『暴力の人類史』より
本書『暴力の人類史』は、六つの傾向、五つの内なる悪魔、四つの善なる天使、そして五つの歴史的な力についての物語である。
四つの善なる天使(第9章)について。人間は本来的に善ではない--同時に、本来的に悪でもない--が、暴力を回避し、協調や利他的行動へと向かおうとする動機は生まれながらに備わっている。まず第一の共感(とくに同情的関心という意味での)は、他人の痛みを感じ取り、他人と自分の利害を一致させようとする心の動きである。第二のセルフコントロールは、衝動にもとづいて行動した結果を予想し、その行動を抑えようとする心の動きを指す。第三の道徳感覚は、ある文化における人間同士の相互関係を規定する一連の規範やタブーを正当と認めるものであり、暴力を減少させる場合もある一方で、(その規範が部族的、権威主義的、または極度に厳格である場合はとくに)暴力を増大させることもしばしばある。そして第四の理性の機能は、私たちを偏狭な視点から抜け出させ、自分の生き方について省みることを促して、より良い状態になるにはどうすぺきかを考えさせ、人間性のほかの「天使」たちを活用する方向へ私たちを導く。本書では、ホモサピエンスがその歴史のなかで最近、ゲノムの変化という生物学的な意味で、文字通り暴力性を減ずる方向に進化した可能性を検証している部分もある。だが本書の主眼はあくまで、真に環境的な変容--言いかえれば、固定した人間性とさまざまな形で絡み合ってきた歴史的状況における変化にある。
さらに、五つの歴史的な力(第10章)について。最後の章では、どのような外生的な力が平和を好む人間の動機を支持し、複数の面において暴力の減少を促進したかを検証することによって、人間の心理と歴史をふたたび結びつけることを試みる。第一の力はリグァイアサン、すなわち合法的な力の行使を独占する国家と司法制度だ。この力は、搾取的攻撃への衝動を鎮め、復讐への衝動を抑制し、あらゆる当事者に自分は天使の側にいると信じ込ませる独善的な偏見を阻止する。第二の力は通商で、これはすべての人が勝つことのできるプラスサム・ゲームである。科学技術の進歩によって、商品やアイディアの交換がそれまでより遠距離間で、また規模の大きい取引相手同士で可能になるにつれて、「他の人びと」は死んでいるより生きているほうが価値が高くなるとともに、悪魔扱いしたり、非人間的に扱う対象にはなりにくくなる。第三の力は女性化。これは、さまざまな文化が女性の利益や価値を尊重する方向に向かってきたプロセスを指す。暴力はおおむね男性の気晴らしであるため、女性に力を与える社会は暴力を美化することを避ける傾向にあり、社会的な足場をもたない若い男たちの危険なサブカルチャーを生み出すことも少なくなる。第四の力はコスモポリタニズムだ。たとえば読み書き能力や移動性の向上、そしてマスメディアの発達により、人びとは自分とは異なる人びとの視点に立ち、そうした人びとを認める共感の領域を広げることができるようになる。そして第五の力は、理性のエスカレーターだ。知識や合理性を人間に関する事柄に適用する度合いが高まるにしたがって、人びとは暴力の連鎖がいかに不毛であるかを認識し、自分の利益を他人の利益より優先する考え方を改め、暴力を勝つための争いではなく、解決すべき問題であるととらえ直すことを余儀なくされる。
暴力が減少していることを認識すると、世界の見え方が変わってくる。過去の時代はそれほど無垢ではないし、現在はそれほど邪悪で暗くはない、と思えてくるのだ。そして私たちの祖先にとっては非現実的な夢でしかなかったささやかな共存の恵みを、ありかたいものとして評価するようになる--公園で遊ぶ肌の色の違う夫婦と子どもの姿しかり、軍の最高司令官をきつい冗談でこき下ろすコメディアンしかり、一触即発の危機を戦争へとエスカレートさせることなく、すみやかに身を引く国しかり。こうした変化は決して自己満足的なものではない。私たちが今日ある平和を享受できるのは、過去の世代の人びとが暴力の蔓延する状況に戦慄し、なんどかそれを減らそうと努力したからであり、だからこそ私たちは今日も残る暴力を減らすために努めなければならない。そうした努力が価値あるぢのだと確信するには、暴力の減少を認めることこそが最も有効だ。人の人に対する残虐行為は長い間、道徳的解釈の対象とされてきた。もし残虐行為が何かの力によって減少していることがわかれば、それを因果関係の問題として扱うことが可能になる。「なぜ戦争が起きるのか?」と問う代わりに、「なぜ平和があるのか?」と問うこともできる。人間がどんな間違いを犯してきたかばかりを問題にするのではなく、どんな正しい行いをしてきたかに焦点を当てることもできる。なぜなら人間は、たしかに正しいこともしてきたのであり、それが具体的に何なのかを知るのは良いことにちがいないからである。
なぜ暴力の研究に取り組んでいるのか、これまで多くの人に質問された。はっきりさせておこう。人間の本性を研究する者にとって、暴力は当然の関心事であるからだ。暴力が減少していることを最初に教えてくれたのは、マーティン・デイリー、マーゴ・ウィルソン著『殺人』(邦訳『人が人を殺すとき』)という進化心理学の古典だった。著者らはこの本で、非国家社会では暴力的な死を遂げる人の割合が高く、中世から現在までの間に殺人件数は減少していることを検証している。私はこれまで何冊かの著書のなかで、こうした下降傾向とともに、奴隷制や専制政治、残虐な刑罰などが廃止されるという西洋の歴史における人道的発展を取り上げ、道徳的進歩は人間の心に対する生物学的アプローチとも、人間性の邪悪な側面を認めることとも矛盾しないという考えを支持してきた。そして二〇〇七年に、ウェブサイト〈エッジ〉が毎年行っている質問-その年は「あなたは何について楽観していますか?」だった--に答えたときも、私は暴力の減少をあげた。すると思わぬ反響があり、歴史犯罪学や国際学の研究者から、私が理解していた以上に、暴力が歴史的に減少してきた事実を裏づける証拠が豊富にあることを教えられたのだった。正当に評価されていない、語るべき物語があることを私が確信したのは、彼らが提供してくれたデータのおかげだったのである。
本書『暴力の人類史』は、六つの傾向、五つの内なる悪魔、四つの善なる天使、そして五つの歴史的な力についての物語である。
四つの善なる天使(第9章)について。人間は本来的に善ではない--同時に、本来的に悪でもない--が、暴力を回避し、協調や利他的行動へと向かおうとする動機は生まれながらに備わっている。まず第一の共感(とくに同情的関心という意味での)は、他人の痛みを感じ取り、他人と自分の利害を一致させようとする心の動きである。第二のセルフコントロールは、衝動にもとづいて行動した結果を予想し、その行動を抑えようとする心の動きを指す。第三の道徳感覚は、ある文化における人間同士の相互関係を規定する一連の規範やタブーを正当と認めるものであり、暴力を減少させる場合もある一方で、(その規範が部族的、権威主義的、または極度に厳格である場合はとくに)暴力を増大させることもしばしばある。そして第四の理性の機能は、私たちを偏狭な視点から抜け出させ、自分の生き方について省みることを促して、より良い状態になるにはどうすぺきかを考えさせ、人間性のほかの「天使」たちを活用する方向へ私たちを導く。本書では、ホモサピエンスがその歴史のなかで最近、ゲノムの変化という生物学的な意味で、文字通り暴力性を減ずる方向に進化した可能性を検証している部分もある。だが本書の主眼はあくまで、真に環境的な変容--言いかえれば、固定した人間性とさまざまな形で絡み合ってきた歴史的状況における変化にある。
さらに、五つの歴史的な力(第10章)について。最後の章では、どのような外生的な力が平和を好む人間の動機を支持し、複数の面において暴力の減少を促進したかを検証することによって、人間の心理と歴史をふたたび結びつけることを試みる。第一の力はリグァイアサン、すなわち合法的な力の行使を独占する国家と司法制度だ。この力は、搾取的攻撃への衝動を鎮め、復讐への衝動を抑制し、あらゆる当事者に自分は天使の側にいると信じ込ませる独善的な偏見を阻止する。第二の力は通商で、これはすべての人が勝つことのできるプラスサム・ゲームである。科学技術の進歩によって、商品やアイディアの交換がそれまでより遠距離間で、また規模の大きい取引相手同士で可能になるにつれて、「他の人びと」は死んでいるより生きているほうが価値が高くなるとともに、悪魔扱いしたり、非人間的に扱う対象にはなりにくくなる。第三の力は女性化。これは、さまざまな文化が女性の利益や価値を尊重する方向に向かってきたプロセスを指す。暴力はおおむね男性の気晴らしであるため、女性に力を与える社会は暴力を美化することを避ける傾向にあり、社会的な足場をもたない若い男たちの危険なサブカルチャーを生み出すことも少なくなる。第四の力はコスモポリタニズムだ。たとえば読み書き能力や移動性の向上、そしてマスメディアの発達により、人びとは自分とは異なる人びとの視点に立ち、そうした人びとを認める共感の領域を広げることができるようになる。そして第五の力は、理性のエスカレーターだ。知識や合理性を人間に関する事柄に適用する度合いが高まるにしたがって、人びとは暴力の連鎖がいかに不毛であるかを認識し、自分の利益を他人の利益より優先する考え方を改め、暴力を勝つための争いではなく、解決すべき問題であるととらえ直すことを余儀なくされる。
暴力が減少していることを認識すると、世界の見え方が変わってくる。過去の時代はそれほど無垢ではないし、現在はそれほど邪悪で暗くはない、と思えてくるのだ。そして私たちの祖先にとっては非現実的な夢でしかなかったささやかな共存の恵みを、ありかたいものとして評価するようになる--公園で遊ぶ肌の色の違う夫婦と子どもの姿しかり、軍の最高司令官をきつい冗談でこき下ろすコメディアンしかり、一触即発の危機を戦争へとエスカレートさせることなく、すみやかに身を引く国しかり。こうした変化は決して自己満足的なものではない。私たちが今日ある平和を享受できるのは、過去の世代の人びとが暴力の蔓延する状況に戦慄し、なんどかそれを減らそうと努力したからであり、だからこそ私たちは今日も残る暴力を減らすために努めなければならない。そうした努力が価値あるぢのだと確信するには、暴力の減少を認めることこそが最も有効だ。人の人に対する残虐行為は長い間、道徳的解釈の対象とされてきた。もし残虐行為が何かの力によって減少していることがわかれば、それを因果関係の問題として扱うことが可能になる。「なぜ戦争が起きるのか?」と問う代わりに、「なぜ平和があるのか?」と問うこともできる。人間がどんな間違いを犯してきたかばかりを問題にするのではなく、どんな正しい行いをしてきたかに焦点を当てることもできる。なぜなら人間は、たしかに正しいこともしてきたのであり、それが具体的に何なのかを知るのは良いことにちがいないからである。
なぜ暴力の研究に取り組んでいるのか、これまで多くの人に質問された。はっきりさせておこう。人間の本性を研究する者にとって、暴力は当然の関心事であるからだ。暴力が減少していることを最初に教えてくれたのは、マーティン・デイリー、マーゴ・ウィルソン著『殺人』(邦訳『人が人を殺すとき』)という進化心理学の古典だった。著者らはこの本で、非国家社会では暴力的な死を遂げる人の割合が高く、中世から現在までの間に殺人件数は減少していることを検証している。私はこれまで何冊かの著書のなかで、こうした下降傾向とともに、奴隷制や専制政治、残虐な刑罰などが廃止されるという西洋の歴史における人道的発展を取り上げ、道徳的進歩は人間の心に対する生物学的アプローチとも、人間性の邪悪な側面を認めることとも矛盾しないという考えを支持してきた。そして二〇〇七年に、ウェブサイト〈エッジ〉が毎年行っている質問-その年は「あなたは何について楽観していますか?」だった--に答えたときも、私は暴力の減少をあげた。すると思わぬ反響があり、歴史犯罪学や国際学の研究者から、私が理解していた以上に、暴力が歴史的に減少してきた事実を裏づける証拠が豊富にあることを教えられたのだった。正当に評価されていない、語るべき物語があることを私が確信したのは、彼らが提供してくれたデータのおかげだったのである。