未唯への手紙
未唯への手紙
OCR化した11冊
『どちらであっても』
〈有〉と〈無〉
あるかないか
生命の起源
無に出会う
無は虚しい
〈コミュニケーション〉と〈ディスコミュニケーション〉
コミュニケーション
変わること
ムンテラ&I・C
ディスコミュニケーション
『13歳からの仏教塾』
私たちはなんのために生き、なぜ死ななくてはならないのか
生きていることに、どんな価値があるのですか?
私たちは、どこから来たのでしょうか?
どうして、死ななければならないのでしょうか?
死ぬことが怖いのは、どうしてですか?
死んだら、どうなるのですか? すべて終わりですか?
私のいのちは、私のものですか?
自殺は、どうしていけないのですか?
私は、誰かの生まれ変わりなのですか?
なるべく働かずに生きたいのですが、だめですか?
『コンビニ難民』
コンビニ難民」を減らすことはできるのか
さらにコンビニは進化する
「健康」への取り組み
「食」への取り組み
「金融」への取り組み
「不動産」への取り組み
「エネルギー」への取り組み
コンビニ難民を減らすために①--「合従連衡」による立地の多様化
コンビニ難民を減らすために②--「規制緩和」によるカバー率向上
コンビニ難民を減らすために③--「撤退リスク」を乗り越える
コンビニ難民を減らすために④--「労働力」の確保
『メディア文化研究への招待』
メディアが先か、文化・社会が先か?
出発点--形成と反映と表象とー
コミュニケーションプロセス
社会的・文化的コンテクストにおけるメディアの要素
国民的メディアの衰退--商業化・断片化・グローバリゼーション
メディアと〈公共圏〉
「想像の共同体」としての国家
公共圏の衰退
デジタル化による国民の希薄化
国民の共同体あるいは厄介払い--
メディアコミュニティー--サブカルチャーとファン・グループとアイデンティティ・グループ
はじめに
メディア対コミュニティ
モラルパニックとマスメディアによる非難
ターゲットを絞ったコミュニティ
DIYメディアとインターネット・コミュニケーション
おわりに--定義がすべて?--
『看護学概論』
看護の継続性と情報共有
事例でみる看護の継続性の実際
入院時の施設間の連携
入院中の情報伝達と共有
医療機関がかわるとき(転院時)の情報伝達
多職種チームとしての情報共有と継続的かかわり
在宅療養を可能にする連携と継続的なかかわり
『病態生理学』
病態生理学を学ぶための基礎知識
正常と病気の状態
循環障害
細胞・組織の障害
感染症
腫瘍
先天異常と遺伝子異常
老化と死
『これからのエリック・ホッファーのために』
領域を飛びわたれ
小室直樹
『タカラは足元にあり!』
想像のつかない組み合わせで成功させる
革新的な農協の直売所--JAおちいまばり「さいさいきて屋」(愛媛県今治市)
自治体・他業種と連携した僻地住民のためのネットスーパー
全国向けのネット販売
メロン栽培奨励プロジェクト
「コミュニティの憩いの場」新店舗構想
『生涯学習概論』
生涯学習の場としての図書館
学習を支援する図書館の役割
図書館来館へのステップ
図書館司書がなぜ生涯学習を学ぶのか
『朝鮮はなぜ独立できなかったのか』
基本的な国の特徴
日本人の基本的特徴は結束
中国人の基本的特徴は個人主義
朝鮮人の基本的特徴は主観性
日本の大望
軍事力としての日本
日本の専制政治と民主政治
日本の教育
日本の朝鮮統治の特徴
『〈資本論〉第2巻第3巻入門』
省察
矛盾、信用、恐慌
マルクスの構想と『資本論』
マルクスの理論化における欠落とその発展方向
反資本主義的オルタナティブに向けて
〈有〉と〈無〉
あるかないか
生命の起源
無に出会う
無は虚しい
〈コミュニケーション〉と〈ディスコミュニケーション〉
コミュニケーション
変わること
ムンテラ&I・C
ディスコミュニケーション
『13歳からの仏教塾』
私たちはなんのために生き、なぜ死ななくてはならないのか
生きていることに、どんな価値があるのですか?
私たちは、どこから来たのでしょうか?
どうして、死ななければならないのでしょうか?
死ぬことが怖いのは、どうしてですか?
死んだら、どうなるのですか? すべて終わりですか?
私のいのちは、私のものですか?
自殺は、どうしていけないのですか?
私は、誰かの生まれ変わりなのですか?
なるべく働かずに生きたいのですが、だめですか?
『コンビニ難民』
コンビニ難民」を減らすことはできるのか
さらにコンビニは進化する
「健康」への取り組み
「食」への取り組み
「金融」への取り組み
「不動産」への取り組み
「エネルギー」への取り組み
コンビニ難民を減らすために①--「合従連衡」による立地の多様化
コンビニ難民を減らすために②--「規制緩和」によるカバー率向上
コンビニ難民を減らすために③--「撤退リスク」を乗り越える
コンビニ難民を減らすために④--「労働力」の確保
『メディア文化研究への招待』
メディアが先か、文化・社会が先か?
出発点--形成と反映と表象とー
コミュニケーションプロセス
社会的・文化的コンテクストにおけるメディアの要素
国民的メディアの衰退--商業化・断片化・グローバリゼーション
メディアと〈公共圏〉
「想像の共同体」としての国家
公共圏の衰退
デジタル化による国民の希薄化
国民の共同体あるいは厄介払い--
メディアコミュニティー--サブカルチャーとファン・グループとアイデンティティ・グループ
はじめに
メディア対コミュニティ
モラルパニックとマスメディアによる非難
ターゲットを絞ったコミュニティ
DIYメディアとインターネット・コミュニケーション
おわりに--定義がすべて?--
『看護学概論』
看護の継続性と情報共有
事例でみる看護の継続性の実際
入院時の施設間の連携
入院中の情報伝達と共有
医療機関がかわるとき(転院時)の情報伝達
多職種チームとしての情報共有と継続的かかわり
在宅療養を可能にする連携と継続的なかかわり
『病態生理学』
病態生理学を学ぶための基礎知識
正常と病気の状態
循環障害
細胞・組織の障害
感染症
腫瘍
先天異常と遺伝子異常
老化と死
『これからのエリック・ホッファーのために』
領域を飛びわたれ
小室直樹
『タカラは足元にあり!』
想像のつかない組み合わせで成功させる
革新的な農協の直売所--JAおちいまばり「さいさいきて屋」(愛媛県今治市)
自治体・他業種と連携した僻地住民のためのネットスーパー
全国向けのネット販売
メロン栽培奨励プロジェクト
「コミュニティの憩いの場」新店舗構想
『生涯学習概論』
生涯学習の場としての図書館
学習を支援する図書館の役割
図書館来館へのステップ
図書館司書がなぜ生涯学習を学ぶのか
『朝鮮はなぜ独立できなかったのか』
基本的な国の特徴
日本人の基本的特徴は結束
中国人の基本的特徴は個人主義
朝鮮人の基本的特徴は主観性
日本の大望
軍事力としての日本
日本の専制政治と民主政治
日本の教育
日本の朝鮮統治の特徴
『〈資本論〉第2巻第3巻入門』
省察
矛盾、信用、恐慌
マルクスの構想と『資本論』
マルクスの理論化における欠落とその発展方向
反資本主義的オルタナティブに向けて
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マルクスの構想と『資本論』
『〈資本論〉第2巻第3巻入門』より 省察 矛盾、信用、恐慌
以下の点に関して、もしかしたら、私がマルクスの議綸を、マルクスの企画を超えて私自身の関心領域へと引っ張りすぎているというもっともな非難がなされるかもしれない。弁明として、貨幣と金融に関する諸章には、マルクスの思考をラディカルに再構成するための徴候が数多くあるのだと言っておきたい。もっとも、マルクスの叙述の全体としての連関を踏まえるならば、この再構成の試みは、マルクスの当初の立場から根本的に断絶するというよりも、むしろそれをいっそう深める試みとしてとらえることができるだろう。
たとえば、私は、マルクスが物神性の概念を復活させそれを擬制資本の概念へと翻訳したことを大いに強調しておいたのだが、これもそうした試みの一環である。マルクスは、貨幣資本が生み出す種々の幻想と虚構、周期的に流入する何らかの収入を資本化することの空想性、その結果として生じる「貨幣資本の過多」(IMFがいつも決まって流動性の過剰として言及するもの)が無限に積み上げられること、こういったものを鋭く暴露している。このことにもとづいてマルクスはこう主張したのだった。
資本主義社会ではなく共産主義社会を考察の対象とするならば、まずもって貨幣資本はすっかり姿を消しているだろうし、したがってそれを通じて取引が帯びる仮装もなくなっているだろう。
貨幣資本をただちに廃絶するというこの要件は、貨幣資本がマルクスの時代に果たしはじめつつあった決定的な役割--賃労働の側の要求をますます抑圧しながら永続的蓄積を推進する上での役割--との関係でのみ理解可能なものとなる。このことがマルクスの時代にあてはまりつつあったとすれば、今では貨幣資本は間違いなくその影響力と権力の絶頂に達していると言えるだろう。
第二巻および、剰余価値の分配に関する第三巻の諸章を注意深く批判的に読み込むならば、きわめて広い範囲に及ぶさまざまなテーマ--回転期間の相違から信用供与の変動性に至るまで--を横断して、種々の触発を受け、得るところが大いにあるだろうが、それでもなお、今日の条件のもとで資本の運動法則が実際にどのように働いているのかに関して、何らかの確定的な結論を引き出すことは困難だろう。端的に言って、マルクスが一八七八年ごろまでにおおむね終えた事業を完成させ発展させるためには、そして、『要綱』が書かれた時期直前の一八五六~五七年ごろに彼が構想していた巨大な事業の全容を理解するためには、膨大な研究が必要である。それゆえここでまずもって、マルクスの当初の構想の驚くほどの幅の広さと深さとを思い起こしておくことは有益だろう。彼が『要綱』の中に書き記したいくつかのプランの一つでは、次のように書かれている。
I、(I)資本の一般的概念。(2)資本の特殊性。すなわち、流動資本、固定資本(生活手段としての、原料としての、労働用具としての資本)。(3)貨幣としての資本。Ⅱ、(1)資本の量、蓄積。(2)それ自身で測られた資本。利潤。利子。資本の価値。すなわち、利潤および利子としてそれ自身から区別された資本。(3)資本の流通。(α)資本と資本との交換。資本と収入との交換。資本と価格。(β)諸資本の競争。(γ)諸資本の集積。Ⅲ、信用としての資本。Ⅳ、株式資本としての資本。V、金融市場としての資本。Ⅵ、富の源泉としての資本。資本家。資本の後で、土地所有が論じられるべきだろう。その後で賃労働。この三つがすべて前提された後で、今や内的な総体性において規定された流通としての価格運動。他方では、生産の三つの基本形態と流通の諸前提として措定されたものとしての三つの階級。次に国家(国家とブルジョア社会。税金、あるいは不生産的階級の存在。国債。人口。外に向かっての国家、すなわち植民地。外国貿易。為替相場。国際鋳貨としての貨幣)。最後に世界市場。ブルジョア社会が国家を超えて広がること。恐慌。交換価値の上に打ち立てられた生産様式と社会形態の解体。個人的労働が社会的労働として実在的に措定すること、またその逆。
このような巨人的人乍業を完成させるには、マルクスは、メトンェラのように長生きしなければたらなかったろう。そして、このプランからも、また『要綱』で実際に用いられた表現からも明らかなように、彼の壮大な野望は、ブルジョア社会が一個の有機的総体へと生成していくことを叙述することであった。
このような背景を踏まえるなら、第二巻で彼が何をしており、なぜそうしているのかに関して批判的かつより詳しく理解するのを助けてくれるいくつかの一般的な指標を提示することができるだろう。
まず最初に、この巻でマルクスが、古典派経済学と同じ「皮相な三段論法」の枠内で作業していることは否定しがたいと思われる。彼の議論の明晰さは、普遍性・特殊性・個別性に訴えることなしに一般性のレペルで蓄積と実現のダイナミズムを再構築することに厳格に固執していることにもとづいている。第二巻は、マルクスが自分の研究を進める上で皮相な三段論法的枠組み(マルクスが古典派経済学に帰した枠組み)を採用した最もはっきりとした実例である。この枠組みにもとづいて、マルクスは、「純粋な状態」における資本主義的生産様式を理論的に解明しようとしている。この作業が終わって初めて、マルクスは、その知見を、『要綱』で大雑把に叙述されたより有機的な思考様式に組み込むことができるのである。
マルクスはこの枠組みにかなり厳格に固執する一方で、普遍性や特殊性、さらには個別性さえもが資本の運動法則に直接影響を及ぼしうる場合があることを常に認識している。たとえばマルクスは第一巻から需要と供給を排除しているのだが、他方で、総供給と総需要とのギャミフ、およびそれをどのように埋めるのかという問題が、第二巻では決定的な問題になっている。消費(および生産的消費と個人的消費との関係)は第一巻では言及されているとはいえ分析されてぱいないのに対し、第二巻の分析ではそれはますます決定的なテーマになっている。そしてまた、マルクスは第三巻では、商人資本の利得や地代の役割といったものを生産資本の必要に規律づけられたものとして扱っているとみなしているのだが、分配の第三の柱である利子と金融は必然的にこの規律権力を逃れるのであり、競争や貨幣資本の需給といった種々の状況依存性がいっさいを決定する。また資本の結合形態〔株式会社など〕が台頭すると状況が一変させるのだが、この形態から社会主義が台頭してくる、あるいは台頭してこなければならないとされている。
その結果、理論の構築が不完全なものになっている。この理論は、資本主義が取りうるあらゆる歴史的・地理的編成を横断する生命力を有しているのだ、が、他方では、現実の諸状況を具体的に解明する上では十分に有効ではない。というのも、現実の状況にあっては、純粋な資本主義的生産様式に対するさまざまな逸脱、不完全さ、政治的不純物が大いに幅を利かせているし、たとえば金融という特殊性、あるいは、消費様式という奇妙な個別性が支配的である。何よりも、一方における商業・金融恐慌と、他方におけるすでに確立された資本の矛盾した運動法則とのあいだに存在するかもしれない関係については、今なお十分に解明されていないのである。
以下の点に関して、もしかしたら、私がマルクスの議綸を、マルクスの企画を超えて私自身の関心領域へと引っ張りすぎているというもっともな非難がなされるかもしれない。弁明として、貨幣と金融に関する諸章には、マルクスの思考をラディカルに再構成するための徴候が数多くあるのだと言っておきたい。もっとも、マルクスの叙述の全体としての連関を踏まえるならば、この再構成の試みは、マルクスの当初の立場から根本的に断絶するというよりも、むしろそれをいっそう深める試みとしてとらえることができるだろう。
たとえば、私は、マルクスが物神性の概念を復活させそれを擬制資本の概念へと翻訳したことを大いに強調しておいたのだが、これもそうした試みの一環である。マルクスは、貨幣資本が生み出す種々の幻想と虚構、周期的に流入する何らかの収入を資本化することの空想性、その結果として生じる「貨幣資本の過多」(IMFがいつも決まって流動性の過剰として言及するもの)が無限に積み上げられること、こういったものを鋭く暴露している。このことにもとづいてマルクスはこう主張したのだった。
資本主義社会ではなく共産主義社会を考察の対象とするならば、まずもって貨幣資本はすっかり姿を消しているだろうし、したがってそれを通じて取引が帯びる仮装もなくなっているだろう。
貨幣資本をただちに廃絶するというこの要件は、貨幣資本がマルクスの時代に果たしはじめつつあった決定的な役割--賃労働の側の要求をますます抑圧しながら永続的蓄積を推進する上での役割--との関係でのみ理解可能なものとなる。このことがマルクスの時代にあてはまりつつあったとすれば、今では貨幣資本は間違いなくその影響力と権力の絶頂に達していると言えるだろう。
第二巻および、剰余価値の分配に関する第三巻の諸章を注意深く批判的に読み込むならば、きわめて広い範囲に及ぶさまざまなテーマ--回転期間の相違から信用供与の変動性に至るまで--を横断して、種々の触発を受け、得るところが大いにあるだろうが、それでもなお、今日の条件のもとで資本の運動法則が実際にどのように働いているのかに関して、何らかの確定的な結論を引き出すことは困難だろう。端的に言って、マルクスが一八七八年ごろまでにおおむね終えた事業を完成させ発展させるためには、そして、『要綱』が書かれた時期直前の一八五六~五七年ごろに彼が構想していた巨大な事業の全容を理解するためには、膨大な研究が必要である。それゆえここでまずもって、マルクスの当初の構想の驚くほどの幅の広さと深さとを思い起こしておくことは有益だろう。彼が『要綱』の中に書き記したいくつかのプランの一つでは、次のように書かれている。
I、(I)資本の一般的概念。(2)資本の特殊性。すなわち、流動資本、固定資本(生活手段としての、原料としての、労働用具としての資本)。(3)貨幣としての資本。Ⅱ、(1)資本の量、蓄積。(2)それ自身で測られた資本。利潤。利子。資本の価値。すなわち、利潤および利子としてそれ自身から区別された資本。(3)資本の流通。(α)資本と資本との交換。資本と収入との交換。資本と価格。(β)諸資本の競争。(γ)諸資本の集積。Ⅲ、信用としての資本。Ⅳ、株式資本としての資本。V、金融市場としての資本。Ⅵ、富の源泉としての資本。資本家。資本の後で、土地所有が論じられるべきだろう。その後で賃労働。この三つがすべて前提された後で、今や内的な総体性において規定された流通としての価格運動。他方では、生産の三つの基本形態と流通の諸前提として措定されたものとしての三つの階級。次に国家(国家とブルジョア社会。税金、あるいは不生産的階級の存在。国債。人口。外に向かっての国家、すなわち植民地。外国貿易。為替相場。国際鋳貨としての貨幣)。最後に世界市場。ブルジョア社会が国家を超えて広がること。恐慌。交換価値の上に打ち立てられた生産様式と社会形態の解体。個人的労働が社会的労働として実在的に措定すること、またその逆。
このような巨人的人乍業を完成させるには、マルクスは、メトンェラのように長生きしなければたらなかったろう。そして、このプランからも、また『要綱』で実際に用いられた表現からも明らかなように、彼の壮大な野望は、ブルジョア社会が一個の有機的総体へと生成していくことを叙述することであった。
このような背景を踏まえるなら、第二巻で彼が何をしており、なぜそうしているのかに関して批判的かつより詳しく理解するのを助けてくれるいくつかの一般的な指標を提示することができるだろう。
まず最初に、この巻でマルクスが、古典派経済学と同じ「皮相な三段論法」の枠内で作業していることは否定しがたいと思われる。彼の議論の明晰さは、普遍性・特殊性・個別性に訴えることなしに一般性のレペルで蓄積と実現のダイナミズムを再構築することに厳格に固執していることにもとづいている。第二巻は、マルクスが自分の研究を進める上で皮相な三段論法的枠組み(マルクスが古典派経済学に帰した枠組み)を採用した最もはっきりとした実例である。この枠組みにもとづいて、マルクスは、「純粋な状態」における資本主義的生産様式を理論的に解明しようとしている。この作業が終わって初めて、マルクスは、その知見を、『要綱』で大雑把に叙述されたより有機的な思考様式に組み込むことができるのである。
マルクスはこの枠組みにかなり厳格に固執する一方で、普遍性や特殊性、さらには個別性さえもが資本の運動法則に直接影響を及ぼしうる場合があることを常に認識している。たとえばマルクスは第一巻から需要と供給を排除しているのだが、他方で、総供給と総需要とのギャミフ、およびそれをどのように埋めるのかという問題が、第二巻では決定的な問題になっている。消費(および生産的消費と個人的消費との関係)は第一巻では言及されているとはいえ分析されてぱいないのに対し、第二巻の分析ではそれはますます決定的なテーマになっている。そしてまた、マルクスは第三巻では、商人資本の利得や地代の役割といったものを生産資本の必要に規律づけられたものとして扱っているとみなしているのだが、分配の第三の柱である利子と金融は必然的にこの規律権力を逃れるのであり、競争や貨幣資本の需給といった種々の状況依存性がいっさいを決定する。また資本の結合形態〔株式会社など〕が台頭すると状況が一変させるのだが、この形態から社会主義が台頭してくる、あるいは台頭してこなければならないとされている。
その結果、理論の構築が不完全なものになっている。この理論は、資本主義が取りうるあらゆる歴史的・地理的編成を横断する生命力を有しているのだ、が、他方では、現実の諸状況を具体的に解明する上では十分に有効ではない。というのも、現実の状況にあっては、純粋な資本主義的生産様式に対するさまざまな逸脱、不完全さ、政治的不純物が大いに幅を利かせているし、たとえば金融という特殊性、あるいは、消費様式という奇妙な個別性が支配的である。何よりも、一方における商業・金融恐慌と、他方におけるすでに確立された資本の矛盾した運動法則とのあいだに存在するかもしれない関係については、今なお十分に解明されていないのである。
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日本の教育
『朝鮮はなぜ独立できなかったのか』より
日本には古代から学校や書物があった。知的文化への最初の刺激は中国から訪れた。新時代に日本人の心が目覚めると、政治・産業的だけでなく知的な変化ももたらされ、国家全体の教育制度が要求された。1868年に天皇により公布された五箇条の御誓文には、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。1871年、岩倉使節団の木戸氏は言った。「大衆も教育せねばならない。なぜなら人々は教育を受けなければ指導者についていくことが出来ず、もしついてきたとしても、盲目的についていくのは決して宜しくないからだ」と。日本は教育面でアメリカの恩恵を受けたところが多い。アメリカ人のモルレー博士は1873年から文部省顧問を務め、日本の近代教育制度作りに貢献して歴史に名を残すほどの権威だった。私は日本で多くの公立学校を訪れたが、非常に感心した。高い出席率、時間厳守、立ち居振る舞いの素晴らしさは顕著だった。
日本の教育制度と教育勅語
記録にある最初の日本の学校は、西暦644年に建てられている。教育方法は、もし教育的と呼べるならば、西洋の宣教師が来る前に東アジアで流行っていたやり方だ。つまり、古典を単に暗記し修辞的な作文を作るのだ。現代的な意昧での教育は、1859年にやって来た宣教師によって始められた。彼らは西洋の教育方法を導入した最初の学校を日本に建てた。今日の教育基準から見ると不完全ではあったが、日本がそれまで行なっていたものに比べると非常に大きな改善だった。
新時代に日本人の心が目覚めると、政治的、産業的な変化だけでなく、新しい知的生活ももたらされるようになり、やがて国家全体の教育制度が要求されるようになった。1868年4月6日に天皇により公布された五箇条の御誓文の5番目には、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。
1871年に、西洋諸国の制度や手法を学ぶために日本から派遣された使節団(註:岩倉使節団)は、木戸孝允氏と大久保利通氏という、教育を特に重視していた二人の男を含んでいた。彼らは、アメリカ国民が一般的に知的であるのに深く感心し、すぐさま、次の大久保氏の言葉にあるような結論に達した。
「我々はまず指導者を教育せねばならない。そうすれば結果はついてくるだろう」
杢戸氏は加えた。「大衆も教育せねばならない。なぜなら人々は教育を受けなければ指導者についていくことができず、もしついてきたとしても、盲目的についていくのは決して宜しくないからだ」
文部省が設立され、1872年9月に最初の教育法令が発布された。この歴史的法令の序章は次のように宣言している。
「知識を開き、才能や技芸を仲ばすことは、学問によらなければ不可能である。これが学校を設置してある理由である」
日本は、アメリカが教育分野で指導したことについての恩義を心から表している。
明治学院学長の井深博士は述べた。「日本が西洋のアイディアに手を仲ばした時、イギリスから海軍を、フランスから陸軍を、ドイツから医療科学を、そしてアメリカから教育を真似た」
日本の教育発展の歴史に常に名誉ある名を残すであろう進歩的な天才は、アメリカ人のダビッド・モルレー博士で、1873~1879年の間、文部省顧問を務めた。彼は日本の近代教育制度を作り上げた真の権威だった。小学校から東京の帝国大学に至るまで、広範囲にわたる計画が策定された。西洋諸国から経験ある教育者たちが招かれ、新しい学校が自ら高い技能を有する教師を育成できるまで、重要な教授の職を受け持った。
天皇は言った。「これからの教育は、村に無知な家族が一つもないように、あるいは家族に無知な者が一人もいないように設計される」
日本の教育は、アメリカのように地方の管理下に置かれるようなことはあまりなかった。中央政府の文部省によって運営され、文部省は一般教育、特別教育、宗教の三つの局に分かれていた。華族学校(註:学習院)、海洋学校、郵便電信学校、陸海軍大学校のように他の省に属しか学校もあったが、すべて政府の監督下にあった。
道徳教育の基礎は1890年10月30日に発布された教育勅語である。教育勅語は、すべての学校に掲示され、読む限り、確かに称賛に値するものだ。
「私は、私たちの祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をお始めになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は伸睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、すべての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私たちの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私たち子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行なっても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります」
教育委員会の設置
1917年9月20日に発布された詔勅には、次のように書かれていた。
「国内と国外の状況を鑑みて、また大日本帝国の将来を考慮し、内閣に臨時教育委員会を設置するのが賢明だと思われる。教育を発展させる目的で、この委員会に日本の教育に関する事柄を審議する権限を与える。ここに、臨時教育会議の基本的な規定を承認し、公布することを命ずる」
この委員会は、前内務大臣の平田来助子爵を議長とし、前文部大臣の久保田譲男爵を副議長として活発に機能した。そしてどんな改善をすればよいのかはっきりさせるため、国の教育システムのすべてを注意深く調査した。これらのことから、日本人はその教育の熱意において非常に近代的で漸進的だという事が言える。彼らは最高の方法を求め、それを開拓するのに努力を惜しまないのだ。
日本には古代から学校や書物があった。知的文化への最初の刺激は中国から訪れた。新時代に日本人の心が目覚めると、政治・産業的だけでなく知的な変化ももたらされ、国家全体の教育制度が要求された。1868年に天皇により公布された五箇条の御誓文には、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。1871年、岩倉使節団の木戸氏は言った。「大衆も教育せねばならない。なぜなら人々は教育を受けなければ指導者についていくことが出来ず、もしついてきたとしても、盲目的についていくのは決して宜しくないからだ」と。日本は教育面でアメリカの恩恵を受けたところが多い。アメリカ人のモルレー博士は1873年から文部省顧問を務め、日本の近代教育制度作りに貢献して歴史に名を残すほどの権威だった。私は日本で多くの公立学校を訪れたが、非常に感心した。高い出席率、時間厳守、立ち居振る舞いの素晴らしさは顕著だった。
日本の教育制度と教育勅語
記録にある最初の日本の学校は、西暦644年に建てられている。教育方法は、もし教育的と呼べるならば、西洋の宣教師が来る前に東アジアで流行っていたやり方だ。つまり、古典を単に暗記し修辞的な作文を作るのだ。現代的な意昧での教育は、1859年にやって来た宣教師によって始められた。彼らは西洋の教育方法を導入した最初の学校を日本に建てた。今日の教育基準から見ると不完全ではあったが、日本がそれまで行なっていたものに比べると非常に大きな改善だった。
新時代に日本人の心が目覚めると、政治的、産業的な変化だけでなく、新しい知的生活ももたらされるようになり、やがて国家全体の教育制度が要求されるようになった。1868年4月6日に天皇により公布された五箇条の御誓文の5番目には、「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」とある。
1871年に、西洋諸国の制度や手法を学ぶために日本から派遣された使節団(註:岩倉使節団)は、木戸孝允氏と大久保利通氏という、教育を特に重視していた二人の男を含んでいた。彼らは、アメリカ国民が一般的に知的であるのに深く感心し、すぐさま、次の大久保氏の言葉にあるような結論に達した。
「我々はまず指導者を教育せねばならない。そうすれば結果はついてくるだろう」
杢戸氏は加えた。「大衆も教育せねばならない。なぜなら人々は教育を受けなければ指導者についていくことができず、もしついてきたとしても、盲目的についていくのは決して宜しくないからだ」
文部省が設立され、1872年9月に最初の教育法令が発布された。この歴史的法令の序章は次のように宣言している。
「知識を開き、才能や技芸を仲ばすことは、学問によらなければ不可能である。これが学校を設置してある理由である」
日本は、アメリカが教育分野で指導したことについての恩義を心から表している。
明治学院学長の井深博士は述べた。「日本が西洋のアイディアに手を仲ばした時、イギリスから海軍を、フランスから陸軍を、ドイツから医療科学を、そしてアメリカから教育を真似た」
日本の教育発展の歴史に常に名誉ある名を残すであろう進歩的な天才は、アメリカ人のダビッド・モルレー博士で、1873~1879年の間、文部省顧問を務めた。彼は日本の近代教育制度を作り上げた真の権威だった。小学校から東京の帝国大学に至るまで、広範囲にわたる計画が策定された。西洋諸国から経験ある教育者たちが招かれ、新しい学校が自ら高い技能を有する教師を育成できるまで、重要な教授の職を受け持った。
天皇は言った。「これからの教育は、村に無知な家族が一つもないように、あるいは家族に無知な者が一人もいないように設計される」
日本の教育は、アメリカのように地方の管理下に置かれるようなことはあまりなかった。中央政府の文部省によって運営され、文部省は一般教育、特別教育、宗教の三つの局に分かれていた。華族学校(註:学習院)、海洋学校、郵便電信学校、陸海軍大学校のように他の省に属しか学校もあったが、すべて政府の監督下にあった。
道徳教育の基礎は1890年10月30日に発布された教育勅語である。教育勅語は、すべての学校に掲示され、読む限り、確かに称賛に値するものだ。
「私は、私たちの祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をお始めになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は伸睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、すべての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私たちの祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私たち子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行なっても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります」
教育委員会の設置
1917年9月20日に発布された詔勅には、次のように書かれていた。
「国内と国外の状況を鑑みて、また大日本帝国の将来を考慮し、内閣に臨時教育委員会を設置するのが賢明だと思われる。教育を発展させる目的で、この委員会に日本の教育に関する事柄を審議する権限を与える。ここに、臨時教育会議の基本的な規定を承認し、公布することを命ずる」
この委員会は、前内務大臣の平田来助子爵を議長とし、前文部大臣の久保田譲男爵を副議長として活発に機能した。そしてどんな改善をすればよいのかはっきりさせるため、国の教育システムのすべてを注意深く調査した。これらのことから、日本人はその教育の熱意において非常に近代的で漸進的だという事が言える。彼らは最高の方法を求め、それを開拓するのに努力を惜しまないのだ。
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日本人、朝鮮人、中国人の基本的特徴
『朝鮮はなぜ独立できなかったのか』より
日本人の基本的特徴は結束
表面的に見る人は、日本人、朝鮮人、中国人の本質的な類似点について述べることが多い。似ているところがあるのは事実だ。似たような服を着ていれば、旅行者が彼らを見分けるのは難しい。礼儀作法や慣習、宗教的信仰の一部も似ているところがある。
さらに、西洋、ヨーロッパ、アメリカに対して、東洋的、アジア的と呼ばれる全体的な精神性においても似ている。それでもやはり、この三つの国民の性格と問題を正しく理解しようとするならば、基本的な違いを知っておく必要がある。ここでは身体的な違いではなく、日本人、中国人、朝鮮人が本当に異なっている所の、精神的な違いについて述べる。
日本の基本は結束だ。個人は重要ではなく、国がすべてだ。日本人は、政治でも、戦争でも、商業でも、日々の生活の中でも、団体で動く。この性質がどれくらい昔にまで遡るのかは議論があるところだ。
京都帝国大学学長の菊池男爵は、1910年、ニューヨークでの講演で、日本は一つの皇室が25世紀もの間絶え間なく伝統的に継承されることで国が一つに強くまとまっており、人々も深い尊敬の念をもっている、と強調した。日本人は完全にこの魅力的な観念の魔法にかかっているように見える。彼らは、現代の日本と先祖代々の日本の関係、そして国民の祖先と皇室の祖先との関係は永続的であると主張する。それは単に今日の日本と祖先の関係というだけではなく、何世紀にも亘る日本人と天皇との関係で、国の結束は時代を通して存続しているのだ。
中国人の基本的特徴は個人主義
中国の基本はこれとは全く逆に個人主義だ。中国人は、個人としては、勤勉で有能、多くは優れた技能を持ち、世界のどの人種とも競い合う事ができる。しかし、協力するような事業を自発的に行なうことはない。共同作業は苦手だ。中国人は個人では強いが、集団では弱い。彼らは組織においては不十分だ。中国のどこへ行っても、この兆候は見られる。商業的に見れば、中国人はアジアで一番のビジネスマンなのだが、団結して効率の良い仕事ができる大きな中国企業を創るのは難しい。政治的には、中央集権が著しく欠如している。皇帝は伝統的には天子として崇められてきたが、今の皇帝を人々は異邦の満洲人とみなし、彼の支配下で苛立っていた。多くの、王朝に準ずるような勢力が生まれ、常に皇帝とその家系の転覆を狙っていた。革命が完了すると、大総領のもとに共和国(註一中華民国)が宣言されたが、6年も経たないうちに5人も大総領が入れ替わった。個人主義が国家の特徴なのである。村では主に長老を長とする集団ができていたが、中国全体で見ると、自分の身は自分で守らなければならない状態だった。
それ故、日本で顕著に見られる国家の結束感などと言うものは全くなかった。南の人間は北の人間についてほぼ何も知らず、気にも留めなかった。四川省の住人は福建省の住人にはほとんど共感することはなく、まるで別の国民の様だ。もし二つの省の間で戦争が起こっても、中国の多くの地域は無関心だ。それは北京の役人と攻撃された省政府の問題なのだから自分たちで処理すればいい、と。恐らく、多くの中国人が1894年に起こった日本と中国の間の戦争の事をまったく知らない。知っている者も、それを日本とドイツの間で起こる戦争ほどに気に掛けなかったのである。もし外国が日本の港を獲得したとしても、それを要塞化するため雇われようとする日本人などいないだろう。
しかし、ドイツが1897年に膠州湾を占拠した時、山来省は強く警戒したにも拘わらず、ドイツの司令長官はドイツ基地を中国人に攻め落とされないように強化するために、何の問題もなく何千もの中国人を雇うことができた。同じく、ロシア人も、中国政府から脅し取った合意で旅順を獲得した時、それを要塞化するのに6万人の中国人労働者を雇うのに困難はなかった。北京の各国公使館も、宮廷を狙おうと思えば狙えるような、小銃の弾が届くような距離でも中国人労働者の力を借りて防備を固めていた。
中国は結束した国家というよりは、いくつかの組織が緩やかに寄せ集められたものなのだ。知事や総督は実質的には独立した支配者で、自分たちの貨幣鋳造所や軍隊を持ち、北京に貢物を送っていれば好き勝手なことができた。日本政府は事業において個人を誘導し支持するのだが、中国政府は人々が自活するように放っておくのだ。恐らくこれは、一つには、人口の多さに関係している。それが存続の争いを激しくし、人情味のない身勝手さと自己依存の精神をもたらすのだ。
中国の個人主義は、なぜ、現在の中国における変化が非常に重要なのかを説明する根拠の一つだ。今働いている新しい力は、中国の生活の根本的特質に影響を与え、人々の基本となる考え方と関係性に大変革をもたらしている。鉄道と電報のお陰で、国内の他の地域と交信したり、その地域についての知識を得る事ができるようになり、以前には存在しなかった一体感が生じ始めている。そして、そこには大きな希望がある。中国の改革運動は、基本的には国民の運動だ。政府はそれを指揮しなかったし、実際問題としてかなり対応が遅れていた。このような大規模な大衆運動は、おそらくヨーロッパの似たような運動と同じ位に抑見難くなるだろう。なぜなら新しい秩序というものは、一度確立すれば、国家の同意のもとに固く築かれるからだ。
朝鮮人の基本的特徴は主観性
朝鮮の基本については、一つの言葉で言い表すのは難しいが、主観性と呼べるかもしれない。国民はあまり男らしくはなく、野心的でもなく、精神面で独立心も少ない。皇帝を普通に尊敬しているが、日本人に特徴的な、情熱的献身は全くない。どんな日本人も天皇のために喜んで命を捧げる。これは日本が非常に強い軍を持っている理由の一つだ。国が一体となって戦い、国の理想を体現する天皇のために死ぬまで戦う。
このような感情は中国人には全く異質なもので、朝鮮人はこの点では日本と中国の中間に位置する。皇帝が侮辱された時に自殺しか朝鮮の役人も何人かいたが、この精神は全国民を特徴づけるものではない。愛国心のあるほとんどの朝鮮人の感情は、皇帝に特別な愛着があったからと言うよりは、外国人に支配されたことで傷ついた国民のプライドだった。朝鮮人は長い間抑圧され、列強に挟まれ、非常に無力だったので、ほぼ無関心な諦めに悄れていた。英雄的な戦いを為した個人もいるが、国民全体としては、避けられない事に長く黙従しりぎたので、結果として、ある心理状態が身についていた。断固たる日本人のやり方は、さすがに朝鮮人を刺激し無関心ではいられなくしたのだが、いまだに諦めの傾向は顕著である。
朝鮮人は日本人がもたらした近代的改善を、たいてい嫌々ながらも受け入れるのだが、それを自分かちのものにしたり、他の改善を為そうとしたりする事はほとんどしない。彼らは単に日本人のすることに同意し、諦めるのだ。朝鮮では、キリスト教の教会であっても国家であっても、その根底には根強い固有の問題点があり、様々な場面に影響を与えている。それは、朝鮮には中流階級、製造者階級、専門職階級がなく、どの分野にも訓練された指導者がいないということだ。朝鮮にはたった二つの階級しかない。それは「貴族」と農民だ。ただし朝鮮の貴族である両班について言えば、これ以上に低い貴族などいないのである。
朝鮮人の気質は日本人や中国人よりも感情的だ。朝鮮人の心をつかみ、共感を引き起こすのは比較的簡単だ。これは、中国や日本よりも朝鮮でキリスト教が速い進展を遂げた理由の一つである。勿論、朝鮮での福音の成功の理由は他にもあり、それは他で述べることにするが、この気性は国民性に違いをもたらす要因だ。
国が熱望するものも違う。日本人の大望は、自国が世界の大国として認められることだ。中国人の大望は、個人の利益を追求することだ。朝鮮人の大望は、放っておいて欲しいという事だ。朝鮮人が救世軍の役人の周りに集まってくるのを見るのは痛ましかった。彼らは、半分子供のように、鼓笛隊や軍のイメージから、救世軍は自分かちの生活を邪魔している部外者を追い払ってくれると思っていたのだ。
私は今述べてきた三国民の違いの記述が不十分なものであることを承知している。それぞれの国について例外を挙げるのは簡単だろうが、私はここでは国民全体として考えており、既に述べたような基本的な違いは根深く、政治、商業、伝道において多くの問題に影響している。
日本人の基本的特徴は結束
表面的に見る人は、日本人、朝鮮人、中国人の本質的な類似点について述べることが多い。似ているところがあるのは事実だ。似たような服を着ていれば、旅行者が彼らを見分けるのは難しい。礼儀作法や慣習、宗教的信仰の一部も似ているところがある。
さらに、西洋、ヨーロッパ、アメリカに対して、東洋的、アジア的と呼ばれる全体的な精神性においても似ている。それでもやはり、この三つの国民の性格と問題を正しく理解しようとするならば、基本的な違いを知っておく必要がある。ここでは身体的な違いではなく、日本人、中国人、朝鮮人が本当に異なっている所の、精神的な違いについて述べる。
日本の基本は結束だ。個人は重要ではなく、国がすべてだ。日本人は、政治でも、戦争でも、商業でも、日々の生活の中でも、団体で動く。この性質がどれくらい昔にまで遡るのかは議論があるところだ。
京都帝国大学学長の菊池男爵は、1910年、ニューヨークでの講演で、日本は一つの皇室が25世紀もの間絶え間なく伝統的に継承されることで国が一つに強くまとまっており、人々も深い尊敬の念をもっている、と強調した。日本人は完全にこの魅力的な観念の魔法にかかっているように見える。彼らは、現代の日本と先祖代々の日本の関係、そして国民の祖先と皇室の祖先との関係は永続的であると主張する。それは単に今日の日本と祖先の関係というだけではなく、何世紀にも亘る日本人と天皇との関係で、国の結束は時代を通して存続しているのだ。
中国人の基本的特徴は個人主義
中国の基本はこれとは全く逆に個人主義だ。中国人は、個人としては、勤勉で有能、多くは優れた技能を持ち、世界のどの人種とも競い合う事ができる。しかし、協力するような事業を自発的に行なうことはない。共同作業は苦手だ。中国人は個人では強いが、集団では弱い。彼らは組織においては不十分だ。中国のどこへ行っても、この兆候は見られる。商業的に見れば、中国人はアジアで一番のビジネスマンなのだが、団結して効率の良い仕事ができる大きな中国企業を創るのは難しい。政治的には、中央集権が著しく欠如している。皇帝は伝統的には天子として崇められてきたが、今の皇帝を人々は異邦の満洲人とみなし、彼の支配下で苛立っていた。多くの、王朝に準ずるような勢力が生まれ、常に皇帝とその家系の転覆を狙っていた。革命が完了すると、大総領のもとに共和国(註一中華民国)が宣言されたが、6年も経たないうちに5人も大総領が入れ替わった。個人主義が国家の特徴なのである。村では主に長老を長とする集団ができていたが、中国全体で見ると、自分の身は自分で守らなければならない状態だった。
それ故、日本で顕著に見られる国家の結束感などと言うものは全くなかった。南の人間は北の人間についてほぼ何も知らず、気にも留めなかった。四川省の住人は福建省の住人にはほとんど共感することはなく、まるで別の国民の様だ。もし二つの省の間で戦争が起こっても、中国の多くの地域は無関心だ。それは北京の役人と攻撃された省政府の問題なのだから自分たちで処理すればいい、と。恐らく、多くの中国人が1894年に起こった日本と中国の間の戦争の事をまったく知らない。知っている者も、それを日本とドイツの間で起こる戦争ほどに気に掛けなかったのである。もし外国が日本の港を獲得したとしても、それを要塞化するため雇われようとする日本人などいないだろう。
しかし、ドイツが1897年に膠州湾を占拠した時、山来省は強く警戒したにも拘わらず、ドイツの司令長官はドイツ基地を中国人に攻め落とされないように強化するために、何の問題もなく何千もの中国人を雇うことができた。同じく、ロシア人も、中国政府から脅し取った合意で旅順を獲得した時、それを要塞化するのに6万人の中国人労働者を雇うのに困難はなかった。北京の各国公使館も、宮廷を狙おうと思えば狙えるような、小銃の弾が届くような距離でも中国人労働者の力を借りて防備を固めていた。
中国は結束した国家というよりは、いくつかの組織が緩やかに寄せ集められたものなのだ。知事や総督は実質的には独立した支配者で、自分たちの貨幣鋳造所や軍隊を持ち、北京に貢物を送っていれば好き勝手なことができた。日本政府は事業において個人を誘導し支持するのだが、中国政府は人々が自活するように放っておくのだ。恐らくこれは、一つには、人口の多さに関係している。それが存続の争いを激しくし、人情味のない身勝手さと自己依存の精神をもたらすのだ。
中国の個人主義は、なぜ、現在の中国における変化が非常に重要なのかを説明する根拠の一つだ。今働いている新しい力は、中国の生活の根本的特質に影響を与え、人々の基本となる考え方と関係性に大変革をもたらしている。鉄道と電報のお陰で、国内の他の地域と交信したり、その地域についての知識を得る事ができるようになり、以前には存在しなかった一体感が生じ始めている。そして、そこには大きな希望がある。中国の改革運動は、基本的には国民の運動だ。政府はそれを指揮しなかったし、実際問題としてかなり対応が遅れていた。このような大規模な大衆運動は、おそらくヨーロッパの似たような運動と同じ位に抑見難くなるだろう。なぜなら新しい秩序というものは、一度確立すれば、国家の同意のもとに固く築かれるからだ。
朝鮮人の基本的特徴は主観性
朝鮮の基本については、一つの言葉で言い表すのは難しいが、主観性と呼べるかもしれない。国民はあまり男らしくはなく、野心的でもなく、精神面で独立心も少ない。皇帝を普通に尊敬しているが、日本人に特徴的な、情熱的献身は全くない。どんな日本人も天皇のために喜んで命を捧げる。これは日本が非常に強い軍を持っている理由の一つだ。国が一体となって戦い、国の理想を体現する天皇のために死ぬまで戦う。
このような感情は中国人には全く異質なもので、朝鮮人はこの点では日本と中国の中間に位置する。皇帝が侮辱された時に自殺しか朝鮮の役人も何人かいたが、この精神は全国民を特徴づけるものではない。愛国心のあるほとんどの朝鮮人の感情は、皇帝に特別な愛着があったからと言うよりは、外国人に支配されたことで傷ついた国民のプライドだった。朝鮮人は長い間抑圧され、列強に挟まれ、非常に無力だったので、ほぼ無関心な諦めに悄れていた。英雄的な戦いを為した個人もいるが、国民全体としては、避けられない事に長く黙従しりぎたので、結果として、ある心理状態が身についていた。断固たる日本人のやり方は、さすがに朝鮮人を刺激し無関心ではいられなくしたのだが、いまだに諦めの傾向は顕著である。
朝鮮人は日本人がもたらした近代的改善を、たいてい嫌々ながらも受け入れるのだが、それを自分かちのものにしたり、他の改善を為そうとしたりする事はほとんどしない。彼らは単に日本人のすることに同意し、諦めるのだ。朝鮮では、キリスト教の教会であっても国家であっても、その根底には根強い固有の問題点があり、様々な場面に影響を与えている。それは、朝鮮には中流階級、製造者階級、専門職階級がなく、どの分野にも訓練された指導者がいないということだ。朝鮮にはたった二つの階級しかない。それは「貴族」と農民だ。ただし朝鮮の貴族である両班について言えば、これ以上に低い貴族などいないのである。
朝鮮人の気質は日本人や中国人よりも感情的だ。朝鮮人の心をつかみ、共感を引き起こすのは比較的簡単だ。これは、中国や日本よりも朝鮮でキリスト教が速い進展を遂げた理由の一つである。勿論、朝鮮での福音の成功の理由は他にもあり、それは他で述べることにするが、この気性は国民性に違いをもたらす要因だ。
国が熱望するものも違う。日本人の大望は、自国が世界の大国として認められることだ。中国人の大望は、個人の利益を追求することだ。朝鮮人の大望は、放っておいて欲しいという事だ。朝鮮人が救世軍の役人の周りに集まってくるのを見るのは痛ましかった。彼らは、半分子供のように、鼓笛隊や軍のイメージから、救世軍は自分かちの生活を邪魔している部外者を追い払ってくれると思っていたのだ。
私は今述べてきた三国民の違いの記述が不十分なものであることを承知している。それぞれの国について例外を挙げるのは簡単だろうが、私はここでは国民全体として考えており、既に述べたような基本的な違いは根深く、政治、商業、伝道において多くの問題に影響している。
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