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病院は録音禁止の意味は何?

風邪気味です。

 37℃だから、風邪気味です。のどが痛い。昨日のパートナーとの電話で久しぶりに喋ったからなのか。

神経内科

 加藤内科から紹介状を持って、総合病院で診察。「内科」への紹介状だったが、予約時に専門名にしてくれということで「神経内科」にやってきた。

 「神経内科」の看護婦から、この症状では「神経内科」ではないと思うと言われた。症状はあるけど、それがどの分野が分からずに、総合病院に来たのだから、とりあえず、症状を聞いてくれるように頼んだ。

 「神経内科」で心電図と肺のレントゲンを撮ったけど、異常ないということで、「循環器系」に回された。通常なら、心筋梗塞が疑われるが、症状は異なるので、とりあえず、3つの検査を行いますとのこと。心エコー(心臓超音波)、トレッドミル検査と血液検査になります。3月2日になるとのこと。かなり先です。まあ、そこまで持つということでしょう。

録音禁止の意味がわからない

 その時に、メモのためにICレコーダーを出したら、「録音時には許可をとってください」と言われた。意味が分からなかった。私は私の世界。私の世界のすべてを記録するだけのことなのに。

 その時に、1年8か月前のドクハラを思い出しました。その時に、言った、言わないになったので、自己防衛することの必要性を感じた。

なぜか、皮膚科も予約

 神経内科の時に胸を見せたり、親指を見せたところ、皮膚科を受けた方が言われた。明日の11時半からの予約になりました。

時間が過ぎていく

 結局、3時間掛かって、検査の予約だけです。以前のように、待合の時間に何かをやろうという気になりません。少したるんでいます。早く、私の世界のペースに戻しましょう。

 4時から奥さんの歯医者の送り迎いをした。リクも付いてきたので、スタバに行かずに駐車場で待っていた。時間を惜しまないといけない。いつ、動けなくなるか分からないのだから。

 それにしても、退職後の一日は容易に過ぎていくもんですね。やhり、6時起きにしましょう。

中野さんは完全に技術者みたい

 ネットで「中野美代子」の技術論文の検索をしたところ、2009年~2014年までの特許申請が見つかった。現役なんですね。「電力変換装置」などで、完全に技術分野です。【課題】電圧変換装置におけるリアクトル電流の平均値を正確に検出する。

 今は、主任ということは社内の検索では分かっていた。それでメールを送ったが、まるで反応がなかった。いつの日にか分かると思っています。
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集団における合意形成

『社会のなかの共存』より 集団とネットワークの視点から見たコミュニケーション

人は、他者と人間関係をはぐくみネットワークを成している。そのようなソーシャル・ネットワークの上で、日々のコミュニケーションは起こっている。本章では、1対1の状況よりも集団内で起こるコミュニケーションが導く現象(情報伝搬や合意形成など)に焦点をあて、それらがネットワークや伝搬現象の数理モデルを用いてどのように理解されるかを概説する。

社会の中で合意とはどのように起こるのだろうか。これは広範な問題意識であり、社会学、(社会)心理学、政治学、経済学など多くの社会科学分野の関心である。

マスメディアの言うことに大多数がなびくことが、合意の主要なメカニズムかもしれない。オーケストラの公演では、指揮者がタクトを振り、奏者がそれに合わせることによって合奏が成立する。マスメディアは指揮者、人々は奏者である。ところが、指揮者がいなくても、周りが奏でる音に合わせて演奏することを個々の奏者が行えば、プロであればそれなりの質の合奏に到達できるだろう。

合意形成の問題に戻れば、マスメディアがなくとも、お互いが意見交換をすることによっても合意は到達されうる。実際、選挙の投票行動において、知人の政党の選択が自分の選択にどれだけ影響するか、という問題は政治学などで追究されている。

意見を交換することは、コミュニケーションの一種と言えよう。2人が異なる意見をもつとき、どのようにコミュニケーションをとれば、意見の鞍替えが起こるか。これは、コミュニケーションの目的にまつわる問である。答がわかれば、投票行動、マーケティング、ビジネス、カウンセリングなどの実用にも生かされうる。実際の答は、両者の力関係、類似度、説得行動が行われる状況、などさまざまな要因に依ると考えられる。

しかし、片方がもう片方を説得する仕組みが詳細にわかれば、集団における合意形成のメカニズムもわかるかといえば、そうではない。たとえば、地理的に4つの地域に分布している集団において、右上方では意見Aが意見Bよりも優勢で、BからAへの鞍替えが多く起こっているとする。一方、同時に、同じ集団の左下方ではBがAより優勢で勢力を広げつつある。右上で大多数を占めたAと左下で大多数を占めたBは、いずれ出会い、境界線では綱引きが発生するだろう。その結果はどうなるのか? 最初の時点でのAとBの多寡だけで、最終的な合意がAとなるかBとなるかがほぼ決まるのだろうか。それだけでは済まなそうである。

また、個々のコミュニケーションが特定の2人の間で行われるときにも、そうした2人関係がいくつも集まって、ネットワークを成していることがある。ネットワークの形によっても、合意の起こりやすさや速さが左右される。速さについて言えば、伝言ゲームのように人が数珠つなぎになったネットワークならば、片方の端からもう片方の端まで意見が伝搬して全体が合意に至るまでに時間がかかる。一方、全体がそれなりに混ざっているネットワークでは、同じ人数の数珠つなぎのネットワークと比べて、速く合意が達成されそうである。また、Aの意見とBの意見の持ち主がネットワーク上である分布をしていたとしても、AとBの意見の持ち主が接する境界での綱引きのルールによって、最終的な意見の分布は変わってくるかもしれない。

本章は、ネットワークの上で起こるコミュニケーションを記述する数理モデルを扱う。数理モデルを扱うということは、コミュニケーションを、数値計算や数学的解析によって調べるということである。そのようなアプローチは、1対1のコミュニケーションの仕組みについてよりも集団全体における意見や行動の分布を考える場合に、示唆や予測を与える力が強い。その具体的な理由はいくつかある。

まず、1対1のコミュニケーションでは、説得者の性別、年齢、視線、部屋の様子など、コミュニケーションの成否を大きく左右しうる原因は無数にあるように思われる、そして、1対1のコミュニケーションでどの要因がどのような役割を果たすかは、数理モデルよりも実験室実験や質問紙調査などによって調べることが適切であると考える。このように個別性、文脈、文化の多様性などが強く効きそうな状況では、数理モデルは威力を発揮しにくいだろう。

一方、人数が多い状況では、まず、実験デザイン、コストなどの意味で、行動実験を行うことが2人の場合よりもはるかに難しい。また、たとえば10人で行動実験を行ったとしても、全員の個性までを結果の解釈に織りこむことは難しい。このとき、個性はある程度捨象してしまって集団現象を追うという数理モデルに典型的な態度をとるほうが、現象をよりよく理解できる場合がある。個々の人は黒丸で表され、その性別や年齢などの個別要因は無視されてしまっている。丸の濃さで年齢を表して個人に属性を付すことはできるが、経験論として、そのような複雑化から有用な知見を引き出せることは案外少ない。属性などをいろいろ入れ込まずに考えてみることは、ネットワークという道具立てを用いる際の基本姿勢である。

ネットワークで起こるコミュニケーションを、本章では「集団コミュニケーション」と呼ぶことにする。「集団コミュニケーション」をネットワークで起こるコミュニケーションとする定義はそれほど一般的ではないように思われるので、ここでまず読者の注意をうながしておきたい。本章では、ネットワークの諸特性(全員がお互いにつながっているような集団を特殊な場合として含む)と、その集団コミュニケーションヘの含意、ネットワーク上の集団コミュニケーションの数理モデルを概説する。
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ハイデガーとハンナ・アーレント

『ヒトラーと哲学』より

一九二〇年代のハイデガーは精力的に活動していて、大勢の前で講義や講演を行うこともあれば、森でひとり引きこもり、カントとニーチエのふたりに取り組むこともあった。その文句なしのカリスマ性は『存在と時間』によく現れている。この本は、暗号のような言葉で書かれた、人を虜にする魔道書のようにも読める。その使命は、日々経験することの謎を解き明かすことにあった。「『存在する』という言葉を使ってほんとうに何を言おうとしているのか」とハイデガーは問う。「よく知っている言葉だからといって、『存在する』という大きな謎からそのまま目をそらしていてはいけないのだ」。曖昧さと難解さにかけては常々悪評の高いハイデガーであるが、ここでの〈存在〉の意味を理解しようとする行為は、実存主義という分かりづらい伝統に起因するものである。この本は、時間という概念そのものから始まる。ハイデガーが重々しい語調で論じる〈存在〉とは、〈(何かに)なろうとする〉プロセスのことである。私たち人間は絶えず動き続けているもので、希望なり目的なりを持ちながら、未来に向かって自分自身を投げ入れているものなのである。たとえば、道具を作っている農夫があるとすれば、彼は自分自身を未来--つまり道具という目的(の達成)--に向かって連れて行こうとしている、ということだ。ハイデガーの考えによると、伝統的な社会では、私たちには、自分のやることに自分が入り込んでいる、という感覚があった。これこそ〈本来の存在〉だと彼は主張する。ところが、こうした生き方は崩れやすいものなので、近代的な進歩によって上書きされてしまう。都市というものが現れて、周りの人がやっていることに従おうとすると、〈本来のものではない〉生き方に流れてしまうのだ。

ハイデガーのカリスマ性は私的な生活にも影響を及ぼしており、ここで、ある人物が彼の魅力に負けて純潔を捧げてしまう。ハイデガーは不倫関係に陥るわけだが、これは彼のプライヴェートに不協和音を響かせるものだった。なぜならハイデガーの妻は、性格がきつく嫉妬深いことで知られていたからだ。一家はふたりの息子とともに、昔ながらの愛情深い家族生活を送っているように見えた。一見すると、保守的な黒い森地方によくいる家族なのだ。彼の愛人たる若い女は、まだ学生だった--ハイデガーが結婚中に若い女をたらし込んだのは、必ずしもこれが初めてではなかった。「あるいは若い乙女の姿を想いうかべながら、夢うつつのひとときを過ごす--レインコートを着て、帽子をものしずかな大きな目にかぶさるほど深くかぶって、はじめてぼくの研究室へ入ってきた姿、そして控えめに、おずおずと、どの質問にも短く答えたあの様子」。ハイデガーは、ハンナ・アーレントと初めてふたりきりで会ったときのことをこう思い返している。ちょうど彼女が彼の講義のどれかに出席していたのだが、聴衆のなかにいた彼女にそそられて、戻る際に彼女を誘い、こっそり研究室に連れて行ったのだった。彼女はまだ十代で十八歳、そして彼が三十六歳。黒髪で、ユダヤ人らしい細い鼻と生真面目な目をした、おとなしそうな少女。ノートのために彼女は研究室に呼ばれ、恭しく彼女はそれに従う。ふたりの情事が始まった。

 親愛なるアーレント嬢!

 どうしても今晩のうちに出かけていって、あなたの心に語りかけずにはいられません。私たちのあいだでは、すべてが率直で、明白で、純粋でなくてはいけない。そうであってのみ、私たちは出会うのを許されたというそのことにふさわしくなれるのです。あなたが私の教え子になり、私があなたの教師になったことは、私たちに起きたできごとのきっかけにすぎません。

 […] 喜びなさい、よきひとよ!

 あなたのM・H

ハイデガーは、嫉妬深い妻と大学という保守的な世界から、自分の密通を細心の注意を払って隠そうとした。だがハンナには、はっきりと告げていることがあった。彼女はあくまでも愛人に過ぎないのだと、誤解のないようきっぱりと言ったのだ。彼はこう説明する。「あなたの若いいのちがどのような道をとるのかは、まだ見えていません。その道を私たちは従順に受けいれましょう。そしてあなたにたいする私の忠実さは、ただひとえに、あなたが自分自身に忠実なままでいられるよう、力添えをすることでなくてはなりません」。彼は彼女に対して誠実であると誓うが、それはただ彼女が「自分自身に忠実」で、自分の「道」を人生で進んでいく限りにおいての話なのだと。
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楽知定例一回目

藤岡の陶芸家でのひと時を過ごしました。
市民活動をしている人と誘おうとしたが、2月は活動停止ということで、一人で行きました。この空間を味わって欲しかった。
札幌からの第一便で11時半に豊田市に到着。図書館に直行して、とりあえず、23冊を借りて、リックサック2つに詰め込んだまま、12時の集合地点に間に合いました。
2時間ぐらいのひととき、川のせせらぎとか春を待つ草とか、ふだん見ることも発見することも、まるで気にかけないことで喜んでいました。
3月12日に市に対しての成果発表を行います。私がまとめることにしました。「自宅開放」ということが、今後の市民活動に大きな意味を持っていることを知らせたいが、行政中心の彼らには理解できません。自宅開放は本当にAct Locallyです。彼女らの活動をThink Globallyの立場からつなげていけるようにするという発表をしたいと思います。
今は密の関係が強まり、どんどん疎の関係を壊している社会になっています。本当につまらない。疎の関係でのつながりを大切にして、心が通う人間のつながりを大切にします。
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