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ヨーロッパのにおける民族運動(1815~1949年)

『ドイツ・フランス共通歴史教科書【近現代史】』より

ヨーロッパのにおける民族運動(1815~1949年)

 民族統一と独立への努力は、どの程度まで全ヨーロッパ的な現象と見ることができるのだろうか。

 ネーション--19世紀を導く概念

  独立した主権を有する国民国家というモデルはフランス革命から始まって、19世紀の政治的な主要概念となった。19世紀前半には、民族意識の発展は解放運動の性格が強かった。民族運動はギリシア、ポーランド、イタリア、またラテンアメリカのスベインやポルトガルの植民地などでのように、しばしば他者による支配に向けられていたり、あるいはドイツやイタリアのように領邦国家によって分割された領地を一つの国民国家へと統一しようと努力していた。

   各国の民族運動の間には、国境を超えた連帯の感情が生まれた。これは例えば親ギリシア主義やポーランド熱に見られる。しかし同時にまた民族主義的なルサンチマンというものも存在し、例えばドイツとフランスの間では1840年のライン危機において浮き彫りとなった。

 ギリシア解放戦争と親ギリシア主義(1821~1832年)

   ビザンチン帝国の崩壊(1453年のコンスタンチノープル陥落)以来、ギリシア人はオスマン帝国の支配下に生きていたが、ギリシア語と正教の信仰は守ることができた。1821年、ギリシア人によるトルコ人に対する民族主義運動が起こったが、即座に鎮圧された。

   しかしヨーロッパではギリシアに同調する親ギリシア主義の流れが生まれ、オスマン帝国の支配からキリスト教徒のギリシア人を解放するためにヨーロッパ諸国が介入することを求めた。キリスト教を前面に掲げているにもかかわらず、神聖同盟の加盟国は当初、他の民族運動を君主への反逆へと刺激しないためにこれを拒んだ。1827年になって、ようやくロシア、フランス、イギリスがオスマン帝国への軍事介入を決め、オスマン帝国はナヴァリノの海戦での敗北を受けて独立国ギリシアを認めた(1829年)。1832年にはギリシアの国民議会が列強の勧めによりバイエルンの王子オットー・フォン・ヴィッテルスバッハをギリシア王に選んだ。

 ポーランド--国家を持たない民族

   1830年フランスの七月革命はヨーロッパ各地に影響を及ぼし、例えばベルギーはオランダから革命によって独立した(1830/1831年)。ポーランドの民族運動もまた、フランスの例によってロシアの支配に対する反乱への勇気を得た。

   ポーランドは1772年以来、強大な隣国ロシア、プロイセン、オーストリアによる政治的な分割の犠牲となっていた。ウィーン会議ではポーランドの大部分は「会議王国」としてロシア帝国との同君連合となった。西側の部分はプロイセン領(ポーゼン)となり、南のガリツィアはオーストリア領となった。1830年には、1815年のポーランド憲法に違反したとしてロシア皇帝に対する反乱が起きた。この蜂起はヨーロッパ各地でポーランドヘの熱狂を呼び起こしたが、1831年にはプロイセンの支援を受けたロシア軍によって鎮圧された。ポーランドの自由の闘士たちは国を追われ、ヨーロッパ各国に受け入れられたが、その亡命先では解放運動、民族運動の一部として、ポーランド協会がポーランド解放のための戦いを支援した。

プロイセン=フランス戦争

 フランスとドイツにとって戦争は何を意味したのか。

 双方の意志による戦争

   ビスマルクは、ドイツの政治的統一はフランスとの摩擦なしには完成しないと考えていた。中央ヨーロッパに新たな大国が誕生することは、フランスの強国政策と安全保障上の利害に抵触せずにはいないからである。このことはすでに1866年の戦争で、ナポレオン三世が自らの中立およびプロイセンの勢力強化の容認と引き換えに、将来にわたる南ドイツ諸国の中立とルクセンブルクとを要求し、ビスマルクがこれを拒否したことにも表れていた。

   こうしたドイツの態度はフランス国民の怒りを呼び、これは1870年にプロイセン国王の親類であるレオポルト・フォン・ホーエンツォレルン-ジグマリンゲンがスペイン王に推挙されたことでさらに悪化した。ナポレオン三世の外相グラモンはプロイセン王室によるフランス包囲を恐れ、レオポルトが候補から退いたあとも、それに加えてヴィルヘルム一世が継承権を永久に放棄することを要求した。ビスマルクはこれをフランスとの戦争開始の好機と見た。ヴィルヘルム一世はグラモンの要請を拒否したことを「エムズの電報」でビスマルクに伝えた。ビスマルクはこの電報を意図的に短縮して扇動的に変え、新聞に公表した。この侮辱にフランス政府は1870年7月19日、プロイセンヘの宣戦布告をもって応えた。

 戦争からフランス内戦へ

   南ドイツ諸国にとっては、これにより軍事同盟の発動となり、ドイツ諸国は共同して軍事的に優勢な形でフランスに立ち向かった。 1870年9月2日のスダンの戦いでフランス軍は降伏した。ナポレオン三世は捕虜となった。これに続くパリでの蜂起から、レオン・ガンペッタとジュール・ファーヴルが指導する共和派の「国防政府」が誕生した。国防政府はドイツとの戦争を継続したが、パリ包囲を防ぐことはできず、1871年1月に降伏を余儀なくされた。

   1871年2月に新たに選挙された君主制支持者が多数を占める国民議会によりアドルフ・ティエールが首相に選ばれ、厳しい講和条件を飲まされることになった。フランスは2月にすでにアルザス(エルザス)とロレーヌ(ロートリンゲン)の一部を手放し、(1871年5月10日付のフランクフルト講和条約により)50億フランの賠償金を払い終わるまでドイツによる占領を受け入れなければならなかった。これは1871年3月18日に起こった政府に対するパリ・コミューンの蜂起に有利に働いた。

 戦争の結果としてのドイツ帝国設立

   共同の戦争に勝利したことで、ビスマルクは南ドイツ諸国に対して、北ドイツ連邦とともにドイツ帝国をっくり上げるよう説得することに成功し、1871年1月1日にその憲法が発効した。1871年1月18日にはプロイセン国王ヴィルヘルム一世がヴェルサイユ宮殿の鏡の間で諸候と軍の高官とに囲まれるなか「ドイツ皇帝」に即位した。自由主義者たちの求めていたドイツ統一はこうして達成されたが、それは「下から」の民衆運動の結果としてではなく、上層部と軍事力によって「上から」実現されたのである。

   皇帝即位宣言の場としてヴェルサイユが選ばれたことは、フランスにとって大きな屈辱であった。ヴェルサイユ宮殿はルイ十四世時代のフランス王国の偉大さと、また1789年にここで国民議会が開催されたことから、主権を持つ国民の誕生を象徴する場所であった。第一次大戦に敗戦したドイツが、1919年にヴェルサイユ宮殿の鏡の間で講和条約を受け入れざるを得なくなったのも、1871年の恥辱への返報であった。
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