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生涯学習の場としての図書館

『生涯学習概論』より ⇒ まだまだ、甘いね!

学習を支援する図書館の役割

 生涯学習と比較しやすいのは学校教育であるが、現在では学校教育はほどんどすべての人々が義務制学校によってその教育活動での学習の恩恵を受けている。では、生涯学習は公的な諸制度やすべての国民にゆきわたる事業展開が確立され、学校教育のようにすべての人々がその生涯学習に関する学習支援の行政サービスの恩恵を受けているといえるのであろうか? その答えは残念ながら否といえる。これは数的な面からもその差が裏づけられている。 2014年度の学校基本調査によれば、現在義務制小学校数は公立の20,558校を数え、公立の中学校数は9,707校となっている。明治時代の学制発布以来、システムが国の隅々までゆきわたっている。離島であろうが大都市であろうが生活圏域には学校区単位という基準で学校という教育機関が日本国中の津々浦々に存在する。その一方で、生涯学習施設は社会教育調査によれば、 2011年10月1日時点で公民館が15,399館、図書館が3,274館、博物館は1,262館となっている。

 公民館、図書館、博物館の3館を合計しても市町村が設置する義務制学校には数的に及ばない。また、学校教育制度は1872(明治5)年の学制発布以来の歴史を有するが、生涯学習施設が法的な裏付けを得るのは、公民館が1949年の社会教育法発布、図書館が1950年の図書館法の発布、博物館が1951年の博物館法の発布以降となる。これら社会教育施設の主要施設が始動したのは、同じ教育機関の学校が歩み始めて70数年後となる。戦後ようやく法律の後ろ盾を得た社会教育施設であるが、学校制度のように一斉に、悉皆的に全国の隅々まで浸透することはなかった。今日すでに戦後直後の社会教育施設の登場から70年を迎えようとしているが、同じく地方自治体の市町村が設置する義務制の学校の水準には数的にも質的にも到達していない。学校制度の普及速度と比較しても、生涯学習関連の整備状況は文字通り、世紀以上の遅れ感は否めない。そうした中ではあるが、文部科学省において生涯学習局が筆頭局に位置づけされたことも踏まえて、生涯学習にとっての戦略を各生涯学習関連の現場が具体的に提示する必要に追られている。また、国の施策展開の序列でいけば個人の豊かさより生活課題解決が高いポジションを得たとも解釈ができる。2012年度の図書館司書・博物館学芸員の資格科目改訂でも明らかなように、単位数が増えるなど、生涯学習施設の質的な充実の期待が高まっているのも事実である。そうした中で、従来は図書館の主たる仕事は資料提供であって学習の支援の役割としての図書館像は描かれてはいなかったが、住民の学習を積極的に支援する役割が、図書館に期待されているのである。教える人と教えられる人という関係性の学校教育スタイルとは違った、学習支援の役割が求められているのである。

 1970年代に人口一人当たりの図書貸出冊数で10冊を超えて日本一の水準となって一躍有名となった北海道常呂郡置戸町立図書館では、その当時に「木と暮らしのコーナー」を館内の一角に設けて住民の学習支援に取り組んだ。この例を図書館における生涯学習を支援する具体的なイメージとしてあげることができる。北海道の道東の内陸部に位置する置戸町は木材の集積地であり、そうした事情から図書館が主産業の林業や木材加工等を中心とした木に関する深く、広がりのあるコレクションを形成した。これらが、地域課題解決につながるオケクラフトという木工品の誕生と林業の発展に対する図書館の学習支援でもあった。

 図書館法第3条の「土地の事情と一般公衆の希望に沿い」という文言は、正しく地域課題を深く認識して地域の課題解決に向けた図書館活動を示すものである。全国画一的に、一律の資料収集を行うだけのものでもなければ、単なる郷土資料・地域資料を収集してコーナーを形成するだけにとどまるものでもない。地域を深く洞察したうえでの資料収集活動が前提になる。そのような活動は、資料提供という一般に流通している従来の図書館活動のイメージから大きく異なる。積極的な資料収集のイメージでありきめ細かな対応が図書館側に求められる。そうした中から、地域の課題解決に向けた個々の学習活動への図書館の役割が見えてくる。地域課題から要求される資料や潜在的な学習要求につながる資料群の形成に日々取り組むことが図書館に求められている。地方創生時代という追い風の中で個々の学習課題や地域の課題解決に向けて取り組む姿勢が、地域の信頼を勝ち取り、生涯学習の拠点施設に成り得るかどうかの重要なポイントでもある。自発的に学習するうえで、自分や地域の個別課題の解決に役立つ多様な資料群を保有し、しかも保有しない資料も図書館間相互協力システムに拠って日本中の図書館網まで利用可能な図書館は生涯学習を実現するのに欠かせない施設であることを多くの人々が認識するかが鍵でもある。あらゆるジャンルの資料を図書館サービス網によって入手することができる図書館は、個々人ごとの問題関心に対応できる他の施設にない特長を有す生涯学習施設であるといってよいのである。

図書館来館へのステップ

 図書館が真に生涯学習の施設拠点となるためには、さまざまな課題を克服する必要がある。図書館の利用は利用者の自由な意思に委ねられており、どんな図書館であろうと魅力を感じなければ利用者は図書館には足を運ばない。生涯学習の拠点施設としての図書館を学校教育並みの水準に整備するためには、第一に図書館システムが機能するように図書館の整備計画を日常的に使用可能な状態に計画配置することが必要である。第二には図書館を気軽に利用できる環境整備が必要である。それぞれが実現するための課題を整理しよう。

 第一に 日常的に使える存在となっているか。

 図書館を使いたくても、日常生活圏内に図書館がなければ利用者には非日常施設になって、利用が遠のくのは当然のことである。1963年に刊行された『中小都市における公共図書館の運営』(以下中小レポートと記す)は、多くの図書館未設置自治体への図書館設置を促す働きをした。しかしながら、大都市近郊の都市のように人口密度の高い地域には図書館は浸透したが、人口密度の低い都市や農山漁村、離島地域には必ずしも身近な存在に成り得なかった。とりわけ中小レポートが想定した5万人~20万人の都市地域以外では、図書館振興の動きは半世紀以上の歳月を経ても大きな潮流になっていない。そうした地域に見合った図書館施策が待たれるところである。せめて離島地域にも日常的な生活圏域の学校区単位に図書館網の存在が見える水準になることが望まれる。

 第二に図書館が身近にあってもすべての人が気軽に出入りできるか。

 身近な図書館が気軽に使えるためには、①蔵書内容(図書館資料の充実度)、②開館日・開館時間、③館員のホスピタリティー、④バリアフリー、⑤プライバシー等々の要件がある。そうした観点から利用の阻害要因となっているものがあるかをチェックすることが、利用者の足を図書館に向けさせる重要な点といえる。

図書館司書がなぜ生涯学習を学ぶのか

 1980年代の後半以降日本の公共図書館での電算化が進み、図書館での目録作成業務が激変した。それまでは図書館の主要業務として位置づけられていた作業が、マーク導入で様相が一変した。この電算化による図書館の業務内容の変化は、同時に機械的な対応のサービスヘと導いた側面も否定できない。その変革期の図書館の当時の現場の空気としては、目録作成業務から資料的価値の追求や図書館システムの構築へと、司書の専門性の領域をより細分化し限定していく流れであった。

 しかし、そのことはのちに、職務の一部のアウトソーシング化と密接につながっていった。現在では一部のみならず業務全体のアウトソーシグまでにも広がる事態に至っている。生涯学習の見地から図書館をとらえなおすことは、こうした状況への対抗策にもなる。細分化した業務のミクロ的視野からは全体を鳥瞰した学習支援は見えにくい。図書館サービスの全体を俯瞰し、どのような支援が個別に可能なのかという視点が求められているのである。それは図書館界で電子情報化を迎える以前からいわれてきた、図書館員の基本的な仕事「図書館員は人を知り、資料を知り、資料と人を結ぶ」という視点にも符合するのである。

 どんなに図書館メディアが変化しようとも、この基本的なスタンスは変わらないのである。ここに未来に繋がる図書館員の役割があり、生涯学習を学ぶ理由が存在するのである。博物館学芸員も図書館司書も、自らの専門性として資料の探求に力点を置いている現況では学習支援を目指した生涯学習には到達しない。資料的価値を深く探究した成果をもって状況や水準の違う利用者の多様性にどのように向き合うか、向き合えるかが真の専門職の姿である。資料の探究だけであれば研究機関で間に合うし、保存だけであれば倉庫で間に合うことになる。諸々の資料的価値を探究したうえで、どのようにプロデュースするかを司書や生涯学習の関連施設の専門性として意識することが求められている。これらが意識されれば、細部化したミクロの代替可能な専門的職務を超えた大きな力になり得るのである。さらに図書館の場合、自館資料にとどまらず相互貸借機能を駆使すれば巨大な知識の集積の提供を後ろ盾として、すべての学習課題の糸口を支援者に提供可能な優位な立場になり得る。そのようなことから図書館は文字通り生涯学習を支援するのに最適な機関であり、その職務は極めて重要である。電子情報化を迎えて図書館不要論も存在するが、図書館の多様なメディアを考慮すれば、今後ますます発展の可能性を秘めている。その力と利用者の力を引き出す職務である司書の役割は大きいこと、そして新しい時代の図書館員としての専門性もまた今正しく問われているのである。
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新的な農協の直売所--JAおちいまばり「さいさいきて屋」

『タカラは足元にあり!』より 想像のつかない組み合わせで成功させる

革新的な農協の直売所--JAおちいまばり「さいさいきて屋」(愛媛県今治市)

 地域の食の振興をどうするのか、農協の活力をどう生むのか、全国の市町村で、大きな課題となっている。そんななかでもっとも注目されるのが、愛媛県今治市JAおちいまばりの直売所「さいさいきて屋」である。

 JR今治駅から車で15分ほどの今治中寺の国道196号線沿い。売り場面積は562坪。駐車場は270台分と広大だ。2007年の開設以来、年々売り上げを伸ばし、今では、24億5000万円にもなる。前年比を見ても全体で3パーセントアップを実現している。参加農家は1300名。

 直売所さいさいきて屋には150名が働き、そのうち120名ほどがアルバイト、パートだ。商品構成と集約が徹底している。野菜、果実、肉、米、魚、肉類など地元の生鮮品が、すべてそろう。加工品も弁当類やソーセージ、ドレッシング、豆腐など、地元の業者と連携をしてオリジナルで開発をしたものが中心の品ぞろえとなっている。

 人気の秘密は、野菜、果樹、肉類、米などのほかに、漁業連携の魚売り場を設けて、生鮮3品を徹底してそろえたこと。地元中小企業との連携で、ジュース、ドレッシング、ハム、ソーセージまで、100以上のオリジナルの加工品をそろえたことだ。

 JAの関連店舗が地域の食材を使ってオリジナル商品を開発し、商品構成の中心に据えるという例は、意外や少ない。JA関連の店舗や直売所には系統で商品開発をしたものが」斉に流れることが一般的だからだ。その点でもさいさいきて屋は一線を画している。

 また敷地内や、売り場に自動販売機がない。そのかわり、カフェかおり、ジェラート、ジュース、かき氷のスタンドがある。地元の生産品を利用して開発した商品が敷地内に並ぶ。

 注目は、店の入り口に設けられた「残留農薬分析室サイエンス・ラボ」。農産物の検査をさいさいきて屋で独自に行なっている。トレーサビリティーと安心安全を明確化させる姿勢をはっきり打ち出すということが狙いだ。

 店内には食堂、クッキングスタジオかおる。クッキングスタジオでは、平日は一般向けの料理教室が開催される。定員15名。英語によるケーキ教室、魚の卸し方、調味料講座など多彩な講座が設けられている。料理教室は地域の料理家、農家などと連携して運営され、参加費用は3500円ほどだ。

 上・日曜は子ども向けの料理教室が開かれるが、ユニークなのは、中学生向けの講座だ。6月に開講し、翌年3月までの9回の連続講座。プログラムは、16名の定員で、年間会費は1万円。県と市から職員が派遣されている。小学生用の講座をしたところ好評で、お母さんたちからのリクエストで開講されたと言う。

 直販開発部部長の西坂文秀さんは、「モノづくりの喜びを味わい知ってもらいたい。非日常的な喜び、楽しみ、その格好よさを、厨房を使って体験させたい。とくに中学生に力を入れています。主婦には料理のプロになってもらいたい。自分でつくる喜びを知ってもらい、さいさいきて屋と農産物のファンになってほしい。そこまでやらないと食育も語れないと思っています」とその目的を話す。

自治体・他業種と連携した僻地住民のためのネットスーパー

 さいさいきて屋は、さらに一歩踏み込んだ画期的な展開を始めた。それは限界集落・買い物難民と呼ばれる地域での、ネットスーパーの展開だ。

 JAおちいまばりは、1997年に8つの島の農協を含む14農協が合併して作られた。この合併によって、6つの島の農家の農産物をフォローする必要が出てきた。そこで、一番遠い島で2人を雇用し、早朝、6つの島を巡って集荷し、さいさいきて屋に卸して販売するシステムを作った。6つの島は、しまなみ海道の橋でつながっているので、トラックで集荷すれば短時間で店舗に届く。

 逆に、一番離れている島の41軒から注文を取り、商品を届けるシステムを作った。島を巡回する集荷スタッフが、さいさいきて屋で荷物をおろし、帰りの便で41軒の家に注文品を届けるのである。会費は高々2900円だが、配送料は無料だ。

 このネットスーパーシステムはNTTドコモと今治市、JAおちいまばりが連携した社会実験今泉で、阿水庭からの注文は、無償レンタルのタブレット端末で行なう。トップベージには「お買い物」「お手紙」「ご相談」の3つの表示しかない。じつにシンプル。

 「お買い物」を指でさわると、弁当、総菜、野菜、果物、肉類、魚、米、調味料、日用品などが種類別に一覧できて、それをさらにクリックし、ほしいものを買い物かごに入れて、注文をする。その日の夜の12時までに注文をすると、翌日の午後、注文の品が届く。注文は1個から可能だ。代金は、農協の口座からの引き落とし。タブレットを渡している世帯がわかっているので、注文主はすぐに把握できる。

 このなかで注目は「日用品」の項目だ。トイレットペーパー、シャンプー、石鹸といった生活必需の消耗品は直売所には置いていない。さいさいきて屋は、限界集落と高齢者対応として、別棟で日用品の小さな倉庫を作り、そこにストックして、食料品と一緒に配達できるようにした。

 「お手紙」もユニークだ。タッチベンや指を使い、手書きすると、端末からメールができるようになっている。送りたい人のリストを作り、登録しておく。難しければ、職員が手伝う。タブレットで子や孫から手紙が届き、返信できる。

 また、「お買い物」「お手紙」「ご相談」の表示の左側には、如雨露のイラストが描かれている。これをタッチ操作すると、水やりができ、水をやると、少しずつ芽がでて、やがて花が咲く。水やりの操作はさいさいきて屋に届く。注文がなくても、花に水をやっていれば、安否確認ができるという仕組みだ。もし、2日間連絡がない場合は、直接電話を入れたり訪問するという。安否確認をして、連絡がないような場合は市の福祉政策課が対応する『見守りネットワーク』の協定書を交わしているが、実際は、毎日、なんらかの買い物をしている。タブレットが使い出した人からはありかたい、便利だと好評だという。

 ネットスーパーの事業は15戸を対象に2015年4月に始まったが、まだ離島で困っている人がいる。すべての離島で実施し、今では市内全域に募集を行なっている。

 農協は、地域密着と謳いながら離島にあった8つ農協を合併し、購買店を閉めてしまった。店がない限界集落では買い物ができない。農協だからこそ、地域のために、島のために地域に寄り添って事業展開をしようとしている。

「コミュニティの憩いの場」新店舗構想

 さらに今後予定されているのが、新たな店舗設営だ。2016年2月、今治市の朝倉地区でオープンが予定されているという。直販開発室室長の西坂さんによると、朝倉は合併前は村たったところで、ここにカフエ、金融の窓口、生鮮三品のコーナーを置く。小さなコンビニのような40坪ほどの店舗だ。朝倉は米どころで、野菜も採れる。朝倉の産物をメニューに入れて、そこでしか食べられないものを作って出す。コーヒー券、ケーキ券を販売して、気軽にお茶と食事ができる。

 「そこに人が集まり、交流してくれたらと思います。憩の場になり、コミュニティの場所となる。農協の生き残りの場として、私たちは中山間地に活路を見出す提案をしていきます」と、西坂さんは語った。

 ここまで言い切ることができるのは、兼業農家や主婦や高齢者が担う農家を支える販路を築き上げた実績があるからだろう。一方でカフェの運営、オリジナル加工品、野菜・果物を使ったスイーツなどの、自ら作り販売するノウハウを蓄積したからにほかならない。

 これからの出店計画も、確実な形で、実行されて、いい形のものとなるだろう。さいさいきて屋の地域連携と売り場の仕組みは、今後の各地の手本のIつとなるだろう。
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領域を飛びわたれ 小室直樹

『これからのエリック・ホッファーのために』より

小室直樹

 社会科学者。専門分化した諸学をマスターし、社会科学の統合的な理論構築を目指した。パーソンズの構造‐機能分析をより合理的な仕方でモデル化した。また、ソ連の崩壊を科学的に予言したことで注目を浴びた。主著に「危機の構造」、『ソビエト帝国の崩壊』など。著書多数。

各分野の学者に弟子入り

 しかし、数学(物理学)志望は途中から経済学へと転向する。京大の二回生のとき、ヒックスの『価格と資本』を読んで感動し、「そう簡単に原爆を作って戦争などできるものじやないとわかって、むしろ、社会現象を理解するために、社会科学を勉強しようと思った」のだ。

 そんな溢れんばかりの情熱を受け止めるに足る師が二人いた。一人は、経済学の市村真一であり、彼はヒックスの本の日本語版序文を書いていた。その文章を頼りに小室は市村の私宅を勝手に訪ね、見事、弟子入りを果たした。

 京大卒業後はさらに本格的に経済学を学ぶため、市村のいる大阪大学大学院に入学する。そこで森嶋通夫や高田保馬など、一流の経済学者にしごかれた。彼らに加えて、もう一人の大きな師というのが、市村の推薦でアメリカ留学した先に待っていたマサチューセッツエ科大学のポール・サミュエルソンである。

 二九歳の若さでハーバード大学の教授に就任し、難解で知られるケインズを合理的かつ平易に読み解いたことで知られるこの大学者に師事することで、小室は最新の理論経済学を学ぶことができた。

 市村に弟子入りし、サミュエルソンに弟子入りし……と、もうお分かりのように、小室の勉強法の極意は、個々の分野で活躍するもっとも正統的な学者に直接師事する(私淑する)ことにあった。橋爪大三郎は次のように述べている。

  「小室博士の特徴は、その分野の第一人者を見るや直接に教えを受けようと、弟子か学生となり、その学問の本質をつかみ取ろうと実行に移すこと。もしも、直接教えを受けることがかなわなければ(相手が死んでぃるなど)、その学者の書物を読み、繰り返し読み、あたかも面前で教えを受けているかのようにその内容を体得しようとつとめる」

 心理学はスキナーに、帰国後、政治学は丸山眞男に、法社会学は川島武宜に、文化人類学は中根千枝に、社会学は富永健一に……と、師匠の数はハンパない。小室の領域横断的な天才は、このフットワークの軽さに由来している。

 在野研究の心得その三三、羞恥心は研究者の天敵である。

領域を横断せよ

 すべての学問に知悉すべきという小室が示した態度は、全てが全てに関連しているという相互連関分析に深く結びついている。これが専門分野というタコツボ化しやすい制度で成り立つ大学にうまく受け入れられなかったことは明らかだ。

 「私のような一本にしぼらない学問は日本の学界では不利なんですね。狭い世界で、人脈が優先する日本の学界は世界最低なんですよ。もっと正確にいうと、日本には大学がないんじやないか。大学というのは、誰にでも自由に利用できるところでしょう。一例として、大学図書館は、学外者には自由に利用できないでしょう。こんな図書館なんてあるものか。大学じゃなくて国民学校だ」

 在野研究の心得その三四、専門領域に囚われるな。在野研究者は専攻を選択して専門の論文を提出しなければならないわけではない。専門知は同時に視野狭窄につながることもある。自分の専門に執心しないでいられる自由さは在野の学者の大きな利点である。

大学の価値とは役立たない価値

 ちなみに、先にも引用した「東大は解体すべきか」というシンポジウムでは興味深いやりとりが交わされている。東大解体論を唱える地質学者の生越忠にケンカを売る小室は、東大がなくなってもその権威に相当するものが代替するだけで、根本的な解決にならないと主張して孤軍奮闘している。小室は機構の改革よりも草の根的な活動の方を評価する。

 曰く、「機構を変えることよりも、下からの力の積上げで盛り上がる力を一歩一歩積み上げていく、むしろそっちの努力の方に興味がある」。無論、このような関心は既に始まっていた小室ゼミの活動に直結しよう。

 また、小室は学問有用論にも反対している。植木屋は仕事に役立たないから大学になど行くべきではないのか? 小室は否という。

  「大学は、まったく役に立たないところに値打ちがあると思う。昔の番頭さん、小僧さん、このたたきあげの苦労人は、これが社会の慣習だとかなんだとか、あたかも自明のごとくいうでしょう。だから苦労人のお説教は決まっていて、世の中はそういうもんじやねえよとくるわけ。そこには規範と存在が無媒介的に混入しているわけ。そうじやなしに、社会に対して距離をおいて見るとか考えるとかいうことはグータラグータラむだな時間を持たなかったら絶対できない」

 ルンペン哲学ここに極まる。大学は物事に対して「距離」を提供するものだ。そうでなければ、人々は有用性や喫緊の課題に追われ、規範(であるべし)と存在(である)を混同してしまう。それを回避するためには、ルンペン的「グータラ」、野村隈畔流にいえば「ゴロゴロ」が必須である。

インターディシプリナリーの条件

 小室は学問のインターディシプリナリー(学際的協力)に関して、専門家同士が連帯するのではなく、ひとりで全てこなすという計画を推奨していた。

  「インターディシプリナリーー(学際的)ということは、経済学の専門バカと心理学の専門バカとが協力するということではありません。〔中略〕経済学者であると同時に心理学者でもあるーそういう人であることが必要なのです。経済学で一人前の域に達した人がもういっぺん、心理学を初歩からやりなおす。そういうトレーニングがあってはじめてインターディシプリナリーが可能になるのです」

 無論、これは小室自身の研究生活を振り返ったものだ。「もういっぺん」「初歩からやりなおす」。「小室百学」はその繰り返しのなかで生まれた大きな財産だ。

 その「初歩」意識によって鍛えられたためだろうか。小室の文体は年を経るにつれて、アカデミックな硬さが消え、より啓蒙的に洗練されていった。とりわけ、一九九六年の『小室直樹の中国原論』以降の〈~原論〉シリーズの読みやすさは、アカデミズム時代の文体を知る者にとっては衝撃的な大変身を遂げている。

 学び直しの連続のなかで小室は成長していった。いつまでもビギナーであること。それが、ひとりで全部やる、という学校制度に飼い慣らされた者にとって到底不可能に思える計画への挑戦心に転化する。

 在野研究の心得その三五、簡単に自分で自分の限界を設けないこと。専門領域をより深く探究していくことはもちろん大切だ。けれども、別の領域の入門者の視点を身につけることで、自分が既知としていた専門の風景も大きくさまがわりすることがある。小室の遍歴の入門精神は、大きな武器として学問的にも実生活的にも彼の身を救った。多くの学生を引きつけたのもそのあくなき探究心に由来するのかもしれない。

 ある日の小室を、宮台真司は次のように回想している。

  「私が覚えているのは、ある日、小室先生が泥酔してお越しになって、ジェファーソンの独立宣言を英語で暗唱された後、玄関から出て柵から下に立小便を垂れたこと。柵の下は中庭で駐車場になっていたので、車の上に小便が降り注ぎました。橋爪先生が「こんな小室先生は嫌いだ」とおっしやって、すたすたとお帰りになったと記憶しております」

 ああ、小室直樹よブ水遠なれ!
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〈有〉と〈無〉 どちらであっても

『どちらであっても』より

あるかないか

 毎日の会話で、〈有る〉と〈無い〉は結構頻繁に出没する。「カギある? ない?」「ハンカチある? ない?」「借金ある? ない?」などである。そう言えば医者も、いろんな有無を聞く。「食欲、ある? ない?」「便通、ある? ない?」「熱、ある? ない?」「痛み、ある? ない?」。ほんとによく使う。「ある? ない?」を省略して綴っていくと、「咳や痰は?」「息切れは?」「むくみは?」「夜間頻尿は?」「アレルギー体質は?」「手術歴は?」「ストレスは?」「不安は?」とついつい有るか無いかを聞き、病像を描いていく。救急車を呼ぶ時、逆にこちらが聞かれる。要点だけ記すと、「意識ある? ない?」「呼吸、ある?ない?」「冷汗、ある?ない?」。そうして救急隊員は、およその見当をつけて到着してくる。

 あるかないか。友だちはあるかないか。宿題はあるかないか。両親があるかないか。部活はあるかないか。遠足はあるかないか。いじめはあるのかないのか。生徒に夢はあるか、教師に希望はあるか、教頭に出世の道は? 教育界でも、あるかないかは、大股で両手振ってやってくる。                                

 「ボーナス、ある? ない?」「残業ある? ない?」「時間外手当は?」「産休、育休は?」。社会人になってからもあるかないかに縛られる。

 医療の場でも、「あやしい陰影、ある? ない?」「転移、ある? ない?」「本人の意志、ある? ない?」「意欲、ある? ない?」「病識、ある? ない?」「希死念慮、ある? ない?」「再発、ある? ない?」と限りなく有り無しの問答は続く。有るか無いかは、生活者の常用語。有りが嬉しいこともあり、無しが嬉しいこともある。〈有り無し〉は有無を言わさず、人生の岐路に立つ言葉の代表とも言えようか。

生命の起源

 高校二年生の時、城山のふもとにある高校から五㎞離れた鳥取大学で「生命の起源」という講演会があった。いのちの起源を知りたいと思った。自分はどこからやってきたんだろう。今から五〇年も前のことだ。高校の授業をサボって自転車こいで、大学のすり鉢講堂で聞いた。

 「皆さん、生命の起源は、石炭です」と、阪大からやってきた教授は語った。鳥取大学の教授も助教授も講師も助手も、大学生も市民も、ノートやメモ用紙に「石炭」と書いていた。「えっ、そんなもんかあ」とぼくは不満だった。樹木よりもっと小さな草たち。さらに小さなシダ、コケ。もっと小さなアメーバー、プランクトンがある。生命の起源は何かもっと小さなものなんじゃなかったんかあ、と煮え切らない気持ちのまま自転車こいで、教室に戻った。

 去年(二○一三年)の秋、「14歳の世渡り術シリーズ」の一冊、『〝死〟について話そう』(河出書房新社)の中の宇宙学者の佐治晴夫さんの文章が目に留まった。そこには、抜粋をつなぎ合わせると、こう書いてあった。「私たちの宇宙は、一三七億年前の遠い昔、一粒の限りなく熱く小さい光のしずくから、さりげなく生まれたとされています。宇宙にはゆらぎという変動があって、それで生まれたようです。光のしずくは、ものすごい勢いで膨張しながら温度を下げ、物質の素になる粒子たちに姿を変えました」。これだ、これがいいと思った。正しいかどうかではなかった。好き、嫌いの感覚だった。石炭じゃなく光のしずく、それがいのちの起源だ、起源に違いない、起源であって欲しい、そっちが好き、というレベルの反応をしてしまった。なぜ空や雲や、夜の月や星を、恋するように見てしまうのかと考えると、自分の生まれ故郷の方を、つい見ているだけなのではないか。それでじやんかあと、勝手に納得した。                       

無に出会う

 高校二年生のあの時、自転車で教室に戻りながら、石炭じゃなくもっと小さいもの、もっと、と考えながらふと思った。「一番小さいものの向こうは何だろう」。その時直感的に「無」だと思った。何もない世界があるに違いない。そこから何かが始まる。「無」が「有」になる瞬間って何だろう、と思った。考えても答えは出なかった。でも「無」はある、と信じた。その時妙なことに、「無」が「有」に変わる瞬間のことではなく、「有」が「無」に変わる瞬間が、急に思い浮かんだ。「死」。「無」が「有」に変わる生命の起源については分からないが、「有」が「無」に変わる「死」については分かった。分かったというより、実感があった。蝶や蝉、カマキリやミミズの死、鮎や金魚の死は目の前にあったし、手のひらに記憶があった。死の姿を思い浮かべると、悲しい、寂しい、という感情が静かに起こった。今の仕事につこうと思う始まりとなった。

 ある時、ある詩人が語りかけた。「無があるかどうか、はじめから有だったかも知れないね」。虚を衝かれた。「無」はなく、「有」だけがあり、あり続けている、という考えに。

 病棟を回診していると、読書家の患者さんの枕元に雑誌「Newton」があり、特集が「「無」の物理学」だった。(このことは「反対言葉の群生地」に既に書いた。改めてもう少し詳しく引用してみる。)本屋さんにその本を注文した。「無」という空っぽの空間は本当にあるのか、について書いてあった。「無」は実験で、一瞬の真空状態を、微小の空間に作れたとしても、すぐに原子や分子、光の粒子の光子やニュートリノで沸き立ち、満ちると。今ある宇宙で「無」は物理学的に存在が難しいと。それどころか、今の宇宙のエネルギーは、物質としての銀河が四%、目に見えない暗黒物質が二三%、残りの七三%が「無」の空間そのものが持つと。思考がついていけない。宇宙学者が語っていた。「本当に何もない絶対的な無、というものは、哲学の世界では存在するかも知れないが、現代の物理学では、そのようなものは存在しないのです」。よほどその意見の方が哲学的だ。

 無はないとしよう。詩人の考えのように有から始まったとしよう。だったら死の後はどう考えよう。どんなイメージを抱いておくのがいいんだろう。死で終わりではない、死で無になるのではない。じやあ何になる。死のあとにも「有」がある。きっとそうなのだろう。いのちは分からないところから届いた。死後、その分からないところへと帰っていく、と思ってみる。そこは大きなところ、私たちが身近に持つ時空とつながりながら、とてづもなく大きな時空を備えるところだと思ってみる。無はない。死の臨床で、叶うごとならそのことを伝えたい。伝わるだろうか、患者さんに無はないって。

無は虚しい

 いつもの死の臨床に戻ろう。少し遠方だが、往診へ行こう。患者さんはがんの手術を拒み、在宅で一〇ヵ月を過ごした。仕事は牛飼い。名牛を育てることでは、誰にも負けなかった。草を刈り、牛を散歩させ、生活を共にした妻が看病をした。顔面からの分泌物には夫婦で立ち向かう。食べられていたのに、口腔の腫瘍が大きくなり食べられなくなり、立てなくなった。衰弱が進んだ。意識も無くなり、いのちの終わりは近づいた。「この人が逝っちやったら、私も死にます。だって、存在に意味ないじゃないですか」。家で最期を迎えた。「あああ、こがいなやさしい人なかった。一回も叱りなさらんかった。一緒によう働いた」。

 一ヵ月が経ち電話を掛けてみた。「ああ、先生。いけません、落ち込んだまんまです。無いって寂しいし虚しいです。こたえます。返事せんでも存在しとる時はよかった、嬉しかった。それが今おらんでしょ。無いって、どがなこってしょう。食べれんし、寝れんし、泣いとります、毎日。遠いところ通ってもらって、感謝しとります、でも、おらんし、無いですけえなあ」。

 「無」はない、なんて簡単には伝わらない、伝わってはいけない世界が現実にひしひしと、たがうことなく有る。
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