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ブルバキ派の数学による「構造主義」解明

『フランス現代思想史』より 「構造主義」はどう成立したか ⇒ 「ブルバキ」数学科で最初に買った本が「ブルバキ数学史」3500円だった。アルバイトを3日やって買えた。

ブルバキ派の数学による解明

 音韻論と同時に、レヴィ=ストロースの構造主義に大きな影響を与えたのが、数学における「構造主義」である。これは特に、『親族の基本構造』において、明確に示されている。レヴィ=ストロースは一九四三年に、フランスの数学者集団ブルバキ派の一人アンドレ・ヴェイユと接触し、複雑な婚姻規則を、数学的に解読してほしいと依頼した。そのころ、ヴェイユもまたレヴィ=ストロースと同様アメリカに亡命中だった。

 彼〔レヴィ=ストロース〕はニューヨークでブルバキの創設者の一人アソドレ・ヴェイユと出会い、そのヴェイュが、群論を用いて人間の親族関係の規約体系を形式的に解読し、文化人類学におけるこの重要な問題か持つ内部構造を、数学的な群の構造として解き明かすことになるのである。 (『ブルバキとグロタンディーク』第10章)

 アンドレ・ヴェイユが『親族の基本構造』の補説として書いたものは複雑なので、もう少し簡単なカリエラ族の婚姻規則を見てみよう(ここでは、レヴィ=ストロースの議論が再構成されている、山下正男の『思想の中の数学的構造』〔一九八〇年〕の記述を援用させていただく)。

 カリエラ族では、人々は四つの集団のいずれかに属し、その属している集団によって誰と結婚でき、誰と結婚できないかか決まっている。また、生まれた子どもの所属も、親の結婚のタイプに応じて決まっている。具体的に考えるために、四つの集団をA、B、C、Dとすると、上の表のような婚姻関係(M:M1、M2、M3、M4)と子どもの所属か成り立っている。

 しかし、こうした婚姻関係か、どうして数学的には「群の構造」として理解できるのだろうか。「群の構造」というのは、たとえばabcdのような文字列の順序の変換として考えると、具体的にイメージしやすい(ここでは、レヴィ=ストロースの構造主義にかんして、早い時期に「群の構造」を論じた、マルク・バルビュの論文「数学におげる〈構造〉という言葉の意味について」を援用する)。

 横の変換αを実線(⇔)、縦の変換βを破線(⇔)、斜め方向の変換γを波線でそれぞれ表し、何も変換しないものをIで表すことにする。そうすると、四つの変換の乗積表が出来上がるが、これは「クラインの四元群」と呼ばれている。

 四つの婚姻タイプをMで表し、その子の婚姻タイプまで考えて、(M1、M2、M3、M4)を親だけでなく、子ども(息子、娘)にまで適用してみると、次頁のような規則か明らかになる。つまり、カリエラ族の婚姻関係は、この「クラインの四元群」の構造をなしているのである。この規則から、親兄弟姉妹との「近親婚」や「平行イトコ婚」の禁止と同時に、「交叉イトコ婚」への指令であることか明らかになる。ここでは詳しく説明していくことができないけれども、一つずつ辿っていくと、それぞれか理解できると思う。

「構造主義」の成立

 これまで「構造主義」の成立をめぐって、三つの側面からアプローチしてきたので、最後に大事なポイントを確認しておくことにしよう。まず最初は、レヴィ=ストロースが「哲学」から「民族学(人類学)」へと研究をシフトしたことである。彼は、ブラジルで先住民にかんするフィールドワークを実施し、民族学者としてのキャリアを積んでいった。しかし、ブラジルでの研究だけで「構造主義」が成立したわけではない。

 民族学をバックグラウンドにしなから、レヴィ=ストロースの「構造主義」は、アメリカのニューヨークにおいて成立する。その地で、彼は「構造言語学者」のヤコブソソと出会い、その音韻論を民族学に応用しようとした。ところか、その試みは、必ずしもうまくいかなかった。そこで、レヴィ=ストロースは、民族学の膨大な資料を解明するため、数学における「構造主義」に援助を求めた。偉大な文化人類学者であるクロード・レヴィ=ストロースが、言語学者のロマン・ヤコブソンから学んだ構造を文化人類学へ応用しようとする。しかしそれには構造を支える数学的土台か必要で、それはブルバキによってもたらされる。〔……〕レヴィ=ストロースとアンドレ・ヴェイユがニューヨークで出会ったことで、レヴィ=ストロースの研究していた親族関係に関する難問が解決されることとなるのである。(『ブルバキとグロタソディーク』第8章)

 こうして、民族学(人類学)とヤコブソンの言語学とブルバキ派の数学が出会ったところに、レヴィ=ストロースの構造主義が成立したのである。しかし、そのときレヴィ=ストロースの「構造主義」とは、何を意味するのだろうか。

 不思議なことに、「構造主義」という場合、一般にはそれが何を意味するのか、あまり理解されていない。よくある誤解は、「構造」という言葉のイメージに引きずられて、「個人を束縛する堅固なシステム」と考えることだ。しかし、「システム(体系)」が「構造」でないのは、二つの言葉の違いからも明らかであろう。レヴィ=ストロースによれば、「構造はシステム〔体系〕、つまり一定の要素とそれら要素を繋ぐ関係によって構成される全体集合というものに還元できるものではありません」(『遠近の回想』)。そもそも、レヴィ=ストロースは、「構造」をどう考えているのだろうか。

 「構造」とは、要素と要素間の関係とからなる全体であって、この関係は、一連の変換過程を通じて不変の特性を保持する。(『構造・神話・労働』)

 構造というものを語り得るためには、いくつかの集合の要素と関係の間に、不変の関係か出現し、ある変換を通じて一つの集合から別の集合へ移れるものでなければなりません。(『遠近の回想』)

 「構造」にかんするレヴィ=ストロースの定義で注目すべきは、「変換」という言葉である。システム(体系)の場合には、「変換は可能ではなく、変換されると崩壊する」。ところか、「構造」とは、まさに「変換」によって不変の関係を保持するのだ。しかし、この定義はまだ抽象的なので、具体的な事例にそって理解することにしたい。
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オフショアリングの悲劇 ウォルマート

『誰がアメリカンドリームを奪ったのか?』より オフショアリングの悲劇

知識は力

 市場を予想する魔法の鍵は、バーコードだった。ウォルマートのCIO(最高情報責任者)リング・ディルマンは、手に持って操作する「テルクソン」という器具で、いくつかの商品のバーコードを読み取りながら説明してくれた。「商品の価格と、現在の在庫がわかります。これまでの売れ行きはどうか、今後の売れ行きはどうかを、これが知っています」。スーパーコンピューターがあるので、ウォルマートは毎日の営業時間の終わりに、店舗ごと、地域ごと、全米の売り上げを合計し、在庫を知って、今後の販売を予測できる。そして正確に補充を行うことができる。いまはどこにでもあるシステムだが、一九八〇年代にウォルマートが開発して、競争優位を得た。

 科学でもそうだが、マーケティングでも知識は力だ。ウォルマートがバーコードから引き出した情報で、アーカンソーにいるバイヤーは仕入れ先--ラバーメイド、プロクター&ギャンブル、ブラック&デッカー、ハフィー自転車のようなメーカー--に、各メーカーの販売員よりも早く、との製品がどれだけ必要か、型、色、サイズまで告げることができる。

 ウォルマートで一七年にわたり六店舗を担当しているジョー・リーマンは、ペットフードのような単純な品物でも、ウォルマートがバーコードから怒濤のような情報を得ていることを説明してくれた。「9Lives」という缶入りペットフードには、種類ごとに--チキン、レバー、ビーフ--違うバーコードがついている。レジでバーコードがスキャンされると、その情報が追跡されて、どの種類がよく売れているかがわかる。それが何個売れたかが……その晩の真夜中に自動的に発注がなされて、翌日か翌々日の夜には棚にならんでいる……じつに信じがたい仕組みだ」と、リーマンはいう。

 「ウォルマートは効率的な機構だから、他のアメリカの小売店よりもずっと成績がいい--いや、歴史上のアメリカ企業のどれよりも好調かもしれない」と、世界のサプライチエーンを研究しているデューク大学教授のデイリー・ゲレフィはいう。「ウオルマートは、グローバルなコスト削減と国内での効率に関して、他の小売店の追随を許さないほど徹底している。はじめのころにアメリカの小売とオフショア・ソーシング(海外委託)で先陣を切っていたKマートやシアーズのような競合する会社を、ウオルマートがどうして追い抜いたのかということも、それで説明がつくかもしれない」。

オフショアリングが招いた収入格差

 テクノロジーとオートメーション(自動化)は、たしかに時代遅れの仕事の一部を滅ぼしたが、エコノミストは、むしろグローバリゼーションが問題の核心だと見なすようになっている。一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけての著しい変化は、それで説明がつく。一九九〇年代、アメリカ企業は国内と海外の両方で雇用していた。二〇〇〇年代になると、アメリカの大手多国籍企業が海外での雇用を二四〇万人増やし、国内での雇用を二九〇万人減らしたと、商務省は報告している。

 アメリカの多国籍企業が安い労働力を求めたにせよ、顧客をひろげようとしたにせよ、オフショアリンダはアメリカの経済格差を激化させたと、ノーベル賞を受賞したニューヨーク大学のエコノミスト、マイケル・スペンスはいう。スペンスの分析によると、アメリカにはまったく異なる路線を進む二種類の経済が、一九九〇年から存在しているという。ひとつはスペンスが「貿易不可能セクター」と名付けたもので、グローバル貿易の競争にさらされることがない。医療、小売、公共サービスがそれに当たる。もうひとつは「貿易可能セクター」で、自動車、電子機器、その他の製造業で、いずれも外国との貿易の競争にさらされている。

 一九九〇年から二〇〇〇年までのアメリカの雇用増加のほとんど(九七・七パーセント)か、貿易不可能セクターで生じていることを、スペンスとその同僚たちは突き止めた。増えたのは主に医療と政府の雇用だったが、現在はそれらの成長は鈍化している。貿易可能セクターでは、雇用が大きく失われ、賃金が下がり、不安感が増して、脆弱な状態のミドルクラスと、経営、コンサルタント、金融など、ごく少数の高収入の仕事の収入格差が、大きくひらいている。

 「海外に仕事が移っても、付加価値の高い仕事--利益のほとんどをものにする仕事--はアメリカに残っているから平気だといえるし、じっさいおおぜいがそういっている」と、インテルの元CEOアンディ・グローブは書いている。「それはそうかもしれない。しかし、付加価値の高い仕事をやって高給を取っている人間と、失業している大衆からなる社会は、いったいどういうものになるのだろうか?」。

 アメリカ企業のCEOであるグローブの言葉は、アメリカの仕事のオフショアリングが、多国籍企業とそのCEOにとっても見過ごせない重要問題になっていることを物語っている。アメリカの製造業の力を再稼働するには、アメリカの産業界の新しい国家戦略と幅広い取り組みが必要だと、グローブは唱えている。光明がいくつか見えはじめている--少数の工場が中国から戻り、製造業の雇用が増え、ダローブのようなビジネスリーダーが発言している。だが、本書の最後の章に述べているように、やらなければならないことは山積しているのだ。
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アレクサンダー大王の東征 イッソス

『トルコの歴史』より イッソス アレクサンダー大王の東征

イッソス

 決戦に名前を残したイッソスは、トルコのシリア国境(タイ県北部にあるエルズイン市にある。この辺りは南のシリア、北のアナトリア、東のメソポタミアに続く三つの道の結節点で、西は天然の良港であるイスケンデルン湾だ。つまり、陸海の交通の要衝である。

 イッソスは東地中海の古代民族であるフェニキア人や、ヒッタイトの人々も使った港町だったが、今では五〇〇メートル内陸になる。湾に土砂が堆積したからで、イッソスが淘汰された要因だ。わずかな都市遺跡が、農地の中に取り残されている。真横にあったピナロス川がなく緑の低地があるのは、川の流れが変わり、三キロメール南に河口を持つデリ川になったと見られるからだ。

 ただし、この古代遺跡がマケドニア軍とペルシア軍の衝突現場だったのではない。それは、もう少し南に位置するパヤスという別の町。対戦に至る経過はあとで述べるが、当時はイッソスが最寄りの都市だったため、イッソスの戦いとして歴史に残ったのだ。

 イッソスの戦いは、メディア時代から通算するとアナトリアで二五〇年続いたペルシア時代を終わらせ、ヘレニズム時代の幕を開けた。「ヘレニズム」とは近代の造語で、広い意味でのギリシア文化が東に及び、東方を啓蒙したとのニュアンスで、東西の融合が起こったことを言う。とはいえ、もともと西アナトリアにはギリシア性の文明があったし、東方自体がギリシアに勝るとも劣らぬ高度な地域だったのだが。

 現存するイッソスの古代遺跡は、アレクサンダーがここを通ってから三〇〇年後に、彼が開いたヘレニズム時代を終わらせたローマ時代に再建されたものである。往年の繁栄をしのばせるのは唯ベ長いローマ水道橋だけだ。他は畑に埋もれてしまい、あるいは持ち出され、わずかに保護されたうちの一つのローマ浴場からは、みごとな床モザイク画が出土している(非公開)。

決戦

 マケドニア軍は東地中海に出るとイッソスに進む。ここから南方面は、すぐ東にヌル山脈(古代名アマヌス)がせり立つため沿岸地帯は陰路になっており、アレクサンダーはペルシア軍が南から来ると想定していたため、そのままこの路に入り込んだ。今も、国道と国鉄が平行して走る沿岸線だ。

 ところがペルシア軍は策略により、一部の軍をアマヌス山脈の北の峠からイッソス経由で入り込ませ、それに気づいたマケドニア軍は北へと来た道を戻る。両軍が相見たのが、ィッソスから五〇キロメートル南のハタイ県パヤス市だ。沿岸に中世十字軍の城郭とオスマン時代のキャラバンサライが残る歴史都市で、戦闘現場は背後の山の中のパヤス川だ。小さな川だが、所々に深い陥没があり岩場が多いことが、この戦いを死闘にした。

 勝敗の結果を歴史に刻むのが、さらに三〇キロメートル南におけるイスケンデルンという都市の存在である。マケドニア名はアレクサンドレッ夕(アレクサンダーのまち)と言った。イッソスで勝者になったアレクサンダーが、このままシリア、エジプト征服を続ける決意をし、造らせた進軍拠点だったのである。アダナ県とハタイ県の沿岸がつくる湾の名前にもなったイスケンデルンとは、この地域が九七〇年後イスラム圏に入り、アラビア語読みに変わったものだ。

 ただしアレクサンダーが英雄になれたのも、ベルシアに憧れ、ペルシアを尊敬したからだ。彼はマケドニア軍のひんしゅくを買いなから、アケメネス朝の後継者を自負した。その前から「全アジアの卜」とまで自認していた。ペルシアの理想を受け継いだからこそ、ペルシアのサトラニフ制度も踏襲した。彼は、広大な異邦の地のすべての民の支配者になろうとした。さまざまな民族がそれぞれの信仰や文化を守り、違いを認め合ってともに生きられる、共通の世界を創ろうとしたからだ。これは、アレクサンダー亡きあと、共和政ローマが再度試み、ビザンツ帝国が失敗し、オスマン帝国が再度成功させたことだ。出陣から一一年後、三三歳でバビロンにおいて崩御した彼のものとされる石棺は、イスタンブール考古学博物館が所蔵している。
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ロードのスタバがリニューアル

ブログ検索の愉しみ

 未唯への手紙のブログで遊んでいた。過去の記事が検索で出てきます。

 C223ヤマ『クールアースの創世記』の中に、研究開発部署の井上悳太さんの話題が出てきました。燃料電池にGOを下したのは誰ですか? 蕩児に担当重役は井上重役。井上さんて、ひょっとして現在、この会社の思想機関、コンポン研究所の井上副所長(当時)では? そうです。

 2009年2月15日 何もない誕生日。あと1年で60歳ですか。3月に入ったら、実名に変えましょうか。検索が面倒だから。

名古屋へ行く日を決めよう

 今から、名古屋に向かいます。休みの日はバスは混みますね。月に一回はこういう日を設けましょう。考える日です+Iさんです。本当は逆転ですけど。

 15日辺りに決めましょうか。生活の中にメリハリをつけます。7年前も13日の金曜日でした。

500MBのHDD購入

 知の体系化のために、未唯宇宙をもう少しまとめましょう。そのために新しいHDDを用意します。500GBあれば、十分でしょう。会社のパソコンがなくなったから、新しいバックアップ体制です。

 インスピレーションが使えなくなった時に、ウェブを用意しています。G00並の検索を用意するのか、Googleに変えるか。

未唯宇宙のまとめ

 早速、明日から、どういうカタチにするのかを決めないといけない。ブログ「未唯への手紙」の使い方も決めていきます。

 本の検索とか、自分のなかのキーワードを使用可能にします。人に使い方を説明するよりもはるかに有意義です。そういう意味では、内なる世界を体験している。それから、知の体系化へのアイデア出しをしている。

 だから、どこかでオープンします。利用方法を含めて完全なるオープンです。PC内の参考情報のデータベースともつなげていく。音声もデータベースもキンドルのクラウドで渡せばいい。プライベートな空間とグローバルな空間をつなげていく。

 新たなグーグルを創るようなイメージです。それもローカルとグローバルをつなぐことで可能にします。ペイジになりかわって。これらは「全てを知る」ための一つの方法に過ぎない。「全てとは何か」の定義をデジタルとアナログの世界で行います。

スタバがリニューアル

 名古屋のスタバに着きました。今日からリニューアルです。

 Iさんとの会話

 [Iさん待ちます。いいですか。私で]「SSVじゃないです。バリスタです。コントロールは明日なんですよ」

 「今、桜なんですよ。でも、コーヒーが入ってないんですよ」「ショットを入れたら、おいしかったです」

 「12時から、ご飯一緒に。スターバックスで」「サンドイッチかなんか食べませんか」「お誕生日なので、ごちそうさせていただきたいなと」「いいですか」

 「あまり、慣れなくって」「結構、面白いことが起こったり」「どうですか、お店。印象とか」「すごいんですよ」「朝から桜、結構出て」「グラスは朝すぐになくなり、カードも30分までに完売しました」

 「あれ、面白いでしょ」「ドリンク飲もうとしたら、開けたらぞろぞろとドリンクが出てくるイメージで作ったんです」「喜んでいただいて、よかった」「そんな、またまた」「みんなも一杯メッセージを書いてくれたし」「読んでいて、あーと思って」

 内装として、大きな書棚をイメージしている。これは気に入りました。本当の本で取り出せるといいけど。本の選択は難しい。ブックカフェは難しい。武雄のように図書館の中に置いた方が速いですね。

 後は、いかに出会いの場にするのか。地下街は空間上の制約が多いですね。ここから、街のデザインもできます。皆は何を望むのか。

 電源の配置はよく分からないですね。あまり、ある感じはしないですね。滞留が増えそうですね。日曜日の現象かもしれないけど。朝を見る限りは会社員が多かったけど。

 オヤジのたまり場になろうとも、皆がそこで考えてくれればいい。あとはアゴラをどう作るかです。お一人さまが多いのも、特徴かもしれません。

Iさんとのランチ

 サンドイッチのランチをおごってくれるそうです。12時になりました。スタンバイしました。なかなか、出てきません。

 12時20分から2時間のお茶。楽しかった。名残惜しかった。一か月後に来ることを約束してもらいました。後、一ヵ月、あの笑顔が見れないなんて。しかし、良く、話したもんです。

 本当な話さなくても、笑顔を見ているだけでも良かった。
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