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アメリカの地域自治制度

『アメリカのデモクラシー』より 連邦政府について語る前に個々の州の事情を研究する必要性

著者はなぜ政治制度の検討をタウンから始めるか--地域共同体はどんな国民にも見出されるー共同体の自由を確立、維持する難しさ--その重要性-著者はなぜニュー・イングランドの自治組織を検討の主要な対象に選んだか

私がまず地域共同体を検討するのは偶然ではない。

地域共同体は唯一自然に根ざした社会的結合であって、人間が集まればひとりでに共同体ができるものである。

それゆえ共同社会は慣行、法制を問わず、どんな国民にも存在する。王国を創り共和国を建てるのは人間であるが、共同体は神の手から直に生ずるように思われる。しかしながら、人間が生まれて以来、地域共同体は存在したとしても、共同体の自由は稀有で壊れやすいものである。一国の人民が大規模な政治集会を組織することはいつでもできる。というのも、人民の中には普通、実務の経験はなくとも、その代わりになるだけの学識をもつ人がいくらかはいるものだからである。地域共同体はしばしば、立法者の働きかけにも耳を貸さぬ粗野な人々で構成されている。地域共同体の独立を確立することの難しさは、国民の知識が開けるにつれて減ずるどころか、むしろ啓蒙とともに増大する。文明の著しく進んだ社会は地域共同体の自由の行使をなかなか許さない。多くの逸脱を見ると我慢できず、実験の最終結果に至る前に成功に絶望してしまう。

地域共同体の自由を確立するのは非常に難しく、またそれはあらゆる自由の中でもっとも権力の侵害の危険にさらされやすい。地域自治の諸制度は、単独では、野心的で強力な政府にとうてい抵抗できまい。うまく自己を守るためには、それは全面的に発達し、国民の思想や習慣と一体化していなければならない。したがって、地域共同体の自由は習俗に根づかぬ限り簡単に破壊される。そして、長い開法の中に生き続けた後でなければ習俗に根づくことはできない。

地域共同体の自由は人間の努力次第でできるというものではない。したがって、それが人の手で創り出されることは滅多になく、いわばひとりでに生まれてくるのである。それは半ば野蛮な社会の中でほとんど人知れず成長する。法と習俗と環境、なかんずく時間の絶えざる作用がようやくこれを確たるものにする。ヨーロッパ大陸のいかなる国をとってみても、地域共同体の自由を知る国民は一つとしてないといえる。

しかるに、自由な人民の力が住まうのは地域共同体の中なのである。地域自治の制度が自由にとってもつ意味は、学問に対する小学校のそれに当たる。この制度によって自由は人民の手の届くところにおかれる。それによって人民は自由の平穏な行使の味を知り、自由の利用に慣れる。地域自治の制度なしでも国民は自由な政府をもつことはできる。しかし自由の精神はもてない。束の間の情熱、一時の関心、偶然の状況が国民に独立の外形を与えることはある。だが、社会の内部に押し込められた専制は遅かれ早かれ再び表に現れる。

合衆国の地域共同体(タウン)と郡の政治組織がいかなる一般原則に立っているかを読者に正しく理解してもらうために、私はある特定の州をモデルにとることが有効だと考えた。この州の事情を詳細に検討し、しかる後に他の地域をざっと一瞥しようと思う。

私が選んだのはニュー・イングランド諸州の一つである。

タウンと郡とは連邦のどこでも同じように組織されているわけではない。にもかかわらず、連邦全体において、ほぼ同一の原則に従って両者が構成されたことはたやすく分かる。

そして、これらの原則が他のどこよりもめざましく発展し、もっとも広範な帰結を生んだのはニュー・イングランドであったように思われる。ここではその原理がいわば他のどこよりもはっきりと浮き彫りにされており、したがって外国人の目にたやすくとらえられる。

ニュー・イングランド卯地域自治の制度は完璧で規則的なまとまりをなしている。それは古くからのものである。法律がこれを強化し、それ以上に習俗が補強している。それは社会全体に驚くべき影響を及ぼしている。

これらすべての点から、ニュー・イングランドの地域自治制度はわれわれの注目に値する。
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ネットワーク時代の出版再発見

『デジタル時代の知的創造』より ページ概念の拡張とその限界

残る、残らない

 考えなければならないことは、電子化によって変貌する何かだろう。デジタルによる本の生まれ変わりが、読書の形と本を作り出す両面においてどういう違いを生んでいくのだろうか。この問題を語るべき時に、本を電子に変換する手間や費用や見栄えのことばかりが論議され、価格設定や流通メカニズムをどうこうすることしか話されない。

 デジタルな出版物は、紙の本の補完物として刹那的で、読みとばされ、その場かぎりという立場に置かれ、それでいいのだとする考えに守られて、後世に伝えられるメディアとしての立場を放棄させられてきた。紙の本であっても、売り切れて早く市場から消えることが目的であり、残るということは、本という物理的な形態が保証したにすぎない。電子的な本を残されるべきものとして真剣に顧みようとする出版人はほとんどいなかった。

 あまりにも空語的な〝電子書籍〟論議が続けられてきた。どこの会社のどんなデバイスだとか、タイトルはいくつ、書店はあそこだ、ここだ、使い勝手はどうのこうのと、そのすべては既存の本を読むだけのことであり、既存の本を超えて、何かを目指し、何かを実現しようとするトライ&エラーに出版界は積極的に参加しようとしてこなかった。少なくとも日本で主張されたのは既得の財産らしきもの、それをしきりと守ろうとするだけの日々が続いた。

 わたしたちは紙をペースとした出版モデルに慣れ親しんできた。出版社は本を編集し製造して流通業者を通して書店に送り、書店で本を買った読者はそれを持ち帰り、自由に読むという姿だった。出版社はデジタルのファイルを流通業者と書店に送信して、読者はそれを書店を通して購入し、デバイスにダウンロードして読む。そこには多少流通というものが効率化された感はあるものの根本的な変化が生じたわけではない。ただ、これだけの変化だけでもいろいろなことは起こった。新規参入の壁は消えていったし、その中から幸運とはいうものの、ペストセラーも出現した。

出たあとにこそ出版は繰り返される

 本の電子化は第1段階にすぎない。本がすべて電子化され、ネットワークに接続され、ユビキタスな存在になると何か起こるのか?

 2012年、米国のコンピューター関連の書籍出版で有名なオライリー社(O' Reilly Media)から「Book: A Futurist's Manifesto (マニフェスト本の未来)』が出版された。ここには、紙媒体のコピーではなく、ネットワークに接続された真のデジタルオブジェクトとしてとらえている人たちが行っている実験的試みが明らかにされている。自らを未来に接続した人たちの挑戦的なプロジェクトだ。さらにその土台である本という物に対する理解、および出版の役割について再検証する必要性が語られている。

 ブライアン・オレアリはこの本の中で今後、重要となるのは「コンテナ(入れ物)ではなく、コンテキスト」だと警告ともとれる論理を展開し、一度パッケージされた荷作りを、解きほどく必要性を語っている。

 本というコンテナはコンテンツ(内容)を二次元上で規定し、「コンテキスト」と書籍レペルのメタデータを活用することができなかった。コンテキストは、タグ付きコンテンツ、取材ノート、注釈入りリンク、ソース、BGM、バックグラウンドビデオなどとわたしたちが呼んでいる、ある本の内容を取り巻くある種の「環境(エコシステム)」のことなのだ。

 コンテキストはコンテンツ(内容)をコンテナ(容れ物)に、つまり完成原稿を紙の本という入れ物に詰め込む段階で剥ぎ取られてきた。そして彼は次のような言葉を続けている。

 これからわたしたちが生きていくネットワークの世界では、コンテンツだけを販売する出版は通用しない。絶えず進化する〝コンテンツ・イン・ブラウザー〟の世界で実用的で広く長く読まれるeBookを制作するノウハウはコンテキストの中にあり、出版社はコンテキストの質で勝負するようになる。コンテナありき、今の出版ワークフローは、コンテンツとコンテキストの両方を制限する、もはや時代遅れの産物だ。デジタルの世界で生き残るにはコンテキストをコンテンツとともに保存し、発見性と有用性を強化するコンテキストありき、のワークフローが必要になる。

 デジタルは入れ物が見えない。留める入れ物をデジタルは結果として外してしまった。現実にデジタル化された声や音、文字や写真、映像までも、わたしたちは日常的に電話という最小のコンピューター端末を使い、手のひらのそれをオンスクリーンを通して縦横に飛ばしている。パッケージという壁を取り外している。

 紙であれ電子であれ、パッケージされた入れ物にとどまる世界から、入れ物から出て、外形や実体をなくして存在する情報は、ウェブという網の中に生きていくことになる。入れ物を出て流浪する文字の行方に視点を移していかねばならない。デジタルは情報がリンクしあい、そこに新たな文脈を形成する。この基盤を堅持し育むことが否応無しにやってくる。
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民主主義の擁護(一九三二年)

『民主主義の本質と価値』より 民主主義の擁護(一九三二年)

人々が〔第一次〕大戦の酷烈な日々の中で、恐怖の現状に堪えようとして未来に目を向け、より良い政治的未来を展望しようとしたとき、何より念頭に浮かんだのは、民主主義の実現であった。大戦が敗北をもって終結したときに、大多数のドイツ国民は一致して民主的共和国という政体を選んだ。この確信の記念碑がワイマール憲法である。

人々はこの憲法を、一国民がかつて自らのために立法した憲法の中で、最も自由な憲法だと呼んだ。そしてそれは正しい。実際それは世界で最も民主的な憲法である。国民にこれほど多くの権利を与えている憲法は例を見ない。その第一条は「全権力は国民に発する」と謳っているが、全内容がこれはどこの原則に適合している憲法は他にない。ニーチエは国家を「新たな偶像」「冷血の怪獣」と呼び、それは「国家たる我は国民である」という嘘をつく、と言っているが、そしてこの言葉はどこかの国では嘘かもしれないが、少なくともこのドイツにおいては、嘘ではない。実際ドイツ国家はドイツ国民なのだから!

ところが、あのワイマールにおける歴史的憲法制定から僅々十年余を経たばかりの現在、世界の憲法の中で、国民から疎外されることかくの如くはなはだしい憲法、多くの国民よりかくまで冷淡無関心に扱われ、それ以上に多くの国民よりかくまではなはだしき憎悪と侮蔑をもって迎えられている憲法はない。もはやドイツ人は、かつて自らに与えた自由を、もはや欲しなくなったかの如くである。

もっとも、かつて照り輝いていた自由の理念の光が消え失せようとしているのは、ドイツ国民においてのみではない。民主主義の理念は色槌せ、現代の暗い地平に、新たな星が昇り始めた。その血腫い光が大衆を照らすとき、大衆は脆座してそれを礼拝する。この星とは独裁の星である。この星の旗幟の下で民主主義に対する闘争が挑まれ、民主主義は二正面作戦を強いられている。一方は、いよいよ拡大し、いよいよ広汎な労働者層を把握しつつある極左のボルシェヴィズムの闘争であり、他方は極右ファシズムの闘争である。それはドイツでは民族社会主義(ナチ)と呼ばれ、他の政治組織には例を見ない烈しさで拡大しており、現在すでにブルジョワジーの大部分を掌握した。この二つの反民主主義運動の目的は何か。その一方の目標は、プロレタリア独裁とそれに伴う経済的・文化政策的帰結という明確なものであるが、もう一方について知り得るのは(少なくともドイツ・ファシズムに関する限り)、ナショナリズムと社会主義を混淆し、奇妙で矛盾に満ちたイデオロギーのみである。そのイデオロギーの背後で実現さるべき現実の独裁について当面知り得ることは形式のみであり、その形式にどのような内容を盛り込むかについては、指導者たちでさえ確固とした観念をもっていないように見える。この独裁が予示する形式はいよいよ狩猛になるが、その独裁権が結局いかなる利益のために行使されるのかはいよいよ不明確となる。この闘争において勝利を収めるのは誰か、その勝利は一時的なものか、永続的なものか、我々は知らない。ただ一つ分かることは、右翼が勝とうと左翼が勝とうと、その旗は民主主義の墓の上に立てられるであろうということである。

この現実界における社会勢力としての政治集団間の闘争に対応して、精神と精神の闘争がある。社会理論の領域(その最大の部分は政治的イデオロギーの領域なのだが)において、民主主義の価値に関する判断は、過去十年間に驚くべく急変した。民主主義政体について何らかの長所を見る理論家の数は減少の一途を辿り、そればかりか民主主義の本質を客観的に認識しようとする者もいよいよ減少している。公法学界や社会学界では、民主主義を侮蔑の言葉をもって律し去ることがほとんど自明のこととなり、(直接・間接の)独裁制を新時代の曙光として迎えることがモダンなものとみなされている。そしてこの「学問」的態度の変化は、哲学戦線における変化と手を携えている。民主主義的精神の生きる空間である経験的・批判的合理主義の明晰性は今や浅薄と誹膀されて背を向けられ、形而上学の課朧性が深遠と解されて、曖昧模糊たる非合理性崇拝への回帰が唱えられる。古来諸々の形態の専制支配は、このように特異な雰囲気の中で栄えてきた。「合理主義から非合理主義へ」これが現代の標語である。

それゆえにこそ、諸々の政治的イデオロギーの蒙昧性に捉われない少数者は、以前のどの時期にも増してまさに現在、このように誹誇された民主主義の真の本質、真の価値を自覚し、その価値のために公然と発言することが、二重の意味で喫緊事である。その価値が失われ、その喪失の打撃が人々の身にしみる以前に。このような努力によってこの打撃を避けられる見通しが明るいわけではないが。i現在民主主義の友は、救命の可能性がほとんどなくなった重症患者について、なお治療を継続している医師の立場に似ている。--しかし、現在民主主義を救う見通しが皆無になったとしても、民主主義への帰依を表明することは、全民主主義者の義務であろう。思想への忠誠は、その思想の実現可能性とは独立に存在する。思想への感謝は、その実現が葬られて後にも、その墓を乗り越えて存続する。

そのような忠実と感謝を表明するためには、何よりも、左右の不当な非難に対し民主主義を擁護すべきである。
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トポロジー言語空間

退職後は第5ステージに

 第5シーズンをどうするのか、です。境目がなく、そこに入ります。とりあえず、第一週は普段通りです。

 土日は、以前のように起きることは無いですね。4時くらいから起きているけど、起き上がれない。退職後はそれがずっと続く可能性があります。朝、起きる動機をどうするか。

 朝、6時から前日のICレコーダーの言葉を入力します。かなり、きついですけど。その時にはコーヒーがいりますね。

スタバの文化

 駅前には男性のバリスタが増えてきた。話しかけてきたのはいいけど、後ろにお客さんが並ぶと不安定になる。Iさんの安定感になれていると、軟弱に思える。

 スタバはもっと、自分の文化を大切にしないといけない。コミュニケーション、最低でもアイコンタクト。「未唯への手紙」の中には、Iさんの言葉として、「会話はできなかったけど、私はアイ・コンタクトしていました」がありました。

 それに応えないといけない。アイ・コンタクトは難しい。心をさらけ出さないといけない。違うことをしながらも。マニュアルなきマニュアルの中で、その文化をどう伝播していくのか。

未唯空間の外伝

 外伝として、「スタバ」も描きます。まだ、一杯、書きたいことがあります。的まないといけません。「Iさん」をまとめておいて、そこから外伝を書きます。「パートナー」との会話についても、まとめたいけど、「未唯への手紙」でけでも、千件超えています。それ以上の資料と思いがあるから、簡単ではない。

 「未唯空間」からレスキューするものが多くあります。それ自体が未唯空間そのものを拡大させます。自分が気づいていない、別の世界があり、そこに包含されます。それが点が集合であり、集合が点であるという、未唯宇宙の特徴です。

トポロジー言語空間

 トポロジーをベースとした、言語空間をどう作っていくのか。言語空間自体は未唯宇宙の中で、かなり考えていけます。それぞれが完結性を持つということ、そこからサブテーマも完結性を持ちます。

 もっと、本を読まないといけません。読む時間をどうするのか。読んだものをいかに自分の言葉にしていくのか。どうやって、これを表現するのか。一番いいのは、多分、戻さないということでしょう。

承認は不要

 誰かに承認を取る必要がないということ、自分の存在だけで全てを行うということ。

 他者に示したところで、それはどうしようもない問題です。他者は存在しないのだから。分かってもらいたいぐらいの感覚でいいでしょう。パートナーとかの女性の感覚で軽く受け止めてもらえばいい。そういうことを求める人がいれば、それには応えます。問われたら応えるのが基本です。

「孤立と孤独」は武器です

 老人の問題を書かれた本には、「孤立と孤独」というのは、悪く書かれていたけど、逆に考えれば、それを乗り越えていることは武器になります。それを自分の中に示します。これは難しいけど。

思いをつなげる

 Nなどを見ていても、思いがある以上は、今の生活とつなげていくことをさせてゆかないといけない。そこで考えることによって、社会全体が変わっていく。その人が変わればいいだけかもしれない。

追加した豊田市図書館の3冊

 007.5リン『EVERNOTE』

 230.7イリ『1913

 302.27ナイ『イスラム戦争』
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