未唯への手紙
未唯への手紙
一日遅れで豊田市図書館へ
未唯へ
奥さんからは、「子供たちが楽しみにしているものを飲んだ」と言われた。と言っても、小さなヤクルトです。子供たちというけど、32歳と26歳ですよ。
帰国している姪から電話がない。旦那がギリシャに戻った後に、遭遇することになりますね。ユーロを譲り受けることをネタに電話してみよう。値段をいくらにするかです。
TMとの会話の余韻
まだまだ、昨日のTMとの会話の余韻に浸っています。これだけ、幸せ感が続くんですね。念願のお茶のために、スタバの紅茶にもチャレンジしましょう。ヨガも考えようか。
オリンピックを見ていて、体操個人で3種目までで、あとは寝ながら見ることにして、ベットに入ったら、1分もしないうちに寝てしまったとのこと。様子が目に浮かびます。
一日遅れで豊田市図書館へ
昨日、図書館にこれなかったので、10時から豊田市図書館です。残り物をすべて、漁っています。10時前に着く予定でしたが、5階に着いたら、入館作業が終了した時点でした。新刊書コーナーには誰も居なかった。
普段なら、取らない本もバックに入れています。幸せ感がそうさせています。昨日、取られた本はネットで確認して、主なものが時間差で確保するようにしましょう。欲張りかもしれないけど、新刊書をチェックするのは私の役割です。結局、24冊です。
太極拳の本も入れました。ヨガに対抗して、話題つくりです。25年前の中野美代子さんの時は、サックスに対抗して、フルートを始めました。5年間続けたが、話題にはできなかった。楽器演奏の難しさだけを痛感した。
太平洋開戦時の日本の発想
海軍は日米決戦のために軍艦を増やしてきた。いまさら、石油がないという理由でやめられない。中国との戦いで20万人がなくなった。陸軍は英霊のために、今更、戦争を避けるわけにはいかない。
これが太平洋開戦時の日本の基本的な発想です。止めないということで、敗戦して、ほとんどの艦船を失い、300万人が死んだ。そして、他国に占領された。未だにそれに縛られている。
止めればよかったんですよ。海軍は陸軍から非難され、陸軍は海軍から非難されることを恐れた。要するに、自分のことしか考えなかった。国民のことはまるで頭になかった。
豊田市図書館の26冊
『EUROPEAN RAIL TIMETABLE』予約して、木曜日に入手しました。1年前の時刻表と比べたら、ページも時間も異なるものがあったので、金曜日に同じものを買ってきました。2200円です。
798.5『幸せな未来は「ゲーム」が創る』注文して取り寄せてもらった。4日間で手に入りました。ゲーム化からコミュニティ化の資料です。
331『経済学概説』
336『よくわかる最新PMBOKの基本と要点』プロジェクトマネジメントを基礎から学ぶ 効率的な進捗管理
377.9『自分の説明書の創り方』自分のためのキャリアプラニングのススメ 就職活動からあなただけのオリジナルな生き方をはじめましょう
440『宇宙にまつわる名前』
588.6『しょうゆの不思議』
318『行政経営のリ・デザイン』個性輝く未来の住民のための幸福プロヂューす論
789.27『楊式太極拳のしくみ』優雅な動きの中に秘められた恐るべきパワーを解き明かす
361.5『無常と偶然』日欧比較文化叙説
336.4『「教え方」の教科書』コーチング以前の上司の常識
673.3『営業は「質問」で決まる!』質問型営業で断られずにクロージング
409.21『グローバル競争を勝ち抜く韓国の科学技術』
596.65『シュークリーム』
389『レヴィ=ストロース』まなざしの構造主義 生涯をかけて他者を探究し、かぎりなく他者に開かれた「まなざし」とはは何か。知を根底から変えた巨人の新たな可能性を多面的に探る思考の横断。
210.75『解説 太平洋戦争の開戦期と敗戦期の年表』
933.7『悪魔の右手』
C33.51『2020年中国自動車販売4,000万台』
673.3『No.1営業力』脳を理解すれば誰でも奇跡のトップセールスになれる
013『多文化コミュニケーション』図書館サービスのためのガイドライン
169.1『次世代への決断』宗教者が〝脱原発〟を決めた理由
361.5『武器としての社会類型論』世界を五つのタイプで見る
336.4『社長、その人材で世界と戦えますか?』日本人が知らない中国・アジアの「超頭脳」
309.02『新しい左翼入門』相克の運動史は超えられるか
159『The Tools』
290.93『イギリスの不思議と謎』
奥さんからは、「子供たちが楽しみにしているものを飲んだ」と言われた。と言っても、小さなヤクルトです。子供たちというけど、32歳と26歳ですよ。
帰国している姪から電話がない。旦那がギリシャに戻った後に、遭遇することになりますね。ユーロを譲り受けることをネタに電話してみよう。値段をいくらにするかです。
TMとの会話の余韻
まだまだ、昨日のTMとの会話の余韻に浸っています。これだけ、幸せ感が続くんですね。念願のお茶のために、スタバの紅茶にもチャレンジしましょう。ヨガも考えようか。
オリンピックを見ていて、体操個人で3種目までで、あとは寝ながら見ることにして、ベットに入ったら、1分もしないうちに寝てしまったとのこと。様子が目に浮かびます。
一日遅れで豊田市図書館へ
昨日、図書館にこれなかったので、10時から豊田市図書館です。残り物をすべて、漁っています。10時前に着く予定でしたが、5階に着いたら、入館作業が終了した時点でした。新刊書コーナーには誰も居なかった。
普段なら、取らない本もバックに入れています。幸せ感がそうさせています。昨日、取られた本はネットで確認して、主なものが時間差で確保するようにしましょう。欲張りかもしれないけど、新刊書をチェックするのは私の役割です。結局、24冊です。
太極拳の本も入れました。ヨガに対抗して、話題つくりです。25年前の中野美代子さんの時は、サックスに対抗して、フルートを始めました。5年間続けたが、話題にはできなかった。楽器演奏の難しさだけを痛感した。
太平洋開戦時の日本の発想
海軍は日米決戦のために軍艦を増やしてきた。いまさら、石油がないという理由でやめられない。中国との戦いで20万人がなくなった。陸軍は英霊のために、今更、戦争を避けるわけにはいかない。
これが太平洋開戦時の日本の基本的な発想です。止めないということで、敗戦して、ほとんどの艦船を失い、300万人が死んだ。そして、他国に占領された。未だにそれに縛られている。
止めればよかったんですよ。海軍は陸軍から非難され、陸軍は海軍から非難されることを恐れた。要するに、自分のことしか考えなかった。国民のことはまるで頭になかった。
豊田市図書館の26冊
『EUROPEAN RAIL TIMETABLE』予約して、木曜日に入手しました。1年前の時刻表と比べたら、ページも時間も異なるものがあったので、金曜日に同じものを買ってきました。2200円です。
798.5『幸せな未来は「ゲーム」が創る』注文して取り寄せてもらった。4日間で手に入りました。ゲーム化からコミュニティ化の資料です。
331『経済学概説』
336『よくわかる最新PMBOKの基本と要点』プロジェクトマネジメントを基礎から学ぶ 効率的な進捗管理
377.9『自分の説明書の創り方』自分のためのキャリアプラニングのススメ 就職活動からあなただけのオリジナルな生き方をはじめましょう
440『宇宙にまつわる名前』
588.6『しょうゆの不思議』
318『行政経営のリ・デザイン』個性輝く未来の住民のための幸福プロヂューす論
789.27『楊式太極拳のしくみ』優雅な動きの中に秘められた恐るべきパワーを解き明かす
361.5『無常と偶然』日欧比較文化叙説
336.4『「教え方」の教科書』コーチング以前の上司の常識
673.3『営業は「質問」で決まる!』質問型営業で断られずにクロージング
409.21『グローバル競争を勝ち抜く韓国の科学技術』
596.65『シュークリーム』
389『レヴィ=ストロース』まなざしの構造主義 生涯をかけて他者を探究し、かぎりなく他者に開かれた「まなざし」とはは何か。知を根底から変えた巨人の新たな可能性を多面的に探る思考の横断。
210.75『解説 太平洋戦争の開戦期と敗戦期の年表』
933.7『悪魔の右手』
C33.51『2020年中国自動車販売4,000万台』
673.3『No.1営業力』脳を理解すれば誰でも奇跡のトップセールスになれる
013『多文化コミュニケーション』図書館サービスのためのガイドライン
169.1『次世代への決断』宗教者が〝脱原発〟を決めた理由
361.5『武器としての社会類型論』世界を五つのタイプで見る
336.4『社長、その人材で世界と戦えますか?』日本人が知らない中国・アジアの「超頭脳」
309.02『新しい左翼入門』相克の運動史は超えられるか
159『The Tools』
290.93『イギリスの不思議と謎』
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カントと啓蒙
『哲学講義』より
カントは『啓蒙とは何か?」という論文のなかで、人間にとって最も有害なのは宗教に束縛されたままの未成年状態にいることであり、「後見人たち(教会)のあんよ車」は無用であって、人間は独り立ち(自律)できる、そのためには「自分で考える」ことが必要だ、と述べている。人間は自由で独立した人格を持つ「世界市民」であり、そのような人間に対して、哲学は次の四つの問いを立てるのである(一七九三年の書簡、『論理学』 一八OO年、『純粋理性批判』の「カノン」にある)。
1.私は何を知りうるか。(形而上学)
2.私は何を為すべきか。(道徳)
3.私は何を希望してよいか。(宗教)
4.人間とは何であるか。(人間学)
人間を自らの理性によって自律させることすなわち啓蒙はカント哲学の中心的課題であった。啓蒙は、ロックに典型的に示されたように、人間の理性を越えた「恩寵の光」や「啓示の光」の権威に侍む教会勢力とスコラ哲学を厳しく批判する。イギリスの啓蒙運動は、哲学的には経験論、宗教的には理神論、政治的には議会主義という穏健な結末をとったが、フランスでは、唯物論、無神論、共和主義と過激なものとなった。それに対して、市民社会の形成が遅れていたドイツでは、啓蒙は、カントに見られるように、政治的実践としてではなく、まず何よりも哲学の理論的問題として、人間理性の認識能力と道徳の問題として論じられたのである。カントにとって哲学とは上記の四つの問いに回答することであった。
まず第一の問いに見られるように、啓蒙は、近代の自然科学者たち(ガリレイ、ニュートンら)が獲得した自然認識の正しさを、人間の持つ知性能力を吟味して、哲学的に基礎づけることである。具体的には、目的論的な思考を脱して因果的で機械論的な思考が自然を正しく理解するものであることを示すことである。人間は恩寵の光のような神の手助けなしにも自然を理解できること、すなわち知識の自律が証明されなければならない。この問いは、人間はどこまで知りうるかという可能性の問題として立てられる。可能性が問われるということは同時に、認識不可能なものの存在が明らかにされることをも意味する。自然を越えた事物、目に見えぬものに関しては、理性はそれを理論的に論じることはできないという理性の制限をともなっているのである。
第二の問いは、人間の意志の自律を明らかにすることである。人間は宗教的束縛(あんよ車)から解放され、自分の行為を自分の意志によって決定できる。その決定は人間すべてが有している良心(ルソー参照)すなわち道徳法則に従ってなされる。そこで道徳法則が存在するという事実が明らかにされなければならない。その存在は事実であるから、この行為に対する問いは、為しうるかどうかという可能性としてではなく、為すべしという自分に対する命令すなわち当為の問題として立てられる。
それでは、第三の宗教の役割は何か。神はもはや人間の知識と行為を支配する権威ではありえない。宗教に残された領域はただ死後にやってくる来世への希望を保証することであり、希望を問うことは、それがどこまで許されるか、という許可の問題として立てられる。
カントはさらに第四に、「人間とは何か」と問うている。人間は身体を持つ存在つまり空間的・時間的に制約された存在である。このように人間は自然の一つの存在にすぎないのだから、人間の知識は自然の持つ必然的制約によって限定されている。人間が自然的存在であるとは、それが神によって造られたものであることを意味している。しかし他方で、人間は他の動物とは異なって、意志的な行為によって自然的制約を脱することができる自由な社会的存在でもある。社会的とはカントにおいては道徳的という言葉で表現される。道徳の領域は人間の作る世界であり、そこに神は一切関わりを持つことはできない。
このように人間は必然的法則に縛られている自然的存在であるが、それとともに自由な道徳的存在でもある、という二面性を持っている。カントはこの両面を統一することは不可能であると考え、人間の二つの能力(感性と理性)を明確に画定し、それぞれに科学(自然)と道徳(社会)の領域を配し、互いの越境を禁じることによって、人間を二つの側面が調和する存在として考えようとした。科学と道徳、感覚の世界と理性(知性)の世界、見える世界と見えない世界、この二つを混同させずに調和させること、これがカントにとって啓蒙としての哲学の根本的課題となる。
カントは『啓蒙とは何か?」という論文のなかで、人間にとって最も有害なのは宗教に束縛されたままの未成年状態にいることであり、「後見人たち(教会)のあんよ車」は無用であって、人間は独り立ち(自律)できる、そのためには「自分で考える」ことが必要だ、と述べている。人間は自由で独立した人格を持つ「世界市民」であり、そのような人間に対して、哲学は次の四つの問いを立てるのである(一七九三年の書簡、『論理学』 一八OO年、『純粋理性批判』の「カノン」にある)。
1.私は何を知りうるか。(形而上学)
2.私は何を為すべきか。(道徳)
3.私は何を希望してよいか。(宗教)
4.人間とは何であるか。(人間学)
人間を自らの理性によって自律させることすなわち啓蒙はカント哲学の中心的課題であった。啓蒙は、ロックに典型的に示されたように、人間の理性を越えた「恩寵の光」や「啓示の光」の権威に侍む教会勢力とスコラ哲学を厳しく批判する。イギリスの啓蒙運動は、哲学的には経験論、宗教的には理神論、政治的には議会主義という穏健な結末をとったが、フランスでは、唯物論、無神論、共和主義と過激なものとなった。それに対して、市民社会の形成が遅れていたドイツでは、啓蒙は、カントに見られるように、政治的実践としてではなく、まず何よりも哲学の理論的問題として、人間理性の認識能力と道徳の問題として論じられたのである。カントにとって哲学とは上記の四つの問いに回答することであった。
まず第一の問いに見られるように、啓蒙は、近代の自然科学者たち(ガリレイ、ニュートンら)が獲得した自然認識の正しさを、人間の持つ知性能力を吟味して、哲学的に基礎づけることである。具体的には、目的論的な思考を脱して因果的で機械論的な思考が自然を正しく理解するものであることを示すことである。人間は恩寵の光のような神の手助けなしにも自然を理解できること、すなわち知識の自律が証明されなければならない。この問いは、人間はどこまで知りうるかという可能性の問題として立てられる。可能性が問われるということは同時に、認識不可能なものの存在が明らかにされることをも意味する。自然を越えた事物、目に見えぬものに関しては、理性はそれを理論的に論じることはできないという理性の制限をともなっているのである。
第二の問いは、人間の意志の自律を明らかにすることである。人間は宗教的束縛(あんよ車)から解放され、自分の行為を自分の意志によって決定できる。その決定は人間すべてが有している良心(ルソー参照)すなわち道徳法則に従ってなされる。そこで道徳法則が存在するという事実が明らかにされなければならない。その存在は事実であるから、この行為に対する問いは、為しうるかどうかという可能性としてではなく、為すべしという自分に対する命令すなわち当為の問題として立てられる。
それでは、第三の宗教の役割は何か。神はもはや人間の知識と行為を支配する権威ではありえない。宗教に残された領域はただ死後にやってくる来世への希望を保証することであり、希望を問うことは、それがどこまで許されるか、という許可の問題として立てられる。
カントはさらに第四に、「人間とは何か」と問うている。人間は身体を持つ存在つまり空間的・時間的に制約された存在である。このように人間は自然の一つの存在にすぎないのだから、人間の知識は自然の持つ必然的制約によって限定されている。人間が自然的存在であるとは、それが神によって造られたものであることを意味している。しかし他方で、人間は他の動物とは異なって、意志的な行為によって自然的制約を脱することができる自由な社会的存在でもある。社会的とはカントにおいては道徳的という言葉で表現される。道徳の領域は人間の作る世界であり、そこに神は一切関わりを持つことはできない。
このように人間は必然的法則に縛られている自然的存在であるが、それとともに自由な道徳的存在でもある、という二面性を持っている。カントはこの両面を統一することは不可能であると考え、人間の二つの能力(感性と理性)を明確に画定し、それぞれに科学(自然)と道徳(社会)の領域を配し、互いの越境を禁じることによって、人間を二つの側面が調和する存在として考えようとした。科学と道徳、感覚の世界と理性(知性)の世界、見える世界と見えない世界、この二つを混同させずに調和させること、これがカントにとって啓蒙としての哲学の根本的課題となる。
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アリストテレスと形而上学(存在論)
『哲学講義』より アリストテレスと存在
1.存在者とは何であるか
アリストテレスは「存在者はさまざまに語られる」と、『形而上学』のなかで繰り返し指摘している。このことは重要な意味を持つ。存在がさまざまであること、存在の多義性は彼以前には考えられなかったことである。それまでは、存在か非存在かの違いしか、人びとの念頭になかった。この指摘は一見すると単純な言明に見えるが、そこには二つの意味が、学問の成立に必要な二つの条件が、存在しているように思われる。われわれが、例えばリンゴについて、リンゴはさまざまに語られると言うとき、第一に、「さまざまに」語るためには、その「語られる」リンゴが他のもの(例えばナシ)と区別され、すなわちそのものとして抽象されて、ある同一のものとして、一つの普遍として、とらえられていなければならない。しかも「存在者」はリンゴとは比較にならない最も普遍的な概念である。すべてのものは何らかの仕方で存在するものなのであるから。そのような最も包括的な対象についての学問すなわち(後に言われる)存在論が、このようにしてアリストテレスによって初めて作られたのである。第二に、「さまざまに」語ることは、その同一のものを区分することである。リンゴは品種に分類されることもあろうし、その成分を分析することもできる。存在者についても、分類したり、構成要素を分析することができる。したがって、抽象という思惟の働きはあるものを他と区別して普遍とすることであることと同時に、その働きにはそれ自身の内にある違いを指摘し(分析し)普遍に対して特殊を明らかにすることが含まれている。
では、アリストテレスの言う「存在者」とは何であろうか。彼はそれを「存在者としての存在者」と表現する。それは、例えば、リンゴを植物としてあるいは食品として、リンゴについて特定の見地から考えるのではなく、それをただ存在するものとして、最も普遍的に考えることである。その意味で存在者は最も普遍的で抽象的な概念である。しかし、それはプラトンのイデアのように感覚されずわれわれの経験世界に実在しないものであるのではない。アリストテレスは存在者を実体とも呼ぶが、実体とは「可分離性(他のものと分けられること)」と「個別性」を本質とするもの、現実に個々のものとして独立に存在しているもののことである。アリストテレスは、プラトンとは異なって、経験世界の内にあるこのような個物を真実に存在するものとして認めるのである。彼の存在論はこの意味での(個物としての)実体を考察するものである。
2.存在者を構成するものとしての形相と質料
ここにある一つの机、これを他のものではなく机としているものを、アリストテレスは形相と呼ぶ。机はさまざまであるが、それらを共通に机と呼ぶことができるのは、それらがみな「机」という形相を持っているからである。プラトンが、事物に本質的規定を与えるイデアを、個物を超越しそれ自体で存在するものと考えたのに対して、アリストテレスは形相が個物に内在していると考える。ここに二人の顕著な違いが見られる。しかし同時に注意すべきことは、アリストテレスは普遍(形相)を、個物を離れたものとは考えなかっただけであって、普遍が実在するものであることを疑うことはなかったのであり、この点は、普遍の実在を認めない経験論者とは異なることである。形相を受け入れるものを質料(原義は「木材」)という。机を例に取れば、質料は木材や石や金属である。形相と質料は、思惟によって分離することができるが、存在者においては分離不可能であり、形相と質料が結合しているものが具体的なもの、個物すなわち実体である。個物にとって形相とは、それをそれたらしめる本質であり、他方、質料はその本質的規定性を受け入れ担うものであり、基体と呼ばれる。そして、形相と質料は相対的な規定である。木材は机に対しては質料であるが、それはすでに製材されたものであるから、自然の木に対しては形相というべきである。ところで、真実に存在するものは、形相であろうか、質料であろうか。机の質料である木材はいつかは腐る。しかし他の木材でそれを補修することができる。その間にも机の姿(机の形相)は持続している。したがって持続するのは形相の方である。このように考えるのはプラトンのイデアの立場である。しかし他方で。この目で見ることができ、触れうるものこそ、真に存在するものだと考えることもできる。そうであれば、質料こそ真に存在するものである。これは感覚論的な立場である。では、アリストテレスはどちらの立場を採ったのか。彼の選んだのはいわば第三の道であった。真に実在するものは、形相だけでも質料だけでもなく、形相と質料との結合物すなわち個物と考えたのである。
3.存在者を規定するものとしてのカテゴリー
「存在者はさまざまに語られる」ということは、存在者(個物)について、それを主語として、それについて語りうる述語を、挙げることができるということである。アリストテレスは、言語の分析によって、その述語を十個挙げ、それらをカテゴリー(その原義は市民集会で訴える すなわち告発すること)と呼ぶ。次の文の主語xに例えば「ソクラテス」という主語(個物)を入れて文を完成してみよ(以下のカテゴリーの名称はギリシャ語とその後翻訳されたラテン語を順に掲げた)。①xは何か(実体)、②xはどれはどか(分量)、③xはどのようであるか(性質)、④xは何かに対してどうあるか(関係)、⑤xはどこにいるか(場所)。⑥xはいついるか(時間)、⑦xほどう置かれているか(状態)、⑧xは何を付けているか(所有)、⑨xは何をするか(能動)、⑩xは何をされるか(受動)。
カテゴリーとはこのように言語的な述語の最も普遍的なものを類別することであるが、同時にまたそれらが「存在者のカテゴリー」(『形而上学』第十一巻第九章)でもあることに注意しなければならない。後にカントは十二の判断形式から、十二個のカテゴリーを導き出したが、それらは単に主観的形式であって、認識論的なものにすぎず、アリストテレスのような存在論的カテゴリーではない。それに対して、ヘーゲルは思惟自身の運動の形式をカテゴリーと呼び、彼にとっては思惟と存在は一致するのであるから、カテゴリーは思惟の形式であるとともに存在の形式でもあることになる。
十個のカテゴリーの内、①の実体は他の九個のカテゴリーと性格が異なる。「ソクラテスは人間である」という場合、実体「人間」は述語として種や類を表すものであるが、「あそこに座っているのは人間である」という場合、「人間」は形式的には述語の位置にあるが実際には主語である。このように実体は述語であるとともに、主語にもなりうるものであり、述語としての実体(普遍)は第二実体と呼ばれるのに対して、常に主語の位置にあり述語になりえぬ実体(個物)、上の例ではソクラテス、これは第一実体と呼ばれる。しかし、普遍と個物をともに実体と呼び、両者の関係、それらの同一性と区別とを考えなかった点で、アリストテレスは徹底していないとも言える。後にヘーゲルは両者を結合させて、個物としての普遍すなわち具体的普遍を考える。具体的普遍は、存在者に単に内在するだけのアリストテレスの形相ではなく、それ自身が自ら存在者を生み出すものであり、ヘーゲルはそれを、生命、精神、あるいは論理学においては概念として考えるのである。
4.可能態と現実態
存在者すなわち(第一)実体は、その様相(存在の仕方)からして、可能態と現実態に分けられる。木材は机の可能態であり、机は木材の現実態である。樅の木の種子は成長して樅の木になる。したがって種子は木の可能態であり、木は種子にとってそれの現実態である。さらに、樅の木はひとによって加工されて机になるのであるから、木は机にとっては可能態である。このように可能態と現実態は、形相と質料と同様に、相対的であり、またその関係は質料と形相の関係に対応している。質料は、形相に対してそれを取りうるという意味で可能態であり、形相は、質料がその形相を取ることによって現実態となるものである。ただし、可能態と現実態においては、両者の前後関係が問題となる。時間からすれば、一般に可能態が先で、現実態は後である。種子は木より先に存在しているものだから。しかし、種子を実らせるものは木であるのだから、木の方が種子よりも先にあるとも言える。自然の世界においてはこのように可能態と現実態は循環するのである。ところで、時間的にではなく、本質的観点から見れば、一般に「現実態は可能態に先立つ」と言える。なぜならば、樅の木が樅の木である、すなわち樅の木の本質、形相は、その現実態を離れてはありえないからである。また、種子が成長するとは樅の木になることであり、種子は樅の木を目的としている。したがって、目的すなわちそれの本質こそそれに先立つものでなければならない。そのような意味では、成長や生成は時間の内にあり変化にさらされているが、それの目的は永遠のもの、変化しないものである。現実態が可能態に先立つとは、根本的な意味では、このように決して可能態としては存在せず、常に現実態にあるものを想定して言われるのである。これについては後に究極原因としてふれよう。
1.存在者とは何であるか
アリストテレスは「存在者はさまざまに語られる」と、『形而上学』のなかで繰り返し指摘している。このことは重要な意味を持つ。存在がさまざまであること、存在の多義性は彼以前には考えられなかったことである。それまでは、存在か非存在かの違いしか、人びとの念頭になかった。この指摘は一見すると単純な言明に見えるが、そこには二つの意味が、学問の成立に必要な二つの条件が、存在しているように思われる。われわれが、例えばリンゴについて、リンゴはさまざまに語られると言うとき、第一に、「さまざまに」語るためには、その「語られる」リンゴが他のもの(例えばナシ)と区別され、すなわちそのものとして抽象されて、ある同一のものとして、一つの普遍として、とらえられていなければならない。しかも「存在者」はリンゴとは比較にならない最も普遍的な概念である。すべてのものは何らかの仕方で存在するものなのであるから。そのような最も包括的な対象についての学問すなわち(後に言われる)存在論が、このようにしてアリストテレスによって初めて作られたのである。第二に、「さまざまに」語ることは、その同一のものを区分することである。リンゴは品種に分類されることもあろうし、その成分を分析することもできる。存在者についても、分類したり、構成要素を分析することができる。したがって、抽象という思惟の働きはあるものを他と区別して普遍とすることであることと同時に、その働きにはそれ自身の内にある違いを指摘し(分析し)普遍に対して特殊を明らかにすることが含まれている。
では、アリストテレスの言う「存在者」とは何であろうか。彼はそれを「存在者としての存在者」と表現する。それは、例えば、リンゴを植物としてあるいは食品として、リンゴについて特定の見地から考えるのではなく、それをただ存在するものとして、最も普遍的に考えることである。その意味で存在者は最も普遍的で抽象的な概念である。しかし、それはプラトンのイデアのように感覚されずわれわれの経験世界に実在しないものであるのではない。アリストテレスは存在者を実体とも呼ぶが、実体とは「可分離性(他のものと分けられること)」と「個別性」を本質とするもの、現実に個々のものとして独立に存在しているもののことである。アリストテレスは、プラトンとは異なって、経験世界の内にあるこのような個物を真実に存在するものとして認めるのである。彼の存在論はこの意味での(個物としての)実体を考察するものである。
2.存在者を構成するものとしての形相と質料
ここにある一つの机、これを他のものではなく机としているものを、アリストテレスは形相と呼ぶ。机はさまざまであるが、それらを共通に机と呼ぶことができるのは、それらがみな「机」という形相を持っているからである。プラトンが、事物に本質的規定を与えるイデアを、個物を超越しそれ自体で存在するものと考えたのに対して、アリストテレスは形相が個物に内在していると考える。ここに二人の顕著な違いが見られる。しかし同時に注意すべきことは、アリストテレスは普遍(形相)を、個物を離れたものとは考えなかっただけであって、普遍が実在するものであることを疑うことはなかったのであり、この点は、普遍の実在を認めない経験論者とは異なることである。形相を受け入れるものを質料(原義は「木材」)という。机を例に取れば、質料は木材や石や金属である。形相と質料は、思惟によって分離することができるが、存在者においては分離不可能であり、形相と質料が結合しているものが具体的なもの、個物すなわち実体である。個物にとって形相とは、それをそれたらしめる本質であり、他方、質料はその本質的規定性を受け入れ担うものであり、基体と呼ばれる。そして、形相と質料は相対的な規定である。木材は机に対しては質料であるが、それはすでに製材されたものであるから、自然の木に対しては形相というべきである。ところで、真実に存在するものは、形相であろうか、質料であろうか。机の質料である木材はいつかは腐る。しかし他の木材でそれを補修することができる。その間にも机の姿(机の形相)は持続している。したがって持続するのは形相の方である。このように考えるのはプラトンのイデアの立場である。しかし他方で。この目で見ることができ、触れうるものこそ、真に存在するものだと考えることもできる。そうであれば、質料こそ真に存在するものである。これは感覚論的な立場である。では、アリストテレスはどちらの立場を採ったのか。彼の選んだのはいわば第三の道であった。真に実在するものは、形相だけでも質料だけでもなく、形相と質料との結合物すなわち個物と考えたのである。
3.存在者を規定するものとしてのカテゴリー
「存在者はさまざまに語られる」ということは、存在者(個物)について、それを主語として、それについて語りうる述語を、挙げることができるということである。アリストテレスは、言語の分析によって、その述語を十個挙げ、それらをカテゴリー(その原義は市民集会で訴える すなわち告発すること)と呼ぶ。次の文の主語xに例えば「ソクラテス」という主語(個物)を入れて文を完成してみよ(以下のカテゴリーの名称はギリシャ語とその後翻訳されたラテン語を順に掲げた)。①xは何か(実体)、②xはどれはどか(分量)、③xはどのようであるか(性質)、④xは何かに対してどうあるか(関係)、⑤xはどこにいるか(場所)。⑥xはいついるか(時間)、⑦xほどう置かれているか(状態)、⑧xは何を付けているか(所有)、⑨xは何をするか(能動)、⑩xは何をされるか(受動)。
カテゴリーとはこのように言語的な述語の最も普遍的なものを類別することであるが、同時にまたそれらが「存在者のカテゴリー」(『形而上学』第十一巻第九章)でもあることに注意しなければならない。後にカントは十二の判断形式から、十二個のカテゴリーを導き出したが、それらは単に主観的形式であって、認識論的なものにすぎず、アリストテレスのような存在論的カテゴリーではない。それに対して、ヘーゲルは思惟自身の運動の形式をカテゴリーと呼び、彼にとっては思惟と存在は一致するのであるから、カテゴリーは思惟の形式であるとともに存在の形式でもあることになる。
十個のカテゴリーの内、①の実体は他の九個のカテゴリーと性格が異なる。「ソクラテスは人間である」という場合、実体「人間」は述語として種や類を表すものであるが、「あそこに座っているのは人間である」という場合、「人間」は形式的には述語の位置にあるが実際には主語である。このように実体は述語であるとともに、主語にもなりうるものであり、述語としての実体(普遍)は第二実体と呼ばれるのに対して、常に主語の位置にあり述語になりえぬ実体(個物)、上の例ではソクラテス、これは第一実体と呼ばれる。しかし、普遍と個物をともに実体と呼び、両者の関係、それらの同一性と区別とを考えなかった点で、アリストテレスは徹底していないとも言える。後にヘーゲルは両者を結合させて、個物としての普遍すなわち具体的普遍を考える。具体的普遍は、存在者に単に内在するだけのアリストテレスの形相ではなく、それ自身が自ら存在者を生み出すものであり、ヘーゲルはそれを、生命、精神、あるいは論理学においては概念として考えるのである。
4.可能態と現実態
存在者すなわち(第一)実体は、その様相(存在の仕方)からして、可能態と現実態に分けられる。木材は机の可能態であり、机は木材の現実態である。樅の木の種子は成長して樅の木になる。したがって種子は木の可能態であり、木は種子にとってそれの現実態である。さらに、樅の木はひとによって加工されて机になるのであるから、木は机にとっては可能態である。このように可能態と現実態は、形相と質料と同様に、相対的であり、またその関係は質料と形相の関係に対応している。質料は、形相に対してそれを取りうるという意味で可能態であり、形相は、質料がその形相を取ることによって現実態となるものである。ただし、可能態と現実態においては、両者の前後関係が問題となる。時間からすれば、一般に可能態が先で、現実態は後である。種子は木より先に存在しているものだから。しかし、種子を実らせるものは木であるのだから、木の方が種子よりも先にあるとも言える。自然の世界においてはこのように可能態と現実態は循環するのである。ところで、時間的にではなく、本質的観点から見れば、一般に「現実態は可能態に先立つ」と言える。なぜならば、樅の木が樅の木である、すなわち樅の木の本質、形相は、その現実態を離れてはありえないからである。また、種子が成長するとは樅の木になることであり、種子は樅の木を目的としている。したがって、目的すなわちそれの本質こそそれに先立つものでなければならない。そのような意味では、成長や生成は時間の内にあり変化にさらされているが、それの目的は永遠のもの、変化しないものである。現実態が可能態に先立つとは、根本的な意味では、このように決して可能態としては存在せず、常に現実態にあるものを想定して言われるのである。これについては後に究極原因としてふれよう。
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