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変わりゆく進化論と世界観

『父という余分なもの』より 家族という複雑系

生物界は生存のための絶えざる競争によってつくられたという概念は、ダーウィン以来一〇〇年以上も人々の世界観、生命観を支配してきた。しかし、この「競争原理」はいま大きな変更を余儀なくされつつある。

ダーウィンの進化論は、そもそものはじめから大きな難問を抱えていた。

ひとつは自然選択によって選び出された有利な形質がどうやって子孫に伝えられるのかという疑問である。当初ダーウィンは獲得形質の遺伝を信じていた。すなわち、生後獲得した生存に有利な形質は、何らかの経路を通じて子孫に伝えられると想定したのである。

ところが、その後親の形質を伝えるのは発生の初期に体細胞と切り離されてしまう生殖細胞であることがわかり、獲得形質は遺伝しないことが判明した。さらに、遺伝子の本体が生殖細胞の染色体に含まれているDNAという高分子であり、このDNAに起こる突然変異や転写ミスが新しい形質を生み出す、ということがわかってきた。

一九七〇年に『偶然と必然』を書いたモノーは、すべての生物の形質はDNA上にある情報によって先験的に決まっており、突然変異などの偶然によって新たな変異が出現し、それが自然選択によって必然の形として定着するとまで言い切っている。さらに木村資生博士の「分子進化の中立説」は、DNAレべルで生じる変異は自然選択を受けない中立的なものであると主張した。この説に従えば、遺伝子に起こる変異はまったく確率的な過程によって広がり、たまたまその環境に有利だったものが生き残るということになってしまう。

ではいったい「適者生存」という進化の大前提はどこへいってしまうのだろう。自然選択の機構とはいったい何なのか。

ダーウィンは進化が長い時間をかけてゆっくり進むものと考えていた。自然選択が選ぶ進化の主体は個体である。しかし、その個体に現れた新しい形質がほかの個体にまで広く行きわたらなければ種は変わらない。そのため、新しい種の形成、すなわち進化には長い時間がかかる。

ここに第二の疑問が生じる。生物の運動、知覚器官は極めて精巧につくられている。目や耳のように、わずかな手違いがあっても部品が欠けても、機能を働かすことができないものがある。このような器官はいったいどのようにしてつくられたのか。それらの器官が完成するまでの長い期間ほとんど機能を発揮できなかったとすれば、有利な形質として自然選択にかかるはずがない。

グールドの「断続平衡説」はこの疑問にある答えを与える。

進化は一様な速度で進むのではなく、急速に形質が変わってまたたくうちに新しい種が形成されることがある、というのである。地球規模の異変によって大量の生物種が絶滅し、空白になったニッチエ(生態学的地位)に新しい種が急速に適応放散していく時期と、長い間形質が変化しない安定期が交互に訪れるという考えで、最近では六五〇〇万年前の恐竜の絶滅と哺乳類の爆発的な放散過程がこの例にあたる。

また、小規模な環境変動でも、選択圧が強くかかるような環境条件(隔離など)があると、進化が目に見える速度で進む例が知られるようになった。薬の耐性をもつ農害虫、工業都市の保護色として黒化したが、実の大きさや堅さによって異なるくちばしをもつ鳥などが、そういった例として報告されている。

つまり、「突然変異の積み重ねと自然選択によって、長い時間をかけて種は徐々に変わる」とした進化論は、「環境の制約が解き放たれたとき、中立的な変異が急速に蓄積されて進化は短期間に進む」と修正されなければならなくなったのである。

これらの修正によって、「適者生存」というメカニズムがつねに自然界に存在するかどうかに強い疑いがもたれるようになった。環境の制約が強くかけられている時代には形質は変わらず、制約が解かれたときに急速に新しい形質が生まれるならば、ふだん「適者生存」という選択は働いていないことになる。

したがって進化に「最適」という概念も成立しない。進化は「より良いもの」をめざしているわけではなく、その進む先に「最適」というゴールがあるわけでもない。進化論の変貌とともに、「競争によって明るい未来が開ける」とした二十世紀の世界観も変わらざるをえなくなってきたのである。
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サービス化と日本の経済成長

『自分の頭で判断する技術』より 産業化・情報化・サービス化

サービス化は、先進国においてこれからますます加速していきます。日本では、一九九〇年に第三次産業が第二次産業の生産額を抜き、その後、ますます経済におけるサービス業の比重が高まっています。

ノーベル経済学賞を受賞したスティグリッツ氏が度々指摘しているように、日本の経済成長のカギは、いまやサービス業の生産効率の向上です。また、日本の働く人全体で見ても、サービス業に関わる仕事をしている人が多数派となりました。そして、マイクロソフトのビル・ゲイツが全社員に「サービス化の波」という電子メールを送ったように、ネットビジネスもサービス化を必死で取り入れようとしています。このように一過性のブームではなく、長期のしっかりしたトレンドですので、ここで冷静にサービス業の本質を理解した上で、こうしたニュースや動きを見るようにしましょう。

サービス業の本質について、経営学やマーケティングの教科書に、同時性、個別性、無形性と書かれているので、これらを順次見ていきます。

・サービスの同時性

 典型的なサービス業であるマッサージ、ヘアサロンなどを見てもわかるように、サービスは、生産と消費が同時に行われます。モノのように、中国の工場で大量につくって在庫にしておいてコ茨に大量に売ることができません。従って、供給量の上限がきやすい。

・サービスの個別性

 サービスは、顧客に個別に対応すればするほど、付加価値が高くなります。あなただけのサービスには高い値段がつき、リピート客を確保できます。バーで、ある客が「いつものやつ」と言えば、黙って好きな酒がでてくる個別性は、常連客を増やす良い方法です。

・サービスの無形性

 純粋なサービスは、モノではなく無形である。ヘアサロンでは、髪の毛というモノを対象にしているが、顧客がお金を払うのは、その切り落とした髪の毛に対してではなく、美容師さんの手さばきにお金を払います。

これらは、相互に関連しており、無形であり個別対応であるが故に、生産と消費が同時に行われるともいえます。

ところで、サービスは、生産と消費が同時に行われるために、モノのようにつくり置きができず、一度に大量に販売できません。いわば人海戦術になるので、短期間で規模の拡大ができないのです。また、個別性こそが付加価値の源泉であるので、やはり大量に同じモノを売ることができません。結局、サービス業は、短期間に大量に供給し、規模を拡大するのが難しいビジネスとなります。

実際、日本のサービス業でも、大手で大きな利益をだしている企業は、そう多くなく、しかも何十年もそのビジネスをしてきて、ようやくその域に達しています。成長スピードは、ネット企業と比べるまでもないほど遅くなっています。日本のサービス業は、規模と成長スピードの問題に悩まされているといえるでしょう。
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グローバル化--「新しい中世」論

『自分の頭で判断する技術』より グローバル化--「新しい中世」論

グローバル化を説明するモデル

 グローバル化は、何も今始まったことではなく、人類登場の頃から何十万年と滔々と続いている流れです。縄文時代にも、三内丸山遺跡のあった場所で、集落のリーダーが集まって、グローバル化への対応について議論していたに違いありません。

 その何十万年の流れの中でも現代のグローバル化か特異なのは、二〇世紀に、一通り地球上の地理的フロンティアは消え、ほとんどのホモサピエンスとコミュニケーションが取れるようになったことでしょう。いまや、生育地の違う人が共に働き、ものをつくり、資源や生産物の再分配を地球規模で行うグローバル化の質的深化に向かっています。

 そのグローバル化の波を体系的に理解するために、国際政治学の知見が参考になります。

 ここでは、田中明彦東京大学教授の提唱している『新しい中世』(日経ビジネス人文庫)という考え方を参考にします。このモデルによって、グローバル化の大きな波が進むことで、先進国が今後どういった世界になるのかの一つの予測を提供します。

 さらに新興国など、様々な発展段階にあるいくつかの波を、重層的に理解するモデルも提供します。こうして、国際政治だけでなく、ビジネスや文化の理解に役立てることができるのです。

「新しい中世」論

 田中教授が冷戦後の世界システムを説明するモデルとして提示した「新しい中世」(一九九六年)論は、大きく二つの柱となる理解があります。

 一つは、先進国の間でグローバル化が広がり相互依存が進むと、国際社会が近代的なるものから「新しい中世」的なるものに変わっていくという理解。

 もう一つは、現代の世界には、先進国が属するこの「新しい中世圏」の他に、新興国が属する「近代圏」と、近代化に失敗して社会が停滞している「混沌圏」があり、この三つの世界圏が混在し相互作用をしているという理解。

 つまり、「混沌圏」→「近代圏」→「新しい中世圏」と進む、それぞれの段階に様々な国が属し、相互作用をしているという世界観です。

 現代の先進国が踏み込み始めているその「新しい中世圏」というのは、次の三つの特徴を持っています。

 ①イデオロギーの普遍性:冷戦後は、中世同様イデオロギー対立が終焉した

 ②主体の多元性:中世と同じく非国家主体の重要性が増した(具体的には、EU、アルカイダ、多国籍企業、グリーンピースなど)

 ③経済相互依存:中世と異なり経済相互依存が高まった

 右記の特徴を持つ「新しい中世圏」の他に、「近代圏」と「混沌圏」があり、相互作用をしています。それでは、この三つの圏の姿を見てみましょう。

 (1)新しい中世圏

 近代化の終了した日米欧などの先進国の地域です。この圏内での主体は、国民国家だけでなく、国際的な企業体、NPO、地域コミュニティなど多様です。この圏内の主体同士では、戦争は起こらず、言葉や情報による説得と経済的調整で紛争は解決されます。紛争は、領土ではなく、経済や名誉などの象徴を争点にして起こります。

 (2)近代圏

 近代化の途上の、中国などの新興国の地域です。この圏内の主体は、国民国家が圧倒的な存在です。この圏内の主体同士では、領土、軍事、経済などを争点として紛争が起こり、しばしば政策手段として戦争が起こり、武力による解決が試みられます。

 (3)混沌圏

 近代化に失敗したか、近代化がまだ軌道に乗っていない地域です。この圏内の主体は、国民国家が機能的に成立していないので、地域集団です。この圏内の主体同士は、常に戦争状態にあり、主に生存を争点として武力紛争が絶えません。

 日本では、国際政治に関する「近代」的な理解がいまだに不十分な感がある。(中略)私の理解では、日本はすでに「新しい中世」的特徴を色濃く持った地域になった。しかし、日本周辺には、「近代」の特徴を依然としてギラギラさせた「第二圏域」の諸国が存在する。日本人は、自らは「新しい中世」にいながら、「近代」と対決していかなければならない。私たちは、「近代」的国際政治を単に古いといってすますわけにはいかないと思うのである。

 日本人が海外に住むと実感できるのですが、日本人は、約七〇年も戦争がなく治安のいい社会にいたせいか、どうも安全保障を軽視しがちです。海外では、命あってのものだねと、安全保障に関する意識を高く持っています。海外の武力衝突なども詳しく報道します。

 こうしたことは、是非を論ずるよりも先に、日本社会で流通する情報の一つのバイアスとして、補正して受け止めたほうが有益です。

 この「新しい中世」論が優れているもう一つの点は、従来の議論のように、近代以後の世界を「ポスト近代」「脱近代」といった近代の否定的定義にとどめず、積極的に「中世的」なものとして表現している点です。そして歴史上、既にあるものにたとえているだけに、イメージがはっきりと浮かびやすいのです。
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岡崎市図書館の10冊

014.4『NDC日本十進分類法 本表・補助表』

014.4『NDC日本十進分類法 相関索引・使用法編』

933.7『米露開戦①』

016.2『図書館からの贈り物』

147『空からの叡智へ』本物のシフト ダークアセンションから《光の種子》を救い出すために

302.3『フィンランド人が語るリアルライフ』光もあれば影もある

675『ソロモン 消費者行動論[上]』

646.8『文鳥式生活のとびら』入手方法から生活環境、グッズ、遊ばせ方まで。

409『地球のために、未来のためにSATREPS』地球規模課題対応国際科学技術協力

421.3『量子は、不確定性原理のゆりかごで、宇宙の夢をみる』
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