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存在と無から独我論を突破する

独我論を突破する

 独我論を突破するには、内なる世界で、私は私の世界を作り出すことから始めないといけない。どっち道、他者の世界は分からない。内なる世界でお互いに作り出して、それらの接点を探る。その時の接点は、愛しかない。

 仲介するのは、私の世界を覗き込もうとする人です。それが接点になって、大きな世界に飛び立たせます。独我論というのは、あくまでも対象物を認証できるのは私しかいない。その世界で一つ作り出したうえで、もう一つ、作ります。

送別の品

 コクーンの黒にしましょう。あとはモスレキンのノートを付けましょうか。

幻想の世界に居る

 こうも、あると思われているのか。経験していないのに。全てが未知なのに、なぜ、平気でいられるのか。ないこととあることとかなり違うし、国というものに対しても、力も違います。これはすべて、あるということから出てくることです。

 人質事件にしても、本当にそういうことがあったのか、国というモノが考えているのか、何も伝わってきません。文句言う人は何かを感じているのでしょう。だけど、それらはすべて幻想です。思わさせているだけです。誰が何のために。

 哲学とか数学というモノがそれらを突破できるものだということでしょう。その幻想の中に居る限りは安泰だけど、本質は分からない。他者の思惑なのか、何なのかもわからない。あると思うことで死んでいけばいいだけの世界と思えば、それで十分ですが。それではあまりにも的外れです。

言葉の連鎖

 だから、全てを知りたいが出てきたのでしょう。知っているつもりのモノもすべて挙げてみて、それが何なのか。言葉の連鎖で、先まで持って行くことで、その限界を見ていく。

 政治制度にしても同様です。今の民主主義とか、自由主義とかの概念的なモノと、今、起こっていることとつながっていない。起こっていることも自分に関係するものがほとんどない。

偶然なのか

 美代子と佳代子の頭を取って、「美佳」。これにやって、気づいた。意味があるのか。

存在と無から考えると

 在ると無いとが同居するモノでありながら、なぜ、数学ができるのか。根底に矛盾を抱えている。それをどう捉えるのか。人間が真理を修めるということはかなり難しいです。ベースのところが不思議でしょうがないです。

 一番不思議なのは、これが客観的ではないということです。主観的もいいところです。存在をそのままで爆弾を抱えている感じです。今は本当は違うんでしょうね。何しろ、同居しているから。その感覚に何となく、自分をごまかしています。

 何故、皆は本を書くのか。ベースのところが違うのか。商売なら分かるけど、それだけではないのでしょう。訴えたいのでしょう。訴えてどうする。マルクスにしても、訴えたことで、反応を起こされて、革命が起こされた。それでどうなるのか。
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