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コンビニは駐車所が命

Iさんからのメール

 一日以上経って、Iさんからメールが戻ってきました。

コンビニは駐車所が命

 建屋ができる前に、「経営者募集」していたが、建屋が出来て、駐車場が出来て、また「経営者募集」が建てられた。居ないんですね。あの立地条件では、あのコンビニはダメですね。駐車場の狭さは致命的です。混雑する信号機の前に作るのはあまりにも得策ではない。心理的には入れない。

 元町工場前にできたローソンの駐車場は広い。何しろ、以前、ビジネスホテルがあった所がコンビニになったのだから。

 名古屋に通勤していた時に拠点にしていたセブン-イレブンも取り壊されて、平地になった。何ができるかと思っていたら、セブン-イレブンができた。建屋は端になって、駐車場がメインになった。

 コンビニも形態が変わる時が来ている。

第6章「本と図書館」を反映

 第6章「本と図書館」を反映したけど、かなり、まとまっています。こうやって発信しても、何の反応もないというのは、有難い。
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未唯空間第7章 生活編

まず、考えること

 まず、考えること。ベースは独りぼっちだった。独りぼっちにしてきた。考えるしかない。元はと言えば、時間です。放り込まれた存在である以上は、この時間をどう使っていくのか。なぜ、今、ここにいるのか。考えないでおくことはできないので、考える。ふつうは14歳で考えて、忘れていくのが、大人の態度だけど、そういう訳にはいかない。

 その為のツールは色々、作ってきました。今のカタチになってくると、それらは役に立ちます。それらのモノは、私のために準備されたという思いが強いです。SNSもそういう感覚です。勝手に他者が使っているけど、まあ、やらせておこうかという感じです。だけど、私のために存在している。

存在すること

 次が「存在する」。この意味は内なる世界をどう作っていくのか。私は私の世界。これは外なる世界との対比です。色々なモノを外なる世界においてしまうと、内なる世界はシンプルになります。内なる世界にも絶対的存在は必要です。外との世界との関係。身体自体とか死も外なる世界に置けば、考えるのが楽です。

 会社生活も外の世界だった。社会全体が外なのですから。そうすれば、内なる世界で色々なことをまとめることが出来た。こんな自由なことをやっていても、会社では咎められたことはない。命令されたこともない。自由にやってきた。なぜ、自由にやってこれたのか。唯一あったのは、SNSに対しての干渉があった時です。あの時は、会社を辞めて、本気で会社を攻撃しようとした。

 思う通りに考えて、思い通りにやれば、それで済んだ30年間。何かをさせるためにそうしたんだろうという枠は感じました。その枠を超えることが役割だと感じていた。愛自体が外なる世界と内なる世界を作り出してきた。

 そこに在るのは、「存在する」ということ。池田晶子で様相が変わりました。考えるだけでいいんだ。行動しなくてもいい。存在することが純粋になってきた。これは28歳ぐらいの時に、自分の役割をどうしていくかで、数学者、社会学者、歴史学者、そして、それらをまとめたものとして、未来学者としてきた。これに沿って、やってきたから、会社生活もどちらが主だったのか。1対9ぐらいの感覚です。

生活すること

 その中でも生活しないといけない。他からみたら、ギリギリの生活です。家庭といっても、何も見てないから、奥さんからは完全に無視されている。社会との接点はかなり少ないです。未唯空間を作り出してからは、得る方が中心になっている。根本を考えるのに社会を使っていく。生活には関係しない形になっている。

 生活すると言っても、単純に生きているだけではない。まとめていくことにしている。歴史がターゲットだし、未唯空間そのものがまとめることが生活することです。存在の力を体現することに掛けている。

生きること

 そして、「生きる」。考える、生活する、生きるという、三つの要素から成り立ちます。生きるにしても、考えるだけです。何かを得るために生きているだけの状態です。放り込まれた存在としてはそうなります。反映させるとか融合させるとかに使っています。

女性への思い

 そして、「女性への思い」。女性だけが接点です。そこから、独我論に入りました。依存する心をなくして、見えるもの、感じるものから考えていく暮らしです。女性には共通点があります。みな、NかMです。どうでもいいけど、B型です。

 情報収集も女性が主です。それ以外に本、会社、システム思考とかSNSから情報収集しています。つながるにしてもサファイアにしても、女性との関係で作り上げてきました。

未唯空間 生活編

 生活編は苦しいのは確かです。孤独と孤立をベースにしているので、何も得られない。単に生きているだけ。小さな小さな接点で生きている。内なる世界を大切にするのか。そこから外の世界に持って行くのか。そんな生活は考えられないでしょう。

 だけど、独我論を使えば、普通じゃなくなります。それが全てになります。正しいことになります。何しろ、感じないものは存在しないだから。女性への思いは非常に中途半端です。これでいいんでしょうね。こちらのベースがベースだから。

知の世界

 次は「知の世界」。これは抽象的ではなく、自分の生活の中でどのように作り出そうか。ベースは未唯空間です。未唯空間を作りだすことで、何を変えていくのか。家庭の変化と言っても、何もしないことになっている。気になればなるほど、家庭というものは変わっていく。どう変えたらいいのか、よくわからない。

 「社会の変化」こそ、どのように自分の方から持って行くのか。社会に対して、どう対応すればいいのか。そのために、公共図書館、哲学、数学とか預言とかいうものを集約していく。まだまだ、バラバラだけど、これを一つのモノにしていく。

 知の世界を自分の中に作り出す。ベースとなるのは、全てを知りたい、そしてデジタル化。私のために用意されたものを積み上げていく。

全てを知り、表す

 そして、「全てを知る」。ここのところは<今>しかないという思いが非常に強い。そして、非連続な日々も手に入れた。裏に在る大いなる意思、それらをどうつなげていくのか。

 思いを残すことは、ここ20年ほど、行われている。全て、残されている。死の時に、このアカウントをどうしていくのか。元々、それはないんだからどうでもいい。未唯に渡すモノを他者にもトレースできるようにしていく自分の方に思いを残してはいけない。

 そんなことよりも、全てを表すことを考えないといけない。今までは自分の中に置くだけであった。読むことに対して、書くことは難しい。そのベースは未来を知るということです。未来を知って、それを表していく。それが預言になる。預言と言っても、自分しかない世界においては、単なる感想文に過ぎないけど、大いなる意思への報告書になる。決して、自己満足はしない。

存在の無

 そして、存在と無から始まった世界。矛盾するものが両立する世界から、存在自体が無である世界に持って行こうと思っている。

 今まで考えたことを一つのモノにして、価値のないモノにしていくという、うがった世界。そこから新しい数学を生み出す。数学というものは哲学と同様に、方向を失っている。ベースを変える役割を放棄している。折角、独立したのに、遊びほうけている。それにキーワードを付け加えて、渡していく。

 社会の位相化で、次の世界のデッサンだけしておきます。やるのは、パートナーあたりでしょう。

 最近感じるのは、137億9千万年の変化、生きてきたことへの答を自分なりに作っていく。これを承認してもらうことはないので気が楽だけど、その分だけ、自分に納得いくものでないといけない。それが社会の変化。最期は存在の無。これはおまけみたいなもんですね。存在と無から始まって、端と中央が一緒になっていくということでは、正しいでしょう。まだまだ、言葉になっていません。思いになっていません。思いになることはないけど、そのための努力は生きることの意味です。

未唯との対話

 未唯との対話をしましょう。それとスタバでの講義。自分の中でもう一回、変えないといけない。朝、起きて何をするのかのイメージがない。

 パートナーの性にしても、パートナーが居たからと言って、変わるものではない。もっと、内面から変えないといかない。外へ出すことです。モヤモヤした形ではなく、スッキリした形で。テーマも「14歳の君へ」みたいにキッチリまとめないといけない。

 また、何もない所から始めますか。だけど、未唯空間というバックボーンはあります。それに捉われてはいけないけど。

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