未唯への手紙
未唯への手紙
四つの善なる天使、五つの歴史的な力について
『暴力の人類史』より
本書『暴力の人類史』は、六つの傾向、五つの内なる悪魔、四つの善なる天使、そして五つの歴史的な力についての物語である。
四つの善なる天使(第9章)について。人間は本来的に善ではない--同時に、本来的に悪でもない--が、暴力を回避し、協調や利他的行動へと向かおうとする動機は生まれながらに備わっている。まず第一の共感(とくに同情的関心という意味での)は、他人の痛みを感じ取り、他人と自分の利害を一致させようとする心の動きである。第二のセルフコントロールは、衝動にもとづいて行動した結果を予想し、その行動を抑えようとする心の動きを指す。第三の道徳感覚は、ある文化における人間同士の相互関係を規定する一連の規範やタブーを正当と認めるものであり、暴力を減少させる場合もある一方で、(その規範が部族的、権威主義的、または極度に厳格である場合はとくに)暴力を増大させることもしばしばある。そして第四の理性の機能は、私たちを偏狭な視点から抜け出させ、自分の生き方について省みることを促して、より良い状態になるにはどうすぺきかを考えさせ、人間性のほかの「天使」たちを活用する方向へ私たちを導く。本書では、ホモサピエンスがその歴史のなかで最近、ゲノムの変化という生物学的な意味で、文字通り暴力性を減ずる方向に進化した可能性を検証している部分もある。だが本書の主眼はあくまで、真に環境的な変容--言いかえれば、固定した人間性とさまざまな形で絡み合ってきた歴史的状況における変化にある。
さらに、五つの歴史的な力(第10章)について。最後の章では、どのような外生的な力が平和を好む人間の動機を支持し、複数の面において暴力の減少を促進したかを検証することによって、人間の心理と歴史をふたたび結びつけることを試みる。第一の力はリグァイアサン、すなわち合法的な力の行使を独占する国家と司法制度だ。この力は、搾取的攻撃への衝動を鎮め、復讐への衝動を抑制し、あらゆる当事者に自分は天使の側にいると信じ込ませる独善的な偏見を阻止する。第二の力は通商で、これはすべての人が勝つことのできるプラスサム・ゲームである。科学技術の進歩によって、商品やアイディアの交換がそれまでより遠距離間で、また規模の大きい取引相手同士で可能になるにつれて、「他の人びと」は死んでいるより生きているほうが価値が高くなるとともに、悪魔扱いしたり、非人間的に扱う対象にはなりにくくなる。第三の力は女性化。これは、さまざまな文化が女性の利益や価値を尊重する方向に向かってきたプロセスを指す。暴力はおおむね男性の気晴らしであるため、女性に力を与える社会は暴力を美化することを避ける傾向にあり、社会的な足場をもたない若い男たちの危険なサブカルチャーを生み出すことも少なくなる。第四の力はコスモポリタニズムだ。たとえば読み書き能力や移動性の向上、そしてマスメディアの発達により、人びとは自分とは異なる人びとの視点に立ち、そうした人びとを認める共感の領域を広げることができるようになる。そして第五の力は、理性のエスカレーターだ。知識や合理性を人間に関する事柄に適用する度合いが高まるにしたがって、人びとは暴力の連鎖がいかに不毛であるかを認識し、自分の利益を他人の利益より優先する考え方を改め、暴力を勝つための争いではなく、解決すべき問題であるととらえ直すことを余儀なくされる。
暴力が減少していることを認識すると、世界の見え方が変わってくる。過去の時代はそれほど無垢ではないし、現在はそれほど邪悪で暗くはない、と思えてくるのだ。そして私たちの祖先にとっては非現実的な夢でしかなかったささやかな共存の恵みを、ありかたいものとして評価するようになる--公園で遊ぶ肌の色の違う夫婦と子どもの姿しかり、軍の最高司令官をきつい冗談でこき下ろすコメディアンしかり、一触即発の危機を戦争へとエスカレートさせることなく、すみやかに身を引く国しかり。こうした変化は決して自己満足的なものではない。私たちが今日ある平和を享受できるのは、過去の世代の人びとが暴力の蔓延する状況に戦慄し、なんどかそれを減らそうと努力したからであり、だからこそ私たちは今日も残る暴力を減らすために努めなければならない。そうした努力が価値あるぢのだと確信するには、暴力の減少を認めることこそが最も有効だ。人の人に対する残虐行為は長い間、道徳的解釈の対象とされてきた。もし残虐行為が何かの力によって減少していることがわかれば、それを因果関係の問題として扱うことが可能になる。「なぜ戦争が起きるのか?」と問う代わりに、「なぜ平和があるのか?」と問うこともできる。人間がどんな間違いを犯してきたかばかりを問題にするのではなく、どんな正しい行いをしてきたかに焦点を当てることもできる。なぜなら人間は、たしかに正しいこともしてきたのであり、それが具体的に何なのかを知るのは良いことにちがいないからである。
なぜ暴力の研究に取り組んでいるのか、これまで多くの人に質問された。はっきりさせておこう。人間の本性を研究する者にとって、暴力は当然の関心事であるからだ。暴力が減少していることを最初に教えてくれたのは、マーティン・デイリー、マーゴ・ウィルソン著『殺人』(邦訳『人が人を殺すとき』)という進化心理学の古典だった。著者らはこの本で、非国家社会では暴力的な死を遂げる人の割合が高く、中世から現在までの間に殺人件数は減少していることを検証している。私はこれまで何冊かの著書のなかで、こうした下降傾向とともに、奴隷制や専制政治、残虐な刑罰などが廃止されるという西洋の歴史における人道的発展を取り上げ、道徳的進歩は人間の心に対する生物学的アプローチとも、人間性の邪悪な側面を認めることとも矛盾しないという考えを支持してきた。そして二〇〇七年に、ウェブサイト〈エッジ〉が毎年行っている質問-その年は「あなたは何について楽観していますか?」だった--に答えたときも、私は暴力の減少をあげた。すると思わぬ反響があり、歴史犯罪学や国際学の研究者から、私が理解していた以上に、暴力が歴史的に減少してきた事実を裏づける証拠が豊富にあることを教えられたのだった。正当に評価されていない、語るべき物語があることを私が確信したのは、彼らが提供してくれたデータのおかげだったのである。
本書『暴力の人類史』は、六つの傾向、五つの内なる悪魔、四つの善なる天使、そして五つの歴史的な力についての物語である。
四つの善なる天使(第9章)について。人間は本来的に善ではない--同時に、本来的に悪でもない--が、暴力を回避し、協調や利他的行動へと向かおうとする動機は生まれながらに備わっている。まず第一の共感(とくに同情的関心という意味での)は、他人の痛みを感じ取り、他人と自分の利害を一致させようとする心の動きである。第二のセルフコントロールは、衝動にもとづいて行動した結果を予想し、その行動を抑えようとする心の動きを指す。第三の道徳感覚は、ある文化における人間同士の相互関係を規定する一連の規範やタブーを正当と認めるものであり、暴力を減少させる場合もある一方で、(その規範が部族的、権威主義的、または極度に厳格である場合はとくに)暴力を増大させることもしばしばある。そして第四の理性の機能は、私たちを偏狭な視点から抜け出させ、自分の生き方について省みることを促して、より良い状態になるにはどうすぺきかを考えさせ、人間性のほかの「天使」たちを活用する方向へ私たちを導く。本書では、ホモサピエンスがその歴史のなかで最近、ゲノムの変化という生物学的な意味で、文字通り暴力性を減ずる方向に進化した可能性を検証している部分もある。だが本書の主眼はあくまで、真に環境的な変容--言いかえれば、固定した人間性とさまざまな形で絡み合ってきた歴史的状況における変化にある。
さらに、五つの歴史的な力(第10章)について。最後の章では、どのような外生的な力が平和を好む人間の動機を支持し、複数の面において暴力の減少を促進したかを検証することによって、人間の心理と歴史をふたたび結びつけることを試みる。第一の力はリグァイアサン、すなわち合法的な力の行使を独占する国家と司法制度だ。この力は、搾取的攻撃への衝動を鎮め、復讐への衝動を抑制し、あらゆる当事者に自分は天使の側にいると信じ込ませる独善的な偏見を阻止する。第二の力は通商で、これはすべての人が勝つことのできるプラスサム・ゲームである。科学技術の進歩によって、商品やアイディアの交換がそれまでより遠距離間で、また規模の大きい取引相手同士で可能になるにつれて、「他の人びと」は死んでいるより生きているほうが価値が高くなるとともに、悪魔扱いしたり、非人間的に扱う対象にはなりにくくなる。第三の力は女性化。これは、さまざまな文化が女性の利益や価値を尊重する方向に向かってきたプロセスを指す。暴力はおおむね男性の気晴らしであるため、女性に力を与える社会は暴力を美化することを避ける傾向にあり、社会的な足場をもたない若い男たちの危険なサブカルチャーを生み出すことも少なくなる。第四の力はコスモポリタニズムだ。たとえば読み書き能力や移動性の向上、そしてマスメディアの発達により、人びとは自分とは異なる人びとの視点に立ち、そうした人びとを認める共感の領域を広げることができるようになる。そして第五の力は、理性のエスカレーターだ。知識や合理性を人間に関する事柄に適用する度合いが高まるにしたがって、人びとは暴力の連鎖がいかに不毛であるかを認識し、自分の利益を他人の利益より優先する考え方を改め、暴力を勝つための争いではなく、解決すべき問題であるととらえ直すことを余儀なくされる。
暴力が減少していることを認識すると、世界の見え方が変わってくる。過去の時代はそれほど無垢ではないし、現在はそれほど邪悪で暗くはない、と思えてくるのだ。そして私たちの祖先にとっては非現実的な夢でしかなかったささやかな共存の恵みを、ありかたいものとして評価するようになる--公園で遊ぶ肌の色の違う夫婦と子どもの姿しかり、軍の最高司令官をきつい冗談でこき下ろすコメディアンしかり、一触即発の危機を戦争へとエスカレートさせることなく、すみやかに身を引く国しかり。こうした変化は決して自己満足的なものではない。私たちが今日ある平和を享受できるのは、過去の世代の人びとが暴力の蔓延する状況に戦慄し、なんどかそれを減らそうと努力したからであり、だからこそ私たちは今日も残る暴力を減らすために努めなければならない。そうした努力が価値あるぢのだと確信するには、暴力の減少を認めることこそが最も有効だ。人の人に対する残虐行為は長い間、道徳的解釈の対象とされてきた。もし残虐行為が何かの力によって減少していることがわかれば、それを因果関係の問題として扱うことが可能になる。「なぜ戦争が起きるのか?」と問う代わりに、「なぜ平和があるのか?」と問うこともできる。人間がどんな間違いを犯してきたかばかりを問題にするのではなく、どんな正しい行いをしてきたかに焦点を当てることもできる。なぜなら人間は、たしかに正しいこともしてきたのであり、それが具体的に何なのかを知るのは良いことにちがいないからである。
なぜ暴力の研究に取り組んでいるのか、これまで多くの人に質問された。はっきりさせておこう。人間の本性を研究する者にとって、暴力は当然の関心事であるからだ。暴力が減少していることを最初に教えてくれたのは、マーティン・デイリー、マーゴ・ウィルソン著『殺人』(邦訳『人が人を殺すとき』)という進化心理学の古典だった。著者らはこの本で、非国家社会では暴力的な死を遂げる人の割合が高く、中世から現在までの間に殺人件数は減少していることを検証している。私はこれまで何冊かの著書のなかで、こうした下降傾向とともに、奴隷制や専制政治、残虐な刑罰などが廃止されるという西洋の歴史における人道的発展を取り上げ、道徳的進歩は人間の心に対する生物学的アプローチとも、人間性の邪悪な側面を認めることとも矛盾しないという考えを支持してきた。そして二〇〇七年に、ウェブサイト〈エッジ〉が毎年行っている質問-その年は「あなたは何について楽観していますか?」だった--に答えたときも、私は暴力の減少をあげた。すると思わぬ反響があり、歴史犯罪学や国際学の研究者から、私が理解していた以上に、暴力が歴史的に減少してきた事実を裏づける証拠が豊富にあることを教えられたのだった。正当に評価されていない、語るべき物語があることを私が確信したのは、彼らが提供してくれたデータのおかげだったのである。
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六つの傾向、五つの内なる悪魔
『暴力の人類史』より
本書『暴力の人類史』は、六つの傾向、五つの内なる悪魔、四つの善なる天使、そして五つの歴史的な力についての物語である。
まず六つの動向(第2章~第7章)について。人類の暴力性からの後退は数多くの変化や発展によって構成されているが、それらにある一定の一貫性をもたせるため、私はそれを六つの動向にまとめた。
第一の動向は、紀元前五〇〇〇年ごろから数千年単位で起きた変化だ。人類の進化史の大半を占める、狩猟・採集および栽培を基盤とする統治機構のない社会から、都市や統治機構をもつ農耕社会への移行がこれにあたる。この変化によって、人びとの生活を原始的な状態にとどめていた日常的な襲撃や争いが減少し、暴力的な死を遂げる人の赦が五分の一ほどに減った。この変化を私は「平和化のプロセス」と呼んでいる。
二つ目は五〇〇年以上にわたって起きた変化で、ヨーロッパで最も顕著に見られたものだ。中世後半から二〇世紀の間に、ヨーロッパ諸国では殺人の発生率が一〇~五〇分の一に減少した。ドイツの社会学者ノルベルト・エリアスはその古典的著書『文明化の過程』で、この驚くべき減少は、寄せ集め的に存在していた封建領土が大きな王国に統合され、中央集権的な統治と商業の社会基盤ができあがったことに起因するとしている。エリアスに倣って、私もこの動向を「文明化のプロセス」と名づけている。
三つ目の変化は数世紀というタイムスパンで起きたもので、その始まりは一七~一八世紀の理性の時代とヨーロッパ啓蒙主義の時代にある(もっとも、その先例は古代ギリシャとルネサンスにあったし、同様の変化は世界各地に見られる)。この時代には初めて専制政治や奴隷制、拷問、迷信による殺人、残虐な刑罰、動物に対する残虐行為など、社会的に認められた暴力形態を廃止するための組織的運動が起こるとともに、初めて系統的な平和主義の動きが見られた。歴史学者はときに、この移行を「人道主義革命」と呼ぶ。
四つ目の大きな変化は第二次世界大戦後に起きた。戦後から現在までの三分の二世紀の間に、人類史における未曽有の進展が見られた。超大国、そして先進国の大部分が互いに戦争することをやめたのだ。歴史学者はこの喜ばしい状況を「長い平和」と呼んでいる。
五つ目の動向も武力衝突に関するものだが、四つ目ほど堅固なものではない。ニュースをよく読んでいる人には信じがたいかもしれないが、一九八九年に冷戦が終結した後、あらゆる種類の組織的な紛争や戦闘--内戦、ジェノサイド、独裁政権による弾圧、テロ攻撃--は世界中で減少している。この歓迎すべき動向がまだ暫定的なものであることをふまえて、私はそれを「新しい平和」と呼ぶことにする。
六つ目の変化は、第二次大戦後、とりわけ一九四八年の世界人権官言以後に見られるもので、少数民族、女性、子ども、同性愛者、そして動物などに向けられた小規模な暴力に対する嫌悪感の増大を指す。一九五〇年代末以降今日にいたるまで、公民権、女性の権利、子どもの権利、同性愛者の権利、動物の権利など、人権から派生したさまざまな権利を擁護する運動が次々と起きてきたことをふまえ、私はこれを「権利革命」と呼ぶことにする。
次に五つの内なる悪魔(第8章)について。人間には内的な攻撃衝動(死の本能あるいは血への渇望)があり、その衝動はしだいに高まるため一定期間ごとに放出する必要があるという、いわゆる暴力の「水圧モデル」を暗黙のうちに信じている人は少なくない。だが暴力の心理に関する現代科学の知見は、これとはかけ離れている。攻撃は何か単一の動機によって行われるものではなく、もちろん内的衝動の高まりによるものでもない。攻撃はいくつかの心理学的システムによって生み出され、それぞれが異なる環境誘因や内的論理、神経生物学的基盤、社会的分布をもつ。第8章ではその五つのシステムについて説明する。一つ目は捕食的または道具的暴力で、これは単純に何らかの目的のための実際的手段として行われる暴力である。二つ目はドミナンス、すなわち権威や名声、栄誉、権力などを求める衝動であり、人間関係におけるマッチョな態度という形をとることもあれば、人種的・民族的・宗教的あるいはナショナルな集団間での覇権争いという形をとることもある。三つ目のリベンジは、仕返しや懲罰、正義のための道徳的衝動を増幅させる。四つ目のサディズムは他人の苦しみから快楽を得ること。そして五つ目のイデオロギーは、ある人びとの間で共有される信念体系で、通常何らかのュートピア構想をともない、無制限の善を追求するために無制限の暴力を行使することが正当化される。
次に四つの善なる天使(第9章)について。人間は本来的に善ではない--同時に、本来的に悪でもない--が、暴力を回避し、協調や利他的行動へと向かおうとする動機は生まれながらに備わっている。まず第一の共感(とくに同情的関心という意味での)は、他人の痛みを感じ取り、他人と自分の利害を一致させようとする心の動きである。第二のセルフコントロールは、衝動にもとづいて行動した結果を予想し、その行動を抑えようとする心の動きを指す。第三の道徳感覚は、ある文化における人間同士の相互関係を規定する一連の規範やタブーを正当と認めるものであり、暴力を減少させる場合もある一方で、(その規範が部族的、権威主義的、または極度に厳格である場合はとくに)暴力を増大させることもしばしばある。そして第四の理性の機能は、私たちを偏狭な視点から抜け出させ、自分の生き方について省みることを促して、より良い状態になるにはどうすぺきかを考えさせ、人間性のほかの「天使」たちを活用する方向へ私たちを導く。本書では、ホモサピエンスがその歴史のなかで最近、ゲノムの変化という生物学的な意味で、文字通り暴力性を減ずる方向に進化した可能性を検証している部分もある。だが本書の主眼はあくまで、真に環境的な変容--言いかえれば、固定した人間性とさまざまな形で絡み合ってきた歴史的状況における変化にある。
本書『暴力の人類史』は、六つの傾向、五つの内なる悪魔、四つの善なる天使、そして五つの歴史的な力についての物語である。
まず六つの動向(第2章~第7章)について。人類の暴力性からの後退は数多くの変化や発展によって構成されているが、それらにある一定の一貫性をもたせるため、私はそれを六つの動向にまとめた。
第一の動向は、紀元前五〇〇〇年ごろから数千年単位で起きた変化だ。人類の進化史の大半を占める、狩猟・採集および栽培を基盤とする統治機構のない社会から、都市や統治機構をもつ農耕社会への移行がこれにあたる。この変化によって、人びとの生活を原始的な状態にとどめていた日常的な襲撃や争いが減少し、暴力的な死を遂げる人の赦が五分の一ほどに減った。この変化を私は「平和化のプロセス」と呼んでいる。
二つ目は五〇〇年以上にわたって起きた変化で、ヨーロッパで最も顕著に見られたものだ。中世後半から二〇世紀の間に、ヨーロッパ諸国では殺人の発生率が一〇~五〇分の一に減少した。ドイツの社会学者ノルベルト・エリアスはその古典的著書『文明化の過程』で、この驚くべき減少は、寄せ集め的に存在していた封建領土が大きな王国に統合され、中央集権的な統治と商業の社会基盤ができあがったことに起因するとしている。エリアスに倣って、私もこの動向を「文明化のプロセス」と名づけている。
三つ目の変化は数世紀というタイムスパンで起きたもので、その始まりは一七~一八世紀の理性の時代とヨーロッパ啓蒙主義の時代にある(もっとも、その先例は古代ギリシャとルネサンスにあったし、同様の変化は世界各地に見られる)。この時代には初めて専制政治や奴隷制、拷問、迷信による殺人、残虐な刑罰、動物に対する残虐行為など、社会的に認められた暴力形態を廃止するための組織的運動が起こるとともに、初めて系統的な平和主義の動きが見られた。歴史学者はときに、この移行を「人道主義革命」と呼ぶ。
四つ目の大きな変化は第二次世界大戦後に起きた。戦後から現在までの三分の二世紀の間に、人類史における未曽有の進展が見られた。超大国、そして先進国の大部分が互いに戦争することをやめたのだ。歴史学者はこの喜ばしい状況を「長い平和」と呼んでいる。
五つ目の動向も武力衝突に関するものだが、四つ目ほど堅固なものではない。ニュースをよく読んでいる人には信じがたいかもしれないが、一九八九年に冷戦が終結した後、あらゆる種類の組織的な紛争や戦闘--内戦、ジェノサイド、独裁政権による弾圧、テロ攻撃--は世界中で減少している。この歓迎すべき動向がまだ暫定的なものであることをふまえて、私はそれを「新しい平和」と呼ぶことにする。
六つ目の変化は、第二次大戦後、とりわけ一九四八年の世界人権官言以後に見られるもので、少数民族、女性、子ども、同性愛者、そして動物などに向けられた小規模な暴力に対する嫌悪感の増大を指す。一九五〇年代末以降今日にいたるまで、公民権、女性の権利、子どもの権利、同性愛者の権利、動物の権利など、人権から派生したさまざまな権利を擁護する運動が次々と起きてきたことをふまえ、私はこれを「権利革命」と呼ぶことにする。
次に五つの内なる悪魔(第8章)について。人間には内的な攻撃衝動(死の本能あるいは血への渇望)があり、その衝動はしだいに高まるため一定期間ごとに放出する必要があるという、いわゆる暴力の「水圧モデル」を暗黙のうちに信じている人は少なくない。だが暴力の心理に関する現代科学の知見は、これとはかけ離れている。攻撃は何か単一の動機によって行われるものではなく、もちろん内的衝動の高まりによるものでもない。攻撃はいくつかの心理学的システムによって生み出され、それぞれが異なる環境誘因や内的論理、神経生物学的基盤、社会的分布をもつ。第8章ではその五つのシステムについて説明する。一つ目は捕食的または道具的暴力で、これは単純に何らかの目的のための実際的手段として行われる暴力である。二つ目はドミナンス、すなわち権威や名声、栄誉、権力などを求める衝動であり、人間関係におけるマッチョな態度という形をとることもあれば、人種的・民族的・宗教的あるいはナショナルな集団間での覇権争いという形をとることもある。三つ目のリベンジは、仕返しや懲罰、正義のための道徳的衝動を増幅させる。四つ目のサディズムは他人の苦しみから快楽を得ること。そして五つ目のイデオロギーは、ある人びとの間で共有される信念体系で、通常何らかのュートピア構想をともない、無制限の善を追求するために無制限の暴力を行使することが正当化される。
次に四つの善なる天使(第9章)について。人間は本来的に善ではない--同時に、本来的に悪でもない--が、暴力を回避し、協調や利他的行動へと向かおうとする動機は生まれながらに備わっている。まず第一の共感(とくに同情的関心という意味での)は、他人の痛みを感じ取り、他人と自分の利害を一致させようとする心の動きである。第二のセルフコントロールは、衝動にもとづいて行動した結果を予想し、その行動を抑えようとする心の動きを指す。第三の道徳感覚は、ある文化における人間同士の相互関係を規定する一連の規範やタブーを正当と認めるものであり、暴力を減少させる場合もある一方で、(その規範が部族的、権威主義的、または極度に厳格である場合はとくに)暴力を増大させることもしばしばある。そして第四の理性の機能は、私たちを偏狭な視点から抜け出させ、自分の生き方について省みることを促して、より良い状態になるにはどうすぺきかを考えさせ、人間性のほかの「天使」たちを活用する方向へ私たちを導く。本書では、ホモサピエンスがその歴史のなかで最近、ゲノムの変化という生物学的な意味で、文字通り暴力性を減ずる方向に進化した可能性を検証している部分もある。だが本書の主眼はあくまで、真に環境的な変容--言いかえれば、固定した人間性とさまざまな形で絡み合ってきた歴史的状況における変化にある。
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ナチスの社会福祉政策
『統治新論』より ヴァイマルからナチスヘ
--ナチスの社会福祉政策で際立ったものはありますか。誰もが支持したような政策とか。
大竹--主なものとしては、やはり住宅建設やアウトバーン建設などの公共投資。結婚したひとに無利子で融資し、出産した子どもの数に応じて返済金を減額する結婚貸付なんていう制度もありました。当然、女性の出産奨励というナチスの母性保護政策にそった制度です。これによって、それまで働いていた女性の多くが専業主婦として家庭に入り、彼女らの抜けた職場が男性失業者によって補われた。ナチス時代の失業率低下にはこうした数字のトリックもあります。専業主婦は失業者として換算されませんから。
國分--あとレクリエーションとか。
大竹--そうですね。ナチスは余暇の利用にも積極的でした。有名なのは、労働者のためのレクリエーション組織としてつくられた歓喜力行団です。演劇やコンサート、スポーツ大会やハイキングなどのほか、大型客船で大西洋クルーズをやったりしています。
國分--それで多くのひとが海外旅行にはじめて行ったんですよね。中心は労働者対策ということですよね。支持していたのは中間層だといわれていますか。
大竹--どういう社会層がナチスを支持していたかについては近年いろいろ研究が進んでいるようですが、オーソドックスな説によれば、一九二〇年代に急増した新中間層です。
國分--サラリーマンですよね。
大竹--そうです。資本家に雇用されているという点では労働者階級と変わりませんが、賃金はブルーカラーの労働者よりもよいので、多少生活に余裕があり、社会的ステータスの高さも自負できる。ジークフリート・クラカウアーが『サラリーマン』(一九三〇)で描き出したような生態のひとびとです。クラカウアーやエルンスト・ブロッホは、実態としてはプロレタリアートであるにもかかわらず、それに不釣り合いなブルジョワ意識をもっている彼らのライフスタイルを問題にしています。彼らはサラリーマンをこうした「虚偽意識」から目覚めさせ、革命に誘おうとするわけですが……。
國分--まぁ、マルクス主義者としてはどうしてもそういう対応にならざるをえないんでしょうね。
大竹--いずれにせよ、そういった新中間層が大恐慌によって失業の危機に直面し、没落不安から雪崩を打ってナチス支持に流れる。これが一般的な説です。ただ、労働者層や農民層も少なからず支持していたという説もあり、そう単純ではありませんが。
國分--この時期に「サラリーマン」という新中間層が出てきたことの意味は本当に大きいと思います。僕が『暇と退屈の倫理学』(二〇一一)で扱ったバートランド・ラッセルの『幸福論』は一九三〇年の出版です。そのなかでラッセルは、飢餓や戦争といった巨大な不幸ではなくて、都市生活者のぼんやりとした不幸を論じた。おそらく、ラッセルはイギリスにもあらわれはじめた新中間層の存在と彼らを襲っている新種の不幸に気づいていた。つまり退屈の問題ですね。まったく同じ年、一九三〇年にフライブルクではマルティン・ハイデガーが『形而上学の根本諸概念』と題された講義をおこない、同じく退屈を論じた。
ラッセルとハイデガーというのは哲学的にも政治的にも犬猿の仲であるわけですが、その彼らがイギリスとドイツで、あの時代の都市生活者の生の非充実感という問題を同時に論じていたというのは非常に興味深いことだと思います。新中間層の登場は非常に大きな問題を提起していたんでしょう。
大竹--日々の労働に追われるだけのそれまでの労働者とは違って、余暇を享受できる新中間層の出現は大きいと思います。いま触れられた國分さんの『暇と退屈の倫理学』でも扱われていますが、この時期にハイデガーが「退屈」について哲学的に考察しているのも、こうした時代背景があってのことでしょう。生活に余裕が生まれても、それがなんとなく非本来的な生活であるという感覚に取り憑かれる。ナチスのレクリエーション政策は、新中間層のそうした漠然とした不安感を、生の充実感で満たそうとしたのかもしれません。アルベルト・シュペーアの建築やレニ・リーフェンシュタールの映画などとの関連ですでにさんざん指摘されているナチスの「政治の美学化」に通じるものがある。
國分--アウトバーンもそうでしょう。週末にフォルクスワーゲン(国産車)で田舎に行って、都市で非本来的な生活をしているひとたちが自然と戯れて本来的な生活をし、都市に戻ってまた労働する。つまり、技術によって本来性を回復する。実はラッセルも、大地から切り離されては人間は生きてはいけない、大地は大切だと、哲学的には嫌悪しているハイデガーとまったく同じことをいっている。
大竹--「本来性に戻れ」というのは保守主義者の常套句ですね。ただ、当時の都市生活者たちがふと見舞われることのあった「退屈」の感覚については左派の思想家たちも問題にしています。たとえばクラカウアーは、ヴァイマル大衆文化を批評したエッセイのなかで、「ありきたりの退屈」を超えた「徹底的な退屈」や、映画における「気散じ」の経験に触れ、そこに革命的なュートピアの可能性を見ようとしています。これはおそらくベソヤミンの『複製技術時代の芸術作品』(一九三六)に影響を与えたと思われます。結局、映画などの大衆文化を革命へのきっかけにしようとする彼らの企図は、ナチスを前にして無力だったわけだけど。
國分--もちろん、社会経済的な条件は違っていて、イギリスよりもドイツのほうが悲惨になっていく。行政権が肥大化してレジャーまでもがその対象になっていくという事態が、新中間層の生のありようと重なっていたことは押さえておきたいと思います。
--ナチスの社会福祉政策で際立ったものはありますか。誰もが支持したような政策とか。
大竹--主なものとしては、やはり住宅建設やアウトバーン建設などの公共投資。結婚したひとに無利子で融資し、出産した子どもの数に応じて返済金を減額する結婚貸付なんていう制度もありました。当然、女性の出産奨励というナチスの母性保護政策にそった制度です。これによって、それまで働いていた女性の多くが専業主婦として家庭に入り、彼女らの抜けた職場が男性失業者によって補われた。ナチス時代の失業率低下にはこうした数字のトリックもあります。専業主婦は失業者として換算されませんから。
國分--あとレクリエーションとか。
大竹--そうですね。ナチスは余暇の利用にも積極的でした。有名なのは、労働者のためのレクリエーション組織としてつくられた歓喜力行団です。演劇やコンサート、スポーツ大会やハイキングなどのほか、大型客船で大西洋クルーズをやったりしています。
國分--それで多くのひとが海外旅行にはじめて行ったんですよね。中心は労働者対策ということですよね。支持していたのは中間層だといわれていますか。
大竹--どういう社会層がナチスを支持していたかについては近年いろいろ研究が進んでいるようですが、オーソドックスな説によれば、一九二〇年代に急増した新中間層です。
國分--サラリーマンですよね。
大竹--そうです。資本家に雇用されているという点では労働者階級と変わりませんが、賃金はブルーカラーの労働者よりもよいので、多少生活に余裕があり、社会的ステータスの高さも自負できる。ジークフリート・クラカウアーが『サラリーマン』(一九三〇)で描き出したような生態のひとびとです。クラカウアーやエルンスト・ブロッホは、実態としてはプロレタリアートであるにもかかわらず、それに不釣り合いなブルジョワ意識をもっている彼らのライフスタイルを問題にしています。彼らはサラリーマンをこうした「虚偽意識」から目覚めさせ、革命に誘おうとするわけですが……。
國分--まぁ、マルクス主義者としてはどうしてもそういう対応にならざるをえないんでしょうね。
大竹--いずれにせよ、そういった新中間層が大恐慌によって失業の危機に直面し、没落不安から雪崩を打ってナチス支持に流れる。これが一般的な説です。ただ、労働者層や農民層も少なからず支持していたという説もあり、そう単純ではありませんが。
國分--この時期に「サラリーマン」という新中間層が出てきたことの意味は本当に大きいと思います。僕が『暇と退屈の倫理学』(二〇一一)で扱ったバートランド・ラッセルの『幸福論』は一九三〇年の出版です。そのなかでラッセルは、飢餓や戦争といった巨大な不幸ではなくて、都市生活者のぼんやりとした不幸を論じた。おそらく、ラッセルはイギリスにもあらわれはじめた新中間層の存在と彼らを襲っている新種の不幸に気づいていた。つまり退屈の問題ですね。まったく同じ年、一九三〇年にフライブルクではマルティン・ハイデガーが『形而上学の根本諸概念』と題された講義をおこない、同じく退屈を論じた。
ラッセルとハイデガーというのは哲学的にも政治的にも犬猿の仲であるわけですが、その彼らがイギリスとドイツで、あの時代の都市生活者の生の非充実感という問題を同時に論じていたというのは非常に興味深いことだと思います。新中間層の登場は非常に大きな問題を提起していたんでしょう。
大竹--日々の労働に追われるだけのそれまでの労働者とは違って、余暇を享受できる新中間層の出現は大きいと思います。いま触れられた國分さんの『暇と退屈の倫理学』でも扱われていますが、この時期にハイデガーが「退屈」について哲学的に考察しているのも、こうした時代背景があってのことでしょう。生活に余裕が生まれても、それがなんとなく非本来的な生活であるという感覚に取り憑かれる。ナチスのレクリエーション政策は、新中間層のそうした漠然とした不安感を、生の充実感で満たそうとしたのかもしれません。アルベルト・シュペーアの建築やレニ・リーフェンシュタールの映画などとの関連ですでにさんざん指摘されているナチスの「政治の美学化」に通じるものがある。
國分--アウトバーンもそうでしょう。週末にフォルクスワーゲン(国産車)で田舎に行って、都市で非本来的な生活をしているひとたちが自然と戯れて本来的な生活をし、都市に戻ってまた労働する。つまり、技術によって本来性を回復する。実はラッセルも、大地から切り離されては人間は生きてはいけない、大地は大切だと、哲学的には嫌悪しているハイデガーとまったく同じことをいっている。
大竹--「本来性に戻れ」というのは保守主義者の常套句ですね。ただ、当時の都市生活者たちがふと見舞われることのあった「退屈」の感覚については左派の思想家たちも問題にしています。たとえばクラカウアーは、ヴァイマル大衆文化を批評したエッセイのなかで、「ありきたりの退屈」を超えた「徹底的な退屈」や、映画における「気散じ」の経験に触れ、そこに革命的なュートピアの可能性を見ようとしています。これはおそらくベソヤミンの『複製技術時代の芸術作品』(一九三六)に影響を与えたと思われます。結局、映画などの大衆文化を革命へのきっかけにしようとする彼らの企図は、ナチスを前にして無力だったわけだけど。
國分--もちろん、社会経済的な条件は違っていて、イギリスよりもドイツのほうが悲惨になっていく。行政権が肥大化してレジャーまでもがその対象になっていくという事態が、新中間層の生のありようと重なっていたことは押さえておきたいと思います。
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母親の三回忌
所有権放棄に関する本がなかなかないですね。この部分に触れない未来はありえないのに、技術の夢ばかりです。
母親の三回忌で妹と姪とその双子
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