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ドイツとフランスの緊張にみちた関係

『ドイツ・フランス共通歴史教科書【近現代史】』より

第二次世界大戦中のドイツ社会

 ドイツにおける終戦までのヒトラーの人気と体制への抵抗の弱さは、どのように説明できるか。

 比較的高い生活水準

   ヒトラーは、「故郷」が前線で戦う兵士を見殺しにしたために1918年に敗北したという誤った理解の記憶に突き動かされていた。ゆえに、彼は1916年から1917年にかけての飢餓と窮乏と似たような状態になることを避けるためなら何でもした。1日当たりの食糧配給量は1939年に2400キロカロリーと定められ、1945年初頭までは2000キロカロリーを維持した。それは他の欧州諸国の人々が摂取したよりも、はるかに多かった。状況が深刻になったのは、戦争の最後の数カ月のことである。

   1940年3月から軍需大臣に就任したフリッツ・トットの圧力によって、国家は経済への統制を強めた。 1942年2月以降も、後継者アルベルト・シュペーアはその政策を継続し、特に生産の集中化と合理化を進めた。しかし、とりわけ占領地域の徹底した収奪と600万人の労働力のドイツヘの連行によって、体制は、ドイツ国民に通常とはほとんど変わらない生活ができるという幻想を抱かせようとしたのである。

 戦争の中で苦しむ民衆

   それにもかかわらず、ドイツはフランスと違って、第二次世界大戦中に第一次世界大戦よりもはるかに傷ついた。特にドイツ兵の戦死者の半分以上をもたらすことになる東部戦線が開かれて以降、人命の喪失は著しく増加した。死者の数は350万人を超えたとされ、1925年生まれの男性の40%が亡くなった。

   大都市は連合軍の空襲による激しい爆撃にさらされ、特に焼夷弾が使用されたことにより、死者数が増えた。1943年7月24日から8月2日までの爆撃だけで(「ゴモラ作戦」)、ハンブルクでは4万1500人の住民が死亡した。1945年2月13日から14日にかけての連合軍最後の大空襲であるドレスデンヘの爆撃では3万5000人の死者が出た。

   戦争中、「第三帝国」が東部で行った犯罪的な暴力は、今度はドイツ東部地区の住民にはね返ってきた。彼らを守る者はなく、ソ連軍の弾圧を前にして逃亡を余儀なくされた。戦争の最後の数カ月間で東部地区では50万人の民間人が命を落とした。

 孤立し、少数派となった抵抗運動

   民衆は1939年の開戦に熱狂はしなかったが、強力な国民の連帯は存続し、1943年から続く一連の敗北によっても、それがくつがえされることはなかった。 1943年2月にゲッペルスがすべてのドイツ人に「総力戦」に向けて準備するように呼びかけたとき、彼は「総統」の絶大な人気が相変わらずあり、それを当てにすることができることをわかっていたのである。

   戦争によって、あらゆる形の組織化された抵抗が、いっそう不人気で危険なものとなった。他のヨーロッパ諸国の闘士たちと異なり、ドイツの抵抗運動の闘士たちは、解放者ではなく裏切り者と見られるという事態に直面した。1943年2月に死刑を執行された白バラの学生たちは、その行動によっても、わずかしか世論の反響を呼ばなかった。1944年7月20日のクーデターの試みは、ヒトラーの命が失われていたかもしれないという意味で、体制にとって、はるかに危険なものであったが、それに参画したのは軍部と保守派の少数のエリートに過ぎなかった。

   はるかに数が多かったのは、積極的な抵抗ではなく、民間の反抗(不服従)やナチスの政策の一定の局面に反対する反対行動であった。また、プロテスタント教会監督のテオフィル・ヴルムとクレメンス・アウグスト・グラーフ・フォン・ガーレン司教が、T4作戦への世論の批判をもって、短期的に政権側の譲歩を引き出すことに成功した。それに対して、ユダヤ人の運命は限られた個人の反応しか呼び起さなかった。

ドイツとフランスの緊張にみちた関係(1919~1939年)

 かつて互いに主要敵であった両国の関係は、どのように発展したか。

 独仏間の「冷たい戦争」(1919~1924年)

   1919年以降、独仏間の平和条約をめぐる交渉は厳しい緊張関係のもとで進められた。フランスは確かに勝利を勝ち取ったが、非常に疲弊しており、ヴェルサイユ条約の決定を厳密に実行することを目標とする政策を取った。しかし、この条約はドイツからは「強制」と見なされ、ドイツの修正政策を招くものとなった。

   独仏間の「冷たい戦争」の中心には賠償問題があった。フランスの国民ブロ雀グ政権は、[ドイツが支払うであろう]という決まり文句を繰り返した。ドイツ政府はわずかな支払い能力しかないことを示し、この議論はロンドンとワシントンで一定の共感を呼んだ。そして1923年にレイモン・ポアンカレ首相が、ルール地方を「生産上の担保」として占領することを決定すると、危機は頂点に達しか。ドイツは「ルール闘争」をもって応じたが、この闘争を若きヴァイマル共和国は成功裏に終わらせることができなかった。というのも、ヴァイマル共和国はハイパーインフレーションと内政上の強い緊張関係と闘わなければならなかったからである。

   この危機は、イギリスとアメリカによって行使された圧力とフランスの政権交代によって脱せられることとなった。 1924年にドーズ案が受け入れられ、翌年、ルール地方からフランスが撤退した。

 ロカルノとジュネーブの「精神」(1924~1932年)

   グスタフ・シュトレーゼマンとアリスティード・ブリアンは、緊張緩和を実現した最初の独仏の「カップル」であった。両者はロカルノ条約に調印し、その中でドイツは西部国境線を承認した。そして、それに基づいてドイツは1926年に国際連盟に加入することができた。 1926年、二人は独仏の和解をもたらしたことを評価されて、ノーベル平和賞を受賞した。このことにより、ブリアンはヨーロッパの理想を再び政治日程に載せることとなった。

   その後数年間は「ロカルノと(国際連盟の本部があった)ジュネーブの精神」が支配した。つまり対話を重視する態度であり、それは当時の好調な経済に支えられた。しかし、批判はなくならなかった。独仏両国で民族主義的右翼は、「裏切り者」と叫び、激しく攻撃した。この批判に対する反応は、両国で異なっていた。ブリアンは、弱体化したフランスには他の選択肢はないとの認識のもと、権力ではなく、法に基づく新たな外交を誠実に擁護した。それに対して、常に国家の守護者としての姿勢を取ってきたシュトレーゼマンは、ヴェルサイユ条約の修正を達成する上で、自らの政策を最良の手段と考えていた。

   ヤング案によって、ラインラントを予定よりも早く明け渡すことが1930年に可能となったが、その実現は世界経済危機によって困難になった。賠償金の支払いは、1932年には完全に停止された。もはや、どの国も国内問題に集中したのである。

 後退(1933~1939年)

   1933年1月のヒトラーによる政権掌握は、独仏の接近に著しい困難をもたらした。 1933年10月にドイツはジュネーブ軍縮会議と国際連盟から脱退した。

   1935年1月、ヅェルサイユ条約によって予定されていたザール住民投票において、投票した有権者の90%がドイッヘの併合に賛成した。この成功がヅェルサイユ条約を破棄する新たな口実となった。1935年3月、フランスの徴兵期間延長をきっかけにヒトラーはドイツに再び徴兵制を導入した。1936年3月、彼は1935年の仏ソ条約をロカルノ条約違反とみなし、ラインラントに進駐した。そして、これに対するパリとロンドンのか弱い反応は、彼の力の政策を促し、戦争準備も進めさせることになった。
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