民自体も、主にバルカン半島のスラブ民族、それにアラブ民族やらラテン民族などいろいろな人種が混ざり合って、古代とは違った新しい民族となっていた。

フランス革命はあまりに複雑だ。生まれや身分に関係なく、自由で平等な社会を夢みて始まったそれは、ひどい混乱に陥り、途中で目標を見失い、膨大な数の犠牲者を出しながら、遅々として進まなかった。とはいえ、これが西洋の現代社会の出発点となったことは間違いない。いまある「国民主権」という概念は、ここから始まった。

フランス革命以前、フランスという国は国王のものだった。当時、王侯貴族と民衆の貧富の差には、激烈なものがあった。私は、『なぜ日本人は、一瞬でおつりの計算ができるのか』(PHP研究所)のなかで、それについて次のように書いた。

王侯貴族と民衆が接する機会はなく、もちろん心のつながりもなく、民を思う貴族はいなかった。民衆は貴族にとって、税金を搾り取る対象ではあったが、彼らが人間として認識されていたかどうかはつとに怪しい。

ヨーロッパの僧侶はさらに悪辣で、民衆の搾取に関しては、貴族に決して劣らなかった。特に高位聖職者になると、王侯貴族並みの贅沢をし、王侯貴族並みの数の愛人を囲っていた。貴族と聖職者には、納税の義務はなかった。

18世紀の後半、フランス革命の前夜、貴族と聖職者という特権階級の人間を養い、さらに教会に掛かる莫大な経費を支えていたのが民衆だった。民衆の8割は農民で、彼らは重い年貢だけではなく、地代、塩税、人頭税、賦役労働を課せられ、そのうえ、水車や竃の使用料まで請求された。貴族は、裁判権や狩猟権をすべて独占しており、何かあっても安泰だったが、農民は、翌年蒔く種を残すと、自分たちが食べる物にも事欠いた。フランス革命は、起きるべくして起きたのである。

フランス革命の根元を支えたのは、十七世紀後半に萌芽し、ちょうどこのころ、開花した啓蒙思想である。啓蒙思想を掲げた哲学者、文学者は数多くいる。ヴォルテールも、ロックもそうだった。しかし何といっても、フランス革命にいちばん影響を与えたのは、ジャン=ジャック・ルソーである。ナポレオンが彼に傾倒していたのは、有名な話だ。

一七一二年生まれのルソーは、多才な人だった。小説を書き、オベラを作曲し、そして『社会契約論』を著した。近代思想の基礎となった論だ。『社会契約論』でルソーがいっているのは、国家の主権は国王でも貴族でもなく、国民にあるということだ。だから特権階級は廃止し、私有財産は制限し、国民は皆、平等でなくてはならない。そして、国民が自己の意思に基づいて互いに契約を結び、国家を構成すればよい。

いまでこそ当たり前だが、当時の人間にとって、これは驚くべき理屈だった。なぜなら、それまでの民衆にとって国王とは神であり、どんなに不平等であっても、それは修正できるものでも、批判するものでもなかったからである。

ところが、フランス革命では、その神であったはずの王やお妃がギロチンの露となって消えた。社会に走った衝撃というのは、口では言い表せないほど大きなものだったにちがいない。民衆が神を引き摺り下ろして、荷車に乗せて引き回し、首を落とし、喝采した。彼らは、自分たちの世界観を熱狂のうちに、根本から変えたのである。

フランス革命の精神とは、「下克上」への熱狂と、その正当化である。いや、神聖化といってもよいかもしれない。そして、その「下克上」のフランス革命が、ヨーロッパでは誇らしいものなのである。ドイツの学校でも、歴史の授業でフランス革命に割かれる時間は長い。
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トクヴィル 市民的デモクラシーからデモクラシーによる独裁への発展

『ヘーゲルからニーチェへ(下)』より 市民社会の問題 アレクシ・ド・トクヴィル--市民的デモクラシーからデモクラシーによる独裁への発展

トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は一八三〇年から四〇年にかけて、そして『旧体制と大革命』という歴史的分析は一八五六年に出たが、著者本人は、時代の動きに対して完全にバランスのとれた立場にあった。「わたしは、長い革命の最後の時期にこの世に生まれた。この革命は旧来の国家を破壊したが、恒常的なものはまだ生み出していなかった。わたしが物心ついた時には貴族階層は死滅していたが、デモクラシーはまだはじまっていなかった。したがってわたしは本能からして、このどちらかに盲目的に飛びつくことはできなかった。……自わたし自身は祖国の旧来の貴族階層の出身なので、この階層を憎むことも嫉妬することもなかった。だからといって、この階層が破壊されたときに、特に愛惜することもなかった。なぜなら人間は生きているものとのみつながることを好むものだからである。わたしは貴族階層に近いので、十分にこの階層を知っていた。だが同時に、この階層から十分に遠くにあったので、いかなる情熱にも惑わされずに、この階層について判断することができた。デモクラシーについても同じことが言える」。彼はパークやゲンツのようにフランス革命を断固として批判する立場に立つこともなかったし、また革命の友でもなかった。革命について判断する時の基準は、旧体制に由来するものであったために、きわめて明晰な判断を下すことができた。

彼の論稿で論じられる大きな問題は、自由と平等のあいだの不均衡だった。彼によれば、第三身分の解放は、水平化と平等化をもたらしたが、問題は、市民的デモクラシーがはたして自由をもたらすかという点にある。トクヴィルの理解する自由とは、単なる独立のことではなく、自らに責任を負う人間の尊厳のことである。こうした責任にもとづく尊厳がなければ、真の支配も真のデモクラシーもありえないと彼は論じた。元来フランス革命は、平等を求める心情のみでなく、自由の制度化も激しく求めたのだ。だが、自由への情熱はじきに失われ、残ったのは平等への情熱のみだった、とされる。自由への情熱と平等への情熱は、当初のほんのしばらくのあいだ、どちらもおなじに本心からの強力な情熱のように見えたが、もともと古さに関してはおなじでなく、必ずしも常におなじ目標を追求してきたわけでもない。より古く、またより永続的だったのは、平等の追求だった。革命よりもずっと以前から平等化へ向けての動きに寄与していたのが、キリスト教会であり、通商と交通だった。また、貨幣経済であり、印刷術と火器の発明であった。また、アメリカの植民であり、最後には、文学による啓蒙であった。自由を通じてのみ平等にもなりうるという信念は、こうしたものに比べれば、最近のことであり、それほどずっと存在していたわけではない。ナポレオンが革命の主人公となったときに、平等が優先されて自由は退くことになった。

いっさいの法が、そして風俗や習慣が解体した国民がナポレオンの眼前にあった。それゆえに彼は、これまで可能であったよりもはるかに合理的な形態の専制政治をすることができた、とトクヴィルは論じる。「市民たち相互の、また市民と国家との何千というさまざまな関係を規則化するいっさいの法律をナポレオンは同じ平等の精神で策定し公布した。それを通じて、彼は同時にいっさいの行政権力を生み出し、こうした行政権力を自らに服せしめ、それらが丁凡となって巨大かつ単純な政府機構となるように、そしてその唯一の動力が彼ナポレオンその人にほかならないような政府機構となるようにしたのだ」。一人一人がみずからの価値とその独立性を過大評価しているあいだに、実際には公共の領域は、個人の存在を奪うような「政治的汎神論」へと向かっていた。優秀な行政機関がナポレオンの国内的な権力を維持し、彼の軍事的天才が対外的な力を保つのに役立った。だが、人々は自分の運命に無関心となり、古典古代のポリスのデモクラシーの優れたところである偉大なる市民感覚からは遠いところにきてしまった。ポリスにあってはまさに政治的共同体の強制力こそが、強烈な個性を生み出したのだが。トクヴィルから見れば、古典古代のポリスや、さまざまな共同組織と法を備えた中世の身分制国家において、同じくイタリア・ルネサンスの暴君たちの下においても、現代の「専制的」なデモクラシーよりも多くの個人的かつ政治的な自由が生きていた。

だがデモクラシーが、ただすべてを平等にするだけで、自由を生み出さないならば、そうしたデモクラシーはいかなる価値も失う、とされる。だがデモクラシーにおいては、自由こそが、水平化、画一化、そして中央集権化に対抗してバランスを取るための唯一の分銅となるのだ。アメリカとイギリスにおいてはデモクラシーが、本当の自由の制度をつくることができた。それに対して、ヨーロッパ大陸のデモクラシーは、起源がまったく異なるために、自由をどのように用いたらいいかがわかっていない。ヨーロッパ大陸独特の起源に由来するその運命は、専制政治に向かわざるを得ない。古き貴族政治は、国家公民をつなげて大きな鎖を鋳造した。その鎖のひとつひとつの輪は、農民から王にまでつながっていた。ところがデモクラシーは、個々の特別な身分や権利から成るこうした正当なる構造をばらばらにしてしまった。身分を相互に孤立させ、それぞれすべてを平等にし、ひとつの専制的な中央権力に服従しやすいように変えたのだ。「自由な市民」から「人間以下のなにものかを作り出す」ことを革命はやりとげたのだ。

市民的デモクラシーから生まれた専制政治はまた同時に、いっさいの社会的勢力を糾合することで、個人の孤立化をさらに強める反作用を惹き起こした。こうした専制政治は、行動と思考におけるいっさいの協力関係を妨げることになる。「このような社会における人間たちは、階級やカーストやギルドによって、あるいは家門によって相互に鎖のように結ばれてはいない。それゆえ彼らは、自分のことだけを考えるようになりがちだ……そして、いかなる公共的な美徳も窒息する冴えないエゴイズムヘと狭酸化しがちである。専制主義は、こうした傾向に対抗して闘うにはほど遠く、むしろ、この傾向への抵抗を無力にしてしまう。なぜならば専制政治は、市民からいっさいの共通の努力、相互のつながり、共同で評定するいっさいの必要性、共同で行動するいっさいの機会を奪い去ってしまうからである。彼らはすでに相互に別々の存在になろうとしている。専制政治は彼らを孤立させ、私生活のうちに閉じ込めてしまう」。だがデモクラシーにおける専制政治において最悪なのは、水平化を生み出す中央権力への服従そのものというよりは、むしろ、この服従が不誠実になされていることである。というのも人々は、フランス革命によってあまりにも自立し、啓蒙された疑い深い存在になってしまったので、絶対的だが正当性の欠如した権力が正しい法となるなどということは信じられなくなっているのである。シェイエスに理解できなかったのは、貴族と教会に対する闘争は彼らの個別的な特権を破壊するだけでなく、およそ伝統なるもののいっさいを、この「正しい法の母」を破壊することである、とトクヴィルは論じる。こうして伝統が破壊された結果は、国民の統一性をあまりにも高く評価し、一人一人の人間を低く見る「必然性というドクトリン」となるというのだ。
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死ぬ力 書斎の死体

『死ぬ力』より

書斎の死体

 生まれたときは別として、親がなくても子は育つ。「人間、一人で生きて、一人で死ぬ。」こういう人がいる。粋がっているとしか思えない。こういう人にかぎって、老後は、一人で生きることが難しい。他人に依存する。社会福祉の貧困を嘆く。他人なしの寂しさには耐えられない。こう嘆く。なぜか?

 「書斎の死体」同然だからだ。立派な本があるのに、それを活用できない、死体も同然の関係しか結べないからだ。「本を食う虫」のように生きる、これを老後の生き方の中心におけるかどうか、が問題なのだ。

 『理想の図書館』(一九九〇〔原著一九八八〕)という分厚い本がある。書店、学校、ジャーナリズムなどでくり返されてきた要望、「それぞれの分野で基本的に読む本は何か」を各分野別にリストアップ(各分野、全八五冊=一〇冊+二五冊+四九冊選び、最後の一冊を自分で選ぶ)し、コメントする一種の読書案内「事典」だ。いろんな意味で便利だ(たとえば邦訳の有無がわかる。文献案内として利用できる。索引がある)。たしかに「わたしのとは違うなー。」と実感させられる箇所はあるが、ナバコフの脚注は、秀逸だ。

 好きなことに熱中できる、これが「グッド・ライフ」だ。年齢、性別を問わない。とくに「老後」のグッドな生き方に、読書がある。まちがいない。その読書が集まって「理想の図書」になる。

理想の「老後」

 わたしも、若い時は「若さ」にまかせて生きた。単純化していえば、「頭脳」でなく「体」中心にである。

 ときに「頭」のことに熱中することはあった。トルストイ『復活』は二晩徹夜して読んだ。肉体の勝利でもある。だが七〇歳を過ぎると、どんなに面白い本でも、徹夜はきつい。「明日があるさ!」ですますことができる。肉体がもたない。干からびる感じが抜けない。だが最大の理由は、「時間に余裕がある」からなのだ。

 六〇代には、まだまだ生きる心づもりだったから、どんな生き方がベターか、を考えた。わたしは理想主義者ではない。とはいっても「理想」はある。他人と比較して、かならずしも「低い」とは思えない。だから言葉でいえば、わたしのベターな生き方とは、「理想の老後」ということになる。

 本を読む。そこに本がありさえすれば、いい、満足だ、ということにはならない。妻も、毎日本を手に取る。眠り薬代わり、というが、種類はどんな本でもいいらしい。ただし、「自分」の本である。ほとんどは、超安価で手に入るらしい。

 わたしの最大の幸運(の一つ)は、三五歳で、独立した書庫・書斎をもつことができたことだ。そこに本が徐々に埋まってゆく。ただもうそれだけで快感であった。その後、移転のたびに、書庫・書斎は新しくなり、改築も含めて、四度目の書庫・書斎が現在のものだ。人生が四度革まった、といっていい。

 本は処分しない。この原則で六五歳まで来た。だが大学の研究室を引き払わなければならない。その前段に一度売却した。定年になって、もう一度処分した。一種の「断捨離」である。二束三文だ。だが、すっきりしない。体の一部を失ったような、なんともやりきれない思いが残った。

 いま現在ある蔵書が、わたしの「理想の図書館」の本体である。未読の本が、過半を占める。だが全部読んで死にたい、読み切る前には死ねない、などと考えたことはない。

自分の「本」を何度も読む

 読書の過半は、仕事(講義、論文や著書作成)でのものだ。総じて仕事で読む本、読まざるをえない本は、面白くない、といわれる。どうもわたしは逆であるらしい。それに、ただ興味本位で読んできた本も、仕事で使うようになる。活用だ。仕事で読む本はつまらないか? まったくそんなことはない。それに実に有用なのだ。

 わたしは、仕事のために、自分で書いた論文・エッセイ・著書を問わず、読む。読まずにはいられない。「自慰行為」としてではない(といったら嘘になるだろう)。新しい仕事の「参考」にするためだ。わたしがものを考え、書くに当たって、もっとも参考にしたのが、谷沢永一先生の著作である。その次に、自分の著作ではないだろうか。

 それも、何度も読み返すのだ。「書く」ことの副産物というか、基本作業の一つだ。

 「書く」、何度も読み返しながら書き直す。推敲するという。定稿になって、もういちど読む。出版社から来るゲラ(活字)刷りを校正する。多いときには三度だ。新刊になってから、読む。さらに、参考、参照のために読む。何度、自分の書いたものを読む羽目に陥ることか。

 何度も読むから、記憶となって濃密に残るかというと、そうではない。むしろ、そういう類の文章は、忘れる。何度も読むから、むしろ、忘れたい、という感情が強くなるのだ。自分の書いたものをくりかえし読む功罪の一つだろう。

 わたしは雑多なものを含めて、人一倍書いてきた。あるいは、多産家の谷沢先生より、多く書いているやも知れない。これからわたしの人生はいつまで続くか、不明だ。しかし、わたしは、自分が書いた本を読む楽しみだけは、失わないのではないだろうか。理想の読書の一つ、と思える。

わたしは、わたしの死体=著書を食べる

 カフカの『変身』は、主人公がある日、巨大なイモ虫に変身してしまう、という話だ。「不条理」文学などといわれるが、これを一読したときから、少しも「不条理」感をもたなかった。この小説の主人公は、「虫」になることを(おそらく漠然と)願った、と思えたからだ。「がんばりたくない!」人の「願望」とよく似ている。

 わたしは「母」から「勉強でがんばりなさい! 一番になりなさい!」とよくよくいわれた。やだし、母にだけはいわれたくなかった。「勉強でがんばる」は、母にいちばん似合わなかったからだ。他人から「がんばれ!」などといわれたら、「がんばるのは、おまえだろうに!」と無言でつぶやくのを常とした。天邪鬼だったのだろうか。そうではない。

 なぜ「書斎」が、「本」が、人生にとって不可欠なのか? 特殊異常な人間にとってだけではなく、人間一般にとってだ。

 人間はコトバだといった。人間(だけ)は、コトバをもつことによって、人間になった。人間は、生物だが、その基本部分は、コトバでできあがっている。「歴史」とは「記録されたもの」であり、コトバなのだ。

 つまるところ、人間(個人)も人間(人類)も、コトバでできあがっているのだ。そして、本とは、まぎれもなくコトバでできあがっている。

 「本を読まない人間は、成功を勝ち取れない。」などというのはケチな考え方だ。本を大して読んだことのない人間のいうことだ。否、一冊も本を読んだことのない人でも、始終本を読んでいるのだ。読まされているのだ。人間はコトバでできているのだから、人間は、即、本であるといって、何の問題もない、とわたしは考える。

 本がなくて、何の人生だ、といおうというまいと、人生は本のなかに埋め込まれている。
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