未唯への手紙
未唯への手紙
コミュニティ(地方自治体)主導の必要性
『ロスト近代』より 自然エネルギー導入をめぐる思想理念
こうしてみてくると、代替エネルギーの導入は、個人や企業の自生的な活動をベースとしながらも、地方自治体と国家の連携によってその欠点を補完していくことが、最も効率的であるように思われる。これが「自生化主義」の観点から見た場合の展望である。代替エネルギーの導入を、消費者や企業の自生的な活動に任せるだけでは、あまり大きな進展は望めない。別の問題として、そのような導入方法は、新たな階級問題を生みだすかもしれない。ニューヨークにおける「持続可能な南ブロンクス」の創始者マジョラ・カーターは、次のように述べている。
「世の中の人びとが抱く環境保護者のイメージとは、有機食品を食べ、プリウスを乗り回し、自宅にソーラーパネルを取り付けるような人間だ。サウス・ブロンクスなどの貧困地区の人々はそのような環境保護に加わることができない。「そんなことはできないし、そのためのお金もないし、望むことすらできない--正直なところ、望んでもいない」といったところだ。そんなやり方はうまくいかない。持続可能でグリーンな選択肢というものは、規模の経済を実現してこそ定着する。そのためには誰もが実行可能でなければならなら。」
ここでいう「誰もが実行可能な自然エネルギー」の導入とは、地方自治体の取り組みによって喚起されるのではないだろうか。住民の平均所得が低いところでは、自然エネルギーの導入が遅れる可能性がある。例えば北海道の場合、道民の一人当たりの年間所得は、全国平均よりも一〇%以上低い。市場メカニズムに任せるだけでは、自然エネルギーの導入は、遅れる可能性が高いであろう。
地方自治体が政策を打ち出さなければ、自然エネルギーの導入は、富裕層にはじまり、富裕層の特権に終わりかねない。例えば「ビジョン二○五〇」の提唱者である小宮山宏は、著書『地球持続の技術』やその他の著作で、(1)エネルギー効率を三倍にすること、(2)物資循環システムを構築すること、および、(3)自然エネルギーの利用を二倍に引き上げることの三つを提案している。ところがそのために私たちができる具体策となると、一枚ガラスを二枚ガラスにすれば電気代が半分になる、といった内容になる。[小宮山家では]「窓ガラスを複層ガラスにし、屋根と壁の断熱化を行った。それから、当時最新型の省エネタイプのエアコンに買い替え、ヒートポンプ給湯器を導入した。そして、屋根に太陽電池を設置した。さらに、ハイブリッド車に乗り換え、冷蔵庫も買い替えた。その結果、わが家のエネルギー消費量は二〇〇九年の段階で、前の家と比べて五八%削減された。太陽電池が二三%を供給しているため、トータルでは八一%の削減であ&。」
こうした「買い替え」に頼るだけでは、地球温暖化対策は、低所得層にまでなかなか普及しないように思われる。富裕層と貧困層のあいだの導入格差を解消するためには、地方自治体による積極的な自然エネルギー導入策が求められよう。「自生化主義」は、人々の自生的な変化をたんに期待するだけでなく、作為的な制度デザインの観点から、人々の自生的な調整力を促進する。そのために、政府と地方自治体の連携に対して、一定の期待を寄せるだろう。
むろん現在、地方自治体が温暖化対策を進めるには、さまざまな困難がある。例えば、地球温暖化防止のための政策は、住民の賛同を思ったほど得られず、多数決によって否決されてしまうかもしれない。アメリカのカリフォルニア州で生じたことは、住民投票によって、地方自治体レペルのグリーン・ニューディール政策が、否決されるという事態であった。共和党のシュワルツェネッガー知事は、二〇〇七年に、地球温暖化防止のための法律に署名した。ところがその数か月前の住民投票では、クリーン・エネルギーを推進するための法案「条例八七」は、反対多数で廃案に追い込まれていた。「条例八七」とは、石油会社が国土や沿岸部から抽出する原油や天然ガスに課税して、その税収をすべてクリーンーエネルギーのための研究開発にまわすという法案である。この法案に反対する石油会社やガス会社は、約一億ドルのキャンペーン費を投じて、税金は消費者価格に転化されると警告した。消費者価格への転化によって、ガソリン代や電気料金は急騰し、貧困層にとって打撃となるだろう。そのような警告のキャンペーンが成功したのであった。住民投票という手段で法案の是非を問う場合には、人々は、短期的な利害関心(ガソリン代と電気料金の高騰)を優先させて、クリーン・エネルギーに関する法案は通らないかもしれない。
こうしてみてくると、代替エネルギーの導入は、個人や企業の自生的な活動をベースとしながらも、地方自治体と国家の連携によってその欠点を補完していくことが、最も効率的であるように思われる。これが「自生化主義」の観点から見た場合の展望である。代替エネルギーの導入を、消費者や企業の自生的な活動に任せるだけでは、あまり大きな進展は望めない。別の問題として、そのような導入方法は、新たな階級問題を生みだすかもしれない。ニューヨークにおける「持続可能な南ブロンクス」の創始者マジョラ・カーターは、次のように述べている。
「世の中の人びとが抱く環境保護者のイメージとは、有機食品を食べ、プリウスを乗り回し、自宅にソーラーパネルを取り付けるような人間だ。サウス・ブロンクスなどの貧困地区の人々はそのような環境保護に加わることができない。「そんなことはできないし、そのためのお金もないし、望むことすらできない--正直なところ、望んでもいない」といったところだ。そんなやり方はうまくいかない。持続可能でグリーンな選択肢というものは、規模の経済を実現してこそ定着する。そのためには誰もが実行可能でなければならなら。」
ここでいう「誰もが実行可能な自然エネルギー」の導入とは、地方自治体の取り組みによって喚起されるのではないだろうか。住民の平均所得が低いところでは、自然エネルギーの導入が遅れる可能性がある。例えば北海道の場合、道民の一人当たりの年間所得は、全国平均よりも一〇%以上低い。市場メカニズムに任せるだけでは、自然エネルギーの導入は、遅れる可能性が高いであろう。
地方自治体が政策を打ち出さなければ、自然エネルギーの導入は、富裕層にはじまり、富裕層の特権に終わりかねない。例えば「ビジョン二○五〇」の提唱者である小宮山宏は、著書『地球持続の技術』やその他の著作で、(1)エネルギー効率を三倍にすること、(2)物資循環システムを構築すること、および、(3)自然エネルギーの利用を二倍に引き上げることの三つを提案している。ところがそのために私たちができる具体策となると、一枚ガラスを二枚ガラスにすれば電気代が半分になる、といった内容になる。[小宮山家では]「窓ガラスを複層ガラスにし、屋根と壁の断熱化を行った。それから、当時最新型の省エネタイプのエアコンに買い替え、ヒートポンプ給湯器を導入した。そして、屋根に太陽電池を設置した。さらに、ハイブリッド車に乗り換え、冷蔵庫も買い替えた。その結果、わが家のエネルギー消費量は二〇〇九年の段階で、前の家と比べて五八%削減された。太陽電池が二三%を供給しているため、トータルでは八一%の削減であ&。」
こうした「買い替え」に頼るだけでは、地球温暖化対策は、低所得層にまでなかなか普及しないように思われる。富裕層と貧困層のあいだの導入格差を解消するためには、地方自治体による積極的な自然エネルギー導入策が求められよう。「自生化主義」は、人々の自生的な変化をたんに期待するだけでなく、作為的な制度デザインの観点から、人々の自生的な調整力を促進する。そのために、政府と地方自治体の連携に対して、一定の期待を寄せるだろう。
むろん現在、地方自治体が温暖化対策を進めるには、さまざまな困難がある。例えば、地球温暖化防止のための政策は、住民の賛同を思ったほど得られず、多数決によって否決されてしまうかもしれない。アメリカのカリフォルニア州で生じたことは、住民投票によって、地方自治体レペルのグリーン・ニューディール政策が、否決されるという事態であった。共和党のシュワルツェネッガー知事は、二〇〇七年に、地球温暖化防止のための法律に署名した。ところがその数か月前の住民投票では、クリーン・エネルギーを推進するための法案「条例八七」は、反対多数で廃案に追い込まれていた。「条例八七」とは、石油会社が国土や沿岸部から抽出する原油や天然ガスに課税して、その税収をすべてクリーンーエネルギーのための研究開発にまわすという法案である。この法案に反対する石油会社やガス会社は、約一億ドルのキャンペーン費を投じて、税金は消費者価格に転化されると警告した。消費者価格への転化によって、ガソリン代や電気料金は急騰し、貧困層にとって打撃となるだろう。そのような警告のキャンペーンが成功したのであった。住民投票という手段で法案の是非を問う場合には、人々は、短期的な利害関心(ガソリン代と電気料金の高騰)を優先させて、クリーン・エネルギーに関する法案は通らないかもしれない。
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新自由主義化によって成功した北欧諸国
『ロスト近代』より 北欧型新自由主義の到来
大きな政府でも経済成長するようになってきた
従来、自由市場経済の支持者たちは、「小さな政府」こそが経済成長を導くと主張してきた。租税負担率を低くしたほうが、市場が活性化され、結果として国富が増大すると考えられてきた。ところが近年になって、どうもこの考え方が通用しない。諸国のデータをみると、八○年代からゼロ年代後半にかけて、大きな変化が生じている。
「租税負担率」と「経済成長率」の関係をみると、八○年代においては、たしかに租税負担率の低い国のほうが、経済成長率が高かった。ところが九〇年代になると、これら二つの指標の関係は中立的(無関係)となっている。ゼロ年代後半には、再び租税負担率の高い国の方が経済成長率において劣るようになるものの、標準的な偏差から大きく逸脱する国が増えてきた。租税負担率が四〇%前後の諸国では、経済成長率に大きな開きがある。
二つの項の相関関係を示すものであって、税金を高くすれば経済成長率が高くなるという因果関係を示しているのではない。あるいは別の問題として、実際の社会保障費は、租税負担率とは乖離している可能性もある。財政赤字でもって社会保障費を捻出している日本のような国は、たとえ租税負担率が低くても、すでに充実した社会保障を実現しているとみなすべきかもしれなり租税負担率のみに注目するとヽ実際の福祉サービスの水準を見誤るであろう。
ただ、こうした欠点を踏まえたうえで、経済成長率と政府規模の関係は、しだいに「偶然化」してきた、と理解することはできるだろう。政府を小さくしても、経済成長率が高まるわけではない。国富増大のための戦略として、「大きな政府」と「小さな政府」のどちらが望ましいのかについては、一概に言えなくなってきた。
もう一つ、「経済成長率」を「国富」の基準とする考え方にも、かげりがみえてきた。経済成長率よりも、「幸福度」のような指標によって、国富を考えるべきではないか。例えばロバート・ライシュは、著書『勝者の代償』のなかで、アメリカの勝ち組は、家族とすごす時間を犠牲にしながらニュー・エコノミーに適応してきた、と指摘している。あるいは、経済学者リチャードーイースタリンによれば、ある一定の生活水準を超えると、豊かさと幸福は両立しなくなるという(イースタリンの逆説)。
むろん、「大きな政府」にすれば、私たちの幸福度が増すというわけではないだろう。現在の北欧諸国が魅力的に見えるのは、それが「大きな政府」だからではない。北欧諸国は、この二〇年のあいだに、新自由主義の諸政策を大胆に導入してきた。検討すべきは、近年の北欧の諸国が、新自由主義化の政策とともに、どんな魅力を築いてきたのかという問題である。新自由主義の政策は、たんに経済成長率を高めるために採用されるのではない。新自由主義の政策は、もっと魅力的な理念と結びついているのかもしれない。
フィンランドの教育に学ぶ
義務教育に関しては、さすがにアメリカに学ぼうという論者は少なく、北欧諸国から学ぶべきだという論調が強い。しかし八○年代以降のフィンランドの教育は、次第に新自由主義的な政策を取り入れたがゆえに、成功したのだという。これに対してイギリスでは、新自由主義よりも「新保守主義」の政策を強権的に取り入れた結果として、あまり成果が上がらなかったという。
「新自由主義」とは、産業界のニーズに応じる教育であり、これに対して「新保守主義」とは、国家的管理の強化に応じる教育である。「新自由主義」は、例えば、伝統的な教科を否定して起業のための技能科目を導入し、「生きる力」を重んじる。あるいは、子どもたちが自ら学ぶことを奨励するために、コンピテンシーと呼ばれる知識の学び方を学ぶことを提唱する。これに対して「新保守主義」は、道徳的服従や伝統の再生を重んじて、教師が権威をもって教授することを重視する。あるいは、国家運営や職業訓練のために資するような知識や技能を身につけさせようとする。
このように、新自由主義の教育理念は、新保守主義のそれと大きく異なっている。フィンランドでは従来、「社会民主主義」の教育理念が追求されてきた。すなわち、「子ども中心主義」「平等」「連帯/協同」「個性の発達」「真理」「情緒的健康」などの諸価値が、追求されてきた。ところが近年になって、フィンランドは、新自由主義の教育へと転換を図ってきた。すなわち、「脱中央集権」「民営化/競争」「利潤」「学習到達度」「就職力」等々の理念へと、教育の目標を転換してきた。
具体的には例えば、フィンランドでは最近、次のような教育政策が導入されている。(1)学校の経営決定と運営責任は国家教育委員会ではなく地方自治体に移管する、(2)自由競争原理を取り入れ、学校選択制を導入する、(3)生徒の学習に即して指導する、(4)起業家的な技能をカリキュラムに含める、などの政策である。こうした改革の過程で、フィンランドでは、教育の現場である〈自治体/学校/教員/子ども〉に対して、大きな権限が与えられた。自己目標の設定と自己評価によって、自由と責任のある教育制度が実現されてきた。これは、国家が教育達成度の数値目標を掲げて「点取り競争」を強いるような管理方法とは大きく異なっている。こうした分権化と自治のモデルがフィンランドの教育を成功させたのだという。この評価が正しいとすれば、フィンランドの教育は、「新自由主義」の体現として成功したと言えるだろう。
大きな政府でも経済成長するようになってきた
従来、自由市場経済の支持者たちは、「小さな政府」こそが経済成長を導くと主張してきた。租税負担率を低くしたほうが、市場が活性化され、結果として国富が増大すると考えられてきた。ところが近年になって、どうもこの考え方が通用しない。諸国のデータをみると、八○年代からゼロ年代後半にかけて、大きな変化が生じている。
「租税負担率」と「経済成長率」の関係をみると、八○年代においては、たしかに租税負担率の低い国のほうが、経済成長率が高かった。ところが九〇年代になると、これら二つの指標の関係は中立的(無関係)となっている。ゼロ年代後半には、再び租税負担率の高い国の方が経済成長率において劣るようになるものの、標準的な偏差から大きく逸脱する国が増えてきた。租税負担率が四〇%前後の諸国では、経済成長率に大きな開きがある。
二つの項の相関関係を示すものであって、税金を高くすれば経済成長率が高くなるという因果関係を示しているのではない。あるいは別の問題として、実際の社会保障費は、租税負担率とは乖離している可能性もある。財政赤字でもって社会保障費を捻出している日本のような国は、たとえ租税負担率が低くても、すでに充実した社会保障を実現しているとみなすべきかもしれなり租税負担率のみに注目するとヽ実際の福祉サービスの水準を見誤るであろう。
ただ、こうした欠点を踏まえたうえで、経済成長率と政府規模の関係は、しだいに「偶然化」してきた、と理解することはできるだろう。政府を小さくしても、経済成長率が高まるわけではない。国富増大のための戦略として、「大きな政府」と「小さな政府」のどちらが望ましいのかについては、一概に言えなくなってきた。
もう一つ、「経済成長率」を「国富」の基準とする考え方にも、かげりがみえてきた。経済成長率よりも、「幸福度」のような指標によって、国富を考えるべきではないか。例えばロバート・ライシュは、著書『勝者の代償』のなかで、アメリカの勝ち組は、家族とすごす時間を犠牲にしながらニュー・エコノミーに適応してきた、と指摘している。あるいは、経済学者リチャードーイースタリンによれば、ある一定の生活水準を超えると、豊かさと幸福は両立しなくなるという(イースタリンの逆説)。
むろん、「大きな政府」にすれば、私たちの幸福度が増すというわけではないだろう。現在の北欧諸国が魅力的に見えるのは、それが「大きな政府」だからではない。北欧諸国は、この二〇年のあいだに、新自由主義の諸政策を大胆に導入してきた。検討すべきは、近年の北欧の諸国が、新自由主義化の政策とともに、どんな魅力を築いてきたのかという問題である。新自由主義の政策は、たんに経済成長率を高めるために採用されるのではない。新自由主義の政策は、もっと魅力的な理念と結びついているのかもしれない。
フィンランドの教育に学ぶ
義務教育に関しては、さすがにアメリカに学ぼうという論者は少なく、北欧諸国から学ぶべきだという論調が強い。しかし八○年代以降のフィンランドの教育は、次第に新自由主義的な政策を取り入れたがゆえに、成功したのだという。これに対してイギリスでは、新自由主義よりも「新保守主義」の政策を強権的に取り入れた結果として、あまり成果が上がらなかったという。
「新自由主義」とは、産業界のニーズに応じる教育であり、これに対して「新保守主義」とは、国家的管理の強化に応じる教育である。「新自由主義」は、例えば、伝統的な教科を否定して起業のための技能科目を導入し、「生きる力」を重んじる。あるいは、子どもたちが自ら学ぶことを奨励するために、コンピテンシーと呼ばれる知識の学び方を学ぶことを提唱する。これに対して「新保守主義」は、道徳的服従や伝統の再生を重んじて、教師が権威をもって教授することを重視する。あるいは、国家運営や職業訓練のために資するような知識や技能を身につけさせようとする。
このように、新自由主義の教育理念は、新保守主義のそれと大きく異なっている。フィンランドでは従来、「社会民主主義」の教育理念が追求されてきた。すなわち、「子ども中心主義」「平等」「連帯/協同」「個性の発達」「真理」「情緒的健康」などの諸価値が、追求されてきた。ところが近年になって、フィンランドは、新自由主義の教育へと転換を図ってきた。すなわち、「脱中央集権」「民営化/競争」「利潤」「学習到達度」「就職力」等々の理念へと、教育の目標を転換してきた。
具体的には例えば、フィンランドでは最近、次のような教育政策が導入されている。(1)学校の経営決定と運営責任は国家教育委員会ではなく地方自治体に移管する、(2)自由競争原理を取り入れ、学校選択制を導入する、(3)生徒の学習に即して指導する、(4)起業家的な技能をカリキュラムに含める、などの政策である。こうした改革の過程で、フィンランドでは、教育の現場である〈自治体/学校/教員/子ども〉に対して、大きな権限が与えられた。自己目標の設定と自己評価によって、自由と責任のある教育制度が実現されてきた。これは、国家が教育達成度の数値目標を掲げて「点取り競争」を強いるような管理方法とは大きく異なっている。こうした分権化と自治のモデルがフィンランドの教育を成功させたのだという。この評価が正しいとすれば、フィンランドの教育は、「新自由主義」の体現として成功したと言えるだろう。
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